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幼女転生  作者: デブリ
八章・渡航編
183/203

 間話 『冴えた間者の育ちかた 五』

 

 もはやヒルヒーノはさほど重要ではない。もし彼の脚本通りにこれから自分が動いていくのだとしても、それが真実に基づいた行動の結果であるならば問題ない。悔いなく満足のいく結末を迎えることができるかどうかが肝要だ。

 劇場で《麻薬王》と話したときは、そう考えていた。

 しかし、今ではそれが致命的な誤りであったと分かる。


『ネリーア君。実際に話してみて確信したのだけど、君は人が良すぎるね』


 今にして思えば、遊ばれていたのだろう。

 いや、奴は奴で真剣だったのかもしれないが、少なくとも楽しまれていたことは確かだ。


『頭は回る。度胸もある。しかし、純粋だ。まだ世間を知らない。人の醜さを知らない。知ってはいるつもりでも、君は心の底では人の善性を信じている。それは決して恥じることではないし、良縁に恵まれて育ったことの証左だから、むしろ誇っていい』


 あの男の言うとおりだった。

 世間も、人の醜さも、《麻薬王》の危険性も、何も知らなかった。一連の会話そのものが、ネリーアを餌に仕立て上げ、同時に敵役として成長させる一環だったのだろう。


『それとは別に、この世には君の理解を超えた悪人が存在することは、しかと認めないといけない。人の善性を信じるのも結構だけど、同じくらい人の悪性を疑わないと、自分の身を守ることもできなくなるからね』


 全く以て、ぐうの音も出ない正論だった。

 目の前の男こそが理解を越えた悪人で、それを薄々感じていたにもかかわらず、正しく危機感を持てなかった。更には間抜けにも無自覚のうちに、奴の術中に嵌まってしまった。


『君は今回の三流劇を《四統会》の陰謀だと思っているようだけど、それは違う。《四統会》は目眩ましであり、演出に過ぎない。《武隷衆》と《麻天律》という因縁ある組織を登場させることで、さも彼らが関係しているように見せかけて、黒幕はその大きな影に隠れたんだ』


 言い得て妙な台詞だったと今は思う。

 なるほど確かに、脚本家を自称するだけのことはあった。

 話術で幻惑し、思考を誘導するだけなら未だしも、あの男は状況を完全に掌握していた。どうすれば誰がどう動くのかを的確に把握して、人を操ることで望む展開を引き寄せた。

 ニンリスイスト家は《麻天律》という大きな影に隠れたつもりで、その実は《麻薬王》に利用され、逆に隠れ蓑にされていたに過ぎない。利用されていることにすら気付かず、まんまと《麻薬王》の脚本通りにウィスティリアは自らの役を演じさせられていたのだ。


『なぜ隠れる必要があったのか。それは当然、恨まれたくないからだね。報復を恐れて、身を潜めた。では、黒幕は誰を恐れていたのかな?』


 ヒルヒーノ・エクスティアはきっと誰も恐れてなどいないのだろう。報復を恐れていれば、むざむざとネリーアの前に姿を現わし、その顔を晒そうとは思うまい。むしろ奴は恐れるどころか、期待感を募らせるほどに楽しんでいたはずだ。

 無論、あの男が《麻薬王》の用意した役者だった可能性は否めないが、まず間違いなく、あれは本人だったはずだ。


『ネリーア君は演劇は好きかな?』


 でなければ、あのとき本題に入る前の雑談で、あんなことは言わなかった。


『私も好きだよ、大好きだ。好きが高じて脚本を書くくらいだよ。今この劇も私の脚本だ。こうして役者たちが自分の考えた脚本に沿って動いていき、物語が進んでいく様を見るのは実に楽しい。心が満たされるよ』


 今この劇がどの劇を指していたのか、今ならば考えるまでもなく明らかだ。


『でもね、私は自分が劇に出演するのは嫌いなんだ。私はあくまでも脚本家であって、役者ではないからね。とはいえ、私もまだまだ未熟者だから、脚本や演出、共演者が一流であれば、他人の思惑通りに役を演じるのもやぶさかではない。学ぶには実際に経験するのが一番だからね』


 ヒルヒーノは他人の思惑通りになど役を演じていなかった。ただ自らの意思で、自作の劇に出演することで、最も間近から観劇していただけだ。しかしそれは裏を返せば、嫌いだと言っていた行為をするほどに、ネリーアという役者に興味があったことを意味しているのだろう。

 だからこそ、最後にあんな台詞を吐いたのだ。


『さようなら、美しくも健気な主人公。またいつか会えるといいね』


 《麻薬王》は人生を劇と見做すことで、楽しもうとしている。

 ネリーアの人生という劇に最悪の敵役として出演すると同時に、自らの劇にネリーアを並み居る敵役の一人として配した。次に会ったとき、ネリーアが殺そうとしてくることを承知の上で、むしろそうするように仕向けて、自らの劇に刺激と緊張感をもたらそうとしたのだろう。

 あれほどの男からすれば、冴えない有象無象ばかりが跋扈する舞台が退屈に過ぎることは想像に易い。自ら育ててまで敵役を作らねば、他ならぬ自分自身の劇が陳腐なものになると憂えていても、何も不思議なことはない。

 才能も過ぎれば毒にしかならないのだ。

 それは魔女という存在が証明している。凡百の男性魔法士より優れた魔法力を有するが故に、気付いたときには国家に縛られ、行動の自由を制限されてしまっている。十五歳の現在でさえ、もはやしがらみが多すぎて、これから何をどうすればいいのか決断できない。


「ヒセラ……ヘルさん……セリオ……」


 静かな川の流れを見下ろしながら、一人呆然と呟く。

 あの《麻薬王》配下の青年から真実とやらを聞かされた後、ネリーアは吹っ飛ばされた。腕を取られて、背負い投げをされたかと思えば、夜空を舞っていた。〈霊斥ルゥ・ルペリ〉で斜め上空へと、高く遠く押し出されたのだ。

 脳内は真っ白だったが、生存本能は否応なく働き、〈反重之理メト・ティラグア〉で事なきを得た。着地した場所はちょうど川を跨ぐ橋の上で、どこかへ移動する気にもなれず、欄干に身を乗り出すようにして身体を預けるより他になかった。

 どれほどの時間、そうしていたのか。

 《麻薬王》の思惑について考えられるほどには思考が回復しているが、現実と向き合えるほど心は立ち直れていない。だからこそ、こうしてこんなところに突っ立っているのだ。

 本当は今すぐにでも駆け出して先ほどの現場に舞い戻り、ヒセラとヘルマンの亡骸を回収すべきだ。そして丁重に葬らねばならない。だというのに……足に根が生えたように、あるいは足枷でも填められたかのように、両足が重くて動かない。

 それは疲弊した心が動くことを拒絶しているからでもあるが、冷徹な理性が愚行を止めようとしているからでもあるのだろう。そうと自覚できる程度には、どこか冷めている自分がいた。


「……………………」


 実際、先ほどから心は乱れていない。

 ただ虚しいだけだ。

 それを実感させるように、涙も出て来ない。ヒセラと再会するまでに泣きすぎて、既に枯れ果てているだけかもしれないが、今は好都合だ。感情が麻痺してくれているおかげで、情に振り回されることなく、冷静に思考できる。


『もう薄々分かっているとは思いますが、ヒセラは我々《麻天律》の一員でした』


 先ほど聞かされた言葉が脳内を反響する。


『本来、ネリーア殿は我が主の敵役として配されるのではなく、配下として遇される予定だったのです。当初の筋書きではそうなるはずでした。十年ほど前の時点で、既に貴女の魔法力は見抜けていましたから、その端麗な容貌もあり、将来は優秀な魔女として有力貴族に嫁入りすることは確定的でした。何事もなければ、我が主は貴女を内通者として重用していたことでしょう』


 魔石灯の明かりを反射する水面は穏やかに揺らめいている。川幅は三十リーギスほどで、都市内に数多く張り巡らされた運河の一つだ。主に雨水などが排水されるため水質は悪くないが、水位を一定に保つべく、増水しない限り流れはほぼ停滞している。


『身内を裏切るような真似はしないとお思いでしょうが、それは貴女が中毒者の習性を知らないからです。貴女には七歳の頃から少しずつ麻薬の味を覚え込ませ、それなしには生きていけない身体となるよう密かに仕込む手筈だったのです。しかし、そうはならなかった』


 昼間は盛んに小舟が行き来しているだろう運河に、今は誰の姿もない。水も流れているのか否か見分けが付かず、映り込む光が静かにたゆたっている。

 歓楽街からはすっかり離れてしまっているのか、周囲には人影も魔石灯も少なく、夜の静けさが色濃い。不夜の都といえど、夜でも騒々しいのは一部のみで、大部分はこんなものだ。


『ヒセラはワタシたちに裏切りを気付かれることを恐れていた。そこで我が主は、ニンリスイスト家がヒセラを排除し、自らの手の者を送り込むという計画に便乗することで、裏切り者の始末と貴女への浸透を同時に実現しようと考えられた。しかしヒセラはそれを逆手に取り、我々でも容易に追跡できないほど巧妙に行方を眩ませたのです』


 欄干を乗り越えて、橋から飛び降りた。

 〈浮水之理メト・ティア〉を行使して、着水する。

 指先で水面に触れてみても、水の流れは分からなかった。


「撃ち出し貫け、玲瓏なる氷塊は礫とならん――〈氷弾ト・スア〉」


 無詠唱での同時行使は中級までしかできないが、詠唱すればそれ以上でも何とかなる。

 小さな氷の塊を魔法として射出せず、水面に浮かべてみると、やがてゆっくりと動き出した。


『それを可能としたのがヘルマンです。彼はどこにでもいるただの護衛でしたが、唯一非凡な点として、この国の情報局の重鎮と私的な繋がりがありました。猟兵だった彼が魔女の護衛となれたのも、その縁故でしょう』


 実際に触れてみても、ほんの微かに水が流れていることを肌では感じ取れない。この大都市を巡る無音の水流は、それほどに穏やかだ。自分以外の何かが流されているのを見ないと気付けないし、そもそも気にも留めない。

 だが、確かに流れは存在する。


『ヘルマンはニンリスイスト家からの誘惑に負けず、表向き懐柔された振りをしながら、情報局からの支援を受けつつ貴女を守っていたのです。彼は実に義理堅い男だと、我が主は評しておりました。疑り深いディライア・マクレイアが心を許すのも納得とのことです』


 多種多様な人々の行き交う世の只中にいると、流れなど感じ取れない。頭では時流が存在することを理解しているし、見聞きした情報からそれを錯覚することもあるが、実感など到底できない。

 今回のような事件でも起きない限り、全く想定していなかった流れの中に自分がいたことにすら気付けぬまま、多くの人は流れ流されて一生を終えるのだろう。


『二人の繋がりを知った我が主は筋書きを修正された。表舞台から姿を消したヒセラを引っ張り出し、ヒセラを裏切らせた貴女という興味深い魔女を見定めるべく、着々と準備を進めて此度の一連の流れを演出された』


 これまでは周囲の人たちが、ネリーアが流されないよう密かに守ってくれていた。しかし、もう守ってくれる人はいない。いるのかもしれないが、信じて身を委ねていいのか分からない。

 そもそも、自らが置かれている状況を知ってしまった以上、人任せにできない。そんなことをして、更に親しい人が死んでしまうようなことになれば、悔やんでも悔やみきれない。

 

『我が主によって、ネリーア殿は家族以外の全てに不信感を抱かれたことでしょう。そんな貴女の暴走を止められるとすればディーンくらいでしょうが、大事な息子の介入を彼の伯爵が許容するはずがない。仮に両親に泣きすがられても、弟のためなら貴女は止まらないだろうことは親しい者なら分かったはずです』


 《麻薬王》の人物評は正鵠を得ている。

 いや、この場合はツィーリエの人物評だろうか。

 いずれにせよ、家族のためなら家族の願いを無碍にしてでも、止まれない。半日前までは止まれたが、もはや不可能だ。


『となれば、罠の可能性があっても、ヒセラを投入する他ない。美化された思い出の誘惑、実は生存していたという衝撃を以て、貴女の心を優しく折る。そうしてヒセラを介してヘルマンの信用を回復させ、ディライア・マクレイアのもとまで連れて行き、事の真相を明かすことで、当初の予定通り貴女には大人しくしていてもらおうと考えたのでしょう』


 家族同然の存在だったヒセラとヘルマンが目の前で無残に殺されて、挙句に実弟の運命を人任せにして、そのくせ自分は思い人と家庭を築いて幸福な人生を送るなど、あり得ない。

 家族を見捨てる薄情者に、誰かと家族になる資格はない。


『貴女の義父となる予定のディライア・マクレイアは此度の一件を最初から承知していたのです。だからこそ、万が一に備えてヒセラを待機させていたし、セリオがまんまと利用されるのも見過ごして、むしろそれを期待すらしていたことでしょう。今後の障害となるだろうニンリスイスト家を弱体化させるために、あわよくば没落させるために、暗躍していたのです』


 もし本当に今回の一件にディライアが関わっているとすれば、厄介だった。


『もちろん、これは貴女のためです。大事な息子の嫁となる少女に纏わり付く悪い虫を、今のうちに駆除しておこうと考えたのでしょう。しかし、ヘルマンがツィーリエをニンリスイスト家の手先として信用した時点で、彼の伯爵の計略は我が主のそれに吸収され、利用される流れとなったのです』


 あの伯爵はある面においては本当に人が良くて、ネリーアや息子のためを想ったからこそ、当事者に何も知らせず密かに事を進めようとしていた。それはネリーアを暴走させたくないからで、詰まるところ、息子と結婚させるためだ。

 万が一にも、ネリーアが婚約者より弟を優先しないように、隠蔽しきれないほど取り返しの付かない致命的な犯罪行為を冒さないように、ディライアなりに安全策を講じたのだろう。


『聡い貴女ならば既に理解が及んでいるでしょうが、ヘルマンやヒセラが頼りにしていたディライア・マクレイア、延いては情報局はもはや状況を掌握していません。それどころか、未だセリオの居所も掴めていない始末です。いえ、誤情報に踊らされて身柄を確保できずにいると言うべきでしょうか』


 ディライアが状況を十全に把握し、セリオを救い出せる見込みがあるのなら、まだ良かった。そうであったなら、ネリーアも自分が動く必要はないと考える余地ができていただろう。

 そうしてセリオは無事に救出され、ニンリスイスト家は弱体化するか没落するかして、ネリーアはディーンと結婚し、幸せに生きていく。そんな大団円の可能性くらいは期待できた。

 だが、もう遅い。

 状況は既に取り返しの付かないところまで来ている。


『今後、舞台は我が主の書かれた脚本通りに進行していきます』


 事ここに至って、自分に都合の良い未来は決して訪れない。


『しかし、ネリーア殿に関しては柔軟性を持たせてあります。先ほどワタシの〈凍気拡散フューディ・ズーリ〉に対処された時点で、貴女は正式に我が主の敵となった。以後は貴女の選択によって、物語が分岐します』


 《麻薬王》はネリーア自身が動くことを期待している。

 ヒセラは《麻薬王》どころか《麻天律》に関わるなと言っていたが、既に関わらずにはいられないほどに誘引されている。退くに退けないところにまで追い詰められた。


『ワタシの言葉を否定し、ディライア・マクレイアを頼るも良し。改めて《武隷衆》を頼り、我々《麻天律》やニンリスイスト家と対峙するも良し。全てを見て見ぬ振りをして、後は運を天に任せてやり過ごすも良し。その他の道を探るも良し。弟のセリオを助け出せるか否か、貴女がディーン・マクレイアと結ばれるか否か、ヘルマンとヒセラの仇を討てるか否か、周りの人々を幸福にできるか否か、全ては貴女の選択次第です』


 サイルベア自由国は北ポンデーロ大陸一の大国だ。その情報局を出し抜ける力を駆使してまで、敵は状況を整えた。もしネリーアが何もせず人任せにした場合、これまでの労力を無駄にされた仕返しとばかりに、想定を越える最悪の結末をお見舞いしてくるだろう。

 《麻薬王》曰く、ネリーアは主人公なのだ。何の積極性もなく、活躍もなく、ただ流されるだけの主人公を、あの頭のおかしい脚本家は決して認めないはずだ。


『我が主は想定し得る限りの脚本を用意して、待ち構えておられます。そして貴女がそれらを覆し、想定外の展開と自らを制する結末をもたらされることをお望みです。どうかそのご期待を裏切られぬ選択をされますよう、お願いします』


 全てを擲つ覚悟が必要だ。

 《麻薬王》を相手にして、今更小娘らしく泣き喚いて助けを乞うても、ろくな結末にならないことは分かりきっている。劇場で人生の半分を差し出さなかった時点で、手遅れになったのだ。

 こうなった以上、無抵抗に退いて全てを失うより、僅かでも可能性を求めて進んだ方が賢明だろう。その末に結局は全てを失うのだとしても、唯々諾々と流される訳にはいかない。

 この思考も全て《麻薬王》の手のひらの上だとしても、他にどうしようもない。


『話は以上です。ワタシも貴女と再び対峙できることを願っています、ネリーア殿』


 あの青年と再び対峙したとき、勝てる気はしない。

 だが、そのときが来るとしても、まだまだ先の話だ。今は他に考えるべきことが山ほどあり、目下のところは如何にして情報を入手するか、この一点に尽きる。

 これから何をするにしても、情報が足りない。判断材料が不足し過ぎている。まずは情報を得るところから始めねばならないだろう。この戦いが一朝一夕で決着するとは思っていないので、今後何年にもわたって安定的に、信頼性の高い情報を入手できる手段を確立する必要がある。


「…………まずはあの女を殺すか」


 熟考の末、ひとまずの目標を決めた。

 情と理に適った選択で、今のネリーアにはこれが最善だと信じる。だからこそ、これも《麻薬王》の想定内だろう。その点は不安だが、これ以上の一挙両得な良策は他に思い浮かばない。


「父さん、母さん……ごめんなさい」


 弱音は溜息と共に吐き出して、歩き出した。

 まだ夜は深く、朝は遠い。




 ■   ■   ■




 二日前まで、まさか自分が牢に入るとは夢にも思っていなかった。

 しかも独房だ。

 衛兵詰所の地下にある留置場は基本的に雑居房で、捕えられた容疑者は何人か纏めて一つの檻に入れられる。独居房は危険性の高い人物を隔離しておくための房で、分厚い鉄扉と強力な結界魔法によって厳重に閉じ込められる。

 本来、収容される容疑者は漏れなく〈霊衝圧ルゥソ・クイン〉を喰らわせられるが、ネリーアは拒絶した。自首した少女が逃亡を企てるなど矛盾していると理解してくれたのか、あるいはディライアの差し金か、衛兵たちとはさほど揉めることなく、独房に隔離するだけに留めてくれた。


「開けてくれ」


 鉄扉の向こうから、聞き覚えのある声が届いた。先ほどから微かに足音が近付いて来ていたので特に驚きはなく、ネリーアは身を横たえていた硬い寝台から立ち上がり、待ち構える。


「ですが、一応は殺人犯として収容しておりまして、もし万が一にも――」

「心配ない。今すぐに開けたまえ」


 威厳を感じさせる力強い声だった。上品ながらも気さくで、人の良さを感じさせる貴族らしからぬ男という印象がそこにはなく、威圧的ですらある命令口調だ。

 衛兵は萎縮したのか、すぐに解錠されて、扉が開いた。


「……ネリーア」

「お久しぶりです、ベルアスク伯」


 何とも複雑な顔で見つめられたが、ネリーアは動じることなく一礼した。


「君はもういい、下がりたまえ」

「いえ、ですが……」

「護衛もいる。問題ない。もし何か起きたとしても、君の責は問わない」


 一瞥して告げる様は冷たい。相手が貴族だと分かっていれば、末端の兵が気圧されるのも無理はないだろう。慌てたような乱れた足音が遠ざかっていく中、紳士然とした壮年の男は狭苦しい房内に足を踏み入れてきた。


「……………………」


 つい今し方までの貴族然とした風格はどこへやら、一転して悄然と立ち尽くしている。どう口火を切れば良いのか迷っている様子だったので、ネリーアの方から話を始めることにした。


「まずは色々と確認させて頂いても?」

「あ、ああ……そうだね。でもその前に、ここを出よう。君はこんなところにいるべきではない」

「それはまだできかねます。申し訳ありませんが、この場でお話させて頂きたく思います」


 低質な魔石灯の光は房内を薄らと照らすのみで、さほど明るくない。どちらかといえば暗い方だ。壁は無骨な石材が丸出しで、全体的に埃っぽく、薄汚い。

 便所代わりに蓋付きの桶が置かれているが、幸い中身は空だ。ネリーアが自首したのは今朝方のことで、おそらく今はまだ昼前だろう。もう少し遅ければ排泄していたかもしれず、そんな場所に留まって男性と話をするなど耐えられない……と以前は思ったはずが、今はそんな羞恥心などどうでもいい。もはや甘ったれた考えは捨て去り、腹も据わっている。


「……分かった」


 ディライアは以前までのネリーアと様子が異なることを見て取り、何か察したのだろう。無礼を咎めることなく、力なく頷いている。

 二日前にネリーアが姿を消したときから、ディライアはその権力を駆使して捜索してくれていたはずだ。だからこそ、これほど早く彼自らが駆け付けた。あの青年の話が真実であれば、ディライア本人が来ると踏んでいたので、予想通りといえば予想通りだ。

 もし《麻天律》やその他勢力の者が来た場合は、それはそれで好都合だった。


「本題に入る前にお尋ねしたいのですが、セリオは見付かりましたか?」

「いいや……捜索中だが、まだ発見できていない」


 セリオの件を持ち出しても、ディライアに戸惑った様子はなかった。既にネリーアが粗方の事情を承知していると察しているのだろう。


「そうですか」


 やはりそう簡単にはいかないらしい。ただ、ほとんど期待していなかったので、落胆はない。


「では、ヘルさんとヒセラの遺体は回収して頂けましたか?」

「ああ、何とかね。ただ、ヒセラの首以外はだが……」

「ヒセラを殺した《麻薬王》の配下が持ち去ったはずです。その男から、今回の件の真実とやらを聞きました。それが本当に正しいのかどうか、確認させてください」


 そうして、お互い立ったまま向き合った状態で、ネリーアは淡々と話していった。ディライアの表情は先ほどより幾分か落ち着いているように見えたが、重苦しい雰囲気で目を伏せている。おかげで最後まで口を挟まれず、黙って聞いてくれた。


「――以上です。どこか間違っているところはありますか?」


 ディライアは深く長く息を吐くと、伏せ気味だった面を上げ、目を合わせてきた。力のない眼差しだ。全体的にも疲労感が色濃く、申し訳のなさが伝わってくる。


「いいや、ない。補足すべき点は幾つかあるが、間違ってはいない」


 誤魔化すことなく、はっきりと言い切った。そしてディライアは続け様に、深く腰を折った。


「すまなかった……全ては私の至らなさが招いた事態だ。本当に、申し訳ない。許してほしい」


 伯爵位の貴族が、魔女とはいえ平民の小娘に頭を下げるなど、普通はあり得ない。貴族側が完全に悪かったとしても、謝罪の言葉がせいぜいで頭までは下げない。それが貴族というものだ。

 そうと分かっていても、意外感はなかった。畏れ多く思って恐縮したりもせず、ただ白髪の多い頭を黙って見下ろす。年末年始に会ったときは、五十一歳にしては若く精力的な紳士に見えたが、今は年相応に寂れていた。


「セリオ君のことは必ず捜し出すと約束する。それにディーンとの婚約も解消したりするつもりはない。無論、そちらが良ければだが……」

「頭を上げてください。伯爵を責めるつもりはありません。貴方は私やディーンのためを想って行動されていたのでしょう? であれば、この結果は敵の方が上手だっただけのことです。悪いのは悪意を以て仕掛けてきた方だということくらい、承知しています」


 これは紛れもない本心だった。

 《麻薬王》とその配下に直接会って、身を以てその悪辣さを痛感させられた以上、ディライアを責める気になどなれない。もしかすると、今回の件にはディライアの貴族社会における利己的な打算なども含まれていたのかもしれないが、少なくともネリーアに対して悪意はなかったはずだ。むしろ善意で動いていて、それは今し方の言動を見聞しても分かる。


「ところで、先ほど仰った補足すべき点というのは?」

「……今となっては言い訳同然のことだがね」


 ディライアは頭を上げると、未だ罪悪感の色濃い顔を苦々しく歪めた。


「三年前、《麻天律》がニンリスイスト家の策謀に便乗する形で、ヒセラを始末しようとした。ヒセラの命を狙うのだから、そこに《麻天律》の思惑が絡んでいることに我々が気付かないはずがない……と、ネリーアは疑問に思わなかったかな?」

「それは、多少は……」


 あの《麻薬王》のことだから、よほど上手く出し抜いたのだろうと片付けていたが、確かに不可解ではある。三年前にニンリスイスト家がヒセラを殺そうと画策した際、ヒセラとヘルマンから事情を聞いた時点で、ディライアを含む三人が《麻天律》の関与に気付けていれば、ディライアたちは相応に警戒し、今回《麻薬王》はネリーアと接触できなかっただろう。


「《四統会》にはね、それぞれ支援者がいるんだ。最も古くから存在する《武隷衆》は国内の有力商人たち、つまりは商業組合と強く結びついている。《麻天律》と《命賭幇》はそれぞれ国外のある組織と協力関係にある。そして《楽春遊》は我が国の貴族社会と根深く絡んでいる」

「ニンリスイスト家の背後には既に《楽春遊》がいるから、《麻天律》が付け入る余地はないと?」

「そのはずだった。元々、ニンリスイスト家は《楽春遊》と特に深い関係にあった。だからこそ、ネリーアのことを抜きにしても、私の立場ではこれ以上あの家を放置しておく訳にはいかなかったとも言える」


 ディライアにとっては渡りに船だったのだろう。

 ニンリスイスト家に対する攻撃材料を探していたところ、まず三年前のヒセラ殺害があった。そこでヘルマンを間者として潜り込ませることで、ネリーアを守りつつニンリスイスト家を攻めるための証拠を集めさせた。


「《麻天律》は我々の情報網に掛かることなく、ツィーリエを含む何人かを間者としてニンリスイスト家に潜ませていたのだろう。だが、私もヘルマンもヒセラも、《麻天律》がニンリスイスト家を上手く操っている可能性を軽視していた」


 ディライアは今回の事件が起きることを知り、セリオの窮状を敢えて見過ごすことで、ニンリスイスト家を追い詰めようとした。ネリーアは国益に適う優秀な魔女であり、伯爵家嫡男の婚約者でもある。その弟に対する犯罪行為は、国家と伯爵家に対する攻撃だ。言い逃れできないだけの証拠を集められれば、破滅させることも不可能ではないのだろう。

 これまでに得られた情報で考える限り、やはり《麻天律》は狡猾だ。

 今回の件は《楽春遊》が黒幕だとすれば、《武隷衆》と《麻天律》が絡むことは辻褄が合うように見える。ニンリスイスト家はネリーアを追い落とし、《楽春遊》は二組織を争わせることで弱体化を狙う。双方に利のある策で、これを《麻天律》が仕組む利はない。

 《麻天律》は他にも様々な策を弄して、ディライアたちの目を眩ませたのだろう。


「まさか《麻薬王》がこれほどネリーアに執着しているとは思わなかった。完全に見誤っていた。連中に君を狙う意図があっても、それはヒセラという裏切り者の始末のためで、もはや君自身が目的であるとは考えなかった」

「それは仕方がないと思います」


 《麻天律》はディライアに、ヒセラを通じてネリーアを取り込もうとしていたことを知られている、ということを承知していた。その上で尚、他ならぬネリーアを目的とした工作を再度仕掛けるなど愚行だろう。警戒している相手を殴ろうにも、返り討ちに遭うのが関の山だ。

 普通はそう考える。


「いや、私の責任だ。諜報戦にも読み合いにも負け、まんまと出し抜かれた。裏切り者の殺害を目的ではなく手段として用いる思考は私にはなかった。君を精神的に追い詰めることで暴走させ、《楽春遊》に傷を負わせつつ自らの悪趣味を堪能する……《麻薬王》の人柄は概ね知り得ていたつもりだったが、認識が甘かった。奴は組織としても個人としても益を得てのけた」


 伏せるように目を逸らし、拳を握り締め、重苦しい声は呻き同然の苦渋に満ちている。忸怩たる思いが伝わってきて、ネリーアとしても同感であったが、今は傷を舐め合うときではない。

 まずは看過し得ない言葉を訂正しなければならない。


「私は暴走していません」

「すまない、言い方が悪かったね」


 ディライアは気を取り直すように軽く深呼吸を挟んで、「だが」と続けた。


「今の話を聞いて分かっただろう? ネリーア、君はウィスティリアを殺すよう誘導されたんだ。セリオ君の姉である君が――公的な立場のある優秀な魔女が、いきなり貴族令嬢を殺害した。これを《武隷衆》はどう見ると思う?」

「……………………」

「ヒセラとヘルマンが殺害された場所、あそこは《楽春遊》の縄張りだ。その只中で、二人を殺すにしてはあまりに過剰な大規模魔法を放った。ネリーアは先ほど、あれは君を試すためらしいと言っていたが、それ以上に《麻天律》としての報復の意味合いが強かったはずなんだ」


 ネリーアとしても、数人を殺すためだけに街中で戦級魔法を行使するとは考えていなかった。だから何か他の理由もあるとは当然思い至っていたし、現場は歓楽街だった。酒や女や金や薬が入り乱れる眠らずの街区に大被害をもたらしたとなれば、《四統会》関連の何かだと予想は付いていたため、驚きはない。


「あの一件で一昨日《四統会》の会合が開かれたそうだが、《麻薬王》は自分の仕業だと証言しているらしい。《武隷衆》と《麻天律》を争わせようとした《楽春遊》への報復だと」


 《麻薬王》ならやりかねない。

 実際に《楽春遊》の企みは奏功していないはずだが、仕掛けたことに変わりはない。面子を保つために、今後の抑止力とするために、報復は妥当だ。今後《麻天律》を攻撃すれば、同様に仕返しされる……ということをネリーアに実感させる意図があっても不思議ではない。

 ヒルヒーノ・エクスティアは一つの策に複数の意味を持たせるのが常なのだろう。


「無論、言葉だけでは誰も信じない。だが、《武隷衆》と《麻天律》が争う原因となった少年、その姉が、《楽春遊》と繋がりの深い家を攻撃したとなれば、話は別だ」


 やはり手のひらの上で踊ったことになったようだ。

 しかし、今回は問題ない。ネリーアにも利のあったことだし、必要なことだった。《麻薬王》はそれを事前に予期して、ネリーアの必然的行動が自らの利となるよう便乗しただけだ。

 だから敵の知略を恐れる必要はない。

 ウィスティリアを殺せば《麻薬王》が何らかの得をするだろうことは承知の上だった。


「君がウィスティリアを殺害したことで、《麻薬王》の話に無視し得ない信憑性が生じた。これは裏を返せば、君は《楽春遊》、ひいては貴族社会を敵に回したことになる」

「伯爵にとって、《楽春遊》は敵なのですよね?」

「状況次第だ。基本的に私は《四統会》のどことも敵味方の関係にはない。私の仕事はこの国を影から守りつつ、情勢を安定させることにある。時には《四統会》と協力することも敵対することもある」


 社会の裏側や諜報の世界について、ネリーアはまだ詳細を知らず確信がなかったが、概ね予想通りだ。《四統会》と協力することもあるならば、当然《四統会》の情報も得られるだろう。敵対する際には情報局の支援を受けられる。まさに打って付けだ。


「ベルアスク伯、私を情報局に入れてください」

「……ネリーア、君は今とても疲れているんだ」


 ディライアは歩み寄ってくると、肩に優しく手を置いてきた。見下ろす眼差しは痛ましげで、自責と同情の念に溢れている。


「我が家に来なさい。ひとまずは一節ほど、ゆっくりと休養して、心を落ち着けるんだ。君が行方知れずとなって、ディーンもミレーナもマルティナも、皆とても心配している。ご両親にも連絡して我が家に来てもらい、しばらく皆で共に過そう」

「申し訳ありませんが、ディーンとの婚約は解消して頂きたく思います」


 丁寧に手を払いのけて、真っ直ぐに見上げて告げた。

 ディライアは哀しげに、苦しげに顔を歪め、しかしすぐに表情を引き締める。眉間の皺は深く、苦悩が見て取れた。


「私はウィスティリアを殺しました。今更後戻りする気はありません」

「大丈夫だ。ニンリスイスト家は今回の騒動を起こした疑惑がある。そこを突けばネリーアのことは有耶無耶にできる。何も問題はない」

「ですが、それは私がウィスティリアを殺したからこそです。もし私があの女を――ニンリスイスト家を攻撃しなかったら、どうなっていましたか?」

「……………………」


 これもまた《麻薬王》の脚本通りなのだろう。

 《楽春遊》に報復しつつ、ネリーアを敵として誘引する。公私共に利となる展開をきっちり用意していたのだ。実に腹立たしく、底知れない。気を抜くと弱気になりそうだった。


「私もそれほど馬鹿ではありません。私がウィスティリアを殺したことは、ニンリスイスト家や《楽春遊》以外にとっては好都合な出来事のはずです。だからこそ、貴方は私の殺人を咎めない。自責や同情もあるのでしょうが、伯爵の立場では大局的に見て私の行動は有益だからです」


 本来、伯爵家の魔女である令嬢を殺害するなど論外だ。

 あのときウィスティリアが言っていたとおり、連座で家族諸共に処刑されても不思議ではない。ディーンとの婚約も解消されて然るべきだ。誇張ではなく本当に身の破滅が確定する。

 それでも尚、ネリーアほど優秀な魔女ならばぎりぎり大丈夫だと考えての殺害だったが、どうやらそれとは別の事情から、さほど問題にはならないらしい。

 おそらく状況は悪くないどころか、むしろ良いのだろう。


「渦中にいるセリオの姉である私が、ニンリスイスト家の令嬢を殺害したからこそ、あの家に疑惑が生じた。私が何もしなければ、《四統会》での《麻薬王》の証言は一蹴され、《楽春遊》もニンリスイスト家も白を切れる状況となっていたはずです」


 本当にそうだろうか?

 あの《麻薬王》であれば第二第三の策を用意していても不思議ではない。ネリーアがウィスティリアを殺さない場合も想定はしていたはずだ。それがどんなものであれ、少なくとも《楽春遊》は報復されていただろう。


「そうして私がウィスティリアに脅されるがまま、ディーンとの婚約を破棄した場合、彼は誰と結婚することになりましたか?」

「……………………」

「本来、貴族の結婚は政治の一手段に過ぎないということくらい、私も理解しているつもりです」


 先ほどからディライアは沈黙し、小難しいしかめ面を続けている。

 これ以上ネリーアに余計な情報を与えまいと口を噤み、無表情を装っているのだろうが、その頑なな態度が逆に確信を抱かせてくる。


「貴方はとても子供思いのお優しい方です。ですが同時に、伯爵として政治的な判断を求められる立場でもあることでしょう。息子にはたとえ相手が平民だろうと望む相手と結ばれてほしい、しかし最低でも才色兼備な魔女でなければならない。伯爵にとって、私は妥協できるぎりぎりの女だったはずです」


 ニンリスイスト家を襲撃したことで、今では無詠唱魔法士の有用性を身を以て実感できている。だから自分の価値も正しく理解できているつもりだが、それでも貴族社会が血筋と伝統こそを重んじている事実は厳然と存在する。

 平民なら未だしも、農奴出身の魔女を跡継ぎ息子の嫁として認めるなど、おそらくディライアでなければしなかっただろう。同じ伯爵家として、ニンリスイスト家はそれをよく分かっていたはずだ。


「ディーンに望む相手がいなくなれば、政治的な判断から最大限の利となる相手を嫁に迎えるのが道理です。ニンリスイスト家がわざわざ今回の件を仕掛けようと画策したのは――いえそれ以前にツィーリエを私に対する間者として送り込んだのは、私さえいなければディーンと結婚できるという確信があったからではないですか?」


 そうでなければ辻褄が合わない。

 同学年でもないのに、ウィスティリアが何かと嫌がらせを仕掛けてきたのは、ディーンとの仲を危惧してのことだったのだろう。ディーンと出会ったのは三年以上前――ヒセラが亡くなる半年ほど前のことだ。表向きヒセラが亡くなる頃には、彼の家に招かれて食事をする程度には仲良くなっていたため、時期的にもおかしな点はない。


「政治的な面だけで判断すれば、ディーンの結婚相手に相応しいのはウィスティリアだった。爵位が同等ですし、貴方は先ほど『私の立場ではこれ以上あの家を放置しておく訳にはいかなかった』と仰っていましたよね」


 放置とは上手い言い回しだと思う。

 危険な対象として見過ごせないから放置できないのか。それとも有益な対象として見過ごせないから放置できないのか。

 状況によって意味合いが変わってくる。


「伯爵がディーンを今回の件に関わらせようとはしなかったのは、裏の仕事を息子に引き継がせるつもりがないからです。何も知らないディーンであれば、父親の――情報局の動向が漏れることはない。一方で、ニンリスイスト家と強固な繋がりができれば、貴方は《楽春遊》の動向を探りやすくなり、同時にある程度の制御もできるようになるかもしれない。それを抜きにしても、両家の結びつきは単純に貴族としての力を増すことになるはずです」


 敢えて無知な息子を矢面に立たせることで、取り込まれる危険を防ぎつつ、取り込むことができる。最悪それが不可能だとしても、伯爵家同士の婚姻という横の繋がりで得られる利は残る。少なくとも損はしない。


「既にセリオは《麻天律》の手の内にある。であれば、私にとってニンリスイスト家は利用価値がない。それどころか、私の代わりにあの女がディーンと結婚するなんて、絶対に認められません。それとは別に、私は自分を追い詰めることで表の舞台から降り、情報局かそれに類する組織に身を置きたかった。だから、ウィスティリアは殺すのにちょうどいい相手だったんです」


 あの女の殺害は手段であり目的でもあった。

 まさに一石二鳥、一挙両得。実に都合が良かった。

 そうなるように《麻薬王》が仕組んだ可能性は否めないが、そうだとしても他により優れた選択肢は思い浮かばなかった。思い浮かんだとしても、よりにもよってウィスティリアとディーンが結ばれるなど我慢ならなかっただろうから、結局は殺していただろう。


「伯爵、私は暴走などしていないと、理解して頂けましたか?」


 可能な限り冷静を装い続けたまま、問い掛ける。

 先ほどから、無理していると思われないように、無感情になりすぎない程度の落ち着いた様子を意識して話してきた。実際にどう見られているのかは判然としないが、少なくとも感情的に取り乱しているようには見えないはずだ。

 情報局は国軍ほど大規模ではないだろうが、国防の要となる組織のはずだ。諜報活動を行う間者は、感情に振り回される馬鹿には決して務まらない。得られた情報から状況を正しく分析して、最適な行動を取れる者でなければ、敵に利用されて逆に国防を揺るがす危険人物になりかねない。

 目の前の男に、自分は有用な人材だと証明する必要があった。


「……一応は理解した。確かに、君は可能な限り考えて動いたのだろう。追い詰められた状況の中で、最善を尽くそうと努力した。それは認めよう」


 こちらを見つめる双眸からは依然として憐憫や悔恨の情が窺えた。あるいは先ほどより酷くなっていて、実際にディライアの声は暗く重い。

 彼は大きく溜息を零すと、見窄らしい寝台に腰を預けて、力なく項垂れた。


「ネリーア、君の気持ちはよく分かった。でもね、情報局に入れることはできない。真っ当に生きることを状況が許す限り、君自身が許せなくとも、真っ当に生きるべきなんだ」

「私の立場は現状かなり危ういはずです。伯爵が私を気に掛けてくださるのはとても有り難いことですが、私はそれを望みはしません。にもかかわらず、貴方は少なくない労力や代償を支払ってまで、私を真っ当に生きさせようとするのですか?」

「ああ。諜報の世界になど、関わるものではない」


 ディライアは迷いなく即答した。

 現に先ほど彼は大丈夫と、問題ないと言っていた。

 しかし、そんなことはないはずだ。

 事ここに至っても尚、ネリーアが再び学院に通ってディーンと結婚するような生活を送るためには、各方面に手を回す必要がある。いくら伯爵位の貴族でも、それが容易であるとはとても思えない。


「ですが、既に関わってしまっています。それに《麻薬王》に目を付けられた以上、真っ当に生きようとしても、邪魔されてできないはずです。もはや状況が許さないんです」

「私が全力で守ると約束する。だから、考え直すんだ。一度こちらの世界に足を踏み入れたが最後、二度と抜け出すことはできない。後悔してからでは遅いんだ」


 向けられる眼差しも、声も、真摯だった。利害や打算など抜きにして、本気で思い遣ってくれていることが感じられた。


「私はね、後悔しているよ。若い頃、この世界には自ら進んで入っていったが、今では愚かな選択だったと強く思う。こんな仕事、辞められるものなら辞めたいさ」


 たしかディライアは次男で、三十歳の頃に兄が亡くなったため、爵位を継いだという話だった。それまでは典型的な貴族の放蕩息子として、市井に混じって自由に遊び回っていたそうだが、実際は情報局の一員として諜報活動に勤しんでいたのだろう。

 貴族の次男三男は所詮、跡継ぎである長男の予備に過ぎない。しかし血統は確かなので、普通は軍に魔法士として、あるいは高級士官として入ったり、文官として国政や領政を支えていくものだ。ディライアは少し変わり種だろうが、そう珍しいことでもないはずだ。


「十代、二十代の頃はまだ良かった。自分がこの国の役に立っていると、凡人にはできない特別なことをしていると思えた。ただ爵位を継いで生きる兄より、自分の方が有意義な人生だと、そう負け惜しみめいた考えも持てた」

「……………………」

「だが、私の馬鹿な失敗が兄の死を招いたのだと知ったとき、急に怖くなった。そのときにはもう後戻りなどできず、本来は甥が継ぐべき爵位を私が継がされ、伯爵としての地位と権力を駆使してまで諜報活動に従事することを求められる始末だ」


 ディライアは小さく頭を振って、嘆息交じりに語っている。以前までは年齢に見合わず精力的で若々しいと思えたが、今は逆に年齢以上に老けて見えた。小汚い独房と薄暗い照明のせいで尚更だ。


「一度でも機密に触れ、各国との協定に違反する行為を冒した者を、国家は決して手放したりはしない。他国に引き抜かれたり、寝返られては厄介だからね。だから抜け出すことは裏切りと同義なんだ。無理にでも辞めたり逃げたりすれば、防諜の名目で始末されることになる」


 仮に《麻薬王》を制し、セリオを助け出せても、ネリーアは一生この国に縛られ続けるのだろう。そう思うと少し気圧されてしまうが、後のことなど後で考えればいい。そもそも今は《麻薬王》をどうにかできる算段すらないのだ。


「人を欺き、操り、時には何の罪もない者の人生を狂わせることもある。自分の行動が大勢の人の死を招くことを承知の上で、人を騙すこともある。嘘と罪に塗れた人生など、虚しいものだよ。どんなに嫌でも、やらねば裏切り者の烙印を捺され、罰されかねない。否応のない人生でもある」


 だからディライアは息子を関わらせようとしないのだろう。

 この場にディーンを連れて来られていれば、あるいはネリーアの決心は揺らいでいたかもしれない。彼に抱きしめられ、懇願されれば、折れていたかもしれない。

 そうなりたいという思いが皆無と言えば、嘘になる。


「ヘルマンがいい例だ。私があいつの人生を狂わせてしまった。かつて猟兵に身をやつしていた頃、ヘルマンには随分と助けられてね。あいつが猟兵をやめると風の噂で聞いたとき、恩返しとして魔女の護衛職を紹介した。任務でも何でもなく、私人として友人に職を紹介しただけだった」


 ディライアが表向き放蕩息子として活動していた時期と、ヘルマンが猟兵だった時期は被る。あの青年から話を聞いたとき、実は二人が古い知り合いだったとは驚きだったが、そう意外でもなかった。二人ともどことなく気の合いそうな性格をしている。


「しかし、結局はこちらの世界の厄介事に巻き込み、挙句には死なせてしまった。君もそうなるのかもしれないと思うと、これ以上関わらせることなどできない」

「ヘルさんの死は伯爵のせいではありません。ヘルさんは私を守るために頑張ってくれていたのに、私は彼を守れませんでした」

「そう思うのなら、あいつのためにも幸せに生きる努力をしてほしい。《麻天律》は許しがたいだろうし、セリオ君のことも心配だろうが、ネリーアは自分の幸せをこそ追い求めるべきだ。でなければ、ヘルマンの死もヒセラの死も無駄になる」


 そう言われると辛かった。

 あの二人がネリーアの幸福を願ってくれていたのは確かで、幸福になることが二人への手向けとなる。それは嫌というほど理解しているつもりだ。

 しかし、だからこそ二人を殺した連中が許せない。

 それでも、もしセリオの身が危ないだけだったら、あるいは二人が殺されただけだったら、考え直したかもしれない。だが、現実はどちらも起きてしまっている。どちらか一方だけなら何とか我慢できても、両方は許容できない。


「ネリーア、君は優秀な魔女だ。真っ当に、表の世界で生きていける。何があろうと、望んで後ろ暗い世界に入ることなんてない。絶対に後悔する」


 ふとツィーリエの言葉が思い出された。

 彼女も人生のどこかで今の自分と似たような状況に置かれ、似たような選択をしたのだろう。そして、それを後悔しながら諦念に塗れて生きていた。

 あんな風にはなりたくないし、なるつもりもない。


「今回の件は他ならぬ私自身に起因しています。なのに、巻き込まれただけの弟は放って、私を思い遣ってくれた恩人たちの死から目を背けて、自分一人のうのうと幸せを享受していくなんて、できません。弟を助ける道があるのに、二人の仇を討つ道があるのに、そこから逃げ出せば必ず後悔します」

「セリオ君やヘルマンやヒセラを巻き込んだからこそ、君は幸せにならねばならない。ネリーアの不幸は皆の不幸だ。君は一人で生きているのではない。ご両親のことを考えたまえ」

「家族は苦楽を共にするものです。セリオ一人に苦しい思いはさせません。私が幸せになるときは、セリオが幸せになるときです。両親には悪いですが、それまでは私と一緒に苦労してもらいます。セリオのためなら、きっと分かってくれます」


 おそらく情報局に入れば、ウィスティリア殺害の件もあり、表向き死んだことにされるだろう。つまり魔女の家族に支払われる支援金も打ち切られる。が、父は支援金に頼ろうとせず、勤勉に働いて生活しているため、これまでの貯金も考えると、今後も経済的には不自由ない生活を送れるはずだ。


「……………………」


 ディライアは困窮したような渋面で、言葉なくじっと見つめてくる。切実な眼差しは懇願しているかのようだ。ネリーアはそれから目を逸らさず、毅然と見つめ返した。


「……今は何を言っても無駄のようだね」


 やがて重苦しい溜息と共にそう呟くと、ディライアは疲労感の滲んだ動きで腰を上げた。


「少し時間を置いて、熱を冷ましてから、また話し合おう」

「どれだけ時間を置いても私の考えは変わりません」

「まあ、そう言わずに。皆には会わせないから、せめてここから移動しよう。こんな場所では心が荒む一方だ。清潔な部屋で、温かい食事を摂って、柔らかな寝台で休めば、少しは気持ちも落ち着くはずだ」


 労るように肩に手を置かれて、深い思い遣りに満ちた柔和な口振りで告げられた。その善意を無碍にしたくないと思う自分がいたが、冷徹な理性は揺るがなかった。

 この優しい伯爵のことだ。

 皆には会わせないと言っておきながら、間違いなく両親やディーンを部屋に連れて来る。ディライアからすれば、独房でなければ事情を誤魔化すことなど幾らでもできるのだ。既にディライアから妻子には知られたくないと聞いてしまったため、彼もネリーアがディーンたちに真実を告げるとは思っていない。そう信じてくれているはずで、それは正しい。

 のこのこディライアの誘いに乗れば、きっと情にほだされる。ディーンに会えば、マルティナに姉様と呼ばれれば、ミレーナに優しく微笑まれれば、その信頼を裏切りたくないと思ってしまう確信がある。


「いえ、ここで結構です。情報局に入れて頂けるまで、ここを出るつもりはありません」


 優しい嘘の誘惑は強かった。

 心が折れてしまっても、ディライアに騙されたからだと、責任転嫁できてしまう。自分のせいではなく、騙されたからだ。ディーンたちを傷付ける訳にはいかないから仕方ない……という屁理屈をこねてしまわないとも限らない。

 それほどに、ディーンたちと家族になって幸せに暮らすという未来は甘美だ。まだ完全に未練を断てた訳ではなく、この展開も予想できたからこそ、殺人犯として独房に入ったのだ。


「私のことは先日の〈凍気拡散フューディ・ズーリ〉で死んだということにしてください。それならみんなを必要以上に傷付けないはずです。どうかよろしくお願いします」


 深く腰を折って頭を下げながら、思った。

 きっと〈凍気拡散フューディ・ズーリ〉を死因にするのも《麻薬王》の脚本通りで、今頃はどこかで座り心地の良い椅子にでも身体を預け、優雅に葡萄酒でも飲みながら、劇が進行するのを待っているのだろう。

 せいぜい今のうちに楽しんでおけばいい。

 いつか必ず地べたに這いつくばらせて、凄惨な死を迎えさせてやる。




 ■   ■   ■




「諸君、ようこそ。私はワム。本日から諸君らの主任教官として、ここにいる二十名が立派な一人前となるまで教え導く。担当は主に座学全般だ」


 第一印象は貴族の紳士といった風体の男だった。年の頃は判然とせず、壮年であることは確かだろうが、三十代にも四十代にも五十代にも見える。柔らかすぎず硬すぎず、冷たくもなく温かくもない、真意の読めない中庸な微笑みを浮かべ、黒板を背にして姿勢よく教壇に立っている。

 《麻薬王》を思い出させる在り方はあまり好ましくなかった。


「さて、それでは初めに、諜報こちらの世界の常識を教えておく」


 ワムは生徒らに背を向け、黒板と向き合うと、白墨チョークを取った手を淀みなく動かしていった。そして書かれた文字を指差し、生徒らを見回す。


「情報だ。情報こそを最も価値あるものとしろ。これを入手し、ときに正確に伝達し、ときに有効に活用することで、状況を操り益を得る。そこに身命を賭すのだ」


 結局、ディライアは折れた。

 心情面ではともかく、実情面では彼にとってもネリーアが情報局に入るのは好都合だったはずだ。もしディライアがディーンを独房に連れて来て、真実を明かしてまで説得してきていれば、抗えなかったかもしれない。

 が、そんなことは起きず、ディライアは我が子を巻き込むような愚は冒さなかった。


「しかし、自らの命を擲つとしても、他人の命までは奪うな。ナディア、なぜだか分かるかね?」


 聞き慣れない名が耳に入り、右から左へと聞き流しかけたところで、自分のことだと気が付いた。すぐに立ち上がる。

 ナディアという名前は先日情報局から支給された偽名なので、まだ自分を指す新しい名称だという実感がなかった。


「……殺すと、目立つからですか?」

「半分正解だ。もう半分は?」

「それは…………利用、できなくなるからです」

「正解だ。座ってよろしい」


 言われたとおり着席すると同時に、紳士然とした男が学院の教師さながらの口振りで流暢に語り始める。


「さて、この世には家畜にも劣る無価値な者共で溢れていると嘯く貴族や富豪もいるが、それはとんだ誤りだと言わざるを得ない。なぜなら、どんな者も何らかの情報を持ち、利用できるという点において、価値がある。そして何より、社会的な、人との繋がりがある。一人でも消せば、それは拭いがたい痕跡となる。殺された者と繋がりのある者たちが怪しみ、その怪しんだ者たちも消そうにも、その者たちにも多くの繋がりがある」


 ワムは室内にいる全員に広く語りかけている様子だが、ネリーアは主に自分を狙い撃って告げられているように思えた。でなければ、先ほどの問いは飛んで来なかっただろうし、何よりウィスティリアを殺したからこそ、今ここに自分はいる。


「彼女が答えたように、殺しは目立つ。たとえ利用価値の低い農奴であろうと、殺せば必ず少なくない痕跡を残す。不信感を抱かせる」


 倫理的な観点から殺人を否定するのではなく、合理的な論理に基づいて殺人を否定している。そのことにさほど不快感を抱かず、深く同意している己は、おそらく間諜として適性があるのだろう。


「いいか、諸君。極力、人は殺すな。我々は殺し屋ではないのだ。殺しの仕事は殺しの専門家がやる。我々は任地に――国、組織、家族、あらゆる環境に適応し、その一部となって情報を収集し、国益を追求する。それが諜報員の仕事だ。殺人は我々にとって、最も忌むべき愚行であると心得よ」


 諜報活動において、殺人は愚行という意見には頷ける。

 しかし、《麻天律》の連中は例外だ。

 多少の痕跡を残そうが、殺した方が世のため人のため国のためになると確信している。


「前置きはこの辺にして、そろそろ各人の自己紹介に移ろうか。とはいえ、名前を名乗る程度で良い。年齢や経歴、出身地などの情報は不要だ。将来、ここにいる誰かが、我らが祖国を裏切らないとも限らない。諸君らが親睦を深めるのは結構だが、いつか敵対勢力に情報を流されて任務が困難になる危険を冒したくないのであれば、個人的な情報は互いに秘しておくことを奨める」


 ここにいる二十名は事前に徹底した身辺調査が行われ、国がその信頼性を保証した優秀な人材であり、これから机を並べて学んでいく同士だ。

 しかし、胸襟を開いて交流してはいけないという。


「では前から順に始めたまえ」


 ネリーアは密かに深呼吸をして、嘘と裏切りと陰謀が渦巻くだろう世界で生きていく覚悟を固めた。もう揺らぐことなく、迷わずこの道を進んでいき、弟を助けて仇を討ってみせる。

 十五歳のネリーアは陰々と意気を滾らせて決意した。

 

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