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幼女転生  作者: デブリ
七章・黄昏編
148/203

 間話 『彼と彼女の裏事情 後』


 ■ Other View ■



 父との対談後、ジークハルトは実家の敷地内にある地下牢に監禁された。

 本来は命令違反を犯したテイラス家の者を収容する施設であり、主家たるヴィリアスの男子が放り込まれるようなことはあり得ない。

 だが、父は息子を檻の中に連行させた。


「…………」


 薄闇の中、ジークハルトは硬く冷たいベッドの縁に腰掛けている。

 通路の先から漏れ入ってくる魔石灯の微かな明かりだけが光源で、飾り気のない無骨な構造は地上に建つ豪奢な邸宅と対照的だ。

 如何にもな石壁と鉄格子によって囲まれてこそいるが、実際は結界魔法による防備の方が強固であり、この強度ともなるとジークハルトの魔法力では如何ともし難い。

 彼は欠損した左腕の塞がった傷口を押さえながら、一人後悔の念に苛まれていた。

 昨日、父と相対していたあの状況で真正面から異を唱えれば、どうなるかは分かりきっていたことだ。

 しかし昨日のジークハルトは冷静ではなかった。

 覚醒して間もなく父から姫君の死を伝えられ、あんなことを命じられたのだ。

 理性的に考えることなどできなかった。

 それでも、父に服従しなかったことそれ自体には一片の悔いもない。

 悔いているのは、子供のように後先考えず、勢いのままに発言したことだ。

 既に成人している身であれば、冷静に面従腹背の行動をとり、自由を奪われるような結果は避けるべきだった。


「ジークハルト様、考え直してくださいましたでしょうか」

「……いえ」


 格子の向こう側に現れた女性に、ジークハルトは小さく頭を振って見せた。

 彼女は父に仕える《影》であり、既に齢も四十を超えているが、その楚々とした風貌は実年齢より幾分も若々しい。

 

「ジークハルト様、お父上は本気です。皇女殿下の国葬が執り行われるまでに、どうか考え直していただけますよう……」

「……もう行ってください」


 ジークハルトが素っ気なく応じると、彼にとって叔母のような女性は心配そうな眼差しを残して去って行った。

 その希薄な気配が完全に失せたことを確信して、ゆっくりと溜息を吐く。

 

 初めて真正面から父に異を唱えて、まだ一日だ。

 昨日は自室で小一時間ほど父から言い募られたが、感情的になっていたジークハルトは頑として頷かなかった。にもかかわらず、僅か一日で心変わりしたとなれば、余計な疑心を持たれかねない。

 ミスティリーファが亡くなって七日間は喪に服する期間とし、国葬は今日より六日後に執り行われる予定だ。父には息子が死の恐怖に屈服したと見せかけるため、猶予期間ぎりぎりまで反抗し続けた方が良いだろう。


 という考えのもと、ジークハルトは牢の中で一人静かに時が流れるのを待つことにしている。しかし、一人になると一昨日の夜を思い出してしまい、その度に自己嫌悪と絶望、憎悪の念が積み重なっていく。

 聞いた話によれば、ミスティリーファは焼死体として発見されたという。

 あのグレンという巨漢の獣人にジークハルトが気絶させられている間、あの可憐かつ優美な姿は白骨と焼け残った肉片に変わったそうだ。 


「くそ……っ、ちくしょう……」


 なぜ彼女がそんな目に遭わねばならなかったのか。

 ジークハルトは気怠い喪失感に見舞われながらも、硬いベッドに横たわって思考していく。


 第一皇女と違い、第二皇女は積極的に政に干渉していた。

 大臣たちの中には快く思っていなかった者は少なくなかったはずで、だからこそ姫と騎士の下世話な噂話がまことしやかに囁かれてもいたのだ。

 しかし、殺害するほど疎まれていたとは思えない。

 皇女を殺めるなど、よほどの理由がなければ到底行われるはずがない。

 加えて、殺害現場が城内であり、ジークハルト引いてはヴィリアス家に害が及ぶにもかかわらず、それを父が看過するどころか幇助するなど、尋常ではない。

 

『まさか……奴ら、神にでもなるつもりなの……っ』


 彼女と過した最後の時間、ふと呟かれていた言葉が引っかかる。

 神の下りは理解できないが、『奴ら』というのは十中八九、ミスティリーファを殺害した連中のことだろう。

 そこには父であるヴィリアス家当主も含まれるはずだが、父は現皇帝の近衛騎士であり、側近中の側近だ。


「いや、なら……陛下も……?」

 

 分からない。

 まず間違いなく、ただ事ではない何かが起きている。

 だが、その規模が計り知れないほど大きく、いったい誰が敵なのかすら判然としない。その茫漠とした状況は多大な不安を生じさせ、得体の知れない恐怖心を喚起させる。

 確かなことはこの一件に父が関与しており、姫君を殺害した実行犯が《黄昏の調べ》のグレンという巨漢の獣人であることだけだ。

 

「ジーク」


 翌日、監禁されて三日目の昼頃。

 兄レオンハルトが鉄格子の向こうから呼び掛けてきた。


「気分はどうだい?」

「……最悪です」

「だろうね」


 三つ年上の実兄は普段と大して変わらぬ様子で穏やかに微苦笑している。

 弟の外見が父親似だとすると、兄は母親似であり、その容貌は少々男らしさに欠けて中性的と評せる。だが身長体格は並以上で、決してか弱いという印象は受けず、そのくせ柔和な微笑みの似合う、まさに貴公子そのものな青年。

 社交の場では名家の娘や婦人たちから絶大な人気を博し、眉目秀麗と文武両道を地でいく男だ。


「でもまさか、弟と格子越しで話すことになるなんて、思ってもみなかったかな」


 おかしそうに微笑を見せ、小さく肩を竦める兄。

 どんな状況だろうと周囲に流されず、自然体で振る舞うところは長所にして唯一の短所だが、ジークハルトは既に慣れきっている。

 それは兄の《影》たる女性も同様だろう。


「レオン様、ジーク様からすれば、笑っていられる状況ではありませんよ」


 通路の壁際にある魔石灯に光を灯しながら、リュゼリーナが諫言する。

 ジークハルトにとっては姉も同然の女性は兄の隣に並ぶと、格子の向こう側にぺこりと頭を下げた。


「ジーク様、お久しぶりです。この度は色々と大変だったみたいで……左腕の怪我は痛みませんか?」

「大丈夫です」

「そうですか、それは不幸中の幸いですね」


 皮肉でも何でもなく素で言っているのだから、兄同様に慣れきっているジークハルトには苛立ちも呆れも覚えない。彼女の言動は主家の次男に対して少々無礼な態度だろうが、今この場には実質的な身内しかいない。

 リュゼリーナ・テイラスは目鼻立ちのくっきりとした綺麗な顔立ちをしており、三つ年の離れた妹よりも勝気で明朗な内面性が滲み出ている。深緑の翼は妹同様に美しく、反して胸元の膨らみは現在のイヴリーナより幾分も控えめだ。


「……それで、何か用ですか兄上。父上から私を説得するよう言われましたか」

「うん、確かに父さんからそう言われてはいるけど、俺は純粋に弟の顔を見に来たんだ」

「そうですか。ではもう出て行ってもらえますか」


 ジークハルトは兄の顔も見ずに、愛想なく告げた。

 別段、兄を嫌っているわけではない。

 確かに当時は多大な劣等感に起因する苦手意識を持っていたし、兄のせいで父の教育は過酷極まっていたため、少なくない憎悪も抱いていた。

 しかし、あまりに才能が隔絶していて比較するのも馬鹿らしく、そんな相手を憎悪しても仕方がないと悟って以降、どうでも良くなっている。


 今はなにより、兄と話している精神的な余裕がなかった。

 ミスティリーファの死、今後の身の振り方、そして状況の不透明さは大きな負担となり、ジークハルトの心を鬱屈とさせている。無論、今回の一件について兄から何か聞き出せないかとは思うが、今その行動に出れば計画に破綻が生じかねない。

 今のジークハルトは父の言葉に異を唱え、意固地になって説得に応じようともしない……と周囲に印象付けなければならない。そして期日が迫るにつれて死の恐怖に怯え始め、最後には結局屈服した……ように見せかけて、今回の一件の真相を探り、ミスティリーファの仇をとるために動き出す。

 その筋書きを狂わせないように振る舞う必要がある。


「ジーク、お前の考えていることはだいたい分かるよ。大方、感情のまま父さんに反抗して、今は面従腹背するために備えているんだろう? そして期日ぎりぎりになって父さんの命を受け入れ、亡き殿下のために動き出す……と」

「――――」


 兄の顔を見上げ、唖然としてしまう。

 だが当のレオンハルトは常と変わらず落ち着き払っている。


「どうして分かったのかって? これまで唯々諾々と父さんに従っていたジークが、初めて父さんの命に真っ向から反対した。ミスティリーファ様の性格、お前が経験してきただろう出来事、そしてその心情を想像すれば……このまま死を容認するほど俺の弟は馬鹿じゃないはずだし、今のジークを見て確信できたんだよ」

「……私にそれらを明かして、どうしようというのですか」

「うん、率直に言うとね、ジークハルト。父さんの言うとおりにした方がいい」


 そう告げる語調は決して強くはなかったが、真摯な響きが感じられた。

 向けられる眼差しは普段通り、兄が弟に向ける温かなものだ。


「純粋に弟の顔を見に来ただけだったのでは……?」

「うん、弟の顔を見て、これは不味いと思った。だからこれは説得じゃなくて、忠告だよ」

「忠告……?」


 レオンハルトはリュゼリーナが持ってきた簡素な丸椅子に腰を下ろした。

 そして鉄格子の間から、ベッドに腰掛ける弟の顔を見つめる。


「ジークの気持ち、少しは理解できるよ。だから、父さんの意に背いて、亡きミスティリーファ様のために剣をとろうという想いも分かる。それでもね、今回ばかりは駄目だよ、危険すぎる」

「……兄上は、何をどこまで知っているのですか」

「父さんから粗方のことは聞いているよ。それに自分でも少し調べていたからね、たぶんほとんど全て知っている。だからこそ、今回の件の危険性は嫌と言うほど理解しているつもりだよ」


 お前が知らないことを俺は知っている。

 兄はそのことを微塵も誇示する素振りは見せず、いつになく表情を引き締めて、真剣な瞳を覗かせている。


「ジーク……ジークハルト、よく考えてみて欲しい。どうして父さんはお前を、そしてヴィリアスの名を貶めるようなことに荷担したと思う。お前という息子を事実上、あるいは名実共に死人にしてまで、どうして守るべき皇族の一人を、わざわざ城内で殺めさせたと思う」

「…………」

「今回の一件はね、見せしめなんだ」

 

 魔石灯の光に照らされた兄の顔には色濃く影が差し、柔和な笑みの似合う普段の面影は消え失せていた。


「見せしめ……?」

「相手が第二皇女様だろうと、四大名門の貴族だろうと、邪魔する者は容赦しない。そういう不文律を敷くために、父さんは――ヴィリアス家は、敢えて泥を被ることにした」


 何か得体の知れない怖気を感じて、ジークハルトは背筋が凍ってしまう。

 予想外の話に上手くついていけず、ただ黙って聞いていることしかできない。

 

「おそらく姫殿下はまだ関わっていなかっただろう。だが最近は色々と探っていたようだし、あの御方は積極的に政治に関わっていた。そして何より、その価値観は良くも悪くも変わっていて、強い意志を持っていた」

「…………」

「分かるだろう、ジーク。今回の件は闇が深すぎる、下手をすれば俺も容易に呑み込まれる。お前一人が動いたところで、どうにもならないよ」


 あの何でもできる完全無欠の兄をして、そう言わしめるほどの危険性。

 ジークハルトは己が想像しているよりも遙かに深刻な状況にいるのだと理解させられた。しかし、だからどうしたと思う自分もいた。


「……弟の成長を喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか」


 ふと脱力したような吐息を聞き取り、ジークハルトは兄に意識を向け直した。

 レオンハルトは呆れたような苦笑を見せながらも、弟を映すその瞳は優しげだ。


「その顔を見るに、諦める気はないのかな?」

「……兄上、その問いに答える前に、一つだけ聞かせてください」

「なんだい」

「兄上は、殿下が殺されることを、知っていたのですか」


 思わず射貫くように睨み付けてしまう。

 だが兄は動じた様子もなく、ゆっくりと首を横を振った。


「いや、父さんや周辺の動きを見て、何か良からぬことが起こるだろうと予想していたくらいかな。さすがに俺も、ミスティリーファ様を……殺すなんて、予想外だったしね。俺は姫殿下の訃報を聞いてから、父さんから色々と聞かされたんだよ」

「そうですか」

「かといって、事前に知っていたとしても、俺は止めようとはしなかっただろうね。さっきも言ったとおり、今回の一件は闇が深すぎて、迂闊に首を突っ込めない。俺一人だけなら未だしも、お前やリュゼ、家族みんなに害が及ぶ可能性だってあるからね」


 兄は先ほどしたジークハルトの問いの意味を理解しているはずだ。

 それでも尚、彼は臆面もなくそう言ってのけた。


「きっとそれは父さんも同じだと思うよ。結果的にジークに負担を掛けることにはなったけど、父さんも父さんなりに、国や家族のことを考えてのことなんだ。実際、今回のことでジーク、引いては俺たちヴィリアス家は表向きはともかく、裏では功労者として扱われることになる。お前が余程の下手を打たない限り、消されることはなくなったんだから、前より安全とさえ言える」

「だから父上は許せと言うのですか」

「ま、とりあえずそれは置いておいて、さっき俺がした質問だけど……いや、もう今のやりとりで答えてもらったも同然か」


 レオンハルトは溜息を吐いて、困ったように後頭部を掻いている。

 だが弟から睨み付けるように見つめられていることを再認したのか、姿勢を正して向き直る。


「ジーク、俺の忠告を聞いても尚、諦めないというのなら……俺はお前を無理に止めようとはしないよ。でもね、お前のせいで家族に危険が及ぶことを、俺は許容できない」

「許容できないのなら、どうするというんですか」


 ジークハルトとレオンハルトは鉄格子を間に挟んで、しばし互いの顔を見つめ合う。兄の方は未だしも、弟の方が兄に対して一歩も引かない姿勢を見せたのはこれが初めてだった。


「……………………」


 レオンハルトはおもむろに目を閉じて、ふっと肩の力を抜くと、口元を苦々しく歪めた。


「これは兄からのお願いであり、忠告であり、助言だ。もし動くのなら、帝国の内情は探らず、《黄昏の調べ》を探れ」

「え……?」

「さっきも言ったとおり、昨今の我らが祖国はきな臭い。お前が下手に探ろうとすれば、ヴィリアス家にも累が及ぶ。ジークだって、母さんや可愛い弟妹が姫殿下のように消されるのなんて、御免だろう?」


 昨日一昨日と続けて、二つ年下の妹、そして三つ年下の弟も、兄のようにジークハルトの前に姿を現していた。二人とも兄であるジークハルトの身を案じ、父の言うことに従って欲しいと頼んできたが、計画のため、父の《影》にしたように無碍にあしらっていた。

 尚、ジークハルトの《影》であるイヴリーナは一度も姿を見せていない。おそらく逃亡の幇助などを警戒して、父が専属の従者とは会わせないようにしているのだろう。


「だから、どうしても殿下の仇を討ちたいのなら、例のグレンという実行犯の方を狙って欲しい。あるいは《黄昏の調べ》そのものでもいい。その方が俺たちも危険が少ないし、ジークにとっても……あるいは、良い結果になるかもしれないからね」

「それは、どういう意味ですか? それにどうして、そんなことを言うんです。兄上は先ほど、父上の言うとおりにした方が良いと言ってましたよね……?」


 ジークハルトは兄の発言、そしてその思考を理解しきれず、戸惑ってしまう。

 先ほどは危険だから深入りするなと言い、家族のためにも父に従えと忠告してきていた。にもかかわらず、なぜ先の発言を翻して、こうも協力的なことを告げてくるのか。


「どうして、か……そんなの決まってるじゃないか。兄は弟の意志を蔑ろにはしないものだよ」

「…………」


 レオンハルトはさも当然という態で言ったが、ジークハルトは疑心が深まっただけだった。

 それを雰囲気から察したのか、兄は自嘲的な笑みを零して、珍しく気まずそうな様子を覗かせる。


「まあ……うん、俺も少しは悪いと思ってるんだよ。俺の存在が弟を苦しめることになったのは、これでも自覚しているつもりだ。だから、その罪滅ぼしだとでも思ってくれればいいよ」


 意外といえば意外だが、実はそうでもないのかもしれなかった。

 これまで兄はそんな素振りを見せていなかったが、改めて思い返してみれば、何かと気遣ってきていた節はある。それが当時のジークハルトを一層惨めにさせ、心を殺す一因となった感は否めないが、この兄も兄なりに思うところはあったのだろう。

 

「ジークが心を閉ざしてしまった原因が俺にあって、そんなお前を姫殿下が変えたんだ。俺にとっては家族の方が大事だけど、殿下のことも蔑ろにできないとは思ってるんだよ」

「……そう、ですか」

「うん、そうなんだよ」


 やけに感慨深そうに頷いて、兄レオンハルトは椅子から腰を上げた。

 思わずジークハルトもベッドから立ち上がり、少しだけ印象の変わった兄と向かい合う。


「俺の話、よく考えてみてくれ。ジークが自分の意志で動こうとしているのは嬉しいし、応援したいと思ってる。だが、今回ばかりは父さんの言うことに従って欲しい……というのが俺の本音だ」

「はい」

「いずれにせよ、もしジークのせいで皆が危険な目に遭うようであれば、俺は容赦しないよ」


 普段と変わりなく、落ち着きのある静かな声で告げられた。

 しかしそこに込められた意志と意味は瞭然であり、この兄はたとえ実弟だろうと、本当に容赦はしないだろう。

 

「ま、ジークがそこを出るまで、まだ数日ある。自分のことだけでなく、皆のこともきちんと考えて、後悔のない決断をするといい」

「……はい」

「それじゃあ、俺はもう行くよ……と、そういえばジーク、イヴのことは大切にするんだよ。あの子もとても心配していたからね」


 兄は別れの挨拶に続いて、思い出したようにそう言い添えた。

 そして、これまで黙して主の後ろに控えていたリュゼリーナがジークハルトに微笑みかける。


「ジーク様、色々大変だとは思いますけど、頑張ってくださいね。あと、妹のことも少しでいいので、気に掛けてやってください」


 レオンハルトは気さくに片手を挙げて、リュゼリーナは低頭して、檻の前から歩き去って行った。

 ジークハルトはベッドに腰を下ろし、そのまま寝転がって、大きく吐息を漏らす。


 今回の一件は予想を上回る危険性を孕んでる。

 そのことに対して、父は父なりの考えがあり、兄は兄なりの考えがあり、しかしどちらも家族のことを考えていた。それを理解してしまって、ジークハルトは腹の底で煮えたぎっていた感情の扱いに窮した。

 ミスティリーファの仇をとりたい、なぜ殺されたのか真相を知りたい。

 自分はどうなっても良いが、母や弟妹たちを危険に晒すわけにもいかず、しかし父に従うという選択はできそうにない。


 ジークハルトは姫君を失った喪失感と罪悪感に苛まれながらも、鉄格子の内側で一人考え続けた。そして結局、現状において、あの聡明な兄の言う道が最も適していることを認めざるを得なかった。




 ■   ■   ■




 ジークハルトは計画通り、死の恐怖に屈した風を装って、父の言葉に頷いた。

 兄から教えられたせいか、その際の父の表情に微かな安堵感を見てしまった気がして、複雑な心境にさせられてしまう。


「ジークハルト、お前には私の用意した別邸に移ってもらう。無論、その腕を治癒する魔法士も手配するし、使用人も用意している。しばらくは大人しく、静かな生活を送っていろ」


 父はそう言って、息子を送り出した。

 帝都ザフィロではちょうどミスティリーファの国葬が盛大かつ厳粛に執り行われていた。ジークハルトも参加したかったが、父としては各方面の目がそちらに向いている隙に、別邸に息子を移したかったようだ。

 負傷した猟兵に扮した身形で、テイラス家の者に抱えられ、ジークハルトは空から慣れ親しんだ帝都をあとにした。

 

 隠居先の町ライズは帝国に数多く存在する中小都市の一つだ。

 帝都から南方に位置し、町の周辺には珈琲農園が広がっているが、特に名のある銘柄として特産品になっているわけでもなく、全体的に地味で素朴な田舎町といった風情だ。

 ジークハルトは大都市に実家がある豪商の息子という立場として、使用人が数人いるだけの小さな館に住まうことになった。


 館に到着し、新生活を始めて三日目。

 早くもジークハルトの腕を治癒できるだけの魔法士が送り込まれてきた。


「……おや、治りませんね。もう一度試してみましょうか」


 老齢の魔法士から二度目の天級治癒魔法〈天黎癒ルー・リィブ〉を行使されるも、ジークハルトの腕は再生しなかった。

 

「どういうことですか、魔法士殿」


 訝しげな声で問い詰めるように言ったのはイヴリーナだ。

 《影》である彼女も当然、ジークハルトに同行し、生活を共にしている。


「おそらくは彼の精神的な問題でしょう。傷を負った出来事に対して深い心的外傷があると、魔法が意味を為さない場合はあります。身体の傷を治したければ、まずは心の傷から治療しなくては」

「そんな……」


 ジークハルトが冷たく接するようになって以降、イヴリーナは主の前ではあまり感情を面に出さず、事務的な言動をする。

 だが老魔法士の見解を聞いて、彼女は愕然と目を見開き、顔を青くしている。

 一方で、当人にとってはそれほど衝撃的なことでもなかった。

 

「そうですか。わざわざご足労頂いたのに、申し訳ありません」


 冷静にそれだけ言って、その一件は仕舞いにした。

 無論、ジークハルトとしても左腕は治って欲しかった。日常生活からして何かと不便だし、身体感覚が狂う上に、片腕が使えない状況は戦闘において大きな不利に直結する。だからこそ、今すぐにでも出発したい気持ちを抑え、治癒魔法の恩恵を待っていた。しかし、治らないならそれはそれで構わず、むしろ安堵感を覚えている自分すらいた。 


 やはり自分は姫君を――あの一件を忘れられないのだ。

 これは愚かな己に対する罰であり、罪の象徴なのだろう。

 復讐を果たさない限り、左腕は永遠に戻らない。

 亡き姫君のためだけではなく、自分のためにも、動く必要がある。

 ジークハルトは自らが行おうとしていることに、そうした理由をつけることで、自身を正当化することができた。


「……イヴ、リーナ」


 老魔法士が去った後、ジークハルトは自らの従者に声を掛けた。少し硬い口調になってしまったが、それも致し方ないことだった。

 しかし彼女の方は気にした様子もなく、いつも通り背筋を伸ばして向き直り、淡々と応じる。


「なんでしょうか」

「夕食後、少し話があるから部屋に来てくれ」

「……かしこまりました」


 イヴリーナも主の様子が少しおかしいことに気が付いたのか、返答まで僅かに間があった。

 それでもジークハルトは平静を装ったまま、これまで通りに振る舞っていった。




 ■   ■   ■




 夕食後、ジークハルトは自室で物資の確認をしていた。

 帝都からライズに移動する際、偽装に使用した猟兵用の背嚢リュックに中身を詰め込んでいく。

 しばらくすると、扉が小さく音を立てたので、ジークハルトは手を止めた。


「少し待て」


 そそくさと背嚢リュックを隠し、革張りの長椅子に腰掛けると、再び声を上げた。


「いいぞ」

「失礼いたします」


 イヴリーナは礼儀を違えぬ挙措で入室し、扉の前に立って主を見遣る。

 少々の緊張感を覚えながらも、ジークハルトは対面の革張り椅子に腰掛けるよう言った。彼女は歩み寄ってくると、入室した際と同様の言葉を口にして、静かに腰を下ろした。


「…………」


 日が沈んで間もない室内は魔石灯により明るく照らされている。

 姿勢良く座している翼人の少女は何らの表情も見せず、身動きひとつせず座している。主が口を開くのを待っているのか、二人の間に横たわる足の短いテーブルに視線を添えたまま、ただ黙している。

 バルコニーに繋がる硝子窓の向こうから微かに町の喧騒が響いてくるだけで、部屋の中は水底のような静寂で満たされていた。


「…………」


 ジークハルトは上手く切り出せないでいた。

 事前に色々と考えてはいたし、覚悟も決めていたが、如何ともし難い緊張感に苛まれ、かつてないほどに口が重い。

 

「ジークハルト様、何かお話があるのですか」


 痺れを切らしたのか、何かを感じて先を促そうとでも気遣ったのか、イヴリーナが口を開いた。ジークハルトは密かに深呼吸をすると、彼女の視線から逃れるように目を伏せて、言った。


「珈琲を、入れてきてくれるか」

「それは私の手で、という意味でしょうか」

「そ、そうだ、二人分な」

「……かしこまりました」


 イヴリーナは音もなく立ち上がって一礼すると、部屋を出て行った。

 その背中を盗み見るように見届けて、ジークハルトは思わずといったように大きく息を吐き出した。


「くそ……何をやっているんだ、俺は……」


 本題を切り出すつもりが、よりにもよって先延ばしにするための逃げ口上を発していた。口が勝手に動いてしまったのだ。

 こんなところで躓いている場合ではなく、一刻も早く亡き姫君のために行動すべきだと分かっていながら、怯懦が足を竦ませた。

 情けないと自覚しつつも、ジークハルトはそれも致し方ないと思っていた。


 八年……八年だ。

 未だ十代半ばの少年少女にとって、八年とは生きてきた時間の半分だ。

 その長い間、ジークハルトは彼女に対して心ない素振りで接してきた。

 既に仲睦まじかった幼少期の記憶など曖昧で、この八年の時間こそが本物だと指摘されれば、反論はできない。それでもジークハルトにとって、イヴリーナとの関係は幼少期のものこそが本物であり、この八年は己の不甲斐なさが作り上げた偽りなのだ。自分勝手に、厚顔無恥に、ジークハルトはそう思っている。

 ミスティリーファのおかげで、そう思えるようになった。

 だからこそ、イヴリーナには謝罪せねばならない。彼女がどう思っていようと、土下座してでも謝るべきだと、ジークハルトは思っている。


「……よし」


 覚悟を決めて、イヴリーナが戻ってくるのを待った。

 しばらくすると扉が規則正しく叩かれ、彼女が銀製の盆を持って戻ってきた。


「失礼します」


 お決まりの口上を述べつつ、そつの無い動きで瀟洒なカップを受け皿ごとジークハルトの前に置く。と思いきや、彼女の手が滑ってカップが受け皿ごと滑り落ち、テーブルに倒れた。


「あ、も、申し訳ありませんっ、すぐに片付けますので!」

「いや、片付けは俺がするから、お前は入れ直してきてくれ」


 少々取り乱し、焦ったように言うイヴリーナとは対照的に、ジークハルトは冷静に対応した。

 イヴリーナはその生真面目な性格に反して、たまに間の抜けたことをやらかす。というより、生真面目だからこそ力みすぎて、失敗してしまうのだろう。

 不幸中の幸いにも、今回はカップも受け皿も割れておらず、二人の服も汚れていないので何ら問題はなかった。


「そ、そんな、いけませんっ、誰か呼んで参りますので、ジークハルト様はどうぞこちらの珈琲でも飲んで――ひゃぁ!?」

「…………」

「もも申し訳ありませんっ、すぐに人を呼んで珈琲は入れ直してきますのでどうかそのままでお待ちください!」


 普段は物静かで落ち着いているイヴリーナが、慌てふためいた素振りで部屋を駆け出て行く。

 ジークハルトはその姿を見送って、思わず笑みを零した。

 何事も、無駄に力むのは良くない。

 

「お待たせいたしました。先ほどは……誠に申し訳ありませんでした」


 使用人が慣れた手付きで早々に片付け終わるのと同時に、イヴリーナが再び盆を持って入室してきた。少しばかり手が震えていたが、ここでジークハルトが落ち着くよう言ったところで逆効果にしかならないことは明白だ。

 イヴリーナは危なげな手付きでなんとか二人分のカップをテーブルに並べると、一息吐きつつ「失礼いたします」と言って着席した。


「……………………」


 ジークハルトはひとまず熱い珈琲に口を付けて喉を潤すことにした。

 対面のイヴリーナもこちらの様子を確認してから一口飲み、彼女が受け皿にカップを置いたところを見計らって、ジークハルトは口火を切る。


「イヴ」

「……は、はい」


 久々に略称で呼び掛けたからか、イヴリーナの反応も少々ぎこちなかった。

 ジークハルトはそうと判じることができる程度には落ち着いた心持ちで少女の瞳を見つめながら、ありったけの謝意を込めて告げた。


「ごめんな」

「…………ジーク、ハルト様?」

「この八年、ずっとお前に冷たく接してきて、悪かった。俺が弱かったばかりに、イヴには嫌な思いをさせたと思う」


 双眸を見開き硬直する彼女に、ジークハルトは感情のままに言葉を続けた。


「七歳頃まではあれだけ仲良くしていたのに、それからの俺は自分のことばかりで、お前を蔑ろにした。イヴは何かと俺を気遣ってくれていたのに、俺はその思いやりを無碍にして、お前を傷付けたと思う」

「――――」

「本当に申し訳ないことをした。今では心から悔いている。こんな自分勝手、イヴは許せないだろうし、許してくれなくても……仕方ないと思っている。ただ、俺がお前に申し訳なく思っていることと、感謝していることだけは、知っていてほしいんだ」


 ジークハルトは椅子から腰を上げ、未だ呆けたような顔で見上げてくる少女に改めて向き直った。

 

「これまで、俺に対して嫌悪感の一つも見せないで、よく側にいてくれた。当時の俺はイヴを疎ましく思っていたけど、いま思えば、お前がいなかったら俺は本当に、心の底から駄目になっていただろう」


 もし厳しい教育の続く日々の中、イヴリーナがいなかったらと考えたとき。

 ジークハルトは愕然としたのだ。

 優しく穏やかな彼女の存在は確かに辛苦を際立たせた。しかし、それでも変わらず側にいてくれたことで、自分でも気付かぬうちに救われていた。

 今このときも、何があろうとイヴリーナが影から支えてくれていたからこそ、ジークハルトはこうして立っていられるのだ。


「イヴ、すまなかった。本当に……ごめん。そして、それ以上に感謝している。ありがとう」


 そう告げてから、ジークハルトは深く頭を下げた。

 我ながら本当に自分勝手で、厚顔無恥にも程があるとは思う。

 だが、これはけじめだった。

 もう一生会えないのかもしれないのだから、きちんと自分の気持ちを正直に、真っ直ぐ言葉にして、伝えておきたかった。


「……ジーク、様」


 名を呼ばれ、ジークハルトは全身が強張った。

 余りある怒りのせいか、か細く震えた声をしていたのだ。それでも、どんな罵詈雑言だろうと受け止める覚悟はできていたので、恐る恐る顔を上げた。

 しかし、ジークハルトの瞳に映った彼女の姿は予想に反していた。

 イヴリーナは止めどなく流れ出る涙に頬を濡らし、小さく顔を歪めていた。

 

「え……イヴ……?」

「く、っ……う、うぅ……」


 口元を押さえて、それでも漏れ出る嗚咽を微かに響かせている。顔を俯けた彼女の膝には魔石灯の光に煌めく滴が次々と零れ落ち、肩を震わせている。

 ジークハルトは対応に窮した。

 当初の予想では怒りを露わにされるか、素っ気なく流されるかのどちらかだったのだ。前者の場合には謝り抜き、後者の場合には早々に話を切り上げて解散で良かった。しかし、この展開は完全に想定外だ。


「す、すまない、イヴ……俺のせいだよな……? その、俺は席を外すから……えっと、とにかくすまない、本当に」


 戸惑い混乱する頭ではまともに思考できず、しかし彼女が涙している原因は間違いなく己にある。故にジークハルトは互いに一旦落ち着くためにも、部屋を出て行こうと足を踏み出した。


「ぅくっ……待って、待ってくださぃ……違います、違うのです……私は、ただ……っ、ぅう、嬉しくて、ジーク様……」 


 イヴリーナの嗚咽混じりの言葉に足が止まり、涙に濡れた瞳を見つめてしまう。

 

「……良いのです、謝って……く、ぅ……頂かなくとも、良いのです。ちゃんと分かって、います……っ、ぅあ……仕方のない、ことだったのです……私、私は……ジーク様の《影》で、ですから……あ、っ……ありがとう、ございます」


 そう言葉を漏らす彼女の声には確かな喜色が滲み出ていた。

 ジークハルトは負の感情から涕泣している訳ではないことに安堵するも、同時に衝撃を受けていた。


 きっとイヴリーナは幼少の頃から変わらず親愛の情を抱き続けてくれていて、この八年間ずっと耐え続けていたのだ。実の兄妹同然に親しかった相手から冷たく振る舞われようとも、嫌悪せず、あまつさえ自分勝手な事情に理解まで示してくれていた。ジークハルトが過酷な教育に苦しんでいたように、彼女もまた変貌した主に苦しんで、耐えていた。

 嫌ってしまえば、憎んでしまえば、そもそもジークハルトのように無感情を装ってしまえば、楽だったことだろう。

 それでも彼女は変わらず想い続けてくれていた。

 

「イヴ」

 

 ジークハルトは止めどなく涙し続ける少女に狂おしいほどの罪悪感と感謝の念、そして戦慄を覚えた。

 二人の間に横たわっていたテーブルを迂回し、彼女の隣に腰掛けて、片腕でそっと抱きしめる。イヴリーナは抵抗することなくジークハルトの胸元に顔を寄せた。


「ジーク様……ジーク様……」

 

 押し殺した声で子供のように主の名を呟きながら、少女は泣き続けている。

 ジークハルトは自身の胸元に抱き寄せた彼女の頭を優しく撫でつつも、多大な不安感に苛まれていた。


 これまでのジークハルトは欠片も疑問に思っていなかったが、今まさにイヴリーナの在り方を目の当たりにして、否応なく気付かされた。

 テイラス家の担う《護影》という役目は未だしも、各人専属の《影》という存在。これは奴隷以上に隷属を強いる恐ろしい慣習だ。

 物心付く前から擦り込まれる価値観は絶対の忠誠心を抱かせ、無意識から本人を束縛する。なまじ兄妹同然のように育てられて、否応なく親愛の情を抱かされるものだから質が悪い。忠誠と情愛が切っても切り離せないものとなることで、どれほどの苦難にも耐え得る心を作り出す。


『貴方の意志はどこにあるの』


 おそらくイヴリーナの意志はジークハルトにある。

 別段、誰かが誰かに従属することが悪いことだとは思わない。

 しかし、その忠誠は己の意志で行わなければならないはずだ。

 自らの意志を預ける相手は、自らの意志により選び、決めなければ、それは本物ではない。洗脳紛いの教育によって行われるべきでは決してないのだ。


「そうか……だから殿下は……」

 

 ミスティリーファがジークハルトを認めなかったのも当然だ。

 彼女の騎士に叙任されたことに当人たちの意志は介在していなかった。

 ジークハルトは周囲に流されるがまま騎士となり、依然として己の意志を父へと投げ出したままだった。

 何の信念もなく、別の誰かに意志を預けた者から忠誠を向けられても、そんなものは嘘偽り以外の何物でもなく、受け入れられるはずもない。

 

 イヴリーナは確かに良く尽くしてくれている。

 泣くほど苦しかったはずなのに、変わらず親愛の情を抱き続けてくれていた。

 だが、それは雛鳥が最初に見たものを親だと思い込むのと同様に、当人さえも――当人だからこそ自覚できない、無意識下に擦り込まれた価値観故の行為なのだ。

 ジークハルトという絶対存在があって初めて、イヴリーナという少女の存在が成り立っている。おそらく彼女はジークハルトがどんな酷いことをしようと、変わらぬ想いを抱き続けるだろう。強姦しようと、眼球を抉り出そうと、殺そうとしても、受け入れるかもしれない。


 そのことが酷くおぞましく、そして哀れだった。

 イヴリーナは身分こそ奴隷ではないが、奴隷以上の奴隷だ。

 以前聞いた話によると、昔ヴィリアス家の者が亡くなった際、その《影》だった女性は自殺したという。帝室近衛騎士のように、主を守り切れず殺害されれば、その騎士は自害せねばならないという類いの誓約など存在しないにもかかわらず、自ら命を絶って主の後を追った。

 もし、彼女の前から絶対存在であるジークハルトが消え去れば、どうなるか。


「…………」


 イヴリーナの様子が落ち着いてきた頃。

 ジークハルトはゆっくりと彼女を胸元から離し、隣に座る少女の顔を覗き込んだ。目元は赤く腫れ、頬は紅潮し、身を縮こまらせて、見るからに申し訳なさそうにしている。


「あ、あの……ジーク、様……申し訳ありませんでした、お見苦しい姿を、晒してしまい……」

「いや、いいよ、俺が原因なんだ。それに昔はよく泣いていただろう」

「そ、それはっ……そうですけど……」


 耳まで赤くして顔を俯け、イヴリーナは口を閉ざしてしまった。

 二人の間に沈黙が流れるが、それは決して気まずいものではなかった。どこか温かく心地良い静寂で、いつまでも浸っていたいと思えるものだった。

 しかしジークハルトはそれを振り払って、少女の存外に華奢な肩を右手で掴んだ。


「イヴ」

「え……ぁ、はい」


 八年ぶりに触れ合い、近距離から真っ直ぐに見つめたせいか、イヴリーナは少し緊張しているようだ。それはジークハルトも同様だったが、今はそんな感傷に浸っている場合ではなかった。

 

「もし俺が死んだり、消えたりしても、お前は決して死ぬな。そして自分の意志で、自分のために生き続けろ」

「……え?」

「頼む、誓ってくれ」


 ジークハルトはイヴリーナの胡桃色の瞳から目を逸らすことなく、真摯に見つめ続ける。

 突然のことに、彼女は虚を突かれたように唖然としていたが、すぐに表情を引き締めて頷いた。


「はい、誓います。私は死にませんし、自分の意志で自分のために生き続けます」


 きちんと目を合わせて、確かな力強さで頷きを返してきた。

 彼女の言葉を聞いてジークハルトはひとまず安堵しかけるも、「ですが」という声がそれを中断させた。


「ジーク様は死なせませんし、消えさせません。私がお守りいたします。どこへなりともお供いたします」

「――――」

「ジーク様が誓えと仰るならば、もちろん誓います。ですが、そのようなことを仰らないでください」


 毅然とした表情から一変して、涙の痕の残る整った面差しに影が差した。


「確かに現状は不確かで、何か大きな事に巻き込まれてはいるようですが……私のことを案じてくださるよりも、ご自身のことに気を向けていてください」

「いや、その、俺は……」

「ですが、心配してくださってありがとうございます、ジーク様」


 淡く微笑む姿は可憐で、その声からも表情からも、主を信頼しきっていることが窺い知れる。

 ジークハルトはどこまでも純直な姿を見せられて、密かに苦々しく思った。

 それを彼女に悟られないよう、そして彼女との別れを惜しむ自らの心を誤魔化すため、右手をイヴリーナの肩から頭に移した。


「ありがとな、イヴ。お前は俺なんかにはもったいないよ」

「……ジーク様」


 八年ぶりに撫でてみても、頭の形は子供の頃とさほど変わらず、懐旧の念にかられてしまう。イヴリーナは何を思ったのか、感じ入るように閉ざした双眸から再び涙を零して、しかし口元には笑みが咲いている。


「本当に、もったいない……」


 声にならない声で呟き、ジークハルトは自嘲に口元を歪めた。

 こんな不甲斐なく愚かしい男などより、彼女が尽くすに値する者は他に幾らでもいるだろう。そして今の何倍も幸せになれるはずだ。

 だから、彼女は連れて行けない。

 幼馴染みであり、妹であり、家族であり、従者でもあるイヴリーナ。

 レオンハルトやリュゼリーナは大切にしろと言った。

 そんなこと、言われるまでもない。


「ごめんな、ありがとう」


 心からの言葉を彼女に告げて、心残りを消し去った。


 そしてこの翌日、ジークハルトは亡き姫君の仇を討つという目的のため、単身町をあとにした。

 

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