第百十一話 『身から出た縁 二』
アシュリンとユーリに昼食をあげてから、船を出た。
露店のオッサンにムンベール邸の場所を聞いてみたところ、町の中心部に建っているとのことだった。かなり立派な建物らしいので近くまで行けば一目でそれと分かるらしく、俺とミリアは人通りを歩いて行く。
「結構立派ですね」
敵の本拠地は豪邸だった。前回チュアリーを訪れた際にも見掛けたが、あのときはイヴのことがあって、間近から見物している暇はなかった。
やはりリュースの館よりも大きく、石造り三階建ての邸宅に装飾の類いは少なく、質実剛健という言葉が相応しい外観を呈している。
その印象に違わず、二リーギスほどの無機質な塀が全周をぐるりと囲っていた。
「帝都にはこれより大きな館なんて腐るほどあるわよ。驚くのもいいけど、ここからは切り替えて」
「はい、分かってます」
今もどこからか監視されているだろうし、気は抜けない。
俺は軽く深呼吸をして意識を切り替えると、ムンベール邸正面の大きな門扉へ悠々と足を進めていく。ミリアは俺の一歩後ろを淑やかに歩き、身体の前には両手で慎ましやかに鞄を提げている。
平服なのに、この人は何をしても様になるな。
ムンベール邸の前に人通りは少なく、門前に立つ槍を持った獣人野郎と目が合った。二人いる門兵は顔を見合わせると、なんだか身構えた感じに姿勢を正し、しかし戦闘態勢は見せていない。
「こんにちは」
俺は微笑みと共に挨拶を繰り出した。
「レオンという者です」
「話は伺っております。そちらの女性は同行者でしょうか」
四十路ほどのオッサンは丁寧な物腰で応じてきた。無愛想な面構えだし、体格も良いが、小綺麗な格好をしていて、敵意も感じない。
どうやら教育が行き届いているらしい。
「そうです」
と臆面もなく答えたところで、もう一人の門番野郎が笛を咥えた。そして静かに吹き始めるが、音は聞こえない。
賭場でも見掛けた、獣人の聴力でしか聞き取れない犬笛だろう。
「レオン様だけ通すよう、大旦那様より厳命されております」
「そうですか。ですがそちらの事情など私は知りません。二人で入れないというのであれば、帰らせてもらいますが」
「…………」
野郎二人はちらりと視線を交わし合ってから、再び俺に目を向けてきた。
「少々お待ちください。もう間もなく旦那様が出迎えにいらっしゃいますので」
「分かりました」
鷹揚に頷きつつも、俺は戸惑っていた。
なぜ旦那様とやらが、わざわざ出迎えに来るんだ?
いや、俺の立場を計りかねて、礼を尽くしておくつもりなんだろうか?
ライムたちが誘拐された時点で礼儀もクソもないんだが。
しばらく待っていると、鉄格子めいた両開きの門の向こうに三人の男女が姿を見せた。オッサンと爺さんと熟女だ。館の正面玄関から出てきて、門扉へと続く石敷の長い道を歩いてくる。
三人のうち一人の顔は見覚えがあった。
魔熟女ツィーリエだ。
「えーと、この子がそうなの?」
線の細い三十路ほどの男が俺を見下ろしながら、門兵に訊ねている。丸っこい獣耳に毛深い顔はどことなくケルッコに似ているが、野郎と違って上背のある痩せ形だし、全体的に気弱そうなオッサンだ。
「はい。しかしご覧の通り、女性を伴っているようでして……」
「君がレオンちゃん? 申し訳ないけど、君一人だけ通すよう言われてるから」
「なら帰らせてもらいますけど」
「うーん……そう言われてもなぁ」
困ったように、あるいは面倒臭そうに後頭部をぽりぽりと掻き始めるオッサン。
その隙に俺はちらりとツィーリエを見遣った。彼女と獣人の爺さんはオッサンの斜め前に立ち、少々身構えている様子だ。それでも尚、四十路ほどの美貌に熟れた色香は健在であり、紅唇が妙に艶めかしい。
「まあ、しょうがないかなぁ。二人とも通してあげて」
「しかし旦那様、大旦那様は一人だけ通すようにと――」
「あー、うん、いいからいいから、帰られちゃうよりはマシでしょ?」
オッサンは言いかけるツィーリエに適当そうな感じで言葉を被せた。
対するツィーリエが尚も「ですが」と口にするも、オッサンは溜息を吐きながら小さく頭を振り、愚痴るように気怠く呟く。
「あのさぁ、僕はどうでもいいんだよ正直さぁ。父さんと叔父さんが何をしようが僕には関係ないしさ、本当にどーでもいいんだよ。賭場の件だってツィーリエさんと叔父さんの自業自得っていうか因果応報だよね?」
「それは……」
「そもそも姉さんを勘当したならライムちゃんのことは放っておけばいいのに、いつまでも経っても姉さん姉さん……姉さんが死んだら次はライムちゃんライムちゃんって……もう父さんには付き合ってられないんだよ」
次第にヤバい感じに双眸を細め、気弱そうな表情が苛立ちめいた翳りで歪んでいく。
ツィーリエも爺さんも門番二人も顔を強張らせ、なんだか緊迫した雰囲気が漂い始める。が、不意にオッサンがふっと表情を緩め、誰に対するでもなく笑いかけた。
「まあ、どうでもいいから、早く入れてあげなよ。僕も早く父さんたちのところに連れて行って、ゆっくりしたいしさ」
「は、はい、承知いたしました」
門番野郎は旦那様とやらのご機嫌を伺うかのように謙り、二人でそそくさと門を開けた。
なんだかよく分からんが、とにかくミリアと一緒に入れるらしい。
出だしは順調だな。
「こっちだよ、ついてきて」
オッサンが先頭を行き、ツィーリエは俺の隣、爺さんは俺とミリアの後方を歩く。玄関までの道は一直線で、左右に広がる庭は手入れされていることが一目で窺い知れるほど綺麗に整っている。
「……………………」
見た感じ、たぶんこの物静かな獣人爺さんは魔法士だ。ツィーリエがこの場にいることを考えると、爺さんも無詠唱魔法士かもしれん。不意打ちで〈霊衝圧〉とか喰らわされたらジ・エンドだから、警戒しておくか。
いやでも、実は老練の戦士かもしれない。
うぅむ、いかんな……緊張してきた。
「お久しぶりです、ツィーリエさん。あれから調子は如何ですか?」
緊張を解すため、うなじがエロい熟女に声を掛けてみた。
するとツィーリエはS性の窺える冷笑を浮かべ、俺を見下ろしてきた。
「お久しぶりですね、レオンさん。おかげ様で、賭場の仕事は引退しました」
「そうですか、それは何よりです」
寒々しい応酬だった。
もう黙っていよう。
それにしても、マジでうなじがエロい。トレイシーも髪は纏め上げてるけど、あの人からはアダルティな色香とか全然感じないんだよな。
「レオンさんの方は如何ですか、調子は。見たところ右腕がなくなっているようですが」
「あぁ、これですか? 魔大陸で幅を利かせていた方々と、少々揉めましてね。腕一本程度の苦労でなんとか話が纏まりました」
「……そうですか、それは何よりです」
ツィーリエは微妙に顔を引き攣らせながらも、先ほどの俺と同じ言葉を返してきた。突っ込まれたからさりげなく嘯いてみたが、こけおどしも一応の効果はあったらしい。
それにしても、ツィーリエの雰囲気が以前とは少し異なるな。
このちょっと冷たい感じが素なのだろうか。
両開きの玄関扉から館に入り、廊下を歩いて行く。内装は綺麗だが、豪奢な煌びやかさはなく、落ち着いた様相を呈している。たまに使用人服の男女を見掛けて、俺たちを見ると廊下の隅で立ち止まり、通り過ぎるまで頭を下げ続けていた。
獣耳執事はともかく、メイドが可愛い。
メルのコスプレ用にメイド服の一着でも脅し取ってみたくなる。
「ここだよ」
そう言ってオッサンが扉の前で立ち止まり、ノックした。
間を置かず「入れ」と野太い声が重く響いてきて、俺は本格的に緊張しかける。
だがオルガを思い出し、どっしりと構えて余裕を忘れない。
オッサンがドアを開き、俺とミリアも続いて入室する。
中には二人の野郎がソファに座っていた。
一人はケルッコだ。四十代半ばほどと思しき年相応のメタボ体型に丸っこい獣耳、座高からは低めの背丈を思わせ、全体的に毛深い。丸顔に添えられたつぶらな瞳で俺を鋭く睨み付けてくる眼光はなかなかのものだ。
しかし相手はプー太郎だと思うことで、俺は冷静さを保つ。
「連れてきたよ、父さん。じゃあ僕はもう行くから」
「待たんかいディエゴ、小娘一人だけ連れてくるよう言うたじゃろうが」
もう一人はケルッコと対照的な、五十路ほどのオヤジだった。
ソファに深く身体を沈めていても尚、長身なのが分かる足の長さをしている。服越しでも広い肩幅と厚い胸板なのが一目瞭然で、大柄な肉体は引き締まり、髭に覆われた顔はゴツい。獣耳だけは丸っこくて微妙に愛嬌が感じられるが、全体的な雰囲気からすれば、気休め程度だ。
なんかこのオヤジからはリオヴ族の親分ホルザーと同じ臭いがする。
「でも二人じゃないと帰るって言うからさ。とにかく僕はもう戻るから、あとはご勝手に」
「待たんか馬鹿もんっ!」
「待たないよ」
ここまで案内してくれたオッサン――ディエゴは気弱そうな顔に似合わず、強面ジジイの怒声を軽く受け流して退室していった。
親分的オヤジは立ち上がって去りゆく背中を睨んでいたが、不機嫌そうに鼻を鳴らして、ドカッとソファに腰を落とした。
そして俺とミリアに強面を向けてくる。
「おどれか、この愚弟が世話んなったっちゅう魔女は」
「……はじめまして、レオンです」
「ふん、まあ座れや」
すみません座りたくないです回れ右したいです。
という怯懦はおくびにも出さず、可能な限り遠慮ない素振りでふかふかソファに腰を下ろした。
お、マジでふかふかだな、このソファ。
「なかなかに図々しい嬢ちゃんだのぉ、肝が座っとる」
「これでも淑女らしい所作を心掛けているつもりなのですが」
「淑女のぉ……淑女にその粗末な椅子は申し訳ねえのぉ。そいつに詰まっとんのはこの町で馬鹿やった輩共の毛ぇでのぉ」
「……………………」
「おどれらの髪は柔らかそうだのぉ、ケルッコ?」
「そうだな兄者、女の毛は特に柔らかいからな。男共の毛は硬くていけない」
プー太郎は兄らしいオヤジに話を振られて、余裕ある笑みで頷いてやがる。
この野郎……人毛収集家の変態のくせに調子こきやがって。
「ところで、貴方のお名前を伺ってもよろしいですか?」
「ほう、人質の安否より先に儂の名を訊くか」
「人質……?」
あたかも予期せぬ言葉を聞いたとばかりに、俺は驚いて見せた。
小さなローテーブル越しに対面で腰掛けるオッサン二人は一瞬訝しげに顔をしかめた。
「あぁ、すみません、貴方がたは彼女らを人質にしているのでしたね。使用人紛いの船乗り三人程度、幾らでも替えの利く人たちですから」
「ほ、ほう……し、使用人、紛いの? 幾らでも替えの利く……?」
なぜか頬をひくつかせて、キレる二秒前のような剣呑極まる気配を醸し出すオヤジ。
たしかに俺は挑発混じりに言ったが、ここまで効果があるとは思わなかった。
でもまあ、見るからに短気そうな親分面してるしな。
「あ、兄者、落ち着いて」
「おう……分っとるわい、儂は落ち着いとるわっ」
「それで、替えの利く奴らなら、なぜこの場に来た?」
オヤジの代わりにケルッコが問いを投げてきた。
前回は無様を晒して敗北したプー太郎のくせに、親分さんが同席しているからか、無駄に粋がってやがる。
「お久しぶりですね、ケルッコさん。すみませんけど、貴方のお兄さんからお名前を聞かせてもらっていないので、その問いにはまだ答えられません」
「儂はジャマルじゃ」
「ジャルマジャさん、ですか?」
「ジャマルじゃっつってんじゃろが小娘!」
ドスの利いた大声が室内に大きく響いた。
キレやすいオヤジだな、まったく。
「ちょっとした冗談ではないですか、そんなに怒鳴らないでください」
「ぬぐ、ご……が……っ」
「お嬢ちゃん、あまり兄者を怒らせない方がいい。後悔することになるぞ」
「そのお言葉、そっくりそのままお返しします、ケルッコ様」
不意に、俺の座る人毛製ソファの傍らに立っていたミリアが口を開いた。
いきなり口を挟まれたからか、ジャマルもケルッコも、そして二人のソファの両隣に立つツィーリエと爺さんの視線まで美女に向けられた。
「なんだ、嬢ちゃんは? 見た感じ付き人みたいだが、口を挟まないでくれないか」
「いいえ、言わせていただきます。お嬢様は今し方のように諧謔を解する広いお心をお持ちですが、お怒りになられると誰にも手が付けられません。その一端は昨年に貴方様も実感したことかと存じますが」
「……………………」
「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ、ミリアさん。ほら、誤解されているではありませんか」
俺がにこやかにミリアへ声を掛けると、彼女は楚々とした所作で「申し訳ありません」と低頭してきた。
アドリブといい細かな言動といい、この人ほんと器用だな。
「ケルッコさん、先ほどの貴方の質問に答えしましょう。私がわざわざこの場に来たのは、こちらのミリアさんに頼まれたからです。彼女は非常に優秀で私のお気に入りですから、ベルさんたちを助けて欲しいという心優しい頼みを無碍にはできなかったのです」
「おどれも魔女なんか?」
「はい。無論、レオン様のお力には幾分も劣りますが」
ジャマルの剣呑な眼差しも何のその、ミリアは落ち着きを崩さず応じている。
この年頃で魔女を使用人にしている魔女ともなれば、俺という魔幼女の張りぼても更に強化されるだろう。
「さて、私としては面倒事など早々に終わらせたく思っています。手紙の通り五千万ジェラを持参しましたから、三人を引き渡してもらえますね?」
「金だけなわけねえじゃろが、こちとら嬢ちゃんから色々聞かせてもらわにゃならん話があるんでのぉ」
「話といいますと?」
「おどれ、どこのモンや」
大仰に足を組み、どっかりと背もたれに巨躯を預け、偉そうに見下しながら言ってきた。
この大熊みたいな獣人オヤジはチュアリーを締めるボスのはずで、俺の素性は知らないはず。相手も俺という得体の知れない魔幼女に侮られないよう、頑張っているのだろう。涙ぐましい努力である。
そう思えば健気に思えて緊張も解れる。
「それは明かせない決まりなので」
「なんじゃそりゃあ、どんな決まりや」
「強いて言うならば、組織の規約というべきでしょうか。秘密の機関は秘密であるからこそ、意味があるものです」
《黎明の調べ》の一員らしく、それっぽいことをそれらしく言ってみた。
すると、傍聴していたツィーリエの顔付きが変わった。
俺を推し量るように目を細めて凝視してきたかと思えば、「大旦那様」とジャマルに声を掛けて、何やら耳打ちし始める。
「…………なに?」
今度はジャマルの様子も明らかに変わった。
先ほどキレかかって歪んでいた表情は今や無機質なまでに引き締まり、得体の知れない幼女を見下す目付きが消えた。
代わりに、対等かそれ相応の相手を見る目になるも、同時に蛆虫でも前にしているかのような嫌悪感が込められている。
「おどれ……モグラか」
「……さて、どうなのでしょうか」
なんだ、モグラってなんだ。
いやモグラはモグラで、地中に棲息する穴掘り生物のことだろうが……。
俺は人間だし状況的にもあのモグラを指していないことだけは確かだ。
「ふんっ、いけ好かねえのぉ……地理上この町にゃあ余所より仰山モグラ共が潜んどるが、こんなガキがのぉ」
すんません、だからモグラってなんですか教えてください。
たぶん何かの隠語なんだろうが……。
「だがの小娘、この町にゃあこの町の掟っちゅーもんがある。儂を敵に回して、チュアリー引いてはザオク東部でまともにやっていけると思わんこった」
「これはこれは、ご親切に忠告をありがとうございます。ですがもう用事は済みましたので、魔大陸にもこの町にも用はありません。近いうち、北ポンデーロ大陸に帰る予定ですので」
「ほう、用事は済んだのぉ、そうかいそうかい」
ジャマルは目を閉じて何度も鷹揚に頷きながら、足を組み直す――かと思いきや、振り上げられた右足が勢い良く振り下ろされて、分厚いローテーブルの天板が音を立てて真っ二つに割れた。
「んな訳ねえじゃろうがっ、おどれ舐め腐んのも大概にしとけやボケェ!」
「…………」
「去年この愚弟んとこでこれ見よがしに力ぁ見せつけといて、ザオクで儂の孫を籠絡しよってからに!」
「……………………孫?」
思わずオヤジの威迫に呑まれかけたが、なんとか平静さを装って小首を傾げてみた。するとジャマルは座ったままローテーブルの半分を横に蹴り飛ばして、大柄で毛深い熊めいた身体を立ち上がらせた。
並の男二人分ほどの肩幅があるくせに、身長は二リーギスくらいあんぞ。
「あくまで白を切るか小娘……目的があんならさっさと言わんかいっ! 儂はのぉ、回りくどくされんのが大嫌えなんじゃ! ザオクで片腕失くすほど大層なことやっといて、今度はこの町で何する気じゃ!?」
ジャマルは未だ悠然とソファに座り続ける俺へと一歩を踏み出して迫ってくる。
が、俺とオヤジの間にミリアが立ち塞がり、先ほどと全く変わらぬ落ち着いた声で告げた。
「それ以上、レオン様に近付かないでいただけますか」
「ならさっさと白状せんかいっ!」
ミリアはちらりと振り返り、俺と視線を合わせてきた。凛と力強い眼差しからは「ここは任せろ」的なアイコンタクトを受けた……気がした。
俺が微かに顎を引くと、ミリアは頭二つ分ほど上背のあるオヤジを見上げる。
「仮に、あくまでも仮定の話ですが」
「じゃぁからっ、回りくど――」
「兄者、落ち着いて、力尽くは不味い。まずは話を聞いておこう」
兄と比べれば子供同然な背丈のケルッコが野太い腕を掴んだ。
デカい熊オヤジはミリアと俺と愚弟を順繰りに睨め回した後、苛立たしげにドカッとソファに腰を下ろす。
ミリアはそれを泰然と見届けると、俺の前に立ったまま話を続けた。
「もし仮に、わたくし共が貴方の仰るモグラ……つまりは間者だったとします」
あ、間者か。
モグラはスパイの隠語だったのか。
そういえば『秘密の機関』とか口走れば、普通は諜報機関を疑うわな。
この世界にも国家がある以上、スパイは普通にいるだろうしね。
俺的には魔女らしく《黎明の調べ》のことを遠回しに言ったつもりなんだが……。
「そして貴方が先ほど仰ったように、力を誇示するためにレオン様がケルッコ様に接触し、貴方の孫娘であるライム様にも接触した上で、共にこの町を訪れた。ジャマル様はその理由が、この町を統べる貴方を脅迫するためだと、そう仰りたいわけですね?」
「それ以外にあるんかいっ」
…………ないですね、はい。
俺が工作活動を目論むスパイだと仮定した上で改めて状況を客観視してみると、もうそれ以外考えられないッスね。
というか、ライムがこのオヤジの孫ってマジなの?
そんなの初耳なんだけど?
いやたしかに耳とか似てるといえば似てるけどさ、顔立ちは全然似てないよ?
しかも孫ならなんで攫った上に、あんな内容の矢文を寄越してくんのかね?
「正直かつ率直に申しますと、全ては貴方がたの勘違いです」
「嬢ちゃん、ここまで状況が出来上がっているんだ。もういいだろう? いい加減、腹を割って話してくれないか?」
ケルッコが冷静な素振りで提言してきた。
こりゃあプー太郎の奴も完全に勘違いしてんな。
まあ無理もないとは思うけどさ。
いやでも、ホントどーすんのこれ。
もう引き返せないところまで来ちゃってるだろ。今更なにをどう言い繕ったところで、たぶん相手は納得しないし、ライムたちも引き渡してくれないだろう。
「わたくし共はライム様がジャマル様のご令孫だとは存じ上げておりませんでした。彼女とは偶然出会い、故あって行動を共にすることとなっただけなのです。決して邪な思惑などありませんし、素性を知った今でも利用するつもりなど毛頭ありません」
「偶然出会った挙句、行動を共にすることになったじゃと? いけしゃあしゃあと抜かしおってっ、そんな偶然あってたまるか!」
お気持ちは察しますよ、オヤジ。
でもね、ホントに偶然なんです。
世間って狭いッスね。
「仮に、ライムちゃんが兄者の孫だと今さっき知ったとしてだ。嬢ちゃんに利用する気がなくても、そっちのご主人様もそうだとは限らないだろう? オレたちはレオンちゃんに話を聞いてんだ、嬢ちゃんは黙っててもらおうか」
ケルッコの奴、ミリアより俺の方が完全に立場が上だと思ってやがる。
あるいは俺を外見だけ幼い成人魔女だと思っている可能性もある。
半ば誘導したのはこっちだけど、今となっては面倒だな。
「私にもライムさんを利用する気なんてありませんよ。そもそも私たちはモグラでもないですし、この町にも興味はありません。私にとってライムさんは友人であり頼れる船乗りさんで、それ以上でもそれ以下でもありません」
「頼れる船乗りだぁ? 抜かせ小娘が。わざわざ女子供の船乗りなんぞに頼っとる時点で、意図的に近付いたとしか思えんわいっ」
「そう思われるのも無理はないでしょう。ですが本当のことである以上、私にはそう言う他ありません」
現状を切り抜ける最も簡単な方法は理解している。
相手方の勘違いを肯定した上で、適当に金なり何なりを脅し取ろうとすればいい。そうして駆け引きになった末、敢えてジャマルに屈したと思わせ、五千万ジェラを渡して早々にこの町から逃げ去ることだ。しかしその場合、ライムとソーニャからの信用を失うことになり、二人とはこの町で別れることになるだろう。
ジャマルは俺たちのことをどこぞの国の諜報員だと思っているため、報復を恐れて安易に手出ししてはこないはずだが、孫娘の大切なドラゼン号を無理矢理にでも確保しようとしてくるだろうから、場合によっては船も魚人の護衛もまた一から探さなくてはならなくなる。その代わりこれ以上の面倒事を回避できるし、確実性と安全性を考慮すれば、この最も簡単な方法がベターだろう。
だが、俺はベストを選びたい。
ライムとソーニャという少女たちとの繋がりを維持したまま、ジャマルたちとは和解して、予定通りドラゼン号で出港する。
そうするためには、ここで更なる嘘を重ねる愚は避けるべきだ。
さっきはミリアがどう出るか不安ではあったし、この美女のことは未だに信用しきれてもいなかったが、俺と同じ選択をしてくれた。つまりミリアは効率より大切なことを――人との繋がりを選び取れる人なのだ。
なんかちょっと安心したよ。
「あくまでもしらばっくれるんか……」
ふと滲み出していた怒りを収めて、ジャマルが半眼で睨んできた。
なんか……ヤバい感じがある。
嵐の前の静けさって感じだ。
「おどれらがその気ならのぉ、儂は容赦せんぞ? 儂の可愛い可愛い孫娘に近付いた時点で、利害計算なんぞ二の次じゃボケ!」
「い、いや兄者、どこの国のモグラかも分からないのにそれは不味い。もしサイルベアあたりの大国だった場合は――」
「そんなん知らんわぁ! ケルッコおどれなぁにを怖じけづいとんじゃ! どこが相手だろうがのぉ、儂の孫に手ぇ出す輩は断じて許さんぞ!」
勇ましくソファから立ち上がり、憤怒の形相でこちらを見下ろしてくるビッグオヤジ。
これはもうベストどころかワーストな結果にしかならないかもしれない。
「止めなよ父さん、ちょっと落ち着きなって」
「あ、ローズ!」
と思いかけたちょうどそのとき、いきなり扉が開いた。少々気弱そうなオッサンと無駄に馬鹿っぽい元気さを振りまく日焼け少女が姿を見せる。
それが状況を好転させる切っ掛けになるのか否か、俺は図りかねつつも期待せざるを得なかった。