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幼女転生  作者: デブリ
七章・黄昏編
138/203

第九十二話 『賭博激闘録ローズ 四』

 

 黒服の守るフロア隅の扉から、スタッフオンリーなエリアと思しき廊下を歩き、一室に案内された。内装の小綺麗さと調度品のレベルから、おそらくはゲストルームだ。奴隷商館のよりふかふかのソファがローテーブルを挟んで二つ設置され、扉内側の両脇には黒服獣人が二人、直立不動で立っている。

 ツィーリエは俺たちを部屋に案内すると、「少々お待ちください」と言って、姿を消した。


「安物の椅子ね、あまり座り心地が良くないわ」


 俺はソファにゆったりと、しかし姿勢良く腰掛けて、さも不満げに愚痴ってみる。

 既に戦いは始まっているのだ。

 監視役っぽい黒服もいるのだし、もう俺は演技モードをオンにしておく。


「あらお嬢様、ご実家のものと比べては可哀想ですよ。これもそこそこ上等なものに見えますわ」

「…………」

 

 ベルはいつものオカマ口調で気色悪く言い、ユーハは無言だ。

 ソファはちょうど三人掛けだが、オッサン二人は座らず、ソファの両脇に立っている。配役としては適当な行動だ。


 黒服二人は黙って俺たちを見つめてくるだけだ。

 腰には四、五十レンテほどの警棒が下げられており、体格も良い。

 ついでにいえば、この部屋には窓がない。

 それでも俺はまだ身の危険を感じてはいなかった。


 カジノ側としては、イカサマを見抜いた奴など早々に消してしまいたいと思うだろう。しかし、俺が余人にイカサマの件を話したのか否か、話したとしたらそれは誰なのか、どうやってイカサマだと知り得たのか、情報を聞き出しておく必要がある。だから連中が俺に襲いかかってくることは、まだないはずだ。

 捕縛して尋問しようにも、俺は魔女だしユーハもベルもいるから、容易に手は出せまい。


「お待たせしました」


 ツィーリエが戻ってきた。

 彼女の後ろからは太った獣人のオッサンが入室し、更にその後ろから二人の黒服獣人も続く。そしてドアが閉められると、中年のデブ野郎は対面のソファの前に立ち、俺を見下ろしてきた。

 だが男にしては上背がなく、胴回りも四肢も太く、獣耳は丸っこく、かなり毛深い。襟元からは逞しい胸毛が覗いており、なんか全体的に熊っぽい奴だ。印象としては、冬眠に備えすぎてメタボになった熊、あるいは前世で名を馳せていた黄色い熊さんをリアルにした感じか。

 たぶんこいつの名前はプー太郎だな。

 いやそれは前世の俺か。


「はじめまして、お嬢ちゃん。オレはこの賭場の代表をしているケルッコだ」

「はじめまして、ケルッコさん。私のことはレオンとでもお呼びください」


 俺はソファに腰掛けたまま鷹揚に、そして優雅さを意識して目礼した。

 ケルッコはどかっとソファに腰を落とすと、頬まで髭に覆われたふくよかな丸顔をベルとユーハに向ける。


「この二人は気にしないでください。私もそちらの方々のことは気にしないので」


 ベルとユーハに対抗するようにソファ両脇に立つ黒服二人を見て、俺は先手を打った。尚、ツィーリエはソファの後ろに立ち、こちらと向き合っている。


「なるほど、なかなか肝の据わったお嬢ちゃんだ。それでレオンちゃん、なんでもオレとツィーリエを交えて、丁半賭博について語り合いたいとか」

「ええ。きっと興味深いお話ですから、お二人とも聞きたいだろうと思いまして」

「そうか、なら早速だが聞かせてもらえるか」


 ケルッコはソファに大きく背を預けると、懐に手を突っ込み、葉巻を取り出した。それを口に咥えると後ろのツィーリエが葉巻の先に手を近づけて、無詠唱化された火魔法で着火する。

 野郎は口から紫煙を吐き出し、偉そうにふんぞり返る。だが、そんな仕草や先ほどの声音などを窺う限り、それほど怖そうな印象は受けない。

 それでも油断はせず、いつ怒鳴り声を上げられてもいいように心構えはしておく。


 俺は緊張を押し殺し、あくまでも余裕ある素振りを見せたまま、口火を切った。


「実は私、ツィーリエさんの壺振り師としての腕前に感服しまして。あのように魔法を賭戯に利用する手法、お見事でした。ただ、少し無警戒だったのは頂けないのですが」

「……魔法を賭戯に利用するとは、お嬢ちゃんは何を言っているんだ?」

「とぼけずとも結構ですよ。ツィーリエさんが魔女で、闇属性中級魔法〈霊引ルゥ・ラトア〉で丁半の操作をしていることは承知しています」

 

 ツィーリエは俺が〈霊引ルゥ・ラトア〉を使用した時点で気付いただろうし、既にケルッコにも話は通してあるはずだ。だから二人とも大して驚いてはいないし、黒服共も躾はなっているのか、微動だにしない。

 ただ、ツィーリエは不自然なまでに無表情なので、少し気になる。


「丁半の操作――つまりイカサマしてるって言いたいのか?」

「身も蓋もなく言ってしまえば、そうです」

「仮に、お嬢ちゃんの言うことが本当だとしても、具体的にはどうやってイカサマするんだ?」

「具体的な方法の説明まで必要ですか? 私が〈霊引ルゥ・ラトア〉を用いたイカサマの存在を知り、それが多くの愚かなお客さんたちへと広まるかもしれない。それだけが分かっていれば、私も貴方がたも必要十分なのではないでしょうか?」

「…………」


 ケルッコは太く立体的な眉の下で、ヤバい感じに双眸を細め、俺を睨み付けてくる。こちらは変わらず優雅に腰掛けたまま、その視線を微笑みで受け止めた。


 イカサマの方法は説明しないのが望ましかった。もし俺の推理が間違っていたら間抜けだし、相手に隙を晒してしまうことになる。

 今この場で重要なことは、俺が魔法を利用したイカサマの存在を確信しているという、ただ一点だ。

 

 魔法士ではない一般人にとって、魔法とは便利で摩訶不思議なものという認識が強いらしい。前世で例えれば、一般人にとってのハッカーのようなものだろう。

 情報技術に疎い人が思い浮かべるハッカー像は、パソコンやスマホを駆使して電子機器や情報を思いのままに操れる……というものだったはずだ。

 それは強ち間違いではないが、そこには多大な制約があり、誰もが高度な情報操作を行えるわけではない。しかし、一般人にとってのハッカーとは『何だかよく分からないが凄い人』という認識の存在なのだ。

 それと同様に、この世界の一般人にとっての魔法士もまた、『何だかよく分からないが凄い人』という認識の存在となっている。更に魔法士が魔女ともなると、それは前世におけるスーパーハッカーと同レベルの存在だ。詠唱省略までできるとなれば、まさにウィザード級のスーパーハッカーと同列だろう。


 もし前世で、対戦型の電子ゲームをプレイしていたとする。

 そのゲームの勝敗には金が賭けられ、ルールは完全に公平な運勝負だとされていた。が、そのゲームの対戦相手がウィザード級のスーパーハッカーだと知ったら、プレイヤーはどう思うか?


 ――方法は分からんけど、こいつ絶対イカサマしてやがる!


 それはこの世界の賭場でも同じ事が言える。

 だからこそ、ディーラーはどのゲームでも全員が女だったし、黒服共も全員が獣人だった。魔力のない女なら魔法は使えないからイカサマしようにもできないし、客が詠唱しても鋭敏な聴覚を有する獣人の警備員がいる。

 賭場などに希少な魔女どころか無詠唱魔法士がいる可能性など普通は考えないし、他の客が相互に監視し合う中で詠唱しようとする馬鹿もいない。

 そうした常識の存在が、魔法に疎い人でも安心して賭戯に臨める状況を作り上げていた。闘技場にいたっては結界魔法まで張られていたのだから、この賭場は公正を期すために十分な労力が割かれていると客は認識するはずだ。


 しかし、ディーラーが魔女だという噂が広まったら、どうだ?

 魔弓杖のように、ただ魔力さえあれば使える魔法具は、数こそ少ないが存在する。ある程度大きな町の教会にはそうした魔法具があるらしく、それを使って生まれた子供が魔女かどうかを判別する。

 ここチュアリーは大きな町だし、教会の影響だって大きいので、まず間違いなく魔法具は存在するはずだ。一度か二度くらいはディーラーたちが客の前で魔力検査をしてみせただろうが、事前に魔力を空にしておけば普通の女性と判別はつかない。

 だが、もし噂によって誰かに抜き打ちチェックでもさせられれば一発アウトとなり、賭場は敢え無く潰れるか、営業停止に陥るだろう。


 俺はただ、ツィーリエが魔女だと確信していると相手に思わせられれば、とりあえずそれで良いのだ。しかも俺は〈霊引ルゥ・ラトア〉という具体的な魔法名まで上げて指摘している。

 ケルッコは信じざるを得まい。


「なるほど、実に賢いお嬢ちゃんだ……いや、驚いた」


 カジノオーナーらしいケルッコは葉巻を指の間に挟み、紫煙を吐き出しながら大きな腹を揺らして静かに笑う。

 そして笑顔のまま、しかし瞳には剣呑な光を宿らせて、俺を睨み付けた。


「それで、お嬢ちゃんはなぜそれを知っているんだ? 誰かから聞いたのか、それともまさか自力で気付いたのか?」

「さて、どうなのでしょうか」

「…………」

「そう怖い顔で睨まないでください。思わず隠れたくなってしまいます」

 

 と言って、俺は無詠唱で〈幻彩之理メト・シィル〉を行使した。

 これにはケルッコとツィーリエだけでなく、さすがに黒服連中も驚きの表情を見せている。


「…………」


 五秒ほどで透明化を解除すると、デブ熊オヤジに無言のまま微笑みかけた。

 すると野郎は葉巻を咥えて、口元を覆い尽くす髭を撫でつつ、俺から視線を外さぬままに背後の美女に問いを投げる。


「……あー、ツィーリエ、今のは何級の魔法だ?」

「特級の幻惑魔法ですね。肉体を不可視化することのできる魔法です」

「それを詠唱もなく、か……なるほど、なるほどな」


 ケルッコはユーハとベルにも目を向けながら、何か納得したように幾度か頷いている。奴隷商館のときみたく勘違いしてくれればいいが……。

 この調子なら大丈夫そうか?

 何はともあれ、話の主導権を握るためにも、この隙にこちらから攻めていく必要がある。


「ケルッコさん、実は私、一昨日ツィーリエさんが壺を振るテーブルで丁半賭博をしたのです。そのとき、幾らか負けてしまいまして」

「お嬢ちゃん、生憎とオレは間怠っこしいのは好きじゃないんでな。ここは単刀直入に言ってくれないか?」

「分かりました。それでは率直に言います。イカサマの件、500万ジェラで手を打ちましょう」


 俺は臆面もなく、平然と言い切って見せた。


「手を打つとは、具体的にどういうことだ?」

「イカサマの手法も存在も、他言はしません」

「だが、お嬢ちゃん以外にも知っている奴はいるんだろう?」

「私が黙らせます」


 ケルッコは先ほどからろくに煙を吸わないまま、俺から目を逸らさず、射貫くように見つめてくる。

 毛深いオッサンから熱視線を注がれても全く嬉しくなれない。

 俺は無理矢理そう思って、緊張を誤魔化す。


「500万……500万ジェラか。お嬢ちゃんからすれば、その程度は端金なんじゃないのか?」

「そうですね」

「もっと要求はしないのか?」


 対面に座すオッサンに特段変わった様子は見られない。

 カジノオーナーらしくポーカーフェイスのまま、どっしりと構えている。

 いや、ポーカーフェイスというより、髭のせいで表情が分かりづらいのだ。


「しても良いのですが、敬意を表して止めておきます」

「敬意?」

「先ほども言いましたが、そちらのツィーリエさんの手法には感服しました。同じ魔女として、彼女には一定の敬意を抱いています」

「なら、その敬意とやらで、見て見ぬ振りをしようとは思わなかったのか?」


 俺は殊更にソファの背もたれに身体を預けた。

 そしてプー太郎を精神的に見下すような視線と声を意識しつつ、傲慢さが見え隠れするように口元を上品に釣り上げてみる。

 実際にできているかどうかは分からん。


「思いましたよ。ですが幸か不幸か、この町の奴隷商館で気に入ったのを見つけてしまいまして。それでも、自腹を切ってまで買いたいほどのものでもなかったのです」

「だから、オレをゆすりに来たと」

「ええ、ですからたったの500万ジェラです。必要以上に頂くのも悪いので」


 厚顔無恥も甚だしく、何ら悪びれる素振りも見せず、俺は微笑みながら要求した。

 しかしケルッコはあくまでも冷静そうに、ゆっくりと脚を組んで一服している。


「なるほど、なるほどな、よく分かった。つまりお嬢ちゃんはお小遣いが欲しいから無心しに来たと」

「そうとも言えます。なかなか洒落が効いていますね」 


 ケルッコの眼差しがより鋭くなり、目元が痙攣するようにピクピクと震えている。たぶん相当苛ついてるはずで、今にもローテーブルを蹴り飛ばして俺に襲いかかってきそうな緊迫感がひしひしと伝わってくる。

 しかし、奴もツィーリエも黒服共も動かない。


 先ほどからユーハが俺でも分かるほどの威圧感を放ち、ケルッコたちを牽制していた。加えて俺は特級魔法を無詠唱で行使できる魔女であり、この場で荒事になれば無事では済まないと相手方は分かっている。

 それに俺の身元が不確かすぎて、迂闊には手を出せないはずだ。

 仮に俺を攻撃して、俺がこの場から逃げ延びれば、連中は直接的あるいは政治的な報復をされるのではないかとも危惧している……と思う。世間的に俺は超絶優秀な魔女らしいので、そんな人材がどこの国にも属していないとは常識的に考えてあり得ないはずだ。

 

「どうですか、ケルッコさん。頂けるのか、頂けないのか」


 選択肢を突きつけた。

 頼むからイエスと答えて欲しい。

 

「……くれてやってもいいが、条件がある」

「条件を提示できる立場だと?」

「まあ、聞いてくれ」


 獣人オヤジは太い足を組み直し、溜息を吐くように紫煙を吐き出し、言った。


「そっちには情報源を明示してもらいたい。誰からイカサマの種を聞いたのか、あるいはどうやって気付いたのか」

「……分かりました、いいですよ」


 少し考える素振りを見せてから、頷きを返す。

 ケルッコは「そうか、そりゃ良かった」と感情の読みづらい声で応じた。


「それなら、交渉成立だな。じゃあ早速話してもらおうか」

「いいえ、先にお金を持ってきてください。条件を提示したのはそちらなのですから」

「そうだな、分かった」

 

 意外にあっさり了承して、ケルッコはソファに沈めていた肥満体を持ち上げた。そしてソファ脇の黒服獣人が差し出した灰皿に葉巻の先を押しつけて、歩き出そうとする。


「今から持ってこよう」

「いえ、貴方はここに残っていてください。お金はそちらの部下の方に取りに行かせてください」


 ここでボスのケルッコを部屋の外へ出せば、こいつは逃げて応援を呼ぶかもしれない。まだ俺たちは情報を伏せているし、俺たちを殺すリスクは承知しているはずだが、油断はできん。

 こいつには人質としてこの場にいてもらうことにする。


「……………………」


 ケルッコはしばし無言で俺を見下ろしてきた後、側に立っていた黒服を招き寄せた。それから耳元で何事かを囁くと、黒服獣人は即座に頷いた後、部屋を出て行く。


「少し待っていてくれ」


 再びソファに腰を下ろし、笑みの一つも見せないでケルッコはそう言った。

 表向きは友好的な態度を見せるか、怒りを露わにするかしてくれないと、何だか不気味で仕方がない。ケルッコの態度は酷くフラットで、事務的な対応だ。


「互いにだんまりもなんだし、世間話でもしようか」


 再び懐から葉巻を取り出し、熟女に火を着けてもらい、野郎は煙をくゆらせ始める。


「お嬢ちゃんはどこから来たんだ? この町へは何をしに?」

「それはお互いのためを思えば、教えられません。ケルッコさんの方はどうです? 儲かっていますか?」

「500万ジェラくらいなら、すぐにでも出せる程度にはな」

「それは何よりです」


 実に白々しい空気が流れていた。

 メタボの中年オヤジと男装した幼女が差し向かいに話し合う絵面からして、奇妙なものだろう。

 先ほどからベルもユーハも、ツィーリエも黒服共も無言かつ直立不動だ。

 そろそろ胃が痛くなりそうだから、さっさと切り上げたい。


「お嬢ちゃんはなかなか肝が据わっているようだが、こういうことには慣れているのか?」

「ご想像にお任せします。ケルッコさんは随分と慣れているようですね」

「いや、イカサマを盾に脅迫されるのは今回が初めてだ」

「私が初めてということですね、光栄です」


 頼むから早く戻ってこいよ、黒服。

 俺の精神力にも限界があるんだ、あまり長引くとボロが出かねない。

 幼女らしくなく見せるのはさほど苦ではないが、こういう緊張感には慣れてないんだよ。それにさっきからプー太郎の奴が俺の方に煙を吐き出してきて、なんだか息苦しいし。


「そこの二人はお嬢ちゃんの護衛か? 眼帯の方はともかく、そっちの男はまた変わり種だな」

「男と言ってあげないでください。彼女はオンナです」

「女? とてもそうは見えないな、服装も男もののようだが」

「人を見た目で判断するべきではありません。あと、女ではなくオンナです」


 ケルッコは微妙に不可解さを露わにしながらも、深くは追及してこなかった。

 それでいい。俺も説明しきれる自信はなかったからな。

 しかしさっきから、どうにも会話の主導権がケルッコに移ってしまっている。

 これを機に、反撃の意味合いも兼ねてこっちから質問してみるか。


「そういえば、ツィーリエさんはいつからこの賭場に?」

「ツィーリエはうちで働き出して、もう十五年になるな」


 他の客も知っているだろう情報だからか、あっさり教えてくれた。


「どういう経緯で魔女が賭場の壺振り師に?」

「それは互いのためを思えば、教えられないな」


 意趣返しか。

 ツィーリエ本人は無表情に佇んでいるだけで、特に何の反応もない。

 と、そう確認したところで、ノックの音が軽く響いた後、扉が開いた。

 現れた黒服獣人は片手に革袋を持っており、それをケルッコに手渡した。


「さて、この通り金は持ってきた」

 

 ケルッコはローテーブルの端に革袋を置き、わざとらしくジャラっと音を立てた。革袋は片手で持てるサイズだし、量もあまりなさそうだ。

 普通に10万ジェラ硬貨が五十枚入っているのだろう。


「こいつを渡す前に、約束通り話してもらおうか」

「その前に、中身を見せてください」


 ケルッコは淡々とした手付きで革袋の口を開くと、眩い煌めきを秘めた中身を露わにする。

 俺はそれに頷き、さっさと相手の知りたいことを教えてやることにした。


「私がイカサマを知り得たのは、自分で気付いたからです」

「どうやって、気付いたんだ?」

「常人には理解し難い方法で、です」


 嘘は言っていない。

 おそらくケルッコもツィーリエも魔動感を知らない。

 婆さんも魔動感を持っている奴は滅多にいないと言っていたし、魔動感は長所でもあり短所でもある。だからこそ、魔動感を持っている奴はその存在を大っぴらにはしてこなかったはずなので、たとえ魔女だろうと知らなくても不思議はない。

 

「理解し難くても、その方法を教えてもらいたいんだが」


 ケルッコはこれ見よがしに眉をひそめた。

 相手の体格はベルとは比べるべくもないし、メタボ体型だから迫力も全然ないが、怖いには怖い。

 だが俺は表向き涼しい顔でそれを受け流した。


「私には分かったんです。あぁ、この人〈霊引ルゥ・ラトア〉を使ったな……と」

「お嬢ちゃん、この後に及んで悪ふざけはよしてもらえないか」

「と言われましても、私はただ正直に話しているだけなので。私は誰がどんな魔法を使ったのか、直感的に判別することができるんです」

「…………」


 んな睨むなよ。

 魔動感って固有名詞を出したとしても、どうせ信じないんだろ?

 これでも一応誠意は見せてるんだから、納得してくれや。


 という祈りが通じたのか、ケルッコは呆れたように目を伏せて吐息を零した。

 紫煙がもわっと拡がり、奴と俺の間に仄白い幕ができる。

 野郎はテーブルに置いていた革袋を左手で取り、右手で後頭部をガシガシと掻いた――その直後、魔動感が反応するのと同時、ケルッコがいきなりローテーブルを蹴り上げる。


「――っ!?」

 

 瞬く間に視界を埋め尽くす天板に圧倒され、テーブルにも魔法にも対処に窮した。俺の身体は見えない何かに引っ張られるような感覚に襲われるが、そういう感じがするだけで、実際には一歩も動かされていない。

 だが驚いて身動きが取れず、そのまま宙を舞うテーブルが顔面に直撃――しかけたところで、テーブルが明後日の方へ吹っ飛んだ。

 ベルが目にも留まらぬ速さで蹴り飛ばしたのだ。

 しかし、開けた視界には短剣を構えるケルッコと俺に掌を向けてくるツィーリエの姿があった。視界の端には黒服共が腰元に吊り下げていた警棒を手にしているのが確認できる。


 そのときには既に、無属性上級魔法〈魔解衝ク・ルディス〉で〈霊引ルゥ・ラトア〉の効果を打ち払っていた。俺は更に美熟女へ向けて〈霊斥ルゥ・ルペリ〉を放つ。彼女はやや険しい顔を見せたまま背後の石壁に激突し、微かな苦鳴を漏らした。


「ケルッコさん……これは何の真似でしょうか?」


 獣人オヤジはソファから一歩を踏み出した姿勢で硬直していた。

 蒼刃の切っ先を首元に突きつけられ、そんなボスの姿に黒服共も動くに動けないようだった。

 だがケルッコはさすがカジノオーナーだけあって胆力は結構なものらしく、窮状にあっても葉巻と金貨袋は手放してないし、俺を力強く睨み付けてくる。


「そっちが約束を違えたからだ」

「私は正直に言いましたよ」


 〈霊斥ルゥ・ルペリ〉で張り付け状態にしたままのツィーリエから魔力波動を感じた。直感に従い、〈霊斥ルゥ・ルペリ〉を行使したまま断唱波で闇属性上級魔法〈超重圧ティラグ・ルフ〉を打ち払う。

 ツィーリエは状況が良く飲み込めていないのか、眉根を寄せつつも再度の〈超重圧ティラグ・ルフ〉を行使しようとしたので、やはり断唱波で無効化した。


「ツィーリエさん、死にたくなければ止めてください。私は言いましたよね、誰がどんな魔法を使ったのか、直感的に判別することができると。実はこれ、正確には誰がどんな魔法を使おうとしているのかも分かりますし、私はそれを無効化することもできます。貴女も無詠唱の使い手なら、断唱波って聞いたことないですか?」

「――――」

「また魔法を使おうとしたら、いま貴女が使おうとした〈超重圧ティラグ・ルフ〉で、貴女がた全員を潰します」


 努めて冷静さを装って毅然と言い放ち、俺は〈霊斥ルゥ・ルペリ〉を解いた。

 ツィーリエは壁に背中を預けた状態でずるずると床にへたり込む。半ば呆然とした顔を晒しており、さも不気味だと言わんばかりに、目が口ほどにものを語っていた。

 そんな美熟女を横目に見てケルッコも悟ったのか、先ほどとは打って変わって、俺に向ける眼差しに怯えの色が混じっている。口元からぽとりと葉巻が落ち、床でバウンドしてコロコロと転がった。金貨袋も落下して、ジャラッというゴージャスな音を立てる。

 だが、俺も野郎同様に怯え、内心では発狂寸前の危地にあった。


 なにせ今し方、下手すれば俺は死んでいたのだ。

 最初、ツィーリエが〈霊引ルゥ・ラトア〉を使ってきたことから、たぶん連中に俺をこの場で殺す気はなかった。情報を聞き出す必要だってあっただろうし、俺の身元や立場も不透明だったはずだから、当然といえば当然の処置だ。

 しかし、ツィーリエは〈超重圧ティラグ・ルフ〉も行使してきた。

 俺が詠唱省略できることを相手は知っているのだから、単に死なない程度に押し潰すような中途半端はせず、一撃で殺しに掛かろうとしていたはずだ。

 

 さっきは直感的に〈超重圧ティラグ・ルフ〉だと判別して反射的に断唱波で無効化したが、思い返せば完全に綱渡りな行為だった。

 断唱波はかなりシビアなタイミングが要求されるので、詠唱ありなら未だしも、無詠唱の使い手に初見で放つのはギャンブルも同然の愚行といえる。

 そもそも直感が外れていれば断唱波など全く意味を為さず、ただの魔力流になっていた。無論、慣れれば初見の相手でも高確率で成功させられるだろうが、俺はまだそのレベルではないはずなので、今のは単に運が良かっただけだといえよう。


 僅かでも読み違えていれば、今頃は潰れたトマトっぽい死体と化していただろう。ユーハかベルに放たれていた可能性は否めないが、この場で一番厄介なのは俺なのだから、俺狙いだったことは明白だ。

 我ながらどうして〈魔球壁フィス・アルア〉で防御しようとしなかったのか疑問だが……まあ、たぶん俺の心に根付く善性が、ユーハかベルが狙われる可能性を看過できなかったのだろう。

 そうでも思わなければ、死の恐怖と自らの判断ミスのダブルパンチに心が乱れ、瞬く間に冷静な仮面が剥がれ落ちてしまう。

 

「さて、ケルッコさん」


 なんとか平然と呼び掛けると、獣人オヤジは僅かに肩を震わせて、息を止めた。


「私が嘘を言っていないと、信じてもらえましたか?」

「……あ、あぁ、信じた、信じたとも」

「そうですか、それは良かった」


 微笑みを見せてやると、プー太郎は「ぃヒッ」と喉を引き攣らせたような奇声を漏らす。俺はそれを無視して床に落ちていた革袋を拾い上げ、ついでに葉巻を踏みつぶして火を消すと、再びケルッコを見た。

 もちろん、ローズスマイル(Sサイズ)は浮かべたままだ。


「もし私たちを追ってきたり、身元を探ったり、害を為してきた場合は……分かっていますね?」

「わ、分かっている、何もしない、尾行もしないし夜襲も掛けないし何処へも探りを入れない」


 すらすらと尾行だの夜襲だの探りを入れるだのが出てくるあたり、そうするつもりだったのだろう。

 やはり最終手段はリスキーすぎたな。


「その言葉、確かに聞きましたよ。安心してくださいケルッコさん、もうこの賭場は訪ねませんから」

「あぁ……それは、あぁ、助かる……」

「もちろん約束は守って、誰にもイカサマのことは言いません。ですが、今し方の無礼に対するお仕置きは、必要ですよね?」


 毛深い顔が青白くなるのが分かった。

 俺はそんな中年オヤジから壁際の美熟女に目を向け、そちらへ足を踏み出した。

 

「ロ……お嬢様っ」


 ベルが焦ったように呼び掛けてきた。

 振り返ると、何やら不安そうな顔をしている。お仕置きと聞いて、俺が何か物騒なことでもするのかと勘違いしたのかもしれない。

 たしかに俺は調子に乗りやすい質だけど、ちゃんと自制も自重もできているし、安易に人を傷つけるようなことはしないよ。


 俺はきゃぴっとウインクを返し、へたり込むツィーリエに近づいた。

 彼女は俺の言うとおりに魔力を励起させることもなく、ただ得体の知れない魔物にでも向けるような目で俺を見てくる。

 さすがに美熟女からそんな反応をされると、少し落ち込むよ……。


「ツィーリエさん、私を殺そうとしましたよね?」

「ぁ、いえ、私は――」

「許します」


 俺は彼女の震える肩に優しく手を置いて、ローズスマイル(Mサイズ)をプレゼントした。と同時に、全力全開の無属性特級魔法〈霊衝圧ルゥソ・クイン〉もセットで差し上げた。接触点から淡い白光が弾けてツィーリエの全身が強張り、そのまま横にぱたりと倒れる。


「ですが、反省はしてもらいます」


 既に意識のない魔熟女にそう言って、ケルッコを振り返った。

 絶句している野郎と、それからベルにも説明するように、俺は言った。


「気絶させただけですから、安心してください。それと、最低でも今日一日は魔法が使えなくなると思いますので、もう今日はイカサマできませんよ」

「――――」


 放心したようなケルッコから視線を切り、俺はユーハとベルをそれぞれ見て、微笑んだ。


「では、行きましょう」


 俺たち三人以外、誰も身動き一つしないまま、俺たちは傷一つなく退室した。

 



 ♀   ♀   ♀




 一旦、宿に戻った。

 帰り道は三人とも無言で、俺は神経を張り詰めていた。

 何事もなく宿の部屋に入り、扉を閉めると、思いがけず大きな溜息が漏れ出る。


「はぁ……疲れた……」


 ベッドに倒れ込んだ。

 かつてないほどの疲労感が全身に重くのしかかり、身も心もクタクタだった。

 ある意味、真竜戦より緊張した。


「もうアタシったらずっとはらはらしっぱなしだったわよ」

「うむ、某も終始気が気でなかったぞ。ローズが何を申しておったのか分からなかったのでな、余計にだ」


 ベルは未だしも、ユーハも気疲れしたようだ。

 二人ともベッドと椅子に腰掛けて、それぞれ一息吐いている。


「ユーハさん、尾行とかなかったですか?」

「うむ、何者も某らをつけてきておる気配はなかった。してローズ、あの場でどんな遣り取りをしておったのか、説明してくれぬか」


 俺は仰向けに横たわったまま、顔だけユーハに向けて、あの部屋での会話を大まかに話した。

 思い返してみると、よくもまあ小心者の俺があそこまで頑張れたものだと自賛したくなってくる。


「……なるほど、最後のは魔法封じの一撃であったか。それならば、しばらくあの賭場ではイカサマのない公平な賭戯が行われるのであろうな」


 ユーハはそう言って頷いているが、満足そうではない。

 結局、イカサマはこれからも続けられるだろうし、どう言い繕ったところで俺たちがやったのは喝上げだ。

 決して胸を張って余人に話せることではない。


「いやしかし……やはり穏便にはいかなんだな。双方共に負傷者すら出なかったことは上々だが」

「仕方ないわよ、向こうだって意地とか色々あったでしょうし。それにローズちゃんの演技、少しハマりすぎてたわ」

「え、そうでしたか?」

「アタシたちのことは不審で得体が知れないとは思っていただろうけれど、行き過ぎた感はあったわね。だから、きっと彼らは危機感を必要以上に煽られすぎて、ローズちゃんの説明にキレちゃったのだと思うし」


 通常、人は得体の知れない何かには容易に手出ししない。

 しかし、俺の見た目は男装していても幼女――相手からすればクソガキだ。

 不安と同程度かそれ以上に苛立っていただろうし、俺の説明に納得できなくて爆発したとしても不思議ではない。

 とはいえ、ケルッコの動きとツィーリエの魔法行使は連動していたので、たぶん予め緊急時の行動は決めていて、ジェスチャーか何かで火蓋を切ったのだろう。

 やっぱ色々危なかったな。

 マジで一歩間違えてれば死んでたぞ。

 無詠唱魔法の使い手は厄介だと改めて痛感したわ。


「いずれにせよ、金は手に入ったのだ。此度の件には反省も自戒も必要だが、今はあの女子のもとへ参ろう。どうせ助けるのであれば、僅かでも早い方がよかろう」

「そうですね、休憩する前にさっさと行きますか」


 本当はこのまま一度眠ってしまいたかったが、まずはイヴだ。

 疲れた心身は美女との触れあいでヒールすればいい。


 というわけで、軽く水を飲んで落ち着いてから、再び町に出て奴隷商館を目指した。金はユーハに預かってもらっているが、大金を持ち歩いていると思うと、何だか無駄に警戒してしまう。これまでもベルが大金を所持していたとはいえ、今回の金は闇ルートでゲットしたものだ。

 きっと犯罪者が町中を出歩くときはこういう気持ちになるのだろう。

 いや、俺は犯罪者じゃない。当然の権利を行使しただけの善良な魔幼女だ。

 そわそわする必要なんてどこにもない、もっと堂々としていればいい。


「そんなにそわそわしないで~」

「む、急に歌い出して如何した」 


 まだちょっと緊張感が抜けきらなくて、テンションがおかしくなっている。

 やはり分不相応なことはするもんじゃないな。


「いらっしゃいませ。あぁ、これはお客様、本日は如何なさいましたか」


 入店すると、身形の良い中年のオッサンが話しかけてきた。

 五日前に訪れたときにも応対した、えーと……そうだ、ネンナールだ。

 

「この前、私たちが話をした翼人の女性はまだいますか?」

「ええ、はい、まだおりますよ」


 近々、北ポンデーロ大陸へ輸送されるという話だったから、少し不安だったが……良かった、まだ輸送も購入もされていないようだ。


「今日は彼女を買いに来ました」

「それはそれは、まことにありがとうございます。それでは奥の部屋へとご案内いたします、どうぞこちらへ」


 俺たちは慇懃に接してくる中年店員に先導され、前回イヴと話をした個室に入った。ソファに腰掛けて待っていると、ややもしないうちにティーカップが出てくる。

 それから間もなく、ネンナールが翼人美女を連れて入室してきた。


「あ、シャロンさん……?」

「こんにちは、イヴさん」


 意外そうな顔を見るに、ろくに説明されないまま連れてこられたのだろう。

 ネンナールとイヴは対面のソファに腰掛けると、野郎が小脇に抱えていた二枚の羊皮紙を差し出してきた。


「こちらは契約書となっております。確認いたしますが、こちらの奴隷のお値段は前回も申し上げましたとおり、350万ジェラとなっております。ですがお客様の場合は知人とのことですので、偶然の再会を祝してのお値段――330万ジェラとさせて頂いておりましたが、よろしかったでしょうか?」

「ん-、もう少し勉強できませんか? 300万くらいに」

「申し訳ございません、お客様。こちらも最大限に勉強いたしまして、330万ジェラとなっておりますので……」

「そうですか、分かりました。では330万ジェラで結構です」

 

 こちらが了承すると、ネンナールは「ありがとうございます」と頭を下げた。

 その隣に座るイヴは困惑の表情のまま、俺たちを眺めている。


 本当はベルに交渉させれば、少しは値切れたかもしれない。

 だが今回の件は俺が言い出して、俺主導で事を進めて、ここまで来た。

 オッサン二人には色々協力してもらったが、最後まで人任せにはせず、可能な限り自分の力でやっていきたかった。


「それでは、こちらの二枚ともに署名と血判をお願いいたします。もちろん、指先の傷はこちらで治癒魔法を掛けさせて頂きますので、ご安心ください」


 契約書にはなんか色々と小難しいことが列記されていた。

 念のため軽く目を通してみて、特に問題はなさそうだったが……。

 

「あの、この中級の治癒魔法と解毒魔法についてですけど……」

「あ、はい、当商会では300万ジェラ以上の奴隷をご購入された場合には、お客様の目の前で中級の治癒と解毒の魔法を無料で掛けさせて頂いております。ご覧の通り、この者は健康体ではありますが、心配されるお客様もいらっしゃいますので、念のために」

「これいらないですから、その分おまけしてくれませんか?」


 治癒や解毒の魔法を使える魔法士は貴重だ。

 魔力だって有限なので、日に行使できる魔法には回数があるので尚更だろう。

 町の治癒院で中級の治癒と解毒の両方を掛けてもらうとなると、それなりに金も掛かる。

 しかし俺の魔力は未だかつて枯渇したことないし、俺なら特級のが使える。

 こんなサービスはいらん。


「そう仰るお客様もたまにいらっしゃいます。その場合ですと、1万ジェラの値引きとなりますが、よろしいでしょうか?」

「大丈夫です。それと奴隷印もいらないので、その分も引いてくれませんか?」


 奴隷印とは特殊魔法の〈刻霊印グ・ディラ〉で刻まれる奴隷の印のことだ。

 転生して間もないころに俺も刻まれた、アレだ。アレを肌に刻まれた場合、たとえ肌を削ろうと火傷をしようと、やがて印は浮き出てきて消えることはない。

 どうやらご主人様は奴隷の身体の好きな部位に所有の証を刻めるらしいが、これも俺には必要ないサービスだ。


「奴隷印の方は300万ジェラ未満の奴隷をご購入頂いたお客様にもサービスしているものですので、申し訳ございませんが、そちらの分は値引きいたしかねます」

「そうですか。そういうことなら、消すのも無料ですよね」

「はい」


 まあ、それなら仕方ないか。

 俺も〈刻霊印グ・ディラ〉に対する専用の除去魔法は習得済みだが、値引きされないのなら、せめて店側で消してもらおう。


 しかし……値引きはたった1万か。

 治癒院での料金は知らんが、中級魔法を二回ならもっと高いだろう。

 とはいえ、1万ジェラだって大金だ。

 500万ジェラもあるからって、1ジェラだろうと無駄にはできん。


「では、少々失礼いたします」


 ネンナールは二枚の契約書のどちらにも羽ペンで修正を施した。


「それでは、まずお支払い頂いてよろしいでしょうか」

「はい」


 俺はユーハに目配せして、金貨袋を出してもらった。

 ローテーブルの上に革張りのトレーを差し出されたので、そこに俺自身の手で三十三枚の10万ジェラ硬貨を乗せた。

 ネンナールがトレーを手元に引き寄せて、その場で枚数を確認し、「確かに」と頷く。


「お釣りとなる一万ジェラを持って参ります。その間に、こちら二枚の契約書に署名と血判を捺して頂いてもよろしいでしょうか」

「分かりました」


 オッサンが退室していき、俺は羽ペンを手に取った。

 そのとき、対面に座す美女が「あの……」と躊躇い気味に声を掛けてきた。


「なぜ、私を? 以前は、買う理由はないと……」

「あのときは期待させたくなかったので」

「……期待?」


 不可解そうに眉根を寄せるイヴに、俺は微苦笑を返した。


「あのときの私は、イヴさんを買うためのお金は持っていませんでした。もし私が買う気を見せていれば、イヴさんは少なからず期待しましたよね? 私としても購入金額を工面できる自信は全然なかったので、あのときはアレが妥当な対応かなと」

「……では、以前は私のために、あのような態度をとったのですか?」


 頷くと、美女はさも意外だと言わんばかりに唖然としている。

 ということは、あのときの俺はきちんとイヴに希望を持たせずに済んだのだろう。

 絶望とは希望があってこそのものだ。

 無駄に期待させておいて、やっぱり無理でしたとか、残酷だからね。


「ですが、なぜ私を買ってくださるのですか? 私はあの日、シャロンさんの奴隷として、仕える気はないと言ったはずですが」


 半信半疑な様子で、イヴはどこか恐る恐る訊ねてくる。

 無理もない反応だろうが、あんたがそれを言いますか。


「分かっていますよ。ですから奴隷印だってちゃんと消してもらいます」

「なぜ、そんな親切に……?」

「買ってくださいと頼んできたのはイヴさんの方ですよ」

「それは、そうですが……」


 言葉を探すように、視線を膝元に落とす翼人美女。

 疑う気持ちは理解できるので、ここは正直に言ってやることにした。


「理由らしい理由なんてありません。ただ、放っておけなかったので」

「……何年も前に、たった一度だけ会った私を、ですか? そのために、この短期間で300万ジェラ以上も工面したと?」

「私、昔は奴隷だったんです」

「え……?」


 虚を突かれたように小さく声を漏らすイヴから視線を切り、俺は契約書にサインをしつつ口を動かした。


「私は運良く拾ってもらったんですけど、友達とは離れ離れになってしまいました。その友達から、私は大切なものをもらって、笑顔を教えてもらいました。ここへは当初、その人がいないか探しに来たんです。私も大切な人を探しているので、イヴさんの気持ちは少しなら分かるつもりです」

「…………」

「お待たせいたしました、お客様」

 

 ネンナールがトレイを持って戻ってきた。

 その後ろからは白髪の爺さんが続いて入室してくる。


 とりあえず、俺はイヴからの熱視線を感じながらも、ローテーブル上にあった小指サイズのナイフで親指を軽く切りつけて、契約書に血判も捺した。

 それから二枚の契約書と1万ジェラを交換するように遣り取りする。そこで爺さんが俺の側に近寄ってきて、ぶつぶつ詠唱しながら初級の治癒魔法を掛けてきた。

 どうやら魔法士だったらしい。


 オッサン店員はその間に契約書を確認すると、一枚を俺に差し出す。


「はい、結構です。こちらはお客様がお持ちください。ご購入の手続きは以上となります。ご希望通り奴隷印を消しますので少々お待ちください」


 爺さん魔法士は干からびた木みたいな手で、美女の瑞々しい手を握ってブツブツと詠唱し始める。

 俺も早く彼女と触れ合いたい。

 やっぱり俺が自分で消せばよかったな。


「では、以上となります。この度は誠にありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」

 

 ネンナールの声を背中に受けながら、俺は一人考えていた。


 正直、当初の予定とは色々と誤算がありすぎて、俺自身の目的を見失ってしまった感はある。金の大切さを学べる良い機会だと思っていたのに、なんだかんだで脅迫してまで金を工面してしまった。

 それでも、自分の力で金を稼いだことには変わりない。

 もちろん方法としては良くなかったと思うので、ユーハの言うとおり反省して、きちんと自戒しよう。何をどうしようと、やはり金を稼ぐのは大変なことなのだと、心底から実感した。

 そういう意味では結果オーライともいえるが……。


 自分の思い描いたとおりに物事が運べないことなんて、よくあることだ。

 むしろそれが当たり前で、十人十色な人々で構成される社会の中で生きていく上での、常識ってやつだろう。

 現実はゲームや漫画とは違う。

 もういい加減、俺はそのことを嫌と言うほどに知っている。


 今回は社会の薄汚さを身に沁みて体感できたし、これはこれで良い勉強になった。それに、イヴは助けられたのだ。

 結果良ければ全て良し……ということにしておこう。 

 しておきたい。


 何はともあれ、こうして俺は無事にイヴを奴隷から解放することに成功した。

 

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