第百五話 『これからのこと』★
ベッドに寝転がって脱力しながらも、俺は気怠い喪失感と未知の不安感に苛まれていた。ひとまず状況が落ち着いたせいか、心理的な反動がやってきたのだ。
「……ローズ」
隣には大切な家族の一人がいる。
三角の獣耳とふさふさの尻尾は力なく垂れ、蜂蜜色の髪はボサボサで、琥珀のような瞳に生気はない。半年ほど前はいつも喜楽で爛々と輝いていたというのに、今は哀しみで深く翳ってしまっている。その様はおよそ普通の八歳女児が見せるものではなく、痛々しい。
「どうかしましたか、リーゼ」
「サラ姉……ちゃんと、思い出してくれるかな……? う……うぅ……サラねえ……ぅぐっ……おばあちゃぁん……」
泣き出してしまった。
大声で喚くようなものではなく、ただただ悲嘆に暮れた末の啜り泣きだ。
俺は左手で彼女の小さな手を握った。右手は背中に回して抱きしめたかったが……金髪クソ野郎との戦いで、右腕は肘から先がなくなってしまっている。
「リーゼ、大丈夫だよ、大丈夫」
ベッド脇の椅子に座っていたメルが、リーゼの向こうで横になり、俺ごと抱きしめてきた。垂れた獣耳と双眸は如何にも優しげで、十七歳の少女らしい柔らかさと温もりが感じられる。
だが、リーゼ越しに見える彼女の面差しも未だ哀しみが色濃く、それでもリーゼのために強がってみせている。
「サラは少し混乱してるだけで、きっとすぐ思い出してくれるよ」
「……ぅぁぁ、メル……サラねえぇぇ……なんでぇ、なんでわすれちゃったのぉぉ……」
リーゼは声を荒げる元気もないのか、静かに声を漏らして泣き続ける。
現在滞在している宿のベッドは一人用しかないため、館のキングサイズベッドと違い、狭い。俺とリーゼとメルが一緒に横たわれば、もう余裕はない。
しかし、今は互いの温もりを感じ合っていたいので、何ら問題はない。
まだあの夜から、二日しか経っていない。
館を襲撃されたのが、一昨日の深夜から明け方頃。
婆さんたちを火葬したのが昨日の深夜から明け方頃。
今は《黎明の調べ》ザオク大陸東支部の協力者――準構成員が経営するラヴルの宿屋に身を寄せている。緊急事態のため、俺たちだけの貸し切りだ。
「…………」
「……ウェイン、どこ行くんですか?」
先ほどから部屋の片隅で膝を抱え、口を閉ざし続けていた少年がおもむろに腰を上げた。
初めて会ったときから子供らしくなかったが、半年ぶりに再会して以来、その印象が倍増している。以前は擦れた印象が強かったが、今は表情から雰囲気まで絶望色に染まり切り、その様相はかつての鬱武者を思わせた。
「…………便所」
ウェインは呟くように掠れた声を返してきた。
そして悄然とした足取りで、曲がった背筋のまま部屋を出て行く。
先ほど夕食の時間だったが、俺たちは一様に食欲がなかった。
リーゼは食事中にも不意に涙を零して、大好物の肉を残していたし、それに触発されてかウェインも顔を歪めて俯いていたし、俺もメルもなかなか食事が喉を通らなかった。ただ、サラだけはそんな俺たちの様子を見て、居心地が悪そうに気まずそうな表情を見せていた。
「おい小童っ、今すぐ開けよ! 妾だっ!」
ウェインが出て行って間もなく、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
俺は反射的に身構え、上体を起こして警戒態勢をとるが、乱暴なノックと共に響いてきたのは聞き慣れた声だ。
「……なんですか、ゼフィラさん」
扉を開けると、十二、三歳ほどの少女が立っていた。
普段は超然とした雰囲気を纏っている癖に、今は妙に興奮したような面持ちを見せている。フード付きのマントと銀糸の如き長髪は珍しく乱れていて、紅い瞳は大きく見開かれ、俺をじっと凝視してくる。
「いや、なんでもない。無性にお主の顔が見たくなっての」
「……そう、ですか」
「ところで一つ訊ねるが、先ほどから同一の魔力波動を断続的に感じぬか?」
意味不明な問いかけだった。
宿にいる今も、俺の魔動感はたまに反応したりする。それは町で魔法を使っている誰かの魔力波動に反応しているからで、別段おかしなことではない。
しかし、ゼフィラの言うような魔力波動は感じ取れていない。
「いえ……べつに感じませんけど」
「うむ、ならば良い。では妾は少々急ぐのでな」
俺が何事かと問い質す前に、ゼフィラは廊下を走り去っていってしまった。
追いかけようとは思わない。
あの鬼ババアが変なのはいつものことだ。
今はただ、みんなの側にいてやりたい。
「……ゼフィラさん、どうかしたの?」
「さあ……よく分かりませんでした」
メルに答えながら、俺は再びリーゼの隣に横たわった。
リーゼは俺の手を握り締めてきて、鼻を啜りながら小さく声を漏らす。
「ローズ、もう……もう勝手に、どっか、行かないで……ずっと一緒に、いて……ずっと、みんなで一緒に……」
「はい、私はリーゼの側にいますから」
抱きついてくるリーゼを片手で抱き返しながら、俺は今朝方の話を思い出す。
メルによると、俺が真竜肝を求めて白竜島へと旅立った頃、リーゼはアシュリンと共に俺を追いかけたらしいのだ。しかも転移盤は使わず、クラジス山脈を抜けてクロクスまできちんと辿り着いたという。
かなり驚いたし、申し訳なかったし、それ以上に愛おしかった。
「…………ウェイン、遅いですね」
しばらく三人で静かに過していくが、先ほど出て行った少年が戻ってこない。
もう三十分は経っているはずで、トイレでの用が大きい方だとしても、時間が掛かりすぎている。
「じゃあ、少し様子見に行ってくるね」
「あたしも行く……ローズも……みんなで行こ」
というわけで、三人一緒に部屋を出た。
廊下を歩き、突き当たりの所にあるトイレを確認してみるが、中には誰もいなかった。
「どこ行ったんでしょう?」
「待って……なんだか、裏口の方から声が聞こえるよ。リーゼも聞こえるよね?」
「……うん、聞こえる」
こういうとき、獣人の聴力は便利だな。
誰がどこにいるのかだけでなく、周辺の様子を警戒するのにも使える。
今の俺には喉から手が出るほど欲しい能力だが……それはそれで神経質になりすぎそうだ。
三人で階段を下り、馬小屋や倉庫のある裏庭に繋がる宿の裏口を目指す。
ちなみに現在、サラは幼竜ユーリとセイディと一緒の別室にいる。今のサラにとっては周囲全ての人が他人であり、俺たち家族もあまり精神的余裕のない状態だ。無闇矢鱈に混乱させないために、とりあえずセイディが側に付いて見守り、可愛い幼竜で緊張を解させている。
クレアはというと、ウルリーカたち《黎明の調べ》ザオク大陸東支部の人たちと、今後について話し合っている。
ルティはイヴとミリアと一緒の部屋で休んでいる。本当はリーゼ同様に俺も側についていてやりたいが、リーゼとルティはまだ赤の他人も同然だ。現状で同室させても互いに落ち着かないだろうし、今はまだそっとしておくに限る。
「ウェイン……泣いてる」
リーゼの呟きを聞きながら、裏口までやってくる。
扉は開きっぱなしになっていた。
裏庭には篝火が幾つか焚かれ、夜闇の暗さを撥ね除けてはいるが、やはり視界が利きづらい。その状況は俺に多大なる不安感を抱かせた。
正直、外には出たくない。
しかしウェインの様子を確かめるため、俺はリーゼとメルと一緒に、静かに裏庭の様子を窺ってみた。
「……ユーハ……おれ、どうすればいいんだ……ぅ、くっ……やっぱり……ローズたちと、かおあわせられねーよ……」
「ウェイン、お主は何も悪くないのだ。気にすることなどない」
「ちがう……おれ、こわくて……じぶんが……っ、たすかるために、しゃべったんだ……」
ウェインはオッサンの側で膝を抱えて座り込み、泣きながら声を漏らしていた。
二人がいる馬小屋前には約三リーギスの巨体を誇るアッシュグリフォンもいる。
我らがペットのアシュリンだ。
「齢九つで拷問に耐えうる者などおらぬ。仕方がなかったのだ、どうしようもないことだった」
「おれ……おれが……みんなを、うったんだ……おれのせいで、ばあちゃん……アルセリアもヘルミーネも……サラも、みんな……」
「喋らねば、ウェインは殺されていたであろう。そもそも、何年も以前にチェルシーという娘が話しておったのだ。断じてウェインのせいなどではない、全ては《黄昏の調べ》が悪いのだ」
「そうだと、しても……おれ……まもらなきゃ、いけなかったのに……もう、いやだ……しにたい、なんでおれ……いきてるんだ……」
「皆、お主が生きていてくれて、嬉しく思っておる。然様なことを申すでない、皆が聞けば悲しむぞ」
ウェインが俯いて静かに泣き続けていると、ユーハが少年の背中を撫でながら俺たちの方に顔を向けてくる。
右眼が眼帯に隠れた、割と男前の顔をした三十代後半のオッサン。
かつて鬱の闇に呑まれていた男は無言で、ゆっくりと頷いてみせた。
「……行きましょう」
「うん、今はユーハさんに任せた方が、良さそうだね」
「ウェインのせいじゃないって、言ったのに……」
普段のリーゼなら、ここで飛び出していき、ウェインのせいじゃないと力説するだろう。だが、さすがのリーゼも今はそんな気力もないのか、暗然とした面持ちのままだ。
昨日一昨日と、ウェインは俺たちに泣きながら謝ってきていた。
無論、俺たちの気持ちはユーハが口にした通りだ。むしろ拷問された九歳の少年に同情しているが、当人からすれば罪悪感は消えないのだろう。
こういうときは男同士の方が良いだろうし、この場はユーハに任せ、俺たちは踵を返した。
「…………」
俺はリーゼとメルに気付かれないよう、小さく溜息を吐く。
正直、見くびっていた。
墓前で決然と覚悟したからか、喪失の悲哀にはなんとか耐えられている。みんなに気を回すこともできるし、今後のことを考えられるだけの思考力もある。
しかし、この恐怖は完全に想定外だ。
殺人の反動がここまで大きいとは思わなかった。
「……ローズ、大丈夫?」
部屋に入る直前、メルから気遣わしげな眼差しを向けられた。
「私は大丈夫です、メルは大丈夫ですか? 泣きたかったら、私の胸で泣いてもいいんですよ?」
「ありがとう……ローズは優しくて、強いね」
翳りのある顔に微かな笑みを覗かせ、メルは俺の頭を優しく撫でてきた。
今の彼女にはリーゼの心療に専心して欲しいのに、俺に気を遣わせてしまった。
メル自身だって辛いだろうに……何やってんだ俺は。
「そうだよ、ローズは優しくて、凄くて……強いんだ。あたしも……もっと強かったから、一緒に戦って、あいつら殺せたのに……」
悲しみに沈んだ表情で陰々と呟き、幼狐は俺の左手を掴む手を強く握り締めている。
「……リーゼ?」
呼び掛けると、今にも泣き出しそうな、しかし微かに奇妙な光を宿した瞳を向けてきて、言った。
「ローズ、ごめんね……腕、なくなっちゃって……仕返しするときは、あたしも一緒に……戦うから」
「え、あの、リーゼ……?」
「う……うぅ、ローズ……おばあちゃん、アリア……ミーネ、サラねえ……」
不意に、可愛い顔を歪めて、涙と嗚咽を零し始めた。
メルが屈み込んで矮躯を抱き上げ、三人一緒に部屋に入る。
それからリーゼはメルの胸で泣き続け、しばらくすると泣き疲れたのか、眠ってしまった。
俺は眠るリーゼと共に、ベッドに横たわった。
この先どうなるかはクレアたちの相談次第なところが大きいが、まずはみんなが悲しみを乗り越えて、笑顔を取り戻さなければ、何事も始まらない。
俺は俺に出来ることを全力でやっていこう。
そうして、この日の夜も更けていった。
♀ ♀ ♀
翌日、姐御が来てくれた。
《黎明の調べ》ザオク大陸東支部に接触を図って間もなく、オバサンの翼人魔女に頼んだのだ。セイディを含む俺たちがディーカに出て動くのは危険なので、クレアの書いた手紙を託し、ひとっ飛びしてもらっていた。
「ローズ、お前……」
俺の虚しく垂れた右袖を見つめ、オルガは呆然と呟いた。
たしか先月で二十八歳になった凛々しい美人顔は硬く強張り、一方でダークレッドの格好良い両翼は力なく垂れ下がっている。肩先に掛かった髪や女猟兵っぽいカジュアルな服装は乱れていて、急いで来たのが一目瞭然だ。
「いや、そりゃあよ……館は荒れてたし、なんか墓とか立ってたけどよ……お前等が壮大な冗談かましてるっつー線も考えてたんだよ……」
俺たちは宿の一階にある食堂で夕食を摂っていた。
念のため裏庭で警戒しているユーハはベルと一緒に外で食事しているので、オッサン以外はルティたちも全員集まっている。幾つかの丸テーブルに別れて、各々で活気のない食事をしていたところに、慌ただしくオルガがやって来たのだ。
「だってお前……そうだろ? アリアとバアさんが……あの二人が死ぬとか……は? あり得ねえだろ、意味分かんねえっつの」
彼女は通夜ムードの漂う食堂の入口に立ち、俺たちを見ているようで、見ていなかった。不安定に揺れ動く瞳がオルガの内心を物語っていた。
震えた声が空虚に響く中、俺は席を立って彼女に歩み寄った。
「オルガさん」
「……ローズ」
オルガは力が抜けたようにその場に膝を突き、俺を抱きしめてきた。
さすがのこの人も……いや、この人だからこそ、信じがたいのだろう。
「すみません、オルガさん……お婆様たち、もう火葬しちゃいました」
「なに謝ってんだ、お前やユーハがいなけりゃ全滅だったんだろ? お前は良くやった、ちゃんと戻ってきたし、生きてる」
本当はオルガが来るまで、婆さんたちの火葬は待とうか迷った。
しかし、婆さんもアルセリアもチェルシーも、どの遺体も酷い有様だったのだ。あんな姿のままにしておくのなんて惨すぎて、一刻も早く弔ってやりたかったし、何よりオルガには見せられなかった。
見せればきっとこの人はブチ切れて、何をするか分からない。
「とりあえず……クレア、詳しく聞かせてくれ」
オルガはしばらく俺を抱きしめ続け、幾度か深呼吸をして、立ち上がった。
瞳が潤んではいるが相貌は険しく引き締まり、発した声は常より低く陰惨な響きを秘めていた。
「話は……みんなが食べ終えてからで、いいですか? オルガさんは上の部屋で少し休んでいてください」
無論、オルガが今すぐ話を聞きたいことは承知していたはずだが、クレアは敢えてそう応じていた。
姐御は急いで飛んできたはずだし、今は悲しみを堪えているはずだ。
少しの間でも一人にして、心を落ち着かせてもらった方がいい。
その後、誰もが口数少なく食事を進めていき、リーゼたちを部屋に戻してから、オルガを食堂に呼んだ。今この場にいるのは俺とクレア、ミリアとゼフィラ、そして姐御の五人だけだ。
俺たちは丸テーブルを囲んで座ると、まずはクレアが一連の出来事をオルガに話し始めた。
ここ数日、彼女の長い黒髪に艶はなく、大和撫子的な美人顔は陰暗とした翳りが色濃いが、毅然と背筋は伸ばしている。オルガ以上の巨乳は健在なものの、表情や雰囲気のせいで魅力が台無しで、しかしだからこそ未亡人的な色香がある。
無論、今の俺にはそんなエロティックな姿だろうと、ただただ痛ましく見えて仕方がない。
「……話は分かった、最悪だなクソッ。オレが魔物共の相手してるときに……」
姐御の心中は察して余りある。
せっかく苦労して真竜肝を手に入れて、アルセリアも治って、聖伐にも間に合って、全てが順調に進んでいたのだ。
にもかかわらず、それが一気に覆った。
「それで、現状はどうなんだ? いや、その前にいい加減、なんでここに鬼人がいんのか説明してもらおうか」
オルガは敵意すら籠もった非友好的な眼光で銀髪美少女を射貫いた。
対するゼフィラは平然としており、どころか微笑みすら浮かべている。
「テメェ、何がおかしい。そもそもテメェさっきから妙に機嫌良さそうだな、おい」
「フフ、突っかかるでないわ小娘。妾の前に、まずは現状を聞いた方が良いぞ。その方が円滑に話が進むのでな」
「あ? どういう意味だ」
「お主とは後ほど差しでじっくり話をしてやる故、今は言うとおりにせよ」
怪訝や懐疑を隠さずぶつけるオルガに、ゼフィラは飄々と微笑みながら応じている。なぜかこの鬼ババアは昨日の朝から急に、腹立たしいほどに上機嫌だ。
というか、俺たちに喧嘩売ってんじゃねえかと思うくらい、この宿で一人だけ生き生きしてやがる。
「ローズ、この鬼人とはどうやって出会った?」
と姐御から訊かれたので、俺は正直に答えた。
するとオルガは中性的な美貌に表出する疑惑を一層濃くして、しかし舌打ち交じりに小さく頭を振った。
「まあ、とりあえずこの鬼人は後で問い詰めるとして……クレア、この町は安全なんだな?」
「そのようです。そうですよね……ミリアさん?」
クレアがゼフィラの隣に立つ美女に目を向けた。
あまり見掛けない藍白色のセミロングヘアが特徴的な、二十歳くらいの魔女だ。非常に均整のとれた身体付きをしていて、整いすぎた顔立ちからは強気な気性が窺い知れる。
「ええ」
綺麗な紫の瞳をクレアとオルガに向けて、彼女は首肯した。
「当初、連中はあの館とディーカが転移盤で繋がっていることは知っていても、ラヴル方面と繋がっていることは知らないようだったわ」
「だが奴らはチェルシーから情報を引き出してたんだろ?」
「そのようだけど……彼女は話さなかったのでしょう。でなければディーカ側ではなく、ラヴル側から襲撃を掛けていたはずよ」
そう。
そうなのだ。
先日ミリアから話を聞くまで、俺もおかしいとは思っていた。
なにせラヴル側の転移盤は無防備なので、ヘルミーネの家を襲撃するリスクを犯す必要がない。にもかかわらず、《黄昏の調べ》の連中はディーカ側から襲撃を掛けた。
かつてリーゼたちの家族だったチェルシーという少女は、洗脳されてモニカという魔女奴隷に堕とされた。その前に拷問されて洗いざらい情報を吐かされたはずだが、連中はラヴル側から襲撃はしなかった。
それはつまり、チェルシーは喋らなかったのだ。
クレアたちの人物情報、ヘルミーネ邸や館を繋ぐ転移盤の存在など他のことは喋ってしまったのだろうが、きっと一つだけでもと死守したのだ。最後の意地だったのかは不明だが、状況的に考えて、とにかく彼女は漏らさなかったはずだ。
本当はクズを一人尋問したときに聞き出すべき話だったのだが、生憎とあのときの俺は冷静じゃなかったし、ユーハもトレイシーもそこまで考える余裕はなかったのだろう。
殺さず生かしておくべきだったな。
「けどディーカで捕まえた、あの子……ウェインが話したことで、事が判明したようね。彼より前にランドンという翼人の男性が捕まり、供述を強要されたようだけど、その方は何も話さず殺されてしまったわ」
「つまり連中は、念のためにと最後の情報収集をしたところで、ラヴル側の転移盤の存在に気が付いたと。だがディーカからこっちまで移動するには時間も手間も掛かりすぎるし、既に準備万端だったから、当初の予定通りヘルミーネのとこに襲撃を掛けたってことか」
「そのようね」
さすがというべきなのか、ミリアは聖天騎士様相手にも冷静に応対している。
彼女もチェルシー同様に魔女奴隷だったが、今では正気に戻っているので安全だ。無論、絶対とは言い切れないので、全面的に信頼するのは不味いが。
ミリアの正体はミスティリーファ・ミル・オールディアというオールディア帝国の元第二皇女らしい。彼の帝国は転生した当初の俺が過した国であり、その領土はエノーメ大陸のおよそ半分を占め、かつての隣国グレイバ王国との戦争に勝利し吸収したことで、今では世界最大の領土を誇る大国となっている。
尚、彼女が帝国の元皇女様ということはイヴと俺しか知らない。
もしかしたらユーハとベルとルティは気付いているかもしれないが、いずれにせよ、今のところクレアたちに教えるつもりはない。この事実が露見すれば確実に面倒なことになるだろうし、現状でこれ以上みんなの心配事を増やしたくはないのだ。ただ、状況がもっと落ち着いてきて、その頃にもまだミリアが俺たちの側にいるようなら、そのときはクレアに言うつもりだ。
ミリアには口外しないと言ったが、俺にとってはみんなのことが最優先だ。
「でだ、まだディーカには連中の拠点があるし、館での戦いで一人逃がしたんだよな?」
姐御が確認するように俺とクレアを見てきた。
俺は苦々しさと憎々しさを思いながらも、頷きを返す。
「ってことは、今はまだ大丈夫だろうが、いずれここも安全じゃなくなるな」
「はい。ウルリーカたちもそう判断して、既に町を移る準備を始めています」
それは初耳だった。
クレアは東支部の人たちと色々話し合っているようだが、その内容までは教えてくれないのだ。彼女からすれば、俺には何も心配させず、今は心身共に休んでいて欲しいのだろう。
「それで……ローズ。オルガさんも来たことだし、ローズがちょうどあのときに帰ってきた訳、話してくれる?」
「……はい」
今この場に俺という幼女がいる理由。
それは今まさにクレアが請うてきた話のためだ。先日、オルガが来たら話すとクレアに言ったので、今ここでぶちまけなければならない。
昔、アインさんやその神のことは口外しないと、俺は宣誓した。
もし口外すればレオナに掛けられているという加護が解けるらしく、みんなにも危害が及ぶかもしれない。
しかし、今の俺はレオナを切り捨て、みんなのことを大切にすると決断した。そして既にみんなには危害が加わっており、アインさんのことはゼフィラだって知っている。アルセリアの抗魔病は神のせいではなかったし、そもそもアインさんの言う神が実在するのかどうか、甚だ疑問だ。
俺が転生者だと知っていた件は気掛かりだが、今回の一件のせいでアインさんや神のことは信用できなくなったので、今後また危害を加えられる危険性を考慮すれば、クレアたちには明かして相談した方がいい。
「そもそもの始まりは、三年ほど前のことです……」
というわけで、俺は話していった。
初めてアインさんと会った日のことから、レオナのこと、真竜肝という治療法を教わったこと、真竜と戦えと言われたこと、アインさんが魔人族の少女(?)であることなど、洗いざらい明かした。
もちろん俺が転生者だという件は尚も秘したままだが。
「魔人だと……?」
みんな最後まで黙って聞いてくれたが、まず反応したのは姐御だった。
もたれ掛かっていた椅子から背を離すと、テーブルに肘を突いて手を組み、思案げに目を伏せている。
「訳が分からねえ……なんで魔人がローズにちょっかいかけんだ?」
「……すみません、自分でも全く分かりません」
「今回のこと、その魔人が引き起こしたのかしら……? いえ、でもローズに忠告してくれたのよね。それにアルセリアさんの抗魔病のことだって本当だったのだし……」
やはりオルガもクレアも困惑している。
しかし、当事者である俺でさえ意味不明なのだから、もうどうしようもない。
「クレア、オルガさん……今まで黙っていて、すみませんでした」
「いいのよ、ローズだって訳が分からなくて、怖かったでしょう?」
「ま、脅されてたんなら仕方ねえさ。それよりローズ、お前も気付いてるだろうが、白竜島の仮面野郎。あいつたぶんその魔人の一味だぞ」
さすがに姐御は気付いたっぽい。
先ほどから無言を貫くゼフィラは相変らず機嫌良さそうに微笑んでおり、ミリアの方は真面目な顔で姿勢良く腰掛けたまま傍聴している。
オルガは二人をちらりと横目に見た後、俺とクレアへ向けて言った。
「ローズは夜中に連れ出されたとき、いつも魔動感は反応してなかったんだよな? そして白竜島であの仮面野郎の魔法にも魔動感は無反応だった。しかもあいつ、今になって思えば、明らかにお前と俺を真竜狩りに誘導してやがった。あの転移盤が南ポンデーロ大陸に繋がってることを事前に言わなかったしな」
「はい……たぶんあの人が、毎回私を転移させてアインさんに会わせていたんだと思います」
「おい鬼人、テメェなんか知ってんじゃねえのか? ローズとは偶然出会ったみてえだが、ホントに偶然か?」
オルガは明らかにゼフィラを疑っていた。
しかし、俺にはなぜ姐御が鬼ババアを疑うのか分からない。
「小娘、お主の言わんとすることは分かるぞ」
銀髪美少女はオルガの鋭い眼光など意にも介さず、悠然と応じている。
「故に、ちょうど良い。ここらでお主と差しで話をしてやろう」
「……クレア、ローズ、ちょっと待っててくれ」
ゼフィラが一人勝手に歩き出し、オルガは僅かに逡巡を見せたが、その後を追って行った。二人は階段を上っていってしまい、俺とクレアとミリアの三人は取り残されてしまう。
「ローズさん、クレアさん、アタシは部屋に戻るわ。これからするだろう話にアタシはいない方が良さそうだし。何か聞きたいことがあれば、遠慮無く呼んで」
「ええ、ありがとう、ミリアさん」
ミリアもまだまだジークの死を引き摺ってはいるようだが、クレアよりは幾分もマシだ。
クレアの言葉に微笑みを返して低頭し、歩法一つとっても様になっている(ように俺には見えてしまう)姿が階段の向こうに消えていった。
「……クレア、これからのことですけど」
「ローズ、大丈夫よ」
優しい声音で言いながら、クレアは座る俺の身体を抱き上げてきた。そして自分の膝の上に俺を座らせると、後ろから包み込むように両腕を回し、抱きしめてくる。相変らずクレアの巨乳は最高すぎて背中が幸せだが、今は彼女の温もりの方にこそ意識を奪われてしまう。
「ごめんね、腕がなくなっちゃって。絶対に治してもらえるようにするから、それまでは辛いだろうけれど、待っててね」
「腕はいいですけど……今後、どうするつもりなんですか? もしかして、オルガさんに頼んで一緒に行動させてもらうんですか?」
姐御も聖伐があるとはいえ、現状ではそれが最も安全なはずだ。
聖天騎士団がいれば、たとえ《黄昏の調べ》が襲いかかってきても、余裕で撃退できるだろう。
クレアは俺の顔のすぐ横で、目を閉じたまま微苦笑を零した。
「そのつもりよ……ローズは本当に頭がいいわね。こんな状況でもきちんと考えられて、頼もしいけれど……お願いだから、無茶はしないでね。泣きたかったら、泣いてもいいのよ」
「はい、分かってます」
たぶんクレアからすれば、リーゼやサラと比べると、俺の様子が心配なのだろう。普通の八歳児なら、あんなことがあった後はしばらくショックで沈鬱とする。
俺がみんなのためにしっかりしようとすれば、みんなは俺の様子を案じて、逆に不安を増大させてしまうはずだ。独り善がりに頑張っても意味はないので、クレアやセイディやメルには適度に甘えて、安心させてやらないといけない。
しかし、その必要性は正直、有り難かった。
俺だって諸々の感情を押し込めているだけで、まだ完全に立ち直ったわけでも吹っ切れたわけでもないのだ。
「クレア、サラは大丈夫でしょうか……?」
俺はクレアに体側を向ける体勢となり、柔らかな腿の上に腰掛けたまま、彼女に抱きついた。
クレアは俺の頭と背中を撫でながら、自分に言い聞かせるような感じに呟きを返してくる。
「大丈夫よ、きっと大丈夫。色々あって、サラは少し混乱しているだけだから」
「……はい」
「もし、仮に……私たちのことを、思い出さなくても……」
「…………」
「それでも、サラはサラだから。また一緒に思い出を作っていけばいいわ」
仮定の話とはいえ、そう話すということは、クレアも最悪のケースは想定しているのだろう。
婆さんたちとの死別はリーゼもなんとか乗り越えてくれるだろうが、サラのことは分からない。サラは生きていて、すぐ側にいるのに、それは俺たちの知るサラではないのだ。その事実があの惨劇を浮き彫りにして、いつまでもみんなの記憶を鮮明に保ち続けるかもしれない。
「…………」
それから俺とクレアはしばらく無言で身を寄せ合い、互いの温もりに浸った。
本当に、生きていてくれて、良かった。
サラだって、生きてはいるのだ。
たとえ記憶を失ってしまっても、身体的な死よりは幾分もマシだ。
そう思いたいが……理屈で感情は割り切れない。
♀ ♀ ♀
「待たせたな」
オルガとゼフィラが戻ってきた。
が、なんだか姐御の様子が少しおかしい。
中性的な凛々しさを秘める相貌は険しく引き締まり、それでいて苦みが表出しているような、何ともおかしな感じだ。
「その……お話は、もう良いのですか?」
「ああ、一応はな。ところでクレア、今後のことだが」
二人が話した内容が気になるのか、クレアは訝しげだが、オルガは取り合わず問題を切り出した。
「クレアとしてはフリザンテの騎士団に身を寄せて、そのまま教国へ行きたいと考えてるんだよな?」
「はい。オルガさん、お願いできますか」
それは可否を訊ねるというより、確認だった。
俺はもちろんクレアも、姐御が助けてくれることを疑っていない。
それだけに、首を横に振られたときは呆けてしまった。
「いや、オレと一緒には行動しない方がいい」
「どうして、ですか……?」
「魔大陸にいる間だけならともかく、教国まで一緒に戻るのは不味い。クレア、ここは素直にシティールへ向かえ」
「シティール?」
俺は思わず疑問の声を上げてしまった。
いや、シティールという名前自体は知っている。
北ポンデーロ大陸にある有名な都市国家の名前だ。
「ローズならシティールのこと自体は知ってるだろ? 《黎明の調べ》の本部はそこにある。だからお前らはそっちに身を寄せた方がいい」
「……どうして、一緒に戻るのは不味いんですか?」
クレアは軽く深呼吸を挟んだ後、そう問いを投げた。
少し声が震えているのは予想外に対する動揺からか、オルガに対する怒りからか、あるいは現状に対する不安からか。
「どうしてもだ……つっても、納得しねえだろう。だからこの際もう言っちまうが、理由はローズのためだ」
「え、私のため、ですか……?」
「バアさんもアリアも何も教えなかったみてえだが、ローズ、お前は少し特別だ。クレアたちだけなら未だしも、教国に来れば上は絶対にお前を放っておかねえ。お前は無理矢理にでも連行されて、クレアたちとは引き離されるだろうよ」
「特別って、何が特別なんですか? たしかにローズは人一倍賢いですし、魔法力だって高いですが、それだけでしょう」
少し怒ったように、詰問口調でクレアは言う。
立ったままのオルガの隣で、ゼフィラは椅子に腰掛けて悠然と足を組むと、口を開いた。
「いいや、その小童は特別であり、異常なのだ。故にアーテル島には立ち入らぬ方が良い。こやつにとっては文字通りの鬼門なのでな」
「クレアたちもローズも、今後も一緒にいるつもりなんだろ? だったら教国には来るな、絶対にだ」
「ですから、その理由を訊いているんですっ、なにが特別で異常なんですか!? ローズがおかしいみたいに言わないでくださいっ!」
「落ち着けクレア、べつに悪い意味で言ってんじゃねえよ。お前にも分かるように言えば……そうだな、要はユリヒナのときと同じってことだ」
ユリヒナってなんだ? 人名か?
と小首を傾げる俺を余所に、クレアは眉をひそめ、オルガはおもむろに着席する。
そして場を落ち着かせるためか、姐御はゆっくりと言葉を続けた。
「あの頃、なんでクレアは……いやバアさんが、お前を魔大陸なんて辺鄙な土地に連れて行った? ローズの場合も、要はそれと似たような理由だ」
「そんな……たしかに、ローズは才能ある魔女ですけど、だからって……」
「いいか良く聞けローズ、お前の適性属性は無属性じゃなくて、空属性っつーやつだ。そして教国は空属性適性者を集めてやがる。もちろんオレも発見し次第、連れてくるよう命じられている」
「え、くうぞくせい……?」
なんだ、なんか話が思わぬ方向に進み出したぞ。
先ほどまでもそうだったが、今のオルガは一層真面目な表情をしていて、声にも一切の遊びがない。
「無属性適性者が蓄魔石で見せる魔力色は白だが、空属性は銀だ。よほど高純度の魔石でもねえと色差なんてほぼねえから、知らねえと気付かねえようなもんだ」
「あの……え? 私って無属性じゃなかったんですか?」
「そうだ、お前の適性属性は空属性だ」
今明かされる衝撃の真実。
俺って白薔薇じゃなくて銀薔薇だったのか……。
こっちの方が格好いいじゃねえか。
「空属性魔法に関してはオレも詳しくは知らねえ。おそらくは無属性の反属性であることと、空間操作系の魔法だってことくらいか」
「空間操作……?」
「そうだ、白竜島で会った仮面野郎がたぶんそうだな。さっきの魔人の話もあるし、あいつのいる教国に行くのは尚更危険だろ?」
相変らず一人だけ微笑みを湛えるゼフィラに反し、オルガは真顔だ。
話を聞く限り、姐御の説く理には納得できるのだが……。
いかんな、急な話すぎてちょっと困惑してる。
「クレア、お前だってこいつがいいように利用されるのは御免だろ? たぶん苦手属性のはずの無属性魔法だって、こいつこの歳で特級まで平然と詠唱省略できるほどの魔女なんだ」
得意魔法のつもりだった無属性が実は苦手属性だったとか……。
思い込みの力ってすげえな。
「あの、でもなんで、お婆様は教えてくれなかったんでしょう?」
「バアさん曰く、特別な才能は人を幸福から遠ざける。そしてときには無知が平穏をもたらす……とか言っていた。まあオレも概ね同意だ。魔大陸っつー辺鄙な土地なら、無駄に警戒せず気楽に生きていけるしな」
婆さんの過去話は知っているから、その気持ちは理解できた。
俺のために敢えて秘密にすることで、無用な不安感を抱かせないようにしていたのだろう。
まあ、本人としては教えてもらいたかったが。
「だが、もう状況は変わった。お前らの人相や情報は《黄昏の調べ》の連中に完全に漏れた。そして教国に行けばローズの身の安全は保証しきれねえ。だったら、《黎明の調べ》本部が直轄する町で過す方が安全だろ?」
「……話は、分かりました。さっきはすみませんでした、取り乱してしまって」
クレアは恥じるように言って、俯くように頭を下げた。
が、顔を上げず、そのままテーブルに目を落とし続けている。
その横顔は酷く不安げで、切羽詰まっていた。
「ですがオルガさん……シティールへ行っても、結局は同じなんです」
「なんだ、どういうことだ?」
「一昨日、マリリン様の訃報を魔力通信で本部のキャロリンさんに伝えました」
ん……おいちょっと待て、今なんか聞き捨てならない単語が混じってなかったか?
かなり問い質したいが、今はクレアの様子がおかしいので口は挟めない。
「あの人は私たちに本部へ来るよう言ってきました」
「なんだ、それの何が不味いんだ? たしかにあのババアはいけ好かねえが、ちょうどいいじゃねえか。もうアレから十年以上経ってんだし、お前が今更政略に利用されることもねえだろ」
「私はどうでもいいんです、問題はサラのことです」
「あ……あー、そうか、そうだったな、完全に忘れてた……」
オルガはテーブルに肘を突いたまま、片手で頭を抱え、溜息を吐いた。
しかしすぐに頭を振り、対面に座すクレアを再び見遣る。
「いやでもよ、サラは他ならぬあのババアが、バアさんのとこに寄越したって聞いたぞ? 利用する気なら、端から手元に置いておくだろ」
「シティールは浮遊双島――リベレイザとも比較的国交が盛んです。ノブラーザは閉鎖的とはいえ、王翼のことは噂として出回ってますから、翼人なら知っている人は知っています。あの都市はベイレーン内海の要衝という地理的に人目が多いですし、そもそも先方が辺境での暮らしを望ま――」
なぜかクレアが不意に口を閉ざし、膝の上に座ったままの俺を見てきた。
かと思えば、そのまま俺を抱き上げて椅子から腰を上げる。
「ごめんね、ローズは部屋に戻って、リーゼたちと待っていてくれる? 私はもう少しオルガさんと話をするから」
「…………分かりました」
頷きを返すと、クレアは俺を強く抱きしめて、俺の顔に頬を寄せてきた。
そして感じ入るように瞑目して数秒ほど頬と頬を合わせた後、オルガに一言告げて、クレアは俺を部屋まで連れて行く。
その間、様々な疑問が脳裏を過ぎっていった。
しかし、結局は何も口にせず、大人しく部屋まで運んでもらうことにした。
それが今のクレアにとっては最も良いことだと思ったのだ。
「ローズは何も心配しないでいいからね。もう誰も危ない目には合わせないから」
クレアは優しく、でも力強い声で言いながら俺の頭を撫で、階下に戻っていく。
部屋の中でリーゼたちと一緒に彼女を見送りつつも、俺は自己嫌悪に苛まれていた。
正直、未だによくは分からないが、俺の存在がクレアを悩ませているのだ。
俺が空属性とかいうよく分からん適性属性じゃなければ、きっとみんなで姐御の庇護のもと、イクライプス教国へ行けたのだろう。いや、俺以外は行けるだろうが、クレアはみんなで一緒に行動することを大前提に考えていて、それは俺も当然の思考としている。
しかし、その俺が足を引っ張っているのだ。
と、そう自分を否定したところで意味はないし、みんなも俺がそうすることは望まないはずだ。今後どこへ向かうのかの判断は、俺の知らない――俺には教えてくれない諸事情を知るオルガとクレアに任せて、俺は俺にできることをしよう。
差し当たってはリーゼとサラ、ルティとウェインの心療だ。
久々にRMCの出番だぜ。
などと無理矢理にでもアホな思考で自分を明るくしないと、笑顔を浮かべられないからな。
「リーゼ、一緒に本でも読みませんか?」
そうして、この日も俺は宿の敷地から一歩も外に出ることなく、一日を終えた。
♀ ♀ ♀
翌朝。
各々が起き出し、食堂に集まってくる。
俺とリーゼとメルは二番乗りだった。
「おはよ、三人とも」
各テーブルに配膳していた貧乳美人さんが軽快な挨拶をしてきた。
純白の翼が特徴的な彼女は口元に笑みを浮かべていて、バイタリティに富んだ内面性を窺わせる。まだ無理しているのが分かるとはいえ、その素振りは結構自然で、さすがといえる。
「おはようございます、セイディ。サラも、おはようございます」
「え、ええ……おはよう」
セイディと一緒に配膳していた小悪魔的な少女は硬さの残る声ながらも、挨拶に応じてくれた。
小悪魔と言っても、彼女はもう十一歳だ。濃紫色の翼にセイディの白翼のような羽毛は皆無で、コウモリめいた翼膜が張られている。日に焼けたような褐色肌とは対照的に、鮮麗なセミロングの金髪は淀みなく真っ直ぐに流れ、若葉色の瞳には若干の気後れと申し訳なさが見て取れる。
「サラ姉……おはよう。あたしたちのこと、思い出した……?」
「いえ、その……ごめんなさい」
「あっ、そんな気にしなくてもいいからね、サラ。焦らずに、ゆっくり思い出していけばいいから」
メルのフォローに無言で頷き、サラはテーブルに食器を置いて、厨房の方へと戻っていく。
サラが記憶喪失状態として目覚め、今日で六日目だが……。
やはりというべきか、未だに記憶は戻っていなかった。
加えて、まだ俺たちには一度も笑顔を見せてくれていない。自分のことも俺たちのことも覚えていないのだから無理もないとは思うが、今のサラを見る度に胸が痛くなる。
「もうずっと、思い出してくれないのかな……」
リーゼは獣耳も尻尾も垂らして、椅子の上に寝転がる幼い火竜を抱きしめた。
全身が銀色の鱗に覆われたそいつはまだ全長一リーギス程度と小柄で、首と尻尾が全長の半分を占めている。オルガ経由で館に届いた真竜の卵から孵り、ユーリと名付けられ、まだ半年程度らしい。
ユーリは非常にマイペースなメスで、基本的にはのんびりと居眠りに耽り、今もリーゼの腕の中で半眼のまま「キュァァ……」と欠伸を零している。
南ポンデーロ大陸のカーム大森林――そこに住まうティルテたち猫耳一家に預けてきた赤い幼竜メリアの姉妹のはずだが、体色も性格も似ていない。
「おはようございます、ローズさん。リゼットさんと、メレディスさんも」
新たに三人が食堂に顔を見せた。
温和な声でまず挨拶をしてきたのはイヴリーナこと通称イヴだ。森の木々を思わせる深緑の双翼、穏やかさの中に凛々しさを秘めた顔立ちは美人そのものだが、まだ幾分か翳りが見られる。セイディと違ってスタイルが良く、服装はきちんと整い、性格的にも外見的にもしっかりとした二十歳のお姉さんだ。
「三人とも、おはようございます。ルティ、昨日は眠れましたか?」
「……うん」
七歳の魔幼女ルティカこと通称ルティは、リーゼ同様にまだまだ元気がなかった。腰元まで伸びた長い茶髪は少し量が多く癖っ毛だが、将来有望な愛らしい顔立ちには良く似合っている。つい十日ほど前までは無表情顔がデフォだったが、今では生々しい悲哀に彩られていて、しかし真っ黒い瞳には年相応の活気など皆無だ。
「ルティ、リーゼと一緒にユーリを起こしてやりましょう。いつも寝ぼけてるみたいですから……ね、リーゼ」
「うん……ユーリ、怠け者だから」
俺はルティの手を引きつつ、ミリアとも目を合わせて目礼しておいた。
彼女は俺に目礼を返すと、イヴと一緒にメルに話しかけていた。
「ローズちゃん、おはよう」
「あ、ベルさん、おはようございます」
リーゼとルティと一緒にユーリを構っていると、今日もばっちりメイクの決まったオカマ野郎――ヒルベルタこと通称ベルが現れた。体格の良いマッチョボディと角刈めいた頭髪に反し、本来は男前な顔は化粧によって化けている。年齢は聞いても教えてくれないが、たぶん三十代半ばくらいだ。
女だらけな食堂にあって、図々しいまでに雄々しい女々しさを振りまくオンナに、俺は小さく頭を下げた。
「すみません……ベルさん。今日もユーハさんと外で食べてもらうことになりそうです」
「いいのよぉ、それよりサラちゃんの様子はどう?」
「いえ、まだ記憶は――」
不意に、小気味よい物音が上がった。
そちらに目を向けてみると、サラが青ざめた顔で立ち竦んでいた。
その足下の床には木皿と丸パンが転がっている。
「――っ」
サラは肩を震わせながら後ずさり、怯えた吐息を微かに漏らして厨房の方へ駆け去っていった。
みんなはそれを黙って痛ましげに見つめ、メルが床のものを拾い始める。
「ベルさん、後で私が持っていくので、ユーハさんと裏庭の方で待っててもらっていいですか?」
「ええ、それはいいけれど……ごめんなさい。この時間、昨日の朝はまだサラちゃんいなかったから……」
「いえ、ベルさんのせいではありませんよ。誰のせいでもありません」
ベルはシュールなまでに悄然と肩を落とし、儚げな後ろ姿を引き摺って食堂を出て行った。ロリコン野郎からすればこの状況は身につまされるし、ショックなのだろう。こうして改めてサラの現状を思い知ると、俺もショックだ。
「ベル、悪い人じゃないのに……」
「うん……ベルはいい人」
リーゼとルティの呟きがやけに大きく食堂に響いた。
あのオカマはエネアスとの戦いに少し貢献したし、何より先日にはヘルミーネの葬儀を行ってくれた。もう危なすぎてディーカには出られない俺たちの代わりに、東支部の魔女たちと一緒にディーカに行って、巨人な彼女の遺灰の一部を持って帰ってきてくれたのだ。
ヘルミーネの墓は婆さんたちの隣に作り、供養されている。
「みんなぁ、おはよぉ」
気まずい雰囲気の漂う食堂に間延びした声が響いた。
声の方に目を向けると、ダウナー系お姉さんとウェインがいる。
「ローズちゃん、リーゼちゃん、ルティちゃん、昨日はちゃんと眠れたかなぁ?」
「おはようございます、トレイシーさん。私もリーゼも、ちゃんと眠れましたよ」
「ぼくも……イヴと一緒に、眠った」
「そっかぁ。うんうん、それはいいことだねぇ」
トレイシーはのんびりと微笑みながら、俺たち幼女の頭を順番に撫でてきた。
気の抜けた炭酸めいたこの人はウェインの保護者であり、ユーハのような《黎明の調べ》の護衛だ。先日初めて会ったときと雰囲気が正反対だが、緊張感が皆無な今の振る舞いの方が通常モードらしい。
可も無く不可も無く適度に整った相貌は脱力したように緩み、そのくせ長めの髪は後頭部できっちり団子状に纏め上げられている。でもやっぱりダボッとした服装を見るに、ダウナー系の印象が強い。
とはいえ、彼女に対する第一印象は隙の無い拳士なので、どうにも俺の目には今の言動が嘘くさく映ってしまう。クレアより年上らしいが、今の彼女は全然そう見えない。
「ウェインはあんまり眠れてなくて、今日もこんな感じなんだよねぇ。ほらウェイン、ローズちゃんたちに朝の挨拶はぁ?」
「…………」
ウェインは俺をちらりと見るも、すぐに目を逸らした。
そして無言のままゾンビのような足取りで歩いて行き、椅子に座る。
「なにしてるのウェイン、そんなんじゃローズちゃんに嫌われちゃうぞぉ?」
「…………」
「ごめんねぇ、あの子ちょっと寝不足なだけだから、気にしないでねぇ」
「……はい、大丈夫です」
トレイシーは場が暗くならないように気を遣ってくれている。
一方のウェインは死んだ魚のような目で、どんよりと膝元に視線を落としたまま動かない。
リーゼやルティもまだ落ち込んでいるし、悲しみは晴れていないが、火葬した三日前より僅かばかりとはいえマシになっている。
しかし、どうにもウェインは悪化の一途を辿っている。日に日に鬱度が増しており、俺が話しかけても生返事ばかりで、今さっきは無言だった。
「まったく、あれは陰気な小童だの。男子であれば虚勢であろうと、少しはしゃきっとしてみせれば良いものを」
「ゼフィラさん……いつからいたんですか」
「さて、いつからかの」
椅子に腰掛けて足を組んでいる鬼人な彼女は何が楽しいのか、相変らず機嫌よさげに笑っている。
というか、この鬼ババア……気配消して食堂に入ってくるんじゃねえよ。
いきなり声が聞こえてきてびっくりしたわ。
長い銀髪に加えて真っ赤な瞳と生白い肌の少女がすぐ近くいたのに、全然気付けてなかった自分にもびっくりだ。
「気にすんなローズ、そのババアはお前が驚くのを見て楽しんでんだよ」
「あ、オルガさん、おはようございます」
ちょうど食堂に現れた姐御は首をコキッと鳴らし、小さく欠伸を漏らしている。最近は聖伐で忙しかっただろうし、フリザンテから急いで飛んで来てくれた挙句、昨日は夜遅くまでクレアと話していたようだった。顔色からしてもだいぶお疲れのようだが、きちんと起きてくるところはさすがだ。
あるいは婆さんたちの死を知って、一睡もできていないという可能性もあるが、その辺は突っ込まない方がいいだろう。
「昨日はクレアと今後について話してましたけど、どうするのか決まったんですか?」
「まあな、たぶん飯の前か後にでもクレアが言い出すだろ。ん? なんだ、安心しろ、お前等はこれからも一緒だ」
くしゃくしゃと俺の頭を撫でて、オルガは口元に笑みを浮かべて見せている。
真竜肝を獲りに行った頃より精彩に欠けるものの、やはり姐御は側にいるだけで頼もしく思える。
「あら、もう全員揃ってますわね」
厨房からウルリーカが顔を見せた。
獣人でも毛深い方らしい彼女は相変らずもっさりとした長髪の自己主張が激しく、割と整った顔立ちや言動は一見すると高慢な貴族っぽい。しかし実際は優しいお姉さんで、この町に来てからは東支部の魔女たちとの橋渡し役として頑張ってくれている。
「ウルリーカ、おはようございます。ユーハさんとベルさんの分、もらえますか?」
「おはよう、ローズ。もちろん良いですけど、その……」
「あ、そういえば私、持てなかったですね。あー、どこかのウェインが助けてくれないかなー?」
やや困りげなウルリーカの前で、俺は如何にもわざとらしく声を上げた。
ついでにチラチラと野郎の方を見てやる。
しかし、当の本人は無反応だ。
四年前の鬱武者を彷彿とさせる絶望顔を晒したまま微動だにしない。
というかこいつ、目の下の隈が酷いことになってやがる……。
「ローズはあたしが助ける」
代わりにリーゼが立候補してきた。
「えーっと、でも、リーゼはアシュリンのご飯を持っていかないとですよね?」
「往復する」
「それは二度手間ですし、やっぱりここはウェインに――」
と言いかけたとき、ウェインが立ち上がった。
陰鬱とした様子は変わらず、無言で俺たちの側に来て、立ち尽くす。
「よーし、じゃあ三人で行こうかぁ。ウェイン、これからもローズちゃんが困ってたら助けてあげるんだぞぉ?」
トレイシーは間抜けなまでに間延びした声で言いながら、少年の頭を撫でている。だが奴は負のオーラを湛えたまま、尚も口を閉ざし続けていた。
それから三人が食堂から出て行った。入れ替わるように、厨房で朝食を作っていたクレアも顔を見せ、朝食の配膳が完了する。
みんなは幾つか並ぶ丸テーブルに各々着席していく。
リーゼたちが戻ってきたところで、全員揃って食事を始める……かと思いきや、クレアが声を上げた。
「みんな、食べ始める前に聞いて」
俺たちが着座する中、一人だけ立っている彼女はみんなを軽く見回し、続けた。
「これからのことだけど、明日か明後日にはこの町を発つことになったわ。そして《黎明の調べ》の本部がある北ポンデーロ大陸のシティールという町に向かうわ」
やはりそうなったのか。
昨日の話は半分くらいよく分からなかったが、たぶん俺のために教国行きを断念したのだ。申し訳ないとは思うが、みんな一緒にいられる事に安心した。
「ミリアさんたちはどうしますか? よければ私たちと一緒に行くこともできますけど……」
「同行させてもらえるなら、是非ともお願いします。アタシは《黄昏の調べ》に捕まる以前の記憶がないから、帰る場所も分からないし」
元皇女様という事情のため、そういうことになっている。
だからイヴとの関係もあの夜に会ったばかりという設定だ。
洗脳されていたミリアはグレンという男に奴隷扱いされていて、ジークハルトの仇敵がその男であり、あの夜にイヴとルティを含めた四人で協力してグレンを殺した。吊り橋効果的なものもあって、まだ出会って間もないイヴとは既に打ち解けている……という訳だ。
まあ、ミリアが俺たちと行動を共にする以上、後でクレアには真実を伝えるがね。
「私もご一緒させて頂いてもよろしいでしょうか? ルティカさんのことは見守っていきたいですし、ローズさんや皆さんにはお世話になったので、できる限りの恩は返したく思っています」
「ではお二人とも、今後ともよろしくお願いします」
ミリアとイヴの申し出にクレアはそう言って目礼した。
尚、ルティは今後俺たちと一緒に行動することが端から決まっていた。
リーゼとサラ以外には、ルティが《黄昏の調べ》に育てられていた件は話してあるし、オルガという前例を知るクレアは快く受け入れてくれた。
「みんな、ここ魔大陸から北ポンデーロ大陸までは長い道のりになるわ。まだ色々と辛いでしょうけど、みんなで支え合っていきましょう」
こうして、北ポンデーロ大陸へ渡ることが決まった。
目的地は《黎明の調べ》の本部があるという海洋都市国家シティールだ。
魔女には暮らしやすい町だろうから、そこで新たな日常が送れることを願いつつ、これからの旅路を頑張らねばなるまい。
シティールに到着するまでにリーゼたちの心療を済ませて、また笑ってくれるようになればベストだ。
俺たちは朝食を摂った後、出発の準備に追われていったのだった。