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幼女転生  作者: デブリ
七章・黄昏編
152/203

第百二話 『せめて、人らしく』

 

 心地良い微睡みが晴れ、ゆっくりと目蓋を開けた。

 鎧戸の隙間から差し込む光は柔らかく、薄暗い室内は穏やかな寝息だけが微かに響いている。隣に眠るルティの寝顔は相変らず最高に可愛らしく、特に普段と変わったところはないが……。


「あれ……?」


 なんだろう……なんか変な夢を見ていた気がする。

 どんな夢だったのか思い出す間もなく、霧が大気中に薄れて消えていくように、夢の残滓は記憶に溶け入ってしまう。 


「……………………」


 夢のことを思い出せないときって、なんか妙にモヤモヤするものだが、今回は特にそういう感じはしない。むしろ不思議なくらい心が軽やかだし、頭も冴え冴えとして、非常に気分が良ろしい。

 つまり悪夢ではなかったはずなので、特に気にする必要はないだろう。


「可愛いなぁ」


 ベッドを共用している幼女の顔を見つめた。

 起きているときは無表情で何を考えているのかよく分からず、あまり七歳児らしくないが、寝顔は年相応だ。あどけない目元に掛かった癖毛の髪を指先でそっと払ってやると、「ぅ、ん……」と声を漏らしてむず痒そうに身じろぎする。

 やはり幼女は最高だ。


 ずっと見続けていたいところだが、生理現象には抗えないので、俺は温かなベッドを抜け出た。まず大きく伸びをし、ひんやりした早朝の空気に身震いしつつ、イヴとゼフィラの寝顔を覗き込む。

 イヴは穏やかな表情で、ゼフィラは……なんか死人っぽい。

 二人とも顔立ちは整ってるから、綺麗なことに変わりはないが。


 普段はイヴが一番に起きているが、俺は夢のせいで早起きしてしまったのだろう。三人を起こさないよう静かに部屋を出て、宿の廊下を歩き、トイレに行く。


「……そういえば、もうすっかり慣れたなぁ」


 この世界に転生した当初は排尿行為が無性に恥ずかしかった記憶がある。

 それが今では当たり前のようにしている。

 人間の適応力パネェな。


 その後、部屋に戻ろうと思ったが、温泉に行くことにした。

 思い返せば、この町に来てから一人でのんびりと風呂に入った記憶がない。

 ここは温泉宿なので、宿泊客はいつでも入れる。

 掃除は真夜中に行われるらしいし、綺麗な風呂場でリラックスしよう。


 タオルは脱衣所に置かれているので、部屋には戻らず直行する。

 温泉は三つあり、屋内に男湯と女湯、外には混浴の露天風呂だ。

 俺はまだ露天風呂に行ったことがない。

 まだ八歳とはいえ、男に全裸を見られるのは嫌だからな。


「よし、いないな」

 

 脱衣所から浴場を覗いてみると、誰もいなかった。

 俺はそそくさと服を脱ぐ。ちなみに服は浴衣で、宿が貸し出してくれている。

 全裸になると、念のため〈幻彩之理メト・シィル〉を行使しながら外に出る。


 まだ紫がかった空の下、寒さに震えながら周囲を入念に見回した。一応、露天風呂は三リーギスほどの壁で隔離されているが、この世界には翼人がいる。

 空からなら覗き放題なのだ。

 が、混浴なら一緒に入って堂々と見るだろうし、誰も覗かないか。


 魔法を解除して簡単に身体を洗い流し、温泉に浸かった。

 やっぱ露天風呂は解放感が違うね。

 この広い湯船を独占して、のんびりできるっていうのは凄い贅沢だ。


「あ~、気持ちぃ~」

 

 思わず深い吐息と共に呟きを零す。

 ここ数年はいつも誰かしら側にいて、一人になる機会が全然なかった。前世ではいつも一人だったから、改めて考えてみると、なんだか感慨深くなるな。


 今日は宿で一日のんびりする予定だ。

 一昨日は野宿で、昨日の夕方に帰ってきたので、少し疲れている。

 宿でごろごろして、好きなときに温泉に入って、美味しい料理を食べる。

 最高だな。


 貸し切り状態なので、少し遊んでみることにした。

 水属性上級魔法〈浮水之理メト・ティア〉を使い、湯面に寝転がる。まさしくウォーターベッドのようで気持ち良いから、よく館の風呂ではやっていた。

 温かな水面をごろごろと転がり、独特の寝心地を堪能する。


「……ん?」


 不意に、魔力波動を感じた。

 なかなか強い反応で、そちらに目を向けてみる。

 すると露天風呂をぐるりと囲む壁の上に白い人影があった。

 思わず〈幻彩之理メト・シィル〉を使って姿を隠しつつ臨戦態勢をとるが……。

 

「アインさん……?」


 今まさに壁から飛び降り、おそらくは〈反重之理メト・ティラグア〉を駆使して、ふわりと音もなく着地する小柄な白装束。相変らず目元以外は真っ白い布で全身が覆われているが、夜以外に見るのは初めてだからか、なんだか普段と違った印象を受ける。

 俺はだだっ広い湯船のど真ん中で不可視化したまま突っ立ち、金色の瞳を見つめた。アインさんは見えないはずの俺の方へ正確に顔を向け、石畳を歩いてくると、湯面との境界で立ち止まる。


「…………」

「えっと、今日はどうしたんですか?」


 とりあえず不可視化を解いて、五リーギスほど先に立つアインさんに声を掛けてみる。だが、彼女は無反応だ。身じろぎひとつせず、妖しい輝きを秘める瞳でじっと見つめてくるだけだ。


「あの、アインさん?」

「…………」


 な、なんかすごい見られてるんですけど。

 さすがに恥ずかしいぞ。まさか無言で全裸を凝視されることがここまで恥ずかしいことだとは思わなかった。再び〈幻彩之理メト・シィル〉を使いそうになるが、相手に姿を見せないのは失礼だし、いやでも入浴中に会いに来るアインさんの方が失礼か……などと、取り留めのないことを考えた結果、胸元と股間を手で隠しつつ、先方の様子を窺ってみる。

 そこでようやく気が付いた。

 アインさんは俺を見つめてはいるが、その双眸は酷く悩ましげだった。

 つい三節ほど前に会ったときと同様になぜか迷いが読み取れる。


「ほう、これはまた珍しいの」


 横合いから興味深げな声が聞こえ、アインさんから視線を移すと、ゼフィラがいた。脱衣所に繋がる扉の前に立ち、浴衣姿で仁王立ちしている。


「まさか、鬼人……なぜここに……」

「それはこちらの台詞だがの、魔人の小娘。妾の識域内でそんな馬鹿でかい反応を振りまかれては目も覚めよう。ようやく小童のものに慣れてきたというに……」


 両の目を見張り、呆然と呟くアインさんに対し、ゼフィラはどこか気怠げだ。眩しそうに薄青い空を見上げ、暢気に欠伸をかみ殺している。

 アインさんは我に返ったように身体を強張らせたかと思いきや、いきなり走り出した。風の速さで湯面を蹴り、俺の側までやってくると、まるで紅い瞳から俺を隠すかのように銀髪美少女と対峙する。


「なんだ小娘、何をそんな身構えておる」

「……貴様、何者だ」

「何者も何も、今し方お主自ら言っておったであろう」


 誰何する声だけでなく、後ろ姿からでもアインさんが警戒していることが伝わってくる。一方で、ゼフィラは余裕綽々な態で腕を組んでおり、楽しげな笑みまで覗かせている。


「おい小童、こやつお主の知り合いか?」

「え、ええ、まあ」

「なぜそれをもっと早く教えぬのだ、戯けが。魔人というだけでも珍しいというに、これほど若い小娘と相対するなど……ふむ、いつ以来かの、大戦期以来か」


 ゼフィラは好奇の眼差しでアインさんを見遣っている。


「して小娘よ、そこの小童に何用かの?」

「……貴様、どこまで知っている」

「問いを投げたのは妾の方だ、答えよ小娘」


 傲然と言い放つゼフィラに対し、アインさんは無言を返す。

 そしてちらりと俺を振り返り、声を掛けてきた。


「あの鬼人とはどういった関係なのですか」

「どういったって……どういった関係でしょう?」


 咄嗟に適切な表現が思い浮かばずゼフィラに丸投げすると、彼女はニヤリと口元を歪めた。


「ふむ、簡潔に言うならば、ただならぬ関係か」

「いや全然違いますけどね。というかアインさん、ゼフィラさんのこと知らないんですか? ここ三節くらい一緒にいたんですけど」

「いえ、それは……」


 躊躇いがちに言葉を濁らせるアインさん。

 そこでゼフィラは鷹揚に腕組みを解き、足を踏み出した。

 瞬間、アインさんが魔力を滾らせる。


「それ以上近づくな、鬼人」

「なんだ、何をそんな警戒しておる。妾にはお主と争う理由などないのだが」

「…………」

「しかし、また随分と良い色だ。その魔法力、魔人としても破格だの。いわゆる先祖返りというやつかの?」


 ゼフィラは楽しげにくつくつと笑っている。

 先ほど一歩を踏み出した状態で立ち止まっていたが、笑いながらもう一歩足を前に出す。するとアインさんは瞬時に三十を超える氷槍を虚空に現象させた。


「ほう、やるか小娘」

「ちょっ、待ってくださいアインさん! ゼフィラさんも無駄に挑発しないでくださいっ!」


 俺はアインさんの後ろから飛び出して、二人の間に割って入った。

 なんでアインさんがゼフィラを敵視してるのか不明だが、戦いはダメだ。


「アインさん、落ち着いてください。ゼフィラさんは……まあちょっとアレですけど、悪い人ではないですよ」

「なんだアレとは、失礼な小童だの」


 アインさんは氷槍を虚空に待機させたまま、俺とゼフィラを交互に見遣った。

 金色の瞳には敵意や疑念が渦巻き、険しく目元を引き締めている。


「……まさか貴様、はぐれか」

「はぐれ?」


 ゼフィラに向けて放たれた言葉に俺は首を傾げるが、当の鬼ババアは口元にうっすらと笑みを湛えている。


「そう問うということは、そっちは教国の連中の回し者……ではないな。となればリナリアあたりの遣い……にしては不可解だの」

「…………」


 アインさんもゼフィラも互いを推し量るように、金と紅の瞳で見つめ合っている。

 妙な緊張感が漂っており、容易に口を挟めない。

 が、ここは俺がなんとかするしかあるまい。


「えーと、ところでアインさん、今日はどうしたんですか?」


 アインさんはふと小さく息を呑み、ゼフィラから俺に目を向ける。

 だがゼフィラのことが気になるのか、再び視線を戻してしまう。


「妾のことは気にせず、話を続けるが良い」

「ゼフィラさんはちょっとアッチ行っててください」

「なんだ小童、その物言いは。お主そこの小娘と妾、どちらの味方なのだ」

「え、アインさんですけど」


 人の股間まさぐるような変態より、正体不明の魔人の方がまだ信用できる。

 真竜肝のことも教えてくれたしね。


「こやつ即答しおったな」

「ロ、ローズ様……ありがとうございます」

「ん? ローズ様?」


 なんかアインさんが感激したような眼差しで見てくるんだけど……。

 俺の訝しげな視線に気付いたのか、アインさんはわざとらしく咳払いし、ゼフィラを睨んだ。相変らず氷槍は空中で射出準備が完了している状態だ。


「今は見逃します、消えなさい鬼人」

「どんな権利をもって妾に命令しておる、小娘。妾は妾のやりたいようにやる。小娘の指図は受けぬ」


 また睨み合いが始まってしまった。

 こりゃ埒があかんな。

 

「あー、その、アインさん、誰かがいると話しづらいことなんですか?」

「いえ、それは……」


 今日は随分と歯切れが悪い。迷いの表出した双眸に躊躇いがちな口調といい、やはり今日のアインさんは変だな。

 いや、今日もか。


「ゼフィラさん、本当にお願いですから、ちょっとアッチ行っててください」

「それは無理な相談だの。これほど興味深い状況など久々なのだ。無聊は慰めねばならぬ、妾のことは気にせず好きなだけ話すが良い」


 うぜぇ……なんでそんな興味津々なんだよ、この銀髪美少女は。

 いやまあ、魔人は珍しいらしいから、分からんでもないけどさ。

 

「仕方ないですね……アインさん、話はまた日を改めてにしますか? ん、アインさん……?」


 アインさんは俺の呼び掛けに応じず、懊悩するかのように眉間に皺を寄せ、足下に目を落としている。

 しかし間もなく瞬きをすると、瞳に迷いの色を湛えたまま、俺を見てきた。


「帰りなさい」

「え……?」

「今すぐ館に戻りなさい。さもなくば、貴女の大切な人たちは無事では済まないでしょう」

「あ、あの、それはどういうことですか? 大切な人たちって……リーゼたちのことですか?」

 

 無言で頷くアインさん。

 俺は突然のことに訳が分からなくなる一方、ゼフィラは得心したように声を上げた。


「ほう、読めたぞ小娘。お主が小童のいう神か」

「…………」 

「小童にキングブルを十頭狩れなどと訳の分からぬことを吹き込んだかと思えば、今度は急ぎ帰れと宣うか。目的は何だ、なぜその小童にちょっかいを出す」

 

 ゼフィラの言葉を完全無視し、アインさんは湯面に立ったまま俺を見下ろしてくる。だがその姿に以前までのような無機質さはなく、先ほどの様子も然り、目元や声音からは確かな人間味が窺えた。


「無事では済まないって、どういうことですか? キングブルを狩るんじゃないんですか?」

「それは…………貴女を足止めするための、口実です」


 目を逸らし、心苦しそうな声音でアインさんは答えた。

 もはやそこに神の使徒を自称していた面影は感じられない。


「足止め? 口実? どういうことですか?」

「おそらくあと数日のうちに、《黄昏の調べ》が魔女を狩りに動きます」

「え……?」

「私の口から、これ以上は言えません……」


 如何にも申し訳なさそうな声で言い、アインさんは氷槍を落とした。

 温泉内に大量の氷が入り込んだことで湯が溢れ出し、一気に水温が下がったような錯覚を覚え、薄ら寒くなる。


「ただ、これだけは理解して欲しいのですが、それは私たちが仕組んだことではないのです。もしアルセリアが抗魔病を患わず、貴女がレオナを探しに館を出て行っていても、同じことが起きたでしょう」

「な、何を言ってるんですか……?」

「私は貴女の手助けをすることができません。今の私にできるのは、忠告だけです」


 アインさんは尚も苦悩するように、小さく声を絞り出していた。

 しかし俺はそれらの言葉をよく理解できず、呆然と聞いていることしかできない。


「私は……復讐心より、誰かを守りたいという想いの方が強さになるのだと、信じています」


 独り言のような切実とした呟きを残して、アインさんは風のように走り出した。

 湯面に波紋を響かせて、振り向きもせず逃げるように、露天風呂を囲む壁を飛び越える――その直前、ぬらりと人影が割り込んだ。

 白装束に包まれた身体が吹っ飛び、湯に叩き込まれて盛大に飛沫を上げる。


「な、何してんですかゼフィラさん!?」

「ふむ……無性に腹が立っての。一人勝手に自己完結し、言いたいことだけ言って逃げるなど、気に食わぬ。そやつの素性は未だしも、せめてどのような阿呆面か拝んでやらねば、この苛立ちは収まらぬわ」


 銀髪紅眼の美少女は舌打ち混じりに吐き捨てる。

 それはアインさん相手というより、別の誰かに苛立っている風だった。


 にしても、今さっきのゼフィラの動き、常軌を逸していた。

 アインさんはゼフィラのいた脱衣所前と逆方向に走り出したのに、一息の間に追いついて吹っ飛ばしやがった。

 パンチしたのかキックしたのかすら、速すぎて見えなかったから分からんが。


「く、ぅ……っ」


 湯面に立つアインさんは全身ずぶ濡れだった。

 白装束が重たそうに水を吸って身体に張り付き、表情を敵意に歪めている。

 そう、表情が分かる。

 顔が丸見えになっていた。


「やはりまだまだ未熟な青二才だの。簡単には逃がさぬぞ、小娘。せめて小童の疑問には答えよ、妾は言い逃げする輩が大嫌いなのだ」


 不機嫌そうに鼻を鳴らして、ゼフィラは白い布切れを放り捨てている。

 アインさんはゼフィラと大差ない年頃に見える少女だった。

 肩のあたりまで伸びた翠緑の頭髪は幻想的な透明感を秘め、まさにエメラルドグリーンと表すべき綺麗な色合いをしている。両の耳は細長く、少し尖っていて、いわゆるエルフ耳だ。生真面目さの窺える少女然とした顔立ちは良く整い、しかし少女らしからぬ知性が滲み出ている。

 ゼフィラが服を引きちぎったせいか、鎖骨まで露わになっていた。ほっそりとした首には瀟洒なチョーカーが巻かれ、アインさんはその存在を確かめるように指先で触れながら、鬼人を睨んでいる。


「なるほど、未だ首輪付きなのは変わらぬか……フフ、安心せよ、命綱を奪ったりはせぬ。しかし、もしや魔人共も耐性を得たのかと思ったが、やはりそれなしに外は出歩けぬようだの」

「貴様……」

「して小娘、お主の飼い主はいったいどこのどいつかの?」

「黙れェッ!」 


 あからさまな嘲笑にアインさんは顔を赤くし、激昂したように叫んだ。

 と同時に、強烈な魔力波動を振りまいた。

 この感じ……〈風血爪ルゲ・ディラ〉だ。

 しかしゼフィラは目で追えない速さで走り出しており、特級風魔法は空ぶった。


「や、やめてください二人とも!」

「――っ、く」


 思わず悲鳴めいた声で叫ぶと、アインさんはちらりと俺を見てから、沸々と煮えたぎらせていた魔力を収めた。

 だが彼女の表情は酷く歯がゆそうで、如何にも不満たらたらな感じに呻く。


「ですが、あの鬼人は私を阻みます」

「ゼフィラさん、もうアインさんを帰してあげてくださいっ」

「ほう、良いのか小童? そやつ、お主にとって気になることを言っておったと思うが」

「あ……そ、それは……」


 アインさんの可愛いエルフ顔を窺い見ると、気まずそうに目を逸らされる。

 ゼフィラはにやりと笑って、アインさんに問いかけた。


「さて小娘、どうする? 逃げようとしても無駄だぞ、既にお主の反応は覚えた。ここは洗いざらい吐いてもらおうかの」

「……………………」


 アインさんは俺とゼフィラを交互に見遣り、深くゆっくりと吐息した。

 そして力ない足取りで湯面を歩き、石畳の上に降り立って、これまで常に放ち続けていた〈浮水之理メト・ティア〉の魔力波動を断った。

 新たに魔力を練る様子もなく、観念したように立ち尽くしている。


「ふん、ようやく納得したか。余計な手間を掛けさせおって」

「……………………」

「では話は部屋でするぞ、朝日が鬱陶しくてかなわん。妾は先に戻っておる故、小童と共に来るのだぞ。あぁ、言うまでもないことだが、この期に及んで逃げようだなどとは考えるな。妾の識域内であることを忘れるでないぞ、小娘」


 気怠げな声で面倒臭そうに言いながらも、不敵な笑みを残して、銀髪美少女は脱衣所の向こうに消えていった。

 後に残されたのは全裸で突っ立つ俺、そして悄然とするアインさんの二人だけだ。


「あの、アインさん……?」

「……………………」


 近寄って声を掛けてみるも、アインさんの顔は朝日に輝くエメラルドグリーンの髪に隠れて判然としない。一人静かに佇立する姿は迷子の子供めいていて、どう声を掛ければいいのか分からない。

 しかし先ほどの件は詳しく聞き出さないといけないので、俺は敢えて図々しく振る舞うことにした。


「で、では、部屋に行きましょうか。アインさんも濡れてますし、身体拭いた方がいいですよ。なんなら私が拭いて――」

「すみません」


 アインさんは顔を上げ、湯から上がった俺を真っ直ぐに見つめてきた。

 妖美な瞳は相変らず迷いを湛えてはいるが、同時に強い意志も内包していた。


「私に貴女の大切な人を助けることも、貴女の手助けもできません。ですが、貴女の身を守ることはできます。ですからどうか、一刻も早く館にお戻りください」

「えっと、だから、それはどういう意味――」


 全裸なのも気にせず、アインさんに詰め寄ろうとしたとき。

 彼女は俺の言葉を遮るように、しかし小さな声で呟き始めた。


「聖なく邪なく謳い調べる、而して我が理は極致せん」


 妙な魔力波動を放ち始め、俺は思わず足を止めた。

 逆にアインさんは早口言葉のように詠唱を続ける。


「隔絶せし空隙は虚にして無、遠間から嘲笑せし畜生に真を示せ。其は眼前に在りて後背に存り、彼方は此方と成りて此方は彼方と成り果てん」

「ア、アインさん……?」

「我は雲霞の如く消失し顕現す、故に何人も我が身を捉えること能わず。巧者が無芸を厭うが如く、蒙昧甚だしき雷火が宙を這う様を倦厭せよ。嗚呼、神罰を恐れるな忘恩の徒、聡慧たる己が礼法に酔いしれろ」


 ふとゼフィラが凄い勢いで再び脱衣所から現れた。

 だがエルフ耳の少女は横目にちらりとそれを見ただけで詠い唱える。


「いざ其の威を以て頑冥たる窮理を歪め、今此処に瞬転の法を示せ――〈瞬転リィロ〉」

「――えぇいクソッ!」


 ゼフィラは残像を引いて一気に駆けるが、真っ白い手が掴んだのは淡い燐光だけだった。今の今まで目の前にいたアインさんは一瞬のうちに姿を消し、代わりに現れた白銀の光たちも瞬く間に虚空へと薄れ消えていく。


「風属性だからと油断しておった……あの魔法力なら使えてもおかしくはなかったが、まさか本当に使えたとはの」

「これは……」


 四年ほど前、あの魔剣グラサン白髪女も今のアインさんと同じように消えていた。

 もしかしなくとも、これが転移魔法なのか?

 無茶苦茶だ。


「あの小娘、一気に識域外に逃れおったな。おい小童、お主なにを暢気に詠唱させておった」

「え、いやそんな、だってアレが転移魔法の詠唱だなんて知らなかったですし……」

「まったく……ようやく面白くなりそうだったというのに、これだ。とりあえず戻るぞ小童、あやつが何者か教えよ」


 舌打ち混じりの溜息を零し、ゼフィラは銀髪を翻して浴場を出て行く。

 俺は未だ混乱が抜けきらず、その場に突っ立ったまま動けない。

 朝風呂で一人のんびりしようと思ったのに、なんでこんなことになった。

 にしても、アインさんの素顔可愛かったな。


「いや、そんなことより、リーゼたちが……」

 

 アインさんは《黄昏の調べ》の連中が魔女を狩ろうとしていると言っていた。

 一刻も早く帰れと言っていた。

 さもなくば、俺の大切な人たちが無事では済まないでしょうとも言っていた。


「…………帰ろう」


 俺は湯冷めした身体を温め直すことなく、脱衣所で手早く身体を拭いて服を着ると、部屋まで駆け戻っていった。


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