第百六話 『心理的反動』
クレアがシティール行きを告げた翌々日、早朝。
「皆さん、ご無事で。長い旅路になりますから、どうか気を付けるんですのよ。わたくしが言うまでもないでしょうけれど、みんなで支え合うことを忘れずにね」
宿の前で、ウルリーカが俺たちを見送ってくれていた。
当初は彼女も北ポンデーロ大陸まで同行するという話も出ていたようだが、結局は魔大陸に残り続けることになった。
ここで別れれば、今後会う機会はなかなか訪れないだろう。
「……ウル」
「あぁ、リーゼ……そんな顔しなくてもいいんですのよ。会おうと思えばまた会えますし、きっとシティールでは平和に暮らせますわ」
リーゼは腰を屈めたウルリーカに抱きつき、ウルリーカの方も抱き返している。
「お姉様、元気でいてください」
「メル……貴女も今は辛いでしょうけれど、また笑える日がきっと来ますわ。ローズとウェインとサラも、最後に抱きしめさせてくださらない?」
長すぎる睫毛で飾った目尻に涙を浮かべ、ウルリーカは俺たちを順繰りに抱きしめてきた。彼女は三節に一度か、せいぜい二度程度しか館に訪れてこなかったが、一緒に風呂に入ったり飯を食ったり寝たり遊んだりしたし、誕生日にはいつも祝ってくれていた。ウルリーカは親戚の姉ちゃんみたいなものだ。
お別れだと思うと、なんだかんだで俺も泣きそうになる。
「セイディ……元気で」
「アンタもね」
普段は姦しく言い合いになる二人も、今ばかりはしみじみと互いの背中に手を回し、抱擁していた。
二人はどちらからともなく身体を離すと、ウルリーカはクレアと姐御に向き直った。
「クレア、しっかりみんなを引っ張っていくんですのよ」
「ええ、向こうに着いたら連絡するわ」
「オルガさん、護衛を引き受けて下さって、ありがとうございます」
「礼を言われることじゃねえよ、当然のことだ。まあ、さすがに港町までしか一緒に行ってやれねえけどな」
ウルリーカはクレアとも抱き合い、姐御とは握手を交わした。
それからユーハやトレイシーとも握手すると、彼女は最後に笑みを見せた。
「さようならとは言いませんわ。またいつか、会いましょう」
こうして、俺たちは港町ボアを目指し、ラヴルの町を発った。
♀ ♀ ♀
ラヴルからボアまでは当然、空を飛んでいく。女子供ばかりの集団で地上をちんたら行くわけにはいかないし、翼人が三人とアッシュグリフォンが一頭いるのだ。
メンバーの十四人中、九人が魔女だし、なにより姐御が同行してくれる。
まだ精神的に参っている俺たちにとって、真竜すら一撃で屠る最強クラスの護衛は、ボアまでの空路が安全であることを確信させてくれた。
「イヴは……私たちと一緒に来て、大丈夫なんですか? 帝国に帰ろうとは思ってないんですか?」
出発して二日目。
俺を抱えて飛行してくれている美女に声を掛けた。蒼水期第五節の空は既に冷え込んでいるが、背中は彼女に密着しているので温かい。
「私は……ひとまず、ローズさんに受けたご恩を返させていただこうかと思っています」
「そんなの、もう気にしなくてもいいんですよ? むしろ私と出会わなければ、ジークさんは……亡くならなかったはずですし」
否応なく湧き上がってくる罪悪感から俺は内心を吐露してしまった。
しかし、背後でイヴが頭を振ったのが伝わってきた。
「いいえ、ローズさんには変わらず……より一層、感謝しています。たしかに、私がローズさんと出会わなければ、ジーク様とも出会えず、結果としてあの場に赴くことはなかったでしょう」
彼女は寂寞とした悲哀の中に確かな謝意と温かみを織り交ぜ、続くしみじみとした声を冬空に小さく響かせた。
「ですが、ジーク様からすれば、良い出来事だったのだと思います。姫殿下をお救いすることができ、仇敵を打ち倒したのです。ジーク様は目的を遂げられました、最後の最後には誰に向けるでもなく、感謝の言葉を口にされ、心安らかそうに逝かれました」
「……そう、ですか」
正面から受ける風が冷たい。
だがイヴはそのことに愚痴も零さず、寒風の中を飛び続けている。
「……………………」
俺もイヴも口を閉ざしたせいか、会話が途切れた。
とはいえ、リーゼたちほど親密ではないイヴに、俺が何を言ったところであまり効果はないだろうから、問題はない。
彼女の内心は複雑なはずだが、現在進行形でしっかりと力強く飛行できている。
他のみんなと同じく、時の流れが心の傷を癒してくれることを願おう。
「ただ……」
特に気まずくもない無言が続いて間もなく、不意にイヴが言った。
「私個人としては、オールディア帝国の内情を探っていきたいという思いはあります。事の発端を……ジーク様と姫殿下が巻き込まれた陰謀の真実を知らねば、ジーク様が浮かばれないように思うのです」
「…………」
「しかし、ミスティリーファ様――ミリアさんのことがありますし、ルティカさんのことも見守っていきたく思っています。それにミリアさんも私も、今後何をするにしても《黎明の調べ》とは縁を持っておきたいのです」
どこか苦々しく話す彼女の顔は見上げず、俺は地上の景色を見下ろしたまま、「そうですか」と相槌を打っておいた。
以前チュアリーで買ったイヴの剣は戦いで折れてしまったが、今はジークの剣が腰元に提げられている。それが意味するところは何となく理解できていた。
「なので、今はひとまず、ローズさんに受けた恩を返させて頂きます。ですがその途上でミリアさんが動き始めれば、私はあの方と共に行動したく思っています。そうなった場合は……その、申し訳ありません」
「さっきも言いましたけど、恩とかそういうのは気にしなくても大丈夫です。ただ、何をどうするにしても、無茶だけはしないでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
やはりというべきか、イヴは実直な人だった。
わざわざ事前に謝っておかなくても、俺は気にしないというのに。
無論、一国の姫様が魔女奴隷に堕とされた経緯やその裏事情は俺も気になるが、その闇が深いことは想像に易い。
仮に、ミリアとイヴが虎穴を探って深淵を覗き込むような真似をしようとした場合、引き留めはする。しかし俺は協力しないし、そんな国家レベルの陰謀には関わりたくもない。俺はみんなを守ることを最優先していくので、余計なことに首を突っ込めば、いらぬ危険を招きかねないのだ。
クレアがシティール行きを告げた日、俺はミリアを同席させた上でクレアにその正体を話した。するとクレアは絶対にこのことは他言無用であると厳命し、ミリアに同情の眼差しを向けつつ、こう言った。
『貴女はこの地に残るべきです。ザオク大陸の東部ならオールディア帝国の影響もなく、平穏に暮らしていけるでしょう』
『その気持ちは有り難いけど、アタシは《黎明の調べ》の盟主に面会したいの。もちろん、アタシを同行させることで生じる貴女たちの危険性は承知しているわ。その上でお願いします、どうか同行させてはもらえないかしら』
ミリアは元皇女らしからず、クレアに頭を下げていた。
俺はクレアの意見に同意だったし、ミリアというある種の爆弾を側に置いておくことは誰の目から見ても得策ではない。みんなとミリア自身の安全を考慮すれば、彼女には〈霊衝圧〉でもブチ込んでウルリーカたちへ問答無用で引き渡し、この地に残して出発するのが最善だ。
と、そう思ったのだが……。
『……仮に、貴女がその身の上故の窮地に陥った場合、私たちは危険を冒してまで貴女を助けません。加えて、途中で一度でも、その身の上故の危険を招いた場合、私たちとは別れてもらいます。それでも良ければ、同行することを許しましょう』
クレアは複雑な感情を覗かせながらも、毅然とした態度でそう告げた。
ミリアはその条件を呑み、クレアに感謝の言葉を返し、二人は握手していた。
俺としては断固として反対したいところだったが、クレアが言うならばとその場は納得しておき、ミリアが退室した後で訊ねた。
『どうして了承したんですか? ミリアさんが禍の種なのはクレアだって分かっているはずです』
『分かっているわ……それでも、だからこそなの』
『どういうことですか……?』
どこか息苦しそうに、呻くように応じたクレアに、俺は更なる疑問を覚えた。
しかしクレアはなぜか俺を抱きしめ、懺悔するかのような口ぶりで呟いた。
『禍の種も、上手く芽吹かせれば、利をもたらすわ。私は…………最低ね、一度は魔女奴隷に堕ちた姫を、他ならぬ私が……マリリン様たちも、天国で悲しんでいるでしょうね……』
『……クレア?』
『心配させてごめんね、ローズ。もし何かあれば、ミリアさんにはきちんと別れてもらうから。色々なことを心配するのは私に任せて、今は私を信じて、安心してくれる?』
クレアにそう言われては、俺は頷かざるを得なかった。
よくは分からんが、クレアにはクレアなりの考えがあるのだろう。
『私はあなたたちが一番大切で、一番愛しているわ。あなたたちを守るためなら……私は、邪神にだって魂を売り渡すわ』
そんな嬉しくも不吉な台詞が、未だに俺の耳にこびり付いて離れない。
なぜクレアはあんな台詞を、あんな陰々と力強く呟いたのか、それは不明だ。
しかし、俺はクレアを心底から信じている。
彼女が俺たちにとってマイナスの行動をとるはずがない。
その確信があれば十分だった。
「…………」
しばらく、俺とイヴは無言のまま、魔大陸東部を北東方向へと飛んでいく。
ちなみに現在、俺は例によって例の如く、〈霊引〉を行使し続けている。だが今回は人ではなく、蓄魔石に対して常時行使している。みんなの荷物を詰めた木箱にロープを巻き付け、高質な蓄魔石に繋げているのだ。
この方法ならば大量の物資も空輸できるが、かなり強引な力技なので並の魔法力を有する魔法士にはまず不可能だ。今は木箱の上にユーハとベルが座っているので重量は優に二百メト以上あるだろう。
蓄魔石経由でこの重量を保持し続けるのだから、十二分な魔法適性は元より、継続して行使できるだけの魔力量も必要になる。
俺たち四人の前方にはオルガが先行していて、姐御も俺のように〈霊引〉で荷物を運んでいる。館には貴重な魔法具や魔石類、武具や衣類に思い出の品など多数あり、それらを北ポンデーロ大陸まで持っていくので、結構な量があるのだ。
尚、姐御の木箱の上にはクレアが乗っている。
アシュリンは俺たちと並行して飛んでいる。我らがペットはその巨体にリーゼ、サラ、ルティ、ミリア、ウェイン、トレイシーの六人と幼竜ユーリを乗せて両翼を羽ばたかせている。六人とはいえ女子供ばかりなのできちんと背中に収まっているし、重量は……たぶん二百メト前後くらいだろう。
そしてセイディはメルを抱えて俺たちの後方を飛んでいる。
女子供十二人にオッサン二人、魔物と幼竜が一頭ずつの異質すぎる集団だ。
町から町への空路はだいたい決まっているので、たまに翼人たちとすれ違ったりするが、かなりガン見される。魔物だろうと空賊だろうと余裕で返り討ちにできるだけの戦力を有している反面、異質故に目立つのだ。
どうせ魔大陸を出て行く身とはいえ、現状で目立つのは極力避けたい。
なにせ俺は今も尚、密かに警戒し、怯懦し、恐怖しているのだ。
「みんなっ、今日はあの町で休みましょう!」
前方を行くクレアが後方の俺たちに大きく呼び掛ける。
既に後方では西日が稜線に半ば隠れていて、もう数分で世界は夜闇に包まれてしまうだろう。飛行速度は重視しつつも、安全第一に移動しているので、日が沈んでからは飛ばないことになっている。
「町か……」
正直、町には行きたくない。
そこらで野営でもしていたい……というのが俺の本音だ。
しかし、まだみんなにも先日襲撃されたショックが残っている。今の状況でみんなに迷惑を掛けるわけにも、心配させるわけにもいかないので、平然と振る舞わねばならない。
「イヴ、町に着いたら、みんなで甘いものでも食べましょう。リーゼやルティの気も少しは紛れてくれるはずですし、飛行で疲れた身体は甘いもので癒しましょう」
「……お気遣い、ありがとうございます、ローズさん。余計なお世話かもしれませんが、あまり無理はなさらないでくださいね」
「はい、分かってますよ。ところで私はプリンが食べたいんですけど、イヴは何が食べたいですか?」
「私は……そうですね、檸檬の蜂蜜漬けと、林檎酒でしょうか」
イヴは酒を呑まない派なはずだが……。
まだアレから十日くらいだし、無理もないか。
そんな感じに、俺たちは港町ボアまでの空路を進んでいく。
♀ ♀ ♀
ラヴルを出発して九日目。
ちょうど昼食時に、港町ボアに到着した。
順調に進めていれば六日の予定だったが、風や天気の影響で少し遅れた。
とはいえ、許容範囲内なので全く問題ではない。
「ようやく着いたわね、ひとまず宿をとって昼食にしましょうか」
「ですねお姉様、もう歩き疲れてお腹ぺこぺこですよ。あ、リーゼ、なんか食べたいものある? ここは港町だからね、海の幸はたくさんあるわよ」
俺たちは町からかなり離れた地点で徒歩に切り替えていた。ボアには数日滞在することになるだろうから、目立つ行為を避けるためだ。
一時間くらい地上を歩いて、大きな港町に足を踏み入れた。
「……じゃあ、お肉」
「アンタはいっつもお肉ねー。サラはどう? 何が食べたい?」
「わたしは桃のタルト、かな」
「姉妹揃って、海と全然関係ないわねー」
セイディは快活な笑みを見せつつ、サラの頭を撫でている。
リーゼはまだまだ暗さが残っているが、サラの方は結構みんなと打ち解けられている。未だに記憶は戻らないが、たまに笑みを覗かせたり、今もセイディの手を遠慮なく振り払って、乱れた金髪を手櫛で整えている。
「うぉっ、アッシュグリフォンじゃねえか。しかもいい女ばっかだな……って、ん?」
「おいなんだ、あの翼人、見たことねえ翼してんな」
「羽が全部抜け落ちたってわけでもなさそうだしなぁ」
十三人でぞろぞろと歩きながら、宿屋に向かっている最中。
町の通りを歩いていると、見知らぬ男たちの無遠慮な言葉が耳に入ってきた。
「――っ」
「サラ、気にしない方がいいよ。それに今はみんながいるし、大丈夫だよ」
セイディとの遣り取りから一転して、サラは明らかな怯えを孕んだ表情を見せた。道端の猟兵っぽいクソ野郎共の視線から逃れるようにメルの影に隠れ、メルは微かに震えるサラを慰めている。
「あいつら……サラ姉を怖がらせたな」
「リーゼ、落ち着いてください。あの人たちもただ珍しがってるだけみたいですし」
アシュリンの背中に乗るリーゼが昏い眼差しで野郎共を睨み付けた。琥珀色の瞳にはどろどろとした怒気と敵意が渦巻いていて、俺は念のため彼女の肩に手を置いた。
しかし、いい歳こいた野郎共は未知に好奇心でも刺激されたのか、あろうことか俺たちの方に近付いてくる。
「なら聞いてみようぜ、ついでに賭けるか。おれは羽が全部抜け落ちたってオチ」
「じゃあオレは魔物の子種を仕込まれた女から生まれたってオチ」
「おいお前、それ俺が言おうとし――たぼぁ!?」
リーゼが火魔法の魔力波動を放ち始めたので、俺はそれを断唱波で中断させつつ、野郎一人を〈霊斥〉で弾き飛ばしておいた。
下種は背中から石壁に激突し、呻いている。他の連中は一様に俺たちから意識を逸らし、困惑ぎみに仲間のもとへ駆け寄っていった。
「リーゼ、前にも言いましたよね? こういうときは目には見えない魔法で対処すべきです」
「うん、でもあいつらむかついたから……あ、サラ姉、ローズが仕返ししてくれたから、もう大丈夫だよ」
地面を歩くサラはアシュリンの背中に乗る俺を見上げてきた。
俺は飛び降りて、サラの隣に並び、微笑みかけてみる。
「あ、ありがと……」
「いえ、これくらいサラにもできることですしね。余計なお節介でしたね」
「わたし……ローズみたいに、できる気がしないわ。でも、魔法は練習していきたいかな」
サラは自信なさげに呟きつつも、割と前向きだ。
俺との仲もみんなと同様、そこそこ良好だし、結構いい感じだ……なんて、思えるはずもない。
今のサラは以前ほど魔法が上手く使えない。
身体が覚えているのか、上級魔法すら無詠唱で行使することはできる。しかし、少し緊張したり、咄嗟の状況に陥ったりすると使えなくなるようで、よく集中する必要があるらしい。
それだけなら未だしも、どうにもサラは男性恐怖症を発症している。以前は毛嫌いする程度だったが、今は嫌悪ではなく、恐怖しているのだ。ベルは未だしもユーハにも怯えているので、今もオッサン共には後方を歩いてもらっている。
「お、来たな」
目的の建物の前には姐御が立っていた。
先ほど町に着いてすぐ、オルガはイヴと一緒に宿を探しに飛んでいったのだ。イヴは以前に俺たちが宿泊した宿を勧めたそうだが、その宿の主はアッシュグリフォンの滞在を拒否したらしい。別の宿を探し回った末、十人以上が泊まれてアシュリンも受け入れてくれる宿を見つけ、オルガは残って宿泊手続きを済ませてくれていた。
「お姉様、アタシはアシュリンを裏に連れて行きます」
「お願いね、セイディ」
アシュリンは現在、荷馬車状態だ。
小さな車輪付きの大きな木箱を二つ、牽引している。
空を飛べて、陸も歩けて、力持ちで、きちんと躾けてあるから余程のことがない限り人を襲わず、基本的には大人しい。
最近、このマザコン野郎はかなり役に立っている。
「アシュリン、ラヴルからずっと頑張ったね。偉いぞ、よしよし」
「ピュェェェ、ピュェェェェッ!」
リーゼに褒められて歓喜の声を上げながら、アシュリンは宿の裏手へと荷物ごと消えていった。
俺たちはとりあえず宿に入り、六人用の大部屋にユーハとウェイン以外の十二人が集まる。野郎二人は裏の馬小屋にいるアシュリンと大荷物の番をしているのだ。
「さて、まずはみんなに今後の予定を話しておきます」
クレアは十一人を見回すと、改まった口調で告げた。
「私たちはシティールを目指すにあたって、船を調達する必要があります。それで、オルガさんやセイディたちと話し合ったのだけれど……安全面を考慮して、まずは船を買う方針で動いていこうと思います」
「船、買うの……?」
リーゼが思わずといったように声を上げた。
そこに喜色はなく、純粋に驚いている様子だ。
「ええ、でも必ず買うとは限らないわ。各港町での乗り換えのとき、船を貸し切って利用した方が手軽で、安上がりでもあるから。ですが私たちは魔女ですし、特に銀竜の子供であるユーリもいますから、各地の人々と接触を持つことは可能な限り避けた方が賢明です」
一瞬、ちらりとミリアを見遣って、クレアはそう言った。
ちなみに、俺がカーム大森林で経験したことは既にみんなに話してあるから、銀竜を連れている危険性は理解されているはずだ。
「シティールまで同行してくれる船員と、魚人の護衛が確保できるようならば、船を買います。この町は魔大陸東部の玄関口ですから、造船所もたくさんあるので、中古でならばすぐ買えると思いますが……もし良い船が売っていないようならば、あるいは船員と護衛が確保できないようならば、船を貸し切って行く方針に切り替えます」
「クレアさん、お金は大丈夫なのでしょうか?」
イヴが挙手して、至極最もなことを口にした。
船を買うにしろ、船を貸し切って行くにしろ、かなりの大金が必要になる。
が、その点を心配する必要はないだろう。
「大丈夫です、魔杖を売ってお金にします。それでシティールまでの旅費は余裕で賄え――」
「やだっ、おばあちゃんの魔杖もおばあちゃんに買ってもらった魔杖も絶対売らないもん!」
やにわに腰掛けていたベッドから立ち上がり、凄い勢いで異を唱えるリーゼ。
俺は彼女の手を握って、ゆっくりと言い聞かせた。
「リーゼ、大丈夫ですよ。お婆様やリーゼたちの魔杖は売りませんから」
「ローズの言うとおりよ、リーゼ。魔杖は……あの連中から手に入れたものを売り払うから」
「……なら、いい」
リーゼは大人しくベッドの縁に腰を下ろした
クレアの言う魔杖は二つある。
一つは俺が取り逃がした憎き魔法士サヴェリオのものだ。こちらは俺との戦いで杖部分が折れているが、先端の赤い増魔石部分は綺麗なものだ。
もう一つは婆さんの遺体を貶めていた、ラザールとかいうクソジジイの魔杖だ。こちらはかなり状態が良く、杖部分は使い込まれてこそいるが、逆にそれがビンテージ感を醸し出している。
どちらの増魔石も十二、三レンテほどの大きさで、色合いも綺麗な真紅と漆黒であり、宝石のように光を反射していた。あのサイズであの純度の増魔石となると、もはや一生遊んで暮らせる額の価値があることは確実だ。
どちらか一つだけでも売れば、最低でも船一隻くらいは買える額になるだろう。
「では、今日この後の予定を伝えます。まずはみんなで昼食を摂った後、四組に分かれます」
クレアはそう言って、組分けと各組の役割を話していった。
クレア、ベル、オルガの三人は魔杖の換金。
俺とセイディの二人は良さげな船を探して目星を付けに行く。
トレイシー、イヴ、ウェインの三人は船員と護衛の募集を掛ける。
ユーハ、メル、ミリア、リーゼ、サラ、ルティの六人はこの宿で荷物番という名の待機。
「もし何かあった場合、この宿に戻ってすぐに報せること。宿で何かあった場合は、これから向かう食事処に移動してください」
きちんと考えられているな。
戦力バランスはもちろんのこと、各組には有翼の人員(アシュリン含む)が配置されているし、緊急時のことも決めてある。本来は分担せず、一個一個みんなで片付けた方が安全ではあるが、それだと無駄に時間が掛かりすぎる。
もう大丈夫だとは思うが、俺たちは可能な限り早々に、この魔大陸から去る必要があるのだ。それにオルガは俺たちがきちんと出港するまでフリザンテには――聖伐には戻らないと言っているので、急ぐに越したことはない。
「あたしもローズと一緒に行く」
「リーゼはサラたちと宿で待っていてね」
「なんでっ、じゃあローズと一緒に待ってる!」
リーゼは俺の腕に抱きついてきた。
その気持ちは理解できるし、嬉しくもあるが、万が一の事態を考えればクレアの割り振りは適切だ。裏を返せば、クレアは俺を戦力として認めてくれていることを意味している。
「そうね……じゃあ、ローズの代わりにメルがセイディと一緒に行ってくれる?」
「あ、はい、分かりました」
と思ったのに、あっさりと変更された。
たぶんクレアとしても俺を動かすかどうかは悩みどころだったのだろう。
優しくしてくれるのは嬉しいけど、俺もみんなのために動きたい。
が、リーゼが望むなら仕方ないか。
「それじゃあ、長旅の休息も兼ねて、みんなで食事に行きましょうか」
クレアは纏めるように軽く掌を打ち合わせ、微笑みながら明るく告げた。
♀ ♀ ♀
当然、アシュリンは宿の馬小屋でお留守番となった。
ユーハは荷物番として尚も残り続け、ミリアは自分から宿で待機すると主張した。さすがにオッサン一人だけだと、何かあったときに対応できないから……というのが理由らしい。
それが本心かどうかは分からないし、考えてもあまり意味はないだろう。
二人には帰りがけに露店で適当にメシを買っていくことになった。
「宿の主人によれば、この先にある店がなかなか落ち着きあっていいらしい」
とは姐御の言葉だ。
女子供だらけの集団なので、猟兵やら船乗りたちのような荒くれ者で溢れかえる店には行かない方がいいだろう。
十二人でぞろぞろと町中を歩いて行く中、俺は割と緊張し、警戒していた。
町のあちこちから微かに感じる魔力波動を必死に見極め、これは初級魔法、あれは中級魔法と、俺の無意識はいちいち判別したがっている。
殊更に身構える必要はないと頭では分かっていても、心がそれを許さない。
「小童」
町の喧騒と潮の香りで満ちた通りを歩いていると、不意に左肩を叩かれた。
左隣には誰もいないはず。
俺は反射的に手を振り払いながら〈霊斥〉の魔力を練った。
「やめい、妾だ」
「ぁいたっ……ゼフィラさん」
魔法が現象する直前に頭を叩かれ、俺は我に返った。
相変らずゼフィラはフード付きのローブで全身をすっぽりと覆っており、白い手袋もしている。
「まったく、遅いぞお主ら。待っておる間、暇で暇で仕方がなかったわ」
「それはどうもすみませんね」
「ふむ、これから食事に行くのであろう? 妾も同道してやろう」
タダ飯喰らいがなんか言ってやがる。
この鬼ババアは夜しか飛べないという特性上、先行してもらっていた。
正直、彼女の能力は便利だが人格が人格だ。俺たちに素直に協力してはくれないから、べつに永遠に合流してくれなくても良かった。しかしルティはゼフィラのことが好きだから、こんな人でもいないと悲しまれるのだ。
「む、なんだ小童その顔は。此度の飯ならば特別に妾が奢ってやるぞ」
「え、どういう風の吹き回しですか? というか、そんなお金あるんですか?」
ゼフィラにも一応は宿代やら食事代は渡してあるが、せいぜい十日分程度だ。
この人数の食事を賄えるほど、もう残ってはいないはず。いや、この人は食わなくても死なないから、使わずにとっておいたのかもしれない。
「フフ、待っておる間、この町周辺を根城にする賊共を狩ってきたのだ。人から奪う連中ならば、奪われても文句は言えぬしの」
「……………………」
さらりと言ってのけやがって、無茶苦茶だ。
「ゼフィラさん、アレからやけに機嫌がいいですけど、何かあったんですか?」
俺は少し睨み付けるように言ってやった。
あの一件で俺たちが落ち込む反面、ゼフィラはあの一件以前と比べると、明らかに生き生きしている。現に今さっきも、らしくなく得意気に語っていたし、口元に微笑まで浮かべている。
もう二十日ほどが経つし、そろそろそういう嬉し楽しげな雰囲気もリーゼたちにとって良いとは思うが、念のため理由くらいは知っておきたかった。
「何かあったか否かと問われれば……うむ、あったとも。しかし小童、お主の方は少々難儀しておるようだの?」
「な、何の話ですか、そうやって誤魔化すつもりですか?」
「必死に誤魔化そうとしておるのは小童の方であろう。お主、ラヴルにいた頃より酷くなっておらぬか?」
ルティがゼフィラの合流をクレアたちに話している横で、俺は顔をしかめざるを得なかった。
ゼフィラはそんな俺の耳元に顔を近づけ、艶然と笑みながら囁いてくる。
「しかし、その心理的な反応は極々自然なことだ、恥じ入ることはない。他の者らに心配を掛けまいとするのも結構だが、余人に相談した方がより早く心安くなれるであろう……と、年長者として忠告しておいてやろう」
「……それは、どうも」
「ゼフィ、お姉ちゃんとなに話してるの……?」
「いやなに、ちょっとした雑談だ」
ゼフィラは俺の側から離れ、ルティと話し始めた。
俺は変わらず歩きながらも、しかし苦々しさを覚えずにはいられない。
さすが三千年も生きている鬼ババアと言うべきか。
クレアやユーハ、メルにさえ感付かれていないはずなのに、ゼフィラはとっくに見抜いてやがった。
小心者の俺が抱える、如何ともし難い悩みに。
既に二十日近く前、俺は人を殺した。
怒りと憎しみにより、二十人近くの男を殺しまくった。
その反動が、この異常なまでの疑心だ。
今にもそこの角から奴らの仲間が飛び出して来て、俺やリーゼたちを殺そうとするのではないか。今そこを歩いている薄汚い浮浪者が実は連中の仲間で、不意を衝いて俺にナイフを突き立てようとしてくるのではないか。今まさに感じている魔力波動はあの殺し損ねたクソ野郎のものではないか。今にもどこからか矢が飛んできて俺の頭を射抜くのではないか。
……などと、無意識的に際限のない警戒心を発揮し続けている。
どんな理由があろうとも、一度でも人を殺した者は、誰かから殺される理由が生まれてしまうものだ。俺の殺したクソ野郎共にも友人知人、あるいは恋人や妻子がいたはずで、そいつらが俺に復讐しようとしてきても全く不思議ではない。
いや、むしろ復讐するはずだ。
だったら、いつ誰から襲い掛かられるか不明な恐怖に怯えながら日々を生きるくらいならば、《黄昏の調べ》という元凶を断てばいい。婆さんたちへの復讐だってまだまだ全然し足りていないのだから、遺恨が残らないくらいに、連中が俺を心底から恐怖して畏怖するくらいに、徹底的に叩き潰した方がいいに決まっている。
……この苦しみに負けて、そう思考を進めていけば、俺は復讐という名の狂気に取り憑かれて堕ちてしまうだろう。
殺人の怖いところはこれだ。
一度でも誰かを殺めてしまうと、見える世界ががらりと変わってしまう。
殺人という禁忌を一度でも犯してしまえば、倫理的なストッパーが緩くなる。
むかつく相手が絡んできたとき、手っ取り早く暴力で解決することに躊躇いを覚えなくなり、いつか易々と殺してしまうようになるかもしれない。
なまじ俺には力があるだけに、そういった不安も覚えてしまうのだ。
実際、この町に入っても間もなく、サラの悪口を言っていた野郎共から逃れるため、俺は〈霊斥〉を使った。ただ相手を遠ざけるだけの魔法とはいえ、石壁に頭を打ったりした場合、最悪死ぬことだってあるのに、俺は何ら躊躇わなかった。
前世での日常と違って、この世界の日常では暴力など当たり前に存在している。
野盗の類いだって普通にいるし、自分の身を守るためにも暴力は必要不可欠だ。
だから俺もこの世界の常識に心底から適応して、細かいことなど気にせずにいるべきなんだろうが……俺は軽々と暴力を振るいたくはないのだ。
もちろん、戦うべきときには戦うし、殺すべきときには殺すが、だからといって暴力に躊躇いを覚えない人間になんてなりたくない。
そう思っているからこそ、この殺人反動はより一層、俺を苛んでくるのだろう。
「ローズ、どうかした?」
ふとサラに声を掛けられ、無理矢理に気分を入れ替えた。
「いえ、なんでもないですよ」
「でも、なんか顔色悪いように見えたけど」
「そう見えるくらい、サラは私のことを見ていてくれてたんですね。ありがとうございます、嬉しいです」
「べ、べつに、そういうわけじゃないけど……ローズが変な感じだと、リーゼが心配するから」
照れて言い訳するサラは最高に可愛らしかった。
これで記憶が元通りなら、言うことないのだが……。
「サラは優しいですね、さすがお姉ちゃんです」
と口にしてから、遅まきながら自らの失言に気が付いた。
「……わたし、お姉ちゃんなんかじゃない」
「あ、す、すみません」
「なーに話してんの二人とも、アタシも話に混ぜてくれる?」
俺の失言を聞いていたのか、セイディがあからさまに絡んできた。
その気遣いを有り難く思いつつも、ラヴル滞在時のことを思い出してしまう。
当初、今のサラはリーゼが『サラ姉』と呼ぶことを酷く嫌がっていた。
というより、姉扱いされることに明らかな不快感を見せていて、それは今現在も変わらない。
ただ、リーゼのサラ姉呼びはなんとかなった。
『サラ姉』という呼称を拒否されたリーゼがサラに泣き付き、痛々しいまでの悲哀を十二分に見せたからか、サラはしぶしぶながら了承したのだ。しかし、それは単に呼び方を受け入れただけであって、リーゼからも俺からも姉扱いされることは頑なに拒んでいる。
記憶喪失や男性恐怖症、姉扱いを嫌がるといった変化の原因は考えるまでもなく、チェルシーという元家族であり姉であった人の影響が大きいのだろう。
姉らしくあろうと頑張っていた以前のサラを思うと、もう本当にやるせなくて心が痛い……。
だがそんな気持ちはおくびにも出さず、俺はみんなと雑談しながら酒場まで歩いて行った。