第百三話 『Dies irae ~Pueritia est finis~』★
キングブル狩りをすると言ったな。
あれは嘘だ。
という簡潔な説明でみんなを納得させられるほど、俺にカリスマはない。
脱衣所を出て部屋に戻ると、まずイヴを起こし、すぐにでも出発したい旨を伝えてみた。翼人の助けがなければ早急に帰ることなんてできないからな。
「急にどうしたのですか、ローズさん」
「小童、まずはあの魔人の小娘のことを教えよ。でなければ、こやつとて納得はできまい」
「魔人、ですか?」
この鬼ババアめ、余計なこと言いやがって……。
イヴが納得できないとか方便だろ、自分が知りたいだけの癖に。
イヴなら『夢に出てきた神からすぐに帰れと言われた』という前回と同様の説明で納得してくれるだろうに、いきなりかき乱してきやがった。
「ゼフィラさん、その話は今度きちんとしてあげます。ですからちょっと黙っててください」
「む、なんだお主その物言いは」
不服そうに眉根を寄せる銀髪美少女を無視して、俺はイヴに向き直った。
翼人用の浴衣を着た格好のまま、ベッドの縁に腰掛けて、俺が口を開くのを待ってくれている。
「イヴ、前はキングブル狩りをすると言いましたけど、予定変更になりました。また夢に神様が出てきて、すぐに帰らないと家族が《黄昏の調べ》に襲われると言われたんです」
「え、《黄昏の調べ》に?」
「今は一刻も早く帰って、みんなにこのことを伝え、警戒してもらわないといけません。イヴとジークさんの目的からしても、早く《黎明の調べ》と接触できた方がいいですよね?」
「それは……そうですね」
突然のことだからか、イヴはまだ少し状況の緊急性を実感しきれていないようだ。それでも真剣な表情を見せており、俺のような幼女の話を蔑ろにしないところはさすがだが。
「では、ローズさんは今すぐにでも出発したいということですか?」
「そうなります」
イヴの瞳を真っ正面から力強く見つめ、頷いた。
そんな俺を数秒ほど見つめ返してきた後、彼女はベッドから腰を上げた。
「分かりました。しかし出発するにしても、ひとまずジーク様たちにも話を通しておく必要があります」
「はいっ、ありがとうございます、イヴ」
「いいえ、ローズさんの言うとおり、《黎明の調べ》と早く接触できそうでもありますから」
優しく微笑みを返してくれるイヴリーナさん。
この美女ほんといい人だよ。助けて良かった。
「ふむ……小童よ、今回は特別に妾が飛んでやっても良いぞ」
みんなに話をするのならルティも起こした方がいいか……と思っていると、ゼフィラが腕を組んで偉そうに提案してきた。
「でもゼフィラさんって、夜じゃないと飛べないんですよね?」
「うむ、しかし妾の飛行速度は翼人のそれより余程速いぞ」
「具体的には?」
「少なくとも三倍は出せるな」
と、彼女が俺に話を持ちかける理由が興味本位からなのは明白だ。
俺を抱えて飛び、全て正直に話さなければ落とすぞ、とか何とか言って脅してくる可能性は皆無じゃない。下手をすれば俺が転生者であることまで話させられるかもしれん。
なにせ相手はウソかホントか三千年は生きてるらしいからね。そんな人生経験豊富な人なら、上手く誘導して俺の口を割らせることも可能だろう。
「それはまた、随分と速いですね」
しかし、速度三倍ならゼフィラに頼んだ方が早く到着するだろう。
日暮れまでの時間は無駄にするが、飛行速度でチャラにできるはずだ。
「ですがイヴにお願いしますから、大丈夫です」
「ほう、妾の善意を無碍にするなど、良い度胸をしておる。詫びとして先ほどの魔人のことを話すが良い」
「だからそれは今度きちんと話しますからっ」
俺はそう言って、ルティを起こしに掛かった。
正直、俺はまだゼフィラを信用しきれていない。
館への転移盤はラヴル近郊に広がる荒野の地下に隠されているのだ。ゼフィラにラヴルで下ろしてもらい、転移盤まで一人で行こうにも、彼女には相識感めいた超感覚があるから追跡可能だし、そもそも一人で行かせてくれるとは思えない。
それに何より、婆さんが警戒していた鬼人をみんなの住まう館に連れて行きたくはない。
しかしゼフィラと違い、俺はイヴのことならかなり信用……いや信頼している。
彼女は俺に恩義を感じているし、その性格の真面目さからしても信じるに足る美女だ。イヴになら転移盤のある場所まで飛んでいってもらっても大丈夫だと思っている。とはいえ、念には念を込めて、ひとまず町で別れるつもりだが。
「ん……お姉ちゃん、おはよう」
微睡む双眸を薄く開き、横になったまま俺を見上げてくる幼女。
あぁ、可愛い、癒される。
なんだか焦っていたが、ルティのおかげで少し落ち着いてきた。
俺が焦ったところで、《黄昏の調べ》の行動は変わらないのだ。
飛ぶのはイヴだし、俺は運んでもらうだけなんだから、せめて冷静にならないと。そして少しでも早く館に戻ってみんなに報せねばならない。
「ルティ、おはようございます。起きるにはいつもよりまだ少し早いですけど、みんなに話があるんです」
「うん……じゃあ、起きる」
ルティは寝起きでも変わらぬ無表情顔で、「くぁ」と小さく欠伸を漏らしつつ身体を起こした。イヴはもう着替えを完了していて、今はリュックの中身を確認しているところだ。
俺もさっさと着替えることにした。
「……まあ、お主がどうしようと、妾は妾のしたいようにするだけだ」
着替えている最中、ふと呟きが聞こえた。
美少女然とした見た目のくせに老成した雰囲気を纏う銀髪美少女を見てみると、なぜか不敵な笑みを浮かべている。
気にはなったが墓穴を掘る可能性があったし、時間がないので突っ込まない。
俺はゆっくり急げの精神で着替え、四人でぞろぞろと隣室を訪ねる。
扉をノックすると、浴衣を着た眼帯のオッサンが出てきた。
「皆揃って、如何した」
「少し話があるので、入ってもいいですか?」
「うむ」
朝っぱらから男臭い部屋に入ると、ベルもジークも起きていた。
二人ともまだ浴衣姿だし、ベッドに腰掛けているところを見ると、どうやら俺のノックで目覚めたっぽい。
すまんね、でも緊急なんだ。
「あらやだ、アタシまだすっぴんなのに……」
どうでもいいわ、そんなこと。
俺はベルの戯言を華麗にスルーし、朝の挨拶を省略して、三人へ手短に用件を伝えた。すると、まず反応を示したのはユーハだった。
「それがまことであれば一大事である。某も共に参ろう」
「ありがとうございます、お願いします」
ユーハがいれば安心できる。
俺が館に戻ってすぐに襲撃される可能性もあるので、避難する間の防衛戦力は保険として必要だ。おそらくアルセリアはヘルミーネの家に移り住んでいるだろうが、転移盤を使わず館に直接襲来してきたりするかもしれない。
いずれにせよ、護衛剣士がいるに越したことはない。
「ローズちゃん、そういうことなら俺も一緒に行きたいんだけど、いいかな?」
案の定というべきか、ジークがそう進言してきた。
野郎は寝起きとは思えないほど表情が引き締まり、眼差しも鋭い。
なんかちょっと怖いからやめて。
「い、いえ、その、ジークさんたちはこの町で待っててください。いきなり連れて行くわけにも行かないですし」
「でも、《黄昏の調べ》が仕掛けてくるかもしれないんだろう? だったら是非とも同行させて欲しい」
強い意志の宿った瞳を俺に向け、語気鋭く言ってくる。
ジークは《黄昏の調べ》を追っているらしいから、今回の話は無視できないのだろう。俺としてもジークのことは信用しているが、ユーハのように信頼できるほどではない。だから念には念を込めて、無難に安全確実にいく。
「すみませんけど、今回は急なことですし、やっぱり連れてはいけません。私の家族に事情を説明して、事が落ち着いたら、またここに戻ってきます。ですから、皆さんはここで待っていてください」
「…………」
ジークは俺の言葉を受けて、考え込むように微かに目を伏せる。
それからちらりと横目に、腕組みして傍観している銀髪美少女を見た。
すると何をどう思ったのか、おもむろに首肯する。
「……まあ、仕方ないね。俺もローズちゃんの立場なら、ここで同行を許すようなことはしないだろうし」
「ありがとうございます、すみません」
俺は本心から頭を下げると、今度はベルに目を向けた。
「ベルさんも、すみませんけどジークさんたちと一緒に待っててくれますか。それか、ここでお別れしてしまっても大丈夫ですけど……」
「ローズちゃん、アタシも連れて行ってはくれないの? ローズちゃんなら二人を魔法で引っ張り上げていくことはできるしょう?」
「それは……そうですけど、今回はすみません。ベルさんのことを信用していないわけじゃないですけど、おいそれと《黎明の調べ》の情報は漏らせない決まりなので」
いやまあ、本当はベルなら一緒に連れて行っても大丈夫だとは思っている。
でも俺の独断では決められないし、転移盤の場所も明かせない。
それにイヴとだってラヴルで一旦別れ、そこからはユーハと二人で転移盤まで向かうつもりなのだ。
「うーん……アタシから無理強いはできないし、仕方ないわね」
ベルは悩ましげな素振りを見せるも、結局はジークと同様に頷いてくれた。
「でもオルガちゃんとの約束があるから、アタシまだ帰らないわよ。ここでルティちゃんたちと待ってるから、ちゃんと無事に帰れたかどうか、報告しに来てちょうだい」
「はい、もちろんです」
義理堅いねぇ。
もうここまで来たら約束は果たしたも同然だから、お別れしてもいいのに。
そこまで俺の心配をされると、なんだか申し訳なくなってくるな。
……まあ、ベルの場合は幼女の側から離れたくないだけという可能性も大いにあり得るが。
「お姉ちゃん、また、会える?」
ルティが小首を傾げながら淡々と訊ねてくる。
浴衣がずれて右肩がはだけており、寝癖と癖毛によって髪はぼさぼさで、あどけない無表情顔のまま見つめてくる。
なんとも庇護欲を刺激される姿だ。
俺はルティの側に寄って浴衣の着崩れを直してやると、常時携帯している櫛を取り出した。
「またすぐに会えます。たぶん十日以内には」
量の多い癖毛を櫛で梳いてやりながら、ルティに微笑みかけた。
「じゃあ、待ってる」
ルティはまだ少し眠たそうな目と感情の読み取りづらいロリフェイスでこくりと頷いた。
こんなに可愛い幼女なら、ルティから会いたくないと拒否られても、俺は会いに行くよ。しかし、また俺と会えるかどうかを訊ねたってことは、俺と一緒にいたいと思っていることを意味しているはずだ。
嬉しくて抱きつきたくなる。
「お姉ちゃん、急に、どうしたの?」
「いえ、ルティが可愛いので」
思わず抱きしめて頭を撫で撫でしてしまった。
どうやら俺は割と余裕を保てているようだ。
でなければ、この緊急事態に幼女と戯れたりはできないだろう。
「では、そういうことですので急ですみませんけど、行ってきます」
そうして、俺とイヴ、そしてオッサンの三人でサースナを出発することになった。
♀ ♀ ♀
ルティを愛でる精神的な余裕はあったとはいえ、時間的な余裕はない。
ユーハにすぐ準備を整えさせると、俺とイヴとユーハの三人で宿屋を出た。
とりあえず、まだ朝食を摂れていないので、適当に通りを歩いて露店を探す。
もう朝日は昇っているので、大通りなんかには魔物狩りへ出向く猟兵をターゲットにした店が出ているはずだ。
既にそこそこ人通りの多い道を足早に歩いていると、露店を発見したので朝飯をゲットする。フランスパンっぽい硬く長いパンに脂っこい肉がこれでもかと挟まれたワイルドなものだ。それを三人で歩きながら食べ、途中で見掛けた店で牛乳も買って栄養を補充する。
「では人目に付く前に、いきましょう」
朝飯を胃に収め、牛乳を飲み干して脆い土器製の杯を投げ捨てると、俺はイヴとユーハに向き直った。
現在地は町の外縁部に近く、人気の少ない路地だ。
まずイヴが俺の身体をベルトで固定し、俺は闇属性特級魔法〈反重之理〉を行使した。俺が美女をおんぶするように下から押し上げながら、ゆっくりと浮上していく。
十リーギスほど浮かび上がったら、今度は〈霊引〉で地上のユーハを引き上げつつ、更に垂直方向へ上昇していく。
「あの、ローズさん、大丈夫ですか? あまり上空へ上がらずとも、ほどほどで大丈夫ですからね」
「大丈夫ですよ。だから可能な限り浮上しておきます。イヴには頑張ってもらうつもりなので」
気遣わしげに声を掛けてくれるイヴに答えながらも、特級魔法と中級魔法の同時行使に集中する。
今回、わざわざ魔法で浮上しているのは、イヴの体力を温存するためだ。翼人が最も体力を消耗するのは飛び立つときらしく、特に何かを抱えて飛び立つ際はそれなりの重労働だと聞く。だから魔法の力で高度を稼ぎ、後は風を掴んで飛行してもらった方が、イヴの負担が少なくて済む。
既に蒼水期第四節で、しかもまだ朝方だから、空気がひんやりとしている。
だが、地上から離れるにつれて稜線から覗く朝日を背中からモロに浴びることになるので、少しはマシになる。
「ううむ……やはり某、高いところはどうにも落ち着かぬな……」
「イヴ、そろそろお願いします」
上昇をやめて、ユーハを一リーギスほど下で保持し、俺はイヴに頼んだ。
べつにユーハの飛行恐怖症を気遣ったわけではない。
既に地上に見えるサースナの町は模型のようにこぢんまりとした光景でしか確認できず、高度は十分に稼げている。
「それでは行きます。最初は少し落ちるので驚かれるかもしれませんが、心配しないでください」
イヴが緑翼を羽ばたかせ始めたので、俺は〈反重之理〉を解除した。その瞬間、ガクッと重力が身体を引っ張るが、落下感はすぐに収まる。
俺を抱える翼人美女は上手く風を掴んだのか、滑空するように翼を躍動させ、ラヴルのある西方へと進み始める。
「見渡す限り、今日は雲がほとんど見られません。この分なら順調に飛行できると思います」
「急いでは欲しいですけど、無理はしないでくださいね。魔物は私が魔法で潰しますから、発見したらすぐ教えてください」
「周辺の警戒は某に任せて欲しい。ローズは魔法を行使し続けるのだから、疲れるであろう。せめて魔物の発見くらいは某が受け持とう」
ユーハはちらりと俺を見上げて、力強く頷いてくれる。
四年前と比べると、お前も逞しくなったなオッサン……。
せっかくなので、お言葉に甘えることにした。
正直、船旅生活で継続的に魔法を行使することには慣れている。
だが疲れることには疲れるし、抱えられて飛行するだけでも、風に当たるので体力は削られていく。
俺は上空からの雄大かつ壮美な風景を漫然と堪能していく。本当はイヴとお喋りしたいが、俺のために頑張って飛んでくれているので、邪魔することはできない。
なので、ぼーっとしながら、思考が勝手に回るに任せて色々と考えていく。
「……………………」
今回、なぜアインさんは俺に接触してきたのか。
彼女の言葉から察するに、どうにも今回は神の使徒としてではなく、アインさん本人の意志で俺に会いに来た感じがする。以前までは夜中に会っていたのに今回は明け方だったし、普通に一人の人として感情も露わにしていた。
そもそもの話、アインさん引いては彼女の言う神とやらの目的は何なんだ?
俺に強くなれと言い、レオナを忘れず皇国へ向けて旅立てと促し、しかしそれを破ると今度はアルセリアの抗魔病を治す方法を教えてくれた。そしてキングブル狩りをしろと命じ、そのくせ急に館へ帰れと言ってくる。
アインさんが《黄昏の調べ》の動きを知っていることは……まあ不自然ではないか。なにしろ俺が転生者だと知っていたのだ。そのくせ以前は俺の嘘を見破れなかったようだから、実際のところはよく分からない。
あの人は俺にどうして欲しいのか、俺をどうしたいのか。
そこのところが完全に不透明だ。
結局のところ、アインさんや神とやらの目的が不明だから、いくら考えたところで推測にしかならない。
「ローズ、右前方に魔物である」
ユーハに言われて見てみると、明らかに翼人や野鳥ではない有翼の生物がこちらに接近してくるのが確認できる。近付かれても面倒なので、程良く近付いてきたところを適当に魔法で堕としてやった。
遠くて魔物の種類までは判然としなかったが、実にどうでもいい。
今は何がどうあれ、とにかく早く館に戻ってみんなに報せ、安全を確保することだけ気に掛けていれば良いだろう。
うん、そうだ。
アインさんの目的とか思惑とか、そういうのは後回しだ。
……いやでも、今回のこれが嘘や罠の類いではないと言い切れない以上、推測でも何でもいいから考え続けた方がいいか。
「もう訳が分からないな……」
俺は溜息を零しながらも、思考を止めずに西へ西へと運ばれていく。
突然の事態でまだ少々困惑してはいるが、少なくとも今現在の行動によってもたらされる結果で嬉しいことが一つだけある。
それは言わずもがな、早く帰れることだ。
もう半年以上、リーゼたちの顔を見ていない。
リーゼ、サラ、メル、クレア、セイディ、アルセリア、婆さん、ヘルミーネ、ついでにウェイン。
早くみんなの笑顔を見たいものだ。
しかし、もし俺の報せが遅れて《黄昏の調べ》が襲撃を開始すれば、どうなるか分からない。アルセリアと婆さんがいる以上、よほどのことがない限り大丈夫だとは思うが……万が一ということもある。
俺が報せるまでもなく、既に《黄昏の調べ》の動きに感付いて防備を整えている可能性もあるが、あくまでも仮定の話だ。ここで俺が気を抜いて報せが遅れたせいで、誰かが傷つくようなことがあれば、後悔してもしきれない。
今のところは最速の行動がとれているはずだ。
このまま気は抜かず、しかし焦りすぎず、何事もなく一直線に館へ戻れることを祈ろう。
♀ ♀ ♀
イヴは一生懸命に飛行してくれている。
翼人が誰かを抱えて飛ぶのは結構な重労働なので、だいたい一時間ごとに小まめな休息を挟む。誰かをおんぶしながらマラソンするような行為だから、あまり無茶させすぎると疲労が溜まって、逆に飛行効率が下がる。
急いではいるが、ゆっくり確実に急ぐ。
昼食は持参したリュックの保存食で済ませる。
キングブル狩りの日々を送っていたので、長持ちする食料を買っていたのだ。
水は魔法で生み出し、休息と食事を終えて出発する。
昼食をとって小一時間ほどした頃、俺は思わず大きな欠伸を零した。今朝は早起きだったし、飛行中はすることがないから暇すぎて、否応なく眠気に襲われてしまう。暢気なものだと我ながら思うが、しかしそれも致し方ないことだろう。
《黄昏の調べ》が動くのは数日中という話だし、突然のことだったので、どうにも実感が湧かないのだ。アインさんと会った朝方は危機感に煽られて緊張感を持てていたが、数時間経って冷静に状況を再認してみると、なんだかリアリティが薄れてそれほど緊張感を保てない。
頭ではヤバいと理解していても、心が追いつけていなかった。
「ぁー……ねむぃ……」
「ローズさん、大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ、です……だいじょうぶ、おきづかいなく……」
頑張っているイヴに心配されるとか、俺は何をしているんだ。
とは思いつつも、なかなか眠気は去ってくれず、うとうとし始める。
一年前なら今頃は柔らかなベッドで昼寝を堪能できていただろう。
なんだかんだいって、俺はまだ八歳児なのだ。
「……ユーハさん、私ちょっと眠たいので、しりとりしましょう!」
髪や服が風に煽られ、風の音が轟々と鼓膜を震わせる中、俺はなるべく大声を張り上げた。
すると、魔法の力で下に保持しているオッサンがちらりと俺を見上げてくる。
「む、承知した。では、しりとりの『り』から始めて……林檎」
どうやらユーハは俺の真意を察したようで、即座にのってくれた。
俺は睡魔に支配されかけている頭を必死に働かせる。
「ご……ご? ご……午睡」
「田舎」
「か、か……か……仮眠……?」
「ローズさん!?」
目の前が真っ暗になって、心地良い微睡みが全身に広がった瞬間、唐突にイヴの叫び声が響いた。
ハッとなって項垂れていた首を上げると、俺は右手で頬をつねった。
「ね、寝てませんよ、寝てま――」
「ローズさんっ、ユーハさんが!」
「え……?」
イヴが翼を大きく広げて急ブレーキを掛け、前進飛行を止めた。彼女の指差す方へと目を向けると、オッサンが単身スカイダイビングと洒落込んでいた。
パラシュートもなしにやるとか自殺志願者かよ。
「…………あ」
そこでようやく、俺は〈霊引〉を解いてしまっていることを自覚する。
「ああああぁぁぁぁっ、ユーハさああぁぁぁん!?」
急降下して追いかけ始めるイヴに抱えられて絶叫しながら、俺は〈霊引〉を行使した。為す術なく重力に引かれていたオッサン剣士の身体が虚空でピタリと停止し、次の瞬間には急激に上昇する。
すぐ近くまで引き上げると、俺は胸を撫で下ろした。
もう完全に目が覚めちまったよ。
「ユーハさん、すみません。大丈夫ですか?」
「……う、うむ」
と応じてくれながらも、俺を見上げるユーハの顔は青ざめ、額には汗が浮き出ていた。
「しかし、ローズよ……念のため、某の身体を縄か何かで繋いでもらえぬか……?」
「そ、そうしましょう」
一も二もなく頷き、とりあえずイヴに地上に下りてもらった。
それから俺のベルトとユーハのベルトを革紐で繋いで命綱とする。
「すみません、ローズさん、ユーハさん、私が気を回すべきでした。ローズさんはとても優秀な魔女ですから、安心しきって油断していました」
「否……イヴ殿に責任はない、某もローズに頼り切りで失念しておった……」
「ほんとすみません、ごめんなさい」
俺は平身低頭するしかなかった。
思えば、命綱くらいつけておくべきだったのだ。それなら万が一、俺がうっかり魔法を解いてしまっても、紐に引っ張られて落下は免れる。
イヴの飛行体勢は崩れるだろうが、すぐに〈霊引〉と〈反重之理〉を使えば問題はない。
「ユーハさん、顔色があまり良くないですけど、大丈夫ですか?」
「うむ、少々肝が冷えはしたが、問題ない……しかしローズよ、魔法を行使し続けるのが困難だと感じた場合は、すぐに申し出て欲しく思う……」
「は、はい、気を付けます」
切実に訴えてくるユーハの眼帯顔には久々に一目でそれと分かるほどの陰りがあった。未だに顔色は良くないし、どうにもヤバい感じがする。
俺たちはなんとか再び飛び上がり、ラヴルを目指して飛行していく。
しかし、俺の下で宙に浮いているオッサンの身体がかなり強張っている気がする。元々ユーハは空が苦手な節があったが、先ほどまでは肩肘張らずにリラックスできていたように思う。
それが今では緊張しているのが一目瞭然なほど全身ガチガチになっていた。
どうやら俺のせいで本格的な飛行恐怖症にしてしまったっぽい。
すまんね、ユーハ。
♀ ♀ ♀
俺のせいでオッサンに新たなトラウマが刻まれて、数時間後。
日が沈み、星々が瞬く夜空の下、俺たちは未だに飛行していた。
だが夜は視界状況が悪く、魔物を視認しづらいので、飛行する危険度が上がる。
「次に町灯りが見えたら、今日はそこで宿をとりましょう」
「私はまだ飛べますが、良いのですか?」
「どのみち今日中には着けないので、明日に備えて無理せず休みましょう」
「それが良い。夜の飛行は……うむ、身体に悪い」
ユーハの声が微妙に揺らいでいたので、たぶん暗闇の中を飛ぶことに不安を覚えているのだろう。なにせこの視界状況でユーハを落とした場合、すぐに地上の暗闇に呑まれて、俺も魔法の狙いを定めづらくなる。光魔法を併用すれば問題はないが、落下経験をしたばかりのユーハからすれば気が気でないはずだ。
いや、マジですまん、心から反省してるよ……。
それから二時間ほど経った頃、地上に無数の灯りが集う場所を発見し、町中に降り立った。まずは適当に酒場を探して夕食を食べた後、宿に入る。
ちなみに町の名前はリーパというらしく、ディーカやサースナより一回り以上小さい町だ。
「イヴ、私が揉んであげます」
「私は大丈夫ですから、ローズさんは先に寝ていてください」
俺が翼のマッサージを申し出ると、イヴがやんわりと断ってきた。
凛然としながら穏和さも兼ね備えた真面目そうな面差しに羞恥の色はなく、ただ俺を気遣っているだけなことが分かる。
「今日は朝からずっと魔法を使い続けて、疲れていますよね? 明日もまたユーハさんを落としそうになれば大変ですから、私のことは気にせず休んでください」
イヴはほんと優しいなぁ。
ジークの野郎はイヴに恋愛感情を向けていないようだが、奴の正気を疑うね。
こんなできた美女、なかなかいないぞ。
「気遣ってくれるのは嬉しいですけど、私は精神的な疲労ですから大丈夫です。イヴは肉体的にかなり疲れていますよね?」
「それほどでもないですよ、明日に引き摺るほどではありません」
ほんとかよ。
イヴは正直な人だが真面目でもあるので、自分のこととなると無理しそうなんだよな。こういう人には言い方を工夫する必要がある。
「私って小心者ですから、イヴに何かしないと心苦しくて眠れないんです。すみませんけど、私の我が侭に付き合ってください」
「ローズさん……ありがとうございます」
少し呆気にとられたように瞬きしてから、イヴは素直に頭を下げてきた。
というわけで、早速マッサージしてやることにした。
早く寝て明日に備えるために、今回は俺も遊びはなしにして真面目にいく。
胸の方はイヴが自分でできるので、俺は翼と肩を揉んでやった。
三十分ほどやってから、ベッドに入る。
今日は別々のベッドだ。
イヴも疲れているだろうから、一人で伸び伸びと寝たいだろうしね。
夜は夜で色々と考えてしまって寝付けないものかと思ったが、俺は思いの外あっさりと眠れてしまった。自分でも気付かないうちに割と疲れていたらしい。
翌朝は無理に早起きせず、一昨日までと同じ時間に起床して、しっかりと朝食を摂り、出発となった。
♀ ♀ ♀
リーパの町を出発して半日以上が経った。
既に日は没して久しいが、未だに俺たちは星空の下を飛んでいる。
「すみませんイヴ、あと少しだと思うので」
「私は大丈夫ですから、ローズさんは魔物への警戒をお願いします」
深緑の翼で夜風を掴み、イヴは俺を抱えて西へと飛び続ける。
先ほど立ち寄った町がラヴルから数時間の距離にあると分かったので、もうこのまま一気に行っちゃうことにしたのだ。月と星の位置に気を付けて方角を見誤らず、ラヴルがあると思しき方角へ進んでいく。
星空の下を飛ぶのは幻想的だが、同時に不安を掻き立てられる行為でもある。
人気はもちろん灯りもなきに等しく、天上からもたらされる双月と星々の自然光しかない。この夜空にあって迂闊に光魔法や火魔法でも使えば、魔物共に場所を報せてしまうだけなので、夜気と同化するように三人で寂しく空を行く他ない。
普段ならもうとっくに熟睡しているだろう頃。
大きな山を一つ越えた先に、大きく広がる町灯りを発見した。ラヴルはサースナやリーパ以上に大きな町なので、まず間違いなく目的の町だろう。
「おそらくアレがラヴルです。イヴ、こんな時間まで頑張って、ありがとうございます」
「いいえ、大丈夫です。ただ、もうすっかり夜も更けていますから、馬を借りられるかどうか……」
イヴは今夜泊まれる宿があるかどうかの心配をすべきなのに、俺の目的を案じてくれている。でも確かに、この時間なら宿の部屋はどうにかなっても、馬は借りられない可能性が高い。
「大丈夫です。いざとなれば走って行くので」
「そのときは某に任せよ、ローズを負ぶって駆けよう」
転移盤はラヴルの南方に広がる荒野の地下に隠されている。
本当ならウルリーカに助力を請えれば最良なんだが、俺が知っているのは転移盤の位置だけだ。情報漏洩を防止するため、ラヴルを拠点に生活している《黎明の調べ》魔大陸東支部の場所までは知らない。
この時間なら、もう今日はラヴルの宿で身体を休めて、明朝に馬を借りて出発すればいいかもしれない……とは思うが、アインさんは『数日中』と言っていた。
明確な時限が不明な以上、一秒でも早く館に戻って、みんなに伝えた方がいいはずだ。でも結構眠いから、睡魔の誘惑に負けそうにはなるが……。
「……んぁ?」
「……む」
眠気を撃退するために手の甲をつねっていると、微かに魔力波動を感じることに気が付いた。と同時に、俺の身体の下で水平に浮かぶユーハが後方を振り返りながら訝しげに呻く。
風に攫われそうになるその声を聞き届け、俺は徐々に大きくなる魔力波動に眉をひそめつつ、オッサンに疑問を投げかけてみた。
「ユーハさん、どうかしましたか?」
「後方から何やら気配が……接近してくる」
俺はイヴに抱えられているので、首を下げて上下逆さまになった視界で後方を見遣った。しかし、星々が煌めいているだけで、何もない。
いや、微妙に星の海が陰っている気がする……と思いきや、唐突に光が生まれた。
「あれは……なんだ、魔法の光であろうか?」
「どうしますか、ローズさん」
飛行速度を緩めないまま、イヴが俺に問い掛けてくる。
だが俺は半ば信じられない思いを抱いていた。
なにせこの魔力波動……ルティとジークのものだ。
たぶんルティが〈霊引〉、ジークが〈光輝〉を行使している。
「まさか……」
「ローズちゃぁぁぁん!」
本来は男らしい低い声音を裏返し、図々しまでに女々しい口調で俺の名を呼ぶ声。出会った当初は気色悪く思っていたのに、すっかり聞き慣れてしまっているオカマボイス。
俺たち三人は咄嗟に言葉が出てこなくて、それでもイヴが飛行速度を緩めるや否や、後方から迫る巨影が隣に並んだ。
「おい小娘、もっと速度を上げぬか。遅いと飛びづらいのだ、うっかりこやつらを落としてしまうぞ」
少女らしい声音のくせに、無駄に偉そうな老成した口調で宣う影。夜天から降り注ぐ淡い月光に照らされて、風になびく銀糸のような長髪が繊美な煌めきを放っている。暗闇の中で禍々しい鮮血色の巨翼をゆったりと上下させながら、小脇にジークとルティを抱えたゼフィラが俺たちと同じ高度で飛んでいた。
「なんでここに……」
「言ったであろう、妾は妾の好きにするとな」
俺の呟きを拾い聞き、臆面もなく傲然と微笑む銀髪美少女。
すると、その細腕がぞんざいに抱えている青年が光魔法を消し、申し訳なさそうに口を開いた。
「すまない、ローズちゃん。《黄昏の調べ》が関わっている以上、やはり待っていることはできなかったんだ」
「ゼフィとジーク、行くなら、ぼくも行く」
「ローズちゃんとルティちゃんが行くなら、アタシだって一人で待っているわけにはいかなかったの! ローズちゃんには迷惑かもしれないけれど……安心して、無理についていく気はないから。アタシたちはラヴルで宿をとって待っているからっ!」
ルティは淡々と言って、彼女の魔法で釣り上げられているベルは意味不明な情熱を孕んだ声を響かせる。
まさか全員ついてくるとは予想外で、俺は口を半開にしてしばし呆然としてしまう。
「待っておると言うなら、小僧は待っておれば良い。妾は小童について行くのでな」
「皆さん、いつ出発したのですか? まさか半日も掛からずここまで……?」
イヴが真っ赤な翼を凝視しながら、訝しげに問いを投げた。
ゼフィラの背中から生えるそれは翼というより、翼状の何かだ。光を反射するぬらりとした液状の質感に、並の翼人の三倍はあろうかという翼開長を誇り、イヴのように羽など一枚もない。そんな翼状の鮮血が薄い金属板のようにしなり、風を掴み、夜を切り裂いて飛行している。
意味が分からん。なんだこれ。
他の種族と比べて明らかに異質だ。実は鬼人だけ別の惑星からやって来たエイリアンだったとかいうオチなら納得できるが、これが獣人や翼人を生み出したのと同じ神様から生まれた存在とは思えない。そもそも不老不死とか鬼人だけスペックが違いすぎるし、やはり何か凄まじい違和感がある。
「出発したのは昨日の日暮れ頃だ。それからリーパで一泊して、今日も日が暮れてから出発した」
ジークのその返答を聞いて、俺は疑問を覚えた。
混乱しかかる頭をなんとか沈めつつ、野郎を見つめる。
「あの、なんでリーパで声掛けてくれなかったんですか? ゼフィラさんがいたなら、私たちがどこに泊まってたのかも分かってましたよね?」
「それは……その、なんというか……」
「フフフッ、決まっておろう小童。お主に告げれば、最悪こやつらを魔法で黙らせ、急ぎ出発したかもしれぬ。妾としては荷物が減る故、それでも良かったのだが、それはそれでつまらぬからの」
もし仮に、リーパでゼフィラたちから接触されていれば……。
彼女の言うとおり、俺は振り切ったかもしれない。
だが、ゼフィラは夜しか飛べないくせに、朝から飛んできたイヴにもう追いついている。結局なにをどうしようと、少なくともゼフィラに追いつかれる状況だけは不変だったはずだ。
「小童よ、もうラヴルは目と鼻の先だぞ。このまま小娘に抱えられて、一気に転移盤のもとまで行くが良い。妾とて無駄に朝日を浴びたくはないのでな」
この鬼ババア……最初からこの展開企んでやがったな。俺がどうしても同行させないと踏んで、同行させざるを得ない状況にしやがった。
もうここまで来た以上、ゼフィラの相識感から逃れることはできない。明朝、馬を借りて行こうが、ゼフィラも馬を借りるか最悪走ってついてくるはずだ。ゼフィラに転移盤の場所を知られるなら、イヴやジークにも知られても五十歩百歩な気はする。
今にして思えば、ゼフィラがこうして追いかけてくる可能性は十分考慮できた。
彼女の飛行速度は翼人以上で、ラヴルという明確な目的地がある以上、飛行針路は限定される。そこに相識感が合わされば、多少針路がずれたところで俺の存在は感知できるため、こうして追いつかれる。
少し考えれば予想できたことなのに、リーゼたちみんなのことやアインさん、《黄昏の調べ》などに思考を割いていて、ゼフィラのことなど気にしていなかった。
「……もうこうなった以上、仕方ないですね。イヴ、ラヴルのやや南方に進路を変えてくれませんか?」
「よろしいのですか、ローズさん」
「将来的に、イヴとジークさんは《黎明の調べ》に協力してくれるんですよね? だったら遅かれ早かれ知ることになるでしょうし、たぶん大丈夫です」
本当は今でも躊躇いはある。
でもこの状況で、イヴとジークにも転移盤の存在を秘密にするとなれば、それは俺が二人を信用していないことを強く印象付けてしまうだろう。今後の二人との関係性を考慮すれば、ここで妥協した方が信頼関係を構築しやすいはずだ。
どのみちルティは転移盤を利用することになるだろうし、ここまできてベルを仲間はずれにもできない。
「でも、皆さんをいきなり館に連れて行くと驚かれるので、まずは私とユーハさんだけで転移します。ゼフィラさんたちはとりあえず転移盤の前で待っててください」
「ふむ……それくらいならば良かろう。妾とて人心を慮れぬほど狭量ではないのでな」
ゼフィラは真紅の翼を躍動させながら鷹揚に頷いている。
どの口がほざいてんだとツッコミたいが、言うだけ無駄なので堪えた。
それから俺たちは町明かりへと直行はせず、やや左手に逸れた針路で飛行していく。例の荒野はラヴルの南方に広がっているので、もう町へは寄らずこのまま最短距離で直行する。
ただ、直行するのは良いんだが、問題が一つある。どこに転移盤へと繋がる地下への魔動扉があるのか、たぶんすぐには見つけられないことだ。
荒野は前世で言うところの、メサやビュートといった地形を成している。差別浸食によって形成される幾つもの台地は、地表から巨大な岩が突き出ているようで、上空から見ると地上が凸凹している。草木はほとんど植生しておらず、赤茶けた地面が広がっている殺風景な場所だ。
辺りはどこも似たような景色ばかりなので、記憶を頼りに見つけ出すには時間が掛かるだろう。しかも現在は夜だし、日のある時間帯よりも難儀することは予想するまでもない。
「あの灯り……なんだ? 猟兵が野営でもしてるのか……?」
荒野の上空まで来て、さあ魔動扉探しだと気合いを入れた矢先、ジークが声を上げた。野郎の指差す方を見てみると、地上の一点で二、三の灯りが揺れているのが確認できる。そしてそのすぐ側で、天で煌めく黄月と同質の光が微かに生まれ、数秒で消えた。
「え……?」
その光景を見て、激しく嫌な予感がした。
「今の光、転移盤の発する余光だの。労せずして見つかったことは僥倖だが……」
「イヴッ、急いであの灯りのところに向かってください!」
余裕のない俺の声で状況を察したのか、イヴは返事をする間もなく急行してくれる。ゼフィラも横に並んで飛び、高空から斜め下方へと一直線に向かう。
地上の灯りは光魔法のものだろうが、込めている魔力が少ないのか、遠すぎるせいか、魔動感は反応していなかった。だが近付くにつれて次第にはっきりと感じ取れるようになり、その魔力波動に全く覚えがないことを知って、不安感が強くなる。
灯りから五十リーギスほどの距離を置いて、イヴが地上に降り立った。
急いでドッキングベルトを外していると、光魔法の灯りと魔力波動を周囲に振りまく三人の男が接近してくる。彼らの後方に鎮座する巨大な岩のすぐ近くには直角に切り立った地面が確認できる。
間違いなく魔動扉だ。
「なんだお前たち、ここに何の用だ?」
十リーギスほどの距離を置いて立ち止まり、男の一人が横柄な口調で話しかけてきた。相手は三十代半ばほどの獣人で、他は翼人が一人、人間が一人で、全員が腰に剣を帯びている。
ユーハも、イヴも、ジークも、ベルも、ルティも、ゼフィラもその問いには答えず、確認するように俺を見てくる。
だが、俺には野郎共に見覚えなんてない。
つまり俺の知らない《黎明の調べ》の関係者か、あるいは……。
「……貴方たち、誰ですか?」
「質問したのはこっちだ、いいから答――む?」
ふと獣人の男が胡乱げに俺を凝視してきた。かと思えば隣に立つユーハに視線を移して、さも意外と言わんばかりに大きく両目を見張り、呟いた。
「まさか、カーウィ諸島へ行ったっていう魔女と剣士か……?」
「お前は戻って報せろっ、ここは俺たちが足止めする!」
翼人の男が叫びながら身構え、獣人の男は浮き足だったように背中を向けて駆け出す。とりあえずそいつは〈超重圧〉で地に伏せさせた。
俺は早鐘を打ち始める心臓を無視し、妙に強張る口を動かして、翼人の野郎へと渇いた声を向けてみる。
「《黄昏の調べ》……?」
「赤熱せし鏃が煌めきよ――〈火矢〉」
返答は口早に詠唱された初級火魔法で為された。
それで状況は十二分に理解できた。
まず動いたのはユーハとジークだった。
二人ともほぼ同時に鞘から刃を抜きながら駆け出し、接敵する。
ユーハは俺へと迫っていた〈火矢〉を蒼刃の一振りで掻き消しつつ、上空へ逃れようと両翼を羽ばたかせていた男に迫り、片翼を右腕ごと切り落とした。
一方のジークは抜剣した人間の男へ剣閃鋭く斬りかかり、一切の躊躇も容赦も見せることなく、喉元に刃を突き入れていた。
それらの間、イヴも腰の剣を抜いて俺の前に立ち、ベルはルティの前に立って防備を固めてくれているが、ゼフィラだけは全く動じることなく不動だった。
「目的と人数を吐け」
ユーハは跪いた翼人の男に切っ先を向け、冷厳とした威迫を放っている。
相手は僅かに臆した様子だが、左手で右腕の切断面を押さえながら、毅然とした瞳で刃と左眼を見上げて口を開いた。
「赤熱せし鏃がきら――」
詠唱は最後まで続かず、ユーハの蒼刃が首元を掻っ切っていた。
噴水さながらに鮮血を吹き出して倒れ、僅かに痙攣するも、すぐに動かなくなる。その傍らで、ジークは俺が〈超重圧〉で俯せにしている獣人の男の首元に血濡れた刃を突きつけ、ユーハと同様の問いを投げていた。
「た、頼むっ、殺さないでくれっ」
「ならば吐け、今すぐに」
二人の仲間が情け容赦なく瞬殺されたのを見て、獣人の男は完全に怯えきっている。ジークは声も眼差しも冷め切っていて、ここ三節の間では一度たりとも見せたことのない、別人のような雰囲気を纏っている。
背筋が凍るような殺気を一身に浴びる男は焦った口ぶりで吐き出し始めた。
「お、おれはただ命令されただけなんだっ、誰も殺してないし奪ってもいない!」
「目的と人数だ、言わなければ殺す」
「魔女だっ、魔女を捕らえるために襲撃を掛けたんだっ! でもおれはこっちの転移盤の様子を見るよう命じられただけで本当に何もしてないんだ!」
目眩がしたように足下がふらつく。
が、魔法は解かず、なんとか踏みとどまった。
なにせ聞き逃せない台詞を聞いてしまったのだ。
「襲撃を、掛けた……? こっちの、転移盤……?」
つまり連中はディーカから襲撃を掛けたということか?
それでこいつら三人はこっちの転移盤の様子を見に来たと?
「へ、ヘルミーネさんは……っ、巨人族の女性はどうしたんですか!?」
「殺された、けどおれじゃないぞっ、おれは何もしてないっ! 殺したのは幹部の奴だっ、竜人の女を殺ったのもそうだっ、おれは殺してない! おれなんてただの雑魚だよ、だから、なぁっ、頼むから殺さな――ぅぶぃ!?」
獣人の男は奇妙な声を漏らしながら潰れ、全身から血を撒き散らした。
だが、俺は魔法の加減を誤ったことにも、初の殺人を犯してしまったことにも、無残な圧死体の存在にも意識を割く余裕はなく、男の言った台詞が脳内でぐるぐると回っていた。
殺された、おれじゃない、幹部の奴、竜人の女を殺った、おれは殺してない、竜人の女を殺った、竜人の殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った殺った……殺った?
「え……?」
「ローズさん、大丈夫ですか? ローズさん!」
立ち尽くす俺の肩をイヴが揺さぶってきた。
ふと気が付けば、ユーハもジークもルティもベルもゼフィラも、みんな俺を見てきている。
俺はイヴの気遣わしげな顔を見て、止まっていた呼吸を再開するも、心臓は喧しく鼓動し、混乱が収まらない。
「と、とりあえず……転移盤で、館に行きましょう」
「ローズ、どうにも状況が不確かである。まずは某が様子を窺って参る故、ローズはここで――」
「私も行きます」
「いや、しかし、既に館は危険やも――」
「私も、行きます」
ユーハの左眼を見上げて、俺は努めて静かに言い放った。
そして逸る心を落ち着かせるために、大きく深呼吸をする。
「……………………」
まだ、まだ……そうと決まったわけじゃない。
あの男の言葉は嘘かもしれない。
アルセリアがそう簡単にやられるはずがない。
リーゼたちだって、婆さんがいるんだし、きっと森へ逃げ出しているはずだ。
みんなが殺されているとか……あり得ん、アホか。
そんなことあっていいはずがない。
「皆さんはここで待っていてください。とりあえず、私とユーハさんで行ってきます」
「ローズちゃん、俺も行こう。きっと転移盤の先には《黄昏の調べ》の連中が――」
「分かりました、ジークさんは一緒に来てください。でも私の側から離れないでくださいね、みんなに敵だと勘違いされると危ないですから」
焦る俺に反して、ジークは奇妙なまでに落ち着き払った仕草で首肯を返してきた。そんな野郎の様子を見ても、俺の心はざわめきが収まらず、嫌な汗が止めどなく出てくる。人を殺してしまった衝撃も持てあましており、もう何が何だか訳が分からなくて、混乱するに任せて思考を止めてしまいたい。
だが俺はこういうときの対処法を知っている。
自分を俯瞰すればいい。
今の俺は俺であって俺ではない、俺は映画の登場人物であり、現状に身を置いているのは俺ではない。俺はローズという登場人物を傍観する第三者だ。
自己催眠の如く自分に強くそう言い聞かせることで、幾分かの冷静さを取り戻した。
「イヴとベルさんとゼフィラさんは、ここでルティを守りながら待っていてください。少し様子を見たらひとまず戻ってきますから、そこらの岩場の陰にでも隠れててください」
「妾は妾のしたいようにする。小童に指示され――」
「いいから待ってろって言ってんだろっ!」
思わず叫んでしまった俺をみんながギョッとした顔で見つめてくる。
だが気にしている余裕なんてなかった。
ただでさえ状況が意味不明なのに、婆さんが警戒している鬼人まで現状に介入するのは論外だ。ジークは強そうなので未だしも、あまり大人数で行くとみんなを警戒させてしまうし、ルティの護衛もいる。
いざとなればイヴがルティを抱えて逃げられるし、ルティがベルを〈霊引〉で引き上げて、ゼフィラも空を飛んで逃げられる。
そうだ……うん、俺は冷静だ、大丈夫だ、だから早く行かないと。
視界の隅で、ユーハは背負っていたリュックをベルに手渡しているのが見えた。
俺は無言でそこに割り込み、リュックから魔剣の柄と蓄魔石を取り出す。
「……行きましょう」
蓄魔石を懐にしまいながらみんなの返事も聞かずに走り出し、片手に魔力を込めて刃を形成した。するとユーハはすぐに俺を追い越して先行し、ジークは俺の隣を併走する。
地下に下りると、壁際に設置された魔石灯の淡い光が転移盤をうっすらと照らしており、人影は見られない。
「ローズ、決して某の側を離れるでないぞ」
「分かってます」
ユーハとジークに両脇を挟まれた格好で転移盤の上に乗り、中心に突っ立つ角柱を捻って起動させる。眩い黄金光が視界を埋め尽くす前に目を閉じて、久々に味わう転移時特有の僅かな落下感めいた感覚をやり過ごす。
目蓋越しに光が薄れてきた頃合いを見計らって目を開けると、そこは見慣れた館地下の一室だった。人っ子ひとりおらず、しかし廊下へ続く扉は開きっぱなしだ。
「……………………」
俺は懐かしさを覚える前に、まず感覚を研ぎ澄ました。
しかし魔動感は無反応だ。
「誰もいない……?」
「否、上に多数の気配が蠢いておる」
「ユーハさんが先頭を、俺はローズちゃんの後ろからついていきます」
「うむ」
俺たちは警戒しつつも小走りで部屋を出た。廊下にも特に異常はなく、魔石灯の光で薄明るく照らされ、ディーカと繋がる隣の転移部屋の扉も開きっぱなしだ。
まずは一階へ向かおうとした矢先、階段を下りてくる足音、そして話し声が聞こえてきた。
「おい見ろよこれ、この魔杖、こんなデケェ魔石見たことねえよ」
「魔石の数もやべぇよ、蓄魔石だけでもどんだけあるんだっつーの」
立ち止まって警戒に身を硬くしていると、階段から下りてきたのは見知らぬ獣人と人間の男二人だった。獣人の方は立派な魔杖を肩に担いで興奮さめやらぬ表情を浮かべており、人間の方は両手で木箱を抱えて破顔している。
「ん? なんだお前ら」
「おいそこの子供、もしかして魔――」
俺の前に立っていたユーハがいつの間にか接敵しており、蒼刃を振るった。
そして返す刀で残る獣人の方を斬り伏せようとするが……遅かった。
既に俺がやってしまっていた。
〈風血爪〉は魔杖を傷つけることなく、精確に男の全身を切り裂き、一瞬で絶命させた。
なぜか、躊躇いなんてなかった。
既に先ほど、意図せずして一線を踏み越えてしまったからか、あるいは見知らぬ野郎が我が物顔であの魔杖を手にしていたからか。
俺は思考する前に特級魔法を放っていた。
「これは、婆さんの……」
ふらふらと近付いて、血の海に沈む魔杖を拾い上げる。
純白の増魔石と透明の蓄魔石、どちらも綺麗な球形の比類なく大きなもので、柄は手に馴染む握り心地をしている。床には落ちた木箱から溢れた無数の魔石がころころと転がっており、男二人の骸はピクリとも動かない。
「……………………」
婆さんの魔杖をこんな雑魚野郎が手にしていた。
それが意味する現状。
いや……いやいやいや、あり得ない。
そうだ、忘れただけだ。婆さんたちはみんなで森に避難して、魔杖は単に忘れていっただけ。もう婆さんも歳だし、うっかりド忘れすることだってあるさ。
そこを雑魚野郎が発見して持ち去ろうとしていた。
そうに違いない、そうでなければならない。
そう思うのに、俺の頭は理解していた。
ラヴル近郊との時差からして、今この館周辺の時間も既に夜中のはずだ。
この時間はもうみんな寝ているはずだ。
そこに奇襲を掛けられたとしたら?
寝込みを襲われたとしたら?
いくらみんなでも逃げる間もなく――
「ローズッ」
駆け出していた。
身体が勝手に動くに任せて、婆さんの魔杖を片手に、無意識的に〈風速之理〉を行使しながら全力で階段を駆け上がった。後ろからユーハとジークが追いかけてくるが、今そんなことはどうでもいい。
とにかくみんなの無事を確認しないと、俺たちの家に踏み込んでいるであろうクソ野郎共を一掃しないと。
その一心で一階ホールに飛び出した。
そして地下に繋がる大階段の裏から正面に回り込み、まずは二階にある俺たちの部屋へ向かおうとした。が、そこで俺の足は止まってしまった。
突然の非現実的な光景を前にして、身体も思考も停止した。
「――――」
一階ホールは夜中にもかかららず、魔石灯が点いていた。
その光に照らされて、俺の家族と見知らぬ男たちがいた。
「ララァーラァーラララーラァー」
見知らぬ爺さんが意味不明な歌を口ずさみながら、真っ赤に染まった何かへと杖を叩きつけていた。爺さんの足下は赤い水たまりで、左足は丸い何かをボールのように踏みつけている。無数の皺が刻まれ、白髪を赤く染めた何かは頭だ。
婆さんの、頭だ。
「あ、ぅ……ローズ……!」
見慣れた長い黒髪の彼女がいた。
一糸纏わぬ姿で床に横たわり、綺麗な顔を赤く腫らして、見たこともない苦悶の表情を浮かべ、俺の名を呼ぶ。手枷を嵌められ、両腕を頭の上で見知らぬ男に押さえ付けられ、巨漢の獣人に覆い被さられていた。
クレアの周りには幾人も見知らぬ男たちが立っており、今は全員が俺に視線を向けている。
「……ローズ、逃げなさいっ」
見慣れた白翼の彼女がいた。
俯せで床に横たわり、その背中を踏みつけられ、片翼を金髪の青年に掴まれている。二人の周りは血だらけで、その側に一人だけ兎めいた長い獣耳を持つ美女が小型魔弓杖と短い魔杖を持って立っていた。
いつも快活なセイディは涙の跡の残る顔に脂汗を浮かべ、焦慮の眼差しで俺を見つめてくる。
「ローズ……っ」
見慣れた獣耳と尻尾を持つ幼狐がいた。
寝間着姿に手枷と足枷を嵌められ、芋虫のように床に転がされている。一目見て分かるほどの絶望が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔に表出している。
その傍らには白い仮面を着けた長身のローブ姿が突っ立ち、金色の瞳で俺をまじまじと凝視してくる。
「……ローズ……?」
リーゼの隣には同様に枷を嵌められた紫翼の彼女も横たわっていた。
胎児のように丸まって小さく震えながらも、怖々とした様子で腕の隙間からちらりと怯えきった瞳を向けてくる。
更にその隣にはメルが仰向けに倒れており、意識はないのか、ぐったりとしたまま動かない。それは彼女の傍らに見られる幼い竜も同様で、美しい銀色に輝く全身は力なく床に投げ出されている。
やや癖っ毛な紺色の髪をした少年も床に倒れ込んでいた。他のみんなと同じように拘束され、メルと同じように動かない。
「――――――――」
俺の大切な人たちは枷を嵌められ、床に転がされている。
十数人ほどの見知らぬ男たちは全員が立っているか、座っているか、クレアを視姦しているか、婆さんの死体を貶めているか、セイディを踏みつけている。
「ぁ……あ、あ」
言葉にならない声が喉を震わせ、俺は棒立ちになったまま動けない。
ふと、いつか見た光景が想起された。
兄が奇声を上げながら俺の大事なロボットフィギュアたちを粉々に蹂躙している。俺はただ黙ってそれを見つめることしかできず、恐怖に全身が竦んで立ち尽くしたまま、指一本さえ動かせない。
大切なものを破壊し尽くされ、あとに残ったのは床に散乱した暴虐の痕跡だけ。残骸を拾い集めながら、代わりに涙を落としながら、あのときの俺は言い知れぬ哀しみを覚えていた。
そして、それ以上の怒りを感じていた。
ずっと、ずっとずっとずっと、感じていた。
兄が暴虐を尽くしている最中も、そのとき以前も、そのとき以後も、俺はいつだって腹の底で煮えたぎる怒りを抱えていた。
しかし、いつだって我慢せざるを得なかった。
兄のように振る舞うことへの忌避感と、それ以上の恐怖があった。あの理解不能な暴虐の化身と戦うことに対して、俺は死よりも恐ろしい怯えを感じていた。
怖くて怖くて仕方がなくて、いつもいつもいつだって、俺の怒りを抑え付けて放さなかった。
「あ、ァ……ア……」
リタ様の死に様も脳裏を過ぎった。
この世界で初めて目にし、実感した、圧倒的な恐怖。
何もできなかったあのときの自分。
不条理に無残な死を晒した彼女。
そして理不尽な暴威でみんなを苦しめていた男の姿。
かつての光景と目の前の光景がだぶって見えた。
ぞわりと全身が震えた。
視界が一瞬真っ白になり、真っ赤になった。
「……ァ」
俺の中で、何かがキレた。
「アアアアアァァァァァァアアアアアアァァアァァアア――――ッ!」
そして俺は奴を――奴らを、殺した。