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幼女転生  作者: デブリ
八章・渡航編
174/203

第百十七話 『巻き添えっていうレベルじゃねぇぞ!』

 

「お待たせぇ」


 トレイにティーセットを載せたオネエがにこやかに歩み寄ってきた。ベルは先ほどユーハが用意してくれた折畳みテーブルの上にトレイを置いて、着席する。


「おう、ありがとな、ルル」

「今蒸らしてるから、淹れるのはもう少し待ってねぇ」


 ユーハより大柄で筋肉質な体躯に似合わない穏やかな微笑みを浮かべて、ベルは既にテーブル中央に置かれていたドーナツを一つ手に取った。普段はクレアが作ってくれるが、今日はベルの手によるものだ。先ほど揚げたばかりで、俺も今まさに食べてる。うん、普通に旨いね。


「今日は過しやすい空模様だな。絶好のお茶会日和だぜ。お前もそう思うだろう、オラシオ」

「う、うむ……ところでローズよ、その言葉遣いは……?」

「ははっ、魔女どころか女でもない俺に、そんな偉人の名前で呼ぶとか、相変わらずオラシオは冗談が下手だな」

「む……うむ、そうであったな、レオン」


 俺の右隣に座るユーハはハッと小さく息を呑むと、思い出したように偽名を呼んだ。

 そう、今の俺はレオン……ただの小生意気なクソガキだ。ウェインの服を身に纏い、髪をオールバックにしたヤンチャボーイスタイルだぜ。俺は経験から学べる良い子だから、もうチュアリーのときのような失態は冒さないと心に誓って、今回は男装することにした。これが今の俺にできる全力の変装だ。いや八割方は素なんだけど……素が変装って、これもうわかんねぇな。


「ルル、紅茶はまだか?」

「あと少しね…………はい、もういいわよぉ」


 ティーポットの横に置かれていた砂時計の砂が全て下に落ちきった。ベルも待ちかねていたのか、すぐさまティーポットを手に取って、三つの瀟洒なティーカップに注いでいく。


「はい、どうぞ」

「ありがとよ」

「かたじけない」


 俺は食べかけのドーナツを小皿に置いて、最近はだいぶ慣れてきた左手でティーカップを持ち、紅茶を飲んでみた。正直、味の良し悪しはそれほどよく分からないが、普通に美味しいと思う。

 青い空には白い雲が疎らに漂い、甲板を潮風がゆったりと吹き抜けていく。昼過ぎの港はそれなりに活気があって、今まさに中型船が入港してきた。だが、港の隅の方で停泊中のドラゼン号や同じようにもやい縄で係留されている幾つかの船たちは静かなもので、落ち着いた時間が流れている。


「はーい、ユーリちゃんもどうぞぉ」


 対面に座るベルはスープ用のお皿に紅茶を注ぎ、小皿にドーナツを一つ載せると、それらをテーブルの下に置いた。すると、日陰でうたた寝していたトカゲもどきがのっそりと動き出して、おやつを食べ始める。

 俺に懐いてくれたせいか、最近はこいつがとても愛らしく見える。


「ピュェッ、ピュピュェェェェ!」


 テーブルの横でだらけていたアシュリンがふと叫んだ。まるで文句でも言うように、両翼を羽ばたかせている。

 大方、妹の方から先におやつを与えられたことが不満なのだろう。そんなに順番を気にするとか、相変わらずの獣畜生っぷりだ。


「はいはい、分かってるわアシュリンちゃん」


 ベルがティーポットを差し出すと、アシュリンは偉そうに大口を開けた。口内に直に紅茶を注ぎ込まれ、ドーナツを放り入れられると、野郎は一丁前に味わうように咀嚼し始める。やがてごくりと嚥下すると、満足したのか四肢を崩し、再びだらけ出した。


「皆は今頃、何をしておるのであろうな」

「もう昼飯を済ませて、今はのんびり町の散策でもして、久々のおかを楽しんでるんじゃないか?」

「レオンちゃんも本当は一緒に行きたかったんじゃない?」

「いや、大丈夫だ、ルル。もうこれ以上、万が一にもみんなに迷惑を掛ける訳にはいかないからな。それにプラインの町は半年前に二人と散策したし」


 港町チュアリーを出港して十四日目の本日。

 昼前に、俺たちはここ港町プラインに到着した。

 みんなにとってプラインは初めて訪れる町だけど、俺とベルとユーハは半年ほど前に訪れたことがあるから、今日は三人と二頭で留守番している。本当はツィーリエも訪れたことはあるそうだが、あの美熟女はライムとソーニャの護衛だから付いていった。イヴは俺と一緒に留守番しようとしていたが、羽を伸ばしてほしかったから暇を押し付けておいた。

 いくら俺の秘書とはいえ、休暇は必要だからな。

 RMCはブラック企業じゃないんだぜ。


「ふむ、あれから既に半年ほどか……あの頃は皆でこの町に参るとは思いもよらなんだ。まことに人生とは何が起こるか分からぬな」


 ユーハは感慨深そうに呟いて、紅茶を啜っている。

 昨年、RMCを退院してからというもの、オッサンの精神状態はとても安定しているように見える。《黄昏の調べ》のせいで、あんな惨劇があったというのにな。今では女ばかりの俺たちの中にあって、頼りになる男として、しっかりとその役目を果たしてくれている。

 そのせいか、見た目もすっかり一人前の中年で、元来の精悍さもあって、男から見ても結構格好良い。それに今日は眼帯をしてないから、右目の刀傷がいい味出してるんだよな。落ち着いた立ち居振る舞いもあって、男前で強者なオーラを漂わせている。


「何が起こるか分からないと言えば……そろそろ海賊にはより一層気を付ける頃かしらねぇ」


 ベルが右の頬に手を当てて、恋する乙女のようにアンニュイな溜息を零した。今日はすっぴんだから普通に男前な面構えなのに、そういう女々しい仕草をされると台無しになる。


「海賊?」

「ええ。これまでにも注意はしていたけれど、幸いなことにアタシたちは今のところ遭遇したことがないわよね。でも、きっと次の寄港地――クレドより北の海では、海賊が増えると思うの。だからそのつもりで、今のうちから改めて気を引き締めておかなきゃと思って」

「クレド以北より増えるとは、何故なにゆえであろうか?」


 俺は漠然とした予想はついたが、大人しくベルの答えを聞くことにした。


「ほら、魔大陸の近海は魔物が多いじゃない? だから一隻あたりの護衛さんも多くて、余所の海の船より守りは堅いし、海賊にとっても魔物は脅威よね」

「うむ、賊共にとって危険に見合う見返りはないであろうからな。わざわざ魔大陸近海で活動する輩は多くあるまい。それは某にも理解が及ぶし、チュアリーを出港した際にも聞いておる」

「そうね。チュアリーからここまでの航路も、魔大陸近海よりは海賊が多くいるはずだから、みんなには注意してもらっていたけれど、まだこの辺りでも海賊たちにとって旨味は少ないのよね」

「……であろうか?」

「その様子だと、オラシオちゃんは半年前も自分は護衛する側で、守られる乗客って意識はなかったみたいね。それなら気付けなくても仕方ないかも。いえ、気付けないオラシオちゃんだからこそ頼もしいのよね、レオンちゃん?」


 ベルは俺が理解していることに気付いているようで、ぎゃぴっとウインクしてきた。だから俺もきゃぴっとウインクし返しておいたぜ。あ、いや、男がウインクは不味いか?

 いつの間にか女として振る舞うことが身体に染み着いてやがる……。


「それは褒められておると思って良いのだろうか」

「もちろんよ。だって、護衛対象の人たちを戦力に数えていないんだもの。それはまず誰よりも戦うのは自分だって思っていないと、できない考え方でしょう?」

「……ふむ、なるほど、某にも理解が及んだ」


 ようやく気付いたようで、ユーハは軽く頷くと、食べかけのドーナツ片手に俺とベルの顔を交互に見てきた。


「つまり、こういうことであろう? クレドのあるハウテイル獣王国より以南には国家がない。となれば、獣王国より南へ向かう船に乗る客の多くは、最終目的地を魔大陸としておる猟兵が多い。実際、半年前もそれらしき者たちが多かった。故に、余所の海域の船と比べて、一隻が擁する実質的な戦闘員が多く、賊共にすれば魔大陸近海と大差はないと」

「そういうことねぇ」


 獣王国より南に向かう全ての船が、必ずしも多くの猟兵を乗客として抱えている訳ではないだろう。商船や奴隷船だってあることだしな。だが、海賊たちにとっては判別するのも困難かつ手間だろうから、ハズレを引く確率を考えると狩場としてはリスクが高いはずだ。

 もちろん、海賊だって事前に港町で襲撃する船を見定めたり、船にスパイを潜り込ませるなどの知恵や慎重さはあるだろうが、それにしたって獲物にできそうな船の絶対数が少ないことに違いはない。

 獲物の価値によほどの差がない限り、獲物が少ない狩場は狩人も少なく、獲物が多い狩場は狩人も多い。要は需要と供給で、人だろうと動物だろうと変わらない、それが世の中というものだろう。


「まあ、海賊が増えること自体は危惧すべきだけれど、アタシたちの船なら大丈夫だろうとも思うのよね。だから、あまり気負いすぎずいきましょう」

「そうだな。油断は禁物とはいえ、よほど耐魔性の高い船でない限り、大抵の船は〈陽焰レーファ・ルエ〉の一撃で中破以上は確実なはずだ。もしドラゼン号を襲撃するような不届き者が現れれば、俺が即座に海の藻屑にしてやるぜ」

「海賊に情けはいらないわ。あんな野蛮で卑怯な連中、魔物も同然よ。レオンちゃんに人殺しはしてほしくないけれど、魔物ならむしろどんどん倒して、世界の平和に貢献しなくっちゃ」


 俺たちと出会う前のベルは自分の船を持っていたから、きっと海賊に苦しめられたことは一度や二度ではないのだろう。温厚な彼女らしからず、珍しく好戦的だ。


「うむ、ベ――ルル殿の申す通りだ。しかし、レオンよ」

「ん?」

「お主はまだ特級の魔法までは扱えぬであろう?」


 ユーハにからかい交じりな口振りで指摘されてしまった。

 たしかに、特級魔法をぶっ放せるガキというのは不味いな。万が一にも耳の良い獣人が波止場を監視していれば、優秀な魔女っ子ローズを連想させるような情報を垂れ流すのは危険だ。

 本当はユーリも船内に入れておくべきだろうが、銀竜は竜種の中でも希少すぎて一般的には知られていない。アシュリンと一緒にいさせれば、魔物の一種にしか見えないはずだ。端から見れば、少し大きい銀色のトカゲもどきにしか見えんしな。


「か、海賊と遭遇する頃には扱えるようになってる予定なんだよ。夢見るくらいいいじゃねえか」

「そうねぇ、夢見るのはいいことよぉ。子供なんだもの仕方ないわぁ」

「なるほど。では本来の某らにとっては、今が夢なのであろうな」


 おかしそうに、あるいは楽しそうに、小さく肩を揺らして笑い、緩んだ口元にドーナツを持っていくユーハ。俺もこの茶番を楽しんでいる自分がいて、久々にこの三人ということもあって、留守番もそう悪くないと思える。

 それにしても……ユーハさん、あなた本当に成長したわね。四年半ほど前、私と出会った頃は鬱病患者そのもので、絶望のどん底にいたというのに、今では冗談を言い合って、普通に笑えているだなんて、なんだか胸に込み上げてくるものがあるわ。

 ……ウェインの奴も、こうなってくれるといいんだけどな。


「ルル、オラシオ、最近の日々をどう感じる? 幸せか?」


 しんみりとしてしまった俺の急な質問に、二人は顔を見合わせた。しかし次の瞬間にはそれぞれ頷いて、微笑みを浮かべてくれる。


「そうね、去年は色々ありすぎた一年だったけれど、近頃は結構楽しいし、幸せね」


 白竜島への航海で――俺に関わったせいで、ベルは船と仲間たちを失ったというのに、そう言ってくれた。本当に身も心も逞しい奴だぜ……いつも前を向いて生きているところは尊敬に値するよ。


「うむ。辛く苦しいときもあったが、今は皆のおかげで、笑えておる。幸福を感じる」


 ユーハはしみじみと噛み締めるように言った。

 圧倒的微笑み感。これにはローズ女医もにっこり。

 かと思いきや、オッサンは物憂げに左目を伏せた。


「故にこそ……ウェインのことが気掛かりでならぬ。依然として復調の兆しもなく、すっかり塞ぎ込んでしまっておる。今日も皆に連れられて町に赴きはしたが……レオンよ、お主はどう思う?」

「……いい加減、なんとかすべきだとは思う」


 この気持ちはきっと俺だけでなく、みんな同じはずだ。

 にもかかわらず、ウェインは未だに鬱々とした日々を送っている。みんな、ウェインには元気になってほしいと思っているが、元気にすることができない。何を言っても、何をさせても、最近のあいつは反応に乏しく、死んだ魚のような目を誰とも合わそうとしない。


「できるなら、なんとかしたい……けど、正直なところ、俺にもどうすればいいのか、よく分からないんだ……」


 我ながら情けない言葉ではあったが、見栄を張ったり嘘で誤魔化したりはできなかった。そんなことをしたって、ウェインのためにはならないからな。でも、素直に話し合えば、解決の糸口が見付かるかもしれない。


「ウェインは俺たちに対して、申し訳ないと思っている。自分のせいで俺たちを傷付けたと思い込んで、俺たちの事を《黄昏の調べ》に喋ったことを酷く悔いている。それを『ウェインのせいじゃない』『拷問されたから仕方ない』と俺たちが幾ら否定しても、ウェインはそれを認めようとしない」

「……うむ」

「俺も、あいつの気持ちは少しなら分かってるつもりだ。諸々の事情を抜きにすれば、ウェインが俺たちのことを喋ったのは事実で、それは俺たちへの裏切り行為。だから、自責の念に駆られる理屈が通ってしまう」

「でも、ウェインちゃんは拷問されたのだし、仕方ないわ……と言っても、他ならぬあの子が納得しないんじゃ、どうしようもないしねぇ。かといって、きつい言葉で発破を掛けるというのも……」


 ユーハは思案げな顔で、ベルは悲しそうな顔で、俺も含めて三人同時に溜息を零してしまった。

 本当に、どうすればいいんだろうな。

 ウェインが拷問されて、今はまだ一期も経っていない。俺たちのことを《黄昏の調べ》に漏らした件とは別に、拷問という恐怖体験によって、あいつは心に深い傷を負ったはず。俺たちを裏切ってしまったという罪悪感と、拷問によるトラウマの二重苦を抱えているという訳だ。

 だから、そんな九歳児に対して、ベルが言うようにきつい言葉で発破を掛けるのはあまりにも厳しすぎる。みんなだってそう思うからこそ、今まで誰も叱るようなことはしていない。一度試してみるにしても、もしそれで立ち直らなかったら、より一層ウェインの心を追い詰めるだけだからな。

 RMCにおける現在の心療方針としては、消去法的に様子見が最も無難だから、仕方なくそうしている。時間の経過は心の傷を少なからず癒してくれるし、今のウェインは頑なになっているとも思うんだよな。もう少し時間を置けば、色々あって凝り固まっていた心も解れて、俺たちの言葉を――ウェインは何も悪くないという確固とした事実を、受け入れてくれる余裕が生まれるかもしれない。


「今はもう少し様子を見るより他に、良さそうな手がない。俺たちがどれだけウェインのことが好きで、ウェインが悪くないのか、それをゆっくりと時間を掛けて実感させていくしか、ないと思う」

「……やはり、一朝一夕でどうにかなる問題ではないか。あの状態は某にも身に覚えがある故、気持ちは理解できるのだが……端から見る立場となると、どうにも歯痒いものだ」


 ユーハにとってウェインのあの鬱っぷりは、かつての己を見ているような気にさせるのだろう。俺と同等以上に、あるいはみんなの中では一番、ユーハはウェインの心理状態を理解できているのかもしれない。


「ほ、ほらっ、二人とも! そう暗い顔しちゃいけないわっ!」


 シリアスな雰囲気になりかけていたとき、ベルが殊更に明るい声を甲板上に響かせた。


「ウェインちゃんのことでアタシたちが気落ちしちゃうなんて、そんなことウェインちゃんも望んでいないはずよ。楽観しすぎるのもどうかと思うけど、悲観せずに楽しく過さなくっちゃ。そうでないと、ウェインちゃんの気も晴れないでしょうしね」

「そうだな……その通りだぜ、ルル。深刻になったからって問題は解決しないし、どうせなら楽しくいかいないと、人生がもったいないもんな」

「うむ。それに何も悪いことばかりとは限らぬ。いつの日か立ち直ったウェインにとって、今このときの苦難は得難き糧となり、その後の人生に必ずや活きるであろう。将来、あやつは強く優しい立派な男となれるに違いあるまい。某が保証しよう」


 ユ、ユーハさん、あなた……そんなポジティブシンキングまで身に着けて……それにその自信、素晴らしいわ! 以前の自分より、今の自分の方が強く優しく立派だと思えていなければ、そんな言葉は出て来ないはずだもの。

 そうね、あなたという実例がいるのだから、大丈夫よね。ウェインにとって今は試練のときで、これを乗り越えれば、ユーハさんのように強く逞しくなれて、きっと薔薇色の人生を送れるわ。いえ、私たちみんなで薔薇色にするのよ!


「オラシオが保証してくれるのなら安心だな」


 ウェインのことはきっとなんとかなる。

 不安が皆無な訳ではないが、ユーハを見ていると素直にそう思えた。


「あっ、そういえばドーナツの味はどうかしらぁ? レオンちゃんの好きな乾果を入れてみたのだけれど、美味しくできてる?」

「ああ、美味しいぜ」


 それからは和やかに談笑しながら、午後のお茶会を楽しんでいった。

 この三人で過すのも、たまにはいいね。




 ♀   ♀   ♀




「どうやら手配書などは出回っていないようです」


 すっかり日が沈み、夕食を適当に済ませて間もなく。

 甲板上のテーブルでユーハと食後の盤兵戦と洒落込んでいると、単身戻ってきた我が専属美女騎士が開口一番にそう報告してきた。


「……この町の通貨って獣王国のグルエでしたよね?」


 小芝居も必要なくなったので、俺は椅子に座ったまま大きく背を逸らして伸びをしながら、抱いた疑問をそのまま声に出してみる。

 うん、やっぱ敬語の方が落ち着くね。というか、男らしく振る舞うのって疲れるわ。中身はともかく、外面は女として見られることに慣れ切っちゃってるな……。


「そうね。ここは獣王国の領土ってわけではないようだけれど、経済圏でいえば獣王国の一部みたいなものだと思うわ。公用語もチュアリーと違って南ポンデーロ語ばかりで、前回来たときも北ポンデーロ語はあまり聞かなかったし」


 俺の隣で読書していたベルは丁寧に答えつつ、その表情や声音は訝しげだった。駒を片手にイヴを見上げるユーハもどことなく腑に落ちないといった顔をしている。


「手配書の件、間違いないのであろうか」


 イヴを疑うわけではないが、俺も同感だった。


「情報の確度は高いと思います。ツィーリエさんによると、チュアリーを治めるムンベール族と、ここプラインを治めるハイベール族は遠戚らしく、以前から交流があったそうです。ですからツィーリエさんはムンベール族の長ジャマルさんから手紙を預かっていたようで、ライムさんとソニアさんを連れて、あとミリアさんも一緒にハイベール族の方に挨拶へ行っていました。そのときに手配情報を確認してもらったそうです」


 ツィーリエは人間だけど魔女だからか、ムンベール族の中では幹部クラスの地位にあったはずだ。親分さんの手紙もあってハイベール族も無碍にはしないだろうから、嘘を吐かれた可能性は低いだろう。


「私も幾つかの店で聞き込みをしたり、衛兵の詰所に出向いてそれとなく尋ねてみましたが、ローズさんたちの手配情報はありませんでした」


 去年、俺とユーハとベルはカーム大森林で、ハウテイル獣王国のエセ親善クソ大使タピオに出会った。リオヴ族殺人放火事件の黒幕であった奴は火竜の赤子メリアに興味津々だったし、俺という魔女を自国に勧誘もしてきていた。

 逃亡したキモオタ風タヌキ獣人がリオヴ族に捕まったのか、自国に帰り着いたのかどうかは知らないが、もし後者であった場合、俺たちを指名手配するはずだ。火竜の卵をどこでどうやって入手したのか根掘り葉掘り聞き出したり、ユーハの愛刀を奪ったり、捕縛するだけの価値は十分にあるだろうからな。というか、タピオは俺がメリーをティルテたちに託したことを知らないから、メリーを第一目標に据えているはずだ。

 だからこそ、今日は警戒していた。チュアリーでは俺もユーハもベルも、賭場での一件があったため、獣王国の件はすっかり失念していたが、幸いにもツィーリエ曰く余所から俺たちの手配情報が回ってきたことはなかったという。あくまでもジャマルやケルッコなどムンベール族が自分たちのために独自に警戒していただけだったらしい。


「そうですか……それならそれで、まあ、納得できなくもないですけど……」

「もしかしたら、獣王国は他国に情報が漏れることを恐れているのではないかしら? チュアリーは北ポンデーロ大陸諸国と南ポンデーロ大陸諸国、それにエイモル教会と、色々な勢力の影響下にあるし、ここプラインも獣王国だけでなく他の南ポンデーロ大陸諸国の影響は少なからずあるはずよ」

「仮に火竜を他国に横取りされれば、相対的に自国の力が弱まることとなろう。故に、自国の手勢でのみ、秘密裏に捜索すべきと判断した……としても、不思議ではなかろうな」

「それなら、この町のどこかに獣王国の手先というか工作員が潜んでいて、そいつらが私たちを襲撃してくる可能性はありそうですね。まあ、全てはタピオたちがリオヴ族に捕まっていなければの話ですけど……」


 それでも最悪を想定して動くのが大人ってもんだ。

 とはいえ、大々的に狙われているのではなく、一部の者たちから密かに狙われている程度であれば、先ほどまで続けていた小芝居めいた変装はやはり必要ないだろう。相手がスパイとかその手のプロなら安い誤魔化しが利くとも思えん。

 もし強盗のように襲ってくるのであれば、それはそれで構わない。余程のことがない限り、俺たちなら返り討ちにできるし、逆に相手を捕縛して情報を吐かせることもできるからな。

 普通に町を出歩けない状況であれば問題だったが、そうでなければ大丈夫だろう。


「いずれにせよ、私たち三人は船で大人しくしておいた方が良さそうですね。イヴ、みんなにも一応警戒しておくように改めて言っておいてくれますか」

「ミリアさんがローズさんと同じようなことを言っていましたから、既に皆さん相応に警戒しています。チュアリーではライムさんたちを人質にされたので、今回も誰かを人質にされるかもしれませんから」


 杞憂だったか。

 俺如きが考えることなど、他の誰かも考えるわな。

 クレアたちならチュアリーでの反省点も活かして、しっかりと身を守ってくれるだろう。一応、プラインに到着する前にも、みんなには常に集団行動するようにと注意を促しておいてある。

 俺のせいでみんなに迷惑を掛けるのは心苦しいが、それを表に出してもみんなに余計な気を遣わせるだけなので、なるべく気にしないようにしている。


「今夜は私がここで夜の番をしますので、ローズさんは安心して眠ってください」

「すみません、ありがとうございます」

「いえ、大丈夫です」


 テーブルの傍らに立ったまま、イヴは優しく微笑んでくれる。

 いつまでも立たせておくのも悪いので、ユーハの隣に座らせた。

 航海中の夜はユーハとイヴとトレイシーとツィーリエ、それに一応ゼフィラを入れた五人が不寝番をしていた。今日は魔物の心配をしなくてもいいので、ユーハとイヴの二人で大丈夫だろう。それにどうやら明日はイヴの代わりにトレイシーが来るようだから、イヴも明日の夜ならしっかり休んでもらえる。

 とはいえ、いくら俺が幼女だからって、毎度人任せにするのも居心地が悪い。


「たまには私も一緒に不寝番していいですか?」

「いけません」

「夜はしっかりと眠るのが子供の務めである」

「夜更かしは美容と成長の大敵なのよ!」


 い、いや……そんな、三人とも即座にダメ出ししなくても……。

 まあでも、確かに大人からすれば、子供に寝ずの番はさせられんよな。もしリーゼがするって言い出したら、俺も全力で止めるわ。


「じゃあ、えっと、とりあえずイヴ、お風呂入りましょう」

「分かりました」


 せめてイヴには英気を養ってもらわないとな。

 騎士を労るのも主人の務めなんだし、片手でも健在な我が洗体技術で、イヴの全身を泡まみれにしてマッサージしてやるぜ……デュフフ……。

 そんな感じに暢気な時間を過ごせる程度に、プラインの停泊一日目は何事もなく過ぎていった。




 ♀   ♀   ♀




 翌朝。

 窓から差し込む日差しの眩しさで、自然と目が覚めた。

 念のため警戒して昨夜はベルと同じ船室で寝ていたが、既に船長様の姿はない。おそらく先に起きて朝食を作ってくれているのだろう。ベッド脇の床に敷かれた毛布の上には、他人が見たら翼の生えた銀色のトカゲにしか見えないだろう幼竜がすやすやと眠っている。


「全く揺れない朝っていうのも、なんだかなぁ……」


 少々の物足りなさを感じる程度には、船旅に慣れてしまっていた。

 航海中の船上生活でも炊事洗濯掃除などの家事はもちろん、魔物の警戒や退治に加えて、天気次第で縮帆や展帆などの操船作業をする必要がある。雨風が強く、波が高いときに帆を張っていると船体が大揺れするし、下手したら帆柱が折れたり転覆したりする。しかし帆を張ったりするのは重労働で、もっぱらユーハやベル、トレイシーにライムなどの肉体派の仕事だ。幼女に出番はない。

 大人たちはともかく、俺たち子供組にとって船旅はさほど過酷ではないので、館での日常生活とあまり大差ないのが現状だ。嵐のときは船がかなり揺れるし、魔物の襲来は警戒しなければならないが、それくらいだった。苦労は少なく、衛生状態も良好で、割と快適だ。

 早寝早起きの日々が続いているため、今日もおそらく日の出と共に起きられた。実際、トイレで膀胱を空にしてから甲板上に出てみると、朝方特有の澄んだ空気を感じられる。今日は雲一つない快晴で、太陽はまだ見えないほど低い。


「おはようございます、ユーハさん」

「うむ、おはよう……」


 俺の爽やかな挨拶に対して、オッサンはなんだかローテンションだった。

 眼帯をした顔には微妙に影が差している。


「ユーハさん、どうかしましたか?」


 ふと心に不安が過ぎった。

 鬱ってのは再発率が高いらしいし、何が切っ掛けになるかも予測し難い。

 まさかまたRMCの心療が必要になったんじゃないだろうな……とか思っていると、ユーハは深刻そうな低い声で言った。


「ローズ、起床早々にすまぬが、先ほどセイディが確認しに参った」

「確認って、何をです?」

「ウェインが船に戻っていないかと。どうやら、ウェインがいなくなったようである」

「…………え?」


 いなくなった。

 それが意味するところを判じかねて、しばし呆然としてしまったが、すぐに不安でいっぱいになった。




 ■ Other View ■




 ようやく好機が訪れた。

 気怠い身体でベッドから抜け出しながら、少年は一人静かに暗い笑みを零す。

 プラインという港町に到着した昼前から、ずっと機会を窺っていた。久々の陸地に繰り出すみんなに引きずられ、町の散策に連れ回されているとき、何度駆け出したくなったか知れない。ぞろぞろと大所帯で行動していたので、町の喧騒に紛れるようにして、ひっそりとみんなから離れることは容易かっただろうが、同様に容易く発見されたはずだ。

 だから、逸る心を抑え込み、夜まで待った。

 前回の寄港地チュアリーと同じく、本日は町の宿に泊まることとなり、ウェイン自身を含む十三人は三つの部屋に分かれた。大部屋が一室、そして二人部屋が二室だ。

 ベッドが八つもある大部屋にはリゼット、サラ、ルティカ、メレディス、トレイシー、ライム、ソニア、ツィーリエ、ミリアの九人が収まった。残りのクレアとセイディ、ウェインとゼフィラはそれぞれ二人部屋に収まった。

 望外の幸運だったのは、宿の空き部屋がこれら三室しかなかったこと、そしてゼフィラが『騒がしいのは好かぬ』と言って大部屋を嫌がり、更に『大人しいこやつと二人部屋で良い』という流れになったことだ。


『ローズたちはハウテイル獣王国の人たちに狙われているかもしれないから、みんなも一応警戒しておいてね』


 町に出る際、クレアがそんなことを言っていたため、リゼットたちと同室で眠ることになるのは避けたかった。船上での夜間哨戒を担っていたトレイシーやツィーリエは今日も眠らないかもしれなかったので、部屋を抜け出す際の言い訳などが最大の問題となりそうだったからだ。クレアの言葉もあり、便所と言っても便所前までついてこられるかもしれない。

 しかし、ゼフィラのおかげで憂慮する必要がなくなった。


「……………………」


 ウェインは音もなく床に降り立ち、隣のベッドに目を向ける。船から持参した低質の魔石灯がベッド脇の卓に置かれているため、鎧戸を閉め切った室内でも最低限の視界は確保できている。

 薄暗い静寂の中、銀髪の美しい少女は身動き一つせず死人のように横たわっている。これまでの日々で耳に入ってきた話からすると、彼女は鬼人族で、嘘か本当か三千年ほど生きているらしい。どう見ても十代前半の少女にしか見えないが、アルセリアやマリリン以上に老成した雰囲気の持ち主で、少なくとも見た目通りの年齢でないことは確かだろう。


「……………………」


 しばし見つめてみるが、起き上がってくる気配はない。

 実は寝たふりをしているだけではないかと疑っていた。万が一にも追ってこられて連れ戻されるのは御免なので、念のため様子を見ているわけだが……この少女であれば、たとえ起きていても引き止めたりしないかもしれないとも思える。


「……縁を希望とするか絶望とするか」


 いつだったか、最近ゼフィラに言われた言葉が脳裏を過ぎり、声にならない声で呟く。そしてベッドに背を向けて窓際に向かい、鎧戸を静かに開けた。

 希望だの絶望だの、どうでもいいことだ。

 窓枠にそっと足を掛け、眼下を見遣る。ここは二階の部屋で、地上までの高さは三リーギスほど。最近はろくに身体を動かしていなかったので、上手く着地できるか不安だった。別段、ここから落ちて死んでも一向に構わないが、みんなが自分の死体を見れば悲しんでしまうだろう。あるいは足を挫いたりしてしまえば、彼女らに見付からないほど遠くに行けなくなる。

 雲一つない星空を見上げ、軽く深呼吸をしてから、飛び降りた。


「やはり行くか……それも良かろう」


 中空に身を投げ出した瞬間、背後から微かな呟きが耳に届いたような気がした。しかし直後の着地に集中すべく、気に掛ける余裕がない。


「……っ」


 膝で衝撃を和らげ、両手までつくことで、ほとんど音を立てることなく着地できた。鈍っていると思っていた身体は存外によく動き、トイレシーにしごかれていた去年までの時間を思い出させる。

 念のため三階にある大部屋の窓を見上げてみるも、鎧戸は閉め切られたままだった。


「……………………」


 みんなは自分がいなくなるなど、夢にも思わないだろう。

 本当にこのまま行っていいのかどうか、逡巡する。

 様々な思いが胸中を満たし、溢れかえりそうになったところで、全てを振り切るように駆け出した。

 付近は閑静な区画なのか、深夜の道に人通りはほとんどなく、周囲の建物から漏れる明かりも少ない。しかし、昼間に歩いた大通りの方からは雑然とした喧噪が遠く響いてきている。ひとまずは人混みに紛れるのがいいだろう。

 久々に思い切り走るのは少し気持ち良かった。誰に気兼ねすることもないのだと思うと、ようやく彼女らの側から離れられるのだと思うと、身体が軽く感じられた。

 しかし、賑々しく薄明るい大通りに入ると、奇妙な高揚感や爽快感などすぐに消え失せた。一瞬の夢幻であったかのように、今では心身ともに重苦しく、歩くことさえ億劫に感じる。


「……………………」


 行く当てもなく、ただ今は彼女らから少しでも遠ざかりたい一心で、足を動かしていく。だが既に峠は越えられたせいか、先ほどまでのような意気はない。あとは惰性で、どこへなりとも消えるだけで済む。だから、目的意識が誤魔化してくれていた鬱屈とした感情が再び溢れかえってきた。


「……………………」


 苦しかった。

 今すぐに消えてしまいたかった。

 ただただ、心底から、自分に嫌気が差していた。

 世界については今更だ。

 容赦が無くて、理不尽で、不条理で、どうしようもなく穢らわしい。去年までは、それでも世界は美しいのかもしれないと思っていた。しかし、今や他ならぬ己自身が、その美しさを貶める要因となってしまった。

 だからこそ、消えねばならない。

 自分がいなくなれば、彼女らの世界はまた美しくなるだろう。

 そう信じることで、逃げ出すことへの罪悪感を誤魔化せる。みんながこんな自分を気に掛けてくれていることは分かっているし、消えれば心配を掛けることも想像に易い。それでも尚、消えたかった。彼女らと一緒にいることが、たまらなく苦しかった。あの善良さが、優しさが、痛かった。


「坊主、ちょっといいか?」


 進路上に大きな足が見えたため、思わず立ち止まって、俯けていた顔を上げる。


「こんな夜中に一人で何してるんだ?」


 毛むくじゃらの獣人だった。大柄な体躯、短い頭髪に無精髭、涼しげな服から覗く四肢は日焼けのせいか浅黒い。港町ではよく見掛ける水夫そのものの風体だ。


「……………………」

「おいおい、まあちょっと待てって」


 無言のまま横を素通りしようとしたが、大きな身体が行く手に立ち塞がってきた。


「一人か? こんな真夜中にどうした?」


 中年の男はしゃがれたような低い声で、しかし柔らかな口調で尋ねてくる。

 ふと周囲が静かなことに気が付いた。既に大通りの喧噪は背後にあり、いつの間にか人通りのない道になっている。自分がどこにいるのかも判然としない。一応、波止場のある方向とは逆の、市壁のある方向へ歩いていたはずだ。


「……………………」

「なんだ、だんまりか?」


 なぜこの獣人は自分などに話し掛けてくるのか。

 考えるのも億劫で、喋るのも面倒だった。


「おい、なんとか言えよ。一人でどうしたんだ?」


 獣人の男はウェインの前に屈み込むと、怪訝そうな顔で覗き込んでくる。


「…………放っておいてくれ」


 か細く呟き、男を避けて歩き出した直後、大きな手に首を掴まれた。少し息苦しくなるが、呼吸ができないほどでもなく、声も出せるだろう。しかし、叫んでみたり振りほどこうとしてみる気力もなく、ただされるがままに身を任せる。このまま絞め殺してほしかった。


「だから言ったでしょう。その子は餌じゃない。尾行もないですし、単に夜遊びするために抜け出してきたんですよ。この年頃の少年なら別段おかしなことでもありません」


 ふと背後から声が聞こえてきた。長身痩躯の男を連想させる細く静かな声だ。目の前の獣人とは対照的な人物を連想させる。


「まあ、こうして接触を図ってみても介入される気配もないし、そうだろうな」

「とはいえ、少し大人しすぎますね。いえ、怖がってるんでしょうか?」

「そういう感じはしないぞ。奴隷のガキでたまにいる無気力そうな感じだな」

「ふむ……目が死んでいますね」


 背後から回り込んできた男は翼人で、声から受けた印象に違わぬ風貌だった。年頃は獣人の方と大差ないだろうが、商人風の小綺麗な装いをしている。


「何はともあれ、大人しいのは好都合だな。さっさと眠らせてくれや」

「ええ」


 大柄な毛深い獣人、そして理知的そうな翼人の男は《黄昏の調べ》を思い出させる。

 そこでクレアの言葉を思い出した。

 ハウテイル獣王国から狙われているとか、なんとか。

 まさか目の前にいる二人組は自分を誘拐し、拷問して、彼女らの情報を引き出すつもりなのだろうか。そして《黄昏の調べ》のように自分を人質にして、彼女らを脅すのだろうか。

 それだけは絶対に許容できなかった。

 もう二度と彼女らに迷惑を掛ける訳にはいかなかった。


「微睡み沈め、我が一触れに酔い痴れろ」


 ウェインはクラード語で会話こそできないが、基本的な魔法の詠唱は覚えている。記憶が定かであれば、今まさに聞こえたのは下級幻惑魔法の詠唱だ。

 翼人の男の手が頭に触れてきたと同時、思い切り右足を振り上げた。


「――ぐがっ!?」


 依然として片膝を突いたまま首を軽く掴んできている獣人。その毛深い顎先を蹴り抜くと、拘束の力が緩んだ。


「〈誘眠撃タス・ピリィ〉」


 拘束から抜け出すために、そして翼人の手を躱すために、後方に逃れる。蹴り足の勢いは死んでいないため、両腕も振り上げることで後方転回を試みた。が、獣人の手からは解放されても、翼人の手は胸元付近に軽く触れられてしまう。


「……っ」


 なんとか両手を地面について、くるりと全身を縦回転させ、着地する。が、急激に襲い来る眠気のせいで、そのまま跪いてしまった。

 獣人の方は尻餅をついてこそいるが意識はあるようだ。咄嗟のことだったので意識まで刈り取れなかったことが悔やまれる。

 翼人の方は背中の両翼を羽ばたかせて突進してきた。意識を保つのに必死な状態では、もうろくな抵抗などできずに捕まるだろう。


「……ふざけんな、クソ」


 思わず悪態を吐きながら、自分の右手中指を左手でへし折る。逡巡も躊躇いもなく実行できた。指一本程度の骨折、腕を失ったローズに比べれば、そして拷問で皮と肉を削がれることに比べれば、全く大したことではない。


「ぐっ、があぁ!」


 思わず雄叫びを上げた。

 ポキッという小枝でも折ったときのような小気味良い音に反して痛みは激烈なもので、一瞬にして眠気が吹き飛んだ。それどころか、先ほどまで鬱々として靄がかっていた思考まで一気に晴れ渡り、十全に意識が醒める。


「大人しくしていればいいものをっ!」


 翼人の男は苛立たしげに舌打ちを零している。

 前回、あのモニカという獣人の女に騙されたときは一目散に逃げ出した。しかし結局は捕まってしまったので、もう二度と同じ悪手は打たない。

 今回は敵を倒すことで、自分の身ひいてはみんなの身を守る。

 迫り来る翼人は無手で殴りかかってきた。武術の心得があるとは思えないが、全くの素人でもなさそうな身のこなしだ。

 半身を引いて拳を躱すと同時に相手の腕を掴むと、そのまま敵の勢いを殺さず円運動に持ち込み、地面に背中から叩きつける。そして即座に顔面を全力で踏み抜く。鼻の骨が折れる鈍い音が耳に届いた。

 最近はトレイシーからしごかれていなかったというのに、以前に教えられたことは身体が覚えていて、上手く動いてくれた。


「てめぇ、このガキ!」


 今度は立ち上がった獣人の男が襲い掛かってきた。

 自分より膂力や体格で勝る相手と戦うときは、相手の力を利用しろと教わった。相手の重心を見極めて基本の円運動に持ち込むか、あるいは急所となる一点を打ち抜くか。いずれにせよ重要なのは彼我の力を集約することだ。

 故に、ウェインも前方に駆け出した。活路は前にしかない。

 獣人の男が太い足で蹴りを放ってくる。予備動作の段階で即座にそれを悟った。向かって右側から胴部を蹴り抜こうという一撃だ。受けても致命傷にはならない攻撃だろうから、やはり相手はこちらを殺す気がないと見える。

 そう見極めた瞬間には既に身体は一歩深く踏み込んでいた。右の拳を左手で包むように支えながら腰を落とし、迫る脚撃に右肘を打ち込んだ。こちらは子供、相手は大人の身体とはいえ、人体で最も強固な部位である肘と、急所の一つである脛。よほどの闘気が込められていなければ、天秤はこちらに傾く。


「ぎぃぁ!?」


 背筋が寒くなるような、ゴキッという直前の二回より大きな音が鳴った。

 しかし気にせず、隙ができた敵の股間を思い切り蹴り上げる。獣人の大柄な身体が蹲るようにして倒れ込んできたので、とどめに頭部を蹴り抜いておく。

 二人の男は倒れたまま動かない。が、まだ警戒は解かない。残心は大事だと教わった。きちんと敵が無力化でき、残敵がいないことを確信できるまで、気を抜いてはいけない。


「――っ!?」


 不意に、身体が後方に引っ張られた。

 振り返ってみると、三十リーギスほど先に人影が見える。加えて、身に覚えのある感覚だったので、すぐにこの引力が闇属性中級魔法〈霊引ルゥ・ラトア〉だと気付けた。


「赤熱せし鏃が煌めきよ」


 引力に抗うように両足で踏ん張りながら、身体の向きを反転させ、人影と正対する。薄暗くてよく見えないが、大人の男であることは確かそうだったので、敵だと判断し詠唱した。


「――〈火矢ロ・アフィ〉」


 初級火魔法を放ってみるが、人影は一歩横に動いただけで簡単に避けた。が、一瞬だけ火の明かりに照らされて、相手が全く見知らぬ人間の中年男であることが判明する。

 ウェインは引力に逆らわず、自ら敵の方に駆け出した――その直後、右斜め上方に気配を感じた。


「――ぅぐ!?」


 おそらく屋根から飛び降りてきた何者かは、棒状の長物を振り抜いた。不意打ちというだけでなく、魔法で進行方向を限定されていたせいで躱すことができず、もろに直撃してしまう。胸元を襲うあまりの衝撃に上手く呼吸ができなくなった。


「ふぅ……ったく、あいつらガキ一人にやられやがって。情けねえ」


 倒れ込むウェインの傍らに何者かが立ち、忌々しげに呟いている。


「だがまあ、すげえ魔女の仲間ってんなら納得もいく。こりゃ竜の卵云々って話も本当かもな……って、おいおい、立ち上がろうとすんな、大人しくしとけ」


 痛みを無視して、ふらつく身体を起こそうとした。が、側にいる細身の獣人男から、おそらく槍の石突で頭部を叩かれてしまった。四肢に力が入らず、急激に意識が遠のいていく。


「汚れ仕事は今更だが、子供攫って人質にとるとか……嫌な任務だ」


 なんとか身体を動かし、意識を保とうとするが、努力は早々に無駄に終わった。

 敵の大きな溜息が聞こえてすぐに、ウェインは気を失った。

 

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