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幼女転生  作者: デブリ
八章・渡航編
170/203

 間話 『絶対絶望少年』


 そこは薄暗い部屋だった。

 蝋燭の灯火が揺らめき、見知らぬ男たちの影が壁面に大きく映し出されている。

 

『目が覚めたかね、少年』


 まるで残照の如き色合いの翼を持った男が声を掛けてきた。

 ぼんやりと壮年の男を見上げつつも、身体を動かそうとする。

 が、動かなかった。


『悪いが拘束させてもらっているよ。君に恨みはないのだが、君は魔女共に惑わされている身だ。私たちに挑みかかられても困るのでね、許して欲しい』


 次第に意識が鮮明になり、己の置かれた状況を理解しようと努めてみる。

 目の前には見知らぬ翼人の男。

 硬い椅子に座らされており、手足は鋼鉄の枷によって椅子に固定されている。

 左右にはそれぞれ二人の男が立っており、椅子の側にある台には何やら見慣れぬ器具が整然と並べ置かれていた。


『さて、君は突然のことに混乱していると思う。だが安心して欲しい。私たちは君の味方だ』

『ここは……どこだ、お前誰だ』

『私の名はサヴェリオ。君はウェイン君だね?』

『だったら、どうしたっていうんだ』


 意味不明な状況に不安が込み上げてくるが、毅然と男を睨む。

 目覚める前の記憶と拘束されている現状を思えば、周りの男たちが非友好的な者たちであることだけは確かだ。


『君がよく知っている魔女たちについて、教えて欲しい』

『え……?』

『奴らは君に良くしてくれたことだろう。だが、惑わされてはいけないよ。魔女という存在は世を乱し、社会にとって悪影響しか及ぼさない屑なのだ』

『お前……何を言ってるんだ……? ここはどこだっ、これを外せ!』


 暴れてみるも、身体は全く自由にならない。

 石造の椅子は床面と一体化しているかのようにどっしりと鎮座しており、手足を拘束する鉄枷はビクともしない。

 完全に身動きが取れない状態に陥っていた。


『ここはとある建物の地下にある一室だ。質問に答えてくれれば、枷を外してあげよう』

『…………お前ら、まさか《黄昏の調べ》とかいう連中か』

『ほう、知っていたのか。この年頃の子供に我らのことを教えているということは、やはり利用する気満々だったのだな』


 男はわざとらしいまでの悲哀を表出させて顔を歪め、憐れみの目を向けてくる。

 

『ウェイン君、私たちは君を魔女たちから救いたいのだよ』

『言っている意味が全く分からない……だがお前らが最低最悪のクソ野郎共だってことは分かる』

『ふむ……悲しいことだ、既に洗脳されているとは……』


 嘆息しながら頭を振る男は蝋燭の灯りに照らされて、どことなく偉そうで気に食わない相貌に不気味な影を刻んでいる。

 椅子の左右で直立する二人の男は微動だにせず、ただ口を噤んでいるだけで、こちらも得体が知れず気味が悪い。

 雰囲気に呑まれかけ、怯懦が心を支配しそうになるが、耐える。


『私もあまり酷いことはしたくない。だから再三問おう、ウェイン君。君がよく知っている魔女たちについて、教えて欲しい』

『教えるわけねーだろ』


 かつて《黄昏の調べ》という連中は、チェルシーという彼女らの家族だった人を殺したという。加えて、以前はメレディスも殺されかけたが、トレイシーが助け出したことも知っている。

 もしも目の前の男に彼女らのことを教えれば、どうなるか。

 

『どうしても、教えてはくれないのかね? いや、ただ教えて欲しいというだけでは答えにくいだろう』

『何をどう訊かれたところで教えねーよっ、このクソ野郎! いいからこの枷をとっとを外しやがれっ!』 


 己を鼓舞するためにも、殊更に威勢良く吼えてみる。

 だが男たちは全く意に介した様子もなく、眼前の翼人は落ち着きのある声でゆっくりと問うてきた。


『教えて欲しいことは色々あるが、とりあえずはリュースの館と呼ばれる魔女たちの住処の間取りを教えてもらえないかな? できれば魔女たちの名前、年齢、素性、得意魔法や好きな食べ物でも何でも、知っていることは何でも教えて欲しい』

『お、教えねーって言ってんだろっ』

『これが最後の確認だ……どうしてもかい? 何が何でも教えてはくれないのかな?』

『教えればあいつらを殺すんだろ!? テメェらなんかに教えるわけねーだろうが!』


 若干、声が震えながらも勇ましく言い切って、唾を吐いてやる。それは翼人の男の靴に付着し、彼はそれを漫然と見下ろし、大きな溜息を吐いた。


『そうか……残念だ、非常に残念だよ。見たところ、君の意志は固そうだ。本当はじっくりと理を説き、考えを改めさせてあげたいところだが、生憎とそれでは時間が掛かりすぎるだろう』

『なに言ってんだ、お前……?』

『仕方がないから、少し強引な手を使わせてもらうよ。恨むのなら、魔女たちと魔女たちに関わってしまった己が不運を恨んで欲しい』

『…………』


 何か、不味い。

 直感的にそう悟るも、既にこの状況が止まらないことも理解できている。

 思わず全身を強張らせながら、三人の男たちを注意深く見回した。


『やれ、まずは爪でいい』

『了解です』


 右隣の男は首肯すると、動き出した。

 拘束されている右腕の先を掴んできて、椅子の肘掛けに指の一本一本を小さな革帯で固定していく。当然、抵抗しようとはしたが、四肢は動かず、指だけの力では大の男に敵うはずもなかった。


『な……んだ、それ……おい、何してんだお前っ、なんだそれは!?』


 男は傍らの台から不気味な器具を手にとって、動かない右手に近づけてきた。

 そして何やら中指の先に固定すると、斜め上に伸びた棒を叩いた。


『ぅ――がああぁぁぁぁ!?』

『痛いかい? 痛いだろう? 君が教えてくれるまで、この痛みが続くことになる。だから、さあ、君自身のためにも、私に教えてくれないかい?』


 弾け飛んだ爪が膝の上に落ちた。

 一気に溢れ出した涙で歪んだ視界にそれが映るも、状況がよく飲み込めない。

 突然の痛みで飽和した頭が理解を拒絶していた。


『はぁ……ぐ、ぅ、はぁ……お、教える? 俺が、あいつらの、ことを……?』

『そうだ、教えて欲しい』

『……教えるわけ、ねーだろ……クソ野郎』


 指先を苛む激痛には抗いがたい。

 何よりも心が男たちを恐れている。

 だが、この痛みや恐れに負けて彼女らを売り払うようなことは断じてできなかった。


『良い目だ、強く純粋な決意が見て取れる。こんな少年をあまり傷付けたくはないが……おい、もう少しゆっくりとやれ』

『了解です』

 

 男は頷き、様々な器具の置かれた台から一本の棒を取り出した。

 いや、それは棒というより、へらだ。その細長く平らな薄い金属板を右手に近づけてくると、今度は人差し指に当ててきた。金属のへらが爪の間に緩慢な動きで、しかし着実に入り込んでくる。


『ぅ、ぐっ……があぁぁああぁぁぁあぁぁ!?』

 

 肉と爪をゆっくりと切り離すようにへらが入り込んでくる。先ほどは一瞬だけだった激痛が連続して絶えず襲ってきて、叫ばなければ気が狂いそうになる。


『教えてくれれば、すぐにでも止めさせてあげよう』

『ぐぅぅううぅぅああああぁぁああぁぁあぁあぁあッ!?』


 無茶苦茶に身体を暴れさせる。全く動かず、四肢に鉄枷が食い込んで痛いだけだが、身体が勝手に暴れてしまうのだ。

 痛みで何も考えられず、しかし翼人の男の声だけは瞭然と耳に入ってくる。


『さあ、次は薬指をやってしまうぞ。だが教えてくれさえすれば、止めてあげよう』

『ふぅ……はぁ……ク、ソ……』

『ん? なんだって?』

『はぁ……クソ、野郎……死ね…………ぐぎゃああぁぁぁぅぅがあぁぁ!?』


 なけなしの意地など放り捨ててしまいたかった。

 しかし、そんなことをすれば、彼女らが殺されてしまうかもしれない。

 そう思うと、なんとか踏みとどまれた。


『うぅむ…………これは、驚いた。大の男でも耐えられる者などそういないのだがな……』


 荒い吐息が涎と共に口から零れ、涙と鼻水が顎先から滴り落ちていく。

 だが気にする余裕など微塵もなく、男の言葉もろくに耳に入ってこなかった。


 激痛に晒され始めて、どれほどの時間が経ったのか。

 既に両手の指先は真っ赤に濡れ、腫れ上がり、感覚が曖昧だった。

 視界が歪み、全身が気怠く、意識が朦朧としている。

 右手の爪が全て剥がされたところまでは何とか覚えているが、いつの間にか左手の爪も全てなくなっていて、意味が分からなくなった。


『ウェイン君、いい加減教えてくれないかい? 私としても、これ以上のことはあまりしたくないのだよ』

『……ぅ……あ、ぐ……なら、やめろ……はなせ……はぁ……きえろ……』


 何をされようと彼女らのことを言うつもりはなかった。

 まだ幼かった当時、母を喪い、男を殺し、トレイシーに引き取られたときのことは鮮明に覚えている。あの頃はよく分からない苛立ちと無気力感が日々の全てであり、目に見えるもの悉くが薄汚く穢れて見えた。

 醜悪に過ぎる世界が恐ろしく、憎々しく、自分という存在すら疎ましかった。

 だが、彼女らと出会ったことで、それも随分とマシになった。相変らず世界は薄汚く穢れて見えるが、それでも世界に美しいものは確かに存在し、こんな世界も捨てたものではないと思えた。だからこそ、彼女らがいない世界など掃き溜めのごみ溜め同然であり、そんな世界に一人で生きていくくらいならば死んだ方が遙かに良い。自分自身のためにも、彼女らは何としてでも守らなければならないのに、危険に晒すなど論外だ。あり得ない。


『未だ九歳と半年でその精神力、見事だと賞賛しよう。だが、もう諦めたまえ、これ以上は本当に惨いことをせざるを得ない。私は君のような立派な少年を、これ以上傷付けたくはないのだ』

『……っ、う……はぁ……あいつ……あいつら、は……まもら……ないと……』

『……残念だよ、ウェイン君。その意志に敬意を表し、もはや加減はせず全力でやらせてもらおう』


 涙に滲んだ視界の端で、散々爪を剥がしてきた男が動いた。

 右手の中指を縛り付けていた革帯を外し、小さな刃物を近づけてくる。何やら中指を切り裂いているようだが、先ほどまでの激痛と比べれば大したことはなかった。しかし、その光景がもたらす衝撃は段違いだった。


『彼は拷問の達人だ。皮を剥ぎ、肉を削ぎ、骨を磨り潰すのが非常に上手でね』


 肌色の皮膚が綺麗に剥がされて、生々しい赤が姿を現した。

 思いがけない事態を前に、朦朧としていた意識が急激に覚める。

 これから何が起こるのか、その恐ろしさを悟りかけたが故に自分の指から目が離せない。


『次は肉を削ぐそうだ。君の肉だからね、あとで君に食べさせてあげよう』

『や、め……やめろ……』


 中指に激痛が走り、ゆっくりと指が細くなっていく。

 白い何かが覗き見えてきて、目を逸らすべきなのに、逸らせない。


『ぅ……あ、あぁ……やめろ、やめろ……』


 もはや痛みには慣れてしまったのか、絶叫しない代わりに情けない声が勝手に漏れ出てくる。


『ぃ、いやだ……やめてくれ……おい、やめ……』


 どんどん指が細くなり、赤より白の割合が増えていく。

 思考が飽和していた。

 意味が分からなかった。

 自分の指が、あって当然の指がなくなりかけている。

 解体を平然と行っている男がいる。

 いや、違う、笑っている、実に楽しそうに自分の指を奪っている。


『やめろ……やめろおぉぉぉぉァァァアアアアァァアッ! やっ、やめ、やめでやめでぐださいおねがいしばぁぁぁああああ!』


 白く、か細い何かが半分以上露出している。

 男が笑っている。

 

『では、教えてくれるね? 教えてくれたら、止めてあげるし治療もしよう』




 ■   ■   ■




「――っ!?」


 鋭く息を呑み、飛び起きた。

 薄闇の中で双眸を見開き、荒い呼吸が口から漏れ、汗が頬を流れる。

 激しい動悸に見舞われながらも無意識的に右手の中指を触って、その存在を確かめながら、ゆっくりと呼吸を落ち着けていく。

 しばらく背中を丸めるようにして、じっと待つ。船体の微かな揺れと波音のさざめきに意識を集中することで気を紛らわせていく。

 すると次第に動悸も呼吸も緩やかになり、ウェインは服の袖で額の汗を拭った。

 

「……………………」

 

 室内は静かなものだった。

 男部屋の四隅には二段ベッドがそれぞれ設置され、ウェインはその一つの下段を寝床としている。全てのベッドの上段は未使用で、この部屋はウェインとヒルベルタとユーハの共用だ。

 しかし現在、部屋にはウェインとヒルベルタの二人しかいない。ユーハは夜番として甲板上で魔物を警戒しているからだ。


 規則正しい寝息のもとをちらりと見遣ると、ヒルベルタが姿勢良く仰向けで熟睡していた。

 ウェインはのっそりと動き出してベッドを降り、薄暗い部屋の中をのろのろと歩いて扉を開ける。廊下に出ると、低質な魔石灯の薄明るい光に目を細めつつ、気怠い身体で目的の場所を目指す。


「…………」

 

 突き当たりの扉を開けて、船倉に入る。

 あちこちに荷が積まれており、角のあたりに置かれた木箱の影に腰を下ろして膝を抱える。この場所は最近のウェインにとってのお気に入りだった。

 人気のない広々とした空間の片隅で、ゆっくりと息を吐き、目を閉じた。

 膝頭に額を預け、鬱々とした気持ちに抗うことなく身を委ねる。


「…………くそ」


 掠れた呟きが虚しく響き、すぐに消えた。

 ウェイン自身も消えてしまいたかったが、それができれば苦労はしない。


 あの最低最悪の一件から、既に六節ほどが経つ。

 毎晩のように悪夢を見てしまう苦しみは自業自得なので、ウェインは甘んじて享受している。耐え難いのは、あの程度の恐怖で屈してしまった己の弱さと、それを責め立てず優しく受け止めてしまう彼女らの存在だ。

 大切だった彼女らのことを話してしまった暗愚な少年を、彼女らは決して非難しなかった。してくれなかった。


「おれは…………」


 彼女らは誰もが傷付き、三人は亡くなっていた。 

 祖母のいなかったウェインにとって、本物の祖母も同然だったマリリン。

 賑々しいリゼットたちと違い、側にいると不思議な安心感を与えてくれたアルセリア。

 僅かとはいえ共に暮らし、その体躯に見合わずいつも優しかったヘルミーネ。

 喪失感と罪悪感だけが心を支配し、いっそのこと彼女らに叱責された上で、殺して欲しいとさえ思った。


「……………………」


 鬱屈とした感情に逆らわず、自分の内に沈み込むと、否応なくローズの姿が思い浮かんだ。

 ローズ。

 彼女は右腕を失くしていた。

 それに対して、中指一本がなくなる恐怖に怯えていた自分はどうだ?

 目覚めたときには中指どころか両手も普段通りになっており、五体満足で傷一つない。その事実を認識したとき、消えてしまいたいと思った。彼女らの世界を穢した《黄昏の調べ》に対する憎悪はあるが、それ以上に己自身に対する恨み辛みの方が大きかった。

 しかし、ローズたちは一切責めない。

 むしろ同情してくれている。


「ゼフィラさん、念のため訊いておくけど、他に誰もいないわよね?」


 ふと、声が聞こえた。

 ミリアとかいう女性の声だと思われ、咄嗟に身を硬くして息を潜めた。


「ん? まあ……そうだの。しかし小娘、そう警戒するでない」

「あの、ミリアさん、このような場所で話とは一体……?」


 他に二人いるようで、何やら話をしている。

 一人になりたくて船倉に来たのに、一人になれない。それでも今動けば彼女らに気付かれて何か言われるだろう。今は誰の声も聞きたくなくて、姿も見たくなくて、ただこの暗闇の中で一人じっとしていたかった。


「実は貴女に頼みたいことがあるの、イヴ」

「何でしょう?」

「単刀直入に言うわ。ローズを守って欲しいの」


 ローズを守る。

 その言葉が聞こえた途端、罪悪感が膨れ上がって、心に重くのし掛かってきた。だから思わず耳を塞ぎ、もう何も聞こえないようにしたが、声は小さく漏れ聞こえてくる。


「それは……なぜミリアさんがそのようなことを?」

「ごめんなさい、理由は言えないの」

「……そうですか」


 消えてしまいたかった。

 この薄汚れた世界にあって美しい彼女らの側に、穢らわしい裏切り者がいることに耐えられない。自分自身が嫌で嫌で堪らなくて、いっそのこと彼女らに殺して欲しいとすら思ってしまう。


「ローズさんや他の皆さんにはご恩がありますし、頼まれずともお守りするつもりでしたので、問題はありません」

「いえ、イヴにはローズを本気で守って欲しいの。たとえ他の誰かを――それこそ貴女自身をも犠牲にしてでも、最優先で。帝室近衛くらいの気構えで、でも過保護になりすぎない程度にお願いしたいわ」

「ローズさんを最優先というと……貴女様の護衛はよろしいのですか?」

「案ずるでない。この小娘は妾が気に掛けてやる。それにこやつとて魔女。ある程度は自衛もできよう」


 そう、魔女は自衛できる。

 こんな惰弱なガキ一人が側にいたところで、何の意味もない。むしろ害悪だろう。彼女らを守るどころか、逆に守られ、あまつさえ裏切って敵に情報を流してしまう。

 魔女は強い。実際、敵はローズとユーハが撃退したという。

 反して、己は何もできなかった。むしろ敵に利用された。優しい彼女らの弱みになってしまった。


「ゼフィラさんが……? なぜ、そこまでして……いえ、理由は言えないのですね?」

「そういうことだの」

「ひとまず、話の内容は理解しました。ですが、わざわざ他の方々に内密にしてまで、ですか?」

「そうよ」

「……引き受ける前に、一つだけお聞かせください。それはミリアさんとしてのお願いですか? それともミスティリーファ・ミル・オールディアとしての命ですか?」

「……後者よ」


 もう死んでしまいたかった。

 だが、こんな愚劣極まるガキ一人でも死ねば、優しい彼女らは悲しむだろう。

 だから、彼女らのいないどこかに行くべきだ。それはそれで心配を掛けるかもしれないが、彼女らのためにも、もはや害悪にしかならないガキなど、消えてしまった方がいい。


「ごめんなさい、イヴ。今はまだ理由を明かせないの。でも時が来れば必ず説明するわ。それまではアタシを信じて、頼まれてくれないかしら? ローズを護衛して欲しい期間は……ざっと十年くらいになると思うんだけど……どう? やってくれる?」

「無論です。貴女様はジーク様が身命と引き替えにしてお救いされた方です。姫殿下としてであれば、頭を下げられずとも拝命いたします」

「ありがとう、恩に着るわ。けど、ローズに関する件以外で、貴女にミスティリーファとして指示するつもりはないわ。基本的には今後もミリアとして接してちょうだい」

「かしこまりました。ですが先ほども申し上げましたとおり、私はローズさんに多大なご恩があります。あの方がいなければ、ジーク様と再び会うことは叶わず、ジーク様の願いも叶わなかったでしょう。身命を賭してローズさんをお守りすることに、私個人として異存は全くありません。むしろ望むところであるというのが正直な気持ちです」

「渡りに船ということかしら? それなら良かったわ」

「とはいえ、ローズさんには既にユーハさんがいらっしゃるので、私の出る幕は少ないかとも思いますが……」


 聞こえてくる話はあまり理解できないし、する気もなかったが、イヴがローズを守っていくという旨の内容は漠然と認識できた。

 だからもう、己の存在価値など無に等しい。

 そもそも、ユーハという頼もしい存在がいる時点で、既にガキの出る幕などなかったのだ。


「全然そんなことないわよ。今後ローズも成長すると、男だと同行できない場合が増えそうだし、イヴは翼人でもあるからね。ユーハさんの穴を埋める意味でも、貴女にはローズを命懸けで守って欲しいの」

「なるほど、そこまで思い至りませんでした」

「まあ、イヴはジークを――男を主人として教育されていたから無理もないわ。とにかく、よろしくお願いね。ローズ本人には貴女が護衛する旨を伝えた方が何かとやりやすいと思うから、いわゆる魔女の護衛騎士って立場にして欲しいって頼んでみてくれる?」

「私が、騎士ですか……そうですね、分不相応な肩書きかとは思いますが、心構えとしてはそのつもりでやっていこうと思っていました。名実共に騎士としての立場となれば身も引き締まるでしょうし、明日にでもお願いしてみます」


 明日。

 明日どころか今すぐにでも消えてしまいたいが、ここは船上。

 四方八方を海に囲まれていてはどこにも行けないし、海に飛び込んでも魚人の護衛たちがいて、助けられてしまうだろう。

 もう誰にも迷惑は掛けたくないので、次の寄港地まで待つ必要がある。


「ええ、何としてでも了承してもらって。あぁそれと、言うまでもないことかもしれないけど、この件は内密にね。ローズ本人にも明かさないで」

「かしこまりました」

「時が来れば、アタシがミスティリーファとしてこんなお願いをした理由、貴女にもローズにもきちんと説明するから。何かと大変だとは思うけど、投げ出さず続けてくれると助かるわ。お願いね」

「お任せください」


 投げ出す。

 きっとトレイシーは怒るだろう。

 彼女の言う罰は納得できるものだったが、己は害悪だ。自分が罰を受けるために、彼女らに迷惑を掛け続けるなど、そんな自分勝手は許されない。

 トレイシーも分かってくれるはずだ。


「さて……話は以上よ。引き受けてくれて、本当にどうもありがとう」

「いえ、そう何度も頭を下げないでください」

「あ、イヴ、部屋に戻るついでで悪いんだけど、ツィーリエさんを呼んで来てもらえない? 彼女にもちょっと話があるから、今すぐ一人で来て欲しいって」

「それは構いませんが……いえ、かしこまりました」


 一人が歩き去って行く気配がしたが、まだ二人は船倉に残っている。

 息苦しかった。

 一人にして欲しかった。

 気付かれていないとしても、居たたまれなかった。


「フフ、無用な詮索をせぬ程度には教育されておるようだの」

「一応彼女は従者として一流の教育を施されていたはずよ。それに……《影》として育てられた彼女が曲がりなりにも主と定めたら、文字通り命懸けで役目を果たそうと粉骨砕身することは想像に易いわ。三つ子の魂百までっていうし、幼少期に擦り込まれた価値観はそう簡単に変えられない。ローズの護衛としてあれ以上の適任はいないでしょうね」

「だから騎士だのと言い添えおったのか。となると、ジークハルトの奴が逝ってからある程度の期間を空けた上で頼んだのは、小娘が抱く奴への想いを整理させて新たな主を受け入れやすくするためか……クク、お主もなかなか計算高いの」

「さ、さすがにそこまで計算ずくじゃないわよ。当初はユーハさん一人だけで十分ってことだったけど、ツィーリエさんが同乗することになったでしょ? 万が一に備えて護衛は多いに越したことはないし、それにやっぱり同性の護衛はいた方がいいと思うし……って、あぁもう……ゼフィラさん分かってて言ったわね? そういうからかいはやめて」


 もはや聞こえてくる声を言葉として認識できなかった。

 それが人語であるという理解を脳が拒絶していた。

 この場には自分一人しかいないのだと思い込みたがっていた。

 だから漫然と、ただの音の連なりとして会話を聞き流せる。


「いやなに、さも冷徹そうに振る舞うお主が見物での。あの小娘の意志を誘導したことへの罪悪感を抱いておるのは分かるが、そう気負うでない。あの小娘が小童に深い恩義を感じておるのは事実だ、気に病むほどのことではあるまい」

「……分かってるわ。ただ、それでも気構えは必要なの」

「ま、好きにせよ」


 しかし、この安住の暗い地に踏み入ってくる者の気配は看過できなかった。

 一人になりたいのに、誰にも気付かれずひっそりとしていたいのに、なぜこの場に人が現れるのか。


「何か私に用でしょうか、ミリアさん」

「こんな時間にごめんなさい、ツィーリエさん。貴女に少しお話があって」

「……伺いましょう」

「まず余計な手間を省くために言っておくと、貴女がサイルベア自由国のモグラであること、しかしムンベール族に寝返った二重間者であることは分かっています」

「っ……なるほど。出航前に大旦那様方へと筆談していたのはそれですか」


 早くどこかへ行って欲しい。


「貴女にどんな事情があって二重間者なんてやっているのかまでは知りません。ですが、貴女が裏切り続けている本国に対して、チュアリーを離れる名目がジャマルさんの孫娘ライムを監視下に置くためと報告することは想像に易い」

「私を脅す気ですか……?」

「いえ、そんな乱暴なことをするつもりなんて毛頭ありません。ただ、お互いのためになる素敵な提案があるので、是非とも聞いてもらいたくて」

「提案、ですか」


 むしろ自分がどこかに行きたい。

 彼女らのいないどこか。

 どうせ一人では生きていけないだろうが、それは望むところだった。

 こんな最低のガキは野垂れ死ぬのが相応の運命だ。


「ご存じの通り、この船には魔女が多く乗っています。当然、貴女は報告書にそのことを記載するかと思いますが、サイルベアには魔女のことを一切報告しないでもらいたいんです。代わりに、こちらはクレアさんたちに貴女の正体を黙っています」

「……そういうことですか」

「ですが、アタシのことは報告してもらって構いません。というより、報告してもらいます。これはシティールに到着してからになりますけど」

「は……?」


 こんなことなら、昨日出港した町でどこかに消えておけば良かった。

 そして死ぬ。

 死に対して恐怖はなかった。

 彼女らを傷付けてしまうことの方が余程恐ろしかった。


「文面は……そうね、こんな感じでお願いします。『魔大陸への要衝たるチュアリーの要人ジャマル、その孫娘ライムの乗船する船には護衛として一人の魔女が乗っている。他国の諜報員である可能性を考慮して探りを入れてみた結果、彼女は暗殺されたとされるオールディア帝国の第ニ皇女ミスティリーファ・ミル・オールディアであることが判明した』」

「……………………」

「これで貴女は手柄を上げて、裏切り続けている本国に対して忠誠を示せるし、引き続きライムの護衛もできる。まさに一石二鳥ですよね」

「な、何が目的ですか……?」


 あの優しかった母のように――自分を庇って死んだ、死なせてしまった母のように、彼女らも殺してしまうかもしれない。

 それだけは絶対に許せなかった。

 自分で自分が許せず、そのときは迷いなく自殺できるだろう。


「アタシの目的は第一に世界を救うこと。でも腐敗を一掃して復讐するには力がいる。政治的な権力が。だから貴女には是が非でも協力してもらいます。アタシが皇帝となるために」

「――――――――」

「クク……やはり面白い、これは有終の美として最高の観察となるだろうの」


 早くいなくなれ、ここからいなくなれ。

 自分もいなくなれ、この船から消え失せろ。


「……………………」


 ……などと頭の中で繰り返し繰り返し唱えていると、既に人の声が聞こえなくなっていることに気が付いた。船倉には人気もなく、ただ静寂がある。

 そこで膝頭からのっそりと顔を上げたところ、薄明るい光があることに気付いた。


「お主、いつまでこんなところにおるつもりだ?」


 赤い瞳をした銀髪の少女が興味深そうな眼差しで見下ろしてきている。ローズやクレアたちと異なり、心配している様子はなく、むしろ口元には微笑みを湛えてすらいる。


「……………………」

「ふむ……相変らずのようだの」


 彼女はどこか面白そうに呟くと、おもむろに頭に手を置いてきた。だから再び膝頭に顔を埋めて、早く彼女が立ち去ってくれることを密かに願う。


「案ずるでない。他の連中のように元気を出せだの、部屋に戻れだのと、何かを強制するつもりなどない。お主はお主の思うようにせよ、妾は止めぬ」

「……………………」

「先日も言ったことだが、縁を希望とするか絶望とするか、全ては己次第。しかしの、お主らが来る者拒まず去る者追わずの関係でない以上、希望も絶望もお主を追い続けるだろう。故に、お主次第だ。縁を希望とするか絶望とするか、それがお主の命運を分ける」

「……………………」

「……柄にもなく肩入れしすぎかの? しかしこの高揚感は如何ともし難い。あの小童と小娘は飽きさせぬどころか楽しませすぎる……自重するのも勿体ない」


 突き放すようでありながら優しく労るように、手がぽんぽんと頭を撫でてきたかと思えば、手が離れていった。


「ま、お主の人生だ、お主の好きなよう生きるが良い。妾も好きにさせてもらうのでな」 


 そう楽しげに言い残し、ゼフィラという名の少女は去って行った。足音も聞こえず、元から気配が希薄すぎて感じ取れない少女だが、眩しい光が消えていった。

 もう誰もいないと確信し、顔を上げた。

 視界に広がる暗闇は安心できると同時に、心を重く淀ませてもくる。しかし今はそれが心地良く、この静けさに浸るように再び目を閉じて、今度は床に横たわった。

 そうして、誰にも見付からないことを願って、意識を手放した。己が眠っているのか起きているのかすら曖昧な闇の中で、時の流れに身を任せる。


「……………………」


 耳に届く波の音が、少し不快だった。


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