第九十七話 『男女問題』
「何か、私に言うことはありますか」
ここ三節の間に聞いたどの声よりも、それは冷め切った響きを有していた。
そのくせ清絶なまでに研ぎ澄まされた怒気が奇妙な熱を感じさせ、後ろ姿だけでも迫力がありすぎて、俺は呆然としてしまう。
この美女いったい誰ですか?
「何か、って……」
問われた野郎は首筋の刃に目を落としつつ呟いた後、たどたどしく答えた。
「それは、お前、なんでここに……?」
「一人で出て行った貴方を追ってきたからです」
一人で、のところをやけに強調して、イヴはそう応じた。
周囲では通行人たちが何事かと注目し始め、今にも殺人が起こりそうな様子を遠巻きに眺めている。
「それで、何か、私に言うことは?」
「え、あー、ひ、久しぶり、だな……?」
野郎は未だに驚愕し困惑した表情を見せたまま、恐る恐るそう言った。
すると、背中を見ているだけの俺でも、美女の激情が爆発しかけたのが分かった。野郎に突きつけた刃が震えて、次の瞬間には血飛沫が舞うのでは……と思われたとき、魔力波動を察知する。
「――ッ!?」
イヴが両翼をも駆使して、素早く後方に飛び退いた。
横合いから放たれた下級土魔法〈岩弾〉の一撃は虚空を貫き、数十リーギスほど飛んで建物の壁に激突する。
それを成した長髪の幼女は間を置かずイヴに右手をすっと向け直し、感情の色に乏しい表情で無言のままに再びの魔力波動を放つ。
砂の刃が中空に形成されたのと同時、俺は我に返って叫んだ。
「イヴッ!」
すぐ隣にいる美女に密着して、半透明の盾を張った。
中級魔法の刃は中級魔法の盾によって防がれるも、間を置かず再び魔力波動が放たれる。
「やめろルティ!」
幼女の突き出す右手を、ジークが掴んで叫んだ。
すると幼女は魔力波動を霧散させ、無表情に近い童顔で野郎を見上げた。
「どうして? あの人、ジーク、殺そうとした」
「違う、大丈夫だ、あの人は俺の知り合いだから」
「でも、剣、持ってる。さっき、凄く、睨んでた。ぼく、ジーク、守る。だから、あの人、殺す」
「お前は誰も殺さなくていいし、あの人はいい人だ、大丈夫なんだ」
ほとんど抑揚のない声で淡々と話す幼女に、ジークはゆっくりと語り聞かせるように告げた。それから横目にイヴを見遣ると、何か意味深な眼差しで見つめる。
イヴは毒気を抜かれたような呆然とした顔をしながらも、剣を腰の鞘に納めた。
「ほら、な? だからやめるんだ、いいな?」
「うん」
幼女らしい素直さで頷き、ルティと呼ばれた幼女は手を下ろした。
そこで不意に、面白可笑しそうな笑い声が小さく響く。
「フフ、久々に面白くなりそうで何よりだが、注目されすぎておるぞ。まずは早々に場所を移した方が良いのではないか」
「……そうだな、そうするか。ルティの魔法を見られたのは不味い」
野郎はフーデットローブの少女に頷きを返し、視線をイヴに向けた。
イヴの方は喜怒が混ざり合った複雑な面持ちでジークを見つめ返している。
「イヴ、色々話したいことはあるだろうが、まずは移動するぞ。そちらの方々も、俺についてきてくれますか」
「分かったわぁ」
「……うむ」
俺とユーハとベルをさっと流し見た青年に、俺も無言で首肯した。
するとジークは外套を翻して歩き出し、幼女がその隣に並び、ゼフィラがその後ろに続く。衆人環視の包囲網を野郎は問答無用で突っ切っていき、俺たちもその背中を追って行く。
ふと、背後を振り返ってきた魔幼女と目が合った。
彼女に表情は無きに等しく、ラヴィのように気怠げな無気力感すら感じられない。感情が欠落しているというか、元から無いような、およそ見たことのない不思議な面差しをしている。
その雰囲気は暗澹としているわけでも、明朗としているわけでもなく、凪いだ湖面のように、ただフラットだ。そのくせ顔立ちは良く整っているものだから、どこか人形めいた印象を受ける。しかし俺を見つめる瞳には好奇の色が浮き出ていて、人形ではあり得ない人間味も確かに見て取れた。
「…………」
幼女は口を閉ざしたまま、やや癖毛な長髪をふわりとなびかせ、前方に向き直った。俺の方はその小さな後ろ姿をしばし見つめた後、マントの青年とローブの少女、そして隣を歩く美女の姿を順繰りに眺め、とりあえずそっと吐息を漏らした。
♀ ♀ ♀
野郎に案内された場所は公園だった。
公園といっても、前世のように遊具があるわけではなく、所々に木々が植えられ、ベンチが設置されている程度だ。あとは一角にステージみたいな石造りの壇があって、たぶん集会か何かに使用されるのだろう。町中を流れる川の畔に位置しており、面積自体はかなり広い。
赤らんできた空の下、あちこちのベンチにぽつぽつと人が座り、疎らに散歩をしている者がいるだけで、閑散としている。
「悪いが、少し二人で話したい」
ジークはそう言って、イヴと共に俺たちから離れていった。
二人は一本の木の下で向かい合い、何やら話し始めるが、生憎と声は聞こえない。
「さて、妾たちも適当に雑談でもするかの。まず小童、お主先の一幕において、無詠唱で魔法を使ったの?」
「え、あぁ、はい」
ベンチに座って二人を見つめていると、横合いから声を掛けられた。
俺より幾分か上背のある美少女――なのか美女なのかは不明だが、とにかく不気味なまでに紅い瞳がこちらに向けられている。
「どの等級まで詠唱は省略できるのだ? もとい、どの等級の魔法まで習得しておる」
「えーと、それはあまり言いたくないんですけど……」
「なんだ、ケチ臭い奴だの、お主も男子なら度量の大きさを示してみせよ。久々に良い霊圧を感じたことだし、これは英雄豪傑の器かと思うたが、どうやらそうでもないようだの」
なんでディスられてんだ、俺。
いや、英雄豪傑だとか何とか言ってたし、一応は褒められたのか?
ゼフィラの声には挑発的な響きが含まれていたから、たぶん俺に口を割らせようとしてるんだろうが……。
「あの、霊圧ってなんですか? もしかして魔動感のことですか?」
「ふむ……魔動感を連想するとなれば、お主やはり覚者か。先の魔法行使の際も対応が迅速だったしの、これだけの魔法力を有しておることだし、不思議はないが……フフッ、面白いの小童、お主ほどの者との邂逅は随分と久々だ」
「…………」
ゼフィラは口元をにんまりと笑みの形にして、一人楽しそうに笑っている。
しかし、俺は笑えない。
こちらから質問したのに、逆にこちらの情報を知られてしまうとは予想外だ。
べつにそれほど自分の力を隠しておきたいとも思わないが、魔動感は致命的な弱点だし、相手は実態不明の鬼人なので警戒はしておきたい。
というか、覚者ってなんだ。
ゼフィラと話していると色々新しい単語が飛び出してきて興味をそそられる。
が、それを訊ねるとこちらの腹まで探られかねないので、下手に質問できない。
「あの、ルティちゃん、ですよね?」
俺はひとまず隣の鬼人から、その向こうに座る魔幼女に視線を移した。
彼女は離れた場所で話し合う男女をボーッと眺めている。
「…………」
ルティは緩慢な動きで首を動かし、ゼフィラ越しに俺へと顔を向けてきた。
しかし無言のまま、特に何の表情も見せず、大きな双眸をパチクリとしている。
俺は立ち上がり、幼女の正面に立って笑みを浮かべた。
「こんにちは。もうこんばんはかもしれませんけど……」
「…………」
「えっと、はじめまして。私……僕は、レオンといいます」
「レオン?」
「はい」
相手は魔女なのだから、本当はローズと名乗りたかったが、今はゼフィラがいる。この鬼人は得体が知れないし、俺を男と勘違いしているようなので、とりあえずまだ様子見だ。
信用できそうなら、後で打ち明けて謝ればいいだろう。
「……………………」
幼女は俺の顔をじっと見つめてくる。
相変わらず無表情で、無言のまま、ただ見つめてくる。
「これ小娘、挨拶くらい返したらどうなのだ。ジークハルトから挨拶は教わっておろう」
「うん、そうだった」
淡々と頷いてから、幼女は俺を見上げて、宝石めいた大きな瞳に俺を映した。
真っ黒な瞳は黒曜石を思わせ、無機質ながらも知性の光を宿している。
「ぼく、ルティカ、です。よろしく、お願いします」
子供が大人に格式張った挨拶をするときのような、そんなぎこちなさを思わせる挨拶だった。ぺこりと頭を下げる幼女は可愛らしいが、魔幼女だからか、なかなかに変わった子だ。
しかし、ルティカ……なんかどっかで聞いた覚えがあるような名前だな……。
ま、今はいいか。
それよりもぼくっ子というのはいいね。
初めて会ったし、想像以上にプリティだ。
その後、ユーハとベルが挨拶をすると、ルティカは俺のときと全く同じ言葉を返していた。
一通りの挨拶が済むと、再び着席した俺にルティカの方から話しかけてくる。
「レオン、魔法、上手?」
「まあ、それなりには。ルティカも上手ですよね?」
「うん、上手。でも、もっと頑張る」
魔幼女ルティカは覇気の感じられない顔で淡々と答える。
無愛想に見えるが、たぶんこれが彼女の素なのだろう。
「ルティカは詠唱省略で魔法を使えるんですよね?」
「うん。詠唱省略、できる人、凄い人。ジーク、そう言ってた。ぼく、凄い人」
ルティカはどこか誇らしげに、微かな笑みを覗かせている。
「レオン、詠唱省略、できる。レオンも、凄い人」
「ありがとうございます」
俺も笑顔を見せて、ルティカにそう応じると、彼女は「うん」となんだか嬉しそうに頷いた。基本は無表情で、味気ない片言で話しているせいか、ほんの微かに笑っただけでも滅茶苦茶可愛い。
ちらりとベルの様子を窺ってみると、慈母の眼差しで俺たちを見守っていた。
「レオン、あの人、知り合い?」
ふとルティカが離れたところで話し合う二人に目を向け、指差した。
「あの翼人の美人さんですよね? 知り合いですよ」
「あの人、いい人?」
「はい、いい人……のはずです」
答えつつ、俺もイヴを見遣った。
先ほどあの美女は明確な怒気を露わにして、白刃を野郎の首元に突きつけていた。大切な人らしいのに……アレは嘘だったのだろうか?
視線の先ではイヴと青年ジークが向かい合って話し合っている。
その様子は端から見る限り落ち着いていて、イヴも怒っている様子は見られない……と思った矢先、イヴが泣き出した。涙を流しつつ野郎の胸元を小突き、そのままもたれ掛かるように抱きつく。
ジークの方は苦笑めいた表情で、美女の背中を片手でやんわりと抱き留めた。
リア充爆発しろ……と思わないでもないが、どうにもそこに色気は感じられない。恋人というより、兄妹の抱擁に見える。
さながら生き別れた家族が再会するような、そんなシーンだ。
まあ、俺の願望混じりの見解だけどさ。
「ゼフィ、あの人、どうして、泣いてるの?」
「ふむ、話を聞いた限りだと、再会できて嬉しいようだの」
「あら、ゼフィラちゃん、この距離で話が聞こえていたの? アタシには全く聞こえないけれど」
「なに、妾は耳が良いのでな」
特に自慢げにするでもなく、むしろ面倒臭そうに答えるゼフィラ。
彼女はフードを被ってるから、俺たちより聞き取りづらいはずなのだが……。
ルティカの方はゼフィラの耳の良さは知っているのか、気にせず更に質問を繰り出す。
「どうして、嬉しいと、泣くの?」
「それが人というものなのだ」
「でも、悲しくても、泣く?」
「うむ」
「嬉しくても、悲しくても、泣く。なんか、おかしい……変、合ってない?」
あどけない顔で小首を傾げるルティカ。
そんな幼女の頭にゼフィラは手を乗せ、ぽんぽんと撫でた。
「お主にもそのうち分かるようになる」
「そもそも、どうして、泣くの? あくびしなくても、泣くの? ぼく、嬉しくても、悲しくても、泣かない。ジークも、ゼフィも、あくびしないと、泣かない」
「それは泣くとは言わぬ。ただの生理現象だ」
「あくび、生理現象……ぼく、泣いたこと、ない?」
「少なくとも、妾は見たことがないの」
半ばフードに隠れたゼフィラの顔を無表情に見つめた後、ルティカはイヴとジークに視線を戻した。
が、ややもしないうちに俺の方を見てくる。
「レオン、泣いたこと、ある?」
「え……そりゃあ、まあ、ありますよ」
なんかちょっと恥ずかしかったが、首肯する。
ルティカは再び二人に視線を向け直すと、何を考えているのか分からない人形めいた顔で茫洋と沈黙する。
よく分からん子だな……。
それから間もなく、木陰にいた男女二人は改まったように向かい合った。
そして再び何事かを話し合っていく。
「む……?」
不意に、隣に座ったフーデットローブの少女が訝しげな声を漏らす。
かと思えば、微かに顔を横に動かし、横目に俺を見てくる。
「あの、何か?」
「ふむ……なるほどの。裏の裏でも読んだか」
独り言のように呟き、ゼフィラは視線を戻してジークとイヴの二人を見遣る。
ゼフィラは聞き耳でも立てているのか、口を開こうとせず、ルティカの方はさっきからボーッと二人を見つめるだけで、無言だ。
なんだか話しかけられる雰囲気ではなかったので、とりあえず俺も大人しく座って二人を見守る。
しばらくすると、会話が終わったのか、ジークとイヴが並んで歩いてくる。
イヴの表情は先日までのように落ち着いていて、そのくせ生気に溢れていた。
「すまない、待たせたな」
「良い、話は聞こえておった。フフ、ジークハルトよ、お主も隅に置けぬ奴よな」
ベンチの前に立って俺たちと向かい合う青年に、ゼフィラはからかい交じりの声を返した。
「聞いてたならそういう関係じゃないのは分かるだろ。ったく、相変わらず無駄に耳いいな……」
「妾の聴力が無駄ならば、全ての獣人共の聴力も無駄になるの」
「とにかく、話を聞いていたならお前に詳しい説明はいらんな」
と投げやりに言い返して、ジークは俺の前まで来ると、その場に片膝を突いた。
目線が合ったことで、野郎の顔立ちがよく分かる。
こうして真正面から見ると、なかなかイケメンだな。
「初めまして、俺はジークハルトという。イヴから話は聞いたよ、彼女を助けてくれたそうだね。どうもありがとう」
子供に対する接し方だった。
ジークハルトは微笑みを見せると、俺の前で軽く頭を下げた。
「いえ、まあ、僕がしたくてしたことなので」
「そうか、それでも礼を言わせて欲しい。本当にありがとう。貴方がたも、イヴがお世話になったようで……ありがとうございます」
野郎は立ち上がると、オッサン二人に対して腰を折り、礼儀正しく挨拶をした。
ジークハルトが名乗ると、ベルもユーハも名乗り返し、野郎共は握手を交わしている。それらを簡単に済ませると、再びジークハルトは俺の前に屈み込み、目線を合わせてきた。
子供に対してこういう気遣いができる奴は悪人ではない……と思いたい。
「ところで、えーと、ローズちゃんだよね? 普段はレオンと名乗ってるそうだけど、イヴから聞いた。《黎明の調べ》に属している魔女だとか」
「ローズさん、勝手に話してしまって申し訳ありません。ですが彼は信用できますので、安心してください」
イヴから弁明するように謝られた。
まあ、このジーク某は《黄昏の調べ》に属する奴を探しているって話だし、ルティカという魔幼女を連れている。
魔女の敵ではない……はずなので、問題はないだろう。
問題は得体の知れない鬼人の方だ。
ちらりと横目に様子を窺うと、案の定というべきか、フードの美(少)女が口を開いた。
「ジークハルトよ、お主がこの小童に色々頼み込むのは勝手だが、特別に一つだけ忠告してやろう」
「なんだ? というかお前、女の子に小童とか言うなよ」
「それだ、どうにもお主らが思い違いをしておるようなのでな。見誤っても無理はないが、こやつ魔女ではないぞ。故に、《黎明の調べ》の一員かどうか、その信憑性はより不確かだろうの」
「……は?」
泰然と告げたゼフィラを、ジークハルトは眉根を寄せて見返した。
まるで「なに言ってんだこいつ」と言わんばかりの表情だ。
「いやお前、たしかにこの子は男の格好をしてはいるが、女の子だろ。イヴからもそう聞いたし……えーと、そうだよね、ローズちゃん?」
「あ、はい、すみません混乱させて。魔女だとバレると色々面倒なので、普段は男装してるんです」
「うん、気持ちは分かるよ、ルティも魔女だからね」
「レオン、魔女? 名前、本当は、ローズ?」
ジークハルトは全て承知だという風に頷き、ルティカは小首を傾げている。
やはり魔幼女の方は俺を男だと思っていたらしい。
子供の目は誤魔化せるのに、大人の目は誤魔化せないとなると、ゼフィラは美女ではなく美少女か。
「――ぁてっ」
なんて思っていたら、いきなり当の美少女から頭を叩かれた。
「これ小童、さらりと嘘を吐くでないわ戯け。お主のせいで妾が阿呆者扱いされておるではないか」
「阿呆はお前だっ、なに叩いてんだ、大人げないとは思わんのか!」
「あの、誤解させてすみませんゼフィラさん、でも私は本当に女なので……」
「フン、こやつらの目は騙せても、妾の眼は誤魔化せぬぞ。いいから早う認めぬか、ジークハルトが本格的に妾を阿呆者扱いし始めておる。だが……フフ、ジークハルトよ、妾を阿呆呼ばわりしたツケは後できっちり払ってもらうぞ」
ゼフィラはフードの影から勝ち誇った笑みを覗かせて、傲然とした雰囲気で楽しげに野郎へ告げる。
まさかここまで勘違いしているとは予想外すぎてビックリだ。
魔眼持ち、全然大したことなかった。
「ねえ、ゼフィラちゃん、ローズちゃんは本当に女の子よ?」
「……なるほど、お主の影響か」
ベルを見て何か納得したように頷くゼフィラ。
先ほどと一転して、手袋に包まれた手を俺の肩に置き、子供に言い聞かせるような口調で語り出した。
「良いか小童、男がいくら女だと言い張ったところで、生まれついての性別は変わらぬのだ。それでも、お主が女の振りをしたいと思えば、それは勝手だ。好きにするが良い。だが、それで余人に迷惑を掛けるのは頂けぬ。分かるの?」
「あの、本当にすみませんけど、それはゼフィラさんの勘違いですよ」
「まだ言うか。稀代の魔法力を有しておるくせに面白味のない奴だと思ったら、やはり変人だったの。普段ならそれも愛でてやるところだが……小童、今お主はお主の勝手で妾を不名誉にしておる。寛大な妾は大抵のことは気にせぬが、こやつから阿呆の汚名を着せられるのは御免被るぞ」
「おい、いい加減にしろゼフィラ、ローズちゃんに失礼だぞ。もういいからお前は黙ってろ、忠告は有り難く受け取っておくから」
ジークハルトは呆れたように言い捨てて、ゼフィラから視線を切った。
「なんだジークハルト、その憐れみの目は。自らの間違いを棚に上げるだけならばいざ知らず、妾を愚弄するか。普段の諧謔ならば未だしも、今回はちと流せぬぞ?」
だが、ゼフィラは野郎の態度がお気に召さなかったのか、静かな怒気を滾らせる。言い知れぬ威圧感が伝わってきて、俺は思わず彼女から上体を引いてしまった。
それが目に付いたのか、ゼフィラの紅い瞳がこちらに向けられる。
「そもそもお主が原因だ。小童、ちと下半身を出すが良い」
「ゼフィラ、その子にそれ以上の無礼を働くようなら、俺も考えるぞ。普段お前は俺を観察すると言っておきながら、今まさにこの大事な場面で俺の邪魔しているのが分からないのか?」
ジークハルトは立ち上がって、ベンチに座るゼフィラを見下ろす。
なんか知らんが、野郎がキレかけていた。
対するゼフィラに怯んだ気配は皆無で、むしろガキを嘲笑するような余裕さえ感じられる。しかし両者の間に漂う雰囲気は険悪に過ぎて、今にも殴り合いが起こりそうなほどだ。
「あ、あの、ゼフィラさん。えっと、わ、私の、触ってもいいので、それで確かめてください。そうすれば納得してくれますよね?」
仕方がないので、俺が収拾を図ることにした。
元はといえば、俺が性別を偽っていたことが原因なのだから、当然といえば当然の義務だ。股間を触られるのは嫌だが、服越しだし相手は女だから問題はない。
ゼフィラは俺の顔をじっと見つめてきた後、股間に片手を伸ばしてきた。
「ん……っ」
「……む?」
くすぐったさに声を漏らす俺の横で、ゼフィラは訝しげに呻いた。
かと思いきや、更に俺の股ぐらをまさぐってくる
「ん、ぁ……ちょ……っ、そん、なに……っ!?」
「ない……? いや、まさかお主、その歳で去勢しおったのか」
それはベルだ。
というか、どんだけ俺を男だと思ってんだよ。
もう意固地になってるなこりゃ。
「分かったら、ローズちゃんに謝れ」
手を引いたゼフィラに、ジークハルトが苛立ち混じりの声を掛ける。
だが当の本人にそれを聞いている様子はなく、思案げに軽く空を見上げていた。
先ほどまで茜色だった天空はもう藍色が大半を占め、西の方が僅かに赤らんでいるだけだ。あと数分もすれば完全に日が暮れるだろう。
なぜかゼフィラはおもむろに手袋を外し始めた。肘の辺りまで覆っていたらしい白長手袋を片方だけ外し、手袋より尚も白い肌を露わにする。
「――ぇ」
それは流れるような一瞬の動作だった。
隣に座る俺のズボンにするりと手を差し込み、ひんやりとした冷たい指先で俺の局部に直に触れてくる。
場が凍り付いた。
だが二秒としないうちに、ベンチの後ろに立っていたユーハがゼフィラの首元に蒼刃を突きつけ、それに一瞬遅れてジークハルトも動く。
「お前なにやってんだっ、気でも狂ったか!?」
我がクレバスを撫でるゼフィラの手を野郎が掴み、強引に引き抜く。
勢い余ってゼフィラの腕は身体ごと持ち上げられ、しかし当の本人は抵抗する素振りを見せない。
そこでユーハは刀を引き、しかし納刀はせず手に提げ続ける。
「……ば、かな……これは完全に、女子の……あり得ぬ……どういうことだ……」
「当たり前だっ、ローズちゃんはどう見ても女の子だろうが! お前本当にどうかしてるぞっ、いつからその目は節穴になった!?」
「妾の眼が、節穴だと……? フ、フフフ……あるいはそうなのかもしれぬ……なにせ、未だ妾の眼には確とこやつが男に見えておる……」
ゼフィラに巫山戯ている様子は見受けられない。心底驚いているようで、もはやその驚愕を自分でも持てあましているようだった。
それは俺も同じだ。
「ローズさん、大丈夫ですか……?」
呆然とする俺の顔をイヴが気遣わしげに覗き込んできた。
その横ではゼフィラがジークハルトに片腕を掴まれた状態のまま、もう一方の手でフードを取り払っていた。
彼女の露わになった容貌はファンタスティックとしか言いようのない魅力を秘めていた。輝く銀の髪は絹糸のように繊美な煌めきを秘め、後ろ髪はローブの中へ仕舞われていて長さは判然としない。
遮るもののない美貌は十二、三歳ほどと思しき年頃特有の、子供の愛らしさと大人の美しさが絶妙な比率で混在し、調和している。
「……………………」
ゼフィラはこれでもかと双眸を見開き、まさに鬼気迫る面持ちで順繰りに全員を紅い瞳に映し始めた。
ルティカを見て「女」、ジークハルトを見て「男」、イヴを見て「女」、ベルを見て「男」、ユーハを見て「男」と無感情に呟いていく。
そして最後に俺を真っ直ぐに見つめると、
「…………男」
「おいゼフィラッ」
「いや……いや違うのだジークハルトよ、こやつは……こやつは男でなければならぬのだ。こやつは確かに陽の気を纏っておる、にもかかわらず、身体が女なのだ……あり得ぬ、中身と器が一致しておらぬ……どういうことだ……変成魔法……いや魂の属性には逆らえぬはず……そもそも今こやつは何らの魔法も……」
ただならぬ様子でブツブツと呟き始めたゼフィラに、ジークハルトも並々ならぬものを感じ取ったのか、困惑の表情を見せる。
俺も含めた全員が反応に窮していると、不意に銀髪美少女が呟きを止めて、小さく喉を鳴らした。
「ク、ククク……ハハハハハハハハハッ、面白い、面白いぞお主!」
「おい、ゼフィラ?」
「えぇい、いつまで掴んでおる馬鹿者っ」
台詞に反してゼフィラは上機嫌にジークハルトの手を振りほどくと、呆然と座る俺を見下ろして、口角を釣り上げる。紅い瞳が爛々と輝き、幼女のように喜色満面の笑みを浮かべ、生き生きとした歓声を上げた。
「お主、やはり紛う事なき変人だったか! こんな奴見たことがないわっ、なんだお主はなんだのだっ! フフフ、良いぞ良いぞ、かつてない未知に不可解っ、まだこの世も捨てたものではないの!」
「お前、本当にどうしたんだ……? 大丈夫か……?」
「うむ、大丈夫だ、大丈夫だとも、妾はどこもおかしくはない。そうだ、これで良いのだ、こうでなければつまらぬわ」
視姦する勢いでじろじろと俺を眺め回すゼフィラに、ジークハルトは疲れた様子で溜息混じりに言った。
「とりあえず、お前ローズちゃんに謝れ」
「いいや、謝らぬ、妾は何ら悪くなく、間違ってもおらぬのだ。この小童がおかしいのだ。そうであろう小童、お主自覚はしておらぬのか?」
「…………」
正直、何が何だか分からない。
分からないが、ただ一つだけ確かなことがある。
ゼフィラの魔眼は本物だ。
たぶんこの鬼人は初めから俺のことを見破っていた。
身体ではなく、精神か霊魂かよく分からんが、とにかく中身を見透かして、俺を男と認識していたのだ。
「その反応、何か心当たりがあるようだの。なんでも良い、教えよ、詳しく話すのだ。それにもっと身体を検めさせろ、いやなに案ずるな、悪いようには――」
「やめろゼフィラ、ったく本当に何なんだ今日のお前は。変なことばっかしやがって……もうすっかり日が暮れちまっただろ」
ジークハルトは舌打ちしながら言ってゼフィラと俺の間に割り込んだ。
そして気まずそうに、あるいは気遣わしげにこちらを窺ってくる。
「あー、ローズちゃん、本当にごめんね。こいつのことは気にしないで欲しい」
「……いえ、はい、大丈夫です」
本当は大丈夫じゃない。
未だに生でクレバスをまさぐられた衝撃は抜けきっていないし、ゼフィラという鬼人のことが不可解すぎて混乱している。
「実は、ローズちゃんと色々話したいことがあるんだ。この後、みんなで一緒に夕食でもどうかな? もちろん、こっちの無礼者は同席させないから」
「確かに先の一幕は端から見れば無礼だったろうが、妾は真剣だったのだぞ。全てはこやつが常識外の存在故に起きた必然。無礼者は取り消すが良い」
「ローズちゃん、どうかな?」
ジークハルトはゼフィラを一顧だにせず、俺と目線を合わせて困ったように微笑みながら訊ねてくる。
イヴをチラ見すると、不安そうに俺を見つめていた。
今し方の超絶無礼な一件で、俺が機嫌を損ねていないか心配なのだろう。
相手がゼフィラのような銀髪美少女でなければ、たしかにさすがの俺も不愉快になって早々に立ち去っていたところだ。
「いいですよ。その代わり食事代はこの人持ちで」
「ほう、お主、妾に飯をたかると言うか。良い度きょ――」
「分かった、それくらいで良ければ何も問題ない」
ゼフィラの言葉を遮るように、ジークハルトが力強く応じた。
すると鬼人の美少女は紅い魔眼で野郎を睨み上げる。
「ジークハルト、なぜお主が答えておる」
「お前少しは反省しろ、ローズちゃんの気遣いが分からんお前じゃないだろ」
「フン、馬鹿者が。こういうことは舐められたら終わりなのだぞ?」
「もういい、分かったからお前はもう喋るな……」
すっかり紺色に染まり、星々と双月が煌めく空の下、公園に呆れた声が虚しく響く。
こうして紆余曲折の末、俺たちは七人揃って賑々しい町明かりの方へと移動していった。