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幼女転生  作者: デブリ
七章・黄昏編
153/203

 間話 『流転する禍福』


 ■ Other View ■



「改めてよろしく頼む、ヘルミーネ。何か気に障ることがあれば、いつでも言って欲しい」


 低頭する竜人の女性を前に、ヘルミーネは片膝を突いた格好で頭を振った。


「そんなに気にすることはない。巨人族はあまり細かいことが気にならないからな。それはあたしも変わらない」

「そうか、すまないな」


 およそ半年ぶりに会ったアルセリアは以前までと変わらず、泰然としている。

 顔色は良好で、手足の肌の色にも変わりは無く、健康体そのものだ。

 

「ところで、本当にもう大丈夫なのか?」

「ああ、とりあえずはな。しかし転移盤はもう使えないからな……こうして厄介になる次第だ」

「アリアアリアアリアーっ!」

 

 アルセリアが肩を竦めていると、開いたままの魔動扉から小さな人影が飛び出してきた。リゼットはアルセリアの身体に突進するように抱きつくと、胸元に埋めた顔を左右に振る。


「やっぱりやだっ、あたしもここで暮らすー!」

「リゼット、気持ちは嬉しいが、お前は館で暮らすんだ。ここより何倍も暮らしやすいだろう」

「でもアリアいないもんっ!」


 困ったように、それでいて嬉しげに笑い、リゼットの頭を優しく撫でるアルセリア。すると地下から今度はサラとメレディス、それにリゼットが飼っているアッシュグリフォンが現れた。


「リーゼ、アリアを困らせるんじゃないわよ」

「でも家族は一緒に暮らすんだもんっ!」

「それは……そうだけど、ここは何かと危ないからダメだって言ってるでしょ」


 アルセリアの身体に四肢を絡めて抱きつくリゼットを、サラが引き剥がそうとしている。


「《黄昏の調べ》とか知らないもんっ、今までだって何にもなかったじゃん!」

「チェルシーが殺されちゃったでしょっ!」

「この町でじゃないじゃん!」

「メルが襲われた話は聞いたでしょっ、とにかくダメなの!」


 リゼットの両足を引き剥がしたサラはそのまま足を掴んで引っ張っている。

 だがリゼットは腕だけでアルセリアの腰元に抱きつき、身体を地面と水平にしてまで抗っている。


「二人とも、ちょっと落ち着いて。リーゼ、アルセリアさんとはすぐに会えるし、たまに泊まりに来たりもできるよね。夕食だって、五日に一回はここで一緒しようってことにもなったし、それで納得しよう?」

「やぁぁぁだぁぁぁっ!」

「おいリーゼ、テメェももう八歳だろ。なに我が侭言ってんだ、アホか」

 

 ウェインが話し合う彼女らのもとへ歩み寄ってきた。

 広々とした部屋の片隅でトレイシーと共に帰宅の準備を整えていたのだが、現状を見かねたのだろう。


「アホじゃないもんっ、アホっていう方がアホなんだもんっ!」

「は? ふざけんな、お前よりは頭良いわ」

「なに言ってんのよウェインッ、リーゼはこれでもあんたの三倍は頭良いのよ!」

「いや……なんでここでサラが突っかかってくんだよ。お前いまこいつを引き剥がそうとしてんだろ」

「それとこれとは話が別でしょっ」


 どうにも収拾が付かなくなっているようだが、ヘルミーネは口を挟まない。

 皆には悪いが、こうした賑やかな光景は彼女の好むところだった。

 

 ヘルミーネはその場に胡座を掻き、アシュリンを構ってやることにした。

 大きな魔物(といっても巨人族の子供以下だが)はいつまで経っても懐いてくれず、今もこちらを見上げて身構えている。しかし一方で、その大きな背に乗り寝そべっている小さな銀竜は「キュァァァ……」と暢気に欠伸を零していた。


「リゼット、万が一があっては困るんだ。おれの方から会いにはいけないが、リゼットはいつでも会いに来てくれて構わない。槍の練習もあるからな」

「だったら一緒に暮らすのも変わらないじゃんっ」

「そうだ、一緒に暮らしているようなものだ。転移盤を扉と考えれば、ここはおれとヘルミーネの部屋だ。だから一緒に暮らしているも同然だろう?」

「あれ……? あっ、ほんとだ!」

「――きゃっ!?」


 リゼットが突然手を放したものだから、引っ張っていたサラは後ろに倒れそうになる。が、サラはメレディスが受け止め、リゼットはアルセリアが支えていた。


「ん? あっ、でもやっぱり違う! 食堂で一緒にご飯食べられないし、お風呂も入れない!」

「アシュリンに乗って、たまに帰らせてもらうさ。さっきメルも言った通り、ここで皆で食事をすることもできる。すまないが、納得してくれ」

「そうよリーゼッ、アリアだって好きで館を出て行くんじゃないんだからね!」


 アルセリアは半年前、抗魔病という病に罹った。

 件の病は魔力が原因らしいので、もう今後は転移盤を使用できない。

 今回、ヘルミーネの家に来るにあたって試しに一度だけ使用してみたが、以前までのように意に反して竜戦の纏を使うような事態にはならなかった。

 それでも身体に悪いことは確かなことのようなので、今日からヘルミーネと共に町で暮らすことになったのだ。

 

「うぅ……でもアリアいないと寂しい……」

「おれはここにいる。会いたくなったら、いつでも来ればいいさ。むしろおれも寂しいからな。会いに来てくれ」

「うんっ、毎日来るよ!」


 リゼットはアルセリアに抱きついた。しかし先ほどと違って、その抱擁は落ち着いたものだ。

 ヘルミーネが見る限り、リゼットはアルセリアのことを父親のように慕い、その影響を強く受けている。事実、三歳や四歳の頃はチェルシーのような「~だよ」といった子供らしい口調だったが、成長するにつれて「~だ」といったアルセリアのような口調が増えてきた。といっても、アルセリアの前では年相応の子供らしい言動が多いように思うが。


「んー、ようやく話が纏まったみたいだねぇ。というわけで、ワタシたちはそろそろお暇させてもらいますねぇ」


 頃合いを見計らっていたのか、トレイシーがリュック片手に近付いてきた。

 ヘルミーネは彼女とは長い付き合いだが、ここは半年ほどは生活を共にしてきたからか、そののんびりとした笑みもすっかり見慣れてしまった。

 トレイシーはウェインにリュックを持たせると、ヘルミーネの足をポンポンと叩く。


「ヘルミーネ、色々ありがとねぇ」

「いや、こちらこそ。一緒に暮らせて楽しかった」

「ほら、ウェインも挨拶して」

「なんでまた……どうせこれからも何度も会うだろ」


 と口答えするウェインだが、トレイシーに頭を撫でられると「わかっ、分かった!」と苦鳴を漏らした。

 一見しただけでは分からないが、どうにもアレは頭を握りつぶすように掴まれているらしく、以前にウェインが愚痴を零していた。


「せ、世話になったな、ヘルミーネ」

「ああ、あたしの方もな。またいつでも遊びに来てくれ」

「言わなくても来るけどな……」


 少年は照れているのか、素っ気なく頷いている。


「トレイシーもまた来てね!」

「ありがとねぇ、リーゼ。んー、やっぱり可愛いなぁ」

 

 トレイシーはリゼットに抱きつき、頭を撫で回している。

 ヘルミーネはその様子を見て思わず笑みを浮かべた。


 以前までは一人で生活していたが、転移盤で館と繋がっているのであまり寂しさは感じていなかった。四年前にチェルシーが亡くなった一件を受けて、転移盤の護衛のためにユーハが同居人となり、そして半年前からトレイシーとウェインが、これからはアルセリアと共に暮らすことになる。

 相手は自身より幾分も小さな他種族だが、誰かと一緒に生活するのは楽しいもので、ヘルミーネは今の生活が気に入っている。

 

「ところで、ローズはまだ帰ってこないのか?」


 そうヘルミーネが問うと、サラが軽く翼を羽ばたかせ、膝の上に乗ってきた。

 

「カーム大森林からの距離的に、半年くらいで戻ってくるはずだから、蒼水期第一節から第三節くらいに帰って来る……はずよ」

「最近はローズの顔を見ていないからな。あたしも早くまた会いたい」


 少しだけ生活は変わったが、ローズとユーハが戻ってくれば、元通りだ。

 二人が帰ってきたときには皆で狩りにでも行き、食事をして、色々と話を聞きたいものだ。

 

 ヘルミーネは巨人族用の広々とした家に響く賑やかな声を聞きながら、そう思った。




 ■ Other View ■



 アルセリアが館を出て行き、ちょうど三節が経った。

 良く晴れた空の下、その日もマリリンは館の裏に広がる菜園の手入れに勤しんでいた。


「ふぅ……静かじゃの」


 心地良い日差しに双眸を細め、穏やかな空気の中で一人呟いた。

 以前までなら、昼前のこの時間には中庭で武術の鍛錬が行われ、その元気な声が聞こえてきたものだ。

 しかしローズとユーハはもう半年以上も不在で、アルセリアはヘルミーネの家で暮らすようになったため、リゼットとメレディスの鍛錬は向こうで行われている。

 サラとセイディはこれまでと変わらないが、翼人の二人は館周辺に広がる森の上空を飛び回りながら鍛錬に励んでいるので、その熱気は伝わってこない。


「そういえば、もう十五年になるのかの……」


 光天歴八九六年現在、マリリンは八十三歳だ。

 ザオク大陸には骨を埋める覚悟で訪れ、館で生活を始めたが、早くも十五年の歳月が流れている。

 改めて思い返すと、なんだか妙に感慨深い気持ちが湧き上がってくる。


『おばあちゃん……わたし、人参は育てたくないよ』


 今まさに調子を確かめている作物は人参だった。

 そろそろ収穫の時期で、よく育っている。


『ふふ、チェルシーは人参が嫌いじゃからの』

『そうだよ、だからやめようよ。お芋でも植えて、みんなで焼き芋にしようよ』


 あれはまだ彼女が十にも満たない頃――セイディもサラもリゼットもローズもいなかった頃だ。人生の半分以上を聖天騎士団で過し、その後は復讐心に取り憑かれたことで戦い続けだったマリリンの人生において、畑を耕すなど最も縁遠いことだった。

 館で生活し始めた当初も、読書をしてチェルシーの成長を見守っているだけで満足していたし、金にも全く困っていなかった。

 にもかかわらず、なぜわざわざ菜園を作ろうと思ったのだったか。


『では芋も一緒に植えようかの。しかし、人参も植えるのじゃ』

『どうして……わたし食べないよ』

『自分で育てた野菜ならば、きっと美味しく感じるからじゃ。いや、あたしも実際に経験はないのじゃが』


 我ながら説得力のない言葉だったが、チェルシーは心優しい子だった。

 人参嫌いを克服させようという老婆心をくみ取ってか、渋々ながらも承諾してくれた。それから毎日一緒に水やりをし、手入れをし、収穫をして、調理した。


『この人参……なんか美味しいねっ、おばあちゃん! また一緒に植えて、一緒に収穫しようね!』


 その満面の笑みはマリリンの記憶に色濃く残っている。

 チェルシーはサラという妹ができると、一緒に野菜を栽培していた。

 リゼットには歩き始めて間もない頃から、土遊びの一環として野菜を育てさせていた。結局、サラは今でも赤茄子嫌いだし、リゼットも野菜全般を好まないが。

 

「なんだかんで、色々あったの……」


 マリリンは人参の葉の様子を確かめながら、そっと一息吐いた。

 が、その直後に思い直すように頭を振る。

 

「いかんな……昔を懐かしむなど年老いた証じゃ。それに独り言など、余計にだの」


 とはいえ、アルセリアと別居することになったせいか、どうにも最近は感慨に耽る機会が増えていた。

 まさかこんなことになるなど、館で生活し始めた当初は思いもしなかったのだ。


「マリリン様」


 畝の間を歩いて近付いてくる女に目を向ける。

 長く艶やかな黒髪を微風に揺らし、普段と変わらず温和な雰囲気を纏っていた。彼女の護衛役に反して、クレアの物腰は出会った頃からほとんど変わっていない。


「まあ、色気は相当についたようじゃが……」

「あの、何か言いましたか?」

「ん……いや、何でもない。クレアはどうかしたのかの」


 マリリンの問いかけに、クレアは小さく頭を振った。


「いえ、昼食の準備が粗方済んだので、何か手伝えることがあればと」

「そうか。しかし大丈夫じゃ、あとは水をやるだけだからの」

「手伝います」


 そうして二人で魔法を駆使して、畑に水をまいていく。

 畑の面積は館一階とほぼ同程度だが、半分は土を休ませているため、何も植えられてはいない。

 水やりは間もなく終わった。


「やはり、リゼットたちがいないと静かじゃの」

「そうですね。ですが、昔はこんな感じでした」

「うむ……そうじゃったな」


 作業を終えたマリリンとクレアは軽く言葉を交わし合いながら、どちらからともなく畑の脇に設置してある休憩用の長椅子に腰掛けた。

 マリリンは予め用意しておいた杯で水を飲み、それをクレアに手渡すと、律儀に礼を述べて受け取り、紅唇を付けて艶めかしく喉を上下させる。


「ふむ……クレアはやはり結婚する気はないかの」

「な、なんですか、突然」


 少々の戸惑いを見せるクレアに、マリリンはのんびりとした口調で応じた。


「いやなに、お前さんももう二十六じゃろう。いつまでもセイディと乳繰り合っておるわけにもいくまい。女同士では子は成せぬぞ」

「えっと、その、それはなんといいますか……」


 クレアにしては珍しく、しどろもどろになっている。

 真正面からセイディとの事を指摘したからだろう。

 セイディは未だしも、常識人であるクレアは己のしている事が普通ではないと強く自覚している。


「いや、責めるつもりはないのじゃ。ただ、どう考えておるか、一応また聞いておきたくての」

「私は……以前にも言いましたけど、結婚とかそういうことは考えられないですね。子供ならリーゼたちがいますし、そもそも相手もいませんから」


 相手がいないとは言うが、クレアほどの女ならば二十代半ばを過ぎようと引く手数多だ。昔から町ではよく声を掛けられていたし、その気になればいつでもできただろう。


「そうか、まあ無理にするものでもないしの。子供たちがおって、夜の生活にも満足しておれば、結婚する気もおきぬよな」

「は、はい……」


 クレアは恥じ入るようにやや背を丸め、頬を淡く紅潮させて俯いている。

 肌寒い風と温かな日差しを同時に受けながら、彼女の肩をマリリンは気安く叩いた。


「思い返せば、クレアがそうなるのも仕方のないことかの。たしかセイディが来たのは……お前さんが十六の頃じゃったか?」

「そうですね」

「ちょうど年頃にあやつと親睦を深め、その翌年にサラが来た。男を求めぬようになっても無理はないの」


 マリリンがおかしそうに、苦々しそうに顔の皺を深めると、クレアも微苦笑を零していた。そして当時を思い出すかのように、遠い眼差しになって森の木々を見つめた。


「私としては、リーゼの件が大きかったのだと思います。出産に立ち会って、首がすわる前から私たちで育てることになりましたから。そこでもう私の母性は満たされてしまったのでしょう」

「リゼットといえば、アネットの奴、全く姿を見せぬの。あやつの言うとおり、期待させぬよう母親は死んだと告げたが、結局リゼットには生きておると教えてしまったしの……てっきり数年で戻ってくるものと思っておったのじゃが、今頃どこで何をしておるのやら」

「私も、せいぜい五年以内には戻ってくるだろうと思っていました。ですが、もう八年です。きっとあの人は、もう戻ってこないでしょう」


 クレアの言い様には複雑な感情が絡んでいた。

 酷く悲しげに嘆くようでありながら、冷たい怒りで突き放すような一面もあり、その内心はマリリンにも理解できた。

 

「仮にアネットさんが戻ってきて、リゼットを引き取ろうとしても、私は反対します。もうあの子は私たちの子です。事情はどうあれ、彼女はリーゼの側にいられたのに、そうしなかった」

「まあ、あやつが戻ってきたときの話は戻ってきたときにすれば良いか。リゼット本人の気持ちもあるし、アネットともここで共に生活しても良いのじゃ」


 マリリンが宥めるように言うと、クレアは強張っていた肩から力を脱いて、「そうですね……」と小さく頷いた。

 生みの親より育ての親とはよく言うが、それはなにも子供の側ばかりではない。リゼットとサラの教育はマリリンもアルセリアもセイディもチェルシーも含めて皆で行っていたが、最も献身的だったのはクレアだ。

 もはや彼女にとって、リゼットとサラは元より、ローズのことも実の娘同然に愛していることなど、マリリンでなくとも手に取るように分かる。だからこそ、半年前もローズの出発には断固として反対していたのだ。


「そういえば、ローズは今頃なにをしておるのかの。何事もなく、きちんと帰路に就けておると良いのじゃが」

「ユーハさんが一緒ですから、大丈夫だとは思いますが……だからこそ心配でもあります。四年前、二人は全くの他人であったリーゼやセイディのために、厄介事に首を突っ込んでいました。また何事かに首を突っ込んで、巻き込まれていないか思うと、とても不安になります」


 クレアは愁眉を潜めて、静かに嘆息している。

 その感情はマリリンも同感だったが、しかしそれ以上の憂慮していることがあった。


 マリリンは四年前、唐突にチェルシーとの別離を余儀なくされた。

 共に町へ出向いたクレアたちはともかく、館で待っていたマリリンには結果だけを告げられたのだ。

 今度はローズの死を報されるのではないかと考えると、胸が苦しくなる。

 しかし、ローズが行くのを止めなかったのだから、その不安は甘受して苦しまねばなるまいと、マリリン自身は思っている。


「もう……誰も失いたくはないの」

「マリリン様……」


 物憂げな呟きにクレアも同調し、しんみりとした雰囲気になった。

 辺り一帯は静かなもので、風に揺れる木々の葉音と小鳥のさえずりが穏やかな空気に響いている。

 しかし唐突に、マリリンは掌を打ち合わせた。


「いや、やめじゃ、辛気くさくなっても仕方がない」

「そうですか? たまには良いと思いますけど」


 クレアは冗談交じりに応じて微笑んでいる。

 そんなに彼女に、マリリンはからかうように口元の皺を深めた。


「まあ、若いうちはそうじゃろうて。クレアもセイディも若さを持て余し、二日に一度は楽しんでおるようじゃしの」

「えっ、ぁ……それ、は……」

「あたしも口うるさく言うつもりはないがの、節度だけは弁えておくれ。お前さんら、この間など夜中に風呂場でしておったじゃろう」


 クレアは端正な面差しを朱に染めながらも、驚愕に両の目を見開いている。

 その漆黒の瞳にはマリリンの楽しげな顔が写っていた。若者をからかうのは老人の特権だと言わんばかりに、意地の悪い笑みをしている。


「気付いたのがあたしじゃったから良かったものを、子供たちに見られたらどうするつもりなのじゃ? 特にサラは鋭いところがあるからの。まだ気付いておる様子はないが、このままではいずれ感付かれるぞ」

「それは……はい、善処します……」

「うむ、既に成人しておるメレディスならば未だしも、リゼットたちはまだ幼い。クレアとセイディの関係を知れば、そういうものなのだと妙な倫理観が身につきかねん。以前のリゼットはなんとか誤魔化せたが、サラやローズはそうもいかんじゃろう」

「はぃ……」


 クレアが羞恥に身を縮まらせる様は子供たちの前ではまず見せない姿だ。

 俯いているので長い黒髪が横顔を隠し、表情は定かではないが、同性から見ても楚々として美しく、それでいて愛らしい女だった。

 マリリンが男なら、たとえ八十過ぎの老境だろうと放ってはおかないだろう。


「ところでクレアよ。前々から聞いてみたかったのじゃが……」

「な、なんでしょう……?」

「外でするというのは、どういう感じなのじゃ?」

「――――」


 かつてないほど驚き、戸惑い、困惑し、そしてトマトの如く首元や耳まで真っ赤にして絶句している。

 老婆はそんな若者の様子を前にして、くつくつと笑みを零した後、頭上に目を遣った。


「ふむ、噂をすればじゃな」


 青々とした空には純白と濃紫色の翼がそれぞれ舞っており、こちらに近付いてくる。クレアも顔を上げて翼人二人の姿を見ると、マリリンから逃げ出すように立ち上がった。


「セイディ! サラ!」

「お姉様っ、どうしたんですか? お出迎えですか?」


 セイディは綺麗に着地してクレアに走り寄り、気持ちの良い笑顔で話しかける。相変らず快活な振る舞いは眩しいまでに晴れやかで、そろそろ二十五歳になるとは思えない。


「あれ? なんか顔赤いですけど、どうかしました? もしかして風邪ですか!? マリリン様っ、解毒魔法を――」

「いいからセイディッ、違うから少し暑いだけだから!」

「今日ってそんなに暑くないわよね……? むしろ涼しすぎて少し肌寒いくらいだと思うけど」


 サラは訝しげな顔でクレアを見上げているが、当人は余裕がないのか気付いていない。セイディの方はクレアの言葉を真に受けてか、近くに氷塊を作り出して涼をとらせようとしている。


「サラ」

「おばあちゃん、畑の手入れは終わった?」

「うむ、サラは今日も鍛錬を頑張ったようじゃな」


 片手に提げている剣を鞘に収め、サラはマリリンの座す長椅子に腰を下ろした。

 そしてクレアとマリリンの顔を交互に見比べて、「何かあったの?」と小首を傾げている。


「いや、ただ雑談しておっただけじゃよ」

「そっか」

「それにしても、クレアとセイディは本当に仲が良いの。サラは二人を見て、どう思う?」


 クレアは心配するセイディの相手に忙しいようで、マリリンの声は聞こえていないようだ。

 二人は氷塊の前で楽しげに話し合っており、問いを受けたサラはきょとんとした顔で二人とマリリンの顔を交互に見遣る。


「どうって、いつも仲良いわよね」

「そうじゃな、仲が良い。互いに深く心を許し合っておる」

「クレアとセイディは歳が近いし、そのくせ性格が逆だからかしら? わたしもローズともっと仲良くなりたいわ」


 ローズが館を出て行ったとき、サラは事前に相談してくれなかったことで落ち込んでいた……と、メレディスから相談されたことがある。

 だからマリリンはサラのその台詞を額面通りに受け取った。


「そうか、うむ、優しいサラならば大丈夫じゃろう。さて、そろそろリゼットたちも戻ってくる頃じゃろうし、中に入ろうかの」


 マリリンは立ち上がり、笑顔で頷くサラと共にクレアとセイディのもとに歩み寄っていく。

 戦い続けの人生を送っていたマリリンは子供の機微を敏感に察することができない。サラの笑みが普段と少々毛色の違うものであったことに気付けなかったことは、マリリンの老婆心にとって良いことなのか悪いことなのか。

 おそらくそれはマリリン本人にも分からないだろう。

 



 ■ Other View ■



 蒼水期第四節に入って間もなく。

 すっかり日の暮れた夜天では星々が瞬き、地上では篝火が揺らめいている。

 既に子供は寝ている時間だが、大人たちの一日はまだ終わらない。むしろこれからが本番だと言わんばかりに、特に男猟兵たちは酒場や娼館、賭場に繰り出していく。


「たまには一人もいいか……」


 夜のディーカを一人歩きながら、翼人の男は低い呟きを零した。

 四十過ぎの齢に見合った面貌には良くも悪くも渋みが見られ、そのくせ足取りは軽快だ。人好きしそうな雰囲気を纏い、彼は賑やかな大通りを歩き、一軒の酒場に入った。


「おう、ランドンじゃねえか、らっしゃい」


 カウンター席に腰掛けると、猥雑な店内の雰囲気に負けない声で挨拶される。

 ランドンは酒場の主に軽く片手を挙げ、挨拶を返した。


「どうも、相変らず繁盛してますね」

「おう、おかげさまでな。今日はお前一人か?」

「ええ、たまには。あ、いつもの頼んます」


 カウンターテーブル越しに話す店主の男は既に齢六十を超えている。だが元猟兵ということもあって、とてもそうは見えない屈強な肉体の持ち主で、その気性も衰えを知らない。彼はランドンに「あいよっ」と返事をして、まずは手早く飴色の蒸留酒を一杯差し出される。


「あの眼帯の小僧は最近どうしてんだ? ここ一期以上、ちっとも姿見てねえが」

「あぁ、オラシオさん? 彼はちょっと前線の方の町まで行ってましてね。なんでも更に強くなりたいから修行してくるとか何とか……ははっ、いやぁ真面目ですよあの人は」


 戯けたように片手で頭を掻いて、ランドンは杯を傾けた。

 それに対し店の主は太い腕を組んで、息子に対するような口ぶりで応じる。


「お前もちょくちょくこんなとこ来てねえで、小僧を見習ったらどうだ? 女ってのはな、強い男に惚れるもんなんだ。もうお前四十過ぎだろ? そろそろ嫁の一人や二人迎えたらどうだ」

「やだなぁ、親父さん、所帯持ちは俺の性に合いませんよ。一人でフラフラしてる方が楽ってもんです」

「なーに言ってんだ、男なら女を囲う甲斐性くらい見せてみろや」


 と雑談していると、こんがり焼けた魔物肉がテーブルに置かれた。

 店主とは対照的な小柄な女性はにっこりと微笑むと、自分の仕事に戻っていく。


「といっても、親父さんは甲斐性ありすぎですけどね。四人も嫁さんもらっておいて、あんなに綺麗な娘さんまでいるとか、頭が下がりますよ」

「あいつはやらんぞ」

「いえいえ、いりませんよ」

「なんだとおいっ!?」


 ランドンの背後には幾つもの丸テーブルが並び、八割方は埋まっている。

 そのほとんどが猟兵のようで、荒々しく下品な言葉が飛び交っており、賑々しいを通り越して騒がしい。だが店主の一喝で店内は一瞬、水を打ったように静まり返り、視線がランドンの背中に突き刺さった。


「あ、いや大丈夫です、おかまいなく……」


 ランドンが笑って誤魔化すと、客たちは何事もなかったかのように、再び騒ぎ始める。かつて歴戦の猟兵として慣らした酒場の主は現役の者たちから父のように慕われ、恐れられているのだ。


「そういえば娘といやよ」

 

 そして小さな一国一城の主もまた、先の一幕を気にした風もなく、思い出したように言った。


「なんです? また娘自慢ですか?」

「それもいいが、ランドンお前、何年も前に可愛い嬢ちゃん連れてきたことあったろ? たしか……あの耳の長い獣人の子だ」

「あー、そんなこともありましたっけね……」


 しみじみと頷き、ランドンは串に刺さった魔物肉を一口頬張る。肉自体は決して美味しいとは言えない安物だが、調理が上手なのか、味がしみ込んで旨い。

 たしかあのときもこの肉を食べたのだったと思い出すと、食べ慣れた串焼きが妙に懐かしい味に感じられた。


「あの子どうしたっつったけか?」

「引っ越したんですよ、エノーメ大陸の方に」

「お、そうだったな。いやお前、あのときは驚いたぜ、おれはよ。まさかお前の趣味が十歳そこらの小娘だったのかってよ」


 愉快そうに笑みを零す馴染みの店主に対し、ランドンも笑みを作って同調した。


「はは、違いますよ、俺の好みは妖艶な色香の漂う大人な女性です」

「そりゃお前だけでなくみんな大好きだっての」

「オレも大好きだぜっ」


 ふと背中の方から声がして振り返ってみると、一人の男が立っていた。

 見るからに巨漢だ。背丈は並の男たちより頭一つ高く、そのくせ横幅も広く、全身が筋肉に鎧われている。獣人でも特に毛深い方のようで、髭や胸毛が濃く生えそろっている。


「おう、らっしゃい、見ねえ顔だな」

「最近この町に来たばっかなもんでな。おうオヤジ、一番強え酒頼むぜ」


 巨漢の獣人はランドンと椅子一つ空けた隣にドカッと腰掛けた。

 思わず椅子が壊れるのではと危惧しかけたほど豪快な動きだったが、木の軋む音が微かに鳴っただけだ。


「この町はなかなかいい女がいねえな。おうアンタ、おすすめの娼婦とか教えてくんねえか?」

「娼婦ですか? いや、おれは娼館とか行かないんで、なんとも……」

「なんだ、お前まさか不能なのか?」


 豪放さの窺える威勢の良い声で言いながら、巨漢の男はランドンの皿から串焼きを一本かすめ取った。

 当然のような動きに圧倒されて文句の言葉も出ず、ランドンは苦笑を返した。


「なんでそうなるんですか、普通は嫁がいるとか考えるもんでしょ」

「ガハハッ、なに言ってんだボケ、嫁と商売女は別モンだろ。ハメ慣れた穴にばっか突っ込んでも人生楽しくねえだろが」

「おうっ、その通りだ小僧! 男ってのはな、ヤった女と酒の数だけ強くなんだよ」

「あとはぶっ殺した数だなっ!」


 巨漢の男は剛気に笑って、店主から差し出された杯を一気に傾けた。外見的にも性格的にも、この酒場にいるどの猟兵より、腕っ節も酒も強そうだった。


「お、いい飲みっぷりだなっ、お前名はなんてんだ?」

「オレはグレンだ。おうオヤジ、この酒、瓶ごとくれ。あとは適当にツマミ頼むぜ」

「あいよ」

 

 巨漢グレンは早速酒瓶に口を付けると、喉を上下させていく。

 半分ほどを一気に飲み干すと、気分良さそうに荒く息を吐き、ランドンに目を向けた。


「おう翼人のアンタ、ちょっと聞きてえんだけどよ」

「なんですか?」

「翼人ってのはよ、翼なくなったらどう思うもんなんだ?」


 突然の問いに意味を判じかねていると、グレンはまたしてもランドンの皿から串焼きを取り、咀嚼しながら続けて喋った。


「いやな、仕事仲間に翼人がいんだがよ、そいつの翼もがれちまってねえんだよ。オレらはクロクスからここまで翼人に運ばせたんだが、そいつは地上から行くっつって聞かねえんだよ」

「それはつまり、飛べない翼人なのに、人に抱えられて空を飛ぶのが嫌だからってことですか?」

「あぁ、たぶんそうだ。あいつ無駄に自尊心高いからな。でだ、クロクスからこの町までって、地上から行くと結構掛かんだろ? 飛べば数日で着くってのに、意地張って一人だけ馬で来るってんだ。お前アホかっつの、ふざけんな、テメェ抜きで仕事始めんぞボケ!」


 最後の方は愚痴になりながらも、男はぺろりと肉を平らげて、強い酒を水のように飲んでいる。だがランドンとて、荒くれ者の多い酒場に常連として来ているだけあって、グレンの振る舞いには早々に順応した。


「まあ、翼人としては、その人の気持ちは分からないでもないですよ。俺たちにとって翼ってのは足みたいなもんですからね」


 それは本心からの言葉だった。

 十年ほど前、ランドンは魔物との戦いにより、片翼を失ったことがある。

 挙句の果てに命を落としかけたが、ある少女のおかげで一命を取り留めて魔女たちと知り合い、翼を取り戻すことができた。

 半年ほど前には八歳になったばかりの子が仇敵と同種の魔物を討ち取ったと聞いたときには、魔女の精強さを再認したものだ。


「はぁん、足ねえ……だがよ、足がなくなったら車椅子とか馬とか乗るもんだろ。アンタも翼なくなったら、誰かに抱えられて飛ぶのは嫌か?」

「うーん、どうでしょう、状況次第ですかね」


 無難に答えたランドンの隣で、グレンは「状況ねぇ」と不満そうに零している。

 そこに店主の娘が現れて、カウンターテーブルの向こうから酒のツマミを差し出した。が、グレンは皿には目を向けず、好色な目で娘を見遣っていた。


「お、なんだ、なかなかいい女じゃねえか」

「おいこら小僧、うちの娘に手出せばただじゃおかねえぞ」

「ガハハッ、見た目の割りにケチくせえオヤジだな。女ってのは突っ込まれた数で磨きがかかんだよ。ま、突っ込まれすぎてもガバガバになってダメになるがな!」


 店主の娘も猟兵たちの相手は慣れているはずだが、相手が父より大柄な男だからか、怯えた様子でそそくさと去って行く。

 グレンは尚も下品に笑っており、店主の方は恐ろしい形相で睨んでいる。

 面倒だったが、これ以上の面倒を避けるため、ランドンは話を逸らさせることにした。


「そういえばグレンさん、さっきの話からすると、この町には猟兵として来たんですよね?」

「ん? まあ、そうだな、狩りは女とヤるより面白いからよ」

「けど、この町の周辺にはそんなに強い魔物はいませんよ?」


 ちらりと店主の様子を確かめながら問うと、グレンは毛深い顔をにやりと歪めた。実に楽しげで、夢見る子供ような笑みだ。


「いやいや、お前、ここらにはいい獲物がいるらしいんだなこれが」

「へえ、そんなのいましたっけ? 親父さんは心当たりあります?」

「さあな」


 店主は憮然と応じ、高い酒を出すときにだけ使う銀の杯を磨き始めた。子煩悩な彼が娘のことで虫の居所が悪くなると、いつも決まって同じ事をし始める。


「オレも今日ちょっくら偵察で遠巻きに見て来たんだがよ、アレはヤベえな。もう身震いするぐれえヤバい、身体が硬くなってしばらく目が離せなかったくれえだ」

「なんて名前の魔物ですか?」

「ハッハァ、それはな…………秘密だ!」


 いかん……とランドンが思ったときには時既に遅し、店主の額に青筋が浮いていた。

 グレンはそれを気にした風もなく、一人だけ興奮した様子でツマミを食べながら話し続ける。


「だがまあアレだな、黒いな、そしてデカい! アレで何人の野郎がやられたのか分かんねえくらいだ……あ、ヤベ……思い出しただけで興奮してきた」

「……どうやらよっぽど狩り好きみたいですね」

 

 グレンの膨らんだ股間部を横目に見ながら、ランドンは呆れた声で呟いた。

 戦いを生業にする者たちはあまりの強敵に出くわしたとき、興奮から一物を隆起させる男もいる。そういう輩は決まって命知らずな戦闘狂であり、強敵を狩った後は娼館に直行する。

 猟兵の町の常識に染まったランドンはグレンをそうした類いの男と見なしていた。


「あー、なんか無性にヤりたくなってきた。もうあの野郎抜きで始めちまうか……? だが旦那が黙ってねえだろうし、いやでもジジイを焚きつけりゃ……」


 グレンは股間部を盛り上げたまま、なにやら呟きを零すが、結局は舌打ちして酒を呷る。それから無言で銀杯を磨く店主へ目を向け、気さくな様子で声を掛けた。


「なあオヤジ、ここって特別給仕とかねえのか?」

「……うちは酒飲んで騒ぐだけの店だ」

「おいおい嘘だろ、あんないい女がいてよ。まさか一見の客はお断りってやつか? この際もう口でもいいからよ、とにかく突っ込まねえと収まりつかねえんだよ」

「あー、グレンさん、冗談もその辺で……」


 店主の纏う空気が非常によろしくないものに変質したのを敏感に察知し、ランドンはなんとかグレンを落ち着かせようとする。が、毛深い巨漢の獣人は辛抱堪らん様子できょろきょろと店内を見回し、店主の娘で視線を止めた。


「おーいっ、そこの女、オレちょっと特別な注文し――」

「出てけェッ、このボケ野郎!」 


 とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、店主が怒声を張り上げた。

 六十過ぎとは思えない迫力でカウンターテーブルを叩き、己以上の偉丈夫を睨み付ける。


「なんだよオヤジ、急に大声出し――」

「うっせェぞクソ野郎ッ、今すぐ出ていかねえとドタマかち割んぞゴラ!」

「それよりオレは今すぐ出して玉を空にしてえんだがよ」

「おいこらランドンッ、今すぐこいつ連れて出てけッ!」

「えっ、なんで俺が!?」

「いいからこいつを連れ出せっつってんだろ! テメェおれ言うことが聞けねえってのか!?」


 娘のために怒る店主は人の話などろくに聞かないことは前例から既に知り得ている。以前も娘に粉を掛けようとした命知らずを叩きのめしたこともある男だ。

 ランドンは素直に従うことにした。


「はぁ……グレンさん、ほら行きますよ」

「あん? なんでだよ、オレはまだ――」

「いいからいいから、特別給仕してくれる酒場紹介してあげますから」

「んだよ、仕方ねえな」

 

 憮然とした様子ながらも、グレンは立ち上がった。

 当然のように股間部は盛り上がったままだが、本人は気にした風もなく尻をぽりぽり掻きながら出入り口へと歩いて行く。

 他の客たちは馬鹿を見る目でグレンを遠巻きに見遣るだけで、からかいの言葉を掛けようとはしない。そんなことをすればランドンのようにとばっちりを食らうと知っているからだ。 


「おいランドンッ、今日の分はテメェのツケだからな忘れんな!」

「……はぁ……最悪だ」

「おう、なんか奢ってもらったみてえで悪いな」

 

 全く悪びれた様子のない男と共に店を出て、星空の下に立ち尽くす。

 今日は一人でのんびりと飲もうと思っていたら、これだ。


「で、その特別給仕してくれる店ってのはどこにあんだよ」

「もう素直に娼館行くか街娼がいしょう捕まえたりすればどうですか……?」

「今日は酒場で飲みてえ気分でもあんだよ。これも何かの縁だ、付き合えや」


 気安くバシバシと背中を叩かれ、ランドンは無駄に気疲れしたまま通りを歩き始めた。

 歓楽街の方を目指して移動する中、ちらりと横目に巨漢の様子を窺ってみる。

 

「しっかし、なんだな、魔大陸の町ってのもなかなかいいもんだな。いい女は多いし、町の雰囲気はオレ好みだ」


 所々に篝火の焚かれた明るい通りには猟兵風の男たちが多く練り歩いている。女の猟兵は散見される程度で、他には客引きの街娼を見掛けるくらいだ。

 グレンは大男なので目立つのか、早速その色女に声を掛けられる。

 が、彼は立ち止まらず胸を鷲掴んで一揉みし、すれ違っていった。


「随分と手慣れてますね……」

「そうか? あー、うるせえな、あの女。減るもんじゃなし、自分から誘っといて何なんだ、ったく」


 背後から聞こえる情婦の文句に対して舌打ちし、鬱陶しげに批判する。

 彼とは今夜限りの付き合いにしようと、ランドンは強く思った。


「あん……?」


 そろそろ娼館や賭場、特別給仕が可能な色酒場の建ち並ぶ一画に立ち入ろうというとき。

 ふとグレンが立ち止まり、性格の滲み出た荒々しくも粗雑な面貌をしかめた。

 

「どうかしました? 目的のお店はもうすぐですけど」

「いや、なんでもねえ。いちいちオレが注意すんのも面倒く――」

「あーっ、変態なにしてるんですか変態ー!」


 突然、底抜けに明るい声が耳朶を打ち、ランドンは通りの先に目を向けた。

 むさ苦しい男たちやあざといまでの色香を振りまく商売女ばかりが見られる人通りの中で、こちらを指差す若い女がいた。周囲の雰囲気に溶け込んでいないその獣人は一直線に走り寄ってくる。


「んだよ、テメェ人のこと大声で変態とか言ってんじゃねえぞ、馬鹿女が」

「なんでですかー、ホントのこと言ってるだけなのにー! 今だってズボンそんなに膨らませて……うわホントに変態だーっ!」


 容姿は十代後半ほどだが、声や口調は無邪気な少女のようだ。薄紅色の頭髪と同色の短毛に覆われた長い耳は右側だけ半ばから垂れ、それが妙な幼さと愛らしさを思わせる。

 ランドンは突如として現れた目の前の女を前に思考が停止し、硬直した。


「あー、クソ、面倒くせえな……テメェなに一人で出歩いてんだよ、マジで馬鹿か。旦那に待機って言われてただろうが」

「だってずっと引きこもってるなんて息が詰まりますしー」

「アホかボケ、テメェの存在が連中に伝われば色々台無しになんだよ。散々言われてただろ馬鹿が、いいからテメェさっさと帰っとけ」

「馬鹿じゃないですー、ワタシだってちゃんと考えてるんですー。だからちゃんと夜中まで待ってから散歩してるんですー!」


 両手に腰を当てて、自慢げに胸を張る獣人の女。腿の半ばまで隠れた長い靴下に、丈の短いスカート、上衣と上着は薄手の軽装そのものだが、暗色系のものばかりだ。たしか彼女は明るく柔らかな色合いの服を好んでいたはずだが……。


「お、お嬢……」

「ん?」

 

 思わず呟きを零すと、獣人の女は今その存在に気が付いたといった様子でランドンに目を向けた。それから隣に立つ巨漢に視線を戻し、更にランドンを見る。

 彼女はそれを三回ほど繰り返すと、「うへぇ」とでも言いたげに顔をしかめた。


「さすが変態、男の人でもいいだなんて……しかも同い年くらいのオジサン相手に……」

「さすがはテメェだ、馬鹿女。オレはケツ穴掘る趣味なんざねえっての、相手が女なら別だがな」

「うわーっ、皆さんこの人変態ですよ変態!」


 人通りの端で無邪気な子供のように騒ぐ獣人の女。

 その振る舞いはランドンの記憶にある彼女の姿と全く似通ってはいなかったが、顔立ちも線の細い身体付きも瓜二つだ。アレから四年経てばこうなるといった姿で、いないはずの者が目の前にいた。


「お、お嬢ですよね……? その耳、その顔、間違いない」

「……おいおい、もしかしなくても、こいつ知り合いかよ」


 隣でグレンが何事か呟いていたが、今のランドンには些事だった。

 かつて刃翼怪鳥と称される魔物に片翼を切られ、墜落し、生死の境を彷徨っていたランドン。一人当てもなく助けを求めていた声を、彼女が獣人特有の鋭敏な聴覚で聞き届けたおかげで、彼はアルセリアたちに助けられた。

 その後も多々世話になり、四年前急にいなくなった心優しい命の恩人……忘れるはずがない。


「んー? オジサンってワタシと知り合い?」

「オジサンって……俺ですっ、ランドンです! お嬢っ、生きてたんですか!?」

「はぁーあ、せっかく酒飲んで一発かましていい夜になると思ったのによぉ……おい馬鹿女、テメェが調子乗ってっから面倒なことになっちまっただろうが」

「えー、ワタシのせいですか? 変態の人が連れてきたんじゃないですかー」


 グレンは心底面倒臭そうに、彼女は変わらず脳天気な明るい調子で話し合っている。会話の内容は理解しかねたが、とにかくランドンは彼女の方へ一歩踏み出した。と同時に、腹部に重たい一撃がねじ込まれ、あまりの衝撃に意識が飛びかけた。


「か――は、ぁ……」

「お? まだ意識あんのか。じゃ、もう一発」


 膝を突いて嘔吐くランドンの首元に、逞しい腕が振り下ろされた。

 その一撃で今度こそ彼は意識を失う。

 グレンは脱力した翼人の身体を「よっこいせ」と背中に担いだ。


「あーあー、ったく、テメェこんなとこで酔い潰れやがってよー」

「うわー、すごい白々しー棒読みー」

「元はといえばテメェのせいだろうが。クッソ、こりゃ雷光王様に貸しだな」


 愚痴りながらも、成人男性一人を負ぶったグレンは悠々と歩き始める。

 その姿を咎めるものは通りに一人もいない。

 グレンは腹部へ拳を叩き込む際も、延髄に手刀を打ち下ろした際も、その巨躯で通行人の目を巧みに遮っていた。


「おら行くぞ馬鹿女、テメェ今日こそハメまくってやる」

「そんなことしたらワタシも容赦しませんよー!」


 毛深い大男と耳の長い女の獣人二人組は真夜中の通りを歩き、気絶した翼人の男と共に歓楽街の奥深くへと消えていった……。




 ■ Other View ■



 リゼットとサラの二人は眠りに就いている時間。

 館と繋がる転移盤から、マリリンにクレア、セイディ、メレディスの四人が現れた。ヘルミーネとアルセリア、それにトレイシーの三人は彼女らとの挨拶もそこそこに、七人で話し合いを始める。


「して、ランドンの行方は分からぬままかの?」

「はい。幾つか情報は集めてみたんですけど、行方までは……」


 と、申し訳なさそうにマリリンの問いに答えたのはトレイシーだ。

 彼女は普段と然程変わらぬ様子のまま、やや間延びした声で続けた。


「四日前の夜、ランドンさんは一人で馴染みの酒場に行っていたようですねぇ。そこでグレンという猟兵風の大男が店主の不興を買ったそうで、そのとばっちりで一緒に店を追い出されたとかぁ。彼の目撃証言はそれが最後のようで、その後は不明ですねぇ」

「そのグレンとかいう猟兵野郎のことは?」

 

 セイディが情報を催促するも、トレイシーは頭を振った。


「獣人で、かなりの巨漢だって話くらいしか分からなかったよぉ……この町には体格の良い獣人なんて山ほどいるしねぇ」

「ランドンは何も言わずいなくなるような男じゃない。やはり、きっと何かあったんだろう」


 床に座って話を聞いていたヘルミーネが小難しい顔で口を挟んだ。

 するとクレアも同意するように頷く。


「彼が一人で狩りに行くことはあり得ないですし、そのグレンという男性と何かあったと考えるのが自然でしょうね」

「あー、まだ関係ありそうな情報があるから、聞いてもらえるかなぁ」 


 トレイシー以外の六人が無言で先を促すと、彼女は淡々と話を続けた。

 といっても、それは声音に感情を出さないだけで、口調は相変らずだ。


「ランドンさんの行きつけの酒場だけど、そこの店主と娘さんの一人まで行方不明らしくてねぇ」

「え? それっていつから?」

「まず娘さんの方だけど、こっちは三日前、買い出しに出て行ったきり戻らなくなったそうだよぉ。で、その次の日に店主さんが心配して探しに出て行ったっきり、まだ戻ってないとかぁ」


 全員、しばし考え込むように沈黙した後、まずアルセリアが口を開いた。


「たしか先ほど、グレンという者が件の店主の不興を買い、ランドンもそのとばっちりを食らったと言っていたな。具体的にはどういったことが原因だったんだ?」

「なんでも、そのいなくなった娘さんに大男グレンが粉掛けるような言動をして、店主さんが怒ったとかぁ。で、ちょうど近くに座ってたランドンさんに、店主さんがその不埒者を店から追い出すよう言ってぇ……それとグレン某の代金はランドンさんのツケになったとかなんとかぁ」

「つまりランドンは完全にとばっちりで、理不尽な目に遭ったのじゃな」

 

 マリリンの確認にトレイシーは頷きを返した後、セイディが呻くように言った。


「その腹いせで店主と娘を攫って……とかはないか」

「あやつはそんな男ではない」 

「じゃあ、その、グレンという獣人の人が犯人なんじゃ……? それでランドンさんはその人の何かを知ってしまって、同じように……」


 メレディスは恐る恐るといったように曖昧な物言いをする。

 しかし全員、言わんとするところは分かった。


「そもそも酒場の一件とは無関係ということもあり得る。だが話を聞く限り、何らかの関連性はありそうだな」

「ランドンさんの性格を考えれば、加害者ということはないでしょう。おそらくはグレンという人が何かを起こし、それに巻き込まれたのでしょうね」


 アルセリアとクレアの意見に、他の面々は同意するように首肯する。

 だがそこでセイディが思案顔をトレイシーに向けた。


「色々推測はできるけど、情報が足りないわね。トレイシー、そのグレンとかいう奴のこと、もっと調べれば分かりそう?」

「いやぁ……どうかなぁ、今日調べた限りでは全然掠らなかったからなぁ」

「そいつ実は黄昏の連中の一員で、ランドンに近付いたって可能性もあるわよね? 連中の一員なら、簡単に調べた程度じゃ情報なんて出てこないでしょうし」

「ふむ、それもあり得るの。メレディスの件からこっち、特に何事もなく平穏なものじゃったが……」


 マリリンのその言葉に、メレディスは反射的に二年前を思い出し、表情に影を落とす。

 それを見たヘルミーネはおもむろに口を開いた。


「リーゼたちに何かあってからでは遅い。ランドンのことは心配だが、やはり別の町に引っ越した方が良くはないだろうか?」


 二年前、メレディスの件があった頃、転移盤を別の町に移動させるという案が上がったことがある。巨人であるヘルミーネならば運び出すことも可能なので、彼女ごと町を移ってしまえば、ディーカに潜んでいるはずの《黄昏の調べ》の脅威からは遠ざかることができる。


「でも巨人の引っ越しって目立つから、絶対感付かれるわよ。それに四年前の件で、アタシもお姉様もリーゼもローズも、面は割れてるはずなのよね。だからミーネのことも関係者だって知られてるはずだから……ねえ? お姉様?」

「そうね、メルのときに別の町に引っ越していたとしても、私たちの人相は割れているはずだから、別の町で生活し始めてもすぐに感付かれる。だからこそ四年前も二年前も引っ越さなかったのだけれど……ヘルミーネの言うとおり、一度別の町に移ってみるのもいいのかもしれないわね」


 クレアが意見を求めるように、マリリンとアルセリアの顔を見遣る。

 すると、まずは竜人の彼女がそれに応じた。


「とりあえずは様子見が良いだろう。ランドンが無事に帰ってくることもあり得るし、今はまだ今回の件を更に詳しく調べ、慎重に状況を把握する必要がある。三節経っても行方知れずのままならば、引っ越してみるのもありだろうな」

「あたしもアリアとほぼ同意見じゃが、しかし転移盤の運搬には不安が残る。もし人気の無い街道で襲撃でもされれば、奪取されかねん。まあ、引っ越すかどうかはともかくとして、今は様子見で良いじゃろう」


 マリリンが全員を見回しても、反対の声は上がらない。

 代わりに、メレディスが小さく手を上げた。


「あの、その間、リーゼたちはどうしますか? また私のときのように、町には出さないようにするんですか?」

「昼間、大通りを散歩するくらいにさせるのが良いと思う。おれとクレアかセイディの二人がついていれば、大丈夫だろう」

「うむ、それで良いじゃろう。ただ念のため、狩りは控えさせようかの」

「アタシもそれでいいと思います。メルのときはちょっと警戒しすぎましたし」

「今回は……私もそれで賛成です。サラとリーゼを不安にさせたくはないですし」


 セイディとクレアに続いて、メレディスとヘルミーネ、トレイシーも同意した。

 ひとまずの方針が固まったところで、クレアは隣に立つトレイシーに声を掛ける。


「それじゃあトレイシー、大変だろうけれど、情報収集はお願いね。何かあれば手伝うから、そのときはきちんと言うのよ」

「うん、でもウェインのことを見てくれるだけで十分だよぉ」


 普段通り緊張感のない表情のトレイシーだが、声音には少々のやる気が込められている。

 クレアはそれを感じ取って、この場の誰よりも長い付き合いの彼女に微笑んだ。


「トレイシー、いつもありがとう」

「いやぁ、お礼を言われることじゃないよぉ」


 謙遜する素振りもなく、トレイシーは至極当然のことのように言い切る。

 実際には恐縮していたのだが、それを面に出せばクレアが困ることは承知しているので、トレイシーは普段通りの態度を貫いていた。


「では、解散としよう」


 マリリンの一言でその場はお開きとなり、トレイシーは自宅へと戻っていき、クレアたちも転移盤で帰っていく。

 残されたヘルミーネとアルセリアは就寝の準備をし、その日は何事もなく終わった。



 

 ■ Other View ■



「いってきます」

「はい、いってらっしゃい」


 蒼水期第四節日、早朝。

 今日も今日とて普段通り、ウェインは日課の走り込みに出掛けた。

 ひんやりとした朝の空気の中を無心に駆けながら、横手に広がるアクラ湖の煌めきを眺める。朝日に輝く湖面は毎日見てもなかなか見飽きず、ウェインはいつも通りの道を消化していくが……


「ねーねー、キミキミー」


 不意に呼び掛けられて、ウェインはおもむろに駆け足を緩めた。

 湖畔通りに幾つも点在する長椅子の一つに腰掛けて、長い耳をした獣人の女性が真っ直ぐに見つめてくる。

 ウェインは彼女から数リーギスほど離れたところで立ち止まり、念のため周囲を見回して他に人影がないことを確認した。


「……俺のことか?」

「そーそー、キミキミー」


 朝一番からリゼットのような底抜けに明るい声を向けられる。

 薄紅色の髪をした女性は二十歳手前ほどを窺わせる整った容姿をしており、しかし邪気のない眼差しや呼び掛けの声、右耳だけ半ばから垂れた姿は少女のような未熟さが目立つ。そのせいで年齢不詳な感を抱かされるも、相手は見るからに非力で人畜無害そうな女性だったので、ウェインは言葉を返した。


「なんだよ、何か用か?」

「うん、ちょっとお願いがあってねー」

「お願い?」


 ウェインが訝しげに眉根を寄せると、獣人の彼女は暢気に笑いながら頷いた。


「実はねー、さっき走ってたら足首捻っちゃったんだ。もう痛くて歩けなくてね、困ったなー、どうしよーかなーって思ってたところに……ちょうどキミが通り掛かったのでーす!」

「……それで?」

「おんぶっ……はキミじゃ難しそうだから、家まで肩貸してくれないかなーって」


 笑顔でそう告げる女性は全く困った風には見えない。

 ウェインはしばし逡巡した。

 ここでお人好しよろしく彼女に手を貸せば、帰宅するのが遅れる。きちんと理由を説明すれば、トレイシーも怒らないはずなので、その点は問題ないが……。

 見知らぬ女性を素直に助けてやろうと思えるほど、ウェインは純真ではない。


「うぅ、痛いなぁ……誰か優しい男の子が助けてくれないかなぁ……」


 少年が黙考していると、女性はわざとらしく呻き始めた。長椅子に座ったまま右足を抱えて、膝下まで覆う長い革靴の上から足首をさすっている。

 おかげで短いスカートから下着が覗き見えており、ウェインはその小っ恥ずかしい光景に耐えかねて、反射的に返事をした。


「分かったっ、肩貸してやるからさっさと行くぞ!」

「おぉー、キミ優しーね、ありがとー。ワタシの名前はモニカ、キミは?」

「……ウェインだ」


 大人なのか少女なのか判然としないモニカの下半身から目を背けながら、憮然とした声で名乗り返す。

 ウェインはそのまま無言で近寄り、女性に肩を貸してやった。といっても、まだ九歳のウェインは上背がないので、モニカの杖代わりといった形になる。


「家はあっちだよー、さー出発だー!」

「ほんとに怪我してんのかよ……あんた元気すぎだろ」


 少々釈然としなかったが、ウェインは杖代わりとなって、獣人の女性と共に一歩一歩進んでいく。何事か話しかけてくるかと思われたが、彼女は歩き始めてからは口を閉ざし、黙々と足を動かしている。歩きづらいから集中しているのだろうと思って、これ幸いとばかりにウェインも無言になった。


 湖畔通りから町中の方へ入り、モニカの「あっち」という指示に従い、人気の無い路地を歩いて行く。が、しばらく進んだところで行き当たった十字路から一人の男が姿を現し、その巨躯で道を塞いだ。

 ウェインは剣呑な空気を感じ取り、十リーギスほど手前で足を止める。


「ハッハァ、馬鹿女でも仕事はしっかりできたか」

「当然ですー、ワタシ馬鹿じゃないんですから」


 モニカはウェインから身体を離し、何の支えもないまま難なく自立する。

 

「いやぁ、ごめんねーウェイン、実はワタシ何ともな――」


 ウェインは機敏な挙措で身体を反転させ、駆け出した。

 一秒でも早くこの場を離れることが最善であると、少年は冷静に理解していた。


「ありゃ、ウェイン走るの速いねー」

「走るのっつーか判断が早かったな、迷いがねえ」


 背後から聞こえる暢気な声を振り切るように、ウェインは一直線に伸びる路地を駆ける。しかし、突然視界の端で光が瞬いたかと思いきや、腹部を強い衝撃が襲った。少年は己の身体にめり込む足先を呆然と見つめ、背後に吹き飛び、背中から倒れた。


「キミたち、何を突っ立ってるんだい? 少しは追いかけなよ、もし逃げられたらどうするんだい?」

「お前の役目をとっておいてやったんだよ」

「エネアス様なら逃がさないと思ったのでー」

「ぅ……か、ぁ……」


 苦しみのあまり、ウェインは上手く呼吸ができなかった。

 腹部に受けた不意打ちは全力で走っていた自らの勢いもあってか、トレイシーからも入れられたことがないほど激烈に響き、立ち上がろうにも立ち上がれない。

 どころか途切れそうになる意識を繋ぎ止めるのに精一杯だった。


「そもそもよ、こんな簡単な仕事は下っ端連中にやらせればいいんだよ、面倒くせえ」

「ここまできて失敗したら馬鹿らしいでしょ」

「こんな時間にオレを起こしやがって……あー眠いなチクショウ。こちとら昨日はあの姉ちゃんの特別給仕で寝不足なんだぞ……」

「うわぁー、この変態ホントに拉致監禁な変態ですよエネアス様!」


 ウェインの霞みゆく視界に、金髪の青年の姿が映った。口元に静かな笑みを湛え、足下に転がる自分には見向きもせず、誰かと話している。

 

「もう失敗は許されないからね。四年前の雪辱は確実に果たすよ」

 

 陰々かつ悠々とした声が決然と言い切るのを聞いた直後、ウェインの意識は途切れた。


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