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幼女転生  作者: デブリ
八章・渡航編
179/203

 間話 『冴えた間者の育ちかた 一』

 

※全七話(計17万字ほど)の間話になります。

 

 

 この国には五人の王がいる。

 うち一人は名実共に正真正銘の正当な王であり、人々に広く認知され、国家の頂点に君臨し統治している。

 対して、他の四人を知る者はそう多くない。彼らには正当な王位もなければ国家としての形すらなく、言ってしまえば集団の長に過ぎない。高度に組織化されてはいるだろうが、盗賊団の頭目とそう大差はないはずだ。

 しかし、彼ら四人は確かに王と畏れ敬われ、その異名に相応しい絶大な権勢を有している。特に、この不夜の都では……。


「あ、貴女……正気ですの? 自分が何をしているのか理解していて!?」


 長ったらしい金髪の色艶、傷一つない肌の白さ、そして薄手の高級生地を使った寝間着は貴族令嬢に相応しい。だが、取り乱した振る舞いには余裕がなく、尻餅を付いて見上げる瞳には見慣れた傲慢さが欠けていた。


「これは私にとって通過儀礼といったところね」

「……通過、儀礼?」

「お前を殺すことで、奴の暗躍する舞台に上がれる。どうせこれも奴の脚本通りなんだろうけど、今の私にとってはこれが最善の選択なの」


 別段、説明してやる義理もない相手だ。

 これまで目の前の女からは散々嫌がらせを受けてきたし、今回の件では明確な敵として脅しをかけてもきた。本来であれば、言葉など交わしたくもなく、早々に殺すべき相手だ。

 にもかかわらず、こうして悠長に問答しているのは躊躇っていることの証左だろう。

 本当に人を殺してしまってもいいのか。

 本当にこの選択は正しいのか。

 事ここに至っても尚、覚悟を決め切れていない自分の弱さが腹立たしかった。


「貴女にとっての最善は、弟の無事でしょう!?」

「そうね。だから念のため訊いておくわ。セリオはどこにいるの?」


 もはやこの問いに意味がないことは分かっている。

 伯爵家が首都に構える別邸に襲撃を掛け、令嬢に殺害を臭わせて尋問する。その程度で目下最大の問題が解決するならば、敵はここまで巧妙に舞台を整えたりはしなかった。

 これほど簡単に閉幕とさせてくれるほど、あの最低最悪の王は優しくない。


「こ、答えれば、わたくしを殺さないという保証はありますの……?」

「ないわね。ただ、答えれば楽に殺してあげるわ」

「わたくしを殺して、只で済むと思いますの? 冷静に考えてご覧なさい。わたくしを、伯爵家の魔女を殺してしまっては、家族まで連座で極刑に処されますわよ。貴女だけでなく両親も無事では済みませんわっ」

「そうはならない」


 厚顔無恥もここまで来れば大したものだ。

 弟を窮地に追い込み、人質に取った上で脅迫してきた張本人が何を言うかと思えば、家族の無事を考えろときた。そもそもこの女の一家が仕掛けてこなければ、こんな事態にはなっていなかった。

 いや、それもこれも全ては黒幕のせいか。

 この女も所詮は手のひらの上で踊らされていた道化に過ぎない。しかし、その身の内にある悪感情は本物のはずで、明確な悪意を以て行動していたことは考えるまでもなく明らかだ。


「なりますっ、こんなこと愚かにも程がありますわよ! 今ならまだ、まだ間に合います、これ以上の愚行はやめて早々に立ち去りなさいっ。もはや貴女自身の身の破滅は免れませんが、家族の無事は保証してあげますわよ!」

「それはセリオも含めて?」

「もちろんですわ」


 勘違いしたのか、希望でも錯覚して僅かながらも余裕が生まれたのだろう。もはや視界に入れるのも不快な金髪女は無様な姿勢から立ち上がった。未だに全身が緊張で強張っているのが見て取れるが、表情には見慣れた傲慢さが戻りつつある。

 滑稽に過ぎて、嘆息を禁じ得ない。


「やはりお前は何も分かってないのね」

「な、何ですって……?」


 動揺に声を震わせつつも、怒気の滲んだ目で睨んできた。

 こんな状況でも、これまで見下してきた女に馬鹿にされれば腹が立つのだろうか。性根まで貴族という生き方を擦り込まれているのだとすれば、この女もこの女で少々哀れにも思える。

 しかし、だからといって容赦はしないし、これから殺す女に懇切丁寧な説明もしてやるつもりはない。するとすれば、宣言だ。初めて殺す相手に、何より自分自身に、言い聞かせておかねばならない。今後、不安に押し潰されないだけの自信が必要だった。


「大前提として、お前の価値は私より劣る。お前と私、どちらが強く、どちらが魔女として優れた資質を持ち、どちらがこの国に有益な存在と認められるのか。客観的に見れば明らかなのよ」


 この女のもとに至るまでに、多くの者を無力化してきた。

 夜通しこの豪邸を警備する守衛たち、邸内にいた幾人もの使用人たち、そしてこの女専属の護衛たち。事を大きくして、犯人の姿を見せ付ける必要があったので、秘密裏に侵入して暗殺するという方法は採れなかった。だから正面から護衛たちを制する必要があり、そんな無茶を通して無事にこの女を殺せるのか、決行前は不安だったが、現実は実に呆気ないものだった。

 誰も彼も弱すぎたのだ。手加減できず殺してしまうかもしれないという懸念は無駄に終わった。無事、怪我を負わせるくらいに留めることできて、全員を無力化できた。

 以前から自らの強さは自覚していたが、この夜の間に弱さを痛感したばかりだったので、実戦は違うのだと思っていた。世界は広く、現実は残酷で、自分の思い通りになんてならない。

 その考えはあっさりと覆った。

 上には上がいるように、下には下がいるのだと理解した。


「確かに、お前を殺せば私の身はある意味破滅する。でも、国は私の才能を放ってはおかない。私はこの国そのものに害意がある訳ではないし、今回の一連の件には情状酌量の余地もある」


 凡百の魔法士や戦士など、詠唱省略が可能な魔法士の前ではものの相手にならない。以前、速さこそが戦いの極意だと専属の護衛から聞いたことがあるが、まさにその通りだった。技や戦術など所詮は足りない力を補うだけの小細工で、圧倒的な速度という力さえあれば、それだけでねじ伏せることが可能なのだ。

 だからこそ、国家は無詠唱魔法士を手厚く遇する。まさに一騎当千、念じるだけで人を殺せるなど、常人の枠を越えている。詠唱時間という欠点を克服した魔法士は非常に効率的な殺人兵器となり得る。

 そんな人材を国家がむざむざと手放す訳がない。


「大方、私は表向き処刑されたことにされて、両親の安全と引き替えに馬車馬のように働かせられるでしょうね。表の世界ではなく、裏の世界でね。そして私はそれこそを望んでいるの。お前を殺すことが、お前も巻き込まれたこの流れに抗うことになるのよ」

「…………い、意味が分からないわ……狂ってる」

「かもしれないわね。その原因の一端はあんたにあるんだけど」


 本当は平穏無事に生きていきたかった。

 一国家に属する魔女という立場上、いつかは戦いに駆り出され、人を殺すことになったかもしれない。しかし、それでも家庭は持てたはずだ。好きな人と結ばれて、子を授かって、家族で苦楽を分かち合う真っ当な人生を送れた。実際、何事もなければそうなるはずだった。

 しかし、もはやそんな夢幻は消え失せた。

 いや、今ここで消し去り、現実と戦っていかねばならない。


「それで、さっきの質問には答えるの? 答えないの?」

「……………………」


 金髪女は身構えつつも硬直しており、息が荒い。明らかな緊張状態だが、滅茶苦茶に叫び出したり、逃げ出したりする様子はない。さすがに同じ学院で学んでいただけはあり、魔女としての心構え程度はできているのだろう。


「其は禍因を祓う雷――」


 それを証明するように、上擦った声ながらも正確な発音で詠唱を始めた。

 しかし、あまりに遅い。

 相手が初級魔法を唱え終える前に、〈風盾ド・アーエ〉と〈風刃ラス・ドィウ〉を無詠唱で同時行使し、念のため展開した盾越しに刃を投射する。


「ぅ、ぐっ……………………え?」


 金髪女は前のめりに倒れ込んだ。すぐに身体を起こそうとしたので、戦意はあるようだ。地べたに這いつくばるのは矜持が許さないのだろう。実際、貴族の魔女にはそうした誇り高い一面が確かにある。人より優れた特別な存在として教育されるためだ。

 だから襲撃に気付いても、一目散に逃げ出そうとせず、待ち構えるような愚を犯した。狼藉者が農奴出身の下賤な魔女一人にもかかわらず、尻尾を巻いて逃げ出すなど、伯爵家の魔女として許容できなかったのだろう。


「あ、ああぁぁあああぁぁっ、わ、わたくしの、あしっ、あしがっ」


 自分の膝から下がなくなっていようと、絶叫するのは頂けない。


「どんな痛みに苛まれても詠唱を止めてはならないって、授業で習ったでしょ」

「ぐぅぃぁあああぁあっ、わ、わわわわだぐじの、あじがああぁぁぁぁぁ!?」


 一応、万が一という可能性に賭けるためにも、弟の居所について吐かせた方がいいかと思い、瞬殺は避けた。しかし、床に倒れ込んだまま恥じもへったくれもなく顔面を涙と鼻水で濡らし、気でも触れたかのように叫び散らす姿に正気は期待できそうにない。時間を掛ければ未だしも、すぐにまともな問答は不可能だろう。


「もういいわ」

「――ふぎゅぁ!?」


 〈超重圧ティラグ・ルフ〉で圧殺した。

 熟れた果実が潰れたような有様の死体は見るに堪えないが、目は逸らさない。自らの所業を確と自覚させ、揺らぐことのない覚悟を胸の奥底に刻み込む必要があった。

 豪奢な造りの邸内には今や物音一つなく、自分の呼吸する音だけが静寂を揺らしている。


「――っ!?」


 ふと背後で微かな物音がして、咄嗟に振り返った。

 開きっぱなしの扉から、永眠して間もない令嬢の寝室に一人の女性が入ってくる。見慣れた獣人の彼女は今この場にいるはずがなく、そもそも意識すらないはずだった。

 しかし、今夜は様々なことが一度にありすぎて、もはや驚くに驚けない。冷め切った思考は冷静に状況を分析し、納得のいく一つの答えを導き出す。


「なるほど……実は魔女だったって訳ね、ツィーリエ」


 名を呼ばれた彼女は部屋に数歩踏み入ったところで足を止めた。室内は魔石灯で十分に明るいため、豪奢な内装に見合わぬ凄惨な死体は嫌でも目に付くことだろう。にもかかわらず、彼女は常と変わらぬ無表情で、立ち居振る舞いに乱れはなく、落ち着き払っている。


「貴女のような正調の魔女ではありませんが、一応は」

「何それ、謙遜のつもり? 私の〈霊衝圧ルゥソ・クイン〉を受けておいて、これだけ短時間で意識を取り戻した上に動けるなんて、並の魔女以上の魔法力でしょうに」


 本当は無駄話などせず、早々にツィーリエを無力化すべきだ。そして人目のない地下水路にでも連れて行って、色々と尋問する必要がある。

 が、彼女がこの場に現れた意図が分からなかった。なにせ、まるで食い付けと言わんばかりの餌なのだ。現状での迂闊な行動は悪手となる可能性が高いため、軽々に動けない。


「お前はもうとっくに仲間に回収されたと思っていたんだけど、わざわざ私に殺されに来た訳? 身体的には復調してても、さすがに魔法はまだ使えないはずよ」


 この場に長く留まる危険を承知の上で、判断材料を求めて会話を仕掛けてみる。が、ツィーリエはふっと目を逸らし、無残に死に絶えた令嬢を見つめて呟いた。


「愚かなことをしましたね」


 嘆かわしげに目を伏せて、小さく頭を振ると、再び目を合わせてきた。その顔にはやはり表情らしい表情がなく、声も淡々としているが、酷く疲れて見えた。


「貴女は流れに抗っているつもりなのでしょうが、その選択は流されているも同然です。敵の挑発に乗り、人生を棒に振り、こちらの世界に自ら足を踏み入れようなど……最も愚かな選択です」

「大切な人たちを殺されて、弟を人質に取られて、それで敵を許せと?」

「彼の王が最も忌み嫌うことは、無視されることです。あれの本質は子供と同じで、退屈だから、寂しいから、構って欲しいだけなのです。だからこそ、自らの存在を認知させ、敵意を煽って勝負を仕掛けて尚、相手にされないというのが一番堪える」


 一理あるように思えたが、それは第三者の視点でのみ言えることだ。


「そんなことをすれば、八つ当たりに私だけでなく私の周囲の人たちまで、死ぬよりも辛い目に遭うんじゃないの?」

「そうですね。だからこそ、貴女は素直に流されるべきだった。下手に抗ったところで、結局はあの男の思惑通りに弄ばれて、必要以上に苦しんでから、酷い結末を迎えることになる。全てを受け入れて、抵抗せず流れに身を任せるのが、最も無難だったのです」


 流れに身を任せてしまえば、不幸が確定する。

 しかし、抗えば希望はあるのだ。たとえ限りなく低い可能性でも、勝機はある。そもそも幸福だとか不幸だとかを脇に置いたとしても、大切な人たちを殺した男を、弟を捕えている組織を、許せる道理はない。


「そんな下らない負け犬理論を言うために、わざわざこの場に来たっていうの?」

「そうです。貴女に忠告しておきたかった」


 無防備に突っ立つツィーリエに敵意はなく、むしろ眼差しからは同情の念が感じられた。落ち着いた佇まいは吹けば飛ぶような弱々しさも同然だ。


「かつては私も貴女のように奮っていました。まるで昔の自分を見ているようです。いえ、きっとあの男はそれを承知の上で、私を貴女の近くに配したのでしょう。私が裏切り、この劇が一層面白くなることを期待していたのだと思います」


 ツィーリエも魔女だった。それも人並み以上に優秀で、平民出身だったはずだ。南ポンデーロ大陸でもない限り、多くの国々の貴族社会は人間至上主義が主流だからだ。


「しかし、私は役を演じ切ることにしました。先にも言った通り、下手に抗っては思う壺です。この考えも脚本通りだとしても、私自身の意志で起こした行動が、あの男を楽しませることがないのであれば、流されるのが最も無難な選択だからです」


 流されることが、抗うことになる。

 負け犬の遠吠えも同然の台詞で、共感など微塵もできないが、理解できなくはなかった。


「貴女があの男に敵意を向け続ける限り、貴女は敵と憎む相手を喜ばせ続ける。このままその道を進めば、いずれ貴女は私の二の舞になるでしょう」

「ご忠告どうも」


 気に食わなかった。

 同情するなら、助けてほしかった。彼女の協力があれば、今ほど最悪な状況ではなかったかもしれない。大切な人たちも死なず、こんな苦しい思いもせず、人を殺すことだってなかったかもしれない。

 結局、ツィーリエは屈しているのだ。どう足掻いても敵わないと心底から諦めているからこそ、唯々諾々と命令に従い続けた。裏切らず従い続けることが、せめてもの抵抗だと言い訳をして。


「もはや私は優秀な役者に成り下がりました。私自身に生きている意味など、何もありません。ですから、せめて最後くらいは意味のある行動で、この無意味な劇に幕を下ろしたい」


 ツィーリエが右腰の細剣をゆらりと抜いた。やはり敵意のない動きだったが、剣を抜かれた以上は警戒せねばならない。

 とはいえ、実力差は瞭然のはずだ。仮にツィーリエも無詠唱の使い手だとしても、今の彼女は〈霊衝圧ルゥソ・クイン〉によって魔法を封じられている。まさか魔力的にも既に復調しているとは思えない。何か余程の不意打ちでもない限り、おくれを取ることはないと断言できる。


「……ちょっと、何をするつもり? 本当に殺されたいわけ?」

「私の言ったこと、今は理解できなくても構いません。ですが貴女はこの先、いつか自分の人生が無意味だと思い始めるときが来るでしょう。そのとき、私のことを思い出してください」


 すっと力のない挙動で剣先が持ち上がり、思わず身構えて魔力を練るが、魔法として現象させるには至らなかった。なにせ細身の刃はツィーリエ自身の首に向けられたのだ。左手で構え、右手を刀身に添える姿は悄然としつつも、どこか晴れがましい潔さが伝わってくる。


「『こんな大人にはなりたくない』と言った貴女の言葉は正しい。その気持ちを忘れてはいけない。私も、貴女が私のような大人にならないことを祈ります」


 自嘲的な、それでも笑みらしい笑みを浮かべて、ツィーリエは目を閉じた。かと思えば、刃が鋭く閃いて、首が落ちた。自分で成したとは思えない見事な斬首は思考を停止させるのに十分な破壊力を持っていた。

 これが不意打ちだとすれば、大したものだ。今この瞬間だけは完全に無防備を晒さざるを得ない。どこかに潜んだ伏兵が攻めてきても、まともに対応できないだろう。


「――――」


 今夜見た死に様の中で、最も衝撃的な光景だった。

 しばし呆然と立ち尽くし、くずおれた身体と血に沈む頭部を見つめてしまう。


「何だって言うのよ……」


 もう訳が分からない。

 一旦、どこかで落ち着いた方がいいだろう。冷静になって、もう一度自分の置かれた状況を見直し、本当にこのまま予定通り動いていいのか検討するのだ。本来であれば、このまま次の目的地に直行するつもりだったが、一日ほど時間を置いても問題はないだろう。


「……私を動揺させる策だとしたら、大したものね」


 今度こそ本当に無人となった邸内で一人呟き、大きく深呼吸をしてから歩き出す。部屋を出る直前、最後にちらりとツィーリエの遺体を見てみた。半ば血に沈んだ死に顔は穏やかで、しかし同時に空虚でもあった。

 言い知れぬ不安感を覚えて、すぐに視線を切った。


「これでいいはず、これで奴に一歩近付いたはず」


 この国の裏社会に君臨する四人の王。

 そのうちの一人と戦っていくには、真っ当な道から逸れる必要がある。影に潜み、夜を歩き、世界の裏側で生きねば、近付くことすらできない。しかし、そこは嘘と裏切りと陰謀が渦巻く混沌の坩堝だ。きっと一筋縄ではいかず、数々の艱難辛苦に見舞われることは必至のはず。

 足を踏み入れるからには覚悟を以て、根気強く歩いていかねばならないだろう。




 ■   ■   ■




 そもそも、なぜ裏の世界に足を踏み入れようと思ったのか。

 その原因を辿れば、己の出生まで遡らざるを得ない。

 自分では実感の伴わない事実であるが、とある農奴の一家に一人の娘が生まれた。彼女はネリーアと名付けられ、生後間もなく最寄りの教会に連れて行かれた。あの善良な両親は我が子に洗礼を受けさせたかったのだろうが、農奴の子にそんな贅沢が叶うはずもなく、魔力検査のためだ。女の新生児は必ず魔力検査を受けねばならないと法が定めている。

 検査の結果、ネリーアは一定以上の魔力を保有していることが――魔女であることが判明し、両親と共にサイルベア自由国の首都グローリーに移り住むこととなった。


 サイルベア自由国は世界で最も自由な気風を謳うだけあって、他の多くの国々のように奴隷らしい奴隷はいない。いるのは農地に縛られた農奴であり、農奴は住居や財産の所有、家族との生活も許された存在だ。しかし、収穫した農作物の大半は地主に吸い上げられてしまうため、農奴から脱して自立することなど到底叶わず、死ぬまで貧しい生活を強いられるという点においては十分に劣悪な身分といえる。

 そんな農奴から脱する最も一般的な方法は、魔女を生むことであった。魔女を生んだ両親と魔女の兄弟姉妹は農奴身分から解放され、都市部に住居まで与えられて、一家が普通に暮らしていけるだけの生活保証金も毎期ごとに支払われる。代わりに我が子――魔女は国に仕えることになり、もし魔女が国から独立すれば、一家に支払われる生活保証金も打ち切られるという制度だ。

 ネリーアは魔女として、物心付く前から高度な教育を受けさせられた。七歳からは王立魔法学院の学生寮で暮らし始め、十五歳の成人を迎える頃には同期の魔女たちの中で最優秀の才媛として名を馳せていた。


 ……などと客観視してみれば、なるほど幸運で幸福な人生を送ってきたように思う。なにしろ例の事件が起きる前は伯爵家の長男と婚約すら交わしていたほどだ。我ながら魔法力だけでなく容姿にも恵まれていたため、この身が下賤な農奴出身の平民身分でなければ、より上の公爵家か侯爵家に嫁入りすることすら可能だっただろう。

 人間至上主義が主流の貴族社会において、優秀な人間の魔女を嫁に迎えることは一種の伝統であり文化だ。魔法力は容姿のように遺伝する傾向にあるが、血を重んじているからこそ、農奴という下等な血を一族に入れたくないという思いもまた強い。伯爵家の嫡男と婚約できたことは、その減点要素を上回る加点要素として、比較的希少な無属性適性者で詠唱省略が可能、そして容姿端麗な人間の魔女であるという点があればこそだ。


「ネリー、最近セリオの様子がおかしくてね」


 後々になって思えば、事件の始まりは母のそんな一言だった。

 いや、始まりというより、表面化という方が正確だろう。始まりというのであれば十年ほど前からで、このときまでは完全に水面下での出来事だった。


「あまり家に帰ってこないし、昨日なんて久しぶりに帰ってきたと思ったら傷だらけで……。きっと良くない人たちとつるんでるんだわ。あなたから何か言ってあげてくれない?」


 十五歳当時はまだ寮暮らしだったが、最低でも一節に一度は実家に戻る習慣を作っていたため、その日もいつも通り夕飯に母の手料理を食べようと思っていた。


「まあまあ、母さん。あいつもやんちゃしたい年頃だろうし、そう心配することもないと言っただろう? ネリーア、セリオのことは俺たちに任せて、お前は自分のことに集中するといい」

「でも、あなた……あの子はネリーと話し合うべきだわ。ネリーはネリー、あの子はあの子で、わたしたちは何も気にしていないのに、あの子は変なことばかり気にして……」

「そうかもしれんが、ネリーアは来年には卒業で、貴族様に嫁入りするんだぞ。ネリーアにとって今は大事な時期なんだ。万が一にでも何かあったらどうするんだ」


 父はそう言ってくれたが、しかし娘として、姉として、母の言葉は看過できなかった。

 ただ、もしこのとき、父の言うとおり自分のことに集中し、弟の件に関与しなければ、道を踏み外すことなどなかっただろうが……。


「父さん、そんなに心配しなくても大丈夫だから。セリオと少し話すだけ話してみるわ」


 弟が荒れている原因が、姉である己にあることには気付いていた。だから罪悪感もあって、何より家族として、弟を放ってはおけなかった。

 『今は大事な時期』、『万が一にでも何かあったら』と父は言った。母は『良くない人たちと連んでる』とも言っていた。どこの街にも荒くれ者はいるもので、大抵はそうした連中が麻薬や売春や賭博の元締めとなっている。両親は明言こそしなかったが、最近の弟はそうした裏社会に片足を突っ込んでいるのだろう。


「セリオ、久しぶりね」


 両親と話した数日後、それまでの人生ではあまり馴染みのなかった酒場に出向いて、弟と会った。日々どこをほっつき歩いているのか分からず、ろくに家にも帰らない弟の居所は、父に教えてもらった。

 父は娘によってもたらされる国からの生活保証金で生きることを良しとせず、上京してすぐに仕事を探した。当時まだ赤子同然であった我が子が稼いだような金で生活の全てを賄うなど、父親としての意地が許さなかったのだろう。

 元農奴の田舎者に大都会での仕事が簡単に見付かれば、浮浪者や貧民街など存在しないが、魔女の親という身元が奏功したのだろう。広大な都市内を巡回する乗合馬車の御者という仕事に就けた。それを十年以上も勤勉に続けていると、慢性的な痔に悩まされることを代償に、ある程度の人脈が構築されるらしい。父は常連の客から、息子が頻繁に顔を出す酒場があるという情報を入手していた。

 当時、実家に帰る度に治癒魔法で父の痔を治すという、伯爵家に嫁入り予定の乙女として他言できない秘事を疎ましく思っていたが、あのときばかりは父の仕事が御者で良かったと心から思えたものだ。


「んだよ姉貴……何こんなとこ来てんだ」


 およそ一期ぶりに顔を見た弟は、以前より擦れた印象が強かった。年子なので弟は十四歳だったが、父の体格が遺伝したのか既に身体は立派なもので、声も男らしく低い。腕や頬に幾つか生傷が見られ、鋭い眼差しと相まって、飢えた野犬のような凄味や迫力を感じさせる。

 これが他人なら幾らか怖じ気づいたかもしれない。が、相手は弟なので恐怖や怯懦といった感情は喚起されない。それどころか、思わず弟の身体に触れて治癒魔法をかけようとする自分を密かに制し、まずは微笑みながら言葉を掛けていく。


「父さんと母さんが心配してるわよ。毎日とは言わないけど、三日に一度くらいは家に帰ったらどう?」


 弟は柄の悪そうな四人の少年たちと一緒にいて、そのうちの一人が「そいやセリオの姉ちゃんって魔女なんだっけ?」と好奇心の覗く発言をすると、弟は舌打ちを零して席を立った。

 無言のまま歩き出すその背について行く。

 酒場から出て間もない道端で弟が振り返ると、その顔は不機嫌そうにしかめられていた。


「姉貴さぁ、あの貴族の坊ちゃんと結婚すんだろ? いくら護衛がいるからって、こんな小汚ねえとこ来てんじゃねえよ、馬鹿じゃねえの」

「あら、心配してくれるの?」

「してねえよっ、鬱陶しいからオレに関わるなって遠回しに言ってやってんだよ! 分かれよそんくらいさぁ!」


 怒ったように言っているが、半分は照れ隠しの演技だろう。鬱陶しく思われていることは確かだろうが、家族として気遣ってくれているのも事実のはずだ。あの両親の息子であるおかげか、悪ぶっていても根は善良なのだ。


「鬱陶しいだろうけど、私はあなたの姉で家族なんだから、関わらないわけにはいかないわ。父さんと母さんと同じで、危ないことはしてほしくないの」

「あっそ。だがな、これはオレの人生だ。してほしくないとか言われても、オレは親父や姉貴のために生きてるんじゃねえ。オレはオレのしたいようにする。そもそも姉貴はオレに構い過ぎなんだよ、普通そんな干渉してこねえぞ」


 弟の言い分は理解できた。

 昔は『おねえちゃん、おねえちゃん』と甘えてくる弟が可愛くて、よく一緒に遊んであげたものだ。最近はご無沙汰だが、二年ほど前まで実家に戻った日は弟と一緒に入浴したり、同じベッドで寝たりもしていた。

 しかし、学院の友人や後輩で弟のいる者に話を聞くと、どうやら皆それほど仲良くはしていないらしい。大きく年の離れた弟に対しては可愛いと言う者もいたが、一、二歳程度の差しかない弟に対しては、生意気だとか鬱陶しいという意見が多く、せいぜいが嫌いではないという消極的な好意だった。

 そういった一般論に鑑みれば、未だに弟を可愛く思う自分の行為は過干渉かもしれないと思うが……。


「余所は余所、うちはうちでしょう。姉として弟を愛してることの何が悪いの? セリオのためなら、私はいくらでも干渉するわ。少なくとも、あなたが十五歳になって、大人として誰にも恥じることのない、後ろ指を指されないような仕事に就くまではね」

「そういうのをやめろって言ってんだよっ、いつまでもガキ扱いすんじゃねえ! オレの生き方はオレが決める! いちいち口出しすんじゃねえよっ!」


 そう怒鳴り声を上げたところで、弟はふと我に返って自分を恥じたのだろう。小さく溜息交じりの舌打ちを零し、苛立ちを抑えた低い声で無愛想に続けた。


「分かったらとっと帰れ、もうここには二度と来んなよ」


 話は終わりだとばかりに歩き出し、横を通り過ぎようとする弟。その腕を掴んで、引き止めた。こんな上辺だけの話をするのではなく、やはり深く切り込む必要があるのだろう。これまで漠然と察していながらも、避けていた話題を持ち出し、きちんと話し合うのだ。

 そのためにも、まずは下級の治癒魔法をかけてやることにする。詠唱は省略したので、一瞬で行使され、腕の生傷が綺麗に治った。


「勝手に何してんだっ、やめろよな!」

「セリオ、あなたの言うとおり、あなたの人生はあなたのものよ」


 手を振り払われたが、すぐに今度は弟の手を両手で握って、真摯に見つめながら告げる。


「だから、今セリオの送っている生活が本当にあなたの望んだことで、今の状況に満足しているなら、父さんも母さんも私も、何も言わないわ。犯罪とかでない限り、あなたのやりたいことなら、なんでも応援する。でも、あなたは今の自分に満足しているの? 今のままで幸せになれそうなの? 少なくとも私には、とてもそんな風には見えないわ」

「満足とか幸せとかそういう話じゃねえんだよっ、姉貴にオレの何が分かるってんだ! いいから放しやがれ!」


 再び振り払おうとする弟の手を強く握りながら〈霊引ルゥ・ラトア〉を使い、固定する。


「赤の他人に何を言われようと、どう思われようと、気にすることなんてないの。私は私で、セリオはセリオ。あなたが私に引け目を感じていることは知っているつもりよ。でも、誰かと自分を比較して、自分に価値がないとか思う必要はないわ。そんなの馬鹿げた考えよ」

「うるせぇっ、テメェが言うんじゃねえよ!」


 魔女の弟として、一時期セリオは周囲から期待されていた。

 他国では様々らしいが、サイルベア自由国では魔女のいる一家の兄や弟は魔法力の優秀さを期待されて、魔女同様に無償で魔法を学ぶことができる。これは強制ではないが、魔法と同時に最低限の読み書き計算なども併せて教えてもらえるため、平民がその好機を逃す場合は稀だ。

 セリオも学院に通って魔法を中心に勉学に励んだが、十歳で打ち切られた。魔法の才能がない者に、無償でそれ以上の教育を施すことは国益に適わないためだ。それ以外の、例えば計算が得意で算学の才能を見出されれば、その分野で無償の教育を受けられるが、セリオはいずれの才能も突出してはいなかった。

 魔法の才能なし、これ以上無償で教育してやる価値なしという、謂わば無能の烙印を国から捺され、セリオは傷付いたはずだ。両親を除く周囲の者たちからも、才能ある姉と比較するような心ない言葉を掛けられたことだろう。


「テメェは才能あるからそんなこと言えんだよ! 貴族と平民みてえなもんだっ、素で見下しやがって! 自分が見下してることにすら気付いてねえ! テメェはさっさと本物の貴族にでも何にでもなって二度とオレの前に姿を見せんじゃねえ!」

「私だって学院では見下されて、侮辱されて、何度も嫌な思いをしたわ。だから全部とは言わないけど、セリオの気持ちは少しなら分かるつもりよ。だからこそ、他人と比べて自分はこうだとか卑屈になったり、自棄になったり、そういうのは馬鹿げてるって分かる」


 貴族社会は血統を重んじる。

 概ね遺伝するとされる魔法力の高さは、貴族社会では誇りになる。それは貴族の起源が軍人だからだ。魔法の力は強大で、覇級以上の魔法を扱える者は一人で戦場の趨勢を左右できるほどの強者である。外敵から仲間を――民を庇護できるからこそ、非凡な力を有しているからこその特権階級であり、弱者にその資格はない。

 実際、特級以上の魔法が扱える軍属魔法士の七割以上は貴族だ。獣人や翼人の血が混じっていない純血の人間であることと同じか、それ以上に、魔法力は血統の価値を――貴族社会における序列を決める重要な要素の一つだ。

 幼少期から魔女としてなまじ優秀だったために、ネリーアは貴族の少女たちからしばしば嫉妬の的にされてきた。こちらも同じ貴族であれば尊敬の念を向けられたかもしれないが、生憎と平民どころか下賤とされる元農奴の血筋だ。にもかかわらず、生まれをさほど気にしない貴族の少年たちも中にはいて、我ながら整った容姿をしているだけに、魔法力という優秀な血を目当てに言い寄られたことも多かった。

 そのせいで更に少女たちの妬心を煽ってしまい、数え切れないほど陰湿な苛めを受けてきた。だからこそ、弟の気持ちは理解も共感もできる。そう考えれば、あの性悪女たちを許してやってもいいくらいだ。奴らに苛められていなければ、きっと弟の気持ちには気付けず、それどころか自らの才能に溺れて、驕り高ぶった嫌な女になっていたかもしれない。


「父さんと母さんだって、よく言っていたでしょう? 今の自分にできることを精一杯にやって、今日より良い明日になるように、真摯に生きることが大事なの。決して自暴自棄になったりしてはいけないわ。それは弱虫のすることよ」

「オレが弱いって言いてえのかっ!?」

「今の私の言葉であなたがそう思ったのなら、そうなんでしょうね」


 道端で話しているせいで、先ほどから通行人の視線が鬱陶しい。男が女に怒鳴っていて危ない雰囲気に思えるだろうが、女の方が男の手をしっかりと握り締めているおかげか、あるいは三歩ほど後ろに獣人の女性もいるので三角関係の修羅場だとでも思われているのか。

 いずれにせよ、誰も声を掛けてはこない。痴話喧嘩の類いだと思われているはずなので、飢えた犬すら近付いては来まい。


「セリオ、何をどうすればあなた自身のためになるのか、真剣に考えて。悩んだり困ったりしたら、相談したり頼ったりしていいの。父さんも母さんも私も、喜んであなたの力になるわ」

「そういうのが見下してるって言ってんだ! 恩着せがましいんだよっ、本当にオレの力になりたいならオレに関わるな! もう放っておいてくれっ!」


 そう言いながらも、乱暴なことはしてこない。

 本当に手を放して欲しければ、本当に姉を嫌っていれば、強引に手を握られた状況でも頭突きなり押し倒すなり蹴るなり、できることは幾らでもある。女に暴力を振るうのは格好悪いと思っている面があるかもしれないし、魔女に実力行使では敵わないと思われている可能性も否定できないが、この弟は違うはずだ。

 本当は優しいから、本当は気持ちが伝わっているから、良心が乱暴なことをさせないのだ。七歳からは寮暮らしで、弟とはあまり会えていなかったが、セリオのことは両親の次に理解していると自負している。


「……セリオ、私のことは嫌ってもいい。でも、父さんと母さんのことは疎ましく思わないで。本当にあなたを心配しているの。せめて家には帰って、二人を安心させてあげて」

「ハッ、結局はそれかよ! オレのためとか言っておいて、親父とお袋のために、何より自分のためにわざわざこんなとこまで来たんだろっ! そりゃそうだよなぁ、オレが何か問題起こせば貴族様との婚約もなしになるかもしれねえし、親父とお袋の老後も心配だもんなぁっ!」

「――――」


 このとき弟に言われた言葉は本当に悲しかった。嫌われる覚悟はしていたつもりだったが、面と向かって心からの親愛を否定されると、胸が苦しくなった。


「……違うわ……違うの、セリオ……どうして……そんなこと言うの……?」


 姉として毅然と、そして優しく振る舞いたかったのに、溢れ出てくる涙を止められなかった。


「な……なに、泣いてんだよ……」

「私はただ、あなたに……弟に、家族に、幸せになってもらいたいだけなの。私のせいで、今までたくさん嫌な気持ちになったと思うし……私を嫌いになるのも仕方ないって、分かってたけど……」


 嫌われる覚悟はあった。

 しかし、家族として、姉としての想いを、信じてもらえない覚悟はしていなかった。自分はこんなにも弟を親しみ愛しているのに、それに応えてもらえないどころか信じてもらえない悲しみは、不意打ち同然に深く鋭く心を抉ってきた。


「…………ごめんなさい、急に」


 弟の手を握っていた両手を放し、涙を拭う。

 学院の性悪な令嬢たちからどんな嫌がらせを受けても、意地でも泣かなかったのに、こんな簡単に泣いてしまうとは思っていなかった。


「今あなたが幸せなら……それでいいわ。私が鬱陶しいなら、できるだけ顔は見せないようにするから。でもせめて、父さんと母さんのことまで、嫌いにならないで。三日に一度でもいいから家に帰って、元気な顔を見せてあげて」

「……………………」

「じゃあ、またね」


 本当は辛抱強く、焦らずじっくりと、弟に語りかけるべきだった。

 しかしこのときは、これ以上自分が弟に関わるのは弟のためにならないと、そういう言い訳を内心でこねくり回すことで、逃げた。あまりに辛くて、悲しくて、弟の前に立っていられなかった。


「…………ちっ、んだよ……くそ」


 背後から弱々しい呟きが聞こえてきた。もしかしたら弟は先ほどの言葉を悪く思ってくれているかもしれない。反省しているような表情を浮かべているかもしれない。

 そう考えると同時に、本心から鬱陶しいと感じているような苛立った表情かもしれないとも思うと、とてもではないが怖くて振り返ることなどできなかった。

 結局、そのまま去るしかなかった。




 ■   ■   ■




 それから一期ほどが経った年末。

 エイモル教において、一年と一年の間にある白無日は家族や親しい者と過すことが奨励されている。学院は年末年始の三節ほどが休みとなり、貴族の子女は生まれ故郷に帰省したり、首都グローリーにある別邸で家族と過す。

 ネリーアの婚約相手であるディーン・マクレイアは首都にある別邸から日々学院に通っており、普段は使用人の他に母親と妹と一緒に暮らしている。母親は我が子が心配で、妹は魔女ではないが貴族の娘として首都の女学院に通っているからだ。父親である伯爵は首都の北方にあるベルアスク領の主として、普段は本邸で領地運営に勤しんでいる。

 婚約は橙土期の終わり頃に決まったため、ネリーアは別邸の方には何度も訪ねたことがあったが、まだ婚約相手の領地ベルアスクを訪れたことがなかった。そのため、年末年始の休暇はベルアスク領で過すことを半年以上前から計画しており、ディーンの母と妹、それに自らの両親と共に首都を離れ、婚約者の故郷に向かった。


「ご無沙汰しております、ベルアスク伯。この度はお招きいただき、ありがとうございます」

「いやいや、ネリーア、そんなに畏まらないでくれたまえ。もう来年には我が家の一員、私の娘となるのだからね。ご両親も、そう硬くならずとも大丈夫ですよ」


 ディーンの父親であるマクレイア家当主にしてベルアスク伯爵ディライアは気さくな人で、貴族らしい威厳より人の良さを感じさせる紳士だ。ネリーアの両親共々、別邸の方で何度か会ったことはあるため、それほど緊張感はなかった。

 しかし両親の方はそうもいかないようで、肩肘張って挨拶する声は硬く、これまで何度も教えてきた礼儀作法なども十分に活かされていない。


「ところで、ご子息の姿が見えないが……此度は双方の家族が一堂に会して年を越せるものと思っていたのだが、どうかされたのだろうか」

「も、申し訳ありませんっ! 愚息は、その……何かと気難しい年頃でして、連れて来ることができず……いや父親としてお恥ずかしい限りです。本当に、申し訳ありません」

「ふむ、そうか……壮健であるなら結構。十四の少年であれば、少しばかりやんちゃでも仕方あるまい。私も若い頃は好き勝手に遊び回ったものだ」


 伯爵は気分を害した様子もなく朗らかに頷いてる。

 ディライアは現在、五十一歳だ。彼には兄がおり、伯爵家も裕福だったので、三十歳頃までは気楽な次男坊として放蕩生活を送っていたらしい。しかし、あるとき兄が急逝してしまった。兄の子供二人はまだ十にも満たなかったため、前伯爵がディライアを跡継ぎに指名し、当時まだ十六歳だった少女を嫁に迎えさせて、今に至る。


「まあ、親睦を深める機会はこれから幾らでもあるのだし、若者の貴重な時間を割いてもらうのはまたの機会としておこう」


 こういった寛大な心の持ち主だからこそ、いくら優秀とはいえ農奴出身の魔女を嫡男の嫁にできるのだろう。婚約を決める前に、ベルアスク領について色々と調べた際にも、悪い噂はほとんど聞かなかったし、息子のディーンも父親のことは尊敬しているようだった。実際に何度か会って交流した今では、ネリーアも尊敬に値する人物だと思っている。


「ネリー姉様っ、前にお話ししたお風呂のこと覚えてる? グローリーの家より立派だし、源泉かけ流しで凄いのよ! お母様とおば様と四人で一緒に入りましょう!」


 貴族の娘として決して下品にならない程度に元気な声で言いながら、珍しくはしゃいだ様子の少女が腕に抱き付いてくる。ディーンの妹のマルティナだ。彼女はまだ十歳で、普段は母親に似てもう少し落ち着いた娘だが、久々に実家で過ごせることが嬉しいのだろう。


「そうね。翼人に抱えられていたとはいえ、結構な長旅でしたし、まずは疲れを癒すのが良さそうですね。皆で入りましょうか」


 という伯爵夫人の言葉もあって、伯爵家自慢の浴場をまずは女性陣から堪能することとなった。伯爵とディーンと父の三人も後で裸の付き合いをするという。

 サイルベア自由国は入浴文化が盛んで、都市部には必ずといっていいほど公衆浴場があるので、庶民でも気軽に入浴できる。無論、田舎住まいの農奴はそういうわけにもいかないが、地方の村落でも源泉さえあれば殊更に浴場を建設せずとも露天風呂として利用されているらしい。その辺りは地理地形や領主の裁量次第で、ネリーアの両親の故郷にはなかったようだ。


「す、凄いお風呂ね……グローリーのお宅のも凄かったけど、ここはお風呂だけでうちより広いわ……ネリー、あなた毎日こんなお風呂入れるようになるのね」

「母さん、私は学院を卒業したら中央軍の所属になるから、基本的には首都暮らしよ。前にも言ったでしょう」

「えへへー、兄様と結婚したら、ネリー姉様はわたしたちと一緒に住むのよねー」


 マルティナが嬉しそうに笑う一方で、その母である伯爵夫人ミレーナは意味深な微笑みを浮かべてネリーアを見つめた。


「とりあえずはそうなっていますけど、その辺りはディーンとネリーアさん次第ですよ。魔女が子を授かれば二年は軍務を免除されますから、妊娠中も産後もこちらでゆっくりするのが良いでしょう」

「えー、一緒に暮らせるのではないのですか? ネリー姉様?」

「ま、まあ、その……どうだろうね? いつ身籠もるかは分からないし……」


 優秀な魔女はなるべく体力のある健康な若いうちに、多くの子を出産することを――それこそ毎年のように出産することを求められる。特に貴族の魔女はその傾向が強い。優れた魔法士の子は同様に優れた魔法士となる可能性が高いので、富国強兵であることを願う軍部も多産を奨励している。

 ネリーアの卒業後は軍属だが、所詮それは建前だ。いざとなれば妊娠中でも戦争に駆り出せるようにという保険で、昨今のサイルベア自由国の安定した情勢下では、もはや保険というより伝統といえる。

 伯爵夫人であるミレーナも魔女であり、現在でも書類の上では軍属だが、彼女は二人しか出産できていない。ミレーナは見るからに線の細い女性で、生まれ付き体力面にやや難があり、当時はなかなか妊娠できなかったという。実際、ディーンとマルティナは四つも離れている。三人目は頑張ったが恵まれず、もう諦めていると、以前にミレーナ本人から聞いた。彼女は男爵家の出身だが、そういった身体的な負い目があるからか、農奴出身のネリーアにも優しく接してくれる。


「わたくしとしては、孫はたくさん欲しいですけど、そう焦ることはないですよ」


 という伯爵夫人の発言が本心かどうかはさておき、優しく接してもらえているので、子供はたくさん産む必要があるだろう。一人でも魔女を産まないと、なんだか立つ瀬がなくなるような気がした。


「ネリーアさんは健康な良いお身体をしていますし、魔女として才能もあります。若く勢いのあるうちに才能を開花させていくのも良いでしょう。お母様は本当に良い娘さんに恵まれましたね」

「あ、いえ……いえ、はい。そうですね、本当に。よくできた娘で、母として誇らしい限りです」


 広々とした湯船に浸かって母親同士が歓談する横で、マルティナはどこか居心地悪そうに背を丸めて、湯面に視線を投げ出している。


「あーあ、わたしも魔女だったら良かったのになぁ。魔法使えて楽しそうだし、みんなの役に立てるし……どうして聖神様はわたしを祝福してくれなかったのかな」

「魔女もそう良いことばかりではありませんよ。それに、わたくしも皆もマルティナが魔女でなくとも、あなたのことが大好きですし、ただ健康に生まれてきてくれただけで十分に祝福は受けています。いつも言っているでしょう? 魔女でないことを気にする必要など全くありませんよ」

「気にしては、ないけど……でも、やっぱり羨ましいよ」


 と呟く少女の顔は曇りがちだ。

 母親が魔女であるにもかかわらず、魔女として生を受けなかった貴族の娘は劣等感を覚えることが多いという。両親の教育が良かったおかげか、普段のマルティナはそんな素振りなど全く見せないが、魔女の話題になると色々と思うところは出てくるのだろう。

 彼女の通っている女学院は、魔女ではない貴族の娘や豪商の娘といった上流階級のみが通う名門校だ。貴族の中には、魔女でない娘はハズレ扱いされることもあると聞く。そういった少女たちと同じ学び舎にいれば自ずと影響を受けて、少なからず気にするようになるのも無理はない。


「そうだよ、マルティナ。貴族の娘として生まれただけで十分に幸運だし、祝福されてると思うな。私は生まれのことで色々言われることもあるけど、気にしてないよ」

「……でも、姉様も羨ましいとか、思わない?」

「思わないよ。他人は他人だし、気にしたところで、どう生まれたかっていう過去は変えらない。だから、この変えようのない自分として生まれた以上、自分に何ができるのかを考えた方が楽しいし、周りみんなのためにもなるよね」


 本当は羨ましいと思うこともあったが、このとき必要だったのは事実ではなかった。マルティナを勇気づけることが大切で、多少の嘘を吐くことに抵抗はなかった。


「なんか……ネリー姉様は、凄いね。わたし、そんな風に考えたことなかった」


 尊敬の眼差しを向けられるのは少しくすぐったかった。

 おそらくマルティナはネリーアという優秀な魔女に羨望めいた憧れを抱いている。魔女として誕生できなかった自分の代わりとして、伯爵家に貢献してくれることを願っているのだろう。要は一種の自己投影か代償行為で、だからこそ婚約の段階で早くも姉様などと呼ぶほど懐いてくれている。


「わたしでもみんなの役に立てること、何かあるかな?」

「たくさんあるよ。ですよね、奥様」

「ええ、もちろん。ネリーアさんの言うとおりですよ、マルティナ」


 学院生活で同性の貴族には悪印象ばかり抱いていた自分から見ても、素直に良い女性だと思えた。自らの母に負けず劣らず、ミレーナは善良な人なのだろう。


「うん……そうだよね。それなら、わたしはうちより家柄のいい貴族の長男と結婚できるように頑張るわ! 魔女でなくても、高い教養とある程度の家柄があって美人なら可能性はあるって言うしね! わたしもお母様の娘なら、将来は絶対美人になれるし!」


 マルティナは覚悟を決めたように、でも楽しげな笑顔で宣言した。まだ十歳とはいえ、名門女学院には玉の輿に乗るために一流の淑女となるよう期待されて入学させられる令嬢が多いと聞くし、その影響による発想だろう。


「え、えーっと、マルティナ、それは……」

「こらこら、そんなこと頑張らなくてもいいんですよ。ディーンがいますから、あなたは相手が平民の方でも、好きになった男性と結婚していいんですからね」


 微苦笑するミレーナに伯爵夫人としての見栄や欲望などは感じられない。ネリーアの母と同じく、純粋に我が子のことを想っていることが窺い知れた。

 義母と義妹になる予定の相手はどちらも人柄の良い好感の持てる人物で、順調に親睦を深められている。そう思うと嬉しさより安心感を強く覚えたが、いずれにせよ幸福なことだ。

 しかし、首都にいる弟のことを考えると、幸福感には浸れなくなる。危ないことをして怪我していないか、今後再び家族全員で仲良くできる日は来るのか、結婚式に弟は来てくれるのか……このときは弟に関する不安が尽きなかった。

 それを一時でも誤魔化すべく、心地良い湯加減の温泉に意識を集中して、和やかな雰囲気の入浴時間を過していった。




 ■   ■   ■




 諍いが起きるようなこともなく、両家の交流は夕食時でも順調だった。

 普段は感じの良い壮年の紳士といった様子の伯爵だが、酒が入ると気分が高揚するのか、昔は遊び人だったという話を思い起こさせる軽妙な語り口で笑い話や冗談を繰り出し、食事の席は終始賑やかだった。


「ごめんね、父さん鬱陶しくなかった?」


 夕食が一段落した後。

 ディーンと共に屋敷前に広がる庭園を散歩し始めた矢先、そんなことを言われた。どこか困り顔で、呆れているような様子だ。


「そんなことないわ。いいお父様ね。お話も諧謔に富んでて楽しかったわ」

「ならいいんだけど……普段は割としっかりしてるのに、お酒を飲むと少しだらしなくなるからね。そのくせ社交界では結構評判良くてさ、あんまり貴族らしくないから面白がられてるんだと思うけど」

「いいえ、少し分かるわ。酔った様子でも上品だもの」


 ここはお世辞でも婚約者の父親を褒めるべきところだった。が、幸いにも虚言を弄する必要はなく、本心からの言葉で事足りた。

 伯爵は良い意味で貴族らしくないのだ。若い頃に遊び回っていた際は身分を偽り市井に混じって生活していたらしいので、平民の視線というものを理解できている。一時期は猟兵として活動していたこともあるという話だ。

 そのせいか、貴族らしい驕慢さがなく、しかし気品は備えているものだから、平民視線の話を面白可笑しく語れば、貴族相手には物珍しくて受けが良いのだろう。ネリーア自身や両親のような庶民にしても、親しみやすさを感じられて好印象だ。


「父さんの前ではあまり褒めないでね。若い子が相手だと、すぐ調子乗るから」


 そう苦笑する姿に嫌味はなく、決して父親のことを悪く思っていないことが分かる。


「ところで、綺麗なお庭ね。さすがは伯爵様のお屋敷」

「ネリーはこういうのあまり好きではなかったんじゃない? こう、如何にも貴族って感じに、自分たちの権威を見せ付けるためのものとかさ」


 広々とした庭園はきちんと手入れが行き届いており、あちこちに凝った意匠の庭園灯が幾つも立っている。光魔石が硝子越しの明かりで色とりどりの花々や草木を照らし上げ、昼間とは違った美しさを演出していた。

 照明は防犯目的を兼ねているのだろうが、そうと感じさせない点はさすがというべきか、星空の美観を損ねない上品さは如何にこの屋敷の主が美的感覚に優れているのか、おそらく見る者が見れば一目瞭然なのだろう。無論、この庭園の維持費が如何ほどなのかも。


「そうね。凄く高価な服とか装飾品で着飾ったり、美術品なんかを並べて来客に見せ付けたり、そうやって自分を大きく見せることを頑張るのって、なんだか虚しそうだもの」

「まあ、その点は僕も同意するよ。でも……ごめんね。僕と結婚すれば、少なからずそういう虚飾に満ちた生活とか付き合いをすることになると思う」

「いえ、それは承知の上だし、大丈夫。ただ、この庭園みたいな、純粋に綺麗な光景は好きよ。草花だからかしら、見栄を張ろうっていう思惑より、自然の美しさの方が強く感じられていいわね」


 ゆったりとした歩みを止めて、綺麗に咲いた花を眺める。ディーンが手を握ってくると、ちらりと視線を重ねて微笑みを交わした。

 二年前ほどまでは、貴族と結ばれるつもりなど欠片もなかった。同じ魔女の、しかし貴族の少女たちによる陰湿な苛めを体験したことで、こんな悪女たちが跋扈する上流階級の世界など真っ平御免だと思っていたのだ。

 が、希少な魔女の中でも詠唱省略まで可能な魔女は更に稀なので、同じ学院に通う貴族の少年たちから言い寄られることはよくあった。容姿に恵まれていたことも一因だろう。優れた美貌と魔法力、そして人間という種族であれば、農奴出身だろうと構わない貴族は意外にも多かった。

 だが、子供でもやはり貴族の男というべきか、相手が平民だと対等に接することは誇りが許さないのだろう。多くの者が上から目線で口説いてくることばかりだった。陰湿な貴族魔女を彷彿とさせる態度を前にすると、やれ贅沢な生活が送れるだの貴族社会に参画できる名誉だのという常套句を囁かれたり、相手が凄まじい美形だったりしても、心は揺れ動かなかった。

 ただ、当然というべきか、年頃の少女らしく綺麗な服や美味しい食事などには少なからず興味はあった。あったが、貴族入りすることで背負うことになるだろう苦労を思うと、気持ちは萎えた。たまに実家に戻ったときに感じられる団欒の空気――あれを自分で作り出せない代わりに、虚飾に満ちた贅沢な生活を送れても、幸福になれないことは分かりきっていた。


「そっか……うん、良かった。僕は君のそういう素朴なところが好きなんだ。貴族の女の子たちはさ、家柄とか僕自身の立場とか能力とか、そういうのを気にしてばかりだし。かといって平民の魔女たちは貴族っていう身分や贅沢な生活目当てで言い寄ってくることばかりだし、人柄は大して気にされないからね……」


 貴族の長男は、同じ貴族か魔女と婚姻することが貴族社会における常識だ。魔女でもない平民の娘と結婚すれば、まず跡継ぎから外されるか、爵位を継いでも他の貴族たちから白い目で見られるらしい。

 次期当主の嫁ともなれば、多くは親が結婚相手を決めるが、息子が自分で探してくる場合も間々ある。ディーンのような貴族の長男が王立魔法学院に入学するのは、魔法が貴族社会において重要な教養の一つであるからという理由の他に、優秀な魔女を――嫁を探すためでもある。

 爵位の低い家の息子でも、より高い家格の魔女と仲良くなれれば、好機はある。貴族とて人の親なのだろう、たとえ既に婚約者がいたとしても、それを反故にしてでも娘が望む相手と結婚させてやる場合は意外にも少なくないようだ。

 その逆も然りで、跡継ぎの息子に婚約者がいる場合でも、たとえ息子の望む結婚相手が平民だろうと優秀な魔女ならば、婚約を破棄させる場合もある。だから平民出身の魔女の中には、玉の輿に乗るべく貴族の少年に色目を使う者もいるし、求婚されるために優れた魔女になろうと努力する者もいる。


「でも、ネリーと出会えて良かったよ。君と婚約できてなかったら、父さんと母さんが探してきた子と結婚することになってたし」

「それはもう何度も聞いたわ」

「何度も言いたくなるくらい嬉しいんだよ」


 ディーンは在学中に嫁を探せと言われていたらしい。

 さすがのディライアも貴族か魔女でなければいけないという条件を付けていたようで、ただの平民の娘ではいけなかった。しかし、王立魔法学院の男女比は非常に偏っているため、魔女の競争率は高い。首都には妹マルティナの通う女学院などもあるので、学外での出会いも期待できたが、ディーンはあの親にしてこの子ありといった性格で、その嗜好はあまり貴族らしくない。そのせいか、なかなか気の合う子がいなかったようだ。


「そっか……そうね、そう言ってもらえると私も嬉しいわ。ありがとう、ディーン」

「こちらこそ、ありがとう」


 二年前ほどまでは、貴族と結ばれるつもりなど欠片もなかった。

 しかし、この少年ならば、良いかと思えた。

 知り合った当初は――三年以上前は結婚など考えてもいなかったし、特に異性として惹かれることもなかったが、どことなく気は合った。別邸を訪ねて彼の母や妹と接したり、休日に二人で出掛けたりして親睦を深め、人柄や彼の家族を知っていくにつれて、自然と好きになっていった。

 自分の気持ちを自覚したのは二年ほど前のことで、三期ほど前に求婚されたときは素直に嬉しく思えたし、今ではディーンとなら幸福な家庭を築けるだろうと思えるほどだ。


「明日は街の方を案内するよ。ネリーにも君のご両親にも、僕たちの故郷のことを色々知ってもらって、この土地を好きになってほしい」

「この庭園とあのお風呂だけで、ここのことはもう結構好きよ?」

「ははっ、それは良かったよ。君にこういう貴族らしいものも、たまには有効らしいね」


 冗談めかした応酬と穏やかな夜の空気は心地が良く、落ち着けた。

 ……後々になって思い返すと、この頃が幸福の絶頂期だったと分かる。


「でも、セリオ君は一筋縄ではいかなそうだ。結局、今回も来てくれなかったしね……どうしたものかな。どうすれば仲良くなれるだろう?」

「ごめんなさい……あの子もディーンのことが嫌いな訳ではないの。ただ、貴族に対する偏見が強いから、なかなか分かってくれなくて……」

「以前は君もそうだったけど、今は偏見とかないよね。君のときと同じように、粘り強くいけってことかな?」


 ディーンは本当に良い少年だった。

 いくら相手が婚約者の弟とはいえ、所詮は平民だ。こちらから親しくしてやる道理はない……などと普通の貴族なら驕るところだろうが、ディーンは仲良くしようとしてくれている。

 それが有り難く、そして申し訳なかった。


「そうね、そうかも。でも、あの子に私と同じくらい熱心に構ってると、さすがの私も妬くかもしれないし、ほどほどでお願いね」

「おお、これはいいことを聞いた。君に嫉妬してもらえるなんて、是非とも一度くらいは経験してみたいよ」


 この善良な婚約者への心苦しさもあって、セリオの件はあまり重く考えてほしくなかった……という思いをディーンは汲んでくれたのだろう。冗談に応じることで軽く流してくれた。

 何も言わずとも、気持ちが通じ合っているのが確かに感じられた。

 対して、セリオとはどうか。

 血を分けた姉弟にもかかわらず、上手くいっていない。昔はとても仲が良かったのに、今では姉としての想いすら信じてもらえない。そう思うと悲しくて、同時に弟に対する罪悪感も湧き上がる。

 魔女として生を受けたからこそ、この幸福な現状がある。もちろん様々な苦労や努力をしたが、今の幸福は魔女という生まれ持った性質が土台となっている。しかし弟は姉が魔女であったばかりに、様々な苦労や苦悩ばかりしてきて、それは今も続いていることだろう。

 もし魔女でなければ、家族全員が農奴として苦しい生活を送っていたかもしれないので、余裕ある生活が送れている今の方が物質的に幸福なのは間違いない。しかし、農奴のままであれば家族揃って仲良く笑い合いながら過ごせていたかもしれない。弟ともきちんと苦楽を分かち合えていただろう。そんな家族一丸となって送る生活が今の幸福に劣るとは、決して断言できない。


「今夜は星がよく見える。綺麗だね」

「ええ……そうね」


 弟が姉のせいで荒れているのに、その姉が幸福になっても良いのだろうか。

 婚約者と手を繋いで夜空を見上げつつも、そんな思いが胸中でわだかまっていた。

 

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