間話 『失われた愛を求めて 前』
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彼は窮地に立たされていた。
「おぉー、ユーリぐっすり寝てるー」
「なにこれもうっ、すっごく可愛いわね!」
"女神"と"悪魔"の二人はベッドに横になり、その間で寝息を立てる"新入り"を一心に見つめている。
「……キュェ」
「あ、起きた!」
「お肉あげてみましょっ」
"悪魔"が小さな肉片を差し出すと、薄灰色のそいつは緩慢な動きでパクついた。
「あぁもう、ほんとにユーリはまったく……いちいち可愛いすぎて頭おかしくなりそうね!」
「サラ姉あたしもやるー!」
「ピュェェェ」
彼はベッド脇から"女神"の背中を突いてみる。
すると彼女は「ん?」と言いながら振り向いてきた。
「どーしたのアシュリン?」
「ピュェェェ、ピュェピュェェェェン!」
「アシュリンも欲しいの?」
「ピュェッ!」
彼はここぞとばかりに声を上げた。
しかし、その健気な振る舞いに対して返ってきたのは平手だった。
ぺしっと軽く頭を叩いて、彼の大好きな彼女は告げる。
「もー、アシュリン、これはユーリのなんだぞー。アシュリンはお兄ちゃんなんだから、妹のものを欲しがっちゃダメなんだからね」
「…………ピュェェェ」
それは気弱な"小娘"あたりが聞いていれば、哀愁を誘う切ない声だと思い、同情してきたかもしれない。しかし"小娘"は今この場におらず、"女神"は最近誕生したばかりの新しい家族に夢中であり、"悪魔"はそもそも彼にあまり優しくない。
「あ、そうだっ、ユーリ寝起きだし、喉渇いてるわよね! 水……だと味気ないし栄養もないし、牛乳飲ませてあげましょっ!」
「おぉー、じゃああたしも一緒に飲むー! よーしアシュリンッ、あたしたちを乗せて食堂まで行くんだー!」
「…………ピュェ」
"悪魔"は"新入り"を抱きかかえ、彼の背中に乗った。
"女神"は後ろ向きに跨がり、"悪魔"と一緒に"新入り"に構い始める。
「ん? なにしてるんだアシュリンっ、早く出発するんだ!」
「…………ピュェ」
彼は力ない足取りで歩き始めた。
背中からは大好きな彼女の嬉し楽しそうな声が聞こえてくる。
ついでに、彼がこの世で最も恐れ屈従している"悪魔"の歓声、そして未だ聞き慣れない「キュェ」という憎らしい鳴き声も上がっている。
とぼとぼと廊下を歩き、階段を降りて、食堂までやって来る。
そこで一旦、"女神"が飛び降りて厨房へ向かい、愛用の杯と小さな器を持ってきた。
「よーしっ、次は食料庫だアシュリーン!」
「…………ピュェ」
悄然と鳴きつつ、次なる目的地へと向かっていく。
扉の前で立ち止まると、背中の二人は飛び降りて、彼にとっての"聖域"へと、"新入り"と共に踏み込んでいった。
「サラ姉飲んでるよっ、水よりおいしそーに飲んでる!」
「そうねっ、それにやっぱりすごく可愛いわ! ユーリには早く大きくなって、背中に乗せてもらわなくちゃいけないから、栄養あるものをたくさん食べさせないと!」
「じゃあチーズと果物もあげよー!」
中からは楽しそうな声が響いてくる。
彼は扉の前でポツンとお座りして、身じろぎひとつせず待つ。
そうして賑やかな声を聞きながら、彼は鳴いた。
「ピュェ……ピュェェェ……」
生憎と彼の双眸は他の家族のように涙を流せない。
しかし、今この場に"小娘"がいれば、あるいは"ダチ公"がいてくれれば、そもそも"女神"が聞き届けてくれていれば、その鳴き声が泣き声であると理解してくれたことだろう。
「……ピュェンェン、ピュェ」
そして今度は一転して、昏い声で小さく鳴いた。
まるで彼の腹の奥底から出てきたような、それは不気味な響きを有していた。
――絶対に認めてなるものか。
――やはりあの"新入り"には消えてもらうしかないだろう。
と、彼がそう思ったかどうかは誰にも分からない……。
■ ■ ■
"新入り"が誕生して十数日後。
彼が行動を起こそうとしていた矢先、それは起きた。
「オルガ、無理はせず頑張るのじゃぞ」
「聖伐が終わったら、帰りも寄っていいからね。そのときに色々話を聞かせて欲しいわ」
「無理はしねえよ、オレはそんな真面目じゃねえからな。もちろん、帰りにも寄らせてもらうぜ、サラ」
館の一階広間に家族全員が集合し、"姐御"に声を掛けていた。
"姐御"は"親分"と軽く抱擁し、"悪魔"の頭を乱雑に撫でて闊達な笑みを見せている。
「オルガさん、その……色々ありましたけど、感謝しています。きっとローズは無事に帰ってくるでしょうし、アルセリアさんも元気になりました」
「まあ、オレもお前の気持ち無視して強行したとこあるし、悪かったな。クレアはそのまま変わらず、優しい奴でいてくれ」
「姐さん、今度お酒飲むときは聖伐の話聞かせてくださいねっ」
「あ、あの、頑張ってください、オルガさん。無事に終わるよう、祈ってますから」
「おう、ありがとなメル、セイディは良い酒用意して待っとけ」
"姐御"は"女将"と"堕天使"、それに"小娘"と言葉を交わしている。
その様子を端から見守る彼は密かに歓喜に打ち震えていたが、背に乗った"女神"はそれに気付かぬまま声を上げた。
「オルガ元気で頑張ってねっ! お土産はなんとかオークのお肉でいいよー!」
「オーク系の肉はクソ不味いから別のにしとくぜ。リーゼお前、あんま無茶ばっかしてクレアに心配掛けさせんなよ」
呆れたように笑いながら、"姐御"は"女神"の頭を撫でている。
そのついでとばかりに彼も背中を軽く叩かれたが、彼は否応なく湧き上がる恐怖心より喜びの方が勝っていた。
かと思いきや、不意打ちのように嘴を掴まれて、"姐御"の眼光鋭い瞳がまるで彼の思惑を見透かすように彼を睨み付ける。
「おうアシュリン、テメェ分かってると思うが、もうユーリにアホなことすんじゃねえぞ」
「――――」
「分かったら鳴け」
「…………ピュ、ピュェ」
「オルガ大丈夫だよっ、アシュリンはお兄ちゃんだからね! もー卵隠したときみたいなことはしないよっ!」
"姐御"の眼光と"女神"の信頼が、震え上がって失禁寸前の彼の胸に深く突き刺さった。
"新入り"排除作戦を敢行しようとした矢先、"悪魔"に次ぐ"女将"と並ぶ脅威対象が折良く消えるかと思いきや……これだ。
「オルガ、お前がいなかったら、おれは死んでいただろう。ありがとう、感謝する。本当に立派になったな」
「な、なんだよ、もう礼はいいっての。それより身体に気を付けろよ、また再発するかもしれねえんだしな」
"姐御"は淡く頬を染めて殊更に顔をしかめ、如何にも真面目ったらしく言うが、"旦那"と目を合わせない。しかし"旦那"は以前までのベッド生活が嘘のように、しっかりと二本の脚で立ち、"姐御"を抱きしめた。
「あぁ、気を付けよう。それに、まだ真竜の肝は残っているから、とりあえずは大丈夫だ」
「ま、もし足りなくなっても、こいつがいるしな」
"姐御"は抱擁を解くと、彼の背中に図々しく居座る忌々しい"新入り"の背中を優しく撫でた。だが"新入り"は脱力しきって熟睡しており、何らの反応も返さない。
その代わりとでも言うように、"悪魔"と"女神"が声を荒げる。
「ダメよなに言ってるのオルガッ、アリアのためでもユーリは殺させないわよ! もしまた肝が足りなくなっても、今度はみんなでカーウィ諸島に獲りに行くんだからっ!」
「そーだぞーっ、アシュリンが一緒ならあたしだって竜くらい倒せるんだ! あたしたちは三級のセイバーホークだって倒したんだからね!」
「ピュピュピュピュェェェェ……」
"女神"のふとした言葉に、彼は思い出したくもない記憶を想起してしまい、全身が震えてしまう。まだアレから四節半ほどしか経っていないので、殺され掛けたことは鮮明に覚えているのだ。
「おいおい……マジで真竜を生け捕るのは苦労すっから、何かあったらオレに連絡しろ。年末まではフリザンテあたりにいるからよ。おう、ウェイン、お前も男ならリーゼたちが暴走して無茶しても守りきれよ」
「分かってるよ、じゃないとババアにどやされるからな……」
「向こうに転移したら、ウェインがまたババアとかほざいてたってトレイシーに言っといてやる」
「お、おいやめろっ!」
さすがというべきなのか、"三下"は"姐御"にからかわれている。
"姐御"は一通り全員と言葉を交わすと、最後に床に置いた荷物を肩に掛けた。
「んじゃ行くわ、ローズとユーハが帰ってきたらよろしく言っといてくれ。まあ、どうせ帰りに寄るとき会えるだろうが」
「わかった言っておくー! じゃあみんなでミーネの家まで一緒に行こーっ!」
「いや、もうここでいいっての。アリアが行けねえから、ここで話してんだしよ」
「では、おれも地下までは共に行こう」
"姐御"はなんだかんだ言いながらも、全員で階段を下りて、巨大円盤のある部屋の前まで移動する。
そして"姐御"は颯爽と軽く手を上げて、全員に告げた。
「じゃ、またな」
「またねオルガーっ、お土産忘れないでねー! あっ、あと聖天騎士が嫌になったら、ここで一緒に暮らしてもいいからねっ!」
「ハハ、覚えとくよ」
そうして、彼が逆らうことのできない脅威が一人、去って行った。
本来であれば、これから意気揚々と、でも密かに"新入り"を排除しに掛かるところだが、先ほど刺された釘は如何ともし難かった。彼の意識の奥深くに圧倒的恐怖と共に突き刺さり、もはや引き抜くことは叶わない。
「ピュェ……ピュピュェンピュェピュェェェン」
「ん? なに変な声で鳴いてんだ、こいつ」
密かに漏らした声を"三下"から怪訝に思われながらも、彼は決意を新たにしていた。
未だ背中で図々しく熟睡してやがる"新入り"。
こいつを排除することはできない。
排除すれば、排除されるのだ。
故に、かくなる上は、排斥するしかない。
■ ■ ■
その日の夜。
皆が寝静まった頃、彼はのっそりと動き出した。
「ピュェ」
"女神"と"小娘"と"新入り"の眠るベッドに近付き、嘴を大きく開ける。
そして"新入り"の身体に狙いを定め、慎重に嘴を閉じた。
「…………キュェ」
どうやら目覚めたようだが、構わない。彼は噛み殺さないように細心の注意を払いつつ、足音を立てず扉へ向けて歩き出す。
"新入り"の身体は"女神"たちのように少し柔らかいが、日を追うごとに徐々に硬くなってきている。とはいえ彼の力をもってすれば容易に血祭りに上げることが可能なほど、か弱いことは確かだ。
「んぅ……ユーリぃ……」
「――ッ!?」
恐る恐る振り返ってみるが、"女神"は暢気な寝息を立てたままだ。
彼は胸を撫で下ろし、ゆっくりと扉を開けて、廊下へ出て行く。
「キュァァァ……」
身体を咥え込まれた状況でも、"新入り"は暢気に欠伸を漏らしている。
馬鹿なのか阿保なのか信頼されているのかは不明だが、彼にとっては都合が良かった。そのまま身動きひとつしない"新入り"を連れて一階に下り、"聖域"前までやって来る。
「ピュェン」
嘴で器用に扉を開けると、彼の意識を最高に刺激する芳香が漂ってきた。
しかし、かつて"女将"から受けた恐怖と"女神"からの冷たい対応を思い出すことで、踏みとどまる。
「キュェン……?」
そして彼は一歩も足を踏み入れることなく、"新入り"を中に放り込み、間抜け面を晒す奴を残して扉を閉めた。
「……ピュェンッェンッェンッェンッェンッェンッェン」
彼は昏い声で笑うように鳴いた。
計画通りに事が運べば、あの"新入り"は翌朝、"女神"だけでなく"女将"や"悪魔"たちから叱責されることは必至。その辛苦はかつて彼自身が味わったので、よく知っている。
無論、"新入り"の大きさでは扉の取っ手に届かないため、内側から開扉して脱出することは物理的に不可能だ。
完璧な計画だった。
「ピュェンピュピュェェェン、ピュェッ」
おそらく"女神"にしか理解できないであろう捨て台詞を吐き、彼はその場に背を向けた。物音に注意して部屋に戻り、未だ"女神"たちが熟睡していることを確認して、定位置に戻る。
しかし彼は興奮していたので、なかなか寝付けなかった……。
■ ■ ■
「朝だっ、朝ご飯だ!」
普段通り、"女神"の声で彼は目を覚ました。
朝日が窓辺から柔らかく差し込み、室内を優しく照らし上げている。
実に良い朝だった。
「メル朝だよ起き――あれ? ユーリがいない?」
彼は何食わぬ顔で身体を起こし、ベッド上にいる"女神"に顔を擦り寄せた。
「アシュリン、ユーリどこにいったか知らない?」
「ピュェェン」
「うーん……?」
何がいけなかったのか、"女神"から訝しげな眼差しで見つめられる。
彼は姿勢良くお座りして誠実さを見せつけつつ、もう一度鳴いた。
「ピュェ」
「そっか、知らないのかぁ……でも、じゃあどこにいったんだろ? ベッドの下かな? でもとりあえずメルを起こそー!」
そして"女神"は"小娘"を起こし、"新入り"不在の状況を説明して、首を捻る"小娘"と共に探し始める。
「ユーリの大きさだと、アシュリンみたいに自分で扉は開けられないだろうし……窓も閉めてたから開かないはずで、この部屋から出ることはできないはずなんだけど」
「でもいないっ!」
彼も探すふりをしながら、その遣り取りを聞いていた。
やがて二人は捜索を打ち切り、部屋を飛び出して行く。
「メルはサラ姉起こしてっ、あたしはクレアに知らないか訊いてくる!」
「うん、分かった」
当然、彼は"小娘"と共に"女神"以上の絶対者たる"悪魔"のもとには行かず、"女神"に同行する。
そそくさと一階に降り、食堂に入ると……。
「あっ、いた!」
"新入り"は定位置である椅子の上ですやすやと寝息を立てていた。
"女神"の声に釣られたのか、厨房から"女将"が顔を出す。
「あら、おはようリーゼ」
「おはよークレア! なんでここにユーリがいるの?」
「それが……さっき食料庫に行ったら、ユーリが中で眠っていたものだから。リーゼは何か知らない? どうして食料庫にいたのか」
"女将"はさも不思議そうに首を傾げている。
対する"女神"は"新入り"を見つめ、驚いている。
「知らないよっ、なんで食料庫にいたの!? ユーリ一人じゃ入れないはずなのに!」
「そうなのよね……アシュリン、まさかあなたが連れて行ったりしたなんてこと、ないわよね?」
「ピュェ、ピュェェェン」
彼は渾身の胆力を発揮し、知らぬ存ぜぬを装った。
すると"女神"が彼の前に立ち、力強く抗弁する。
「なに言ってるのクレアっ、なんでアシュリンがそんなことしなきゃいけないんだ!? あっ、それよりクレア、ユーリに何食べられたの!?」
「それが……何も食べられていないのよね」
「…………ピュェ?」
彼の間の抜けた声を聞き流し、"女神"は小首を捻った。
「ん? あれ? じゃあなんで、食料庫にいたの?」
「分からないわ……だからこそ、不思議なのよね」
「それはきっとアレですよお姉様、ユーリは思いとどまったんですよ」
厨房から"堕天使"が現れて、二人の会話に口を挟んだ。
その直後、今度は一階広間の方から二人の人影が駆け込んでくる。
「ちょっとリーゼッ、ユーリがいなくなったってどういう――って、なんだいるじゃない」
「あ、良かった、いたんだ」
寝乱れた金髪や寝間着も何のそのな姿で、"悪魔"は椅子で熟睡する"新入り"を抱き上げた。それでも尚、"新入り"は暢気に眠りこけている。
その後、朝の準備を済ませ、朝食となった。
今朝の話題は当然、なぜ"新入り"が食料庫にいたのかという件となり……。
「きっとユーリ、お腹すいて食料庫いったけど、食べちゃダメだって思い直したんだ!」
という結論に至ってしまった。
まさか"新入り"が"聖供"に口を付けなかったことなど、彼としては完全に想定外の事態だった。
彼は計画の失敗を悟り、思わずやけ食いを始める。
その矢先、"悪魔"が言った。
「凄いじゃないユーリッ、アシュリンとは大違いね!」
「ピュェ……?」
早々にやけ食いを中断し、彼はゆっくりと全員の顔を見回した。
「ホントそうね、アシュリンは最高級肉を全部食べちゃったってのに、ユーリは果物一つ食べてないんだし」
「しかし、するとなぜユーリは食料庫におったのじゃ? 仮に何らかの方法で扉を開けることができたならば、外へも出られたはずじゃろうに」
「きっと良い匂いのする場所で寝たかったんだ!」
「ふむ、何か釈然としないが……何もなかったのであれば良いか」
"親分"と"旦那"は最後まで訝しげだったが、何らの被害もなかったため、謎は"女神"の説に落ち着くことになった。
が、彼と"新入り"との比較はまだ終わらない。
「ユーリには食料庫に入っちゃいけないって、ちゃんと教えないとだけど……アシュリン、あんたもユーリを見習うのよ」
「ピュェェ……」
"悪魔"は"新入り"に食事を与えながら、彼を睨み付けた。
他の面々は「アシュリンは食いしん坊だからの」「きっと親に似たのね」「あたし一人で全部食べるほど食いしん坊じゃないもんっ」などと雑談している。
彼は椅子の上に置かれた食器に嘴を突っ込み、"女神"に焼いてもらった肉を食べながら、絶望していた。
「……………………」
計画は完全に裏目に出てしまったのだ。
彼の評価は"新入り"と比較されることで下方修正され、逆に"新入り"の評価は上方修正された。
これでは自らの首を絞めただけである。
「…………ピュェピュェン」
しかし、彼は落ち込まなかった。
そんな余裕がないほど、"新入り"を疎ましく思っていた。
奴のせいで、奴さえいなければ、こんな苦労をすることも、過日の失態を掘り返されることもなかった。
全ては奴が悪い。
あの暢気な"新入り"が、至高の存在である"女神"からの愛を奪ったのだ。
そして、彼の本能は理解していた。
愛とは、ねだるものではなく、勝ち取るものなのだと。
彼は黙々と食事を進めながら、次なる計画を練っていったのだった……。
■ ■ ■
「勉強やだーっ、魔法の練習がいいー!」
「それいつも言ってるわね。嫌だって思うから嫌になるのよ」
計画が失敗に終わり、数日後。
部屋で"女神"と"悪魔"が言葉を交わす傍ら、彼は昨夜閃いた新計画を実行に移す覚悟を決めていた。
「サラ姉おかしいっ、なんで勉強嫌じゃないの!?」
「なによリーゼ、今日はやけに嫌がるじゃない。あ、そういえば今日から割り算教えるとかなんとか、クレア言ってたわね」
「リーゼ、もうクレアさん勉強部屋で待ってるよ?」
「やーだーっ、もー計算やだーっ! あたし足し算と引き算とかけ算だけでいいもーんっ!」
嫌がる"女神"は"悪魔"と"小娘"から逃げ、彼に抱きついた。
彼は頼られたことを悟り、"女神"のために勇ましく鳴きながら両翼を広げて威嚇する。
「ピュェェェェェッ、ピュェピュェェピュェェェェェ!」
「うるさいわよアシュリン」
「……ピュェ」
「うわぁぁぁアシュリンの意気地なしぃぃぃ!」
呆気なく"悪魔"と"小娘"に捕まり、床を引き摺られて連行される"女神"。
だが彼には"悪魔"と対峙できるだけの気概がなかった。
そんなものは生後間もない頃にへし折られていた。
「じゃーせめてアシュリンとユーリと一緒にするー!」
「ダメよ、集中できなくなっちゃうから。わたしだってユーリを膝の上に乗せながらしたいけど、我慢してるんだからね」
「アシュリン、ユーリと一緒にお昼寝でもしててね」
「やぁぁぁだぁぁぁ割り算ってなんだぁぁぁぁぁ!?」
"小娘"はそう言い残して"悪魔"と共に、叫ぶ"女神"を連れて部屋を出て行った。
そして向かいに位置する部屋に入っていき、後に残されたのは彼と"新入り"だけとなる。
「ピュェンェン」
彼は一人呟きながら、ベッドの上を見た。
もはや立派に成長した彼が寝転ぶことは許されない柔らかな台の上で、奴は心地よさげに眠りこけている。
「アシュリン」
「――ピュェ!?」
計画を実行しようとした矢先に突然声を掛けられ、彼は竦み上がった。
いつの間にか扉の前には"堕天使"が立っていて、彼女は彼の反応を気にした風もなく窓の外を指差す。
「今ちょうど雨降ってないし、散歩でも行く? まだ曇ってるけど、ここ三日くらいずっと家の中じゃ、アンタもユーリも息詰まるでしょ」
「ピュェン、ピュェェ、ピュェピュェェェ」
「え、なに、行きたくないの?」
「ピュェ」
彼としても散歩には行きたかったが、計画の方が大事だった。
それに"女神"が一緒ではないので、行く意味が半減する。
「ユーリは……まーた寝てるわね、この子。人の赤ちゃんみたいに、竜の赤子もよく寝るものなのかしら? でもアシュリンは滅茶苦茶元気だったわよね」
「ピュェェェン」
「んー、まあ魔物と竜は違うし、これが普通なのかしらね? でもなーんかアタシの勘だと、この子って単に怠け者っぽいのよねぇ……」
ベッドで寝息を立てる"新入り"は四肢も両翼も尻尾も首も伸ばしきって完全に脱力している。
"堕天使"はその様を胡乱げに見つめて一人呟いていたが、ぽりぽりと頭を掻いて嘆息した。
「ま、生後一年くらいは様子見かなぁ。ふぁあ……んー、なんかアタシも眠くなってきた」
「ピュェェェッ、ピュェェンピュェピュェェェ!」
「えっ、ちょ、なによアシュリン!?」
あろう事か"堕天使"が欠伸しながらベッドに向かって歩き出したので、彼は立ちはだかって進路を塞いだ。
「なによ、アタシには寝るなって言いたいわけ?」
「ピュェ」
「……ったく、アシュリンのくせに生意気ね。でもまあ、お姉様が勉強教えてるときに寝るのもなんだし、今のうちに晩ご飯の仕込みでも済ませておきますかね」
"堕天使"はあっさり背を向けると、気怠げに首筋を揉みながら部屋を出て行った。
彼は嘴を駆使して扉を閉め、一息吐く。
「ピュェンェン、ピュェ」
邪魔者がいなくなったことで、彼は改めて計画を実行に移すことにした。
まずベッドで惰眠を貪る"新入り"の身体を嘴で掴み、床に置く。
奴は未だに目を覚ます気配すらなく、変わらず暢気な寝息を立てている。
「……ピュェ」
彼は覚悟を決めると、ベッドに前足を乗せてシーツを固定し、嘴で布地を引っ張った。その当然の帰結として、音を立ててシーツが破れる。
何度もそれを繰り返していくが、彼は細心の注意を払っていた。
あまり大きく破きすぎないよう、小さな破り痕を幾つも作り上げることで、彼は白い布を蹂躙した。
その後、彼は"新入り"を荒れたベッドに戻して、完成した状況を眺める。
「……ピュェンッェンッェンッェンッェンッェンッェン」
彼は昏い声で笑うように鳴いた。
計画通りに事が運べば、この"新入り"はこの後、"女神"だけでなく"女将"や"悪魔"たちから叱責されることは必至。
その恐怖はかつて彼自身が味わったので、よく知っている。
本当は"悪魔"の部屋のベッドで実行するのが最大効率だったが、如何せん、万が一にでも真実が発覚した際のことを考慮すれば危険は冒さないに限る。
完璧な計画だった。
「ピュェンピュピュェェェン、ピュェッ」
おそらく"女神"にしか理解できないであろう捨て台詞を吐き、彼はベッドに背を向けた。物音に注意して部屋の片隅に移動し、先ほど"小娘"が言ったとおりの昼寝と洒落込む。
しかし彼は興奮していたので、なかなか寝付けなかった……。
■ ■ ■
「なんだこりゃぁぁぁぁぁ!?」
"女神"の叫び声で彼は目を覚ました。
生憎と雨天なので窓辺から差し込む陽光は薄いが、実に良い寝覚めだった。
「なによリーゼ、また大声出し――って何よこれ!?」
「これは酷い有様だね……」
"悪魔"と"小娘"も現れ、口々に驚きを露わにしている。
しかし"新入り"は僅かに身じろぎしただけで、熟睡したままだ。
「アシュリンッ、あんたなに暢気に寝てたのよ!」
「――ピュェ!?」
「こんなにしちゃうほどユーリが暴れてたのに気付かないなんて……お兄ちゃんならもっと妹のこと気に掛けておきなさいよっ!」
「ピュピュピュピュピュェェェ……」
なぜか真っ先に"悪魔"から叱責され、彼は困惑しながらも萎縮していた。
"悪魔"の怒りを受けるのは彼にとって最も恐怖すべきことなのだ。
「クレアこれ見てっ、シーツがこんなになっちゃった!」
「あら……」
"女神"が"女将"を連れてくると、"女将"は驚いたように目を見張っている。
その一方、"小娘"が"新入り"の身体を抱き上げると、小さく揺らしながら声を掛けた。
「ユーリ、こらユーリ、起きなさい」
「…………キュェ?」
「シーツ破いちゃダメでしょ、めっ」
「……キュァァァァァ」
"小娘"の冴えない叱責を受けても、"新入り"はどこ吹く風で欠伸している。
その様子を見かねたのか、"悪魔"が"小娘"から奴を受け取った。
「ユーリ、あんた自分がしたこと分かってるの?」
端から見ているだけでも全身の震えが止まらない迫力だった。
当初の計画と少々過程に誤差が生じ、肉を切らせて骨を断つことにはなってしまったが、しかしこれは想定以上の結果になるだろう。
奴も急な事態に戸惑っているのか、尻尾の先すら動かさず、頭を垂れている。
「キュェ……キュァ、ァ……」
「ちょ、ちょっとユーリ、なんで寝ちゃうのよ!?」
彼は信じがたい光景に我が目を疑った。
あの怒れる"悪魔"と真正面から相対しておいて、堂々と寝息を立て始めたのだ。
あ、あり得ない……奴は死にたいのか……?
「こ、こらユーリ、起きなさいっ」
「…………キュェ?」
「あ、よかった起きた。いい? ユーリ、シーツは破っちゃ――」
「キュ……ァ……」
「って、だからこらっ、寝ないのっ!」
もはや彼は戦慄を通り越して、呆然と"悪魔"と"新入り"を見ていることしかできなかった。
「サラ、落ち着いて、無理に叱っても効果はないわ」
「でもクレア……」
「ユーリには罰として、これからは床で寝かせればいいでしょう。アシュリンもいることだし、一緒に寝かせれば仲良くさせることもできるわ」
「…………ピュェ?」
突然、"女将"から目を向けられて、彼は戸惑った。
しかし代わりに"女神"が悲鳴を上げてくれた。
「えぇー、やだー、ユーリと一緒に寝たいー!」
「リーゼ、ここはクレアさんの言うとおりにした方がいいと思うよ。ユーリを甘やかさないためでもあるけど、ローズが帰ってきたとき、ベッドが窮屈になっちゃうし」
「そうよリーゼ、わたしだって厳しくしたくなんてないけど、今後のことを考えれば甘やかさない方がいいのよ。もし我が侭な子に育っちゃうと、大きくなってから背中に乗せてもらえなくなるわよ?」
「うぅ……それは、もっとやだ……」
"女神"は悩ましげな顔を見せつつも、そう呟いて頷き、未だ呆けたままの彼を見た。そして彼女は彼の頭を撫でると、しみじみとした声で告げた。
「アシュリン、これからは妹と仲良く寝るんだよ」
「…………ピュェ?」
彼はようやく我に返り、愕然とした。
またしても計画は完全に裏目に出てしまったのだ。
"新入り"だけでなく彼の評価も更に下方修正され、あまつさえ今後は"新入り"と共に寝ることになってしまった。
これでは自らの首を絞めただけである。
「…………ピュピュピュェェ」
しかし、彼は落ち込まなかった。
そんな余裕がないほど、"新入り"を計りかねていた。
なぜ奴は怒れる"悪魔"を前にしても、平然としていられるのか。
理解不能だった。
その得体の知れなさは恐怖心に似た何かを彼に抱かせていた。
彼は"悪魔"の腕の中で熟睡する"新入り"を眺めながら、密かに震えていたのだった。
【アシュリン的ヒエラルキー】
悪魔>>(越えられない壁)>>女将=姐御>親分=旦那>女神>
>(越えられない壁)>>自分=ダチ公=堕天使>小娘>三下>新入り