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幼女転生  作者: デブリ
八章・渡航編
177/203

第百二十話 『すばらしいYMCP 前』

 

 頭がパンクしかけたので、神の使徒ツヴァイにはお引き取り願った。

 本当はもっと色々と聞いておいた方が良かったのかもしれないが、ウェインやサラの件もあるし、今はあまり余裕がある状態ではない。それに何より、狂信者共の事情には必要以上に深入りしない方が賢明だ。

 聞くところによると、この部屋はプラインにある宿の一室らしいので、徒歩で問題なく帰れる。しかし、それにはウェインの目覚めを待つ必要があったので、本当は転移で送ってもらおうとしたのだが、こう言われた。


『その場合、貴女様には眠って頂くことになりますが、よろしいですか?』


 やはり意識があるうちは送迎してもらえないらしかった。

 少しごねてみたが、ツヴァイも頑として譲らなかったので、仕方なく徒歩で帰宅することにした。ウェインだけでも送ってもらおうかとも思ったが、万が一のことを考えると人任せにするのは不安だった。もうウェインからは目を離さない方がいい。


「それでは本日はこれにて失礼させて頂きます」


 ツヴァイはもう一つの収納箱から獣人の男を取り出すと、そう言い残して去っていった。具体的には獣人の男を肩に担いで窓から飛び降りていった。まだ夜の闇が濃かったため、すぐに見失ってしまったが、後をつける気はないのでべつに構わない。

 構わないんだけど、俺はてっきり〈瞬転リィロ〉で消えるものと思っていたから、アインさんと比べると意外と普通の帰り方で少し拍子抜けした。使徒は使徒でも、所詮あいつは第二か。


「……………………」


 ベッドの縁に腰掛けて、一息吐く。

 隣のベッドに横たわる少年は、規則正しい寝息を微かに立てている。表情は特に安らかでも苦しげでもなく、普通だ。こうしてみると鬱っているようには見えない。ただの九歳児だ。


「つーかゼフィラは何やってんだよ……」


 船内にいた俺が消えれば、ゼフィラなら気付くはずだ。この宿もプラインにあるようだし、俺の魔力反応を追ってゼフィラやみんなが駆け付けてきてもいいはずなのに……来ない。

 まあ、ゼフィラは既に俺たちの気配には慣れきっている云々とか言っていたし、同室のウェインが出ていったことにも気付かなかったことを思えば、こうしている今も暢気に眠りこけているとしても不思議はない。不老不死の婆さんは細かいことにいちいち気を払わないだろうし。

 本当はあの狂信者共と裏で繋がっているとすれば、色々と腑に落ちそうなものだが、それはないはずだ。アインさんはゼフィラに対して敵愾心を剥き出しにして警戒していた。あれが迫真の演技でない限り、ゼフィラは連中の味方どころか敵だろう。連中が探している覇王様はゼフィラの知り合いではあるが、ゼフィラから逃げ回っているという話もある。

 少なくとも、あの狂信者共とゼフィラが内通していることはないはずだ。


「いや、それより《覇王》だよ……もうわけ分かんねえな……」


 いい加減、考えるのも疲れた。

 ちょうどベッドもあることだし、少し横になろうかな。

 ウェインが起きないことには船に戻れないし、どうせリーゼたちは朝まで起きないだろうから、俺がいなくなっていることにはまだ気付かないはずだ。気付けばゼフィラに頼んで俺を探してもらうだろうから、少なくとも朝になれば迎えに来てくれるだろう。それまでにウェインが起きてくれれば、みんなに無駄な心配を掛けることなく船に戻れる。


「――あっ」


 心配といえば、右腕治してもらえば良かった。

 ツヴァイかその仲間なら天級以上の治癒魔法が使える可能性は高い。俺が片腕状態だとウェインが気に病むし、頼んでみれば良かった。いや、でも見返りを要求されただろうから、また悩みの種が増えたかもしれん。

 《黎明の調べ》の本拠地らしいシティールに行けば、高等級の治癒魔法を使える奴が一人はいるはずだ。怪しい連中に無駄な借りを作るような真似はしない方がいいか。


「……………………もういいや」


 考えるのはやめて、身体を横にした。もし寝落ちしたら不味いから、ウェインの隣だ。何気にこいつと同じベッドに横たわるのは初めてかもしれん。

 ツヴァイは魔石灯を置いていったので、室内は薄らと明るい。明るいが……油断すると眠気に呑まれそうだ。いつになるか分からないウェインの目覚めを待つのは少し大変そうだし、まずは起きないか試してみよう。


「おーい、ウェイーン、起きてくださーい」


 耳元で声を掛けながら頬をつんつんと突いてみるが、特に反応はなかった。ならばと軽くつねってみるも、身じろぎすらしない。よほど深く眠っているのでなければ、魔法で眠らされているのだろう。


「あ、そうだ、〈魔解衝ク・ルディス〉使えばいいんじゃん」


 この後に及んで思い至った。

 起きるのを待つ以前に、まず〈魔解衝ク・ルディス〉を試してみるべきだった。

 完全に頭が回ってないな。やはり思考がパンクしている。ツヴァイも帰る前に教えろよ……いや、俺も当然分かっているものと思っていたのかもしれない。

 とにかく、解除魔法を使ってみた。

 

「……………………」


 特に変化は見られない。

 魔法による強制睡眠状態は解除されたはずなので、普通に眠っているだけだろう。これなら頬をつねれば起きるはずだが……事ここに至って、それでは芸がないように思えた。今度は少し趣向を変えて、耳に息を吹きかけてみよう。

 ウェインの左耳に顔を寄せて、ふーふーしてみた。


「……ん、ぅ……うぅ」


 身じろぎしている。

 更に断続的にふーふーすると、くすぐったそうに耳を掻き始めた。まだ無意識下での行動だろうから、手が下がったところで更にふーふーしてやる。


「ん……んぅ……」


 なかなか起きないから耳たぶでも噛んでやろうかと思ったところで、ウェインが耐えかねたようにごろりと横を向いた。左耳が隠れ、目と鼻の先に少年の顔が迫る。少し顔を前に動かせばキスできそうな距離だ。

 今の俺は幼女で、相手はガキとはいえ男だけど、全然ドキドキしない。しないでくれた。どうやら俺はまだ男のようだ。今では女だという自意識もどこかにあるはずだが、まだ男だ。

 そのことに一安心していると、少年の目元が震えるように動いた。ゆっくりと目蓋が上がり、寝惚け眼と視線がぶつかる。


「……………………」

「……………………」


 ウェインは何度かゆっくりとまばたきしている。そうして灰色の瞳から微睡みが抜けたところで、俺はのんびりと微笑みかけた。


「おはようございます、ウェイン」




 ■ Other View ■




 夢を見ていた。

 これは紛れもない夢だと分かる。

 なにしろ、リュースの館の地下室にいるのだ。いつも通り階段を上がり、一階の広間に出て、お決まりの挨拶の声を上げ――ようとしたところで、夢の中の自分がふと気付く。


『……なんだ? 雨か?』


 凄い音だった。

 桶の水をぶちまけたような低く重たい音が屋外から轟々と響いてくる。案の定、広間の窓から見える光景は豪雨そのもので、あまりの雨量に景色が煙って見えるほどだ。

 これは……大雨の日の記憶だ。

 よく覚えている。

 あれはたしか、ローズがカーウィ諸島に出発する半年ほど前だったと思う。まだアルセリアも元気で、もうすっかり慣れた平穏な日常を当たり前のものとして享受していた頃のことだ。


『おじゃましまーすっ!』


 雨音に負けないように、大声で挨拶した。

 すると、談話室の扉が開いた。綺麗な翠緑色をした二本の角が現れたかと思うと、見慣れた竜人の女性が顔を見せる。


『あぁ、ウェイン。よく来たな』

『これ凄い雨だな。ディーカは晴れだったのに』


 歩み寄ってくるアルセリアに言いながら、彼女の後方をちらりと覗き見るが、他に談話室から出てくる人影はない。この大雨であれば魔法の練習は中止となり、暇を持て余しているだろうリゼットあたりが喜々として飛び出してくるものと思っていた。


『こっちは朝から曇りで、昼前から降り出してな』

『みんなは?』


 そう尋ねると、アルセリアは中性的な美しさで整った顔に苦笑を浮かべた。


『外だ。魔法の練習をしている』

『……この雨の中で? なんで?』

『これほどの大雨、そうはない。珍しがったリゼットが外に飛び出してな。アシュリンと一緒に随分と楽しそうにはしゃぎ回るものだから、ローズとサラもつられて、盾系の魔法を傘代わりに外に出た』


 魔法を傘代わりにするあたり、実に魔女らしい非常識っぷりだ。


『マリーも同時行使の練習にちょうど良いと言って、止めるどころか勧めてな。そういうわけで、オレとマリー以外は外だ』

『クレアたちも?』

『豪雨の只中では集中も乱れる。如何なる状況でも冷静に魔法を使えるように日々訓練する必要がある……というのはマリーもよく言っている。クレアも真面目だからな』


 アルセリアは仕方なさそうに笑いながら軽く肩を竦めている。


『皆、盾系の魔法を頭上に張りながら、同時行使の練習をしている。ウェインはまだ盾系の魔法は覚えていないが……どうする? 普通に魔法の練習をするか? この大雨に打たれながらだと結構集中を乱されるから、良い練習になるぞ』

『いや……俺はやめとく』


 本当は練習した方が良いとは思った。ただでさえ魔法はあまり得意ではないのだから、集中力を鍛えられる機会を逃すのは惜しい。しかし、練習後のことを考えると、どうにも気が引けた。

 おそらく皆は練習を終えた後、風呂に入るだろう。傘代わりに魔法を使っているようだが、同時行使の練習らしいし、どうせ皆ずぶ濡れになる。そんな状況で、同じく濡れ鼠のウェインを差し置いて女性陣だけ入浴となると、皆は心苦しく思うはずだ。かといって、混浴は不味い。トレイシーにしばき倒される。


『そうか。ではオレたちと茶でも飲むとしよう。こっちだ』


 アルセリアは薄く微笑んで頷くと、軽く背を押してきた。

 二人で談話室に入ると、革張りの長椅子にゆったりと腰掛けていた老婆が手元から顔を上げた。今日も今日とて読書に勤しんでいたようだ。


『おや、ウェインは練習せんのかの?』

『ああ。そういうばあちゃんたちはしないのか?』

『あたしはもう老い先短いからの、せっかくだから今日は魔法よりも趣味じゃよ。この轟々と響く雨音を聞きながら本を読み、のんびりと茶を嗜む……これはこれでなかなかに趣深い』


 アルセリアはマリリンに付き合っているというわけだろう。

 何はともあれ、まずは腰を落ち着けようと、テーブルの一角にある一人用の椅子に歩み寄る。と、そこでマリリンが穏やかな笑みを浮かべて自らの左隣の座面を軽く叩いた。


『ウェイン、ここに座ると良い。菓子もあるからの、遠慮せずたくさんお食べ』

『ん、ありがと』


 言われるがまま、老婆の隣に腰掛ける。

 アルセリアが紅茶を煎れてくれたので、とりあえず一口頂いた。相変わらず小洒落た味で、当初はあまり好みではなかったが、今ではすっかり飲み慣れて味の良し悪しまで分かってしまう。今日も良い味だった。


『菓子はセイディが作ったものだ。やはりオレが作るより旨いな』


 アルセリアが焼き菓子を一枚摘まんでいる。ウェインも食べてみると、確かに美味しい。セイディは雑なようで料理上手だ。


『ばあちゃん、今日は何読んでるんだ?』


 特に話題もなかったので、なんとはなしに尋ねてみた。

 するとマリリンは嬉しそうな笑みを見せて、膝の上に開いて置いていた本を掲げ、表紙を見せてくれる。


『これはノックス・レンブラントの遺作じゃな』

『……誰だそれ? 有名なのか?』

『うむ。今から四百年ほど前の作家で、二十作の物語を残した』


 マリリンは本の話になると、普段より幾らか喜々とした口振りになる。今にも長々と語り出しそうな雰囲気だが、一応は自制しているようで、まずは簡潔な説明だけだった。

 ここは深く尋ねるべきか否か、ウェインが逡巡していると、対面の席に座しているアルセリアがふと溜息を零した。


『マリーの奴、金に糸目をつけずに全ての著作を集めてな。しかも何冊かは原本ときた。いくら金には困っていないとはいえ、浪費は控えてほしいのだが……』

『どうせなら原本が良いではないか』


 少し迷った末に、決めた。

 マリリンが老い先短いのは確かだろうし、ここは語らせてあげるのがいいだろう。そういった老人への気遣いは確かにあったが、実際はウェイン自身にこれといって話したいこともなかったため、話題など何でも良かった。


『そのノックスとかいう奴の本は面白いのか?』

『ふむ……子供向けではないからの、ウェインにはまだ面白さが分からぬかもしれぬな。ローズは結構好きな作者だと言っておったが、あの子の感性は子供とは言い難いしの……』

『その作者でローズが好きなのはどんな物語なんだ?』

『ほう、気になるのかの?』


 どこか意味深な眼差しを向けてくるマリリン。それはアルセリアも同様で、更に話題が話題なだけに、妙な焦慮と気恥ずかしさを覚えた。


『い、いや、気になるっていうか、ローズに理解できて俺にはできないって、なんか……』


 正直な気持ちだった。

 あの小生意気な女児が尋常の七歳児でないことは重々承知しているが、それでも相手は年下だ。彼女に理解できて自分にできないなど、試してみる前から決め付けられるのは癪だった。

 二人が微笑ましそうに見てくるものだから、なんだかむず痒い。


『そうじゃの……たしかローズは「隣人の相」という物語を気に入っておったの』

『どういう話なんだ?』

『簡単に言うと、恋より愛、愛より友の方が素晴らしいという話じゃな』


 恋だの愛だのには、あまり興味をそそられない。

 それでも一応どんな内容なのか深く尋ねてみると、マリリンはやはり嬉しそうに喜々として語り出した。


『あらすじはこうじゃ。まず男と女が出会って、友人となる。二人はやがて恋人となって、結婚して、しかし別れる。その後、二人はそれぞれの道を行った末に再会して、最終的には再び友となる。その過程を描いた物語じゃ』

『……そんなんが面白いのか?』

『まあ、それが普通の子供の反応じゃな。しかし、なかなかに含蓄ある物語じゃったぞ』

『含蓄?』


 含蓄という言葉の意味もよく分からなかった。それを察してくれたのか、アルセリアが『意味深いということだな』と補足してくれる。

 一方のマリリンはといえば、興が乗ってきたのか更に饒舌な語り口で話を続けていく。


『物語を通して、作者はこう主張するんじゃ。恋とは求めるもので、自分のためにするもの。愛とは与えるもので、相手のためにするもの。題にある相とは状態、つまり関係じゃ。恋人とは利己の関係の最たる形、夫婦とは利他の関係の最たる形だという』

『じゃあ、友は?』

『友とは互助じゃ。利己でもあり、利他でもある。互いのために助け合う関係の最たる形。ちなみに助けるとは手を貸すということじゃ。与えるのではない。あくまでも力添えをするだけで、それこそが肝要なのじゃ』


 もはやウェインにはよく分からなかった。

 しかし疑問を呈して話の腰を折ったりはせず、まずは最後まで聞いてみることにした。


『恋では相手を求めすぎる。自分本位になりすぎて、相手を蔑ろにしかねない。愛では自分を与えすぎる。相手本位になりすぎて、自分を蔑ろにしかねない。何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。恋愛関係というものは、最適な均衡を保つのが非常に難しい』

『……………………』

『転じて、友とは恋でも愛でもなく、中庸じゃ。恋愛に付きものの独占欲もなく、ただ相手を対等の存在として認め、敬う。対等じゃから、助け助けられることに何らの見栄も、遠慮も、利害もない。愛されたいから、愛したいから、助けるのではない。ただ隣に並び立つ者として、背を預け合う者として、支え合うのじゃ』

『マリー、ウェインにはまだ難しいだろう』


 さすがに見かねたようで、アルセリアが口を挟んだ。実際、ウェインはほとんど話についていけていない。


『いや、大丈夫だ……たぶん。なんとなく、分かるような気がしないでもない』


 しかし、素直に不明を表に出すのは、なんだか悔しかった。マリリンとアルセリアを相手に見栄を張ることなど普段はしないが、ローズが絡んでいるなら話はべつだ。彼女に劣ることを暗に認めるのは、凄まじい抵抗感があった。

 まるでそれを見透かしているかのように、老婆は朗らかに微笑んだ。


『ふふ、要するにじゃな、最初に言ったように恋より愛、愛より友――すなわち利己より利他、利他より互助ということじゃ。恋だの愛だのを抜きにして、純粋に互いを助け合える存在こそが、人との関係において最も素晴らしい形なのじゃ……と、男女がそうと気付くまでの物語というわけじゃな』

『若いうちは分からないだろう。いや、むしろ分からない方がいい。恋も愛も経験する価値のあることだ。これを理解して面白いと言えるローズが少し心配なくらいだ。将来あの子はきちんと恋愛できるのかどうか……』


 味わい深そうに頷きながら言うマリリンとは対照的に、アルセリアは微苦笑を見せて嘆息している。


『えっと、つまり、恋人とか夫婦より、結局は友達が一番良いってことか?』

『まあ、そうじゃな』

『いや待て、それはあくまでも物語ではそうというだけの話だ。ウェイン、友達も良いが恋人や夫婦というのも素晴らしい関係には違いない。だから、友達という関係にこだわる必要はないぞ』

『お、おう……』


 珍しく焦ったように口早に言われたので、ウェインは少し気圧されつつ頷きを返した。

 アルセリアはそれを受けてそっと一息吐くと、どことなく責めるような眼差しでマリリンを睨んでいる。当の老婆は紅茶を飲みながら戯けたように肩を竦めていた。


『ところで、ウェインよ』


 マリリンは手にしていたカップを卓上に置くと、改まったように呼び掛けてきた。


『ここだけの話ということで、少し教えて欲しいのじゃが』

『なんだ?』

『お主ももう八歳じゃ、そろそろ気になる異性の一人もおるじゃろう。ずばり、ローズとリゼットとサラとメレディス、四人の中では誰が一番気になっておるのかの?』

『……は?』


 予想外の話に唖然として、意味を十分に理解した後は困窮した。

 思わずアルセリアに助けを求めて目を向けるが、彼女はどこを見るでもなく紅茶を啜っている。こちらの視線に気付いていない……ということはないはずだが、いずれにせよ助けてくれる気配はない。


『い、いや……べつに誰も気になってないし』

『本当かの? 恥ずかしがることはないのじゃぞ?』

『恥ずかしがってもないっての!』

『では質問の仕方を変えようかの。ウェインから見て、一番可愛いと思うのは誰じゃ?』


 なぜ急にこんな話になっているのか、誰か教えてほしかった。しかし、この場にはそれを教えてくれる者も、助けてくれる者もいない。アルセリアも依然として目を合わせてくれない。そのくせ聞き耳だけは立てているようで、もう意味が分からない。


『……………………』


 気まずい沈黙が雨音を際立たせる。

 脳内では既に質問に対する答えは出ていたが、ウェインはそれを言葉にはできない。口にしてしまえば、あの小憎たらしい女児に負けを認めるようなものだ。しかし、このまま黙りを決め込むのも居心地が悪すぎる。

 そうしてウェインが切羽詰まっていると、不意にアルセリアが笑みを零した。それだけでウェインを責め苛んでいた妙な緊張感は霧散してくれた。


『マリー、もうそのくらいでいいだろう』

『ふむ、アリアがそれで良いなら、アタシも良いが』


 マリリンはあっさりと頷き、焼き菓子を一つ口に放り込んでいる。


『さて、ウェイン。少し皆の様子でも見に行くか?』


 そっと胸を撫で下ろしていると、アルセリアがそう提案してきた。少し気疲れしていたので、ウェインは一も二もなく首肯して腰を上げる。彼女のことだから、気を利かせてくれたのだろう。

 読書を再開したマリリンを残して、談話室を出る。扉を閉めると、アルセリアが申し訳なさそうな目を向けてきた。


『すまないな、年寄りの話は退屈だったろう』

『いや……』

『さっきは色々と言ったが、ウェインはまだ人との関係について、あれこれ悩む必要はない。今は余計なことは何も考えず、ただ正面から素直にぶつかっていけばいい』


 そう言われても、そもそも先ほどの話は半分も理解できなかった。

 適当に頷きつつ、正面玄関の扉を開けると、豪雨が出迎えてきた。本当に凄まじい勢いで、これほどの雨は初めてだった。アルセリアは軽く詠唱して、頭上に真っ黒い円形の盾を作り出すと、ゆっくりと歩き始める。ウェインは彼女の隣について、外に出た。

 頭上からの降雨は防げているものの、地面は水の吸収が追い付いていないのか、浅い水たまり状態だった。おかげで早々に靴の中まで濡れてしまい、もう屋内に戻りたかったが、時既に遅し。仕方なくアルセリアと共に館の東側に回った。


『何やってんだあいつら……』

『フフ、もはや魔法の練習どころではないようだな』


 普段は魔法の練習をしている開けた場所で、六人と一頭が駆け回っていた。各人の頭上には傘代わりの盾などなく、豪雨に打たれるがままだ。何やら水魔法を放ち合っているようで、嬉し楽しそうな声が雨音に紛れて聞こえてくる。子供たちとセイディは未だしも、珍しくクレアも少しはしゃいでいるようだった。

 大方、同時行使に失敗して途中からずぶ濡れになり、リゼットあたりが誰かに水魔法を放ったのだろう。それが切っ掛けで水魔法の応酬が始まったというところか。きちんと怪我をしない威力に抑えられてはいるようだが、今まさにサラの〈水流リート・タォ〉が直撃したセイディは十リーギスほど押し流されて泥の中を転がっている。


『あーっ、ウェインとアリアだー!』


 叫ぶリゼットに指差された次の瞬間、不意打ち同然に背中を押されて、傘の外に出てしまう。


『――ぅおっ、アルセリア!?』

『行ってくるといい。大方、さっきは風呂のことでも考えて遠慮したのだろう』

『え、いや、それは……』

『ウェインもローズも、子供らしからず気を回しすぎるのが玉に瑕だな。似たもの同士だと思えば相性はいいのだろうが、これでは何かとこじれることもありそうだ……』


 アルセリアが呆れたように頭を振っていると、リーゼの大声が耳に届いた。


『ウェインとアリアもくらえーっ!』


 背後を振り返ったときには既に、リゼットが水を放っていた。先ほどのサラと同様、下級の水魔法〈水流リート・タォ〉だ。その勢威は先ほど見たとおりなかなかのもので、ウェインは咄嗟に避けようとしたが、右腕に当たってしまった。それだけで体勢を崩して泥の中に倒れ込む最中、悠々と回避するアルセリアの姿が視界の端に映った。


『万物を蹴散らせ、荒ぶる業風の暴虐が如く――〈嵐種トス・シー〉』

『――うわぁぁぁあぁぁぁ!?』


 アルセリアが指先から魔法を放つと、リゼットが吹っ飛んだ。数リーギスほど泥の中を転がっていく。だが、すぐに元気良く立ち上がり、再びアルセリアに立ち向かうような姿勢を見せた。そこで横合いからローズの放った水流が直撃し、再び泥の中に倒れ込んでいる。

 もう無茶苦茶だった。


『ウェイン』


 痛いほどの雨粒に打たれつつ、泥の中から立ち上がろうとしたとき、アルセリアから手を差し出された。

 反射的に握ろうとして、ふと思い留まる。もはや自分の手は泥まみれなので、ここで彼女の力を借りれば、あの綺麗な手を汚すことになる。


『大丈夫だ』


 手を取らず、自分の力で立ち上がった。


『そうか、自分で立てるか』

『これくらい当たり前だ』

『……当たり前、か』


 一人濡れていないアルセリアは思案げに呟き、そっと眉をひそめている。その中性的な面差しは上空の暗雲めいた憂いの色を帯びていた。

 何はともあれ、リゼットたちの方を向いて警戒し始めた矢先、背中に『ウェイン』と声が掛かる。首から上だけ振り向いてみると、いつになく真剣な眼差しに射竦められた。


『もしこの先、その当たり前ができなくなってしまったときは、さっきの話を思い出してくれ』

『さっきの……恋とか愛より友達が一番ってやつ?』

『いや、違う。助け合いが大切という話だ。どんな関係にあっても独り善がりにならず、誰かに手を差し伸べる優しさ、差し出された手を取る勇気、それを忘れないでくれ』


 真摯に語りかけてくるアルセリアに意識を集中していたせいで、攻撃に反応できなかった。これまでの経験から察するに、おそらくは〈黒衝弾ト・クーダ〉と思しき魔法で吹っ飛ばされた。しかし幸い、その先にはアルセリアがいたので、てっきり受け止めてくれるものと思ったのだが……。

 予想は外れて泥の中に転がる羽目になった。


『ちょっ、おいアルセリアッ、なんで避けてんだよ!? 助け合うことが大事なんだろ!?』

『そうだな。しかし、先ほどウェインはオレの手を借りずに一人で立ち上がったからな。今度も大丈夫だろうと思ったのだが……次は手を貸してほしいか?』


 歩み寄られ、手を差し出された。

 やはり綺麗な手だ。

 今は少し裏切られたような気分なので、彼女の手を泥で汚すことに躊躇いはないが……。


『い、いや……大丈夫だ!』


 子供扱いされるのは癪だった。

 誰かに助けてもらわずとも平気だという見栄を張りたかった。自分は男で、男は簡単に女の手は借りないものだ。アルセリアが相手なら助力を受けることに抵抗はないが、今この場にはみんながいる。ローズたちの前で弱さは見せたくなかった。


『フフ、さすがに男の子か』


 アルセリアは不快に思った様子もなく、口元に微かな笑みを浮かべている。

 それに少し気恥ずかしさを覚えながらも、ウェインはすくっと立ち上がり、ローズたちの方へと駆け出した。まだ魔法はほとんど使えないので、本当は館に逃げ帰りたいが、彼女らの前で尻尾を巻いて退散する無様など見せられない。


『だが……本当に苦しいときは、恥ずかしがらずにな』


 走り出した直後、背後から憂慮を湛えた呟きが耳に届いた。

 このときは聞き流していて、ろくに意識していなかったが……今は違う。これが夢だと分かっている今は、このとき確かに聞こえていた――聞こえていただけで理解しようともしなかった

彼女の言葉に、耳を傾けることができる。


『相手を助けられないことが、苦しいときもある。自分が助けられることで、相手を助けることになるときもある。それが友で、だからこそ助け合いが大切なんだ』


 みんなを助けられないどころか、自分がみんなを害する要因になってしまったことが、苦しかった。

 みんなの力になることで、母を死に追いやった愚かな自分の弱さを克服できると、心のどこかで思っていた。みんなを助けることで、自分もみんなに助けられるはずだったのだ。

 当時、母を殺した男に復讐は果たせたが、代わりに自分がこの世の泥に塗れて穢れてしまったことを、漠然と自覚していた。だからこそ、ローズたちと出会った頃は拒絶した。純真そうな彼女らを穢したくなかった。

 しかし、強引に迫られて手を取られたから、なし崩し的に関わってきた。綺麗な彼女らと一緒にいると、自分まで綺麗になったように思えて、いつの間にか苦しくなくなっていた。トレイシーにしごかれて修行することで、弱い自分が少しは強くなっているように思えた。これならみんなの力になれるかもしれないと、そう思えた。

 所詮、それは錯覚に過ぎなかったと、今ならば分かる。

 今更そんなことに気付いたところで、何の意味もないのに……。




 ■   ■   ■




 何かいい匂いがした。

 これは……石鹸だろうか。

 以前、館を訪ねていた頃もみんなは石鹸のいい匂いを漂わせていた。リゼットが飛びついてきたり、ローズから顔を寄せられたり、アルセリアに頭を撫でられたとき、揃って石鹸の匂いがした。クレアとセイディからは香水混じりのもっといい匂いがした。

 だからか、穏やかな気持ちで目が覚めた。最近は息苦しい寝覚めばかりで、常に気分は最悪だった。今のこの安らかさも、頭が回り始めればすぐに消えてしまうだろう


「……………………」

「……………………」


 目蓋を開けると、青かった。

 綺麗な青い瞳が眼前にあって、真っ赤な髪も目について、顔形には見覚えがありすぎた。まだ夢を見ているのかと思い、意識して何度かまばたきをしてみるが、ローズの姿は在り続ける。


「おはようございます、ウェイン」


 微笑みながら言われて、我に返った。


「――っ!?」


 思わず飛び起きると、そこは宿の一室だった。昨夜、ゼフィラと同室した部屋と同じか、少なくとも同じ宿の二人部屋だ。たしか自分は見知らぬ男たちに捕まっていたはずなのに……宿泊した部屋に戻っている。しかもなぜかローズまでいる。

 頭が混乱していた。


「とりあえず、大丈夫ですか?」


 ローズは依然として寝転んだまま、緊張感の欠片もない普段通りの声で尋ねてくる。


「俺は……なんで……」

「ウェインは獣王国の手先と思しき連中に捕まったらしくて、船に脅迫状が届いたんです。でも私の知り合いが助けてくれたので、今こうして一緒にいるわけです。ウェインはどこまで覚えてますか? 何か酷い事されませんでした? 痛いところとかないですか?」


 やはり捕まったことは確かなようだ。

 一瞬、全て夢だったのではと思いかけたが、そんなはことはなかったらしい。ひとまず落ち着いて、冷静に思い出してみることにした。

 まず、夜の町で見知らぬ連中に襲われて、気を失った。その後、窓のない暗い部屋で目覚めると手足を拘束されていて、襲ってきた連中から尋問された。名前や年齢から始まり、ローズのこと、ユーハのこと、ベルのこと、みんなのこと、竜に関する様々なことを訊かれたが、一貫して黙秘を貫いた。すると、自らが倒した獣人と翼人の男から殴られたり蹴られたりした。

 しかし、その後すぐに自らを気絶させてきた細身の獣人男が怒声を響かせた。


『おい馬鹿、やめろ。相手はガキだぞ……は? 仕返し? ガキ相手に油断して伸されたテメェらの自業自得だ。これ以上の無様は晒すな、間抜け共』


 おかげで拷問はされずに済んだが、それだけだ。


『ま、何も話さずともローズとかいう魔女の仲間であることは確かなはずだ。餌になってくれさえすれば、とりあえずそれでいい』


 捕縛された状況は変わらず、相手が自分を人質にしてローズたちを脅すようなことを企んでいると分かり、絶望した。一人勝手に逃げ出したはずなのに、結局はみんなに迷惑を掛けてしまう自分が恨めしくて仕方なかった。

 監禁されている間、食事は出されたが両手足は拘束されたままだったので、何もせずただ横になっていた。拘束が解けそうなら抗いもしたが、強固に縛られて見張りも常に一人いたので、逃げ出せる算段は皆目検討も付かなかった。だから、頭を空っぽにして生ける屍同然の態で呆然としていた。もう何も考えたくなかったのだ。

 どれほどの時間そうしていたのか、ふと眠気を覚えたので、抵抗することなく眠りに就いた……かと思えば、宿の部屋で目覚めた。全く意味が分からない。

 いや、ローズの知り合いが助けてくれたという話だが……。


「ウェイン? 大丈夫ですか?」

「――っ、だ、大丈夫だ」


 いつの間にかローズが真隣にいて、仰け反るように距離をとった。が、膝立ちのローズはすぐに詰め寄ってくる。心配しているのか、憂いの覗く顔でじっと見つめてくる。


「本当ですか? どこか痛いとか気持ち悪いとかないですか?」

「な、ないから……」

「そうですか。なら良かったです」


 一安心といったように微笑みながら頷いて、ぽんぽんと肩を叩いてきた。かと思えば、肩を掴まれて身体を寄せられ、顔を覗き込まれる。真っ直ぐに向けられる青い眼差しに耐えかねて、思わず目を逸らした。


「ウェイン、昨夜は一人で町に出たんですか?」

「……………………」

「答えてください」

「…………ああ」


 ローズと向き合えなかった。

 それは弱い自分の不甲斐なさとか、片腕を失ったローズに対する罪悪感とか、逃げ出したことの後ろめたさとか、色々あった。心苦しくて、居たたまれなかった。


「どうして、一人で町に出たんですか? 夜の散歩ですか? 誰にも何も言わずに?」

「……………………」

「私たちと一緒にいるのが、嫌になっちゃいました?」


 ローズの声は普段通りだった。

 特に怒っているようでも、悲しんでいるようでもない。日常会話そのものの態で、しかし虚言は許さぬとばかりに間近から凝視しながら尋ねてくる。


「……………………」


 嘘は吐けず、さりとて面と向かって正直に言えず、沈黙するしかなかった。

 だが、相手にはそれで十分だったようだ。ローズはふと顔を離して、しかし肩に置いた手はそのままに、苦味ような渋みのような何かが滲んだ微笑で口元を小さく歪めた。


「自分のことが嫌いで許せなくて、私たちを傷付けるのが怖くて恐ろしくて、一緒にいるのが申し訳なくて苦しくて、思わず逃げ出しちゃったんですか?」

「――――」


 完全に見透かされていた。

 俯けていた顔をちらりと上げると、ローズはいつになく複雑な面持ちをしていた。それは相変わらず子供らしくなく、様々な情念の混在した表情は年下とは思えない重みがあった。


「ウェイン、私たちのこと嫌いですか?」

「…………嫌いなわけ、ない」


 誤解されたくなくて、呟くように答えた。目を逸らすと嘘だと思われそうだったため、なんとか青い瞳と視線を重ね続けた。


「今回、ウェインが攫われたりしたのは、私のせいです。すみません。獣王国の奴は私を狙っていたんです。間違いなく、私が元凶なんです。それでも、私のこと嫌いじゃないんですか? 怒らないんですか? 責めないんですか?」

「…………ああ」

「私のせいで、男たちに捕まりましたよね? きっと殴られたりしましたよね? 怖い目に遭いましたよね? それでも、私のこと嫌いじゃないんですか? 許してくれるんですか?」

「……ああ」


 今回の件はウェインの自業自得だ。

 クレアから忠告されていたのに、夜中に一人勝手に町に出て、戦ったのに無様な敗北を喫し、人質となった。みんなに心配を掛けたはずだ。こんな自分をみんなが好きでいてくれていることに疑いの余地はない。だからこそ、辛いのだ。辛くて苦しくて、居たたまれない。

 むしろ、ウェインの方が訊きたいくらいだった。こんな愚かなクソガキのことなど、いい加減嫌気が差したのではないかと。


「そうですか。ありがとうございます」

「…………べつに」


 安堵したように微笑まれて、それが気恥ずかしくて、再び目を逸らした。

 その次の瞬間、引き寄せられた。一瞬、何が起きたのかよく分からず呆然とするが、間もなく理解が及んだ。ローズが抱きしめてきている。自分より小柄で華奢な身体の温もりが直に感じられて、思考が飽和した。


「私たちもみんな、ウェインと同じ気持ちです」

「――――」

「もし仮に、仮にですよ? ウェインのせいで《黄昏の調べ》から酷い目に遭わされたとしても、私もみんなも、ウェインのことを嫌いになりませんし、怒りませんし、責めませんし、そんな気すら起きません。もし今後似たようなことで酷い目に遭ったとしても同じです。許す許さない以前の問題です」


 そんなこと言われるまでもなく承知していた。していた、つもりだったが……実際に言われると、少し安心している自分がいた。嬉しくて、苦しくて、申し訳なくて、胸が一杯になった。

 今回の件で自分がローズに対して一切の悪感情を抱いていないのと同じように、みんなも自分を嫌っても怒っても責めてもいない。それを心底から実感できた。

 しかし、だからこそ自分を許せなかった。

 この弱さ、愚かさ、情けなさ、穢らわしさ、自らの全てが、優しく綺麗な彼女らに相応しくないことを嫌というほどに痛感する。これ以上一緒にはいられないと、改めて思わされる。


「……放してくれ」

「もう逃げませんか? 一緒に船まで戻ってくれますか? それを約束してくれるなら、放します」

「……………………」


 嘘は吐けなかった。

 だから黙り込んでいると、ローズが耳元でやけに熱っぽい声で囁いてきた。


「いやん、ウェイン君ったらエッチね。そんなに私に抱き付かれてたいのかしら?」

「…………頼むやめろ、やめてくれ」


 力尽くで身体を離そうとしたが、離れない。

 〈霊引ルゥ・ラトア〉を使われている。

 そうと気付いたとき、突然耳に生温かい息を吹きかけられた。

 全身に鳥肌が立ち、背筋がむず痒くなった。


「次は耳たぶをはむはむしちゃうわよ。さあ、約束してくれるかしら?」

「……いや、ほんともう変な声出さないでくれ……分かったから、放してくれ」

「ローズお姉さんと約束してくれる?」

「するから、頼むもう……やめろ……」


 さすがに気色悪くて我慢の限界だった。

 強引に約束させられはしたが……仕方ない。もう逃げ出さず、一緒に船に戻るという話なら、まだやりようはある。ひとまずはローズを船まで送っていくと思えばいい。


「……あの、本当に放してもいいんですか? もっと抱きしめてほしいなら、今日だけ特別に抱きしめてあげますよ?」


 ローズは一転して普段通りの調子で――むしろ少し真面目なときの口振りで尋ねてくる。

 まさか本気で抱き付かれていたいと思われているのではないだろうか。確かに悪くはない心地だが、恥ずかしさや心苦しさの方が遥かに大きかった。


「いいから……早く放してくれ……」

「そうですか、分かりました」


 実にあっさりと離れていった。

 ちらりと様子を窺ってみるが、表情からは羞恥心など微塵も窺えない。異性を抱擁することなど、べつに何とも思っていない……というより、異性として見られていないのだろう。


「じゃあ、早速行きましょう」


 手を握ってくると、ローズはベッドから飛び降りた。つられて床に降り立つが、そこでふと彼女の足が何も履いていないことに気が付く。

 しかし本人は気付いていないのか、靴下のまますたすたと扉の方に歩いていく。その途中、ふと何かに思い至ったように立ち止まると、くるりと反転して小さなテーブルに歩み寄る。


「ウェイン、魔石灯持ってください」

「あ、ああ…………ローズ、靴は……?」


 念のため尋ねてみると、ローズは自らの足を見下ろした。やはり気付いていなかったらしい。


「……クッソ、ツヴァイの野郎」


 何やら恨めしげに呟いている。

 ウェインは部屋の中を見回すが、靴は見当たらない。靴もなしにどうやって船から宿まで来たのか。船にいるときちらりと耳に入ってきた転移魔法の練習とやらが実を結び、ここまで転移してきたのだろうか。

 などと考えていると、ローズがさも深刻そうな顔を向けてきた。


「ウェイン、靴がありません。というわけで、特別に私をおんぶする権利を差し上げます。泣いて喜んでもいいですよ」

「……………………」

「……お、お姫様抱っこでもいいのよ?」


 やはり羞恥心は見て取れず、媚びるような目でこちらの顔色を窺ってきた。

 ウェインは自然と漏れ出た溜息交じりに応じる。


「……ローズはどっちがいいんだ?」

「え、あー……じゃあ、おんぶで」


 魔石灯を手渡し、ローズに背を向けて屈み込んだ。すると、意外にも少し遠慮がちな動きで身体を預けてきた。ウェインはしっかりとローズの太腿を保持して、立ち上がる。


「重くないですか?」

「……全然」

「うん、いい返事です。女の子に重いは禁句らしいので、今後女の子をおんぶするときは本当に重くても重いって言っちゃいけませんよ」


 全く気後れした様子もなく、いつもの調子で何か言っている。

 ウェインは特に返事せず、歩き始めた。


「あ、待ってください。窓から行きましょう」

「……なんで」

「ウェインと私は転移魔法でここに連れて来られたんですけど、でもその人はどうにも間抜けっぽいので、宿に部屋のお金を払っていないかもしれません。今は夜ですけど受付に誰かいるかもですし、普通に出ると不味そうなので、窓から飛び降りる感じで行きましょう」

「……ローズは、転移魔法……まだ使えないのか?」

「使えませんねぇ、残念ながら」


 背中の女児はそっと嘆息している。

 仕方がないので、窓辺に向かった。既に開いている窓からの景色を見る限り、やはりここは昨夜泊まっていた部屋と同じようだ。着地音さえ気にしなければ、二階の高さから飛び降りることなど造作もない。

 が、さすがに人をおんぶしながらは自信がない。


「……いったん降りてくれ」

「ウェインなら私をおんぶしたままでも行けます」

「いや……でも、一応……」

「頑張れ頑張れできるできる絶対できる頑張れもっとやれるって。やれる気持ちの問題だ頑張れ頑張れそこだ! そこで諦めるな絶対に頑張れ積極的にポジティブに頑張る頑張る。ユーハだって頑張ってるんだから!」


 唐突に凄まじい勢いで熱く語られた。本当に暑苦しいほど熱意ある語調で、早口言葉さながらに一気に言い切られた。

 不意打ち同然の熱弁に圧倒されたせいか、なんだかできる気がしてきた。


「……じゃあ、行くぞ」

「どうぞ! 人ひとりくらい背負える力があるってとこを見せてくださいっ!」


 ローズを背負ったままでは窓枠に足を掛けられないため、一度離れて、駆け出した。助走のおかげで楽々と窓枠に飛び乗り、そこからひょいっと外に飛び降りる。やはり落下が昨夜より速く、勢いがあった。


「――っ」

「――ひゃ!?」


 着地の衝撃は可能な限り膝と腰で吸収したが、それでも背中のローズには結構な余波が伝わったのか、珍しく驚いたような甲高い声を上げていた。

 なんとか転ぶことなく、ローズを落とすこともなく、着地には成功した。しかし足腰が少し痛くて、すぐには歩き出せない。それを見抜いたのか、ローズが治癒魔法を掛けてきた。


「できましたね。やっぱり気持ちの問題ですよ、ウェインならできるって私は信じてましたよ」

「…………そうか」


 悪い気はしなかったが、それだけだ。

 この程度のことができたところで、自分が弱くて、愚かで、情けなくて、穢れている事実は変わらない。背中から伝わるローズの体温と重さが心地良く、つい一緒にいたいと思いかけてしまうが、それは間違いだ。

 一緒にいれば、どうせいつかまた、みんなに迷惑を掛ける。足を引っ張って、転ばせて、傷を負わせて、この世の泥に塗れさせて、穢してしまう。またそんなことが起きるなど、考えただけで絶望的な苦しさに見舞われる。これ以上はもう耐えられない。

 別れるのは互いのためになることだ。

 つまり、それは助け合いだ。

 

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