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幼女転生  作者: デブリ
八章・渡航編
182/203

 間話 『冴えた間者の育ちかた 四』

 

「これ以上お嬢に睨まれるのは御免だからな、おれはお先に失礼するぜ」


 ヘルマンは馬車に乗ることなく、自前の翼で夜空へと飛び去って行った。そんな同僚に対してツィーリエは特に何か言うこともなく、見送りもせず、ネリーアが馬車に乗るのを待っている。先に乗ろうとしないのは護衛としての立場故というより、暴走を恐れているのだろう。

 実際、ネリーアは今ここで駆け出したい気分だった。

 今はとにかく、まず何をするにせよ、ツィーリエが邪魔だ。常に監視されていてはろくに行動を起こせない。だから彼女を無力化するなり、振り切るなりして、一人になる必要がある。

 しかし、魔女は基本的に護衛を伴わねば外出できず、更に現在のネリーアは学院生だ。明日も授業があるため、ツィーリエをどうにかできても学院を欠席すれば、大勢で捜索されることだろう。そうなればディーンにも心配を掛けるし、何事かと怪しまれる。

 正当に欠席するには護衛たるツィーリエが障害となる以上、彼女がネリーアの味方にならない限り、国家の庇護を受ける魔女としての立場が行動を制限する。

 今ここで駆け出すのが愚行であることは明白だった。


「どうかされましたか。早く乗車してください」

「……………………」


 催促の言葉に抗えず、馬車の中に入った。ツィーリエは御者にネリーアの自宅を目的地として告げると、対面の席に腰掛ける。

 ネリーアは彼女と目を合わせることなく、車窓の向こうを眺めつつ、思索を巡らせていく。


「流れには逆らわぬことです」


 ふと独り言のような呟きが耳に入り、ちらりと獣人の女性を見遣る。ツィーリエはどこを見るでもなく、常と変わらぬ無味乾燥とした無表情だ。いや、僅かに歪む口端からは若干の渋みが見て取れる。


「国家という枠組みの中で生きる貴女にとって、大きな力に抗おうとするのは愚かな試みです。激流の中、川上にある理想を求めて溺れるより、敢えて流れに身を任せて自ら選んだ現実に辿り着く方が賢明です」

「身の程を弁えて、長いものには巻かれろと?」

「それが嫌だというのであれば、流れの外に出ることです。後々になって出たくなっても、その頃には振り切れないほどのしがらみに囚われて、一生を川の中で過すことになる」


 ツィーリエもヒセラと同様に、孤児だったという話だ。今となっては真偽の程は疑わしいが、もしそれが本当だとすれば、ツィーリエは護衛として育成されるいずれかの段階で、ニンリスイスト家がもたらす流れに囚われたのだろう。

 彼女が常に淡々とした振る舞いをしているのは、自らの行動が意に反した行いだからかもしれない。いちいち反発したくなったり、良心の呵責に苦しむくらいなら、何も思わず何も考えず、無感情を装っていた方が仕事は楽になるはずだ。


「そうなれば、もう流されるしかない。それ以外の生き方では無駄な苦労を負うだけの人生になるでしょう」


 微かに揺れる馬車の中は薄暗い。ネリーアもツィーリエも魔石灯を点けようとはしなかったので、窓外から漏れ入る街灯の明かりだけが光源だ。貴族街の色彩豊かな光が暗澹とした車内を染め上げ、ツィーリエの横顔に様々な陰影が浮かんでは消えていく。


「それがお前の人生経験から来る教訓だとしたら、敗北主義者もいいところね。たとえ逆らえずに流されるのだとしても、抗うことをやめなければ希望はある。もう流されるしかないだなんて、自分の人生を手放した弱虫にしか言えない台詞ね」


 たとえツィーリエがどんな人生を送ってきていようと、今のネリーアにとっては敵の一味だ。それに何より、流されろと同情的に忠告されたのが気に食わない。脅しが利かないなら宥めようという作戦かもしれないが、いずれにせよ反感しか覚えない。仮にも人生の先達であれば、もう少しマシなことは言えないものか。


「……若いですね」

「小娘の夢見がちな理想論だとでも?」

「かもしれません。しかし、その未熟さは羨ましい。私はもうそんな意気を持てるほど若くありませんから」


 ツィーリエは今年で二十九歳だが、疲労感の色濃い顔はだいぶ老けて見えた。ネリーアを諦めさせる演技でなければ、これがこの護衛の素顔なのだろう。事ここに至って、三年目にしてようやく覗き見えた本心がこんな寂れた諦念など、冗談でも笑えない。


「……こんな大人にはなりたくないわね」

「……………………」


 侮蔑を込めた呟きに、ツィーリエは沈黙を返した。

 それからは無言の時間が続き、小一時間ほど不夜の都の街並みを流したところで、実家に到着する。今日は泊まるので、ツィーリエも家の中に入ると思うと、不快感がいや増した。


「あら、こんな遅くに誰かと思えば」


 玄関扉を開けた母は寝間着姿で、突然の帰宅に驚いていた。


「ごめんね母さん、急に」

「その格好、どうしたの? ディーンさんとお出かけでもしてたの?」

「ええ……劇場に行ってきてね。せっかく夜間外出の申請をしたから、今日は家に泊まろうと思って」


 まだ両親に本当のことを告げる訳にはいかない。最終的にどうなるにせよ、全てが終わった後で報せるべきだ。でなければ、また父は勝手に動き、母は責任を感じて嘆き悲しむだろう。

 これ以上状況を悪化させたくなかった。


「そうだったの。とりあえず入って、ツィーリエさんもどうぞ」

「お邪魔します」


 母は娘の言葉を疑っていないのか、普段通りのにこやかな振る舞いを見せている。

 自分と弟を陥れた敵の一員を家に招き入れるなど腸が煮えくりかえるが、感情は無理矢理押し込めた。


「ヘルマンさんは?」

「ちょっと用事で、今日はツィーリエさんだけなのよ」


 家族にはヘルマンが護衛を辞めたことをまだ報告していなかった。

 母に嘘を吐くことには多大な躊躇いと罪悪感があり、胸が痛む。

 ウィスティリアへの憎悪が募るが、現状はがんじがらめでまともな打開策が思い浮かばない。感情だけが昂ぶり、理性が追い付いていかず、そんな自分が苛立たしい。


「色々話したいところだけど、もう夜も遅いし今日は寝た方がいいわね。ネリーは明日も学院でしょうし」

「そうね……そうさせてもらうわ」


 疲労感は隠せなかったのか、気遣わしげな母の言葉に逆らうことなく、早々に自室に入った。ツィーリエは客間だが、獣人の彼女であれば隣室の物音くらいは聞き取れるだろう。部屋を抜け出せば、すぐに感付かれてしまうはずだ。


「……………………」


 魔石灯を点けて、ひとまず服を脱ぎ捨てる。が、ディーンのことを想うと粗雑には扱えず、きちんと畳んだ。そして下着姿のまま寝台に倒れ込み、大きく溜息を零す。

 色々ありすぎて緊張状態が続いていたせいか、横になると一気に脱力してしまった。反動で何も考えられず、しばらく呆然と壁の染みを眺めることしかできない。


「……っ、うぅ……くぅ」


 ふと涙が溢れ出てきた。

 一度決壊してしまうと止めようがなく、せめて声を押し殺すことしかできない。端から見たら馬鹿みたいに顔を歪めて、かつてないほど泣き続けてしまう。まともな思考などできず、ただ辛くて苦しくて悲しかった。

 弟の安否だとか、《麻薬王》の思惑だとか、ウィスティリアへの憎悪だとか、今後に対する不安だとか、それらよりも何よりも、ヘルマンに裏切られたという現実が心を圧迫している。十年来の付き合いで心底から信じていたし、現状で唯一頼りにできる味方だと思っていただけに、絶望感に呑まれそうになる。


「セリオ……ヒセラ……」


 二人に会いたかった。

 弟を抱きしめ、ヒセラに抱きしめて欲しかった。

 しかし、後者は既にこの世におらず、前者もネリーア次第で命が危うい。


「…………もう、いいのかな」


 ウィスティリアには啖呵を切ったが、これ以上は何もしない方がいいのかもしれない。ひとしきり泣いて冷静になったのか、それとも弱気になったのかはともかくとして、一人落ち着いて考えてみると、諦めるのが現実的に思えた。

 ネリーアがディーンとの結婚を諦めさえすれば、セリオは助かるのだ。ただでさえ弟には苦労を掛けてきたというのに、この上更に弟の命を危険に晒してまで自らの幸福を追求しようなど、あまりに身勝手ではないのか。現状ではまともな打開策もなく、下手な行動はセリオの死に繋がるとなれば、もう流れに身を任せるのが無難なのではないか。

 そうして、ツィーリエのような大人になる。流されて、諦めて、他人の言いなりになるだけの人生を送っていく。おそらく今回の件でウィスティリアの言葉に従えば、あの性悪女はネリーアを屈服させられたと思い、今後も何かと従わせようとしてくるだろう。まさしくツィーリエのようなニンリスイスト家の走狗にさせられ、いつまでも激流の中に囚われることとなる。

 そう思うと、凄まじい抵抗感を覚えた。

 そんな人生は絶対に御免だと思った。


「流されてたまるか」


 自分とツィーリエに対して決然と呟き、寝台から立ち上がる。動きやすそうな私服を着て、肩掛けの鞄に魔石や財布など必要な物を入れていく。既に真夜中で、普段なら熟睡している時間だが、眠気は全くなかった。

 敢えて音に注意せず鎧戸を開けて、窓の前に数秒ほど佇立してから部屋の明かりを消す。貴族街より光量の少ない通りを見回してみるも、怪しい人影などは見当たらなかった。しかし、どこかに潜んで今も監視しているはずだ。


「ネリーア様、失礼します」


 事前に扉を小突くことなく、突然ツィーリエが入室してきた。

 しかし予期していたことなので驚き惑うことはなく、仕返しとばかりにネリーアも問答無用で中級魔法を無詠唱で同時行使しながら動き出す。今のネリーアにとって、同時行使は中級までが精一杯だ。

 〈幻墜ルー・ムァフ〉により平衡感覚を乱した状態で〈霊引ルゥ・ラトア〉を一瞬だけ全力行使すれば、よほど魔法力が高くない限り、あるいは相当の手練れでない限りは前のめりに転倒する。ツィーリエも例に漏れなかったが、さすがは魔女の護衛というべきか、凡人であれば無様に倒れ込むところを床に両手を付いてみせた。

 それでも予想の範疇だ。むしろ動きを限定するための一手なので、目的は達成されている。倒れた瞬間にはツィーリエの至近にまで迫っていたネリーアは相手の頭を押さえ付けるように左手で掴んで、適性属性の特級魔法を放った。


「――っ」


 一瞬、びくりとツィーリエの身体が跳ねた。かと思えば、ぐったりと全身が脱力し、動かなくなる。

 〈霊衝圧ルゥソ・クイン〉は魔法士殺しの異名を持つが、無論のこと非魔法士に対しても十二分に有効的な魔法だ。彼我の魔法力差が大きければ大きいほど威力が増すため、魔力のない女性相手であれば、一撃見舞うだけで、一瞬で確実に意識を落とせる。

 間違いなく、ツィーリエは昼頃まで起きないだろう。


「…………弱い」


 ツィーリエを引っ張って、何とか寝台の上に寝かせたところで、思わず呟きを零してしまった。

 予想では僅かなりとも反応されるはずだったのだ。だからこそ、念のためにと右手には短剣を握っていた。頭部に手を当てたところで、魔法を放つ前にその手を捻り上げられるくらいはされるだろうと思っていたし、そもそも倒れず前転して体勢を立て直そうとしても不思議ではなかった。いくら不意打ちだったとしても、ツィーリエであればその程度の反応はできたはずだ。

 にもかかわらず、実にあっさりとしていた。

 予想以上にネリーア自身が強すぎたのか、ツィーリエが弱すぎたのか……あるいは戦闘を避けるために敢えて無抵抗にやられたのか。


「考えても仕方ないわね」


 軽く頭を振って、机に向かった。軽く一筆したためた紙を持って居間に行き、卓に置いておく。母が起きる前に学院へと出発し、しかしツィーリエは体調不良で寝かせてある……といった内容の書き置きだ。

 ひとまず明日の昼頃までに戻ってくれば、起きたツィーリエに対処することは可能だろう。

 念のため、母が起きていないことを確認した後、部屋に戻った。鞄を肩に提げると、窓枠に足を掛ける。そして虚空に身を乗り出し、無詠唱で〈反重之理メト・ティラグア〉を行使する。宙に浮いた状態で外から鎧戸を閉めて、そそくさと降下して通りの端に降り立った。


「…………」


 軽く深呼吸をして、歩き出した。なるべく急ぎ足で、こそこそしている風を装って、人気のない路地に入っていく。

 護衛に対して魔法を放ち、気絶させ、単身で真夜中に無断外出をする。明らかに規則を無視した行いだ。露見すれば確実に厳罰が下る。もう後戻りはできない以上、ウィスティリアを破滅させるだけの証拠を集めて、セリオを無事に救出して、自らの正当性を証明しない限り、ディーンとの結婚も叶わなくなるだろう。

 ここからは背水の構えで、気を引き締めて行動する。

 

「出てきてください。私を尾行していることは分かっています」


 しばらく歩いたところで立ち止まり、背後に言葉を投げた。すると、曲がり角の向こうから、二人の男が姿を現わす。どちらも獣人だ。薄暗い路地には他に人気はなく、街の喧騒もどこか遠い。日常から大きく足を踏み出しかけている己を強く実感してしまう。


「弟の件でお話があります」

「それは俺たちが誰だか分かってて言ってるのか?」


 取り合ってくれるかどうかは賭けだったが、乗ってきた。

 獣人の男二人組は警戒感も露わに、十リーギスほどの距離を保っている。一人は四、五十代ほどの年配で、もう一人は十代後半ほどと年若い。前者からは荒くれ者特有の物騒な雰囲気がそこはかとなく伝わってきて、芯の通った落ち着き様も見て取れる。以前、セリオに会いに行った酒場で見掛けた弟の友人たちのような未熟さはなく、ただのチンピラにはない冷静な佇まいだ。

 対して、もう一人の若い方はどうにも緊張感が隠せておらず、妙に浮き足立った様子だ。体格は悪くないが、その割に上背が低く、丸っこい耳も相まって男らしい迫力には乏しい。中途半端に生え揃った髭のせいで、早く一人前になろうと背伸びする少年のような未熟さが見て取れた。


「もちろんです。《武隷衆》の方々ですよね」


 先ほど、わざわざ窓の前で姿を見せ、一人で通りに降り立ったのは、誘い出すためだ。こんな夜中にセリオの姉が一人で出掛けるなど、実家を見張っている連中にとっては見過ごせない事態のはずだった。


「……あんたは優等生と聞いてたんだがな、ネリーアさん。俺たちみたいなのに関わること、護衛の人は許してくれないんじゃないのか?」

「護衛は無力化してきました。私も優等生を自認してはいますが、弟の安全のためなら多少の無茶はします。護衛の件を疑われるのであれば、上にいる翼人のお仲間にでも確認させに行かせてはいかがです? 窓は開いているので、どうぞ」


 獣人の男二人はちらりと顔を見合わせている。

 翼人の仲間については当てずっぽうだ。尾行は地上と上空から同時に行うのが基本だろうから言ってみたが、強ち間違ってはいまい。

 その証拠に、中年の方の獣人男が短く指笛を吹いた。上にいる翼人を呼び出すためだろう。


「……………………」


 十秒ほど経っても、誰も来ない。

 まさか別の合図だったのだろうか……とネリーアが少し不安に思って身構えていると、相対している男は再び指笛を鳴らす。今度は少し大きく響いた。


「残念だけど、お仲間の翼人さんは来ないよー」


 緊張感漂う沈黙の最中に、突如として暢気な声が割って入った。獣人の男二人は身構えながら背後を振り返るが、若い方はへっぴり腰だ。ネリーアも声の方を見遣ると、先ほど男たちが現れた曲がり角から、人影が歩み出てきていた。


「何者だ、俺たちの仲間はどうした」

「まあまあ、そんな身構えなくて大丈夫だから。眠らせただけで怪我とかはないからさ」


 まるで日常会話でもするような、この場に不相応な女の声音には緊張感の欠片もない。だからこそ、どことなく懐かしい響きに感じられて、否応なく意識が向いてしまう。


「あたしはそこの弟大好きな魔女っ子の護衛だよ」


 薄闇の中を油断と隙しか見出せないような堂々たる動きで歩きながら、無礼にも人を指差すその姿。三年前からあまり変化のない顔形と髪型は見覚えがありすぎて、あまりに非現実的な光景を前に思考が停止してしまう。


「だからまあ、如何にも尾行してますって感じのやくざもんに、うちの子の頭上とられてちゃ対処せざるを得なかったっていう護衛の事情、分かってくれるよね?」

「見え透いた嘘だな。そこのお嬢さんの護衛を俺たちは知っている。お前は誰だ」

「んー、まあ、そりゃあたしは元が付くけど。でも気持ち的には今も護衛ってことで」


 彼女は決して怒りを露わにしない人だった。内心では怒髪天を衝く勢いで激怒していたとしても、表向きは笑みを浮かべてみせる。曰く、怒りに呑まれる奴は三流らしい。

 今もまた笑みを浮かべており、しかしそこには抑制された怒りも敵意もない。むしろ友好的な雰囲気で、丸くこの場を収めようとする意思しか感じられない。そう見抜けてしまうほどに、それはどう見てもヒセラだった。


「止まれ、それ以上近付くな」


 ネリーアが呆然と立ち尽くしていると、中年男の方が腰元の短剣を抜いた。若い方も続けて拳を構えるが、やはり腰が引けており、構え方も不格好だ。彼らは背中合わせになり、後者はネリーアの方を向いて、眼光鋭く睨んでくる。


「あらら、挟み撃ちするつもりなんてないんだけどなぁ」


 ヒセラらしき何者かは困ったように頭を掻いているが、獣人特有の獣めいた耳は凛々しく立ったままだ。焦茶色の髪は肩の辺りでざっくばらんに切り揃えられ、綺麗な緑の瞳を縁取る睫毛は長く、双眸がぱっちりとして見える。首から下と同様に、無駄な贅肉のない顔はすらりと美しい顎の輪郭を際立たせていた。端整な相貌は大人の女らしい美麗さよりも少女らしい可愛らしさの方が色濃く、見た目は十代後半ほどと若々しい。

 やはりヒセラにしか見えない。

 幻惑魔法の一種かと思い、ネリーアが自らに〈魔解衝ク・ルディス〉を行使しようとした直前、突如として人影が降ってきた。


「つもりはなくても、向こうさんにしてみりゃ挟み撃ちとしか思えないっての」


 聞き飽きたほど聞き慣れた声、見飽きたほど見慣れた背中はヘルマンだった。ネリーアと獣人二人組の間に降り立った彼は両腕に翼人の男を抱えている。


「とりあえずお仲間さんはお返しするぜ。〈誘眠撃タス・ピリィ〉で――幻惑魔法で眠ってるだけなんで、強くぶっ叩けば起きるから安心してくれ。他に怪我とかはない」


 ヘルマンはずんずんと躊躇いなく前進し、腕に抱えた男を押し付けるように引き渡している。相手の若い獣人は訝しみながらも受け取っていた。

 他方、どう見てもヒセラな獣人女は突如として走り出し、壁を足場に三角飛びの要領で男たちを軽々と飛び越えて、ネリーアの手前にまでやって来た。

 近くで見てもヒセラそのもので、未だに戸惑いが抜けきらず、どう対処すればいいのか分からない。呆けて棒立ちの状態で、穴が空くほど凝視していたこともあり、いきなりの抱擁に反応できなかった。


「……え、あ……ちょっ!?」


 すぐに引き離すべきだと理性が警告してきたが、全身から伝わる柔らかな温もりは振り払えなかった。あまりにも懐かしい感触に頭が真っ白になった。


「ま、お互い仕事ってことで、恨みっこなしでいこうぜ」


 ヘルマンが砕けた調子で言いながら、軽く両手を上げてみせている。獣人の男たちは顔を見合わせた後、何も言うことなく、そそくさと立ち去っていく。ネリーアとしてはその状況を看過すべきではないのに、してしまった。

 漠然とした予感があったのだ。

 もう大丈夫だと。

 もう何も心配ないのだと。


「話の分かる奴で良かった。こじれると面倒だからな」


 振り返って肩を竦めるその様子はいつも通りのヘルマンだった。馬車で見せ付けられた裏切り者の酷薄さはなく、向けられる眼差しには親愛の情が確かに感じられる。


「これは……つまり、どういうこと……?」


 直感的に安心してはいたが、理性は未だに警戒を続けていた。ひとまず自分と二人に〈魔解衝ク・ルディス〉を使ってみるも、やはりなんの変化もない。

 ヘルマンはすぐ側まで歩み寄ってくると、気まずさと申し訳のなさが入り混じった微苦笑を向けてきた。


「あー、悪かったな、お嬢。まあ色々と複雑な事情ってのがあって、その辺のことは後でちゃんと説明する。とりあえずおれは裏切ってないし、ヒセラは本物だから、そこは信じてくれ」

「…………ヒセラ、死んでなかったの?」

「こいつはちょっと表舞台から消えなきゃならなかったもんで、死んだことにする必要があったんだ」


 喜ぶべきなのか、訝しむべきなのか。

 心は既に飽和状態で、喜怒哀楽いかなる感情も上手く働かない。だから口から出るのは情より理に依った言葉だった。


「でも、死体が……」

「遺体安置所にあったのはよく似た奴だな。腐敗した死体なんて、体格とか髪色とか服が同じなら、偽装すんのはそう難しくない」


 それはそうかもしれない。

 当時、ヒセラの死が受け入れられず、あの死体はヒセラによく似ただけの別人だと思い込もうとしたこともあった。しかし、現実にヒセラが生きて側にいないのだから、ヒセラは死んだのだと結論付けたのだ。ヒセラが自分に黙ってどこか遠くに行ったという可能性の方が、裏切られたようで悲しかった。


「ほら、お前もそろそろ離れろ」

「……やだ」

「やだじゃないだろ、こんなとこでちんたらしてる余裕はないはずだ。さっさと移動するぞ」


 依然として抱き付いてきたままのヒセラをヘルマンが強引に引き離した。それでようやく、彼女を間近から、真正面から見ることができた。


「ごめんね、ネリー」


 今にも泣き出しそうな顔で、真っ直ぐに見つめられた。あれから三年経つというのに、ヒセラの容貌はあまり変わっていない。二十代半ばとは思えない若々しさだ。だからこそ、彼女の陽気な性格と護衛らしからぬ勤務態度もあって、いつの間にか実の姉同然に慕うようになっていた。


「本当に、ヒセラなの……?」

「信じられない?」

「だって……こんな急に……急に死んだと思ったら、急に現れて……」


 この現実を受け入れたいが、心のどこかで拒絶していた。ここで安直に信じて、また裏切られるようなことになったら、もう耐えられない。警戒を解いて心を許し、無防備な状態となったところで、ヘルマンに裏切られたと思ったときのあの絶望感に再び見舞われてしまえば、もう持ち直せなくなる。

 それが怖かった。

 ヘルマンは裏切っておらず、ヒセラは本物で、二人とも味方だ。既に九割方はそう思っているが、最後の一線だけは守ろうとする自分がいた。信じたいのに信じられない恐怖心が胸を締め付け、思わずこの場から逃げ出したくなるような痛苦を与えてくる。


「じゃ、こういうのはどう?」


 ヒセラは感極まったような顔に子供っぽい笑みをぎこちなく浮かべた。そして両手を肩に置いてくると、耳元に顔を寄せて囁かれる。


「ネリーが十一歳のとき、お漏らししたよね。凄い怖い夢見たとか言い訳して、絶対誰にも言っちゃダメだって、何度もあたしに念押ししてきたことあったでしょ」


 それは思い出したくもない過去で、ヒセラしか知らないはずの失態だ。


「な、なんで……っ、うぅ……こんなときに、そんなこと言うのよぉ……」


 もう我慢できなかった。

 ヒセラの身体に手を回し、強く抱きしめて、心を手放した。先ほど自室で泣いたばかりだというのに、次から次へと涙が溢れ出てきて止まらない。

 もしこれが敵の罠だとしたら、完敗という他ない。このヒセラが偽物で、本物が死ぬ前に拷問して情報を引き出し、それを偽物が口にしているだけかもしれない。こちらの心を折るための悪辣極まる策謀で、まんまとそれに嵌まっているだけかもしれない。

 どこまでも頑迷な理性はそう懸念するが、全身で感じられる温もりがこれは紛う事なき本物のヒセラだと告げてくる。そして今のネリーアには、それを疑い抜くだけの気力など、もうなかった。


「ごめんね、本当にごめん……あたしがいなくならなきゃいけなかったのは、全部あたしのせいで、ネリーは何も悪くないのに、辛い思いさせてごめんね」

「ぅぐ……うぅ、ひせらぁ……」

「あー、急いで移動した方がいいんだが……ま、しょうがないか」


 急いでいるヘルマンには申し訳ないが、今はどうしようもなかった。この感情の激流には抗えそうもない。ろくに足腰に力が入らず、半ばヒセラに縋り付いているような状態だ。

 しばしの間、他に人気のない薄暗く薄汚い路地で抱き合い、懐かしさと安心感に浸っていく。涙が枯れるまで泣き尽くし、やがて落ち着いたところで、ゆっくりと身体を離した。


「……もう、勝手にいなくなっちゃ、ダメだからね」

「うん。今後ずっとネリーと一緒にいることは難しいかもだけど、次はちゃんと話すよ」


 照れ隠しに呟いたとはいえ、返答はあまり優しい言葉ではなかった。ヒセラは申し訳なさそうに微苦笑しているので、何か事情があるのだろうが……。

 その辺の話は後ほどしっかりと聞き出すとして、今はとりあえず、もう一人の護衛にも告げておかねばならなかった。


「ヘルさん」

「お、おう」

「もう二度と、こんなことしないで。何かあるならちゃんと話して。私のために黙ってたのかもしれないけど、最悪の気分だったわ。あなたに裏切られたと思わされたときの私がどんな気持ちだったか分かる?」


 睨むように見つめると、ヘルマンは小さく首を竦めて目を伏せた。


「あー……すまん。本当に、悪かったよ。だが、あのときはツィーリエの手前ああ言うしかなかったというか……」

「ヘルさん」

「……うん、まあ……おれが悪かったです。もう二度としないと約束します」


 大の男が背中を丸めて頭を下げてきたので、ひとまずは許しておく。


「それで、何か急いでいるようだったけ――どひゃっ!?」


 気持ちを入れ替えて、目下の状況について話そうとした矢先、突然両胸が両手に覆われた。脇の下から伸びた腕は無遠慮に膨らみを揉みしだいてきて、あまりに意味不明な事態に理解が追い付かない。


「んー、もうすっかりあたしより大きいじゃーん」

「な、ななな何してるのヒセラやめてっ」

「まあまあ、久しぶりなんだし、成長を確かめさせてよー。こんな立派になっちゃってるってことはさ、婚約者君に揉んでもらったのかー? えぇおいどうなんだこのこのー?」


 背後のヒセラは耳元で楽しげに言いながら、両手を動かしてくる。


「ちょっ……ん、うぅ……ほ、ほんとにやめてぇっ」


 如何なる妙技か、振りほどこうにも振りほどけない。さすがに魔法を使うのは躊躇われるので、ヘルマンに助けてもらおうと、羞恥心を堪えながら見上げる。


「ヘ、ヘルさん助け……て……?」


 冷水を浴びせられたような気分になった。

 ヘルマンは仕方なさげに苦笑しているのかと思えば、とても悲しそうな顔をしているのだ。こちらを見る眼差しは痛ましげで、どこか悔しげでもあって、やるせない思いが伝わってくる。


「ふへへー、ここかー? ここがええのんかぁー?」


 ヒセラに胸を揉まれていることも忘れて呆然と見つめていると、ふとヘルマンが我に返ったように小さく息を呑んだ。すると瞬く間に儚げな情念は鳴りを潜めて、仕方ないとでも言うような苦笑を見せた。


「……ったく、おいヒセラ、今はさっさと移動するぞ。お嬢を堪能すんのは後にしろ。後でなら幾らでも何でもさせてやるから」

「え、ちょ、なんでヘルさんがそんな――」

「だからお前、諦めるんじゃないぞ」


 ヘルマンのその声はいつになく真剣だった。怒気すら籠もっており、冗談を許さない凄味が感じられるほどだ。

 両胸をまさぐる手の動きがぴたりと止まり、耳元で力なく嘆息する音がした。背後に密着してきていた身体がすっと離れていったので、振り返ってみると、ヒセラは戯けたように笑っていた。


「あはは、バレてた?」

「どう見ても焦りすぎだ。今のうちにって魂胆が透けて見えるわ。いいかお前、ほんとに諦めるなよ。こんだけちんたらしててもまだ現れないってことは希望はある。学院の敷地内に入っちまえば当面は安全のはずだ」

「あの、ヘルさん? ヒセラ? 何の話? ヒセラ何か危ないの?」


 二人の間には深刻そうな空気が漂っていた。

 その不穏さは不安を掻き立て、ネリーアの浮かれていた気持ちを否応なく鎮めた。


「お嬢、今はとにかく学院に向かうぞ。事情は腰を落ち着けてから全部話す」


 そもそも、なぜヒセラは今この状況で現れたのか。わざわざ表向き死んだことにせねばならなかった上に、これまでもネリーアの前に姿を現わさなかったのには、それ相応の理由があったはずだ。それを蔑ろにして、何か無理を通したのだとしたら、ヘルマンが焦る気持ちも分かる。

 今は一刻も早く、ヘルマンの言うとおり移動した方がいいのだろう。


「行くぞ。おれは上空から周囲を警戒する。お嬢とヒセラは一緒に、なるべく人通りの多い道を通って行くんだ。少し遠回りになるが、歓楽街がいい。さすがにあそこで襲っては来ないだろうからな。もし襲ってくる奴がいたら、手加減する必要はないから、殺す気で魔法を放って応戦していい。だが戦うよりは逃げるのが優先だ」

「殺す気でって……本当に殺しちゃったらどうするの? というか、やっぱりヒセラ誰かに狙われてるの?」

「こいつはちょっと危ない連中から命を狙われててな。相手は非道な奴だから、最悪殺しても構わん。人前でやり合ってもお嬢が罪に問われないように揉み消せるから大丈夫だ」

「え、あ、ちょっとヘルさん!?」


 ヘルマンはこれ以上の問答を許さないとでも言うように、そそくさと飛び上がっていった。それほど急いでいるのであれば、今は疑問を押し込めて移動すべきだろう。

 ヒセラを見ると、申し訳なさそうに苦笑していた。実際、普段は凛々しく立った耳が少し垂れ気味だ。


「ごめんね、ネリー。あたしのせいで迷惑掛けちゃって」

「もう謝らないで。次謝ったら怒るよ」

「……えへへ、ネリーは優しいなぁ」


 苦笑を淡い微笑みに変えて、珍しく恥ずかしげに、顔を隠すように額を掻いている。ヒセラのその手を取って、ネリーアは走り出した。

 相変わらずヒセラの手は硬くて、同じ女とは思えないほど逞しい。そのくせ男にはない柔らかさも確かにあって、握っていると無性に安心できる手だ。


「〈疾風之理メト・リィエ〉使うから、ちゃんとついてきてね」

「誰に言ってるのかなー? 三年前も今も、まだまだあたしの方が速い自信あるよ?」

「じゃあ、今度また勝負してね」


 先ほどまで、この薄暗い路地に一人でいるのは怖かった。自分を奮い立たせていないと挫けそうで、気を張っていないとすぐ弱気になりそうだった。

 しかし、今は先ほどまでの重苦しさが嘘のように、胸が軽い。状況は決して良くないが、ヒセラと一緒だと思うと、どうにかできると思える。握った手から伝わる温もりが元気を分けてくれているようで、必要以上に意気が充溢していくのを自覚できる。

 窮地に追い込まれるのはもうここまでで、ここからは反撃して挽回して、最後には弟とヒセラと一緒に笑える。そう楽観的な思考ができるほど、今まさに疾走しているように、前向きな気持ちになれた。




 ■   ■   ■




 ヘルマンの指示通り、歓楽街を通っていくことにした。学院までだと少し遠回りすることにはなるし、ネリーアはあまり好まない場所だが、土地勘がない訳ではない。

 歓楽街と一口に言っても様々で、主に内向きと外向きの二種に大別できる。グローリーは人の出入りの激しい大都市で、日々何万人もの商人や旅行者が訪れては去っていく。そうした都市外からの来訪者向けの歓楽街と、グローリーに居を構える住民向けの歓楽街で住み分けがされていることが多い。前者は都市の外縁部だったり宿泊施設や観光施設の多い街区近くに位置しており、後者は民家の密集した居住区近くに根を張っている。グローリーは広大なので、あちこちに幾つも歓楽街ができており、自然と住み分けがなされたのだろう。

 今まさに駆け抜けている煌びやかな街並みは他の街区より派手派手しく賑々しいものの、その喧噪にはある種の秩序立った日常感が漂っている。道行く人々も近所を出歩くような堂々とした落ち着き様が見て取れる。要は常連客が多いため、店側も客側も顔馴染みが多く、みんな熟れているのだ。だから地元民のネリーアにとっても、ここの歓楽街は比較的馴染み深く、以前に家族全員で賭場に遊びに行ったこともある。

 地元という感覚が強く、ヒセラの事情もまだよく分かっていないため、襲ってくるかもしれないと警告されても、いまいち警戒しきれない。

 それでも気を引き締めて、賑やかな夜の活気溢れる通りを疾走していると、不意に凄まじい落下感に見舞われた。両足を忙しなく動かしている最中でのことだったので、足がもつれて転びかける。


「ネリー!?」


 咄嗟にヒセラが抱き留めるように支えてくれて、事なきを得る。だが、安堵の吐息を零す余裕はなかった。


「ヒセラ、〈幻墜ルー・ムァフ〉を使われた……それもかなりの威力」


 〈幻墜ルー・ムァフ〉は学院の授業で何度も行使し、行使された。ネリーアの魔法力は教師陣を除けば学院内で最も高く、魔女全体の中でも上位の方だと聞いた。魔法力の高さは魔法抵抗力の高さに直結するため、生半可な魔法士の〈幻墜ルー・ムァフ〉では先ほどのような強い落下感など覚えない。


「ちょっと目立つかもだけど、ネリーは〈魔球壁フィス・アルア〉使いながら走って。行使者が誰か探して対処するより、今は急いで移動し続けた方がいい」

「うん。でもあの威力だと行使されればヒセラでもまともに走れないわ。私が抱えていくから」

「……んじゃま、成長を確かめさせてもらおうかな」


 ヒセラは少し躊躇った様子こそ覗かせたが、反論せず頷いた。


「胸触ったりしたら落っことすからね」


 と冗談交じりに注意しつつ、ヒセラをお姫様のように両腕で抱きかかえようとした、そのとき。


「氾濫する大河は暴虐の化身、裾野の貧民は希う」


 背後からクラード語の静かな声が聞こえてきて、反射的に振り返った。

 三リーギスほど離れたところに褐色肌の青年が佇むように立ち、じっと見つめてきている。のんびりと弛緩した雰囲気の人通りにあって、水底めいた静謐な気配にもかかわらず、不思議と周囲に溶け込んでいた。


「冷徹なる氷王よ、どうか其の慈悲深き至技にて災禍を鎮めたまえ」


 詠唱なのだろうが、聞いたことがない。

 ……いや、読んだことはあるはずだ。学院の図書館で、覇級以上の魔法について解説された本に、載っていた詠唱だ。こんな往来の只中で耳にするはずのない大規模な無差別攻撃魔法の詠唱だ。


「ネリーは先に行って!」

「ヒセラッ!?」


 目にも止まらぬ素早さで、それこそ獣の如く、ヒセラが真っ直ぐに青年へと襲い掛かる。そうと気付いたときには既に、短剣が両手それぞれに握られている。


「然れど王の吐息は閑殺の氷霧、万物悉く不動と化して沈黙す」


 十代後半から二十代前半ほどと思しき青年に、動じた素振りは微塵もなかった。冷めた声音で詠唱を続けながら、青い手袋をした右手を前に向ける。それだけで間近に迫っていたヒセラの身体が一直線に吹き飛んだ。当然の帰結として、ネリーアに激突し、諸共に転倒する。

 あまりに急なことに反応できなかったが、今のは明らかに〈霊斥ルゥ・ルペリ〉だ。身体を起こしながら、混乱しかける頭で何とかそう考えた。


「ネリーッ、あいつに魔法を! 何でもいいから確実に殺せるの全力でぶっ放して!」


 周囲の通行人が何事かと足を止める中、切羽詰まった声でヒセラが叫ぶ。これまで一度として聞いたことのない、危機感も露わな鋭い声だった。おかげで、ネリーアは戸惑いや躊躇いを無視できた。

 確実に殺せる魔法の中でも、周囲に被害が出ず、防御や回避する暇も与えず、攻撃そのものすら不可視で速度も抜群――〈風血爪ルゲ・ディラ〉を選んだ。これなら確実に一瞬で八つ裂きにできるはずだ。


「其は災厄にして虐殺なり、虐殺にして済世なり、意志無き愚民に悩乱すること能わず」


 なぜか、練り上げていた魔力が形にならなかった。初の殺人を前に取り乱しているのかと思い、今度は冷静さを意識して行使を試みるが、またしても途中で魔力が乱れて魔法にならない。

 すぐに見切りを付け、特級魔法より簡単な上級魔法――〈超重圧ティラグ・ルフ〉の魔力を練り上げる。〈超重圧ティラグ・ルフ〉は相手の魔法力次第では確実に殺せないが、周囲に被害を出さないという点では〈風血爪ルゲ・ディラ〉以上に優秀だ。

 しかし、やはり途中で魔力が乱れ、魔法が現象しない。


「どうしたのネリー早くっ」

「静謐にして不変の氷界に憂虞はなく、斯くして安寧たる永世は成るだろう」

 

 焦るヒセラとは対照的に、青年は落ち着いていた。こちらに右の手のひらを向けたまま、静かな眼差しで見つめてくる。金色の瞳には敵意も殺意も感じられないが、詠唱は不穏に過ぎる。というより、もう詠唱が終わる。そうなれば、この周囲一帯にいる人々は死ぬだろう。

 だから虐殺を止めるためにも、魔法を行使せねばならないというのに、またしても不発に終わった。どうしても魔力が乱れてしまう……いや、乱されているのか?


「ネリーは防御をっ」


 ヒセラが再び青年へと突撃していく。今度はヘルマンも一緒で、青年の後方斜め上空から一直線に向かっている。右手には曲刀が握られ、左手からは今まさに〈火矢ロ・アフィ〉が射出された。


「ヒセラッ、ヘルさん!?」


 二人がそれぞれ血飛沫を撒き散らしながらあらぬ方へと吹き飛び、〈火矢ロ・アフィ〉は蝋燭の火が吹き消されるように掻き消えた。青年の黒髪は強風に煽られて乱れており、周囲の人々は青年を中心とした右回りの強風に立っていられず、倒れ込んでいる。ネリーアもその場に膝を突いてしまった。

 〈颱風盾ド・フーイ〉だ。同じ上級の〈魔球壁フィス・アルア〉の風魔法版とでも言うべき防御魔法だが、〈魔球壁フィス・アルア〉と異なり、攻防一体の盾だ。行使者の周囲を球状に覆う渦巻く風は〈風刃ラス・ドィウ〉のような切れ味を誇る。触れれば無数の切傷を刻まれつつ、風の渦巻く方向に流されて吹き飛ぶ。下手にその風圧に抗えば全身をずたぼろに切り裂かれるため、対抗手段がないのであれば素直に飛ばされるのが賢明だ。


「故に見境うことなく冷襲せよ、極致の凍氷にて覆い尽くせ、氷王は民の願いを叶えたもう」


 青年の詠唱が終わった。もしこれまでの詠唱がはったりでなければ、間もなく戦級魔法が放たれる。戦級魔法の詠唱中に、上級魔法すら無詠唱で同時行使する卓越した魔法士の魔法力による圧倒的な暴威が、周囲一帯を無差別に襲うことになる。

 先ほどから攻撃魔法が現象しないが、防御魔法であれば可能かもしれない。攻撃して敵を倒して被害を最小限に抑えるか、あるいは周囲の人々を見捨てて自分たちだけ助かるか。どちらも賭けになるが、後者の方が成功率は未だしも高いと思われる。


「〈霊引ルゥ・ラトア〉!」


 もはや迷っている余裕はなく、ネリーアは聖神に祈るように、念のため魔法名を口しながら闇属性中級魔法を同時行使した。吹き飛ばされつつも両翼で体勢を立て直しかけていたヘルマン、そして中空で小器用に身体を捻って今まさに壁面に着地してみせたヒセラ。血塗れの二人を一秒足らずで側まで引っ張ってくることに成功した――その瞬間。


「――〈凍気拡散フューディ・ズーリ〉」


 青年は最後まで冷静そのものの穏やかな声で、魔法名を口にした。と同時に、青年を中心に薄白い靄のような凍気が爆発するかのように全方位へと拡散する。ネリーアは戦級魔法に一拍遅れて、〈従炎之理メト・ミィレ〉を全力で行使する。刺すような冷たさが僅かに肌を舐めた直後、魔法はきちんと現象してくれた。


「――――――――」


 蹲るように跪き、纏った炎を傍らのヘルマンとヒセラを覆うように広げて、前方から吹き付ける圧倒的な凍気の波を耐え凌ぐ。

 一方向のみの防御魔法〈炎盾ド・レイフ〉では凍気を防ぎきれないが、火魔法には全周攻撃の魔法はあっても全周防御の魔法はない。実質的に〈従炎之理メト・ミィレ〉がその代替となっているが、元より攻撃系魔法に偏った火魔法による防御性能はあまり高くないとされている。それを差し引いても、対魔法防御に秀でた〈魔球壁フィス・アルア〉より、水魔法の攻撃に対しては反属性である火魔法の方が効果的だ。それは無属性適性者であっても変わらない。

 覇級以上の魔法は範囲か威力、いずれかに特化していることが多い。〈凍気拡散フューディ・ズーリ〉は範囲に特化した魔法で、純粋な威力だけでは特級魔法の〈極凍結ズーリ・ルフ〉に劣る。上級魔法の〈霜縛ドイ・スロト〉程度だ。だから彼我の魔法力に隔絶した開きがなければ、上級魔法で防げないことはない。


「ったく、何がどうなってやがる!?」

「分かんないって! あたし狙いのはずなのになんか戦級魔法ぶっ放してんだもん! 訳分かんない!」


 ヘルマンとヒセラの戸惑いはネリーアとしても同感だったが、しかし今は喋っている余裕がなかった。全力全開で〈従炎之理メト・ミィレ〉に魔力を注ぎ込んでいるのに、ひんやりと寒いのだ。全周を炎で覆っているにもかかわらず、吐く息が白い。

 更に数秒後には身震いするほどの冷気を感じ、このままでは押し切られる……と思ったところで、体感温度の低下が止まった。瞬く間に上昇して暑苦しさを感じかけたので、炎を収束させて背後に待機させ、立ち上がった。


「――――――――」


 目に見える範囲全てのものが静止していた。先ほどまでは少々暑いくらいだったのに、今は涼しいを通り越して肌寒い。歩いていた通行人たちの多くが奇妙な姿勢で倒れ込み、霜に覆われて固まっている。立ったまま凍死している者もいて、そこだけ見れば時が止まったかのようだ。

 空気中の水分すら凍り付き、きらきらと微細な氷片が舞っている。それらは損傷を受けた様子のない色とりどりの魔石灯によって、煌びやかな極彩色の燐光となり、妖精族が登場する童話めいた幻想的な雰囲気を演出している。

 ネリーアはつい先ほどからの急激な展開に未だ理解が追い付かず、暢気に綺麗だなと思ってしまう自分がいた。


「お前、なんでこんなことした!? 街中でこんな大魔法使うとか頭おかしいのかっ、何人が死んだと思ってやがる!?」

「これは試しです」


 身構えたヘルマンの叱声に、五リーギスほど前方に佇立する青年が穏やかに応じた。やはり敵意の類いは感じられず、むしろ丁寧な物腰が伝わってくる。


「我が主はネリーア殿の器を試すようワタシに命じられた。そして期待通り、貴女は見事に己が大器を証明された。貴女であれば、我が主の綴る物語の主人公たる資格がある」

「……主人公?」


 つい数時間前に聞いたような単語だった。

 それに改めて見ると、青い襟巻きをした褐色肌の青年にはどことなく見覚えがある。グローライサ劇場の個室前にいたシェアンという女性に似ているのだ。血縁者かもしれない。

 だとすれば、青年の言う『我が主』とやらが誰なのかは想像に易い。


「そっちの目的はそれだけ? だったらもう帰ってもらっていい?」

「いいえ。ワタシは裏切り者の首を持ち帰らねばなりません」


 ヒセラの問いに答えたのだから、青年が彼女を見据えるのは当然のことだ。そう現実逃避しようとしたが、ネリーアの頭脳は現状を否応なく理解しかけていた。


「加えて、此度の一件における真相をネリーア殿に説明する役を頂戴しております。貴女が先の一撃からヒセラを守り抜けた時点で、貴女は主人公としてだけでなく、我が主の敵役たるに相応しい魔女となられた。貴女には全てを知った上で、選択してもらわねばなりません」

「お嬢、野郎に付き合う必要はない。こうなっちまった以上、ここはヒセラに任せておれたちは学院へ向かうぞ。ヒセラ、いいな?」

「嫌だとは言えないよ。ま、因果応報の自業自得ってやつだしね」

「……ワタシとしたことが、失念しておりました」


 ふと青年がヘルマンに視線を転じ、嘆かわしげに呟いた。


「貴方の役目はもう終わっております、ヘルマン。貴方は先の一幕で退場せねばならなかった。申し訳ありませんが、我が主の筋書きには従って頂きます」

「なんだと?」


 ヘルマンが怪訝そうな声を発した直後。

 一瞬だった。

 あまりに唐突すぎて、何が起こったのか分からなかった。

 何の前触れもなく、ヘルマンが崩れ落ちたのだ。四肢と頭と両翼が胴体から一斉に分断されて、バラバラになって地面に落ちた。次から次へと流れ出す赤にヘルマンだったものが浸っていき、本体に遅れて数枚の羽がひらひらと舞い落ちて、血に沈んでいく。


「貴様……っ」


 隠し切れぬ憤怒を孕んだヒセラの声がどこか遠く聞こえた。

 夢でも見ているのかと思った。

 いや、夢のはずだ。こんな急に、目の前で、ヘルマンが無残に死ぬはずがない。十年も一緒にいて、兄も同然、父も同然の頼りになる護衛なのだ。裏切られたかと思ったけど、やっぱりそんなことなくて、これから一緒にセリオを助けるべく頑張るのだ。そしてディーンと結婚したら私兵として雇って、いずれ生まれる子供の遊び相手になってもらったりして……ずっと一緒に生きていくのだ。


「これは不味いですね。我が主の筋書きではヘルマンを殺されて怒り狂ったネリーア殿をワタシが軽くあしらい、一度己が弱さを痛感させるはずだったのですが……手順が狂ったせいですね。この失態は不味い、我が主の筋書きは絶対でなければならないというのに……」

「ネリー、しっかりして」

「――――――――」

「ネリー立って! 〈魔球壁フィス・アルア〉使って、全力でここから逃げるの! マクレイア家に行って伯爵に事情を説明すれば、後はあの人が何とかしてくれるからっ」


 側でヒセラが何か言っているが、理解できなかった。ただその場に呆然とへたり込んで、真っ赤なヘルマンを見つめることしかできない。彼は薄目を開けたまま、顔の右半分を血の海に沈めて、ぴくりとも動かない。


「ネリー!」


 頬を音高く叩かれ、我に返った。

 ヒセラは一筋の涙を流しながら、両手でこちらの頬を包み込むように触れて、じっと間近から見つめてくる。


「ヘルマンは死んだの。あたしも死ぬ。あの男にはネリーもあたしも敵わない。だからネリーは一人でここからマクレイア家に行くの。いい?」

「ひとり、で……?」

「しっかりしなさい! よく聞いて、絶対にあたしらの復讐とか考えちゃダメだからね。というより、連中を相手にしちゃいけない。もう今後は絶対に《麻薬王》に――《麻天律》に関わっちゃいけない。約束して」


 ヒセラの言葉は理解できる。

 できるが、受け入れたくなかった。

 ヘルマンが死んだことも、ヒセラがこれから死ぬらしいことも、復讐を禁じられることも、許容できるはずがない。現実の何もかもが受け入れられない。


「……嫌よ……嫌よ絶対に嫌! ヘルさんを殺したあいつは絶対に許さない!」


 ヒセラの手を振り払って、足腰に力を込めて立ち上がった。

 褐色肌の青年は安堵したような微笑を覗かせ、一人勝手に小さく頷いている。


「あぁ、良かった。ヒセラのおかげですね。感謝します。礼として、苦しむことなく一瞬で首を刈り取らせて頂きます。殺し方は特に指示されておりませんので」

「死ねっ!」


 ヘルマンを殺した魔法と同じ〈風血爪ルゲ・ディラ〉を放つ。放ったつもりだったが、先ほどのように途中で魔力が乱れ、魔法が完成しない。敵が右手を向けてきているので、魔法的な何かをされたのかもしれない。

 無詠唱が上手くいかないなら、詠唱してみるより他にない。


「白刃より疾く奔れ、我が威――」

「無駄ですよ。魔力を知覚できない貴女に、ワタシは殺せない」


 丁寧な言葉とは裏腹に、もたらされる現実は容赦がなかった。

 途中で魔力が乱れるのは敵の仕業で間違いないが、対処法が分からない。感情の波が思考を圧迫し、どうすれば魔法が使えるのか、まともに考えることもできない。


「ああああぁぁぁぁぁぁっ!」 


 肩掛け鞄から短剣を取り出し、がむしゃらに突進した。愚行だと承知の上で尚、激情には抗えなかった。

 万が一、刃が届くかもしれない……という都合の良い未来は当然のように実現しなかった。青年の青い手袋が刃を掴んで止めており、そのままくるりと捻られると、あっさり短剣を奪われてしまう。


「ワタシは貴女の敵ではありますが、今ここで貴女がワタシを殺すことを我が主は許容されない。逆に、もう今はワタシも貴女を殺せない。この展開となった場合、死ぬのはヒセラだけです」


 これだけの殺意を向けても、青年は涼しい顔で穏やかに告げてくる。

 構わずネリーアは魔力を練り上げるが、もはや何度目ともしれない結果に終わり、更には〈霊斥ルゥ・ルペリ〉で否応なく後退させられた。


「ヒセラ、我が主の命により、殺す前に尋ねます。何か言い残すこと、もしくは我が主へとお伝えしたいことはありますか?」

「……こんなクソみたいな脚本しか書けないなんて、外道ここに極まったわね」

「我が主にとって、それは褒め言葉ですね」


 青年と対峙しているヒセラに抗戦する素振りはない。脱力したように突っ立って、歩み寄る青年を見据えている。


「ヒセラッ」


 三十リーギス以上離されて、今まさに駆け寄りながら呼び掛けると、ヒセラはのんびりとした動きで振り向いた。彼女とは先ほど再会したばかりなのに、早くも懐かしさなど感じられず、ヘルマン同様に側にいて当たり前の見慣れた姿だとしか思えない。

 ネリーアにとって、ヘルマンとヒセラと一緒にいることこそが正しい状態なのだ。これまでの三年間がおかしかったのだ。


「ネリー、ごめんね」

「嫌っ、こんなときまで謝らな――」


 青年の手がヒセラの頭頂部あたりの髪を掴み、首元に手を当てた。と思ったら、ヒセラの身体がくずおれた。首から上はつい今し方までと同じ高さにあるのに、首から下だけは霜の張った路面に横たわっている。綺麗な断面からはぴゅーぴゅーと小さく血が噴き出し、赤い染みを広げていく。


「さて、ネリーア殿はまだ事の真相を知らないはず。そうですよね?」

「――――――――」

「貴女がヒセラと再会する前から、ずっと見ていました。こちらの二人は学院に到着してから説明されようとしていましたよね。ここは代わりにワタシがお話しましょう。敵に真実を告げられるという展開の方が劇として映えるのだと、我が主は仰っていました」


 もう、走れなかった。歩けもしない。立っていることすらできず、その場に跪いてしまう。ヘルマンとヒセラの遺体を見ていられなかった。街中で突然の虐殺を成したのに平然と話をしている男が理解できなかった。恐ろしくて、訳が分からなくて、頭を抱えて蹲る。

 魔法が使えれば、まだ抗おうと思えただろう。しかし、あの青年に対しては魔法を放てない。魔力を乱されて、魔法の使えないただの小娘にさせられてしまう。


「じきに人が来るでしょうし、簡潔にお話しします。質問は受け付けませんので、悪しからず」


 敵が何か言っているが、聞きたくなかった。

 もうこれ以上、日常を壊さないでほしかった。自分から非日常の世界に踏み込んでおいて、我が侭なのは百も承知だったが、せめて今だけは勘弁してほしかった。これ以上は本当に心が保たない。

 しかし、敵は構わず喋り出し、ネリーアは耳を塞ぐ余力もないまま、ただ呆然と穏やかな声を聞かされていった。

 

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