間話 『愛の試練』
■ Other View ■
カルミネは他人の機微に聡い。
それが先天的なものなのか、あるいは商人の息子として育てられたという後天的な理由によるものか。どちらにせよ、彼は他人の心の動きを敏感に察知できる慧眼を有している。
同様に、カルミネは他人の魔力にも敏感だった。
誰かが魔法あるいは魔法具を使うために魔力を活性させると、彼はそれを感じ取ることができた。その感覚に目覚めたのは最近のことだ。
オールディア帝国の勧誘に乗る前。
イクライプス教国に指名手配されていたカルミネは一時期、エイモル教会の聖天騎士団に追われていたことがある。相手方は小部隊とはいえ正騎士揃いだったが、カルミネからすれば余裕で逃げられる程度の連中だった。
しかしそこへ、聖天騎士団に十三人しかいない最上位騎士の一人――《氷鐐の魔女》の異名を持つ女騎士が加勢してきた。後で知ったことだが、どうやら《氷鐐の魔女》は別件で近くに来ていたようで、幼女偏愛者であり性犯罪者であるカルミネを撃滅するために駆けつけたらしかった。
さすがのカルミネも聖天十三騎士の一角が相手では分が悪すぎた。
彼はそれまでの人生で最も命の危険を感じ、逃走することだけに心血を注いだことで、なんとか命を繋ぐことができた。その際、生と死の境目を綱渡りしたカルミネは、極限状態の中で一つの超感覚に目覚めた。
自分の周囲で誰かが魔力を励起させると、それを感じ取れるようになったのだ。察知可能な範囲は行使される魔法に注がれる魔力量によって変化するのだと、賢いカルミネはすぐに気が付いた。
以来、カルミネは《氷鐐の魔女》というトラウマにより、昼夜関係なく超感覚を張り巡らせていた。
それはセミリア山地という僻地に来ても変わらない。
■ ■ ■
レオナを出荷する前夜、カルミネはいつものように眠っていた。
だが、眠っていても己の意志に関係なく働く超感覚が彼の意識を叩き起こした。
微弱だが、確かに誰かが魔力を励起させている。それもカルミネの知らない誰かがだ。
魔力の活性には一種の個性が表れる。カルミネは安眠のために、このセミリア工場にいる野郎共の魔力個性は既に覚えていた。魔弓杖という魔法具を使用する際にも魔力は活性するのだ。なので、彼の知り得ぬ誰かがこんな夜更けに魔法か魔法具を使おうとしているのだと即座に判じた。
二ヶ所から同時に感じた後、明らかに上級魔法以上の強力な魔力を察知して、カルミネは一も二もなく、緊急用の笛を吹いた。
「襲撃者ですっ! 人数は不明、外にいます!」
慌ただしく起き上がる同僚連中へ、意識して切羽詰まった声を叩きつける。
本当に襲撃者かどうかは不明だったが、危機感を持たせる方策は一応の功を奏し、幾人もの男たちが魔弓杖を片手に部屋を飛び出ていく。
カルミネはそんな彼らに続くように部屋を出たが、魔弓杖は持たない。アレは魔力の変換効率が悪く、魔法具としても大型なので取り回しも悪い。一小節唱えるだけで魔弓杖より低魔力で高威力、しかも応用が利く魔法はいくらでもある。カルミネにとって――熟達した魔法士にとって、魔弓杖は有用とは言い難かった。
まずカルミネは奴隷部屋へ行き、愛しの君の保護を優先することにした。途中、先行した連中の戦闘音が階下から聞こえてきて、応戦するという選択肢は消え失せたのだ。万が一にでもアウロラが傷つくことは許されなかった。
「おいノビオッ、テメ何してんだこんなとこで!? お前警備要員ならさっさと下行って襲撃者ってのをぶっ殺せ!」
部屋を出ようとしたとき、醜い顔の幼女虐殺者が現れた。
カルミネは世の至宝たる美幼女を無残に殺害した中年親父を黒炎で灼き、宣告してやった。
「貴方のような愚者にこそ相応しい魔法です。至宝を貶めた罪、苦しみ悶えながらその身で贖ってください」
ついマウロなどに必殺の魔法を使ってしまい、魔力を大量に消費してしまったが、カルミネに後悔はなかった。
マウロに放った魔法は対《氷鐐の魔女》用として習得した奥の手であり、禁忌魔法の一種だ。幼女を惨殺する輩など万死に値するので、苦しみながら死なすべき相手だった。
アウロラを連れ出して奴隷部屋を脱出した後、カルミネは襲撃者と応戦する同僚を無視して地下へ向かった。逃走後のことも考えれば、多少の危険は犯してでも金は必要だった。
光属性の初級魔法〈光輝〉の光球で明かりを確保し、錠前を破壊して鉄格子を開ける。そうして狼狽する半竜人幼女を連れ出そうとしたとき、階段を駆け下りてくる物音がした。
カルミネはすぐ側の木箱に入っていた魔弓杖を手にとって、臨戦態勢で構えた。
敵か味方か不明だったが、安全のためには姿を見せた瞬間に攻撃する必要がある。速度重視かつ対象の出現位置が判明している先制攻撃ならば、詠唱するより魔弓杖の引き金を引く方が断然速い。
魔弓杖には四段階の威力調節用のつまみが付いている。
カルミネは最大に設定した。魔力の消費量は多くなるが、余裕で頭蓋を粉砕できる程度の威力は発揮できるようになる。
階段の中程からは壁が途切れており、そこから黒い影が飛び出てきた瞬間、カルミネは引き金を引いた。が、外した。魔弓杖の放つ光弾は無属性の初級魔法〈魔弾〉で生み出す光弾と同じものとされている。しかし〈魔弾〉と違って、魔弓杖は制御が難しい。
魔法は敵がどこにいるかを認識できていれば、『敵へ当てる』、『敵へ向けて放つ』という意志のもとに行使するだけで敵へと襲いかかる。
一方、魔弓杖の制御は完全に身体的な技能に依存する。〈魔弾〉も魔弓杖も射出後は直線軌道を描くが、後者はいちいち狙いを定めねばならないため、結局は時間の無駄が生じる。
魔法感覚ばかり鍛えられたカルミネは魔弓杖を上手く扱えない。一流の魔法士であるカルミネは魔弓杖という魔法具を心のどこかで馬鹿にしていた。それ故、練習する機会があったにもかかわらず、魔弓杖の習熟を怠っていた。肝心なときに、そんな代物に頼ろうとしたツケが正しく回ってきたのだった。
襲撃者の黒ずくめは覆面で顔が見えないが、体型からして女だった。覆面の目出し部分から垣間見えた翠眼と一刹那だけ目が合い、カルミネは奇妙な既視感に襲われる。
人の機微に聡いカルミネの観察眼は、見開かれた女の双眸から驚愕と憎悪、歓喜、そして殺意を読み取った。女は足を止めて壁の向こう側へ身を潜め、カルミネは魔弓杖を捨てて光魔法を消し、木箱の影に隠れた。
「……カルミネ」
凛と澄んだ響きに似合わない憎々しい声色がカルミネの名を染めていたが、同時に、愉悦の色も帯びている。
カルミネはどう反応しようか迷った。どうやら正体不明の女は自分を知っているらしいが、相手は覆面をしていてカルミネの方には分からない。
返事をするか、無視して強行突破を図るか。
「まさか、こんなところで……ッ」
そんな呟きが耳に届いた瞬間、カルミネの第六感が魔力の励起を察知する。
「アウロラッ、君は隅の方に隠れてて。いいね?」
彼は愛しの君にそう告げると、返事も聞かずに物陰から飛び出した。
「捧げるは冷血、求むるは熱血、我に無慈悲なる至風を与えよ」
朗々と、あるいは冥々とした声で、女が魔法言語による詠唱を紡ぎ始める。
特級の風魔法――しかも大幅に短縮された詠唱が聞こえてきた瞬間、カルミネも詠い唱えた。
「赤熱せし鏃が煌めきよ――〈火矢〉」
カルミネが行使するのは速度重視の初級火魔法だ。
女と思しき相手が魔法の詠唱しているということは、敵は魔女。それほど広くない地下空間で魔女が行使する特級の風魔法など、放たれては厄介だ。カルミネは十二分に魔力を込めた魔法の矢で女がいると思しき場所へ火を放とうとした。
「切り裂き尽くせ王威の風刃、世に遍く強者を滅尽せよっ」
そのとき、女が詠唱を続けながら飛び出してきた。カルミネの思惑を詠唱から読み取って、攻めてきたのだ。
彼は咄嗟に照準を変え、女を迎え撃つ。
が、女は躱して見せた。高速で飛来する火矢を恐れなど皆無な動きでやり過ごす。一方、カルミネの第六感は女から受ける魔力活性が最大になったことを彼に告げた。
「〈風血爪〉!」
「風威こそ我が渇望――〈風波〉」
カルミネは口早に詠唱しながらも、全力で横に跳ぶ。適うならば風の加護で移動速度を引き上げたかったが、それでは間に合わないと判断した。
猛烈な死の烈風がカルミネを全方位から斬殺しようと迫り来る。しかし、彼に恐怖はない。《氷鐐の魔女》との死闘を思えば、この程度の死線など恐るるに足らない。
本来ならば逃れる隙間などない死風の鋭爪だが、同じく風魔法を使えばなんとかなる。最大限に魔力を込めた初級の風魔法は本来ただ強風を生み出すだけのものだが、カルミネは極一点に力を絞り込んだそれを、迫り来ているだろう風爪の一つにぶち当てた。
ほんの僅かに不可視の爪が欠けたのを確信し、カルミネはそこへ身を滑らせるように頭から飛び込む。
「な――っ!?」
女は驚いている。カルミネの行動は端から見れば正気の沙汰ではなく、並の技量、並の胆力では到底為し得ぬ行動なのだ。
果たして、カルミネは致命の風をやり過ごした。腕に掠って出血してしまったが、これくらいは仕方がないと諦める。そもそも特級魔法を初級魔法で逃れようというのが土台無茶な話なのだ。
前転して起き上がり、すぐさま体勢を整えるカルミネ。
が、次なる攻撃の気配がない。女はただ憎々しげにカルミネを睨んでいる。
おそらく先の風魔法は女にとって必殺の魔法だったのだろう。たしかに凡夫ならば今頃は物言わぬ肉塊となっていたはずだ。
先ほどは被っていた女の覆面が、階段から飛び出してきた時点で取り払われ、素顔が現れている。鮮麗な金髪に宝石めいた翠緑の瞳、女にしては長身だ。歳は二十ほどで相貌は良く整っている。
そんな敵を目の当たりにして、カルミネはやはり奇妙な既視感を覚えた。
「貴様、こんなところで何をしている……っ!?」
女がまなじりを釣り上げ、憎悪に染まりきった声で訊ねてくる。
現状、双方共に迂闊には動けなかった。
女はカルミネを余程に警戒しているのか、身構えながら挙動を窺ってくる。カルミネの方はといえば、眼前の女を生かすべきか殺すべきか、迷っていた。野郎ならば容赦なく殺すところだが、アウロラの前で女は殺したくなかった。
「貴女とは戦いたくない。どうかそこをどいてはもらえないかな?」
アウロラの手前、紳士的に接することにした。
しかし、女はカルミネの紳士的言動に対して一層の激情を覗かせる。
「寝言は寝て言えっ、この変態がっ! 私が貴様を逃がすと思――」
ふと女は言葉を切り、美貌に疑念を浮かべた。
「まさか貴様、私のことを覚えていないのか……?」
そう言われて、カルミネはようやく気が付いた。
金髪に翠眼、風魔法を得意とする魔女。
「あ……っ!」
天啓の如く記憶が舞い降りた。
たしかアレは…………そう、三年ほど前。まだ真理を悟れていない頃。
性活拠点を北ポンデーロ大陸からフォリエ大陸に移して間もなく、カルミネは一人の魔女を見かけた。彼女は自信に溢れ、魔女という力と才能に溺れ、それ故に周囲の凡人を見下していた小生意気な少女だった。
カルミネは少女を人気の無い場所へ呼び出し、正々堂々と真っ正面から決闘して、少女を打倒した。言い訳もできぬほど、完膚無きなまでに叩きのめしてやった。
そして、遠慮なく勝者の特権を行使した。魔女であるという自負を叩き折った後に処女を奪う征服感と快感は今でも強く記憶に残っている。あの頃は魔女犯しに嵌まっていたが、彼女ほど興奮を覚えた魔女はいなかった。
名前は、そう……エリアーヌ。
「…………」
最悪の時機での再会だった。
かつて征した女がこんなときに現れるなど、さすがのカルミネも全くの想定外だった。もしアウロラに自身の過去を知られれば、軽蔑されること必至だ。
カルミネは誤魔化すことにした。
「覚えていないも何も、君と僕は初対面のはずだけどね」
「――カルミネェッ!」
もはや狂気さえ孕んだ叫声だった。
どうやら覚えていないと言われて相当にご立腹らしい。
カルミネは思わず溜息を吐いた。どうやら愛の逃避行を為し得るためには魔女との戦闘が避けられないようだ。その魔女が三年も前に征服済みの美女というのだから、奇妙な巡り合わせだと思わずにはいられない。
「……まったく、聖神アーレも酷いものだ。これが愛の試練というやつかな」
「何が愛かっ、この卑劣漢! 貴様そんな小さな女の子二人を毒牙に掛けようというのか!?」
エリアーヌは射殺すようにカルミネを睨み付けながら吼え、動き出した。
「貴様のような男など害悪以外の何物でもない! 白刃より疾く奔れっ――〈風刃〉!」
そうして、かつて征服した魔女との戦いが始まった。
エリアーヌは過日に比べて強くなってはいたが、やはりカルミネの敵ではなかった。カルミネとて、この三年の間で――特に《氷鐐の魔女》との戦い以降、更に力を付けているのだ。
しかし、途中で赤毛の奴隷幼女に横やりを入れられたことには驚いた。なにせマウロの持っていた小型魔弓杖を使ってきたのだ。まさか奴隷幼女の中に魔女が紛れていたなど、エリアーヌの登場と同じく想定外に過ぎた。
「――ローズ!」
しかも半竜人の幼女曰く、名をローズというらしい。ある意味相応しすぎる名前だったが、今は気を取られている場合ではない。なにせアウロラがこそこそと階段へ近づき、段差を上り始めていたのだ。
もしエリアーヌに愛しの君の行動を察知されれば……
そう思うと、カルミネは魔女の視線と注意を引きつけながら戦うだけで精一杯だった。
果たして、アウロラはローズを階段から突き落とした。美幼女の転落は見ていて心が痛んだが、それ以上にアウロラが自分に協力してくれたことの方が何千倍も嬉しかった。
と、そう独り善がりな勘違いをしかけた矢先、愛しの君まで階段から転落し始めて、カルミネは驚愕を通り越して冷静になり、彼の愛を天井知らずに跳ね上げさせた。
「この身は霧となりて霞みゆき、致命の剣閃が空を斬る。稚拙な眼光は乱れ反して彼の者自身を射貫き、その容貌すらも霞みゆく――〈幻鏡霧〉」
カルミネはエリアーヌを攻め圧し、幻影の霧を用いて地下から逃亡した。
殺そうと思えば簡単に殺せたが、やはりアウロラの前で女は殺したくなかった。心を鬼にしてレオナに手刀を叩き込んで気絶させ、意識が朦朧とした様子のアウロラ共々抱え上げて地下から脱する。無論、即座にアウロラへと治癒魔法を行使したことは語るべくもない。
地上は火の手が上がって混戦状態になっていた。いくつか知らない魔力の励起を感じたが、カルミネは立ち止まることなく混戦に乗じて強行突破した。
何度か黒覆面に攻撃されたものの、こと逃走に関してならば、カルミネは絶対的な自信がある。世界最高と名高い武人にして魔法士――聖天十三騎士の一人から逃げ切った実力は並ではないのだ。
そうしてカルミネは無事に工場を脱出し、夜の森へと逃れていった。
■ ■ ■
セミリア山地は鬱蒼と生い茂る緑が深い闇を作り出す。特に今日は紅月が新月なので、黄月の明かりしかないために一層闇が色濃い。
カルミネは木々を避け、枝葉の隙間から差し込む天体の光を頼りに工場から離れていく。光魔法で明かりを灯すのは命取りだったからだ。
セミリア山地を貫く街道へと至る未舗装の道はあるが、警戒するのなら森を突っ切るしかない。幸い、博識なカルミネは月と星の位置から方角が分かる。
カルミネはひたすらに南へと疾走した。
「――?」
工場からどれほど離れたか。不意にカルミネは嫌な予感を覚えて、足を止めた。元猟兵であり元遺跡探索者であり現指名手配犯でもあるカルミネの直感が、なぜか警笛を鳴らしている。
「ど、どうかしたんですか?」
早くも意識が安定した様子で、アウロラが訊ねてくる。
カルミネは無事な彼女を喜びつつも、不安にさせないように「ちょっとね」と笑って誤魔化した。愛しの君には常に心安らかな気持ちでいて欲しい。
「…………」
魔力の励起は感じない。しかし、カルミネの直感は警戒しろと訴えかけてくる。
しばし全方位へ意識を張り巡らせ、慎重に索敵した。カルミネ一人だけならともかく、アウロラもいる状況では僅かの油断も許されなかった。
「まさか感付かれるなんて……やはりただ者ではないみたいね」
斜め右前方の木陰から、声が響いてきた。
ただの声ではない。女――それも子供の声だ。
カルミネが視線を向けた先に、一人の幼女が木の幹から姿を現した。齢は十ほどと思しき矮躯なのが見て取れる。が、カルミネはその幼女の姿を目の当たりにして、絶句してしまった。何しろそれはただの幼女ではなかったのだ。
月光に照らされる幼女の髪は透明感のある薄緑色で、生真面目そうな強い意志を湛える瞳は夜天で瞬く黄月と同色だ。髪間から覗き見える耳は人間のものに似ているが、決定的に異なっている。すらりと長く、少し上を向いて尖っているのだ。以前、文献の挿絵にて見掛けた特徴的な耳――いわゆる笹穂耳という形状そのものだった。
「ま、まさか――」
魔人だった。
かつてカルミネは魔人の女を征服しようと思い、しかし世界中を探してもいなかった魔人の美女が、いま目の前にいる。しかも幼女だ。美幼女だ。
食べ頃な可愛らしい幼女が月光に照らされて、カルミネの目を引きつける。
身体は細く小さいが、背筋が伸びているせいか、弱々しさはあまり感じない。瀟洒で古びた首輪状の首飾りを付けており、遺跡探索者でもあったカルミネの目はそれが古代魔法文明期の遺物であると推測した。
「半竜人の子を置いていけば、危害は加えない。大人しくその子を置いて消えなさい」
魔人幼女の声は幼女とは思えぬ知性が宿っていた。
長命種である魔人は成長速度も緩やかだという話をカルミネは知っている。故に見た目が十歳ほどでも、実年齢はもっと上だろう。
悟りを開いたカルミネは十二歳以下の女しか興味が無い。最も美しく食べ頃なのは七歳から九歳だが、十歳児もまだまだイケる。十一歳と十二歳はぎりぎり食べられる……というのが、カルミネの持論だ。無論、十三歳以上の女は全員が年増であるため、賢者たるカルミネの目には留まらない。
カルミネが魔人を探していたのは悟りを開く前のことだ。あの頃は大して年齢など気にせず、とにかく女魔人を犯したいとだけ考えていた。だから深くは考えていなかったし、そもそも疑問すら抱かなかったが……
果たして、外見年齢が十歳ほどの魔人は幼女というべきなのか否か。
「聞いているの? もう一度だけ言うわ。その腕に抱えている半竜人の女の子を置いて、消えなさい」
実に深淵な命題だった。幼女という存在の定義を問う重大極まる難問だった。
カルミネが幼女を至宝と愛でる理由は、処女率の高さは元より、穢れなき純真無垢な精神性があるからこそだ。その考えに照らせば、魔人幼女は幼女ではない。年齢はカルミネより上だろうから、既に貫通済みかもしれないし、その精神は薄汚れてしまっているだろう。
しかし、幼女とはそんな単純なものではないのだ。
このとき初めて、カルミネは世の賢者たちと会合を開きたい気持ちに襲われた。他の賢人たちの意見も聞いてみたかった。とある噂では北ポンデーロ大陸のどこかで、自身と同様の嗜好を持つ者たちの集会が催されているらしい。これまでは一心不乱に我が道を歩んできたが、同好の士と熱い議論を交わせば更なる真理へと至れるはずだ。
いや、今はそんなことを渇望すべきときではない。今この機会を逃せば、おそらく今後二度と魔人――それも魔人美幼女と邂逅する機会はないだろう。
だからこそ、ヤるなら今しかない。一人の賢者として、真理の探究をする義務がカルミネにはある。この身で魔人幼女を味わえば、きっと答えを得ることができるはずだ。
「ぅ、ぐっ……聖神アーレめ……っ!」
しかし、今のカルミネにはアウロラがいる。
アウロラは至宝たる幼女の中でも特別な存在だ。
カルミネはアウロラを愛しており、彼女から嫌われる行為はしたくない。
だが、魔人幼女の誘惑と真理の探究も無視はできない。
今まさに、カルミネの愛が試されていた。
「無視、ね。なら力尽くでいかせてもらうわ」
激しい葛藤から苦悩していると、カルミネは並々ならぬ魔力の励起を感じた。
魔法士としての意識が葛藤を脇に追いやり、詠唱を口にさせる。
「万物を蹴散らせ、荒ぶる業風の暴虐が如く――〈嵐種〉!」
「ひゃぁ!?」
カルミネは足下に荒れ狂う風弾を放ち、着弾と同時に爆発する風圧の勢いを利用して飛び退いた。瞬間、腕の中でアウロラが悲鳴を上げ、今し方まで立っていた場所を襲来した縛水の腕が空を切る。だが流水はそれで止まらず、うねる四本の水流が伸びて中空のカルミネに追いすがってくる。
「風威こそ我が渇望――〈風波〉!」
「――――」
今度は強風によって足場のない自らを煽り、流水から逃れる。アウロラはもう悲鳴を上げる余裕すらないのか、必死にカルミネの首にしがみついている。
カルミネが木っ端のように宙を舞って樹上に着地した瞬間、再び魔力の励起。
「――ッ!」
すぐに枝を蹴って別の枝へと飛び移る。と同時に、カルミネの足裏を鋭い風切り音が擦過し、先ほどまで立っていた枝がすっぱりと切れた。
「凶兆たる風狼よ、我に颯爽と駆ける殺陣の美風を与えよっ――〈疾風之理〉!」
安心する間もなく、尚も追いすがってきていた縛水の腕から逃れるために風の加護を纏う。今度は木の幹を蹴って着地し、まさに風の速さで逃亡を計る。
勝ち目が薄すぎた。
僅かな戦闘だけで、カルミネをしてそう思わせるだけの力が魔人幼女にはあった。詠唱省略の厄介さはもちろん、カルミネの第六感が受ける魔力活性の"圧"が異常なのだ。これほどの魔法力は《氷鐐の魔女》以来である。地力が違いすぎだし、そもそも今のカルミネはアウロラとレオナを抱えている。まともに戦えるような状態ではなかった。
「故に見境うことなく冷襲せよ、極致の凍氷にて覆い尽くせ、氷王は民の願いを叶えたもう――〈凍気拡散〉」
背後から聞こえてきた声に、カルミネのトラウマが悲鳴を上げかける。
このときばかりは詠唱を短縮してくれて助かった。もし初めから全てを詠唱されていれば、過日の死闘が思い起こされて冷静さを失していたかもしれない。
ちらりと振り返ると、圧倒的な凍気が森を浸食しながら近づいてくる。
木も草も地面も全てが凍てつき、中空で無数に乱舞する極小の細氷が月光を受けて煌めいている。ある種の壮美さを感じさせる光景だが、カルミネにとっては恐怖心を喚起させられる絵面でしかない。
しかし、カルミネはこのトラウマ的一撃に勝機を見た。彼は黒炎の必殺魔法を習得するほど、再度の《氷鐐の魔女》戦を想定していたのだ。特に水魔法に対する対処法に抜かりはない。
「無謬なる焰、無垢なる魂、我は火輪の麗焰を求む。其は我が気炎の如し、賢しらなる宵闇を豪火にて灼き払え――〈白焰〉!」
カルミネは最大限の魔力を込め、後方に向けて眩く光る白銀の炎を放った。
いくら魔力を込めたところでカルミネは人間であり、相手は他種族の魔女を軽く凌駕するといわれる魔人族だ。この状況で、中級の火魔法が四等級も上位の戦級水魔法を防げる道理はない。せいぜい浸食を一瞬だけ遅らせる程度の役割しか果たせず、凍気の波に呑まれるだろう。
「――くっ!?」
だがカルミネの放った火魔法により、魔人幼女が小さく苦鳴を上げた。
白焔の放つ眩い光輝は氷の世界に乱反射し、莫大な光の波を生む。本来ならば一瞬の目眩まし程度にしかならないが、今夜は特に薄暗いこともあって、夜目に慣れた瞳に突然の白銀光は痛みさえ与えるだろう。
安直に光魔法を行使しなかったのは敵の油断を誘うためだ。今し方カルミネの放った火魔法は元々、極度に燃焼力の高い炎でしかない。
カルミネは背後を振り返らず、目潰しが利いたことを確信して駆ける。
だが逃げ切るまでは安心することなどできなかった。その警戒心の強さもあって、カルミネは再び魔力の励起を感じ取っても焦ったりはしなかった。
「奔る亀裂は異境の扉、怨嗟と共に深奥へ沈め――〈大地崩壊〉!」
またもや大幅に短縮された戦級土魔法の詠唱が微かに鼓膜を震わせて、カルミネは全力で地を蹴り幹を蹴り、中宙に逃れていた。そこで下方に目を向けると、辺り一帯の地面が魔人幼女を中心に無差別な地割れを起こしている。
木々は倒壊し、深い割れ目は底が見えない。
さすが魔人というべき魔技の冴えだった。あの魔人幼女を征服しようと思ったら、命を賭す覚悟が必要だ。とはいえ、もしアウロラに出会っていなければ当然のように挑んでいただろうが。
カルミネは風魔法で空中軌道を制御し、盤石な地面に着地した。
そして再びの疾走に移る。
愛の試練はなし崩し的に乗り越えたものの、アウロラへの愛が揺らいでしまった事実はカルミネを苛んだ。愛する幼女への思いより、賢者としての探求心を優先しそうになってしまった。
全力で森を駆け抜けながらも、カルミネは常識人らしい自責の念に囚われた。
「死にたくなければ止まりなさい」
そのせいか、今度はカルミネの直感が働かなかった。
突如として耳朶を打った声に、カルミネは身体を強張らせて立ち止まり、臨戦態勢に移る。
「あんたが抱えてる半竜人の子を置いていきなさい。そうすれば見逃してあげるけど、さもなくば殺す」
またしても女の声だ。しかし今度は幼女のそれではなく、成人女性を思わせる凛然とした響きを有していた。ちょうど前方から聞こえてくるが、姿は見えない。
カルミネは逡巡した。
先ほどの魔人幼女も半竜人幼女――レオナを置いていけと言っていた。しかも今度は言うとおりにしないと殺すと明言している。
「…………」
「無言は拒絶と受け取るわよ?」
女の声は冷たく言い放ってくる。これまでに培われた経験が、声の主は容赦なく自らを殺しに掛かると告げていた。
カルミネにとっては突然のことで意味不明だが、選択は単純だ。
金を取るか、保証のない安全を取るか。
ここでレオナを置いていけば身軽くなる。もし相手が発言を翻して襲ってきても、逃げられる可能性は上がる。金は命があってこそのものだし、元々カルミネは金に頓着しないどころか、あまり好いてもいない。だがアウロラのためを思えば、可能な限りの金は欲しかった。
「……………………」
レオナを人質にとるという策は使わない。
賢者たるカルミネは己が全存在とその矜持にかけて、至宝を盾にすることなどできなかった。それに幼女を危険にさらすような真似をすれば、アウロラに嫌われる可能性もある。
「……貴女は、さっきの子の仲間なのかい?」
そう考えたカルミネだが、好機を最大限に模索する。
会話で油断を誘えば、あるいは何も失わずに逃げ切れるかもしれない。
「この子を置いていけと言うけど、貴女もお金目当てなのかな?」
「…………」
女は何も答えない。気配の揺らぎさえ感じられない。
「あと十秒以内に、その子を置いて去らなけ――」
「さっきの魔人の子、殺しちゃったんだけど大丈夫だったかい?」
前方の闇から僅かな気配の揺らぎと共に、魔力の励起を感知する。
相手は魔人かもしれないので、詠唱からは魔法を予測できないかもしれない。そう考え、カルミネは敵の魔力を感じ取った瞬間に動いた。
「――ッ」
左方へ跳ぶように地を蹴りながら詠唱しようと口を開くが、何も言えなかった。
そもそも地を蹴る間もなく、命を握られた。
「その狡猾さは見習える点もあるけど、それ以上に腹が立つわ」
「――――――――」
いつの間にか、背後に女がいた。肩越しに仄かな輝きを放つ剣先がカルミネの首元に突きつけられている。
魔剣だった。
あまりに一瞬かつ突然のことで、カルミネには何が何だか分からず、思考が追いつかない。たしかに女は前方にいたはずなのだ。
幻惑魔法ならば相手の五感を欺瞞して自らの位置を偽ることも可能だが、カルミネには魔力活性を察知できる第六感がある。声だけでなく、魔力も前方から感じ取ったので、女の初期位置に間違いはない。
実は二人いたという可能性もあり得ない。魔剣という魔法具の使用にも魔力活性による魔力波動は生じる。現に今も先ほど感じたのと同質の魔力を感じている。
しかし、一瞬で背後に回られた。
風の加護を得ても、ここまで高速に移動はできない。光魔法ならば可能だろうが、移動時に瞬く閃光は見られなかった。おそらくはカルミネも知らない魔法を使ったのだ。
「……………………」
首元に魔力の刃があるのも忘れて、カルミネは呆然と頭だけ動かして振り返る。
そこには美女がいた。
女にしては上背があり、長い白髪が月明かりに輝いている。瞳は快晴の空を思わせるほどに澄み切って、整った顔立ちからは凛々しくも清冽な印象を受ける。魔人かと思ったが、瞳の色は有り触れており、特徴的な笹穂耳も見られない。年頃は二十前後だろうが、どこか判然としなかった。
「ゆっくりと、レオナをその場に横たえなさい。もし落とせばあんたの首も落ちるわよ」
女は静かに告げてくる。その目に殺意はなかったが、逆にそれが不気味だった。
カルミネは言うとおりにした。そうする以外、もはや道はなかった。こいつには逆らうなと生存本能が告げているのだ。
「膝を突きなさい」
命令通りにゆっくりと半竜人幼女を下ろすと、今度はそう命じられる。
大人しく言うとおりにするが、尚も淡い白銀光を放つ凶器は首元から離れない。常人ならば数分と保たず魔力切れを起こす魔法具を、女は出し惜しむことなく、当然のように刀身を維持し続けている。
カルミネが訳も分からぬまま背中を取られたこと、更に先ほど一瞬感じた魔力の"圧"を考えれば、魔人か聖天騎士並か、あるいはそれ以上の魔法力は驚異的に過ぎる。
カルミネは軽く混乱していた。
なぜこんなことになっているのか、意味不明だった。魔人幼女から逃れたと思ったら、今度は人間の魔女に一瞬で命を握られた。アウロラも驚いているのか、あるいは緊張感に押しつぶされて身動きすらできないのか、全身を硬直させていた。
「……僕たちを、どうする気だ? 殺すのか?」
恐る恐る訊ねると、背後の女は独り言のように呟いた。
「本当は殺してやりたいけど……仕方ないわね」
「――ぐ!?」
背後から感じる魔力が急激に膨れ上がったと認識した次の瞬間、背中に掌が押し当てられ、無属性の特級魔法が行使されて全身が大きく揺さぶられる。実際には肉体が大きく強張っただけだが、カルミネの意識はかつて経験したことがないほど暴力的な衝撃に襲われたため、そう錯覚した。
「か……ぁ、ぐ……」
否応なく身体が傾いで倒れ込む。無様に口端から吐瀉物を溢しながら喘ぎを漏らし、全身を痙攣させる。
カルミネはもはや自分ではどうしようもないほどの致命傷を負ってしまった。
とはいえ、肉体そのものは一切の傷害を受けていない。それを駆る精神が満身創痍といっても過言ではない攻撃を受けてしまったのだ。こればかりは治癒魔法を行使したとしても意味を為さず、そもそもこの状態では魔法そのものを使うことができない。唯一の回復手段は時間の経過を待つことだけだが、今の一撃はそんな程度で片付けられる威力を超えており、もう少し強ければ廃人と化していただろう。
「―――様っ、申し――りません!」
「い――よ、キシュ。このク――郎との戦―――構良い勉――――たで――う?」
霞み行く意識の中、気絶だけはすまいと必死に意識を繋ぎ止めていると、先ほどの魔人幼女と女の声が断片的に聞こえてくる。しかしカルミネはそれらに一切の気を払わず、残る気力を振り絞って震える腕を懸命に動かした。
恐怖に身を竦める愛しの君をなんとか抱きしめるも、カルミネはそこで限界を迎えてしまった……。