表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幼女転生  作者: デブリ
七章・黄昏編
147/203

 間話 『彼と彼女の裏事情 前』


 ■ Other View ■



 かつて、彼は木偶だった。


「初めまして……というのは適当じゃないわね。何度か祝賀会なんかでは会っていたし。でもまあ、アタシは貴方のことあんまり覚えていなかったし、やっぱり初めましての方がしっくりくるわね」


 成人して間もなく、ジークハルトは騎士として叙任された。

 己の主となった少女はそう前置きをして、勝気な瞳で真っ直ぐに彼を見据えた。


「一応、改めて挨拶はしておきましょうか。知っての通り、アタシはミスティリーファ・ミル・オールディア。今日から貴方のご主人様……ということになったわね」

「自分はジークハルト・ヴィリアスと申します。どうかよろしくお願いいたします、ミスティリーファ様」


 ジークハルトは義務的に、淡々と挨拶を返した。

 相手はオールディア帝国の第二皇女であり、帝都の民からは美姫と名高い十四歳の少女だ。十五歳になったばかりの青少年としては幾分も心乱される可憐な容貌を持つ相手である……はずだが、彼には緊張感など皆無だった。

 既に余計な感情など捨て去って久しい。


「名前長いからミーファでいいわよ……と、そう言いたいところだけど、その前に幾つか質問をするわ。嘘偽りは許さないから、正直に答えなさい」

「はい」

「とりあえず、そうね……貴方、自分の目が死んでること自覚してる?」

「……はい」


 肯定はしたが、人から指摘されたのは初めてだった。

 ジークハルトは帝国でも屈指の名門貴族ヴィリアス家の次男であり、その身分は相応に高い。面と向かって失礼な物言いをされた経験は数えるほどしかなかった。

 しかし、それを抜きにしてもジークハルトはきちんと人並みの面構えに見えるよう意識していた。容易に「目が死んでいる」などと思われるような弛んだ表情は厳格な父が許すはずもないからだ。


「もしかして、アタシの騎士としてのやる気は皆無?」

「いいえ」


 早速、嘘を吐いた。

 ジークハルトとしては騎士だの姫だの、どうでも良い問題だった。

 やる気があろうとなかろうと、騎士という立場が己に課せられた役割なのだから、そこに否応などないのだ。


「姫様相手に臆面もなく嘘吐いたわね、その胆力はいいわよ」


 なぜかご機嫌な様子で言って、笑顔でうんうん頷く少女。

 彼女は市井ではともかく、城内では変人で通っていた。

 

「正直、アタシも貴方のご主人様としてのやる気は全然ないのよね。だって全部勝手に決められたことだし。帝室近衛は一人しか選べないし、謂わば腹心になる人なんだから、自分で選びたかったのに」

「…………」


 ジークハルトの実家であるヴィリアス家の歴史は長い。その始まりは帝国の建国当初まで遡り、代々が帝室近衛騎士としての任を果たしている。

 実際、ヴィリアス家当主であるジークハルトの父は皇帝を守護する帝国第一の騎士であり、兄は第一皇子の騎士だ。皇族との繋がりは帝国中で最も強い貴族なので、今回の叙任にジークハルトやミスティリーファ本人の意向は一切斟酌されていない。全ては伝統と政治的な思惑による結果だった。


「とはいえ、決まっちゃったものは仕方ないわ。アタシにも貴方にも、身分故に求められる最低限の役割というものがあることだし」

「…………」

「問題は、貴方が私の腹心として相応しいかどうかってこと。今からする質問はとても大事なものだから、今度こそ嘘偽りは許さないわよ」

「はい」


 適当に頷きを返すと、皇女様はこれまでの友好的な――人当たりの良い笑みを引っ込めて、別人のように顔を引き締めた。年下とは思えない玲瓏とした雰囲気を纏い、ジークハルトの死んだ目の奥底を覗き込むように、あるいは見透かすように見つめる。そして挑むような、試すような、芯の通った凛然とした声で告げた。


「人として、最も大切なものは何?」


 ジークハルトは返答に窮した。

 命、金、名誉、家族……答えは幾つか思い浮かんだ。

 が、どれも正解ではない気がして答えあぐねる。


「答えなさい」

「…………名誉、でしょうか」

「名誉、ね。なら貴方は、名誉のために死ねる?」

「そうすることを望まれたなら、死ねます」


 死ねと命じられれば、ジークハルトは死ねる。

 それは自信や覚悟というよりも、諦念に端を発する判断だった。


「……なるほど。望まれたなら、ね。ま、それは騎士としてある意味正しい在り方なんでしょうね。でも、名誉なんかよりもっと大切なものがあるのよ」

「それは、なんでしょうか」


 特に気になったわけではないが、主の手前、相槌を打っておいた。

 そんなぞんざいな気持ちの彼に反して、彼女は決然と言い切った。


「己の意志よ」

「……意志?」

「ひとりの人として、自らの意も志もなく生きている者を、アタシは人として認めない。自由意志こそが人を人たらしめる。だから、アタシは奴隷が嫌い。生まれ持つ最も大切な権利を放棄して、当然のように隷属し、思考を停止する彼らも、それを強いる制度も大嫌い」


 皇女らしからぬ発言だった。

 これまでに幾度か顔を合わせたことはあったし、言葉を交わしたこともある。

 しかし、これほどの変人だとは思っていなかった。

 世に遍く知れ渡るエイモル教ですら奴隷制を容認しており、オールディア帝国という一大国家の頂点に君臨する皇族とは奴隷・平民・貴族全ての上に立つ絶対者たちだ。

 

「さて、貴方はアタシの騎士となったわけだけど、アタシはべつに絶対の忠誠を誓えだなんて強制はしないわ」

「ですが、既に先ほどの式典で騎士の誓約を――」

「あんな形式上のものに、実際的な意味なんてないわよ」


 皇女らしからぬ彼女は鼻で笑って一蹴し、美しくも気高さを窺わせる双眸でジークハルトの顔を直視する。


「忠誠は貴方の意志で、貴方自身が心からアタシに対して仕えようと思ったとき、改めて受け取るわ。でも、今のままの貴方をアタシは決して認めはしないから、今の貴方からの忠誠もいらない」

「…………」

「それでも貴方は形式上、アタシの騎士になった。だから、いつかアタシが認める貴方になってもらうために、言ってあげる」

 

 それは力強く、綺麗な瞳だった。

 相対するのが躊躇われるほどに澄み渡り、一切の濁りなく鮮烈な輝きを秘めている。ジークハルトは思わず目を逸らしそうになるが、しかしなぜか惹かれるものを感じた。


「ジークハルト・ヴィリアス」


 そうして、オールディア帝国の第二皇女ミスティリーファ・ミル・オールディアは力強い声で告げた。己の騎士となった少年に向けて、ひたすら真摯に、あるいは挑発するかのように揺るぎない眼差しと共に、ジークハルトの胸にその言葉を刻みつけた。


「貴方の意志はどこにあるの」




 ■   ■   ■




 ミスティリーファは幼い頃より星が好きな少女だった。

 そして大勢の侍女や護衛につきまとわれることを厭う少女でもあった。

 だから満天の星空を眺めるため、深閑と静まり返った真夜中に、彼女は単身居室を抜け出ることが多かった。

 当然、幼少期より続く彼女の奇行は侍女たちを困らせ、広々とした城内の警備は昼夜を問わず一層厳重になり、外部からの侵入はもちろんのこと、姫君も容易に居室を抜け出すことができなくなっていった。


 しかし、彼女は専属の騎士ジークハルトを得たことで、大義名分を獲得した。

 あのヴィリアス家出身の帝室近衛騎士が護衛としてついたのだから、昼夜を問わず自由に城内を歩き回ることに危険はあるまい……という主張を父親である皇帝へと突きつけて押し通し、護衛はジークハルト一人だけという状態で、深夜だろうと城内を闊歩できる権利をもぎ取った。

 シークハルトは父の言うことに従い続けてきたことで、誰に対しても常に生真面目と受け取られる言動で振る舞ってきたため、帝国騎士の鑑と呼ばれる家柄も相まって城内での評判は専ら良好であり、奇しくもその事実が彼女の無茶を押し通す一助となった。

 

「フフ、貴方の名前、なかなか使えるわね。思わず貴方のこと認めちゃいそうになっちゃったわ」


 そう言ってミスティリーファは嬉し楽しそうに微笑み、広々とした壮美な廊下を足取り軽く歩いている。城内では変人と名高い姫君は、形式上は己の騎士である者の眠気など斟酌せず、護衛として付き合わせていた。

 真夜中だろうと城内の主だった廊下は魔石灯の光に照らされているが、現在歩いている通路に灯りはなく、手に持つ角灯型の魔石灯で夜闇を退けている。


「らららー、らーらー、ららーん」

「…………」


 鼻歌交じりに歩く姿は愛らしくも美しい。

 が、彼女は酷く音痴だ。滑稽を通り越して不快なほどであり、ジークハルトは思わず眉をひそめてしまいそうになった。


「ここはどっち?」

「……こちらです」


 ジークハルトの先導で廊下の曲がり角を折れ、目的地を目指して歩いて行く。

 姫君は城内を巡回する警備兵たちとの接触を避けるため、ジークハルトに巡回路を探らせ、彼らと鉢合わせないようにしていた。

 彼女曰く、それは気遣いらしい。

 いくらミスティリーファが単独護衛による深夜闊歩の権利を得ているとはいえ、仮にも年頃の男女が深夜に二人きりの状況だ。ヴィリアス家の次男坊を信頼する者は多いが、何かと心配する者も少なくない。

 城内の警備隊隊長は二人を発見し次第、なんとか兵を張り付かせるよう侍女長から指示を受けているという。ただの侍女ならば未だしも、侍女長ともなれば、その影響力は無視できない。

 しかし一応、姫君の行動には表向き正式な許可が下りている。故にミスティリーファは警備隊の者が板挟みに遭っている現状を慮り、それならば発見されないようにすれば誰にも迷惑は掛からないという結論を出した。

 その誰にもに騎士ジークハルトが含まれていないのは語るべくもない。


 しばらく歩いた後、目的地である中庭に到着する。

 色とりどりの花々が咲き乱れる広大なそこはジークハルトとて見飽きるほど見知っているが、深夜ともなると少々その様相は異なる。篝火も魔石灯もない花園は天から降り注ぐ淡い光に照らされて、幻想的な雰囲気を醸し出している。

 

「ふぅ……ここで星空を眺めているときが一番落ち着くわ。本当は郊外の丘の上にでも寝転がりたいところだけど」


 憩いの場でもある中庭には長椅子も当然設置されているが、ミスティリーファは芝生の上に仰向けに横たわると、天上で無数に煌めく光を瞳に映し始める。

 しかし、すぐに傍らで直立不動となっているジークハルトに目を向けると、手招きをした。


「貴方も寝転がってみなさい」

「はい」

「そういう変に遠慮しないところ、アタシは好きよ……と言いたいところだけど、貴方の場合は少し違うからねぇ……」


 姫君の呟きを聞き流しつつ、ジークハルトは命令通り彼女と少し距離を空けて横たわった。視界のほぼ全てが星明かりで埋め尽くされ、壮大な美しさに意識を奪われかける。


「ま、貴方のそういうところは追々矯正していくとして。どう、ジークハルト、感想は?」

「綺麗ですね」

「……それだけ?」

「はい」


 ジークハルトは隣から溜息を聞き取り、ちらりと横目に窺ってみた。

 すると、帝都の民からは美姫と名高い少女が呆れ顔を見せていた。


「貴方、そんなことじゃ女性を口説けないわよ。こういうときはもう少し語彙も情緒も豊かに表現しないと」

「気を付けます」

「本当に? じゃあ練習として、アタシの歌の感想を言ってみなさい。特別に今から国歌を歌ってあげるから」

「――え゛」


 思いがけない展開に声を漏らしてしまう。

 そんなジークハルトを姫君はじとっとした眼差しで不機嫌そうに見つめた。


「なによジークハルト、今の嫌そうな声は。まさか貴方までアタシが音痴だと思ってるんじゃないでしょうね?」

「…………いえ、そのようなことは」

「今の間は何なのよ」


 ミスティリーファの音痴は城内の者にとって周知の事実だ。

 そして彼女が頑としてそれを認めていないこともまた、暗黙の了解である。

 

「まったく、みんな揃ってアタシを音痴音痴と……どこがおかしいのよ、ちゃんと歌えてるじゃない」

「…………」

「アタシの味方はクリスだけね。つまりアタシが音痴だとあの子も音痴ってことになるのに、クリスは音痴扱いされてないし、やっぱりおかしいわよ。そうでしょう、ジークハルト」

「そうですね」


 ジークハルトは即座に同意しておいた。本当は応じあぐねたが、これ以上の面倒を避けるためには嘘偽りもやむを得なかった。

 尚、クリスとはミスティリーファの妹である第三皇女クリスティーナのことだ。あの姫君は単純に姉が大好きなだけなので、健気にも庇っているだけなのだろうが……。

 

「即答したってことは嘘ね。貴方、アタシ相手でも本当に臆面もなく嘘吐くわね」

「…………」

「沈黙は金って? そういうところは嫌いよ。正直に答えなさい、ジークハルト。貴方、アタシのこと音痴だと思ってる?」

「はい」

「…………そ、即答したってことは嘘ね」


 ミスティリーファは独り言のように呟き、ジークハルトから目を逸らした。

 彼女は頭脳明晰であり、魔法の才に秀で、武術も人並み以上にこなす自他共に認める才媛だ。だからこそ、音痴という間抜けた欠点を認めたくはないのだろう。

 皇女という立場故か、年齢に似合わぬ言動や驚くほど強い眼差しを見せることこそしばしばあるが、こういう面はまだまだ年相応だ。


「まあ、それはともかくとして……ジークハルト」


 不意に、打って変わって真剣な声で呼び掛けられる。

 ジークハルトは反射的に身体を起こして向き直ろうとした。

 が、隣から伸びた華奢な手が彼の額を抑え付ける。

 ジークハルトがその行為の如何を問う前に、彼女は手を放して天を指差した。


「あの星の名前、分かるかしら? ここから少し右手の方で強く輝く、橙色のよ」

「申し訳ありません、存じません。私は星には疎いものですから」

「あれはルティカという名よ。貴方はあの星のようになりなさい」

「……は?」 


 突然よく分からないことを告げられ、ジークハルトは眉をひそめた。

 しかし姫君は相も変わらぬ真面目な口調で語る。


「いい? 世の中はね、この星空みたいなものなの。数え切れないほど多くの人々が、それぞれの意志を持って生きている。強靱な意志のもとに生きて、周囲に燦然とその存在を知らしめる人。薄弱な意志故に自らの存在さえ主張できないまま、人知れず死んでいく人」

「…………」

「人と同じように、星も新たに生まれて、死んでいくものなの。いつかは消える輝きなのに、それでもああして強く光り輝いている」


 星空からミスティリーファの顔に視線を移すと、彼女の瞳は薄闇の中にあっても力強く見開かれ、天の煌めきを見つめていた。

 

「ジークハルト、今の貴方はこの空にある無数の見えざる星々と同等よ。輝きが弱すぎて全く見えない、全く惹かれない、全くもって頼りない」

「……も、申し訳ありません」

「謝るくらいなら、もっと強く生きてみせなさい。形式上でもアタシの騎士である以上、自分の足で立って、自分の力で歩きなさい」

「…………」


 相手は皇女様とはいえ、一つ年下の少女だ。

 さすがのジークハルトも少々情けなくなり、同時に悔しさも覚えた。


 しかし、全くもって彼女の言うとおりであると認めざるを得ない。

 優秀な騎士となるため、父からの厳格な教育に心が耐えきれず、自らの意志をなげうった木偶なのだ。父は息子の気持ちなど斟酌せず、日々過酷な鍛錬を施し、ヴィリアス家の男子であることを強制した。

 ジークハルトはそれに抗うこともできず、その資格もないのだと知っていた。帝国の名高き四大名門の一角を占める家の次男として、高貴なる者の義務は果たさなければならない。それがヴィリアス家に生まれついた者の責務なのだと、理解させられていた。

 だから父の言葉には逆らわず、逆らえず、しかし鍛錬の辛苦から逃れるため、考えることを止めた。思い悩むことを止めた。ジークハルトという個人を捨て去れば、あらゆる辛く苦しい感情を覚えずに済むと思ったのだ。


 父の言うことさえ聞いていれば、無駄に心を痛ませることなく、楽に生きていける。ジークハルトはそんな自分が嫌いだとすら思っていない。

 いや、思わないようにしていた。

 そんな己を姫君は認めず、きちんと己の意志を持って強く生きろという。

 それはとても辛く、苦しく、大変なことなのだと、ジークハルトは分かっている。だからこそ、気怠い諦念に満ちつつも、安楽とした現在の自分を続け、流されるように日々を生きている。


「アタシ、昔からあの星が好きなのよね。あんなに明るく輝いてるのに、どこか温かな光も感じられて、なんだか安心する」

「…………」

「アタシ、今の貴方は好きになれないわ。騎士として以前に、ひとりの人としても、認められない」


 ミスティリーファは凛とした声で言い、身体を起こして立ち上がった。

 細い両足で芝生を踏みしめ、背筋はすらりと伸び、片手を腰に当てて、ジークハルトを見下ろしている。


「でも、貴方がルティカのように強く輝ける日が来たら、アタシはきっと好きになれる。アタシの騎士として、ひとりの人として、認めてあげる。そのときはアタシのこと、ミーファって呼ばせてあげてもいいわよ」


 色とりどりに光り輝く星々の中で、力強くも優しげに微笑む彼女。

 その姿がやけに眩しくて、美しくて、尊くて、ジークハルトは得も言われぬ畏れを覚えた。そしてそれ以上に、強い憧憬の念を胸に抱いた。自分も彼女のような輝きを手に入れ、この人のように笑いたいと思ってしまった。


「ほら、今回は特別に手を貸して上げるわ。でもいつかきっと、アタシが立ち上がるのに貴方が手を貸せるくらい、強く逞しくなりなさいよね」


 ジークハルトは呆然としながらも、差し出された華奢な手をとった。

 すると思いのほか力強く握られて、ぐっと引っ張られる。


「って、貴方意外と重たいわね。早くこの立派な身体に見合うくらいの男になりなさい」


 ミスティリーファは立ち上がった彼の胸を拳で小突き、一人ですたすたと歩き始めてしまう。

 ジークハルトは胸の奥底に温かな何かを感じながら、姫君の背中を追いかけていった。




 ■   ■   ■




 騎士に叙任されて、一期後。

 ミスティリーファが十五歳の誕生日を迎え、成人して間もないある日。

 ジークハルトは父に呼び出され、一つの指示を受けていた。


「なぜ、殿下のご予定を?」

「いいからお前は私の言ったとおりにしていろ。次にミスティリーファ様が夜に中庭へ出向く際は私に報せるのだ」


 姫君が深夜に出歩く際、ジークハルトは彼女から事前にその旨を伝えられている。でなければ居室に迎えに行けず、そうなればミスティリーファは厳重に警備された深夜の居室を出ることができない。


「良いな、ジークハルト。言うまでもないが、このことは姫様には内密だ」


 父が何を考えているのか分からない。

 以前までのジークハルトならば唯々諾々と従うだけだったが、最近は違う。

 問い詰めたい気持ちがあって、実際に口にしようとするも、こうして父と相対すると身体が竦んでしまう。過酷な教育によって擦り込まれた実父の厳格さはジークハルトに恐れと畏れを抱かせる。

 

「分かりました……」


 結局、父の眼差しに屈してしまった。

 首肯を返し、逃げるように父の前から立ち去る。

 父に逆らうことのできない自分、ミスティリーファの求める強い自分、その狭間で彼は忸怩たる思いを抱いた。

 しかし、きちんとその感情と向き合って、次こそはと決意を固める。


「しかし、なぜ父上は殿下のことを……」


 歩きながらしばらく考えてみると、納得いくの答えを推測できた。

 ジークハルトとミスティリーファが数日毎に深夜の中庭に出向いていることは城内の者たちの知るところとなっている。なにせ居室の扉を守護する者には否応なく目撃されており、人の口に戸は立てられないものだ。

 それでも二人は警備兵が中庭を巡回しない時間を選んで足を運んでいるので、居室前以外では未だに誰かと遭遇したことはない。板挟み状態の警備隊も姫君と鉢合わせたりしないように、急遽予定を変更したりはせず、巡回予定を厳守している。

 

 だが、さすがに最近はよからぬ噂が増えている。

 最近ミスティリーファが成人したせいもあるだろう。姫と騎士の夜の密会だのなんだの、露骨に下世話な噂話が囁かれているのをジークハルトは知っている。

 その噂を払拭するには、警備兵に二人の様子を目撃させるのが良い。

 ただ中庭で星を見ているだけという事実を見せつければ、根も葉もない噂話も消失するだろう。名門貴族の当主としては息子が騎士として仕えるべき姫君に手を出しているという噂は、たとえそれが冗談混じりな戯言であったとしても、看過できない汚点のはずだ。

 

 父から命令された翌日、早速ミスティリーファが深夜の星空観覧を所望された。

 ジークハルトはその旨を父に伝えると、


「中庭に着いてしばらくしたら、お前は一人でその場を離れろ。そして急ぎこの部屋まで来い」


 現在ジークハルトと父が会話している場所は城内にある父の個室だ。

 オールディア帝国皇帝の帝室近衛騎士である父は側近中の側近であり、その権勢も強い。無論、ジークハルトとて城内に一室を貸し与えられている。


「……なぜ、ですか?」

「今夜この部屋に来たとき、教えてやる。とにかく、お前はお手洗いだなんだと理由をつけて中庭を去り、姫様を残して戻ってこい」


 噂の払拭が理由と思われたが、そうではない可能性が浮上してきた。

 仮に姫君を中庭に残して戻り、彼女が一人でいるところを警備の兵にでも目撃されれば、ジークハルト引いてはヴィリアス家の評価に傷が付くだろう。

 居室前で控える者たちから二人で部屋をあとにした場面は目撃されるので、姫君が一人で出歩いたという言い訳も成り立たず、確実にジークハルトの失態とされる。

 

「そのようなことをして、よろしいのですか?」

「良い。お前には理解できぬだろうが、それで良い。お前は姫様を残し、一人でここに来い」

「…………」

「返事はどうした、ジークハルト」 


 冷厳な声に強く促されるも、ジークハルトは逡巡してしまう。

 中庭に姫君を一人残し、その場面を余人に目撃されれば、もう深夜の星空観覧はできなくなるだろう。もしや父は侍女長その他の反対派から迫られ、姫君の行動を制限させるつもりなのかもしれない。

 だが、ジークハルトはあの時間をなくしたくないと思っている。

 誰もいない中庭で彼女と二人きり、星々を見上げながら言葉を交わしていると、得も言われぬ安らぎと高揚感を覚えるのだ。


 しかし、父から命令されている。

 使用人や文書を介さず直々に命じられる以上、何か重要な理由があってのことだ。ヴィリアス家あるいはジークハルトの立場に何か大きな影響を与えることかもしれない。

 父が息子に厳しくしているのも、誉れ高いヴィリアス家の家名を守るためであり、引いてはジークハルトの未来を案じてのことだ。今回のことにも、父なりの理由があり、そしてその理由は今夜話してくれるという。


「……分かりました。殿下を中庭に残し、私は単身この部屋へ参ります」


 ジークハルトはそうして半ば強引に己を納得させた。

 反対できない自分の弱さから目を背け、頷いた。


 後にこの現実逃避を死ぬほど後悔することになるなど、このときのジークハルトは思ってもいなかった。




 ■   ■   ■




 深夜。

 ジークハルトは主の居室へ迎えに行き、中庭への道を歩いて行く。

 その道中、姫君が自らの首筋を揉みながら、気怠そうに溜息を吐いた。


「お疲れですか、殿下」

「そうね……疲れてるわ、最近は特に」

「……でしたら、今日は部屋に戻られた方が良いのでは?」


 父の命じた件がどうにも気掛かりで、妙な不安感も覚えていたので、そう提案してみる。

 が、ミスティリーファは再び溜息を溢して、ジークハルトの肩をどついた。


「なに言ってるのよ、疲れてるからこそ行くんじゃない。あそこで寝転がって星を眺めているときがアタシの至福の時間なのよ」


 さすが変人と呼ばれるだけのことはある……とジークハルトは不敬にも思った。

 その気になれば贅沢三昧の日々を送れるというのに、彼女は皇女らしからぬ質素さを好む。鬱陶しいからと宝飾品の類いを好まず、堕落するからと侍女の世話を厭い、基本的に自分でできることは自分でする。

 姉に当たる第一皇女とは真逆とも言えるその人柄を慕う者も多いが、倦厭する者も多い。ただ、その理由の大半は、彼女がしばしば政治に首を突っ込むことに起因している。

 隣国であるグレイバ王国との戦争にも強く反対し、大臣や将軍たちに食って掛かったこともあると聞いている。魔弓杖の普及など近年の軍拡や周辺諸国への圧力、イクライプス教国との関係悪化やグレイバ王国民の扱いなど、ミスティリーファはそれらに反対的な意見を持っているようだ。

 最近では本格的に自身の派閥を作りだし、何やら忙しく動き回っているようで、数日前には宰相の部屋を訪れ、二人きりで話をしていた。かと思えば書庫に籠もって調べ物をしたり、人を使って何かの調査をさせてもいるようだが、ジークハルトは詳細を知らない。

 近衛騎士という立場上、彼女には同行する機会が多いとはいえ、大抵は部屋の前で待機させられたりするだけで、やることは簡単かつ少ない。

 それは未だにジークハルトを騎士としても人としても認めていない――信用していないからなのだろう。


「あー、なによもう……昼は晴れてたのに、雲出てるじゃない」


 中庭に到着し、ミスティリーファがいつもの場所に寝転がると、悔しげに呻く。

 とりあえずはジークハルトも普段通りの行動をとることにして、姫君の隣に横たわった。彼女の言うとおり、幾分か雲は出ているが、空の三割程度しか覆っていない。煌々と輝く双月も無数の星々も十分に眺めることができる。

 だが、ジークハルトは常々思っていることを口に出してみた。


「こう言ってしまっては不信心者ですが、黄月の明かりは雲とはまた違った意味で少々邪魔ですね。明るい分、相対的に星々の光が目立たなくなってしまいます」

「黄月……黄月ね」


 ミスティリーファは遠い眼差しで夜空を見上げたまま、思案げな声を漏らした。

 そしてジークハルトには見向きもしないで、物思いに訥々と呟いていく。


「天眼……聖神アーレ、《大神槍スラ・ド・トーレ》……聖邪神戦争…………ん?」

「どうかしましたか、殿下」 


 訝しげな声を上げたことに疑問を覚え、ジークハルトは様子を窺う。

 姫君は四肢を投げ出した仰向け姿勢のままで、その端正な顔は半ば呆然と天上を見上げている。が、次第にその面差しが険しく引き締まっていく。


「遺跡……だから戦争を……悪化して当然だし……軍拡は……でも強気が過ぎる……教国……鬼人、ハイネス……かつては神人と……だから暗黒期が……エイモル教……聖神、邪神……古代魔法文明……《聖魔遺物》……っ!」

「ど、どうかしたのですか……?」


 ミスティリーファは鋭く息を呑んだかと思うと、唐突に上体を起こした。

 そしてジークハルトの言葉には応じず、愕然とした顔で硬直していたかと思いきや、ゆっくりと天を振り仰いだ。


「まさか……奴ら、神にでもなるつもりなの……っ」


 今度はなぜか悄然と力なく頭を垂れた。

 左手は自らの身体を抱くように回し、右手は口元に当てて、不安げに悩ましげに眉根を寄せる。先ほどまでと一転して整った美貌から健康的な血色は失せており、ジークハルトは尋常ではない様子を感じた。


「アタシは、どうすれば……皇女として国を……でも世界は……いえ、その前に誰が……」

「殿下、大丈夫ですか」

「――っ!?」


 いい加減看過できず、そっと肩先に触れてみる。すると少女らしいか細い肩どころか全身を強張らせて、勢い良くジークハルトに目を向けた。しかし、常に強い光を湛えていた瞳は頼りなく揺らぎ、そこには怯懦と猜疑が表出している。

 これまで一度も向けられたことのない彼女からの眼差しに、ジークハルトは戸惑ってしまった。


「あの、大丈夫ですか、殿下。もしや体調が優れないのでは……?」

「……ジークハルト」

「な、なんでしょう」

「貴方は、アタシの…………いえ、何でもないわ。アタシは大丈夫よ。だから手を放してちょうだい」

「あっ、も、申し訳ありません」


 いつまでも肩に触れていた己の手を引っ込めて、ジークハルトは片膝を突いた格好で頭を下げた。

 するとその頭上に普段から聞き慣れている凛とした響きの美声が掛けられた。


「心配させたようだけど、少し考え事をしていただけよ」

「そう……ですか」

「そうよ。まだ少し考えたいから、予め言っておくわ。黙り込んでても体調が悪い訳ではないから、心配は無用よ」

「はい。承知いたしました」


 ジークハルトが返事をする前に、姫君は再び芝生に背中を預けた。

 だが先ほどまでと違って、その表情は何か切羽詰まったように引き締まり、望洋とした眼差しは星々を見ているようで見ていない。

 

「……………………」


 どうしようか、ジークハルトは逡巡した。

 今日の姫君は少し様子がおかしい。

 そんな彼女を残して、不明な理由から一人この場を去り、父のもとへ向かわねばならない。中庭に残った姫君には警備兵か誰かから接触される可能性が高い。

 今の主を一人にして良いものかどうか……と悩みはしたが、結局ジークハルトは父の命令に従うことにする。


「殿下、申し訳ないのですが、少々お手洗いに行っても良いでしょうか」

「なによ、いつも事前に行っておくよう言ってるでしょ。まあ……今日はいいわ、今は一人で考えたいから……」

「はい、ありがとうございます。それでは失礼します」


 ジークハルトは立ち上がり、寝転がるが主に背を向けて中庭を出て行く。

 城内の廊下を一人で歩き、父の待つ部屋へと足を伸ばしていくが……。

 ややもしないうちに立ち止まった。


「……いや、でも、なんか」


 無性に嫌な予感がした。

 先ほど見せた姫君の尋常ならざる様子のせいか、妙な胸騒ぎがする。

 あるいは未だに唯々諾々と父に従うことに対する抵抗感が、姫君のもとへ戻るようにと、妙な錯覚を覚えさせているだけかもしれない。

 いずれにせよ、足が前に進まなかった。

 

「やはり、殿下に相談してみるか」


 今日のミスティリーファは何やら思案げだが、彼女にも関わりのあることだろうし、話しておいた方が良いだろう。父からは内密だと言われたが、父より主の方が大切だ。

 姫君と出会う前と比べて、そう思える程度にはジークハルトは少し変われていた。


「…………ん?」


 半ば駆け足になって広大な中庭に戻ると、姫君のいる芝生の向こうに人影が見えた。やけに大柄なそれは少女然とした体格の彼女であるはずもなく、姫君の方へと近付いているようだ。

 一瞬、身を潜めて様子を窺おうかと思いかけるも、もし相手が警備の兵なら姫君一人でいるところを見られるのは不味い。

 全力で走り寄っていくが、人影の方が先に姫君と接触したようで、彼女は立ち上がって何者かと相対している。だが、その何者かの手に月光を禍々しく照り返す巨大な鋼が握られているのを見て、ジークハルトは思わず剣を抜いた。無闇に城内で抜剣などすれば懲罰ものだが、状況は明らかに非常事態にあった。


「殿下!」

「ジークハルト!?」


 振り返ったミスティリーファの表情には驚愕と猜疑が表れていた。

 彼女は険しく顔を引き締めて身構えるも、何はともあれジークハルトは主の前に割り込んで、見覚えのない獣人と正対する。


「殿下、彼は何者ですか」

「何者って……貴方……」 


 背後から訝しげな呟きが聞こえたと同時、正面の巨漢が片手で乱雑に頭を掻き始めた。


「おいおい、姫様は一人だって聞いてたんだが……ま、いいか。まだガキとはいえ騎士様なら少しはデキるはずだしな。退屈な仕事も少しは楽しめそうだ」

「貴様、名を名乗れ、どこの者だ」


 男の年齢は三十以上だろうが、毛深い顔のせいで判然としない。筋骨隆々とした肉体はまさに屈強の一言に尽き、上背もジークハルトより頭一つ分以上は大きい。

 その身を包むのは警備隊の制服でも何でもなく、荒くれ者然とした容貌に似合う猟兵の如き軽装だ。しかも背嚢リュックまで背負っており、そんな平服の者が城内にいることはまずあり得ない。


「ハハッ、まずは名乗りを上げるのが騎士様流ってか?」


 剣を構えるジークハルトの誰何に対し、身の丈ほどもある戦斧を楽々と片手で持つ獣人は愉快げに笑った。


「ま、いいぜ。だがオレの前にまずはテメェからだ」

「私はジークハルト・ヴィリアス。ミスティリーファ様の騎士だ」

「そうか、オレはグレンだ。どこの者かと言われれば……《黄昏の調べ》の者ってことになるか」

「……なるほど、そういうことね」


 ふとミスティリーファが声を上げた。

 前方を警戒しつつもちらりと振り返ってみると、姫君は呆れたように苦笑している。


「アタシの動きから何か感付いたと見て、消そうってわけ。仮にも皇女を相手に、城内でこの暴挙はさすがに全くの想定外だけど……ま、綱紀粛正の生贄って意図があると思えば、納得できなくもないわ。相手がアタシなら懐柔が無意味って判断も妥当ね」

「殿下……?」

「ジークハルト、最近ヴィリアス卿から何か言われたでしょ? だからさっき中庭を出て行って……でも戻ってきた。一応聞いておくけど、貴方アタシの味方?」


 状況は判然としないが、ミスティリーファの様子から窮状にあることだけは察せられた。


「無論です。私は殿下の騎士です」

「よろしい、父親よりアタシを選んだことは褒めてあげる。でも最後まで迷ってた挙句にこの状況だから、差し引きゼロね」

「殿下、この場は私が。その隙にお逃げください」


 数リーギスの距離を置いて向かい合う男は両刃の斧を肩に担いで様子を窺ってくるだけだ。グレンと名乗った獣人が敵であることは確かなようなので、戦端が開く前に逃がした方が良い。

 というジークハルトの判断は、しかしグレンが否定した。


「生憎だが、逃げられねえぞ。今この中庭にはかなり上等な結界魔法が張られてるからな。たとえ大声張り上げても誰も来ねえぜ」

「でしょうね、この状況でみすみす逃がす気なんてないでしょうよ。まあアタシ一人だとキツかっただろうけど……前衛がいれば何とかなるっ、いくわよジークハルト!」


 名を呼ばれた騎士は主の意を察し、敵手へと踏み込み、白刃を振りかぶる。

 殺人の経験はまだないが、とうに覚悟はできていたので、躊躇いはなかった。


「いいぞいいぞ、姫魔女とその騎士なんつー組み合わせなんざ、滅多に経験できるもんじゃねえ! ハッハァッ、んだよおい、こりゃなかなか楽しめそうじゃねえか!」

「夜露は結し、列なり、氷刃となりて中空に顕現す。蒼穹こそが我が水瓶、虚な大海は殺戮の金床」

「ハァ――ッ!」

 

 背後の詠唱を聴きながら、裂帛の気合いを込めて剣を振るう。

 だが獣人の巨漢は危機感や焦慮の念など欠片も見せず、どころか愉しげに破顔して、余裕綽々と言わんばかりに戦斧で剣撃を受け流す。のみならず、野太い足で鋭く重い蹴りを見舞ってくる。

 ジークハルトはなんとか避けるが、続けて繰り出された拳までは躱しきれず、腹部にめり込んだ。


「貫け斬り裂け縫い止めろ、冷厳たる刃の銀光よ奔り屠れ――〈氷槍リベャ・ルィア〉!」


 吹っ飛ぶジークハルトと入れ替わるように、水属性上級魔法が飛来する。

 二十本の氷の槍は夜気を切り裂くように敵へと鋭く襲いかかる。しかし、男は鈍重そうな見た目と得物に反して、驚異的な速度で躱し、軽々と戦斧を振るって叩き落とし、あまつさえ氷槍を片手で掴んで受け止めた。


「そんな……」

「こいつは返すぜェ!」


 グレンは唖然とするミスティリーファへと氷の槍を投擲する。

 姫君は戦い慣れていないはずだが、すぐに驚愕から脱し、俊敏に横合いへ跳んで回避する。だが敵手の身体能力は常軌を逸していた。その身に一抱えほどもある背嚢リュックを背負っているというのに、ジークハルトの全速力以上の動きで詠唱する間もなく接近し、戦斧を振りかぶっている。

 

「殿下!」


 それでも氷槍が投擲された頃から走り寄っていたジークハルトの方が僅かに速かった。主と敵の間に割り込み、立ちはだかって、迫る一撃を受け流す。が、予想以上の重たい衝撃に膝と肘が曲がり、刃にヒビが入って、流しきる前に折れた。


「――ぐッ!?」


 左腕が半ばから切り落とされ、激痛を感じる間もなく蹴り飛ばされる。

 十リーギスは滞空してから芝生を転がり、石造の長椅子に衝突して勢いは止まった。しかし頭部を激しく打付けて、一気に意識が朦朧とする。


「おいおいどうしたどうしたァ! こんなもんか!? 弱すぎだろおいッ!」


 霞む視界に映るのは野太い片腕に首を掴まれて持ち上げられる姫君の姿だ。


「ん? ほう……テメェなかなかいい目してやがるな。てっきり泣き喚いて絶望するかと思ったが」

「ぐ、ぅ……」

「死ぬと分かってる状況で、その目をできる奴はなかなかいねえんだぜ? テメェ、お姫様より戦士の方が向いてんぞ」


 苦しげに呻くミスティリーファにグレンは声を上げて笑っている。

 ジークハルトはなんとか身体を起こそうとするが、指先が僅かに動く程度だ。

 意識の混濁は酷くなる一方で、否応なく目蓋が落ちた。


「ふむ……オレは気に入ったぜ、お姫様。十五の乳臭えガキは好みじゃねえし、命令無視してやろうかと思ったが、やめだ。その誇り高そうな面を盛大に歪ませて、屈服させてやるよ」


 そんな傲然かつ愉悦に塗れた声が聞こえたのを最後に、ジークハルトの意識は闇に堕ちた。




 ■   ■   ■




 眩い光が目蓋越しに意識を苛み、ジークハルトは目を開けた。

 すると、窓辺から差し込む光に照らされて一人の少女の顔が見え、思わずその名を口にする。


「……イヴ」

「ジーク、ハルト様」


 少々の驚愕と安堵の表情を見せながらも、どこかぎこちない声で彼女は応じた。

 生い茂る樹葉を思わせる深緑の翼は目に優しく、穏和でありながらも凛然とした強さを秘める顔立ちは良く整い、頭髪は肩のあたりで綺麗に切り揃えられている。

 黄褐色の瞳には優しさと気まずさが混交し、なんとも言い難い距離感を感じさせた。


「ここは……俺の部屋か」

「はい。ジークハルト様、体調は如何ですか?」

「体調? まあ、普通だが……」


 未だ覚醒しきれていない頭を枕に預けたまま、ぼんやりと返答した。

 イヴリーナはベッド脇の椅子から立ち上がり、事務的な口調で告げる。


「そうですか、それは何よりです。それでは御当主様をお呼びして参りますので、少々お待ちください」

「あ、あぁ」


 綺麗に一礼した後、イヴリーナは音もなく歩き出して扉の向こうへ消えていった。その間、ジークハルトはただ彼女の背中を見つめながら、奇妙な感慨に耽っていた。


 イヴリーナ・テイラス。

 物心付く前から共に育ち、幼少期までは妹のような存在だったが、今では主従というだけの冷めた関係となった少女。

 そうなった原因は全てジークハルトの不甲斐なさにあった。


 オールディア帝国の建国当初から、ヴィリアス家は帝室を守護する騎士の家系として存続している。それと同様に、テイラス家はヴィリアス家を主と定め、主家を補佐するための家系として同等の歴史を重ねている。

 しかし、ヴィリアス家が爵位を有し、帝国の名高き四大名門貴族の一角として君臨しているのに対し、テイラス家はその家名も存在も秘されている。主家を様々な形で裏から補佐する《護影ごえい》という独自の役目を担う関係上、当然表沙汰にはできない汚れ仕事も数多くこなしている。

 帝国史にも決して名が残らぬヴィリアス家の闇。

 それがテイラス家だ。


 ヴィリアス家の者には必ず一人、異性の専属補佐――通称《影》が就く。

 幼少期から共に過させることで信頼関係を築かせ、主あっての己という価値観を徹底的に擦り込み、何があろうと決して主を裏切らない従者を教育するのだ。

 ヴィリアス家の次男たるジークハルトも、一つ年下のイヴリーナとは兄妹同然に育ち、しかし主従として絶対の上下関係が存在することを教え込まれてきた。

 ジークハルトが七歳になるまでは何一つ問題のない良好な関係を築けていたが、本格的な教育が始まってから少しずつ関係が淡泊になっていった。家名を汚さぬ立派な騎士とするべく、父は息子に過酷極まる教育を施し始め、ジークハルトはそれに耐えるために心を殺したからだ。

 喜びがなければ哀しみはありえず、楽がなければ苦は成り立たない。

 感情を押し込め、思考を停止していなければ、壊れてしまいそうだった。

 

 息子の精神が追い詰められるほど、父が厳格な教育を施した所以は、長男の存在にある。誉れ高きヴィリアス家の長い歴史の中でも、随一と評されるほどの神童であり、現在も天才と名高き兄レオンハルト。

 その非凡極まる前例が父の次男に対する期待感を高め、どんな無理難題だろうと片手間に片付ける兄と同等、あるいはそれ以上に過酷な教育を次男に施した。

 しかし、凡人であったジークハルトには負担が大きすぎた。

 結果、彼は耐えがたい現実から逃れるため、心を殺すことで自己を守るしかなかった。

 

 だからこそ、イヴリーナとの関係も次第に淡泊なものに変化していった。

 彼女がどれだけの優しさを見せようとも、あらゆる全てに対して心を閉ざしたジークハルトは素っ気なく、心ない対応でやり過ごした。イヴリーナと共に過す時間は心穏やかなもので、だからこそ鍛錬の辛苦が際立ち、その激しい落差はジークハルトにとって毒以外の何物にもならなかった。

 彼女だけでなく、母親や弟妹たちをも蔑ろにして全ての喜楽をなくさなければ、辛苦に対して己を保てなかったのだ。

 

 そうして七歳から十五歳に至る現在までの約八年間で、イヴリーナとの兄妹の如き温かな関係は薄れ、代わりに主従としての冷たい関係が完成した。

 兄レオンハルトは自身の《影》でありイヴリーナの姉であるリュゼリーナと公私共に極めて良好な関係を築き、寝所まで共にしているほどだ。男の《影》が必ず女性であるのは、気兼ねなく性欲を解消できるようにするためでもある。

 しかし、当然ながらジークハルトはまだイヴリーナに手を出せていないし、出そうとも思えない。仮に彼女の側から申し出てきたとしても、罪悪感のある彼には極めて私的な補佐までは任せられない。かといって、ジークハルトとイヴリーナの関係は主従として問題ないと父から認められており、むしろ《影》に入れ込みすぎている兄の方が問題視されている。


「やはり、謝った方がいいか……? だが今更……いや、殿下も謝れと言っていたな……」


 初めてミスティリーファに自身の《影》を紹介したとき、彼女は一目で主従の関係性が如何なるものかを看破した。ジークハルトとイヴリーナの関係とは対照的な、レオンハルトとリュゼリーナという前例を見知っていたからだろう。

 なぜ彼らのような関係ではないのか問い詰められ、ジークハルトが正直に答えると、姫君は嘆息して優しい口調で言っていた。


『謝る気があるのなら、どれだけ身勝手で手遅れでも、素直に謝りなさい』


 と、自らが仕える主の姿を脳裏に思い浮かべたところで、微睡みの残滓が一気に消失した。次々とあの夜の出来事が思い起こされ、思考が真っ白になる。


「――ッ!」


 勢い良く上半身を起こし、ベッドから飛び出そうとするも、ふと体勢を崩した。

 思わずベッドに手を突こうと左腕を動かすが、思った結果にはならず、ベッドに倒れ込んでしまう。左腕が半分以上は消失しているせいで、体重の均衡が狂い、反射的な動作さえ意味を為さなくなっている。治癒魔法が行使されたのか、傷口は綺麗に塞がっており、身体のどこにも痛みはない。


「ジークハルト」

「……父上」


 ジークハルトはなんとか身体を起こし、ベッドの上から父に目を向ける。

 ちょうど入室してきた父に無様な姿を見られた……などと恥じる余裕もなく、ジークハルトはベッド脇に歩み寄ってきた父に問い掛けた。


「父上っ、殿下はご無事なのですか!?」

「いいや、亡くなられた」

「…………え」


 愕然とする息子に、父は泰然自若とした態で続けて告げた。


「ジークハルト、なぜ私の命に背いた。これまでは一度たりとて、反抗的な行動は起こさなかったというのに、なぜ今回に限って……下手をすればお前も死んでいたのだぞ」

「……………………」

「まあ、ひとまず今は置いておく。ミスティリーファ様が亡くなられた今、お前の身も只では済まない。それは分かっているな」


 ミスティリーファの死。

 あの姫君が亡くなったなど、俄には信じがたいことだ。

 しかし、ジークハルトはその場にいて、共に戦い、意識が落ちる寸前には首を絞められる彼女の姿を確かに見た。


「姫様が殺害された以上、帝室近衛の誓約に則り、お前は自害せねばならない。だが、お前にその必要は無い。帝都より離れ、ほとぼりが冷めるまで地方で隠居しろ。無論、表向きは死人ということになる故、これから先はテイラス家と共に裏の仕事をこなしてもらうことになる。ただし、今回の件に対する一切を忘れるという条件を遵守すると誓うのであればな」

「……………………」

「ジークハルト、聞いているのか」


 あの姫君が亡くなられた。

 殺害された。

 誰に?

 あの巨漢の獣人グレンだ。

 そして、彼女を守りきれず、あの状況を未然に回避することができた己自身だ。

 更にいえば、事前に全てを知っていたであろう目の前の男だ。


「……父上、なぜですか」

「それは何に対する疑問だ」

「なぜ……なぜ昨夜、俺に中庭から離れるよう命じたのですか!? 父上は全てを知っておられたのでしょう!? あの男は何者ですっ、なぜ殿下が殺されねばならない!」


 興奮する息子を前にしても、ヴィリアス家の当主は落ち着き払っている。

 彼は一度目を閉じ、小さく吐息した後、ジークハルトを強い眼差しで射貫いた。


「それらの疑問に答えることはできん……今はな」

「今は……? なんですかそれはっ、今すぐ答えてください父上!」

「お前が私の指示通りに動いていれば、ある程度は話すつもりでいた。が、私の命に背いた今のお前には話せぬ」


 叱責と非難の声を浴びせられるが、その声はどこか悲しげでもあった。

 ジークハルトは父から怒られているという事態を前にして、気勢を削がれてしまった。当時の過酷な教育の中で、最も恐れていたのは父からの叱責だったのだ。それは成人した今となっても変わらず、意に反して身体が硬直してしまう。


「ミスティリーファ様のことは私も残念に思う。だが、全ては我らがオールディア帝国、引いてはこの世界のためだ」

「帝国……世界のため……? なぜ、それで殿下が殺されねばならないのですか……っ」

「知っての通り、あの御方は少々常人とは異なる価値観を有しておられた。お前なら大丈夫だとは思ったが、お前も少し姫様に毒されたようだしな……いや、ともかく、今言えることはそれだけだ。時機が来れば、いずれお前にも全てを話してやる」


 父の様子からは息子への失望が見て取れた。

 ジークハルトはそのことに多大な不安と動揺を感じながらも、父の説明に全く納得できなかった。

 

「時機って……なんですかそれは、何がどうなっているのです!? あのグレンという男は《黄昏の調べ》と名乗っていましたっ、まさか魔女狩りの邪教集団に殿下を売ったのですか!?」

「あの男、名乗っていたのか……軽率な。これだから連中を使うことには反対したというのに……」

「父上っ、答えてください!」


 嘆かわしげに一人呟く父に、ジークハルトは身を乗り出して言い募る。

 だが、そんな息子を父は冷たい双眸で見つめ返した。


「ジークハルト、今のお前に言えることは先の通りだ」

「……っ」 


 擦り込まれた恐れと畏れがジークハルトの身体を縛った。

 心を殺していた以前はまだ我慢できたが、今のジークハルトの心は身体にまで怯懦を伝えてしまう。

 呼吸が止まり、指先が震え出しそうになるのを抑えるだけで精一杯だった。


「お前はレオンハルトとは違い、凡人なのだ。お前はただ黙って、私の指示に従っていれば良い。それがお前自身のためにもなるのだ」

「…………」

「お前とて、死にたくはないだろう。その左腕、治して欲しいだろう。ならば今は全てを忘れ、私の指示通り地方で隠居していろ。良いな、ジークハルト」


 父の言葉、眼光、その威容が与える影響は甚大だ。

 ジークハルトにとってはどんな魔法よりも強力無比であり、真正面からそれを受ければ抗う術などありはしない。


 しかし、ジークハルトはミスティリーファと過した僅か一期の間で、少しだけ変われた。

 ここで唯々諾々と頷くことを、果たして彼女は許容するだろうか?

 それで彼女の騎士として認めてもらうことができるのだろうか?

 かつてあの星空の下、彼女の見せた力強くも優しい微笑みに強い憧れを抱いた。

 己の意志で生きる者だけが持つ輝きを自分も手に入れ、共に笑いたいと思った。


『貴方の意志はどこにあるの』


 奴隷が嫌いな彼女はかつてそう問うた。

 当時のジークハルトの意志は父にあった。

 だが、今は違う。

 己の意志は己のものだ。

 それを教えてくれた彼女を忘れることを許容し、その死に携わったであろう者の言葉になど頷けるはずもない。


「ジークハルト、良いな」


 厳然とした声で命じられ、有無を言わさぬ眼光で射貫かれる。

 しかし、ジークハルトはその恐ろしい瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、決然と言い切った。


「良くありません、父上」

 

 

 必要最低限の描写だけして文字数を最大限減らそうとしたせいか、ジークの心理に感情移入し辛くなっちゃったかもしれません。

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=886121889&s ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ