第百十四話 『そして専属の美女騎士』
チュアリーを出港した翌日――光天歴八九七年、橙土期第一節七日。
《黄昏の調べ》の襲撃から、既に六節が経っている。四十九日などとっくに過ぎ、死別の哀情も落ち着いてきた。子供たち(ウェイン以外)の心が順調に快復してきたということで、以前までのように学習する習慣を再開することになった。
「……うー……うぅ……うぁぁぁぁああぁぁぁぁ!」
十人は着席できる大きな食卓テーブルを六人で囲んでいると、そのうちの一人が我慢の限界とばかりに叫びながら椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「やっぱり勉強なんてしてる場合じゃない! あのおばさんを監視するんだっ!」
「リーゼ、座りなさい。ツィーリエさんなら大丈夫だから。それにさっきアシュリンに頼んでいたじゃない」
「アシュリンは臆病だしあんまり頭良くないからアシュリン一人じゃダメなんだ!」
クレアの言葉を撥ね除けて、リーゼは羽ペンを愛槍アリアに持ち替える。
そして俺に熱い眼差しを向けてきた。
「ローズも行こっ、あたしたちで見張るんだ!」
「いえ、見張る必要はないと思いますよ。ツィーリエさんも海原の只中で馬鹿な真似はしないでしょうし、彼女はあくまでライムとソーニャの護衛ってことですし、私たちに危害は加えないはずです」
「でも油断大敵だって前アリア言ってたもんっ!」
リーゼは俺が全く乗り気ではないと見たのか、はたまた焦っていたのか、一人で船室から甲板へと駆け出て行った。〈霊引〉などで引き止めることも可能だったが、幼狐の気持ちは分からないでもないので、俺は何もせず見送っておいた。
「ユーハとセイディも外にいるし、そんなに警戒しなくても大丈夫だと思うけど……」
人見知りなサラは新たに乗船してきた魔熟女とあまり関わりたくないのか、少しは警戒している様子だが、人任せなスタンスだ。
ルティはリーゼの背中を見送っていた視線を無言のまま魔筆板に戻し、計算式を解いていく。この子は良くも悪くもマイペースだ。
「メル、一応お願い」
「はい」
黒髪美人教師の短い言葉に、補佐役の獣耳美少女は頷き、船室を出て行った。メルに暴走するリーゼを止め切れるかどうかは微妙だが、外にはユーハもいるし大丈夫だろう。
「まったく、一番勉強しなくちゃいけないのはリーゼなのだけれど……」
クレアの憂慮は正しく、俺たちロリ組四人の中で北ポンデーロ語に最も不慣れなのはリーゼだ。
この船旅の最終目的地は北ポンデーロ大陸の町シティールであり、今後はそこで暮らしていくことになる見込みだ。当然、そこの公用語は北ポンデーロ語で、これまでずっとエノーメ語を公用語として生活してきたリーゼやサラ、そして俺も大きな変化に適応しなくてはならない。
以前までの生活では、魔法学として魔法言語たるクラード語を学び、外国語として北ポンデーロ語を学ぶのが婆さんたちの教育方針だったので、現時点でもサラもリーゼも日常会話程度なら何とかなっている。しかし完璧ではないし、読み書きの練習もあるため、きちんと勉強する必要がある。
尚、俺は館にいた頃にだいたい習熟したし、南ポンデーロ大陸からの帰路における実地研修も経て、既に問題ないレベルだ。ルティも同様だが、彼女は逆にエノーメ語が不自由だ。
「まあ、リーゼはそのうち落ち着きますよ。今は好きにさせておいてあげましょう」
「そうね……数日もすれば慣れるでしょうし」
クレアは少し心配そうに微苦笑して、俺たちの教師役を再開した。
俺もリーゼのことは気掛かりだったが、それでも尚、勉強に集中することにした。本日の勉強会は一つのテストで、これにきちんと集中して取り組むことができれば、俺は精神的に余裕を持てているという証左になる。
集中できる確信が得られたら、昼食後から転移魔法の練習を始めよう。
■ ■ ■
ボアからチュアリーまでの船旅生活を経たことで、船員の役割分担は概ね決まっている。炊事洗濯などはもちろん、船旅は海上生活なので昼夜を問わず魔物や海賊を警戒する必要があり、二十四時間態勢で警備と針路確認を行う必要がある。
夜番は大人たちの担当で、ユーハは昼食後に寝て、夕食前に起きる。イヴは昼食前に起き出して、夜明け頃に就寝する。新人のツィーリエは夜間警備を担当することになり、その生活サイクルはユーハと同じになる。なので美熟女は昼食を終えると船内の寝室に引っ込んで休眠となるため、日暮れまではリーゼの警戒態勢もひとまず落ち着き、昼食後はアシュリンの腹ごなしとばかりにルティやメル、セイディと共に空中散歩に繰り出していく。
チュアリーまでの船旅生活中には俺も散歩に付き合っていて、今日も魔法練習の前にみんなと仲良くお喋りしてリラックスしようと思っていたが、昼食直後にイヴからこう言われた。
「ローズさん、少しお話があるので、この後お時間よろしいですか?」
何やら真剣な様子だったので、話が長引くことも考慮して散歩の不参加をリーゼたちに伝え、イヴと二人でメインマスト上部の物見台にやって来た。
「んー、今日もいい天気ですねー。船旅日和です」
「そうですね」
俺は青々と晴れ渡る空を見上げながら大きく伸びをするが、イヴは軽く相槌を打つだけで、いつにも増して凛とした雰囲気を崩さない。本題に入る前に他愛ない話題でリラックスしてもらおうという考えは捨てることにして、俺はイヴに向き直った。
「それでイヴ、話って何ですか?」
「はい。実はローズさんにお願いしたいことがありまして」
イヴは胡桃色の瞳で真っ直ぐに見つめてきた。
こうして改まったように切り出してきた状況からして、もしかすると結構な無理難題をお願いされるかもしれないが、俺は全く緊張していない。昼前の勉強会では集中できてたし、今日まで色々と経験してきたこともあり、もう俺はちょっとやそっとのことでは動じない人間になれている。
「お願いですか? 私にできることならいいんですけど」
こんな美女のお願いなら、おじさん何でも聞いちゃうぞ。
「ローズさんにしかできません。ローズさんでなければ、いけないのです」
「ほ、ほう……それはまた……いったい何でしょう?」
俺にしかできないことだと?
この船旅のメンバーで俺にしかできないことといえば、特級の治癒解毒魔法などの高等級魔法と断唱波、そして竜人語くらいなもんだが、イヴはどこも体調が悪そうに見えない。
と思っていると、突然イヴがその場に片膝を突いた。やっぱりどこか体調悪いのかと思って、俺は彼女の肩に左手を伸ばしかけたが、その前にイヴが口を開いた。
「ローズさん」
やや下から向けられる眼差しは真っ直ぐで、凛と響く声と合わさると、思わず見惚れるほど綺麗だった。彼女の姿勢もあって、まるで求婚でもするかのように真摯な気持ちが伝わってくる。
「私に貴女を守らせてもらえないでしょうか」
「…………ん?」
一瞬、意味を判じかねた。
「突然こんなことを言われても意味が分からないでしょうから、具体的な例を挙げますと、各国で行われている魔女の護衛のようなものとお考えください」
「各国で……魔女の護衛…………専属美女騎士?」
「び、美女? かどうかは分かりませんが、そうです。魔女の護衛騎士のように、私にローズさんを守らせてもらえないでしょうか?」
「私の護衛騎士ですか、なるほど」
なーんだ、びっくりした。
やっぱりただの求婚だったのか。
「……………………え?」
「もちろん、既にユーハさんという私などより遥かに精強な方がおられて、ローズさん自身も非常に優秀な魔女である以上、烏滸がましい申し出であることは理解しています」
イヴは情熱的なまでに真剣な眼差しで、しかし落ち着きのある美声で、予め用意していたかのようにすらすらと告げてくる。
「ですが、ユーハさんがどれだけ精強でも、一人です。昨年のようなことが起きた際、ユーハさんはローズさん以外にも多くの方を守らねばなりません。ローズさんはリゼットさんやクレアさんたちのことを非常に大切に想っているようですから、ご自分を犠牲にしてでも皆さんを守ろうとするでしょう」
今では存在しない俺の右腕をちらりと見ながら言われ、俺は阿呆のようにただ頷いた。未だに急展開すぎる状況に戸惑ってこそいるが、彼女の言葉は何も間違っていない。リーゼたちを守るためなら、俺は無理を通して道理を蹴っ飛ばす。
「私が分不相応に皆さんを守ろうとしたところで、ユーハさんやローズさんの邪魔にしかなりません。ですから私は、皆さんを守ろうとするローズさんを集中して守りたいと考えています」
「……………………」
「それにローズさんも女性ですし、今後は男性のユーハさんだけでは何かと不都合が生じる場面も出てくるかと思います。ユーハさんには昨夜のうちにお話ししたところ、賛同してくださいました」
なるほど、幼女な今は良くても将来的に男の護衛だけだと困ることはありそうだ。
と素直に納得していると、イヴがおもむろに頭を下げてきた。これまで流暢だった語り口は暗く淀みがちになり、如何にも申し訳なさそうな様子を見せる。
「昨年の、あのときのことですが……ローズさんが大変なときに加勢できず、本当に申し訳ありませんでした。あのとき皆さんが大変な状況にある中、私はジーク様に加勢することしかできませんでした」
「い、いえ、あのときのことは仕方ないじゃないですか。ルティがいましたし」
《黄昏の調べ》に館が襲撃され、俺とユーハがエネアスと戦っていた際、ルティが乱入してきたことがあった。その後にイヴとベルも現れたとき、俺は確かに言った。
『ベルは守れっ! ルティは向こうだイヴ!』
イヴにルティを守らせようとして、結果的にジークに加勢させたのは彼女自身の意志が切っ掛けではなく、俺の言葉だ。もし俺がベルと一緒にリーゼを守れと言った後で、ジークが余所で戦っているのに気付けば、もしかしたらイヴはリーゼたちを放ってジークのもとに向かっていたかもしれないが、所詮は仮定の話だ。
「ですが、自惚れかもしれませんが、私が加勢していればローズさんは片腕を失わなかったかもしれません」
「それは――」
「はい、実際はどうなっていたかは分かりません。それにジーク様を守り切れず、のうのうと生き残ってしまった私が言っても信憑性を欠いていることでしょう」
ふと目を伏せて忸怩たる面持ちを覗かせた彼女を見て、納得した。
これはイヴにとって必要なことなのだろう。
「それを承知で、お願いします。ローズさんに助けていただいた恩を、今後貴女を守り続けるという形で返させていただけないでしょうか」
イヴは俺という恩人を守っていくことで、かつてジークを守れず俺たちの加勢もできなかった罪悪感という穴を埋め合わせようとしているのではあるまいか。
この美女はジークのために何年も一人旅をしていた。イヴにとってジークはそれだけ大切な人で、しかしせっかく再会できたのに守り切れず死んでしまった。あまつさえ恩人とする俺の窮地にも助勢できなかった。この真面目な美女なら自責の念は感じていただろうし、ウェインのように鬱々としてしまっても不思議ではなかっただろう。
しかし、彼女はこうして毅然とした態度で、真っ直ぐに俺を見つめてくる。
人によっては、ジークの死は俺との出会いが遠因であるという事実を突き付け、俺を恨んできてもおかしくはないだろうに、イヴはそんな現実逃避めいた責任転嫁などせず、やや後ろ向きながらも前を向いているように思える。
「……………………」
片膝を突いて跪き、頭を下げてくる翼人美女を前に、俺は返答に窮した。
無論、専属美女騎士は欲しい。
長年の夢だもん。欲しくないわけがない。
本音を言えば今すぐオッケーしたい。
しかし、俺を守り続けるという生き方がイヴにとって良いものなのかどうか、分からない。人は過去に縛られる生き物で、現在という時間は過去の積み重ねの結果だ。俺は前世で色々あったから、みんなときちんと向き合って真面目に生きていこうとしているわけで、きっと今回のイヴの行動も似たようなものだろう。
「……やはり、私などでは力不足でしょうか?」
沈黙が長すぎたせいか、イヴが不安そうに見上げてきた。
「い、いえっ、そんなことはないです! むしろ役不足なくらいですっ! 私の護衛なんかにイヴは勿体ないです!」
あ……いかんっ、しまった! つい謙遜しちゃったっ!
千載一遇のチャンスなのに、反射的とはいえ否定的なこと言っちゃったら台無しになるかもしれん……でもイヴにとっての最善が何か分からないし……。
「ありがとうございます。ですがそれは過分な評価なので、お気になさらず。ですからどうか、私がローズさんをお守りすることを認めていただけないでしょうか?」
イヴはいつになく積極的だった。
そんなに俺の専属美女騎士になりたいのだろうか。
でも俺なんかにイヴの人生を捧げてもらうような真似は…………いや、うん。
もう、いいか。
もうなんでもいいか。
イヴだって大人なんだし、色々と悩んで出した結論のはずだ。それを否定できるほど俺は立派な人間じゃないし、何より俺にとっても望ましい提案だ。
ウィンウィンの関係になれるんだから、悩む余地なんて全くない。
「……分かりました」
俺は深呼吸を挟んで頷き、イヴの目を見つめ返しながら続けた。
「イヴ、こちらこそお願いします。私の専属美女騎士になってください」
「はい、ありがとうございます。ですが、えっと……美女というのは……いえ、ひとまず形だけでも整えさせてもらっていいでしょうか?」
「形だけ整える?」
え、なに、美女じゃないから整形したいって?
そう謙遜するな我が騎士よ。君はいつだって美しいのだから。
「叙任の儀式です。とはいえ、正式な騎士というわけでもありませんし、今のローズさんではしっかりと剣を持てないでしょうから、簡易的に済ませようと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「私はよく分からないので何でも大丈夫です」
「それでは……」
適当に頷くと、イヴが改まったように跪く姿勢を正した。
俺は喜ぼうにも何だか現実味がなく、本当にイヴが俺の専属美女騎士になってくれたのかどうかの実感も湧かず、青空の下で呆然と突っ立つことしかできない。
そんな俺にイヴは頭を下げると、凛とした声を向けてきた。
「私、イヴリーナ・テイラスはいつ如何なるときであろうと、御身の剣となり盾となることを誓います。我が主ローズ様、どうかこの忠誠お受け取りください」
なんか恭しい感じに手を差し出された。掌を上にして、まるで俺をエスコートしようとするかのような格好だ。
先ほどイヴは剣と言っていたが、本来であればここで剣の柄を差し出すのだろう。そして俺がそれを受け取り、刀身を相手の肩とかに置いたりするのかもしれないが、幼女の細腕一本では長剣など持ち上げることなどできない。
「えーっと……受け取ります」
俺は少し緊張しながらも、美女の手に左手を重ねた。そこでイヴが頭を上げて、真面目くさった面持ちの美貌を向けてきた。が、すぐに照れくさそうに微笑んできたので、俺の方も気が抜けて口元が緩んだ。
「改めて、これからよろしくお願いします、ローズさん」
「こちらこそ、よろしくお願いします、イヴ」
重ねていた手は自然と握手の形になり、俺は自分より大きな手をしっかりと握った。やや硬いながらもしなやかな手の感触、その肌の温もりを味わいながらイヴと顔を合わせていると、先ほどの宣誓もあって、本当に彼女が俺の専属美女騎士になったのだと少し実感が湧いてくる。
しかしそういえば……イヴってまだ処女だったんだよな。
「専属美女騎士……俺の、俺だけの……専属美女……」
「あの……ローズさん、その呼び方はやめてもらえると……せめて専属騎士でお願いします」
照れる美女を見つめながら、俺は彼女と出会った日のことを思い出していた。
アレはそう……今から五年前、光天歴八九二年の橙土期第七節頃のことだったか。リリオの宿屋涼風亭の受付でガストンと本を読んでいたとき、一人の美少女が現れた。イヴと出会ったまさにあの日、あのときに、俺は魔女の敵である《黄昏の調べ》の存在を知り、同時に魔女の護衛騎士の存在を知ったのだ。
そして、いつか、専属の美女騎士と出会うことを夢見ていた。
それがまさか……あの日出会った美少女が美女となって、俺の専属美女騎士になってくれるなんて、誰が想像しようか。いやまあ、確かにね、奴隷商館で見掛けた美女がイヴだと気付く前に、専属騎士にするならこういう翼人美女がいいなとは思ったけど、それが現実になるなんて、あのときは微塵も思っていなかった。
「イヴ……どうやら私たちは出会った瞬間から、こうなることが運命付けられていたようです」
「え、は……運命、ですか……?」
「ありがとうっ、ありがとう運命ありがとう! イヴありがとうっ! うわあぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁ!」
なんかもう嬉しすぎて、思わず彼女に抱き付いて叫んでしまった。
イヴと出会わせてくれた幸運に感謝したかった。
とはいえ、俺とイヴがこんな関係になったのはジークの死があってこそだ。まだジークが生きていれば、イヴはジークにべったりで俺の専属美女騎士になどなっていなかったかもしれない。
「えっと……こちらこそ、ありがとうございます、ローズさん」
年甲斐もなくはしゃぐ俺を、イヴは優しく抱き留めてくれた。
こんな良くできた美女、逆に俺が守ってやらないといけないくらいだろう。
亡きジークのためにも、イヴのことはリーゼたち同様に、決して不幸にしてはいけない。俺の側にいてもらう以上、笑って楽しく過してもらえるように、努力しなくてはいけない。美女騎士の主人という立場に胡座を掻いて、彼女を困らせるようなことは極力……できる限り……なるべく……あ、あまりしないようにしよう。一緒にお風呂入って全裸就寝してぱふぱふするくらいは問題ないだろうしな、うん。
「あぁ……今日は記念すべき日ですね、これからは毎年、橙土期の第一節七日は専属美女騎士記念日としてお祝いすることにしましょう」
「……あの、それより……お願いですから、美女というのは……どうか人前では言わないでもらえませんか……?」
赤面する美女が可愛すぎて、俺は彼女の柔らかな胸元に顔を埋め、この幸福感に浸った。あの惨劇の日から今日まで、みんなも俺も色々大変だったけど、イヴのおかげで疲れなんて吹っ飛んだ。これからも頑張っていけそうだよ。
「イヴ、末永くよろしくお願いしますね」
こうして、イヴが俺の専属美女騎士になってくれた。
ありがとう運命。
そして本当にありがとうイヴ。
■ ■ ■
チュアリーを出港して四日目。
イヴと関係を持って二日後の本日。どうにか煩悩を克服して再び物見台に立った。昨日と一昨日は興奮し過ぎて新魔法の練習どころではなかったが、今日は違う。もう一応は落ち着きを取り戻し、精神的に安定している。実際、闇魔法で帆柱を歩いて登っているときも魔法は落ち着いて行使できていたし、調子はいい。
今日ならいけるはずだ。
「ソーニャ、これから私は集中するので、静かにお願いしますね」
「言われるまでもないッスよ。自分の仕事は針路の確認と魔物の警戒ッスから、姉さんなら未だしも、自分は基本落ち着いてるッスからね」
そんな澄ましたことを言う彼女はまだ十四歳だ。翼人少女といえば昔のイヴを思い出すが、ソーニャはかなり日焼けしてるし、髪や翼は深緑色のイヴとは異なり海のような濃い青色だ。
「…………さて」
一人呟き、まずは深呼吸をした。
それから〈幻彩之理〉を行使し、冷静であることを再確認してから、目を閉じる。
嗅ぎ慣れた潮風の香り、まだ午前中だというのに強く照りつける日差し、船体の微かな揺れ、下の甲板からぽつぽつと聞こえてくるみんなの話し声。二畳分もない物見台のスペースは手狭というほどでもないが、決して広くはないため、ソーニャの静かな気配が感じられる……ような気がする。
「聖なく邪なく謳い調べる、而して我が理は極致せん」
ゆっくりと詠唱し始めると、自分の内側で魔力が胎動するようにざわつくのが感じられる。たとえ適性のない魔法でも――それこそ天級魔法の詠唱時だろうと魔力の活性は感じられた。
「隔絶せし空隙は虚にして無、遠間から嘲笑せし畜生に真を示せ。其は眼前に在りて後背に存り、彼方は此方と成りて此方は彼方と成り果てん」
今このとき、みんなにはなるべく魔法を使わないようにお願いしてあるので、俺の魔動感は何らの魔法も感知していない。だから安心して自分の魔力にだけ集中していくが……この感じは、不味い。
「我は雲霞の如く消失し顕現す、故に何人も我が身を捉えること能わず。巧者が無芸を厭うが如く、蒙昧甚だしき雷火が宙を這う様を倦厭せよ。嗚呼、神罰を恐れるな忘恩の徒、聡慧たる己が礼法に酔いしれろ」
既に半ば悟れていたが、諦めず集中し続け、自分の中で荒れ狂う魔力を何とか制御しようと試みるが……幼女の力で荒ぶる闘牛を止められないのと同様に、焼け石に水だと思えてしまう。
「いざ其の威を以て頑冥たる窮理を歪め、今此処に瞬転の法を示せ――〈瞬転〉」
「……………………」
ソーニャは何も言わないし、言う気配もないが、沈黙が気まずかった。
俺は目を開けて嘆息し、その場に座り込んだ。
「……ローズ、大丈夫ッスか?」
「はい、体調が悪いとかじゃないので、ご心配なく。集中してるだけです」
熱中症でも心配してくれたのか、気遣わしげに声を掛けてくれたソーニャに軽く頷き、俺は被っていた麦わら帽子を脱いで青空を見上げた。
「……………………」
これアカンやつや。
以前、館で生活していた頃に冗談半分で唱えてみた天級治癒魔法と似たような感触だった。例の如く魔法を車として考えてみると、エンジンを組み上げるパーツが複雑怪奇すぎて何が何だか全く分からん。仮に運転までこぎつけたとしても、操縦できるとは到底思えん。千秒で1000ピースのホワイトパズルを完成させる方が遥かに簡単だと思えるレベルだ。
つまり、無理っぽい。
「……まあ、そりゃそうか」
転移という超絶便利なチート級魔法が簡単な訳がない。
それは分かっていたことだが、予想を上回る現実にちょっとショックを受けてしまった。なにせ俺の適性属性魔法らしいし、もしかしたら案外簡単にできるんじゃね? とか少しも考えていなかったといえば嘘になる。
しかし……うん、魔力が励起したってことは、やはり詠唱に問題はないっぽいな。事前にゼフィラにも確認は取ってあったので、その辺はあまり心配していなかったが、これで確証が持てた。
問題は難易度が高すぎて、無詠唱化とか夢のまた夢としか思えないほど、普通に習得できる未来すら絶望的なことだが……どうしよう?
「聖なく邪なく謳い調べる、而して我が理は極致せん」
少し考えた末、再び詠唱を始める。
これまでの経験上、魔法の習得はトライアンドエラーしかないという結論に至った。初めて魔法を習った頃のように、魔法の捉え方を変えれば道が開ける可能性はなきにしもあらずだが、あの頃と今では童貞かそうでないかくらいの差がある。ここは経験を活かして打開策を模索すべきだ。
「隔絶せし空隙は虚にして無、遠間から嘲笑せし畜生に真を示せ。其は眼前に在りて後背に存り、彼方は此方と成りて此方は彼方と成り果てん」
アインさんという実例があるし、俺の適性属性の魔法であれば、やってやれないことはないはずだ。先ほどの感じからして、これが火属性魔法とかなら一回で見切りを付けるレベルの難易度だが、適性属性となれば話は変わる。
「我は雲霞の如く消失し顕現す、故に何人も我が身を捉えること能わず。巧者が無芸を厭うが如く、蒙昧甚だしき雷火が宙を這う様を倦厭せよ。嗚呼、神罰を恐れるな忘恩の徒、聡慧たる己が礼法に酔いしれろ」
暴風のように荒れ狂う魔力を制御することだけに集中する。
「いざ其の威を以て頑冥たる窮理を歪め、今此処に瞬転の法を示せ――〈瞬転〉」
……………………無理か。
まあ、まだ二回目だしね。
特級魔法を練習していた頃だって、最初はこんなもんだった気がする。
ただ、特級魔法と明確に異なる点はある。
魔力の消耗が激しいのだ。
魔法を練習する際、不発に終わっても魔力は幾らか消費する。その量は一定ではなく、まちまちだ。詠唱を途中でやめた場合はそれまでに活性した分の魔力を消費し、最後まで唱えきって不発だった場合でも然りだが、その消費量は習熟状況により変動する。
魔法の練習とは制御の効かない魔力を練って整えるようなもので、魔力を制御できないために込める魔力量の調節も当然できず、本来必要な魔力量より足りなかったり、逆に多すぎたりもする。練習ではその辺の具合も探って掴む必要がある。
俺の場合は、一度他人の魔法を魔動感で感じ取れば、必要な魔力量がだいたい分かる……というほど単純でもない。魔力を多く込めれば魔法の威力や効果が増し、魔力が多ければ制御も難しくなるので、一概に他人の魔法をあてにして必要な魔力量を推し量ると、習得が逆に難しくなる危険性がある。最初は魔法の現象に必要最低限の魔力で練習した方が習得し易いからだ。
俺は以前にアインさんの転移魔法を魔動感で感じ取ったので、あのとき感じた魔力量以上であれば、少なくとも行使するのに最低限必要の魔力量は満たすことになる。
知恵袋曰く、〈瞬転〉は転移する距離によって消費する魔力量が変化するらしい。あのときアインさんはゼフィラの相識感めいた感知範囲外に一気に飛んだようなので、一リーギスだけ転移する場合よりも多くの魔力を込めたはずだ。尚、ゼフィラの感知範囲は訊いても教えてもらえなかった。単なる意地悪なのか、俺が信頼されていないのかは不明だが……いずれにせよ、あのときアインさんから感じ取り推測した魔力量よりやや少ないくらいの量を込めれば、大丈夫なはずだ。
そう考えて、なるべくその量の魔力を込めようとして、先ほどの二回はやってみたわけだが、未だ嘗てないほどにごっそりと魔力を持っていかれた感じがする。
適性のない魔法、あるいは習得できそうにない魔法では、必要最低限の魔力を込めることができない。だからどれだけ練習しても習得できないわけだが、必要な魔力量など魔動感がなければよく分からないので、常人には判断が困難だ。
以前俺が試したときも、見本を見せてくれた(感じさせてくれた)婆さんの魔力量には到底届いてなかったと思う。だからアインさんからの言葉――俺に覇級以上の魔法は習得できないという助言もあり、見切りを付けたが、今回はかなりごっそり魔力を消費した。消費できた。
ということは……望みはあるのだ。
「よし……たぶん大丈夫だ、大丈夫」
不安を誤魔化すべく、声に出して自分に言い聞かせ、一度深呼吸をした。
三度目の正直には期待できそうにないが、焦りは禁物だ。
一歩一歩、確実に前進していくつもりで、ゆっくり急げの精神で練習しよう。
次回は少し間が空くと思います。