原話 『愛と絶望の起点』
※本作では世界観構築のため、基礎的な単位に別名称を用いています。
本編で追々説明されていきますが、とりあえず今回の話では
「1メトリーギス = 1キロメートル」と読み解いてください。
■ Another View ■
奴隷生活二十七日目。
今日も今日とて、奴隷という立場で労働に従事する。
先が見えず、終わりの見えない日々というのは不安ばかりを募らせる。
特別なことは何も起こらない。
ただ奴隷幼女として、リタ様を死に追いやったゲスなブツの一部を組み立てていくだけだ。マウロたちは作業台の間を見て回り、一人一人の背後で立ち止まっては作業を監視してくる。
その多大なプレッシャーは手足を震わせ、作業ミスをする幼女も現れる。すると当然のように怒鳴られ、蹴られ、幼女たちは際限ない恐怖心を植え付けられていく。そうして仕舞いには心が鈍化して優秀な奴隷になるのだろう。
俺も手は震えたが、全意志力を傾けて作業に集中し、心身共に余計な怪我を負わないようにした。
レオナは明後日、この工場から連れ出される。
変態貴族などではなく、もしかしたら良い人に買い取られるかもしれない……
などという希望は俺の中には存在しない。
俺は奴隷という制度を軽蔑している。
奴隷制度が存在している世界など信用していない。既に身をもって奴隷とは何なのかを実感しているのだ。
レオナのことは、死以外の最悪を想定しておく。
もしかしたら……という希望は俺の心を腐らせる。あの愛らしく健気な笑顔が穢され貶められると考えれば、俺は無限のヘイトパワーによって耐えられる。
いざというとき、恐怖に屈することなく身体を動かせる。
♀ ♀ ♀
日が暮れて、夜になった。
俺は昨日一昨日と同じように幼女帝の相手をしてやり、愚かな虚栄心を程良く満たしてやった。
頭を踏まれ、腹を蹴られ、メシを床にばらまかれても、俺は道化と化して耐えた。
その後、アウロラが寝静まるのを待ち、俺は水分を補給する。
口の中が切れているのか、少し沁みて痛い。
ワラ製ベッドの片隅で一人寂しく横たわり、レオナのことを思う。
どうすれば良いのか、何も策が浮かんでこない。中二並の安直な妄想めいた方策なら閃いたが、こんなもんが成功したら俺は前世でヒーローになっていた。
思考は止めどなく溢れてくるのに、眠気もまた容赦なく俺の意識を苛む。
俺はレオナを守るとこのロリボディに誓ったが、そのロリボディが激しく睡眠を欲している。
まだ、明日がある。
そんなあやふやな希望は俺の心を僅かながらも解してしまい、俺は睡魔の誘惑にのってやった……。
♀ ♀ ♀
「――アウロラ!」
叫び声と乱暴な開扉の音で目が覚めた。
何事かと思って音源の方を見てみると、ノビオがいた。
名を呼ばれた幼女が少しふらつきながらも部屋の奥で立ち上がると、イケメン野郎は幼女帝の方へ走り寄った。
「ノビオ……様、どうしたんですか?」
「ここにいると危険だっ、今すぐ逃げよう!」
「それ、どういう……? 何か、起きたんですか?」
「今はとにかく逃げようっ、説明は後でするから!」
切羽詰まった様子で言うや否や、ノビオはアウロラの手を取ってドアへと駆ける。
その途中、今度はマウロが姿を見せた。右手には拳銃型の魔弓杖、左肩にはスリングで吊り下げられたマスケット銃型の魔弓杖を携えている。
「おいノビオッ、テメ何してんだこんなとこで!? お前警備要員ならさっさと下行って襲撃者ってのをぶっ殺せ!」
奴隷部屋に一歩入って、焦慮の念を全身からこれでもかと発しながらマウロが怒鳴る。しかし、ノビオは野郎の言葉を最後まで聞くことなく、呟くように小声を漏らし始め、闇色の火を放った。
「貴方のような愚者にこそ相応しい魔法です。至宝を貶めた罪、苦しみ悶えながらその身で贖ってください」
そうして極悪非道なクソ野郎マウロは黒炎の火達磨と化し、絶叫を上げ始める。
ノビオはアウロラを連れて早々に部屋から出て行ってしまった。
「レオナ……っ!」
俺は好機を悟り、立ち上がった。マウロの持っていた拳銃型の魔弓杖を拾い上げ、何発か試射して前世のチェリーライフに喝采を送り、走り出す。
幼女のロリロリしい素足で廊下を駆けて、階段の前にたどり着いた。どうにも階下はかつてないほどに騒がしく、ただならぬ状況なのが分かる。
それでも俺は階段を下りて、ゴキブリの如き隠密行動で地下階段へと潜り込んだ。
「――貴様はここで殺す!」
不意に、下からヒステリックな叫び声が響いてきた。女の声で、溢れんばかりの憎悪と殺意が籠もっているのが感じられる。
俺は反射的に身体を強張らせ、逃げ出したくなる気持ちに蓋をした。胸の前で魔弓杖を構えながら、ゆっくりと階段を下りていく。
階段は途中から壁が途切れていた。俺はそこで立ち止まり、そっと顔を覗かせる。地下は奴隷部屋の倍以上はあり、かなり広々としていた。壁際や中央付近には魔弓杖の部品や完成した魔弓杖が木箱に入れられて整然と並んでおり、最奥には懲罰房のつもりなのか鉄格子まで見られる。
幾つかの木箱が燃えているおかげで室内の闇が晴れ、視界状況はそれなりに良好だった。
「…………いない?」
レオナの姿が見当たらない。
鉄格子の扉は開放されているのに、愛しの幼女の姿など影も形もない。
物陰に隠れているかもしれないと思い、じっくりと見ていくが……いない。
ただノビオと見知らぬ金髪の美女が戦っているだけだ。
「■■■■■■■■――〈■■〉!」
「■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■――〈■■〉」
「■■■■■■■――〈■■■■〉!」
鮮烈な魔法戦闘が繰り広げられているが、俺はそれどころではなかった。
どういうことだ?
レオナは地下に閉じ込められていたんじゃなかったのか?
いや……落ち着け、よく考えろ。
そもそも、なぜノビオがここにいて、レオナがいない?
幼女帝アウロラはイケメン野郎ノビオに頼んでリタ様を排除したと言っていたので、つまり野郎はアウロラの味方だ。そしてレオナは竜人ハーフであり、おそらくその金銭的価値は高い。先ほどノビオは逃げるとかなんとか言っていたので、レオナもついでに連れて行こうと地下に来た……?
そういえば、アウロラはどこにいる?
いや、今は幼女帝如き小物を気にしている場合ではない。レオナがここにいないのならば、ここ以外のどこかにいるのだ。しかし地上でも戦闘が繰り広げられていて、非常に危険だった。
どうするべきか、どうすればいいのか……
逡巡する俺は何とはなしに背後を振り返った。
すると、階段の上に目出し帽を被った全身黒ずくめの大男がいた。その手には背丈ほどもある黒槍が握られている。
「――ぅわ!?」
俺は思わず階段を落っこちそうになりながらも、反射的に魔弓杖をぶっ放した。
階段という閉所で逃げ場がないせいか、魔弾は男の胴体に否応なく命中する。が、男は全く動じた様子がなく、露出した双眸を大きく見開いて驚いているだけだ。
俺は野郎の迫力に恐怖心を刺激され、とにかく魔弓杖を連射した。
しかし男が血を流すことはなく、ただ服が破けているだけだ。その下には鱗状の紅い肌が見られるだけで、出血など全くしていない。
「ぅわああああああああああっ!」
不死身男が足を前に踏み出し、俺は絶叫しながら尚も連射した。そこで震える足が段差を踏み外し、俺は階段を転がり落ち――そうになったところで、なぜか黒ずくめの男が俺の腕を掴み、転落を阻止してくれた。
「この印は奴隷の……なぜ魔女がここに……」
低い声で男は思案げに呟いた。そして俺の身体を引き寄せて階段に座らせると、目を合わせ、どっしりと落ち着いた声を発する。
「我は君の敵ではない。少しここで大人しくしていてくれ、良いか?」
「ぅえ……あ、え……?」
戸惑う俺の頭を存外に優しい手付きで一撫でし、大男は槍を片手に階段を一気に飛び降りた。
「アンッ、二人で一気に片付けるぞ!」
「ゼオ!? ……助かります!」
どうやら翠眼金髪の美女はアンといい、大男はゼオというらしい。
ノビオと戦闘中だったアンにゼオが加勢し、より一層激しい戦いになっていくが……戦況は素人の俺から見ても明らかだった。
イケメン野郎と美女の一対一で拮抗していたところへ、大男が加わったのだ。
「■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■――〈■■〉」
ゼオに急迫されたノビオが舌打ち混じりに詠い唱えると、野郎の影から黒い刃が伸びて大男のデカい身体に命中する。しかし、やはりというべきかゼオは無傷だ。
閉所で長物は使えないと判断したのか、彼は手にしていた黒槍を投げ捨てると、拳を突き出した。
「まさか竜人と戦う羽目になるなんてね……っ、ある意味当然の報いかな!」
イケてるフェイスを苦々しく歪め、忌々しげに呻きながら、ノビオは剛速の拳を回避しつつ鋭い脚撃を繰り出す。
ゼオはそれを脇腹に喰らうが、小揺るぎもせずに左の拳を振う。しかしノビオは蹴りの反作用を利用してか、その場から飛び跳ねるように舞い、再度躱す。
「■■■■■■■■――〈■■〉」
「■■■■■■――ぐッ」
中空でノビオは詠唱らしい台詞を口早に唱えるが、その前に美女アンが何らかの魔法を放った……と思う。俺の目には何も見えないが。
ノビオは宙にあって身体を捻るも、避けきれなかったのか、右腕がバッサリと切り飛んだ。そして鮮血を撒き散らしながら落下する野郎にゼオが拳を叩き込むと、豪快に吹っ飛んで壁に激突する。
ふと、俺は乱れた足音を知覚して、階段下に視線を転じた。
すると、幼女帝が必死の形相で段差を駆け上がってくる姿が視界に飛び込んでくる。その威迫は凄まじく、まさに命辛々の逃亡という様相だ。
「――っ!」
宿敵が突然登場した状況を前にして、俺は反射的に魔弓杖を構える。が、相手が同じ幼女だからか、リタ様の姿がフラッシュバックして指先が凍り付いた。
そんな俺の真横を、アウロラは俺など眼中にないかのような必死さで駆け抜けていく。そうして、アウロラは突然現れ、あっという間に消えていった。
呆けたようにしばし固まった後、俺は地下空間で戦っていた三人に視線を戻す。
しかし既に戦闘は終了しており、頭と胴が泣き別れた死体の側に、美女が血濡れた刃を片手に息荒く佇んでいた。そんな彼女の肩を大男が叩き、何事かを言いながら俺の方を見てくる。
二人は俺の知らない言葉で二言三言の遣り取りをし、こちらに近づいてくる。
先ほど、あのゼオという大男は俺の敵ではないと言ったが、俺は怖かった。
階段を上ってくる二人に魔弓杖を向けると、生々しく血糊の付いた剣を持つ美女は立ち止まり、真っ直ぐ俺を見上げてくる。
「私たちは君の敵じゃないから、それを下ろしてもらえないかな?」
この美女は俺が来る前から地下にいた。ならばレオナの所在も知っているはずだと思い、魔弓杖を突きつけながら、勇気を振り絞って訊ねてみる。
「……レオナは、どこですか」
「レオナ?」
「あそこの牢の中にいた、女の子ですっ! ど、どこにいるんですか!?」
美女は困惑の表情を見せつつ、答えた。
「あそこには、初めから誰もいなかったけど……それより、その手に持っているものを、下ろしてもらえないかな? 私たちは君を傷つけたりしないから」
優しい声音と穏やかな口調に敵意は感じられない。
が、やはり怪しすぎるし、この美女はノビオをぶっ殺した。
油断してはならない。
「はい、大人しくしてね」
と思っていると、不意に後ろから手が伸びてきて、魔弓杖が取り上げられた。
振り返ると、少年少女らしき背丈の黒覆面がいて、いつの間にか俺の首元に刃が突きつけられている。
「で、これ何? どういう状況?」
「レイ、やめろ、その子は魔女だ。連れて帰るから、怖がらせるような真似はするな」
「え? 魔女? この子が?」
大男からレイと呼ばれた背後の黒覆面は、声や体格からして少女らしかった。彼女は首元のナイフを収めてくれると、俺の顔を覗き込んでくる。
が、すぐに顔を引っ込め、こちらの手首を掴んで階段を上がり始める。俺は為す術もなく、引っ張られながら地上に出た。
「――――」
火の海だった。
ここ一月近く過した作業場はあちこちに火の手が回っており、熱波が肌を焦がしてくる。そんな中、野郎共の死体と思しき黒い塊が炎の中に幾つか転がっていた。
圧倒されて困惑していると、いきなり背後から大男に抱き上げられる。
「大丈夫だ、安心すると良い」
覆面から覗き見える瞳には、やはり害意がない。
周囲で燃え盛る炎は一見すると逃げ場のない包囲網のように見えるが、一点だけポッカリと燃えていない場所がある。
何が何だか分からぬまま、俺は見知らぬ三人と一緒に屋外へと脱出した。
♀ ♀ ♀
俺を抱えた覆面大男はしばし走った後、突き当たった川の手前で立ち止まった。
一緒に走ってきた翠眼の美女と覆面少女も同様に足を止める。周囲には不気味な闇を湛えた木々が乱立し、背後から届く赤い光が辛うじて視界を保っていた。
「なに、どうかしたの?」
「いや……少し気になることがあってな」
覆面少女に問われて、大男ゼオは野太い声を返した。そして片腕だけで抱き上げられている全裸の俺に至近距離から目を合わせてくる。
「君、名はなんという?」
「え、えっと……ローズ、です」
逡巡しつつも名乗ると、三人は一様に妙な反応をした。翠眼の美女もいつの間にか覆面を被っているので表情は分からないが、どことなく戸惑っているように感じられる。
ゼオは俺を地面に下ろすと、その場に膝を突いて視線を合わせてくる。といっても、まだ向こうの方が大きいが。
そうして彼はおもむろに顔の覆面を取り払い、言った。
「我はゼ…………いや、ヴァジムという」
他の黒覆面二人が大男ゼオ改めヴァジムに何事かを言いかけるが、彼は視線と手振りでそれを黙らせた。
ヴァジムという男は中年親父だった。年頃は四十歳ほどだろうか、彫りの深い逞しい顔立ちをしている。どういうわけか、首や頬が紅い鱗肌になっていて、俺の魔弓杖で穴を開けられた服から覗く肌も同様だ。
強面のように見えるが、落ち着いた表情から滲み出る貫禄は懐の深さを感じさせ、不思議と恐怖心は喚起されなかった。
「ローズ、先ほど言っていたレオナというのは、どんな子だ?」
オッサンは外見に見合った低い声で問いかけてくる。
そこで、俺はレオナのことを失念していた自分に気が付いた。
いきなり背後から武器を取り上げられ、刃物を突きつけられて、訳も分からぬままここまで来たが……そうだ、レオナだ、レオナはどこにいる。
俺たちが暮らしていた工場は燃えていた。
まさかあの火の海に呑まれて焼かれてしまったんじゃ……。
「…………」
いや、落ち着け、クールになれ。レオナがあの地下にいなかったとなれば、誰かに屋外へ連れ出されたということだ。あるいは自力で逃げたのかもしれないが……。
とにかく大丈夫だ、レオナが焼死しているはずがない。
俺は軽く深呼吸をすると、まず目の前のオッサンの質問に答えることにした。
「レオナは茶色い髪の、四歳の女の子です。お願いです、貴方たちが私の敵じゃないというなら、レオナを探してくださいっ。きっとまだこの近くにいます!」
「……その子の種族はなんだ?」
正直に答えれば、こいつらもレオナを売り払おうとするかもしれない。
が、むしろ好都合だ。
今はとにかくレオナを探し出し、無事を確認して側にいたい。そのために、この見知らぬ三人が利用できるなら利用するまでだ。
「竜人と人間の混血です」
それを聞いて、ヴァジムは「やはりそうか」と冷静に頷くが、他の二人は胡乱げな眼差しを俺に向けてきた。
ヴァジムは立ち上がると、背の低い黒覆面に声を掛けた。
「レイ、我は先ほどの襲撃で翼人を一人、外に逃がしたと言っただろう?」
「ええ、でも致命傷は与えたから、別に問題はないんでしょ?」
「そうだ。しかし、その翼人は首輪の付いた茶髪の童女を抱えていた」
茶髪の童女――レオナのことだ。
俺は彼らの話をなんとか理解しようとこっそり耳を傾ける。
「それが……この子の言う竜人の混血児ということですか?」
「でもだからって、それが何だって言うのよ。そもそも半竜人がこんなところにいるはずないわよ」
「いや、先ほど我の相識感は確かに同種の気配を察知した。しかし数十年ぶりの反応に加えて、微弱だったからな。気のせいだと思っていたのだが……」
相識感って、たしか前にレオナが言ってた第六感のことか?
同族の気配とか何とか言っているから、たぶんレオナのことなのだろうが。
「それでは、まさか本当に、レオナという子は竜人の混血児だと?」
「その可能性が高い。故に、我はその童女を探した方が良いと判断する」
「いやいや、今はここからいち早く離れることが先決でしょ?」
「そうだな。しかしこの子は魔女で、そのレオナという童女とは友人なのだろう。今後のことを考えれば、ここでその子を助けておく価値はある」
「……まあ、そう言われれば、一理あるわね」
「……そうですね」
尚も覆面を被ったままの二人は互いの目を見つめ合い、頷き合った。何やらヴァジムが二人を説得したようだったが、俺が口を挟めるような雰囲気ではなかった。
というか、魔女ってなんだ? まさか俺のこと言ってんのか?
いや、何はともあれレオナを助けるということでファイナルアンサーなのか?
そうなんだよな?
「いいわ、それじゃさっさと探し出して撤退するわよ」
「うむ。アンは先に合流地点へ行き、このことをロウに伝えてくれ。我とレイで半竜人の子を探す」
「了解です」
話が纏まったのか、ヴァジムが俺に向き直ってきた。
「待たせたな、君の言うとおり、レオナを探そう」
「……えっと、その、どうして探してくれるんですか?」
「我も竜人なのでな、その子のことは気になるのだ」
ヴァジムはそう言うが、目の前のオッサンには角も尻尾もなく、ただの人間にしか見えない。
まさか、こいつも竜人ハーフなのか?
まあ、何でも良い、とりあえずレオナだ。
俺は再びヴァジムに抱き上げられた。そして先ほど走ってきた道を引き返し始める。だが同行するのは俺に刃物を突きつけてきた黒覆面だけだ。
すぐに燃え盛る工場まで戻ってくると、その外周をやや迂回して立ち止まった。
「レイ」
「…………見つけたわ、アレね」
ヴァジムが名を呼ぶと、黒覆面レイは辺りを見回した後、少し離れたところの地面を指差して駆け寄った。俺とオッサンがその背中を追うと、燃え盛る工場の明かりに照らされた地面――その一部がぬかるみ、赤黒い光沢を放っている。
おそらくは、血痕だ。それが点々と木々の向こうへと続いている。
小柄なレイを先頭に、俺たちは森に入っていく。
不規則に並び経つ幹の合間を通り抜け、どんどん深くへと進んでいくが、もう俺の目には地面の血痕など全く見えず、どころか一、二リーギス先すら満足に見通せない。しかしレイには見えているのか、迷いのない足取りで小走りに前を行く。
それからややもしないうちに、レイは立ち止まった。
彼女のすぐ側で佇立する一本の木、その根元近くには一人の翼人が倒れていた。翼は片翼が根元からなく、良くは見えないが、背中が大きく裂かれて大量出血している。そいつは微動だにせず、ただ俯けに倒れて自らの血に沈んでいた。
「イーノス……?」
夜闇に溶け込みぎみの翼は灰色で、身長体格から見るに、そいつはたぶんボッチの監督役イーノスだった。
いくらボッチだからって、なんでこんな場所で一人死んでんだ、こいつ。
あ、いや、たしかさっきヴァジムが翼人に致命傷を与えたとか何とか話してたな。
「ゼオ」
レイが振り向いてヴァジムを見上げた。
だがオッサンはなぜか目を閉じている。
「…………おそらくは、向こうだな」
ヴァジムが指差す先は森の闇でほとんど何も見えない。
しかしオッサンは力強い足取りで先頭立ちに、そちらへと歩を進めていく。もはや俺にはどっちから歩いてきたかなど分からないが、今進んでいる方向には月が見える。ほっそりとした紅い月と、真ん丸な黄色い月だ。
「近いな。ローズ、レオナの名を呼べ。ただし、あまり大声は出すな」
「は、はい」
俺は言われたとおり、「レオナー」と声に出して彼女の名前を呼んだ。
声は森に吸い込まれるように消えていくが、俺は何度も呼び続け、ヴァジムは足を動かしていく。
それから間もなく、見つけた。
緑の濃い木々の間に、ぽつんと立ってこちらを見つめる全裸の幼女。
夜闇の中にあっても分かる。
栗色の髪に大きな瞳、今にも泣き出しそうな不安げな表情を強張らせ、まるで俺の到来を待っていたかのように立ち尽くしていた。
「ローズ……?」
「レオナッ」
俺はヴァジムの腕から飛び降りると、少しつまずきながらも駆け寄り、思い切り抱きしめた。僅か二日ぶりだが、もう何年も会っていなかったような錯覚に陥る。
この感触、この温もり、この抱き心地……間違いなくレオナだ。
「良かった……無事だったんですね!」
「ローズ、ほんとに、ローズ……?」
半ば呆けたような声で呟かれたので、俺は身体を離し、レオナの顔を真っ正面から見つめてやった。が、彼女のプリティーな頬に血が付いていることに気が付き、俺は一瞬呼吸を忘れた。
「レオナ、怪我してるんですか!?」
「う、ううん……どこも、けがしてないよ」
「で、でも血が……」
「きっと、あのおじさんのだとおもう」
あのおじさん?
……あぁ、イーノスのことか。あのボッチ野郎、なんでレオナを連れ去るような真似を……って、そんなこと今はどうでもいい。
「あの、レオナ、大丈夫ですか?」
なんだかレオナは少し様子がおかしい。
一体どうしたというんだ、野郎に何かされたのか?
「ローズ……」
「はい」
「ほんとに、ローズ……だよね」
「はい、私です」
レオナの手を取って握ってやると、どこか呆然としていた表情をゆっくりと歪めた。たちまち目尻に涙が溜まっていき、溢れ出てぽろぽろと頬を伝って流れ落ちていく。
今度は俺が抱きしめられた。
「ローズ、よかった……すごく……っ、こわくて、わけわかんなくて……」
レオナは一転して、涙腺が決壊したように泣き始めた。色々なことがあって、精神的に一杯一杯だったのだろう。
一昨日、唐突に俺たちと引き離されて一人地下に閉じ込められ、今日こんな時間にイーノスに連れ出され、工場は炎上して、真っ暗い森の中を歩かされ、更に途中で野郎が死んで、また一人になった。
相当に不安だったはずだ。急変していく事態に心が追いつかず、今ようやく俺と再会したことで緊張の糸が切れたのだろう。
俺の緊張も切れた。気怠いまでの安堵感が全身を包み、レオナの体温が否応なく俺の心を解してくる。
正直、まだヴァジムたちのことや今後のこと、それにノエリアやフィリスたちのことなど、考えるべきことは山ほどある。
だが、今はそれら全てのことを脇に追いやり、喜ぼう。
またレオナの顔を見ることができた。
またこうして抱き合えて、声が聞けて、温もりを感じることができた。
もう二度と彼女を離したりはしない。
俺はレオナを守ると、このロリボディに誓ったのだ。
訳も分からぬまま、今回は運良く再会できた。
だが、今後はどうなるか分からない。
ローズとして生きていく以上、俺はレオナを守り続けていくと決めている。
今は泣き顔に歪んだ彼女の"本当の笑顔"を側で見ることができれば、俺はそれだけで満足だ。
だから、頑張ろう。
自分とレオナを守るために、頑張ってこの世界で生きていくんだ。
♀ ♀ ♀
「ローズ様、ヴァジムさん、お気を付けて」
クラリーの不安げな挨拶を受けて、私とヴァジムはラコルデール家の別邸をあとにした。
ゾルターンとは街の外で落ち合うことになっている。
皇国で最も美しいこの街――華の都と名高きセリジュに火竜が降り立てば、騒ぎになるどころの話ではないからだ。
「ローズ、最後に確認したい。本当にお前も行くのか? 我とゾルターン殿に任せても良いのだぞ」
「そうね……でも、他ならぬレオナのことだから」
隣を歩くヴァジムの静かな問い掛けに、私も粛々と首肯を返した。
「このまま座してレオナが悪化していくところを見ているより、治療法を探した方が理に適ってるわ。竜人語は分からないけど、私にだってできることはあるはずよ」
「しかし、レオナは側にいてほしいはずだ」
「分かってる。でも……」
レオナ。
彼女と共に生きてきた十五年の歳月は長くもあり、短くもあった。
エリーに引き取られて皇国で暮らし始め、専属騎士のクラリーと出会い、皇立魔法学院に通う傍らレオナと絆を深め、そうした日々の中で様々な人たちと交流した。平穏ながらも喜楽に満ちた日々はしかし、《黄昏の調べ》の襲撃によって脆くも崩れ去り、ヴァジムとクラリーとレオナと共に皇国を去って、世界を旅した。
数多の国を訪れては見聞を深め、多くの人々との出会いと別れを繰り返し、数え切れないほどの喜怒哀楽をレオナと分かち合った。
「私は……私はレオナを守ると、あの日に誓ったの。今更それを破れないし、レオナは私の人生そのものよ。ヴァジムとゾルターンだけに任せてはおけないわ」
「……そうか。今更、愚問だったな」
そう、愚問だ。
未知の病に冒された今のレオナは満足に笑うこともできない。それどころか日に日に起きていられる時間も短くなり、一人ではろくに動けず、ベッドの上で衰弱していく一方だ。あの元気の塊のような子が、聖天騎士にも認められるほど精強な戦士が、誰よりも可憐で美しい彼女が、今では見るも哀れなまでに変わり果ててしまっている。
私はもう一度、何としてでも、レオナの"本当の笑顔"を見たい。
そして今後もずっと、一緒に生きていきたいのだ。
「よぉ、待たせたなお二人さん」
華の都セリジュの西方に広がる森の只中で、待つことしばし。
青空から真紅の巨大生物がゆったりと木々の間に降り立ち、その大きな背に跨がる一人の男が闊達な声を投げてきた。
「遅いわよ、ゾルターン」
「ハハッ、すまんすまん。しかしローズ様よぉ、そう気を張ってちゃぁいけねえなぁ」
「なんですって?」
中年親父は悠々と火竜の背から飛び降りてくると、小洒落た煙管を吹かしながら歩み寄ってくる。
そうして、私の額をゴツい指先で小突いてきた。
「そう眉間に皺を寄せなさんな。折角の美貌が台無しだぜ?」
「今は貴方のからかいに付き合ってる暇は――」
「こういうときだからこそ、どっしり構えてねえとなぁ。前はもっと余裕綽々な、それでいて油断も隙もない嬢ちゃんだったぜ?」
「――――」
彼の言うとおりだった。
焦りは禁物。むしろ冷静さを欠いて、取り返しの付かない失敗をしかねない。
私は大きく深呼吸をすると、意識して笑みを浮かべてみせる。
「そうね……気張っても、レオナが治る訳じゃない。カーウィ諸島までも時間が掛かるしね」
「その通り。たしかに俺もレオナのことは心配だが、過ぎたるは及ばざるが如し。感情はほどほどに抑えて、焦らず確実に行こうや」
「うむ、さすがはゾルターン殿。我も逸る心を自覚し、見つめ直せた」
「そうか? あんたは泰然自若として見えたがねぇ」
ゾルターン・ハラズディル。
世界最強の騎士団と謳われるイクライプス教国が聖天騎士団に属し、その中でも僅か十三人しかいない最上位騎士たる聖天騎士の一人。《竜騎槍》の異名を持ち、おそらく世界でただ一人、竜種を飼い慣らして使役する無双の槍戦士にして天級魔法士でもある竜人族の男。私とヴァジムが同時に仕掛けても勝てるか否か不明なほどに精強無比な彼こそ、世界最高峰の戦力であり今回の助っ人だ。
カーウィ諸島は竜種が生息していて危険極まるが、竜人たる彼とヴァジムの故郷だし、火竜のアガルトもいる。
「絶対に治療法は見つかるはず……ゾルターン、今回はよろしくお願いするわ」
「おうよ、任せとけ。レオナのことは俺もアガルトも好きだからよ。なぁ、アガルト?」
全長三十メートルを超える巨躯の赤い竜は頭を下げ、私たちの側で低く頼もしい声で鳴いた。頑強な鱗で覆われた頬を撫でてあげると、心地よさげに唸って、鼻から大きく息を吐いてくる。
「よっしゃ、それじゃ久々の帰郷と洒落込むとしますか!」
こうして私とヴァジムは聖天騎士ゾルターンと共に、彼の使役する火竜アガルトの背に乗り、カーウィ諸島こと竜人島へと飛び立って行った。
♀ ♀ ♀
全ては順調だった。
カーウィ諸島までの道程では何事もなく、到着してからも無用なトラブルはなかった。ゾルターンの話通り、アガルトと一緒にいれば無闇矢鱈と竜たちに襲われなかったし、現地の魔物たちはゾルターンどころか私やヴァジムの敵にすらならない。
竜人たちはレオナの病について何も教えてくれなかったが、都に壮麗な居を構える宮殿に潜入して資料を漁ると、病名から治療法まで判明した。
そう、全ては順調"だった"のだ。
「ぅ、く……っ、ヴァジム……」
「奴は自らの意志で戦い、戦士として死んだ。ローズ、嘆き悲しんでも良いが、後悔だけはしてやるな」
カーウィ諸島からの帰路、天高く飛行するアガルトの背で風に煽られながら、私は必死に心の整理を付けようとしていた。
しかし、無理だ。ヴァジムとはレオナに負けず劣らず、時間を共有してきた。親のいない私とレオナにとっては父親も同然で、彼も私たちのことを娘同然に想ってくれていた。
「目的の物は手に入れた。これでレオナは助かるはずだ」
「でも……レオナに、なんて言っていいか……」
「……………………」
レオナは助かるが、それはヴァジムの犠牲の上に成り立つのだ。
心優しい彼女が多大な罪悪感に駆られることは想像に易い。
「アレはどうしようもなかった……真竜を四頭同時に相手して、全滅しなかっただけ儲けもんだ。しかも一頭は伝説に謳われる銀竜だったしよ」
「それは……でも、私が弱かったから……」
「ローズは良くやった。俺も、アガルトも、ヴァジムも、全力を尽くした」
まるで慰めるように、アガルトが両翼で風を切りながら小さく鳴いた。
ヴァジムは遺体すら持ち帰れず、アガルトは右脚と尻尾を失い、私は左腕をごっそり持っていかれた。傷口は治癒魔法で既に塞がっているが、心はどうしようもない。片腕を失った喪失感とは比較にすらならない絶望が、胸中に渦巻いている。
「明日にはセリジュに着く。せめてレオナにはそんな顔見せてやるなよ」
「…………そうね」
今の私がヴァジムのためにできることはレオナを笑顔にすることだ。
落ち込んでばかりもいられない。
この日、私たちはオールディア帝国領内の森で密やかに夜を明かし、夜明けと共に出発した。
「ったく、天気最悪だな」
海を越えてフォリエ大陸の上空に入り、セリジュまであと少しという頃。
アガルトが飛翔する空はどんよりとした黒雲が支配しており、今にも泣き出しそうな薄暗さだ。
「なぁ、ローズ。なんか雲の向こう……妙に明るくねえか?」
地平線付近の空は暗雲が途切れ、青空が覗いている。
しかし、ゾルターンの言うとおり、やけに明るかった。いや、もはや眩しいほどに地平線近くの空は光り輝いている。それは前方――北側だけでなく、見える限り全方位が光輝で満たされている。暗雲が覆う頭上は先ほどと比べて幾分か黒さが薄まり、光が透けているようにも見えた。
「空が……光ってる?」
「ローズ見ろ、あの光芒……金色だ」
暗雲が途切れた隙間からは、一筋の光が地上に降り注いでいる。
その輝きは見飽きるほどに見飽きた黄月――聖神アーレの天眼と同じ色合いだ。
「――ぅお、なんだ!?」
「――っ!?」
不意に、視界が黄金の光で溢れかえった。
反射的に目をつぶるが、目蓋越しにも痛いほど強烈な光が感じられ、なかなか目を開けられない。アガルトも眩しさに驚いたのか、一瞬大きく身体が揺さぶられ、逞しい背中から落ちてしまわないか不安になって、私は薄らとでも目を開けて体勢を整えようとした。
「……え?」
「あれは……まさか……」
私は唖然とした声を漏らし、ゾルターンは愕然とした呟きを溢した。前の鞍に跨がる彼の肩越しに見える光景が非現実的に過ぎたのだ。
天から光線が降り注いでいる。
先ほど見た暗雲の隙間から覗く光柱とは比較にすらならない輝きを放ちながら、一本の光が槍の如く地上に突き刺さり、強烈な輝きを世界に振りまいていた。さながら光魔法による雷撃のようで、バチバチと揺らぎ瞬き、鮮烈かつ圧倒的な威容によって暗雲下を浄化するかの如く照らし上げる。いや、もはや光で灼き尽くさんとする勢いだ。
「――っ、不味い! アガルトッ、ローズッ、衝撃に備えろ!」
呆然と十数秒ほど遥か前方の輝きを見つめていると、不意にゾルターンが叫んだ。
徐々に細く薄れていく光柱が完全に消えた直後、凄まじい衝撃波に見舞われる。私はほぼ反射的に闇魔法を行使してアガルトに密着し、全長三十メートルを超えるアガルトは盛大に姿勢を崩して墜落しかけ、しかし両翼による巧みな姿勢制御で何とか飛行体勢を立て直す。
「雲が……」
着座姿勢を整える私の周囲には、いつの間にか青空が広がっていた。
先ほどまで頭上を広く覆っていた黒雲はすっかり消え失せ、晴れやかな陽気が降り注ぐ快晴の空に成り代わっている。
「ゾルターン、今の……いったい……?」
「…………《大神槍》」
「え……?」
《大神槍》。
それはこの世界で生きる者ならば、一度は耳にしたことのある単語だろう。
エイモル教徒でない私でも、その概要くらいは知っている。
「いや、確証はねえが……アレは……」
「……ゾルターン?」
四頭の真竜と激戦を繰り広げた際も、ヴァジムが死んだ際も、この聖天騎士は取り乱さなかった。しかし、今の彼が激しく動揺していることは後ろ姿からでも十分に伝わってくる。
「なぁ、おいローズ……あの方角……さっきの光が堕ちたとこ、セリジュのある辺りじゃねえか……?」
「え?」
「い……急げアガルトッ、全力だ!」
焦慮も隠さず叫ぶゾルターン、剛速で飛翔する火竜、そして先ほど見た前代未聞の光に戸惑い、私はただ黙っていることしかできなかった。
そうしてしばらく飛行し、セリジュ近郊の見慣れた地形が眼下に広がるようになった矢先、異様な光景が視界に飛び込んできた。
クレーターだ。
いや、それはもうクレーターというより、巨大な穴だった。
まるで何かが大地に深く突き刺さり、引き抜かれた跡のように、底の見えない暗闇がぽっかりと空いている。穴の直径は十メト以上はありそうで、おそらく地上から見れば穴とは思えず、ただ深淵だけが延々と広がっているようにしか見えないだろう。
しかし、私はその光景それ自体より、穴の代わりに見えるはずの街並みが見えないことに、衝撃を受けていた。
「ね、ねえ、ゾルターン……この穴は気になるけど、今は早くセリジュに行って、レオナを……」
「……………………」
大きな背中は小さく震えており、彼の頭は周囲を見渡すように右から左へゆっくりと動き、そして固まった。
私は逞しい肩を縋るように掴むと、揺さぶりながら声を掛ける。
「ゾルターンってば、ねえ……聞いてる?」
「……………………」
「早く、セリジュに……レオナを治さないと……クラリーにおかえりなさいって、言ってもらわないと……」
「……………………」
「ゾルターンッ!」
堪らず叫んだ。
最強の騎士様に否定してほしかった。
しかし、彼の沈黙が雄弁に状況を物語っていた。
「――っ、ローズ!?」
私はアガルトの背中から虚空に身を投げ、特級闇魔法を駆使して安全かつ迅速に地上へ降下しつつ、風魔法で着地点の修正を図る。
そうして降り立った大街道を風魔法による自己加速で全力疾走していく。頭上からゾルターンが何やら呼び掛けてくるが、知ったことではなかった。
ふと前方に荷馬車の集団がいて、横転した馬車を前に男たちが右往左往している。私はその脇を素通りしようとしたが、片腕を失ったことによる身体感覚のズレのせいか、ふと脚が絡まり盛大にすっころんだ。風の速さで駆けていたせいで十リーギス以上は転がった。普段なら反射的に体勢を立て直すことなど造作もないはずなのに、上手く身体が動かず、魔力も練れなかった。
「ローズッ、大丈夫か!?」
地上に降り立ったゾルターンが駆け寄ってくるが、私の視線はあるものに奪われていた。傍らに転がる白い鉄板だ。
プローン皇国の街道でしばしば見掛ける案内板と同じ形状、同じ材質をしているそれには『セリジュまであと三十メトリーギス』と書かれている。先ほどの衝撃波で吹き飛んだせいだろうか、やけに薄汚れて歪んでいた。
「ゾルターン……セリジュは……?」
「……………………」
「ねえっ、セリジュは!? レオナは無事よねっ!? ゾルターンッ!」
「……分からない」
絞り出すようにして呟かれた言葉に、私は何も言い返せず、ただ街道に転がる案内板だったものを見つめることしかできない。
治癒魔法で全身の擦り傷や打撲を治すのも忘れて、私はしばらく呆然と道端にへたり込んでいた。
♀ ♀ ♀
セリジュを中心とした半径一五メトリーギスが消滅した。
文字通り、跡形もなく、消え去った。
風の噂で、オールディア帝国が世界征服宣言を発したとか何とか聞いたが、私にはどうでも良いことだった。
「きっと、レオナは生きてる……生きてるはず……」
クラリーは――私の騎士は、優秀だ。
天が眩く光ってから、光の槍が降り注ぐまで、幾らかの猶予があった。きちんと異変を感じ取って、翼人でもある彼女ならば、きっとレオナを連れてセリジュを脱出できたはず。まだ付近のどの町でも見つけられてないけど、大丈夫。
きっと見つかる。
「……ローズ」
「ゾルターン、次はクライン島に行きましょ」
アガルトの休息に立ち寄った川原で、私は手早く昼食を摂りながら彼に告げた。
「ローズ、レオナやクラリスはもう――」
「きっとミラレスにいるわ。レオナ、昔からあの塩湖が大好きだったもの」
アレから十日が経ったが、レオナとクラリーは必ずどこかの町にいるはずだから、早く見つけてあげないといけない。レオナの病は予断を許さないのだ。早く薬を与えて治さないと、衰弱死してしまう。
「ローズ、俺は教国に戻らなきゃいけねえ」
「……そう、分かったわ。色々ありがとう、ゾルターン。レオナが治ったら、今度は三人で顔を見せに――」
「ローズッ、レオナは死んだんだ!」
筋骨隆々とした中年親父から怒声を浴びせられても、私には臆しない気構えがある。レオナと共に成長してきた中で、心身共に強くなったのだ。
「――――――――」
しかし、動けなかった。
声も出なかった。
「あの光に呑まれてっ、レオナもクラリスもっ、セリジュにいた住民も街ごと全て消えた! 殺されたんだ帝国にっ!」
「やめて! 死んでないわよっ!」
「死んだんだっ! レオナも皆も死んだっ、いい加減それを認めろ!」
受け入れられるはずがない。
だが、なぜか涙が出てきた。
「死んだんだよ……頼むから、その事実を受け止めてくれ」
「…………嘘」
ゾルターンに抱きしめられたが、私はただ小さく呟くことしかできなかった。
心を虚無感が満たし始め、全身を倦怠感が襲い、思わず硬い胸板に顔を埋めてしまう。
「とりあえず、一緒に教国へ行くぞ。今のお前を放っておけねえし、その左腕も治さなきゃならねえ」
「…………」
「これから世界は大混乱に陥るだろうが、教国なら防備も整ってるし、まだ幾らか安全なはずだ」
「……………………レオナ」
「レオナは死んだ。もういない」
認めたくなかったが、溢れ出る涙は止まらなかった。
感情の波が心を攫い、馬鹿みたいに声を上げて泣いてしまう私を、ゾルターンは動じた様子もなく、ただ頭と背中を優しく撫でさすってくる。
「ローズ、もうこいつは捨てちまおう」
ひとしきり泣いて、泣き喚いた後。
呆然とする私をアガルトの背に乗せて、ゾルターンがそう言った。
「いいな? 捨てるぞ?」
「……………………」
何も答えられないでいると、彼は両手で持った木箱を川に放り捨てた。
あの中にはヴァジムの命と引き替えに入手したレオナの治療薬が入っていて、それは同じ竜人族のゾルターンにとっても有用な代物のはずだ。にもかかわらず、彼は捨ててみせた。あれが私にとって未練の象徴であると、的確に見抜いたのだろう。
川の水流に乗ってどんどん遠ざかっていく治療薬を前に、私は取りに行く気力も湧き上がらず、その意味も見出せず、ただ見送る他なかった。
「じゃあ、行くぞ」
こうして、私は全てを失った。
※本編の一人称はずっと『俺』で固定です。