間話 『冴えた間者の育ちかた 三』
寮生には門限がある。
晩堂課の鐘が鳴るまでに戻らなければ、罰則を科されるのだ。しかし無論、事前に申請さえすれば門限を越えた時刻まで外出したり、外泊することは可能だ。
ネリーアは念のため外泊手続きをして、翌日は自宅から学院に通うことにしておいた。あとはヘルマンへの手紙を正門の守衛に預けておくことも忘れない。ヘルマンはちょうど晩堂課の鐘が鳴る頃にやってきて、状況報告をしたためた手紙を守衛に託して去っていくそうなので、こちらの状況も報せておく必要がある。
本当はヘルマンと一緒に行きたかったが、手紙にある約束の時間を蔑ろにするのは得策ではないだろう。ヘルマンであれば手紙を読んですぐにグローライサ劇場まで駆け付けてきてくれるはずだ。もし劇場内で何かあったとき、外に信頼できる人がいると思えば、少し勇気も湧いてくる。
「ではネリーア様、行きましょうか」
「はい」
門前に手配された馬車に乗って、学院を出発した。
現在はすっかり日も暮れて、双月と星々が眩く夜空を彩っている。しかし、グローリーの夜は空より地上の方が圧倒的に明るい。
グローリーでは公共施設と各種店舗、あとは一定以上の大きさの家屋には、魔石灯の設置と夜間の点灯が義務付けられている。貴族街では例外なく邸宅と呼べる大きさの家屋しか存在しないため、他の街区と比べて光量が遥かに多く、夜道だろうと見通しが悪くなることは決してない。
各建物の前には高さ五リーギスほどの鉄柱が最低でも一本は立っており、その頂部で光魔石が輝いている。大抵の場合それは白だが、貴族街では精緻な装飾の施された色付き硝子で覆われていたりして、赤や青、緑に黄といった彩り豊かな光となって、星々より主張激しく輝いている。色とりどりの明かりで満ちた煌びやかな街並みは幻想的で、たまに見る分には申し分のない美しさなのだが、見慣れてしまうとけばけばしい感じが否めなくなる。
グローリーが不夜の都と呼ばれる所以たるこの制度は《覇王》による世界帝国時代の名残で、かつての栄華を再現するかのように受け継がれているらしい。
「ネリーア様、最後に確認を」
車窓から漫然と色彩豊かな景観を眺めていると、ツィーリエが声を掛けてきた。
「既に劇場周辺には一個中隊分の兵たちが潜伏して配置に付いています。相手から敵意や害意を感じない限り、ネリーア様自らが相手を無力化したり捕縛したりするような真似はお控えください」
「分かっています。危険なことはしません」
しっかりと頷きを返すと、ツィーリエは自らの隣に座る男性にちらりと目を向けた。三十代半ばほどの人間だ。全体的に細身ながら、無駄なく引き締まった戦士の身体付きなのが服越しでも見て取れる。
「それと彼についてですが、入場口で同行を断られるかもしれません。その場合は了承せず、なんとか交渉してみてください。ネリーア様が単身で劇場内に入るしかないのであれば、作戦は中止します」
「はい」
本当は一人でも行きたいところだが、仕方ない。
その後もツィーリエの念押しするような確認は続き、屋根付きどころか硝子窓付きの立派な馬車に揺られていく。
話が一区切り付いたところで、目的地に到着した。
「では、くれぐれもお気を付けて」
「ツィーリエさんたちも」
ローマンという名の護衛の男性と共に馬車を降り、ツィーリエと別れる。彼女もこの後、劇場の近くに身を潜めるそうだ。
ネリーアは去りゆく馬車を見送らず、グローライサ劇場の豪壮とした偉容を見上げた。巨大な石造りの外観は圧倒的な存在感があり、しかし随所に施された精緻な意匠の彫刻細工が無骨さを感じさせない。
気を引き締めると、入場口へと続く横に広い階段を慎重に上がり始めた。
高級劇場では衣装に制限が設けられており、庶民が着るような平服では入場を断られる。だから着慣れていない礼服で来るしかなく、靴も歩きやすさや耐久性を度外視した見栄え重視の代物なので、踵が高くて歩きづらい。礼服は身頃とスカートが一続きとなったワンピース型だ。裾は長いが広いため、いざとなれば靴を脱ぎ捨てれば走れる。手鞄には魔石や短剣を忍ばせてあるが、所詮は気休め程度の装備だ。
しかし、この服も靴も十五歳の誕生日にディーンが贈ってくれた物なので、傷付けたり紛失したりはしたくない。できれば荒事は避けたいところだ。
「あの、ネリーアという者ですが……」
入場口に立つ三人の男のうちの一人に声を掛けると、優雅な一礼が返ってきた。彼ら以外に人は見当たらず、周辺は静かなものだ。
ツィーリエによると、現在の時刻だと既に劇が始まっているようなので、粗方の客は入場済みのはずだ。劇が始まる前に行くことも考えたが、指定された時刻を守らないと相手が現れないかもしれないので、下手な真似は避けるのが無難だとツィーリエに言われていた。
「はい、ネリーア様。お待ちしておりました。ご案内いたします。どうぞこちらへ」
本人か否か確認される手間もなく、あっさりと入場口を抜けて場内に入れた。ローマンも変わらず後ろを付いてきており、彼だけ引き留められるようなこともない。
案内人の男を追って、赤い絨毯の敷かれた広間を抜け、階段を上がる。相変わらず縦にも横にも広い造りで、内装も洗練されていた。以前にディーンに連れられて訪れたことがなければ、場の雰囲気に気圧されて萎縮していただろう。
二階に出ると、緩やかな弧を描く廊下を歩いていく。幾つもの扉があり、その横には一人か二人の男女が直立不動で控えている。個室客の連れて来た護衛なのだろう。
「こちらになります」
案内人が足を止めた扉の脇にも、護衛らしき者が一人いた。
妙な女性だった。
見たところ年頃は十代後半から二十代前半ほどで、もちろん人間だ。浅黒い肌とは対照的な妖しい光を湛えた金色の瞳が印象的で、真っ黒い髪と同色の礼服は男物だが、艶美な顔立ちから女性だと分かる。背は高めで、全体的にすらりとした身体付きだ。両手は赤い革の手袋で覆われ、首元にはなぜか赤い襟巻を着けている。今は防寒着が必要な季節ではない。むしろ最近は暑い方だ。
「では、わたくしはこれで」
案内人が一礼して去っていった。
残されたネリーアはひとまず襟巻の女性に声を掛けてみる。
「えっと、手紙を頂いたネリーアですけど……」
「お前は中へ。お前はオレとここで待て」
女性はネリーアとローマンを交互に視線で指し示しながら、鋭く引き締まった声を発した。
「自分も一緒にネリーア様と中へは――」
「無理だ。ここで待て。待てないというならば追い出す」
「……分かりました。ネリーア様、お気を付けて」
ローマンは逡巡する素振りを見せたが、結局は了承した。扉一枚隔てた程度であれば、ぎりぎり許容範囲だったのかもしれない。
ネリーアは軽く深呼吸をすると、まず扉を軽く小突いてみた。少し待ってみても返事がないので、「失礼します」と言いながら開扉する。入室してすぐ予想外の光景に見舞われたが、なんとか落ち着いて後ろ手に扉を閉めた。
個室はおおよそ二リーギス四方ほどの広さしかなく、横に五人も並んで座れば少し窮屈なくらいにこじんまりとしている。備え付けの魔石灯は明かりを発していないが、舞台を照らし上げる光が届いているため、薄暗くとも視界は利く。
だから、椅子の背もたれから盛大にはみ出している翼は嫌でも目に付いた。
「待っていたよ、ネリーア君。隣にどうぞ」
二つ並んだ椅子の右側に腰掛けた何者かが、振り返りもせずにそう言った。髪が長いので女性かと思ったが、声には男性らしい低さがあった。かといって野太くはなく、どちらかといえば繊細さの窺える細めの声だ。
椅子の向こうからは役者の声が響いてくるが、今のネリーアにそれを聞いている余裕はなく、緊張しながら椅子を回り込んだ。しかし着席はせず、まずは翼人の男を見据えて挨拶をする。
「初めまして、ネリーアと申します。あなたがヒセラの墓前にあった手紙の差出人ということで、よろしいのでしょうか」
「如何にも。私が君を呼び出した張本人だとも。礼儀正しいお嬢さん」
第一印象は優男だった。
男性にしては長く美しい灰色の髪、垂れ気味の双眸は温厚そうで、その奥の黒い瞳からは揺るぎない自信と余裕が見て取れる。すらりとした鼻梁や顎の輪郭は女性的な美しさがあり、肌も白く綺麗で男性的とは言い難い。微笑みを湛えた美貌は悠揚と落ち着いている。
年頃は判然とせず、風貌の若々しさは二十代半ばから後半ほどに見えるが、物腰や雰囲気は壮年のそれだ。二十代にしては若さ特有の覇気や活気が感じられない。
「そう改まって名乗られたからには、こちらも名乗り返さないと無礼だね。私はヒルヒーノ・エクスティアという。この名に聞き覚えはあるかな?」
「……いえ。もしかして以前お会いしたことが?」
「いいや、初対面だとも」
ヒルヒーノは薄く笑んだまま、左手に持った硝子の瀟洒な杯に口を付けた。椅子と椅子の間には小さな卓があり、そこには杯と酒瓶が置かれ、つまみとしてか乾酪が皿に盛られてもいる。
「挨拶が済んだところで、ネリーア君も腰を落ち着けたまえ。君の心中は察するけど、焦慮と緊張は思考を鈍らせるからね。君には冷静に話を聞いて、判断を下してもらいたいんだ」
「……では、失礼します」
ひとまずは安全そうだったので、椅子に座った。
もし相手があまり話の通じなさそうな粗忽者、あるいは如何にもな極悪人だったら、すぐ逃げ出せるように立って話をするつもりでいた。
しかし、このヒルヒーノという男からは敵意も害意も感じない。冷静に話し合えるのであればそれに越したことはないし、あまり相手の機嫌を損ねるのも不味いだろう。
「飲みたければ飲んでもいいけど、君はやめておいた方がいいかな。酒精でまともに思考できなくなられると困るからね」
「それは……はい。ところで、セリオのことなんですけど……」
「まあ、そう焦らずに。急がば回れという。まずは私の話に付き合ってくれるかな」
ヒルヒーノは隣席に視線を向けることなく、光差す舞台を見つめていた。ネリーアも何となくそちらを見遣ると、何やら数人の男女が大袈裟な身振り手振りを交えて何事かを言っている。
この個室席は舞台から見て左斜め四十五度ほどにあたり、非常に観覧し易い。個室席は四階まであるが、ここは二階ということもあって俯瞰しすぎることもなく、声も良く届く。
「ネリーア君は演劇は好きかな?」
緊張感の欠片もない声だった。視線を隣に戻すと、年齢不詳の翼人男からは日常会話そのものといった態しか見て取れない。
「……どちらかといえば、好きです」
「私も好きだよ、大好きだ。好きが高じて脚本を書くくらいだよ。今この劇も私の脚本だ。こうして役者たちが自分の考えた脚本に沿って動いていき、物語が進んでいく様を見るのは実に楽しい。心が満たされるよ」
本当に嬉しそうな微笑みを浮かべて、気分良さげに、しかし上品な仕草で杯を呷る。残り僅かだった赤い液体が底を突くと、ヒルヒーノは杯を卓に置いた。
「でもね、私は自分が劇に出演するのは嫌いなんだ。私はあくまでも脚本家であって、役者ではないからね。とはいえ、私もまだまだ未熟者だから、脚本や演出、共演者が一流であれば、他人の思惑通りに役を演じるのもやぶさかではない。学ぶには実際に経験するのが一番だからね」
「…………」
「さて、ネリーア君。君は今回の脚本、どう見るかな?」
優男らしい傷一つない綺麗な手で酒瓶を取り、卓上の杯に注ぎながら、やはり世間話のような口振りでさらりと尋ねてきた。
このときネリーアは『なるほど文筆家に見えなくもないけどどうにも胡散臭い』などとヒルヒーノという男を見極めようとしていたこともあり、反応するのが少し遅れた。
「それは、セリオのことでしょうか?」
「そう、セリオ君を切っ掛けに動き出した君の物語。まだ途中だけど、これは出来の良い物語だと思うかい?」
「……………………」
どう答えるべきなのか、判断に窮した。
そんなネリーアの逡巡を気に掛けた様子もなく、ヒルヒーノは再び酒杯を手に、今度はその美貌を真っ直ぐ隣に向けて流暢に語り始める。
「私はね、思わない。この脚本は三流以下の出来だよ。なにせこのままだと、主人公の君は全てを失ってしまう。それはそれで続編として復讐譚が期待できるけど、おそらく今回の脚本家は続編を作る気がない。すると、君の物語は一切の意義もなく後味の悪い結末を迎え、何らの教訓を残すこともなく、理不尽な不幸話として閉幕してしまう」
「……つまり、あなたには私の物語の全容が見えていて、脚本家が誰かも分かっていると?」
こちらが冷静で余裕すらあることを見せ付けるためにも、相手の語り口に合わせて応じてみた。
すると、ヒルヒーノは意味深な微笑みを見せ、顔を正面に戻した。そして酒杯を口元に近付けて、しかし艶めいた唇を付けることなく、香りを楽しむように目を伏せる。
「別段、私はそんな駄作を否定する気はないんだ。どんな物語にも見所の一つくらいはあるからね。何より同じ脚本家として、作品の存在そのものは認めてあげたいし、創作の自由を尊重したい。だから興味深い物語を見掛けたとしても、私はそれに干渉せず、ただ端から観覧するだけに留めるようにしている」
役者顔負けの流れるような長広舌に淀みはなく、緩急すらついているものだから、思わず聞き惚れてしまう程度には耳に心地良い声だった。しかし、だからこそ妙に芝居がかった台詞に聞こえた。美貌の奥に真意は見えず、優雅な所作には中身がない。捉え所があるようでなく、胡散臭いというより底知れない。
そんな謎の男はそっと目蓋を上げ、酒を一口含むと、どこか倦怠感のある吐息を零した。
「しかし、それは趣味人としての考えだ。仕事が絡んでしまうと、あまり悠長なことは言えなくなってしまう。私にも立場と責任というものがあるし、不利益は看過できないんだ」
「脚本家が副業だとすると、本業は何をしておられるのです?」
「フフ、それはいずれ分かるさ」
戯けたような微笑を覗かせ、ついと小首を傾げて見せている。如何にも悠揚とした余裕ある態度だが、それが不自然に見えないだけの風格あるいは雰囲気を身に纏っている。
余程の大物か、一流の役者か、そうでなければ詐欺師か。
いずれにせよ只者ではない。
ネリーアは密かに気を引き締め直した。
「とにかく、このまま君の物語が進行してしまうと、私は少し無駄な仕事をするはめになる。それだけなら君に肩入れする必要もないのだけど、今回の脚本家は私に断りもなく劇に巻き込んだ。こんな三流以下のつまらない駄作に、私の名を出した」
脳を最大限に働かせた。
今回の一件に関わる人物で、おそらくそれなりの大物で、ネリーアと知己ではない者など、そう多くはないはずだ。絞り込むのは難しくなく、鎌を掛けるついでに確認してみる。
「……あなたほどの大物であれば、名前だけの出演くらい日常茶飯の事なのでは?」
「そうだね、その通りだ。あまりに日常的すぎて、私によほどの不利益がない限り、普段は見過ごすことにしている。対処しきれないしね」
ヒルヒーノは呆れたように肩を竦めている。
「今回はそれほどの不利益を被ることになると?」
「いいや、さほど。だから今回も無視しようと思ったのだけど……少し気が変わってね」
「その理由を聞かせていただいても?」
「君だよ、ネリーア君」
指差す代わりか、酒杯を掲げるように向けてきながら見つめられた。
予想外の答えと底知れぬ瞳の黒さに気圧されて、上手く反応できない。
「私は君に興味が湧いたんだ。農奴出身にもかかわらず、魔女の中でも頭一つ抜きん出た才覚、更にはその美貌。これまでさぞ苦労してきただろうことは想像に易い」
同情するようなしみじみとした口振りは、やはり芝居がかっている。今まさに舞台上から聞こえてくる声ほどではないにしろ、本音か建前かを見分けるのは難しい。
「しかし、君は捻くれなかった。驕り高ぶらず、人を思いやれる優しさを持って、真っ直ぐに育った。まさに主人公として相応しい才媛だ」
「……つまり何が言いたいんですか?」
「私はネリーア君を題材とした劇作を書きたい。だから、こうして多少の危険を冒してまで、わざわざ私自らが出向いて、話をすることにした」
優男の微笑みは柔らかで、眼差しは穏やかだ。
これまで様々な人から好意や悪意を向けられてきたが、創作の対象として興味を持たれたのは初めてのことで、どう対応すべきか判じかねる。もしこれがネリーアを困惑させ、場の主導権を握るための会話運びだとすれば、なかなかの切れ者だろう。
何も考えず本心からの発言であれば、ただの浮世離れした変人だ。
あるいは、その両方かもしれない。
「ネリーア君には今回の件について、私の知っていることを教えよう。代わりに、君を主人公とした劇作を書く許可を頂きたい。それと君の半生を君の口から直接聞かせてもらいたいね」
「…………名前とかを変えて、私だと特定されないようにしてくれるのであれば……許可します」
「無論、そのつもりだ。では交渉成立ということでいいのかな?」
それでセリオの居所や黒幕を教えてもらえるのであれば、安いものだろう。
「まあ、その程度で良ければ……はい。大丈夫です」
「良し、決まりだね。では早速色々と質問させてもらっていいかな?」
「あ、あの、その前にセリオのことを教えてください」
嬉しそうに頷くヒルヒーノに水を差すような発言は少し勇気が必要だった。一見すると人当たりの良さそうな男だし、穏やかな態度で和やかな会話をして見せているが、ネリーアは依然として緊張を緩められないでいた。
もしこの男が推測通りかそれに近い者であれば、相当な危険人物だ。今回の一件について色々知っているのも得心がいく。しかし、本当のところはネリーアには分からない。翼人の彼がこの個室席にいるのは、裏世界に通じたその権力故などではなく、単に脚本家という劇の関係者だから特別にこっそりと入れているだけなのかもしれない。
相手の正体が判然としないというのは、存外に恐ろしいものだった。自分のどういった言動が危機的状況を招くことになるのか分からず、長居すればするだけ過失を犯す可能性が上がっていく。長話はまた日を改めさせてもらって、今日は早々に退散したかった。
「私が先に話してしまうと、君はすぐに行ってしまうかもしれないからね。もう今後は君と直接会える機会があるか分からないし、まずは私から質問させてほしい」
見透かされている。
場の主導権を完全に握られてしまっている。
「なに、そう時間は取らせないよ」
薄闇の中に浮かぶ微笑みは人当たりが良さそうで、その美貌もあって気を許してしまいそうになる。自制心でそれを抑えることはできても、相手の言葉は拒絶できなかった。
「……分かりました」
それから色々と尋ねられた。
家族仲の程度、好きな食べ物、学院での日々、得手不得手な魔法、今回の件におけるネリーアの見解、ヒセラを含む護衛たちに対する感情、将来の夢や目標、ディーンとの関係、自らを苛めてきた性悪令嬢たちに対する感情など、様々だ。
嘘を吐く危険は冒さず、どれも可能な限り正直に答えていった。
「ふむ、なるほど……だいたい分かったよ。やはり興味深いね、主人公として申し分ない」
ヒルヒーノは満足げに頷いている。
主人公などと言われて恥ずかしい……と思う余裕はなかった。どれだけの時間、問答に付き合わされていたのかは判然としないが、体感では結構長かった気がする。焦燥感を誤魔化すのもそろそろ限界だった。
「では今度は私の番です。セリオのことを、黒幕のことを教えてくださいっ」
「まあまあ、落ち着きたまえ。ここからは君にとって大事な話になる。まずは心を鎮めて、何を聞いても冷静な思考力を保てるようにした方がいい」
純粋にこちらのことを思っての言葉なのかもしれないが、焦らされているように感じてしまう。そんな自分は少し冷静ではないと気付き、ネリーアは軽く深呼吸をした。
卓上の杯を手に取り、無詠唱化した初級水魔法で水を注ぎ、ゆっくりと飲み干す。その間、ヒルヒーノは舞台を眺めながら乾酪を摘まんでいた。
「大丈夫です。お願いします」
右隣の席に顔を向けて告げると、ヒルヒーノは酒杯を卓に置いた。そして手を組み足を組み、背もたれにゆったりと身体を預けた格好で口火を切る。
「さて、ではまず黒幕について話そうか。その方がセリオ君の話も円滑に進むからね」
小首を傾げるようにして向けられた美貌に、薄らと微苦笑が滲み出た。
「ネリーア君。実際に話してみて確信したのだけど、君は人が良すぎるね」
「は……?」
「頭は回る。度胸もある。しかし、純粋だ。まだ世間を知らない。人の醜さを知らない。知ってはいるつもりでも、君は心の底では人の善性を信じている。それは決して恥じることではないし、良縁に恵まれて育ったことの証左だから、むしろ誇っていい」
黒幕について話すのではなかったのか。
そう声を上げようとしたネリーアの機先を制するように、ヒルヒーノは「でもね」と嘆息交じりの声で意味深な眼差しを寄越した。
「それとは別に、この世には君の理解を超えた悪人が存在することは、確と認めないといけない。人の善性を信じるのも結構だけど、同じくらい人の悪性を疑わないと、自分の身を守ることもできなくなるからね」
「……どういうことですか?」
「ふむ、まだ分からないかな。では、そうだね……」
優男は思案げに軽く目を伏せると、真摯さすら覗く丁寧な口振りでゆっくりと語り出した。
「君は今回の三流劇を《四統会》の陰謀だと思っているようだけど、それは違う。《四統会》は目眩ましであり、演出に過ぎない。《武隷衆》と《麻天律》という因縁ある組織を登場させることで、さも彼らが関係しているように見せかけて、黒幕はその大きな影に隠れたんだ」
「……………………」
「なぜ隠れる必要があったのか。それは当然、恨まれたくないからだね。報復を恐れて、身を潜めた。では、黒幕は誰を恐れていたのかな?」
少し混乱して、咄嗟に答えが出て来なかった。
一旦、話を整理して考えてみる。
《四統会》を舞台装置として用い、黒幕が隠れるための演出とした。そうしなければ、黒幕は自らの正体を感付かれ、報復されてしまうから。これは裏を返すと、目眩ましがなければ黒幕が誰か容易に察しが付くということでもある。
今回の一件で鍵となるのはセリオだ。今回の一件はセリオを起点として、セリオを中心に人々が動いている。観客にはそう見えるように演出されている。
しかし、先ほどヒルヒーノはネリーアを指して主人公と称した。もしこの三流劇が自分を中心に回っているとしたら、どうだろうか。《四統会》という深く大きな闇を取り除き、登場人物の事情や役所を単純化して考えてみれば、黒幕が真に恐れているのが誰なのかは容易に察しが付く。
「…………私……私たち?」
「そう、ネリーア君とその婚約者、ひいてはベルアスク伯爵だ。黒幕は《四統会》を利用したことで彼らから恨まれる危険もあるように思えるけど、セリオ君さえ確保しておけば情報が漏れることはなく、《四統会》に存在を察知されることもない。きっとそうと考えたのだろう。つまり、黒幕は本来《四統会》から目を付けられるような立場になく、しかしネリーア君には疑われる余地のある人物ということになる」
自分が疑いの目を向ける人物といえば、普段から自分に対して悪意を向けてきていた者たちくらいだ。自分の人生を物語として捉えたとき、敵役として配される者などすぐに思い付く。それも一人二人どころではなく、結構な数が。
「ま、まさか……?」
愕然とした。
今回の一件が全てネリーアの身から出た錆だとすれば、セリオは完全に巻き添えだ。最近少し荒れていたとしても、良からぬ者たちと連んでいたとしても、ここまでの大事にはならなかっただろう。
「結論を出す前に、まずは黒幕の目的を考えてみるべきだね。なぜ黒幕は今回の事件を起こしたのかな? それによって得られる黒幕の利益とは何かな?」
「……婚約破棄される無様な私を見ていい気になれる」
「それだけかな? 君の無様を笑うためだけに、相応の労力を割いてまで今回のような大事を起こすだろうか?」
否、ここまでの事態がただの嫌がらせであるはずがない。
《四統会》という大掛かりな舞台装置を持ち出してまで演出してきたのだ。それは目眩ましであると同時に、強力な攻撃でもある。伯爵家が介入せざるを得ないほどの被害をもたらし、主人公を破滅に導く卑劣な策だ。
この陰湿さ、この周到さ、規模こそ違えど身に覚えがありすぎる。
「…………私に代わってディーンの婚約者になる」
「そうだね、それくらいの利益がないと割に合わない。つまり黒幕の目的は、君を陥れると同時に次期ベルアスク伯となる少年と結婚することにある」
いくら性根の腐った悪女だろうと、人の弟に手を出すとは思っていなかった。なにせネリーアと彼女らとの関係は学院内に終始していた。家族は無関係で、面識すらないはずだ。
にもかかわらず、巻き込んできた。
これまでの応酬からネリーア自身への直接攻撃では効果が見込めないと賢しらに学習でもしたのか、間接的に攻めてきた。よりにもよって家族に害を為してきた。
「さて、学院も卒業間近な時期に婚約がご破算となれば、ディーン君は誰と結ばれることになるのかな? もう君のときのように、まともな恋愛をする余裕は精神的にも時間的にもない。となれば、両親が適当な家柄の娘を選んで決めるだろうね」
容疑者は多い。
同級生か、既に卒業した上級生か、はたまた下級生か、その判別は難しい。下級生から嫌がらせを受けたことはないが、それは学院内の先輩後輩という立場があったからこそだ。学院外での事件となれば、容疑者には十分なり得る。
とはいえ、伯爵家の嫡男と結婚できるだけの家格、あるいは優秀な魔法力を有する令嬢となれば、ある程度の数にまで候補を絞り込むことは容易だ。
「ネリーア君、これを」
思索に耽っていると、封筒を差し出された。墓前にあった物と瓜二つに見える。
ヒルヒーノは訝しむネリーアを宥めるように柔和な微笑みを浮かべた。
「君と同じ学院で過した経験のある高貴な令嬢たちの中から、家格や魔法力に加えてベルアスク伯爵家との関係性も考慮した上で、婚約者として順当だろう魔女を一人、私なりに選んでみた。もし私と君の推測が一致したならば、高確率でその令嬢が黒幕だろうね」
「……そう、ですか。ありがとうございます」
罠の可能性もあったが、念のため受け取り、手元の鞄に仕舞っておく。
「セリオ君の居所については、もう言うまでもないね。生死のほどは定かではないけど、予期せぬ事態が起きた際の保険にしようと考慮するだけの慎重さが黒幕にあるならば、まだ生きてはいるだろう」
セリオはまだ生きている。
その点に関しては既にさほど心配していない。
貴族という連中は押し並べて自己保身に長けている。今回の一件が終着するまで――ネリーアとディーンが婚約破棄に至るか、あるいは結婚するまで、弟は殺さないだろう。
「今回の件について、他に何か訊きたいことはあるかな?」
ヒルヒーノはそう尋ねてきながら再び酒杯を手にしている。
ここで何もないと答えれば、それで話は終わるだろう。現に隣の優男は一段落ついたとでも言うように、優雅な所作で美しい硝子の杯を傾けている。できればネリーアも一息吐きたかった。
しかし、まだ気を緩めて思考を止めるには早すぎる。
それは向こうも分かっているだろうに、敢えて弛緩した空気を作り、問いを投げてきた。試されているのか、はたまた向こうが切り出せばこちらが疑念を抱くと懸念したのか、その両方か。
「私……私の、護衛……二人共が、裏切っている可能性について、意見を頂けますか?」
思考を言葉として声に出すのは存外に苦行だった。
自分一人が頭の中で考えるだけならば妄想も同然だが、それを他者に伝えてしまえば真実味を帯びた現実の出来事となってしまいそうで、怖かった。妄想であって欲しいと願う自分の弱さが口を重くしていた。
「うん、さすがは私の見込んだ主人公だ。その冷静さだけでなく、現実から目を背けず向き合おうとする勇敢さ、実に素晴らしい」
待ち構えていたように、嬉しそうに微笑みながら頷かれた。そして逡巡する素振りもなく、ヒルヒーノは続け様に語り出す。
「さて、その可能性を検討するには、かつて君の護衛だったヒセラの死について考えなくてはならないね」
「……はい」
「もし仮に、ヒセラを殺した犯人が今回の三流劇における黒幕と繋がっていた場合、高い確率でツィーリエは間者だと思うよ。ヒセラの後釜として自らの手の者を送り込んだとなれば、彼女を殺す動機にもなる」
確かに、端から見ればその推測は妥当かもしれない。
しかし、実際は少し違うはずだ。
ヒセラは貴族の護衛だろうと伸してしまえる負け知らずだったが故に、少なからぬ恨みを買ってしまっていた。更に模擬戦という形で、ネリーアの代わりに性悪令嬢へと間接的に報復してくれていた。彼女は人格さえまともであれば貴族向けの護衛となっていたほど、戦闘力は高かった。農奴出身の魔女につけられる護衛にしては、強すぎた。
それを目障りに思い、ヒセラを排除した可能性は否めない。さすがの性悪令嬢といえど、そこまでやるはずはないと当時は思っていたが、後釜の件があれば話は別だ。自らの手の者であれば、模擬戦でも八百長ができる。農奴出身の魔女の護衛などに、貴族の護衛は負けないという誇りを取り戻せるし、何よりいざというときは――生意気にも自分と同格以上の貴族と結婚するような事態となったときは、ネリーアを陥れる工作活動に従事させられる。
そんな一石二鳥となる思惑があれば、実行するかもしれない。
それにこの一挙両得な手法、今回の件と似ている。
であれば、黒幕は……。
「そしてヘルマンについてだけど、これは私には判断が難しい。ただ、ヒセラはその人格はともかく、戦闘力の面では非常に優秀な護衛だったらしいね。そんな人が不意を突かれたり、あまつさえ易々と殺されるとは考えにくい」
「でも……親しい者なら不意を突ける。人目のないところに連れ出せる」
「そうだね。同僚のヘルマンであれば、ヒセラを殺すことも難しくはないだろう」
今回の件、そもそもヘルマンが《四統会》について――《武隷衆》と《麻天律》の因縁について説明しなければ、裏社会事情を主軸に思考を進めたりはしなかった。もっと単純に考えて、ネリーア自身を陥れるための策謀だと気付けたかもしれない。
「要するに、二人が揃って私を裏切っている可能性は高いということですか」
「合理的に考えれば、そうなるね」
ヘルマンが裏切っていれば、ツィーリエは高確率で間者だ。逆にヘルマンが裏切っていなければ、ツィーリエが間者である可能性はかなり低くなる。
二人の真偽はヒセラの件の真相次第だが、現段階では二人とも裏切っている可能性の方が高いし、そう考えておかねば今後足をすくわれることになる。
「……あるいは全て、私にそう思わせるあなたの策か」
思わず睨み付けるような鋭い眼差しになってしまうが、構わない。このヒルヒーノ・エクスティアという男はこの程度で気分を害する狭量な小物ではない。むしろ嬉しそうに、楽しそうに、興味深そうに、微笑むはずだ。
その予想は現実のものとなった。
「ほう、と言うと?」
この短時間で、自らの足場ごと周囲の世界が裏返るような衝撃を受けたせいか、一周回って冷静な自分がいた。隣の優男がどういった類いの変わり者かも少し分かってきたほどには、思考に淀みはない。それどころか冴え冴えとしているくらいだ。
「私を疑心暗鬼に陥らせ、自分だけが味方だと思わせることで、あなたの脚本通りに私が動くよう誘導する。それであなたは何某かの利益を得て、更に私を破滅させれば、行き場のなくなった優秀な魔女を自らの組織に迎え入れることができる」
「確かに、今回の件が最初から全て、私の書いた脚本通りではないという証拠はどこにもない。君に助言する私の存在は、君にとって都合が良すぎる。そう言いたいのかい?」
ヒルヒーノは楽しげな声で言いながら、手元の酒杯を小さく揺らし、血色の液体を回している。
「そうですね。あなたのおかげで、私はもう家族以外誰も信じられなくなりました」
「フフ、どういたしまして」
不思議と腹は立たなかった。
むしろ清々しいほどだ。
この場で明らかになった事実、あるいはその可能性は絶望すべきものだというのに、自然と笑みが浮かんでくる。頭ではともかく、心が現実を受け止め切れず、ちぐはぐな反応をしてしまっているのかもしれない。もしくは色々と吹っ切れて、これまでの鬱憤が爆発し、弟を助けるという名目でヒセラの復讐ができる機会の到来を喜んでいるのか。
実際、頭の中ではもはや言語化できぬほど高速で思考が回っている。自分でも止めようがなく、脳が勝手に如何にして敵を倒すか策を練っている。にもかかわらず、そんな自分を他人事のように客観視している自分もいて、もう訳が分からない。
「そろそろ劇が終わるね。この後、ネリーア君はどうするつもりなのかな?」
「あなたを捕縛してみるのも一興かもしれません」
「それはあまりお勧めしないよ。さすがの君もシェアンには敵わない」
シェアンとは廊下で待っているあの赤い襟巻の女性のことだろう。もしヒルヒーノが予想に違わぬ人物であれば、その護衛は相当の腕前のはず。間違いなく魔女で、無詠唱による魔法の同時行使すら可能であっても驚きはない。
「冗談ですよ。ツィーリエさんたちが裏切っている可能性がある以上、ここで私が危険を冒してまで敵に利する行動はとりません。黒幕についてはあなたの言った説が正しいと思いますし」
「冗談を言える余裕があるなら、大丈夫そうだね」
さも安心したと言わんばかりに、妙に優しい眼差しを向けられた。目は口ほどにものを語るらしいが、この男に関しては信用できない。美貌に浮かぶ微笑みからは相も変わらず真意が読めず、思惑が見通せない。
しかし、もはやヒルヒーノはさほど重要ではない。もし彼の脚本通りにこれから自分が動いていくのだとしても、それが真実に基づいた行動の結果であるならば問題ない。悔いなく満足のいく結末を迎えることができるかどうかが肝要だ。
「それで、結局これからどうするつもりなのかな?」
覚悟を新たに席を立つと、問いを投げ掛けられた。ヒルヒーノは舞台に目を遣っており、自らが綴ったらしい物語の終着を見届けようとしている。
「それは……」
方針はあるが、具体案はまだ決めかねていた。
伯爵家に相談するにしても、現状では護衛たちが裏切っている証拠すら何一つない。今はまだ全てネリーアの憶測で、妄想だ。弟を庇う言い訳、あるいは責任転嫁の言い逃れだと受け取られかねない。伯爵家を頼るにしても、彼らに信じてもらえるだけの証拠がいる。
そもそも、既に伯爵家は今回の件を把握しているかもしれない。黒幕の目的を考えれば、貴族社会全体にそれとなく今回の一件を噂として流すはずだ。少なくとも、伯爵家が勘付くのは時間の問題だろう。
まず何よりもセリオを安全無事に救出し、その上でヒセラの復讐を果たしつつ、ネリーア自身も婚約破棄に至らない程度に損害を抑える。となると、やはり黒幕を捕まえる以外に道はない。しかし、相手は貴族だ。確たる証拠あるいは証人を揃えたとしても、公正に裁かれる保証はどこにもない。
「何なら、私が力を貸してあげようか?」
「……そう言われると思ったので、先ほど釘を刺しておいたつもりでしたが」
「フフ、君が私を疑おうと疑うまいと、私は気にしないさ」
小娘の思惑など歯牙にも掛けないようだ。
揺るがぬ余裕を纏い、悠然と腰掛けて劇を観覧するその姿は、なるほど“王”に見えなくもない。
「私の力であれば、まだセリオ君が生きているなら無事に助け出し、下手な脚本を書いた一家を没落させて、君の風評被害なども貴族社会から取り除き、もちろんディーン君との婚約がご破算になることなく、今回の三流劇に幕を下ろすことができるよ。無論、相応の対価は支払ってもらうけどね」
「一応聞かせてください。その対価とは?」
ヒルヒーノは横目に妖しい眼差しを向けてくると、甘く微笑んだ。
「君の人生の半分、といったところかな」
人生の半分で、弟の無事と思い人との結婚、両方を手にすることができる。あまつさえ亡き護衛の仇を討つこともできる。何より対価が半分ということは、もう半分は手元に残るということだ。ヒルヒーノに頼らず、独力で動く危険を冒して全てを失うことになるより、半分だけ失う方が安全確実なのではないか。
甘美な誘惑だった。
だからこそ、邪悪を感じた。
「お気持ちだけ、有り難く頂戴しておきます」
「ふむ……やはり、君は主人公だね。これはいい物語になりそうだよ」
厚意を無碍にされても満足げに頷いている。
白でもなく黒でもない灰色の長髪、同色の翼。しかし瞳は闇のような漆黒で、肌は白く美しい。垂れ目がちな双眸には穏やかさが、浮かぶ微笑みには和やかさが、美貌には女性的な繊細さが窺える。流暢に言葉を繰る濁りのない声は野太さこそないものの、確かに男性的な響きがある。総じて中性的で、白黒付けがたく、灰色そのものだ。
この妖美な中庸さを体現したような男のことは、きっと一生忘れられないだろう。
「この度はありがとうございました。これにて失礼させて頂きます」
「ネリーア君」
深く一礼して踵を返したが、名を呼ぶ声が足を止めた。
「餞別代わりに、一ついいことを教えてあげよう」
あまり聞きたくはなかったが、聞いた方がいいと思う自分もいた。結果、ヒルヒーノに背は向けつつも、首から上だけ振り向いて耳を傾けることになった。
「今回の騒動で被害を受けるのは、ネリーア君の他に誰がいるのかな? 間抜けにも大事な孫に麻薬を売りつけられ、あまつさえ未だに売人を捕えられず、このままでは面目丸つぶれになる哀れな“王”……その人となら、君の交渉力次第で上手く協力し合えるのではないかな?」
楽しげな口振りで、小娘風情になんてことを吹き込むのか……。
もはや呆れて物も言えず、しかし内心ではなるほどと頷きつつ、目礼だけしておいた。
「さようなら、美しくも健気な主人公。またいつか会えるといいね」
もう二度と会いたくない。そもそもこんな裏世界の住人と再会するような人生を送るつもりなど毛頭ない。
強くそう思いながらネリーアは歩き出し、扉を開けて部屋をあとにした。
■ ■ ■
劇が終わる前だからか、廊下は変わらず人気が少なかった。各扉の脇に護衛が立っているくらいで、入室前と変わりない様子だ。
ローマンと共に来た道を引き返していく途中、密談相手の特徴を尋ねられた。ツィーリエの手配した彼らは十中八九、敵の手先だ。正直に答えるのも馬鹿らしいだろうが、虚言を弄するのはやめておく。
「二十代から三十代ほどの翼人でした。灰色の髪と翼、細身で長身の男です」
「翼人ですか……名前は?」
「分かりません。名乗られなかったので」
素知らぬ顔で頭を振った。
これでどう転んでもネリーアの不利益にはならない。
ヒルヒーノであれば、この劇場から安全無事に退散できるだけの手段は確保してあるはずだ。少なくとも、あのシェアンという護衛の女性であれば、雑兵など容易に蹴散らせるだろう。仮にヒルヒーノが捕まったならば、所詮はその程度の男だったというだけの話だ。相手が小物ならば報復を恐れる心配もない。
これが先ほど聞いた話の信憑性を確認する一種の試金石であることはヒルヒーノも分かっているはずなので、彼が本当に大物であったとしてもネリーアを恨んだりはしないだろう。むしろ楽しげに微笑むはずだ。
ヒルヒーノが捕まるにしろ、捕まらないにしろ、ネリーアは何の損害もなくヒルヒーノ・エクスティアという男を推し量れる。更に上手くいけば、ローマンたち敵の手先は痛手を受ける。敵の戦力が減るに越したことはない。
「ネリーア様」
何事もなく劇場から外に出ると、階段下に護衛の女性が待ち構えていた。
「お待たせしました」
「そろそろ劇も終わりでしょうから、この場に長居は危険です。何があったかは車中でお聞きします。こちらへ」
ツィーリエはローマンと何やら目配せをして、そそくさと歩き出す。ネリーアは特に反対することなく、大人しく同行した。
劇場の隣は駐車場となっていて、何台もの馬車が並んでいる。馬たちは水を飲んだり飼葉を食べたり、はたまた御者の男に毛を梳かれたりしていた。少なくとも三十台以上の車両、六十頭以上の馬がいる。中には馬代わりに調教された魔物もいて、そういう変わり種は少し離れたところで悠々と寛いでいた。
「お嬢」
ツィーリエが馬車を呼び出すべく駐車場の管理人に声を掛けていると、不意に頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
「何やってんだ、まったく……大人しくしててくれって言っただろうに」
すぐ隣に降り立ったヘルマンは口振りこそ呆れた様子だが、男らしく精悍な顔はさも安堵したように緩んでいる。実際、そっと一息吐いていた。
「ヘルさん、来てくれたんですね」
「そりゃ来るわ。ツィーリエからも話聞いたぞ、坊主のためだからって無茶しやがってこの姉ちゃんは」
「すみません。でも、色々と分かったこともあるので、無茶した甲斐はありました」
細心の注意を払って、普段通りを演じながらヘルマンの反応を窺う。が、どう見ても彼はネリーアのよく見知った男で、表情にも声にも違和感はなく、不審な点の有無すら分からない。
「分かったこと? ていうか相手は結局誰だったんだ?」
「それは馬車の中で話します」
ヘルマンとは長く一緒に居すぎた。
それこそ両親よりも多くの時間を共有している。
もし裏切られているとすれば、ヒセラが死んだときを境にしてヘルマンの様子に僅かながら変化があったはずだが、当時はヒセラの死を哀しむあまり周囲のことを気に掛ける余裕がなかった。あれから三年も経つため、鎌でも掛けない限り、今更になって見極められるはずもない。
馬車がやって来たので、三人で乗り込んだ。ローマンとは既に別れている。シェアンの姿を見た彼はヒルヒーノを捕縛する部隊と合流したはずだ。
「それで、ネリーア様。相手はどのような者だったのですか? セリオさんのことは何か分かりましたか?」
馬車が動き出すと同時に、まず口火を切ったのはツィーリエだった。ヘルマン同様に違和感や不審な点は見当たらず、相も変わらぬ無表情で、淡々と職務をこなす護衛そのものだ。
「相手は翼人の男で、ヒルヒーノ・エクスティアと名乗っていました」
「――っ!?」
二人とも一目瞭然なほどに反応を示した。ヘルマンは驚愕の余り唖然としたような顔を、ツィーリエは僅かに目を見開いて強張ったような顔を見せる。後者はすぐ普段通りに戻ったが、前者は緊張感を隠すことなく見つめてくる。
「お嬢、そいつは《麻薬王》の名前だぞ……冗談で言ってるんじゃないよな?」
「《麻薬王》の名前だということは今知りました」
「……その割にはあんまり驚いてないな」
「只者でないことは何となく分かっていたので」
案の定とでもいうべき結果だ。
あの男が《麻薬王》を騙る偽物だった可能性は否めないし、そもそも手紙の件を含めて全て敵の作戦で、ネリーアを混乱させる腹積もりかもしれない。
しかし、こんな回りくどいことをして、何の手掛かりもなかったネリーアをわざわざ惑わす意味が分からない。敵はヒルヒーノが示唆したとおりの人物だろうし、彼の登場は敵側にとって想定外だったはずだ。
「その《麻薬王》を自称する男はなんと言っていたのですか?」
「今回の一件の黒幕について、私が推測する手掛かりをくれました。おかげで、もう見当は付いています。ヒルヒーノさんが予想した黒幕の名前がここに書かれているそうなので、私の考えと一致した場合はほぼ間違いなく、その者が黒幕でしょうね」
手鞄から手紙を出して見せ付けてみた。車内の空気は依然として僅かに緊張しているが、二人からは危機感や焦燥感といったものは伝わってこない。
「お嬢、《麻薬王》の言葉を真に受けない方がいい。もしお嬢の会った男が本物だとしたら、絶対何か企んでのことだ。お嬢を自分の良いように踊らせて、何かろくでもないことに利用するに決まってる」
「そうかもしれません。でも、彼の話は筋が通っていました。仮に私を利用するつもりだとしても、それは取引だと思うんです。私は黒幕の正体を知り、それによって起こす私の行動が彼にとって利益になるのだとすれば、公平です。私にはどうしようもありませんしね」
やはりヘルマンに違和感はない。彼なら指摘して当然の言葉だったし、ネリーアの身を案じるのも実にらしい態度だ。
ヘルマンは裏切っていないのかもしれない。
そう思いたがる自分を必死に抑え込んで、今この場ですべきことを続けていく。
「というわけで、開けてみますね」
力尽くで止められるどころか、制止の言葉すらなかった。ツィーリエはどこか思案げな無表情で、ヘルマンは見るからに不安げな面持ちで、対面の席から見つめてくる。
封を切って、中の紙を取り出すと、そこには一文しか書かれていなかった。それは予想に違わぬ人名で、なんとも複雑な気持ちになる。自らの推測と一致していたことへの安堵感、二人が裏切っている可能性が上がったことへの絶望感、その二つが大きすぎて他の様々な思考が呑まれてしまう。
しかし、心構えはできていたので、動揺は面に出さない。あくまでも冷静に、冷徹に、感情を抜きにして二人の様子を見極めるべく、まずは手紙をツィーリエに手渡した。
「――――」
微かに息を呑んだようだが、その程度だ。驚いてはいるように見えるが、何に対してかは分からない。去年までネリーアにしつこく絡んできていた上級生の名が書かれていたことに対してか、それとも自らが真に仕えている雇用主の名が書かれていたことに対してか。
判断が難しいので、後者だと思うべきだ。
「なるほど」
ツィーリエは真意の読めない無表情で素っ気なく頷き、手紙を隣に渡す。
受け取ったヘルマンはといえば、特に表情に変化はない。紙面の名を目にしても、不安げな様子のままだ。いや、その色が少し濃くなり、眉間に皺を寄せている。
しばし待ってみても、ヘルマンは何も言おうとしない。
「ツィーリエさん、ヘルさん、お二人に質問があります」
ネリーアは覚悟を決めた。
双眸を鋭く引き締め、対面に並んで座す男女を見据える。微かに揺れる車内は先ほどまでより緊張感が増し、車輪の立てる不規則な音がやけに大きく響く。
万が一の場合に備え、密かに体内で魔力を練りながら、いざ問い質す。
「ウィスティリア・ニンリスイスト。お二人はあの性悪女の手先ということで、間違いないですね?」
二人とも身じろぎすらしなかった。
女の方は相変わらず無味乾燥とした表情で無言のまま見つめてくる。男の方は俯きがちに紙面を見つめたまま、目を合わせようとしてこない。
「今回の件、実に見事な配役です。ヘルさんが私の思考を誘導し、護衛をやめてまでセリオのために動くと見せかけることで、私の動きを抑制する。それをツィーリエさんが監視し、不測の事態に備える」
「仮に、我々がネリーア様の言うとおりだとして、何か証拠はあるのですか?」
その台詞はもはや暗に認めているも同然だった。
しかし、ツィーリエに悪びれた様子はない。罪悪感の欠片もない。かといって開き直っている訳でもなく、普段通りの淡々とした言動のままだ。
「いいえ、ありません。残念ながら」
「では、それは貴女様の被害妄想と大差ない推測です。一見して筋の通った話になってしまうからこそ、論理的には否定できないというだけの、ただの机上の空論です」
「今はそれでも構いません」
今後、何か証拠を見付けられるとは思えない。
だから、公的な正しさを証明することは半ば諦めている。
セリオを無事に助け出した後、潔く全てを正直に伯爵家に打ち明けるしかない。それで見限られれば、それまでだ。ディーンのことは愛しているが、セリオも同じくらいに愛している。どちらかを選ぶことなど、ネリーアにはできない。
「行き先をニンリスイスト家に変更してください」
「もう夜も遅い時間です。今からでは礼を失した訪問となります」
「敵に礼を尽くすつもりは毛頭ありません。反対されるのであれば、私一人で行きますが、お二人はそれで構わないのですか?」
「……承知しました」
ツィーリエは背後にある窓を開け、馬を繰る御者に新たな行き先を告げている。その間、ネリーアはヘルマンの様子を窺った。彼は手紙を両手で握り締め、目を伏せていた。魔石灯の明かりが精悍な顔に深い陰影を刻んでいる。
「ヘルさん、何か言うことはないんですか?」
「…………お嬢、どこまで妄想したんだ?」
俯きがちなまま目も合わさず、静かな声で尋ねてきた。
「少なくとも、あなたがヒセラを殺したところまでは」
「なるほど……なるほど。ちなみに、お嬢とヒセラを裏切った理由とかは?」
「さあ、安直にお金とかでしょうか」
少なくともヘルマンは最初から敵の手先ではなかったはずだ。それは今し方の問いを聞いても分かる。彼はヒセラが死んだ頃に裏切ったはずで、しかし長年一緒にいたネリーアにもその理由は判然としない。
「そうだな、その安直な考えで正解だ」
車内の張り詰めた空気が一気に弛緩した。
ヘルマンは顔を上げると、微笑んだ。酷薄そうな、下卑た類いの不快な笑みだ。気後れも罪悪感もなく、真っ直ぐにこちらを見つめてくる眼差しは酷く荒んでいる。堂々と脚と腕を組んで、背もたれに身体を預けたその姿はネリーアの知るヘルマンと同一人物とは思えなかった。
既に窓を締めて姿勢良く座り直していたツィーリエが、釘を刺すように隣を強く睨み付けるが、ヘルマンはそれを鼻で嗤って一蹴した。
「もう遅いっての、ツィーリエ。お嬢は世間知らずの甘ちゃんだが、頭が切れるのは事実だ。一度おれらを疑ったなら、明確な証拠でもない限り、もう決して信用はしないさ」
「……灰色の状態でいることは十分に意味があります」
「かもな。でもどのみちもう手遅れだ」
信じたくはなかった。
こんな現実、直視したくなかった。
ヘルマンとは五歳の頃からずっと一緒だったのだ。父親も同然、兄も同然、誰よりも多くの時間を共にした相手だ。先ほどまで疑念を抱くことすら思い付かず、実の家族に対するように盲目的な信頼を寄せていた。いつ何があっても味方で、まさにネリーアのためなら護衛職を辞するのも厭わないほど、娘同然に想われていると信じていた。信じ合えていると思っていた。
今まで生きてきて最低最悪の気分だった。
ヒセラが死んだときより酷い。
吐きそうだった。
「しっかし、噂通り酷い奴だよな《麻薬王》は。せっかくのおれの優しさが台無しだ」
「……優しさ、ですって?」
裏切り者に似つかわしくない単語が出てきて、思わず反応してしまった。
「だってそうだろ? 《麻薬王》の入れ知恵がなければ、お嬢は傷付かなかったんだからよ。おれだってお嬢には少なからず思い入れがあるし、できれば酷い事はしたくないんだ。だから今回は最後まで本当のところは伏せたまま、すっと静かに消えようと思ってたんだぜ」
「……………………」
「ほら、優しいお嬢なら、おれが《武隷衆》か《麻天律》に探りを入れたせいで人知れず殺されたんだって思うだろ? で、自分のせいで死なせてしまったって罪悪感に駆られて、こんな酷い自分は婚約破棄されて当然だ、弟の死はその罰なんだ、とか思って非情な現実を受け止められるようになる」
確かに、《麻薬王》からの接触がなければ、そうなっていたかもしれない。
ネリーアのそんな心情を察したのだろう。ヘルマンは「な?」とでも言いたげにわざとらしい微苦笑を浮かべ、肩を竦めた。
「結果的に、お嬢は自分を哀れむっていう贅沢を堪能できたはずなんだ。ニンリスイストのお嬢様はお嬢を徹底的に絶望させるつもりだったところを、わざわざおれが説得してお膳立てしてやったんだぜ?」
「ヘルマン、それ以上は控えなさい。何をどこまで話すかはお嬢様が決めることです」
「へいへい。こんなときでも職務に忠実とは恐れ入るねぇ」
《麻薬王》の言うとおり、これはネリーアが主人公の物語だ。裏切られ、喪失し、絶望する。そんな悲劇の女主人公が自分なのだ。しかし、堕ちたその先――這い上がって敵に復讐して幸福になるといったどんでん返しはなく、堕ちたところで物語は完全に終演する。これは確かに三流以下の脚本だろう。
だが、今まさに身を置いている現状から、下劣な脚本家の思惑を覆すことなど本当に可能なのだろうか? 這い上がって敵に復讐して幸福になるといったどんでん返しなど、そんな都合の良い展開にできるとは到底思えない。今のところ、それが可能な伏線など張られていないはずだ。
……予想以上の絶望感に見舞われたせいか、弱気になっている。
これでは不味い。
「二人が私の敵だということは分かったわ」
自他共に言い聞かせるべく、きちんと声に出して宣言した。
誰が敵で、誰が味方か。
それが瞭然となったことの意味は大きい。今後どう動くにしろ、敵を味方だと思い込んで頼りにするほど間抜けなことはない。あらゆる行動が無意味どころか逆効果になりかねない。今後はその失態を防止できると思えば、心痛など安いものだ。
そう強気にならなければ、心が折れてしまいそうだった。
「念のため忠告しておきますが、浅慮な行いは慎んだ方が賢明です。貴女は優秀な魔女で、この国において貴重な人材である以上、我々も貴女を直接害するようなことをするつもりはありません」
「だから、自分たちもウィスティリアも殺すなと?」
「それが貴女のためでもあります。我々を害すれば、貴女は完全に未来を失うでしょう。貴女だけでなく、弟や両親も」
こちらが向こうを敵だと宣言した途端、釘を刺してきた。
自らが仕える主のために、自分のために、脅してきた。
ツィーリエの言うように、ウィスティリアあるいはニンリスイスト家にネリーアを殺す気はないのだろう。この国のために働くということは、貴族のために働くということでもある。国の保護下にある魔女を殺す危険を冒すより、自分たちのために死ぬまで馬車馬のように働かせる方が有益だし、気分もいいことだろう。
敵はネリーアに対する哀れみではなく、合理的思考から殺害しない。実に腹立たしいことだが、だからこそ信じられる。自分は殺されないだろうし、弟を殺せばこちらが形振り構わなくなることも分かっているはずなので、弟が死ぬこともないだろう。
ネリーアがよほど馬鹿なことをしなければ。
「おいおい、物騒な話はやめてくれよ。そう険悪な雰囲気になると居心地悪くなるだろ」
「今後も彼女と共にいるのは私です。護衛の任を外れた貴方にはもう関係のないこと。口を挟まないでもらえますか」
「そりゃそうだけどよ、今この場にはおれもいるんだから気分悪いだろうが」
男は翼人らしい陽気さで、女は無機質なまでに淡々と言い合っている。
どうやらツィーリエは今後も護衛として側にいるつもりらしい。ネリーアがニンリスイスト家に危害を及ぼさないように、復讐のために動き出さないように、監視するつもりなのだろう。面の皮が厚いにもほどがある。
「……………………」
もう二人からこれ以上の情報は引き出せないだろうから、口を噤んだ。既に十分すぎるほど不快で、このまま会話を続けてしまうと、不意にブチ切れる可能性は否めない。この後、敵と対峙したとき冷静でいられるように、心を落ち着けておく必要がある。
そうして無言のまま馬車に揺られること、しばらく。
煌びやかな街明かりの只中で、窓外を流れていた景色が止まった。ツィーリエが扉を開けて車外に出たので、ネリーアも馬車を降りる。
前方には立派な門がそびえ立ち、その向こうには魔石灯で彩られた庭園、そして横に広い邸宅が見えた。あくまでも別邸なので、記憶に新しいベルアスク伯爵の本邸ほど大きくはないが、庶民からすれば豪邸には違いない。
門の向こうには獣人と翼人の二人組がいて、ツィーリエが彼らに声を掛けている。貴族街の治安は良好だが、光魔石を盗む輩も皆無ではないので、貴族の邸宅であれば夜間警備も兼ねて何人かは守衛を配するのが一般的だ。
「お待たせしました、どうぞ」
翼人の男が邸宅に入っていき、間もなく戻ってくると、門が開いた。普段のネリーアであれば既に就寝している時間帯だが、対応の早さからして目的の性悪女はまだ起きていたのだろう。
ツィーリエとヘルマンに前後を挟まれた格好で、さほど広くはない庭園を歩いていき、正面玄関から邸内に入る。出迎えた執事らしき壮年の男は夜分遅い訪問を意に介した様子もなく、律儀に「いらっしゃいませ」と一礼してきた。
「ウィスティリア様はお部屋でお待ちです。どうぞこちらへ」
こうしてすんなりと部屋まで案内され、面会を許されたということは、ウィスティリアにとってこの状況は想定の範囲内なのだろう。
「お嬢様、お連れしました」
執事が二階の一室の前で立ち止まり、扉をこんこんと叩いて告げると、扉が内側から開いた。侍女然とした中年の女性が現れて、執事の男ともどもネリーアたちを招き入れる。
「お久しぶりですわね、ネリーアさん」
久々に相見えた因縁の性悪女は些か扇情的な寝間着を身に纏い、悠々と長椅子に腰掛けていた。座り心地の良さそうな革張りのそれにゆったりと背を預けて、太腿が半ば露出した脚を組んでいる。見ようによってはふんぞり返っているように見えなくもない。
「……………………」
ネリーアは挨拶を無視して、ウィステリアとは卓を挟んだ対面の席に腰を下ろした。ツィーリエとヘルマンはこちらの、執事と侍女は向こうの長椅子の後ろで控えている。三対三のような構図だが、実際は五対一だ。
「あら、こんな夜更けに訪ねてきただけでなく、ろくに挨拶もしないだなんて、無礼にもほどがありませんこと?」
特に不機嫌そうな様子はなく、むしろからかうような面白味を含ませて、ウィスティリアは微笑んでいる。相変わらずの長ったらしい金髪と嫌みったらしい面構えをしており、その姿を見ているだけで不快感が湧き上がる。
「敵に礼を尽くすほど、私はおめでたい女じゃない」
「敵だなんて、随分と物騒なことね。寛大なわたくしでなければ、いくら後輩といえども、無礼が過ぎて叩き出されてもおかしくないですわよ」
「下らない御託はいい。セリオは――私の弟はどこにいる」
声は荒げず、しかし眼差しには射殺さんばかりの敵意を込めて、真正面から睨み付ける。
対する金髪女に怯んだ様子はなく、余裕ある態度を崩さぬまま小首を傾げてきた。
「貴女の弟がどうかされたのかしら?」
「白々しい……お前が黒幕だということは分かってるのよ」
「黒幕? 貴女が何を言っているのか、わたくしにはよく分からないのだけれど……何やら困ったことになっているのは察しが付きますわ。可愛い後輩がお願いするのなら、わたくしは力を貸すのもやぶさかではなくってよ?」
あくまでもそういう体裁でいる気なのだろう。
面の皮が厚いにもほどがある。
「ただ、わたくしが一方的に力を貸すというのも、周りに示しが付きませんわね。ここはネリーアさんもわたくしのお願いを聞いてもらうのが無難かしら」
「聞くだけは聞いてやる。そのお願いというのは?」
以前までなら、敬語ではないことを責めてきたというのに、今は完全に無視されている。その程度のことで腹は立たないほど、自らが絶対的に優位な立場であることを自覚しているのだろう。
「簡単なことよ。貴女にはディーン・マクレイアさんとの婚約を解消して欲しいの」
「……聞くまでもなかったわね」
「何を勘違いしているのか分からないけれど、これも貴女のためなのよ、ネリーアさん」
言うに事欠いて、相手のためだと抜かしている。
厚顔無恥を通り越して、もはや人心を解せぬ狂人としか思えない。
だが、これが貴族流の腹芸だということは、これまでの経験から明らかだ。決着が付くまで、決して言質は与えない。既にツィーリエとヘルマンが吐いているが、二人とウィスティリアが繋がっている証拠はない。
しかし、相手のこの慎重さはセリオの生存を裏付けているはずだ。
「農奴出身の下賤な魔女が、伯爵家の嫡男と結ばれれば、相当な苦労に見舞われるはずですわ。貴女は社交界でも上手く馴染めず、それが原因でディーンさんにも迷惑を掛けて、きっととても嫌な思いをすることになると思いますの。それもおそらく、一生ね」
ウィスティリアは諭すような、同情するような姿勢を見せているが、これは脅迫だ。
弟を見捨てて、万が一にもディーンと結婚するようなことになれば、今後一生嫌がらせをしてやると、そう遠回しに忠告しているのだろう。
「とはいえ、いくらネリーアさんのためだからって、婚約者と別れろというだけでは貴女があまりに可哀想ですから、代わりの男性はわたくしが責任を持ってご紹介しますわ」
「……………………」
「同じ伯爵位ではディーンさんと別れる意味がありませんから、最近奥方を亡くされた男爵なんてどうかしら? 四十六と少し歳はいっているけれど、安心して。愛妾が何人かいるようですから、精力は旺盛みたいよ。子を授かる可能性は高いと思いますわ」
せめてもの情けに貴族と結婚させてやる。でも爵位は最下位の男爵、そして相手は脂ぎった好色の中年親父。それがお前にお似合いだと、そう言いたいのだろう。
実際、ウィステリアは笑っていた。嫌みったらしく、見下したように、蔑んだ嘲笑を浮かべている。
殺したかった。
殺してでも黙らせてやりたいと本気で思った。
これほどまで誰かに殺意を抱いたのは初めてだった。
学院で性悪令嬢に対して殺意を抱いたことは幾度となくあったが、所詮は小娘の強がりだった。殺す勇気などないくせに、自分を奮い立たせるために張りぼての殺意で心を補強していただけだ。そうしないと折れそうで、負けそうで、挫けそうだったから。
しかし、もはや張りぼてではない。本気で殺してやりたいと思っている。弟のため、ヒセラの仇を討つためという大義名分を掲げて、全てを擲って敵を皆殺しにしてやりたい。今ならば躊躇無く殺せる自信がある。
だが感情で動けば、絶対に後悔する。
冷静に、合理的に、利害を計算して行動すべきだ。
密かに深呼吸をして激情を抑え込み、相手に弱みを見せないために目を合わせて、静かに問い掛ける。
「要するに、セリオを返す気はないと?」
「返すも何も、そのセリオという貴女の弟のことをわたくしは何も知りませんのに……」
「ここに来るまでにヘルマンが認めたわ。あんたの指示でヒセラを殺したこともね」
一瞬、ヘルマンを睨むウィスティリア。
が、すぐに表情を取り繕って、如何にも困惑したような顔を見せた。
「さて、わたくしには何のことか分かりませんわ」
「そう、あくまでも白を切り通すわけね」
「わたくしはただ、事実無根の疑いを否定しているに過ぎませんわ。だってそうでしょう? わたくしのみならず、当家を貶めるような悪質な噂を方々で流されては困りますから。誤解が原因で、お互いが不幸になるなんて馬鹿げていますもの」
今回の一件を周囲に吹聴すれば、セリオの命はない。
暗にそう忠告してきたことは明らかだった。
「それで先ほどのお話ですけれど、貴女の弟を探すのに、わたくしの力は必要かしら?」
今更ながら、ヒルヒーノの力を借りておけば良かったと後悔した。
この悪性を体現したようなクズ令嬢に比べれば、《麻薬王》の方が未だしもマシに思える。実際は後者の方がより悪辣なのだろうが、言葉を交わす際の気分という点では前者の方が遥かに劣悪だ。
いい加減、不快感が過ぎて吐きそうだった。
「……必要ないわ。弟は必ず見つけ出す。そして証拠を集めてあんたを破滅させてやる」
「どうやら誤解は解けそうにありませんわね」
わざとらしい嘆息を吐いて、ゆるゆると頭を振っている。
その芝居がかった振る舞いを睨み付けて、ネリーアは席を立った。
これでウィスティリアが敵だということがはっきりした。これ以上の情報は引き出せないだろうから、もうここに用はない。できればウィスティリアを捕縛して尋問し、弟の居所を吐かせたいところだが、敵の本拠地では叶うべくもない望みだ。
そもそも敵への直接攻撃は自らの首を絞めることになる。社会的な自殺を敢行してまで弟を救出しても、自分以外は誰も喜ばないだろう。捨て身は最後の手段だ。
「あら、お帰りですの?」
「……………………」
無言のまま背を向け、部屋の扉を開けた。そこで「ネリーアさん」と改まったように呼び掛けられるが、振り返らず歩みも止めない。
「護衛の方に迷惑を掛けるような無茶はしない方が賢明ですわよ。もしわたくしの力が必要になったら、いつでもいらっしゃい」
最後まで遠回しな言い様で釘を刺す敵を無視し、これからどうすべきか考えながら、その場を去った。