間話 『続・卵を巡る問題 後』
アルセリアが真竜の肝を食べ始めて、三日目。
その日の朝には全身から黒い斑点が消えていた。
まだ竜戦の纏は解けないので、アルセリアの顔色は疲労感に濁っている。
だが、快復傾向が見られた事実は全員に大きな安心感を与えていた。
「そっかぁ、アルセリアさんは大丈夫みたいだねぇ」
「そうなんだけど、問題は卵なのよね……リーゼもサラも譲らないから、まだどっちが親かで争ってるし」
トレイシーの緩い声にセイディは溜息混じりに応じ、酒杯を傾ける。
ソファの上で脱力し、クレアの肩にもたれ掛かる様はだらしがなく、寝間着の短い裾から下着が丸見えになっている。
「そういうことでしたら、二人とも親で良いのではなくって? 父親と母親のような感じで」
「そうできたら良いのだけれど、あの子たちにとって父親というのは未知の存在だからね。二人とも自分が母親になるんだって言って聞かなくて」
セイディとは対照的に姿勢良くソファに腰掛けたウルリーカが提案するも、クレアが苦笑混じりに頭を振った。
オルガはメレディスが注いだ酒をちびちびと舐めるように味わう合間、肩を竦めてみせた。
「ローズも飼いたそうにしてたし、そんなにいいもんかね? そりゃあ竜を飼い慣らせれば便利だろうが、色々面倒だろ」
「ローズもリーゼもサラも、きっとその逆なんだと思います。育てること自体が目的で、便利だからとか、あまり考えてないんでしょうね」
セイディに請われて、オルガとは別の瓶から酒を注ぎつつ、メレディスは微笑む。
現在、メレディスたち女六人は談話室のソファに腰掛け、雑談に興じている。
尚、メレディスが酌をするのは最年少者だからというわけではなく、自ら進んでしていることだ。
「つっても、何かを育てるってのは大変だろ? 人の子だろうと竜の子だろうと」
「そうだねぇ、ほんとに大変だよぉ」
「だからこそ、子供たちの教育には良さそうですわね。それにしても、この二年でメルにアシュリン、そして今度は竜ですか。わたくしたちの方は近年、特に増員もなく静かなものですから、なんだか羨ましいですわね」
ウルリーカに肩を引かれて軽く抱きしめられるメレディス。
今日は様子見として訪れた彼女も一緒に入浴していたが、相変らず子供好きなようで、先ほどまでリゼットとサラの添い寝をしていた。
二人は卵を巡って少々喧嘩してはいるが、どちらも卵の側から離れようとはせず、卵を間に挟んで同じベッドで眠っている。
「そういえば、ウェインはなんだか元気がありませんでしたわね」
「あの子も男の子だからねぇ、竜の卵には興味津々なんだけど、サラとリーゼがねぇ」
「あいつも男ならもっと自分が飼いたいって主張すりゃいいのによ」
「ま、いつもはウェインももっと自己主張してますけど、サラとリーゼがアレですからね。二人とも譲る気なんて全く見せないし、昨日もすっごい邪険にされてふて腐れてましたし」
セイディは気の毒そうな口ぶりで言いつつも、その顔は面白可笑しそうに笑っている。オルガやトレイシーも同様で、メレディスも笑っては可哀想だと思いつつも、女の子二人に呆気なく一蹴される少年の姿は憐れというより滑稽だった。
「ローズちゃんは卵持ったまま帰路に就いてるんだよねぇ? 道中で孵って、竜の赤子が原因で何か厄介事とかに巻き込まれたりしないかなぁ?」
トレイシーはウルリーカの逆側からメレディスに密着し、垂れた耳を執拗に撫でながら、酒のつまみの豆をこりこりと食している。
「誰も竜だとは思わないんじゃないでしょうか?」
「常識的に考えて、見た目普通のガキが竜の卵とか赤子を持っているとは思わねえだろうしな」
「ですが、無用な厄介事が起こる可能性は排除しておくべきでしょう」
「なんだよクレア、まだ怒ってんのか? 仕方ねえだろ、珍しくローズが我が侭言ったんだ。あいつにせがまれれば、お前もダメとは言えねえだろうさ」
クレアは「そんなことは……ありません」と否定しつつも、オルガから目を逸らし、酒杯を傾けることで顔を隠してる。
きっと私もダメとは言えないだろうな、とメレディスは密かに思った。
「ローズにはご褒美として、それくらいいいと思いますよ、お姉様。メルと姐さんの言うことももっともですし。まあでも、あの子は帰ってきたら百回はお尻ぺんぺんしますけどね」
「それは可哀想なんじゃないかなぁ……でもワタシもやってみたいなぁ。あの利発そうなローズちゃんがお尻丸出しで叩かれて涙目になると思うと……なんかドキドキするよねぇ」
「おいトレイシー、お前いつの間にそんな変態になった」
「それではわたくしはそんなローズを抱きしめてあげることにしますわ。叱られて落ち込んだところを慰めてあげれば、わたくしのことが大好きになって、そのままうちの支部に……」
姦しく話し合う声は途切れることなく続いていく。
だが、メレディスはあまり自分から発言はせず、基本的には聞き手に回っている。
メレディスはあと数節で十七歳になるが、現時点ではこの場で最も歳の近いセイディとでも八歳差で、逆にメレディス以外の五人は歳が近い。
「ところで、オルガさんは聖伐の方はよろしいのですか?」
「ん? あぁ、まだ大丈夫だ。第七節の頭にでも戻れば問題ねえ。それから今年一杯までは忙しくなるからな、今のうちに息抜きだ」
「そんな適当で大丈夫なのぉ? 部下の人とか困ってそうだけどぉ」
「アンタが適当って言葉使うと、凄い違和感覚えるんだけど」
「ま、正直悪いとは思うが、アリアの経過は見ておきてえからな。大丈夫そうだと分かれば、なるべく早めに戻るさ。ハンネをキレさせたままなのはさすがにヤバいからな……」
一応気にしてはいるのか、オルガは気まずそうに呟きを溢している。
珍しく顔が引き攣っていたので気にはなったが、メレディスは目の前に酒杯が差し出されて戸惑いに呑まれてしまう。
「さっきからメル全然喋ってないわね。ほらっ、これでも飲んでもっと楽しくいきなさいって」
「こらセイディ、メルはお酒苦手なんだから……」
「大丈夫ですよ、お姉様。これ激甘の果実酒ですから。なんか色んな果物が混ざってて、すっごい美味しいわよ」
「わたくしが持ってきたお酒ですわ。メルも一口くらい飲んでごらんなさい」
「えっと……それでは、少しだけ」
セイディから強引に手渡され、ウルリーカの勧めもあって、メレディスは杯に口を付けてみた。
「あ、これはすごく美味しいですね。私でも普通に飲めます」
「でしょー、フフフ、これで今度からメルとも一緒に酒が飲めるわねー」
「それじゃあ、こっちのも飲んでみてぇ」
今度はトレイシーから酒杯を渡された。
だがセイディのものと違い、芳潤な甘い香りではなく鼻を突くようなきつい匂いがした。飲んでみると、見た目は水と見まがうそれは案の定、喉が焼け付くような強い酒だった。
「ハハッ、なんだメルその顔は。お前今期の八節で十七なんだろ? そろそろそんくらいの酒も飲めるようになれ」
「いえ、オルガさんとトレイシーのは私でも少しきついですから」
クレアが呆れた顔で言い、メレディスが思わず咳き込んでいると、マリリンが姿を現した。
「随分と賑やかだの」
「おうバアさん、アリアの様子はどうだ?」
「まあ、良いの。今し方眠ったのでな、あたしもそろそろ眠ることにする。お前さんらも、あまり遅くならぬようにの」
齢八十過ぎとは思えない背筋の伸びた立ち姿は相変らずだが、三節前と比べると生気が充溢しているように見えた。
最近は心配事が多かったが、アルセリアが快復傾向にあるおかげか、マリリンは今朝から常より朗らかだ。
「それよりバアさんもたまには付き合えよ」
「いや、遠慮しておこう。若者だけで楽しむと良い。じゃが……今日は良い日だしの、一杯だけもらっていこうかの」
マリリンはオルガの杯を受け取って、中身を平然と飲み干していった。
相当に強い酒のはずだが、実に味わい深そうに頷いているだけだ。
「その調子だと百以上は余裕で生きそうだな、バアさん」
「ふふ、さてどうかの。ではあたしはもう寝る」
各々が就寝の挨拶をして、去りゆくマリリンを見送った。
オルガは塩漬け肉を咥えながら自分で酒をつぎ足し、くつくつと肩を揺らしていた。
「バアさん、あれでも昔はすげえ酒飲んでたからな。解毒魔法なしでも全然酔わねえから、聖天騎士の中じゃ酒の強さも一位だったな」
「女傑というものは酒豪でもなければ格好も付きませんしね。さすがマリリン様というべきでしょう」
「それじゃあ、今の騎士団で酒豪第一位は誰ですか?」
「あー、そうだな……あんま酌み交わす機会もねえからよく分からんが、まあオレだな」
杯を一気に傾け、ほんのりと赤らんだ顔でにやりを笑うオルガ。
するとセイディがトレイシーの杯を横取りして、強い酒を目一杯に注ぎ込む。
「ということは、姐さんより強いとアタシが一番ってことですね」
「お? なんだセイディ、お前オレと飲み比べようってのか?」
「あの二人は放っておいて、ワタシたちはのんびり飲もうねぇ、メル」
勢い良く飲み始めるセイディとオルガをクレアが諫め、ウルリーカがオルガを応援する傍ら。
メレディスはトレイシーからのんびりとした笑みを向けられて、変わらず耳を撫で続けられる。少々くすぐったくて、そろそろ止めて欲しいと思う一方で、メレディスはそれを心地良くも感じていた。
賑やかだが、騒がしいとまではいかない雰囲気は居心地が良い。
セイディもクレアもオルガもトレイシーもウルリーカも、妹のように可愛がってくれるので、メレディスはとても心が満たされていた。
まだリーンカルン王国にいた頃、メレディスはついぞ姉と楽しく食事ができたことはなかった。血の繋がりのない人たちの方が姉のように思えるというのは不思議なもので、この場にいられる幸福が身に沁みて実感できる。
「このお酒、強いですけど、それでもなんか美味しいですね」
「おぉ、ついにメルもお酒の味が分かるようになったのかぁ」
この日、メレディスはようやく知った。
酒は気心の知れた人たちと一緒に飲むことで、はじめて美味しく思えるものなのだと。
■ ■ ■
アルセリアが真竜の肝を食べ始めて、十日目。
その日の朝、二つの出来事があり、館は良くも悪くも騒がしくなった。
「おぉ、治ったの、アリア……良かった、本当に良かった」
「皆には心配を掛けて申し訳なかった。治ったのも皆のおかげだ、ありがとう」
まだベッドに横たわったままではいるが、アルセリアの表情は穏やかだ。
昨日まで頬にも見られた翠緑の竜鱗は剥がれ落ち、シーツの上に落ちている。
「アリアが治ったぁー! でも卵が消えちゃったぁー……」
リゼットは興奮も露わに跳び上がって歓喜した直後、着地からそのまま崩れ落ち、今にも泣き出しそうな顔で悲鳴を上げる。サラも似たような様子で、嬉しそうに笑みを見せてはいるが、そわそわと落ち付きがない。
「アリアが治ったのはいいけど、卵はどこよ!? なんで消えちゃったのよっ、クレアたちほんとに何も知らないのっ!? わたしとリーゼがちょっと喧嘩しちゃってたから、こっそり取り上げたとか、ほんとにしてないの!?」
「本当の本当に、私たちは何もしていないわよ」
クレアも実に不可解そうな面持ちでサラの言葉を否定する。
先ほど起床した際、枕元にあった卵が忽然とその姿を消していた。
昨夜はメレディスを中心に、右隣にリゼット、左隣にサラが横になり、メレディスの頭上に卵を安置して眠っていた。
にもかかわらず、起床すると跡形もなく消えていて、サラも珍しく一瞬で目覚め、こうしてリゼットと一緒に戸惑いを見せている。
「でも消えるなんておかしい! ウェインっ、あたしの卵とったなぁ!」
「盗ってねーよっ、んなことするか!」
「でもウェイン、あんただって欲しがってじゃないっ!」
「だからって盗ったりしねーよっ、お前ら俺をなんだと思ってやがる!」
ウェインが盗っていないことはトレイシーにも聞いて確認済みだ。
そもそも彼自身の言うとおり、ウェインは盗みを働くような少年ではない。
「リーゼ、ウェインは盗ってないわよ。なんせメルがパンツあげようとしても即断ったのよ、この子」
「え、ちょっと、セイディ!?」
「何年前の話してんだよっ、今それ全く関係ねーだろおい!」
メレディスとウェインが揃って悲鳴めいた声を上げる中、リゼットは白翼の彼女をビシッと指差した。
「じゃあ、犯人はセイディだな!?」
「ちょっ、なんでアタシ疑うのよリーゼ!?」
「卵は売らせないぞー!」
「いや今回はローズの土産だしアタシも売る気はないってのっ」
セイディは掴み掛かるリゼットをいなしている。
当然のことだが、卵の所在は誰も知らないようで、消えたと聞いてみんな不可解そうにしていた。
「こいつが殻ごと食っちまったんじゃねえか? なあおい、どうなんだアシュリン?」
「――――」
オルガが気安くアシュリンの頭をぽんぽんと撫で叩く。
だがアシュリンの方は平伏して全身を震わせており、口を半開にして声もなく悲鳴を上げているようだった。
「そうよっ、アシュリン一年くらい前も勝手にお肉食べちゃってたし! こらアシュリンっ、あんたわたしの卵になんてことしてくれたのよっ!」
「オルガもサラ姉もアシュリンを疑うなぁ! アシュリンはそんなこと…………し、しないっ……しないはずだ! そ、そうだよねアシュリン!?」
「ピュェェ……」
さすがのリゼットも前科の存在は無視できなかったのか、動揺に声を震わせている。
問われたアシュリンの方は声どころか全身を震わせて返事をした。
「ほ、ほらっ、してないって言ってる!」
「そうか? なんかこいつ如何にも挙動不審だろ」
「それは姐さんを怖がってるからですよ」
オルガがアシュリンの側から離れると、灰色の巨躯から震えはなくなった。
が、リゼットに擦り寄って甘える動きには未だ硬さが残っている。
「アシュリンが食べていないとしたら、どこへいったんでしょう?」
メレディスの言葉に、みんな考え込み始める。
その後、まず口を開いたのはセイディだった。
「実は孵化して勝手にどっか行っちゃったんじゃない?」
「それだと卵の殻が残るはずだろ。ちょっとは考えて言えよセイディ」
「なんだとこのガキぃ、竜が殻を食べちゃったってオチもあるでしょーが」
「ふむ、そうじゃの、魔物の中にはそうした習性を持つものもいると聞くが……」
強ち間違った推測でもないのか、マリリンが思案げに呟く。
だが、ベッドの上のアルセリアは小さく首を横に振った。
「いや、竜にそんな習性があるなど、聞いたことはない」
「それじゃあ……もしかして、アレ? 幽霊ってやつ? ローズと姐さんが殺した親の真竜が祟ってきたとか?」
「そ、そそそ、そんなわけないでしょセイディ!」
サラが血の気の失せた顔でいつになく力強く否定する。
メレディスとしても、そこは全面的にサラに同意だった。
「リーゼッ、どうせあんたが夜中にこっそりどこかへ持っていったんでしょ! アシュリンの卵のときだってこっそり持って帰ってきてたしっ!」
「そんなことしないもんっ、そういうサラ姉がどっか持っていったんだ!」
「だから違うって言ってるでしょっ!」
「じゃあやっぱりウェインか!?」
「俺はなんもしてねーよっ、卵に触れてすらいねーっての!」
「あたしたちだって触ってなかったもんっ!」
二人は十日前から、生まれてくるだろう竜の親権を巡って対立していた。
どちらも一歩も引かず、勉強するときも魔法の練習をするときも、卵の側から離れずにいたほどだ。
だがクレアから、もし卵に触れたら卵は売り飛ばすと釘を刺されていたので、リゼットもサラも決して触れようとはしなかった。
「三人とも落ち着くのじゃ。リゼットもサラもウェインも、そんなことをせぬのは皆よく分かっておる」
「それではいったい、卵はどこへ消えたのでしょうか」
クレアの問いに答えられる者は誰もいない。
メレディスとしても認めたくないことだが、セイディの幽霊説が怪しいと見ている。
無論、メレディスは幽霊など信じていない。
死者の魔力が具現化して形を成すなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
しかし、メレディスはその馬鹿馬鹿しい可能性を信じざるを得ないほど、この場に揃った全員を信じている。
アシュリンが卵を食べてしまったという説も怪しいには怪しいが、アシュリンはリゼットが卵を大切にしていたのをよく知っているはずだ。
「…………あ」
そう考えたところで、ふと思い至った。
思わず声を漏らしたメレディスに、全員が一斉に注目する。
「なにメル、どうしたの、何か分かったの?」
「い、いえ……その、えっと……」
「気付いたことがあるなら何でもいいから言ってみろよ」
サラとウェインに問い詰められながらも、メレディスは正直に話すべきか否か、思い悩む。
だが、リゼットの側でお座りするアシュリンの姿を見て、心苦しい選択をすることに決めた。
「あの……えっと、たしかオルガさん、言ってましたよね? 白竜島で会った聖天騎士の人から、情報と引き替えに卵を譲って欲しいって言われたって。それからその人の魔法で、ディーカまで転移してもらったって」
「……そうか、その線もあったな」
「え、なにオルガっ、どういうこと!? その線ってどの線っ!?」
納得して頷くオルガを、リゼットがしがみついて揺すっている。
セイディも理解したのか、オルガが答える前に口を開いた。
「つまり、その転移魔法を使う《虚空の銀閃》って聖天騎士が、こっそりうちに来て卵盗んでったのよ」
「なんだとぉー!?」
「そうね……アシュリンが食べたとか真竜の幽霊とかより、まだその方が信憑性はありそうね。転移の魔法が使えて、相手がマリリン様やオルガさん並の魔女なら、容易に盗み出せるでしょうし」
「ちょっとオルガッ、その聖天騎士どこにいるの!? 早く取り返さないと生まれちゃうかもしれないわ!」
サラも信じているのか、怒り心頭な様子でオルガに詰め寄っている。
だがオルガの方は憎々しげに虚空を睨みながらも、その面持ちは苦々しい。
「いや、居場所は分からん……なんせ奴はいつでもどこでも好きに転移できるからな、足取りなんか掴めねえよ」
「ふむ……オルガ、その魔女は盗みに来るような輩なのかの?」
「あの性格ならやりかねん。わざわざあの日から十日くらい時間空けてんのも、疑われねえようにするためだと考えれば納得がいく。オレも一応、ディーカの外で奴と別れて尾行には注意してたが、相手は得体の知れねえ奴だ。ローズも奴からは魔動感が反応しなかったって言ってたしな」
「なに、魔動感が……?」
驚くマリリンを余所に、リゼットとサラはやり場のない怒りに燃えている。
セイディとクレアも信じているようで、なんとも複雑な表情を見せている。
件の聖天騎士のおかげで、ユーハは死なずに済み、オルガは聖伐に間に合うほど早く帰ってこられたし、ローズも危険な白竜島に留まる事なく帰路に就けた。
だが今や、ローズをオルガと一緒に転移させてくれなかった件もあってか、これまで一応感謝していた状況から一転、恨み辛みの対象となっていた。
メレディスは胸のうちで、未だ見ぬ聖天騎士に土下座して謝った。
「うわぁぁぁぁぁっ、あたしの卵がぁぁぁぁぁぁ!」
「わたしの卵よっ!」
「そんなの今更どっちでもいいでしょーが。なんにせよ、もう卵なくなっちゃったんだから」
リゼットは未だしも、サラも竜の赤子には相当に期待していたのだろう。
珍しく目尻に涙の滴を溜めて、歯を食いしばっている。
「念のため、家の中を一通り探してみましょうか」
そんなクレアの言葉を聞きながら、メレディスはアシュリンを見ていた。
リゼットがその場に項垂れて絶望している隣にお座りし、普段よりぎこちない仕草で顔を擦り寄せている。
その姿を見て、メレディスは直感的に確信した。
■ ■ ■
館内を捜索しても、当然のように卵は発見されなかった。
あるいはとメレディスも少し期待していたが、予想通りの結果ではあったので問題はない。
「うぁぁぁ……竜がぁ……火を吹いて、鱗があって、おっきい竜が……」
「……もう諦めなさい、リーゼ。なくなっちゃったんだから、仕方ないわよ……」
捜索後の朝食時にはまだ二人とも怒りに燃えていたが、家事の時間になると酷く落胆し始めた。
リゼットは大声で泣き叫んでいたが、今は少し落ち着いていて、膝を抱えて丸くなっている。
この十日ほどはリゼットもサラも竜の存在に相当期待していたので、その反動も相応のものだろう。
「ピュェェ……」
「あぁ、アシュリン……残念だったね、せっかく弟か妹ができそうだったのに……」
リゼットは身を寄せるアシュリンに抱きつき、頭を撫で回す。
アシュリンは嬉しそうな声で応じながらも、メレディスの目にはその振る舞いがぎこちなく映っている。
「リーゼ、アシュリンの散歩行くわよ」
「……あたし今日はいい、セイディと二人で行ってきて」
「わたしもいいわ……行く気しないし……」
家事が終わり、散歩の時間になってセイディに呼ばれても、リゼットとサラの表情は暗い。二人並んでベッドに横たわり、燃え尽きたように何をするでもなくボーッとしている。
「そんなこと言ってないで、ほら、気分転換に――」
「セイディ、今日は私がアシュリンと一緒に行きます。それで、セイディは二人についててあげてください」
「え? でもメルだけじゃアシュリン乗りこなせないでしょ?」
「大丈夫です」
メレディスはベッド脇でお座りする魔物に近寄った。
アシュリンは常と変わらず、やけに不遜な感じでメレディスを睥睨し、触れようとする彼女の手を嘴で振り払おうとする。
が、メレディスは両手で嘴をがっしりと掴み、いつになく力強い眼差しでアシュリンの瞳を覗き込んだ。
「アシュリン、今日は私と一緒に散歩行こうね」
「――――」
笑顔を向けられた魔物は硬直した。
普段は気弱そうな少女の様子は一見すると普段通りだが、アシュリンの本能は敏感に危機を察知していた。
「ピュ、ピュェ……」
硬い鳴き声で応じたアシュリンに、セイディは意外そうな顔を見せる。
そんな彼女に、メレディスは嘴の下を撫でながら言った。
「今日は私一人でも大丈夫ですから、セイディは二人と一緒にいてください」
「うーん、まあ、この感じなら大丈夫そうだからいいけど……メル、なんか今日ちょっと変だけど、どうかした?」
「いえ、どうもしてないですよ」
柔らかく微笑むメレディスの横顔を見て、アシュリンが呼吸も止めて硬直していることにセイディは気が付かなかった。
メレディスが手綱と鞍を着けている間、珍しくアシュリンは何の抵抗もしない。
「アシュリンも今日は元気ないわね」
「きっとリーゼが落ち込んでるからですね」
アシュリンの背中に跨がってセイディにそう答え、メレディスはバルコニーから巨躯を飛び立たせた。
晴れ晴れとした空の下を適当に飛行させ、まずは館から十分に距離をとる。
それからようやく、メレディスは口を開いた。
「アシュリン、卵はどこ?」
「…………」
硬い動きで翼を駆るアシュリンは無言のまま飛び続ける。
メレディスは穏やかな声で、家族の一員に話しかけた。
「アシュリン、卵をどこかに隠したんだよね? 私に怒るつもりはないし、リーゼたちにも言うつもりはないよ」
言葉が通じているとはメレディスも思っていない。
リゼットとは息の合った行動をしているが、それはリゼットだからできることだ。だが、そうと分かっていても、気持ちが伝わることを願って語りかける。
「リーゼが竜の卵に夢中になっちゃって、寂しかったんだよね? だから卵を隠して、またリーゼに構ってもらおうとしたんだよね?」
それは推測に過ぎないが、メレディスの直感は間違いないと囁いていた。
彼女としても、みんなへ咄嗟に吐いた嘘――聖天騎士が卵を盗んだという可能性の方が現実的だと自覚している。
だが、今朝からのアシュリンの様子と、ここ十日ほどのリゼットからの扱いを鑑みれば、アシュリンが黒幕であることは十分にあり得る。
最近のリゼットは未だ見ぬ竜のことばかりに気を取られ、サラと卵の取り合いをしていたこともあって、アシュリンと全然遊んでいなかった。アシュリンが寂しげに近寄っても、ぞんざいにあしらって、卵にばかり意識を向けていた。
リゼットとサラが卵を巡って言い争いをしている間、部屋の隅で丸まっていたアシュリンの姿をメレディスはよく覚えている。
「大丈夫、アシュリンのことはみんなに言わないから。今日の夜、リーゼとサラが眠ったら、私がこっそり枕元に戻しておくから。ね?」
「…………」
「卵はサラに面倒見てもらうように、私からみんなに言うから。リーゼはアシュリンがいるのに、竜の子も欲しがって、ちょっと欲張りだと思うしね」
「……ピュェ」
風を切って緩やかに飛行しながら、アシュリンは気まずそうに小さく鳴いた。
メレディスは大きな背中を労るようにゆっくりと撫でていく。
あくまでもメレディスの想像ではあるが、もし卵の消失がアシュリンのせいだとしたら、それを行った理由には同情の余地がある。
きっと卵が孵化して、竜の赤子が生まれれば、家族全員の意識はその子に向くだろう。これまでリゼットの寵愛を一身に受け続けていたアシュリンの地位は転落し、新たな存在にその座を奪われかねない。
さすがにメレディスもアシュリンがそこまで賢いとは思えないが、アシュリンはリゼットに懐きすぎている節があるので、強ちあり得ないともいえない。
「アシュリン、卵はどこ?」
メレディスは再び優しく問いかけた。
するとアシュリンは返事の代わりとでもいうように急旋回する。
「――きゃっ!?」
「ピュェェェ!」
進路を館の北から東方面に変えて、アシュリンは一直線に飛んでいく。
仄かな期待感を抱きながら、しばらくの間メレディスは黙って風に煽られる。
頭上には抜けるような青空、眼下には生い茂る森林が広がり、その狭間を進んでいく。
アシュリンが地上に降り立ったのは川の側だった。館からの距離は少し遠く、アシュリンを含めたみんなでよく水遊びに来る場所の上流だ。
「ここにあるの?」
アシュリンは大小様々な岩石の転がる荒々しい川辺を歩き、一際大きな岩の側で立ち止まった。背中から降りて探してみると、アシュリンが岩と岩の隙間に嘴を突っ込み、すぐに後退する。
メレディスはそこを覗き込んでみると……卵を見つけた。
「あぁ、良かった……アシュリン、ありがとうね」
「……ピュェ」
そっぽを向いて、どこか気まずそうに鳴き声を上げるアシュリン。
とりあえず、メレディスはほっと胸を撫で下ろした。
実はアシュリンが殻ごと食べてしまっていたり、上空から放り捨ててしまったりしていた可能性も捨て切れていなかったので、少し不安だったのだ。
「それじゃあ、まずは館の近くまで持って帰ろうか。夜になったら私が回収して戻――あれ?」
横たわっていた卵をよく見てみると、奥の方が割れていた。
まさかと思いながら慎重に岩の間から引き抜いてみると、より丸みを帯びた底部に大きな穴が空き、その向こうで何が蠢いている。
「え……あれ? こ、これ、なんかもう、生まれかけてない……?」
「ピュェ!?」
殻に空いた穴から鈍色の身体が覗き見えている。
呆然と観察している間にも穴は着々と広がっていて、今にもそこから中身が飛び出して来そうだ。
「あ、そ、そそそそんなっ、どどどうしよう!?」
「ピュェェェッ!? ピュェェェェ!」
メレディスはおろおろと狼狽し、アシュリンは慌てたように両翼を羽ばたかせて喚いている。
予想だにしていなかった事態を前に少々混乱してから、メレディスはなんとか冷静になり、その場をぐるぐると歩き回っているアシュリンに目を向けた。
「アシュリンッ、みんなを呼んできて!」
「ピュェェェ!」
きちんと話を理解しているのか否か甚だ疑問ではあったが、アシュリンも家族の一員だ。
メレディスは飛び立って行く彼を信じて、今にも生まれそうな竜をどうするか考えてみる。しかし見守る以外にまともな行動は思いつけず、右往左往しているうちに微かな鳴き声が彼女の耳に届いた。
「…………キュェ」
「あ、え!? 出てきちゃったっ!?」
大きな穴から半身を出して、尚も這い出ようとしている小さな生き物。
それは綺麗な灰色をしており、全身は鱗状にひび割れ、子犬大の蜥蜴のようだ。しかし蜥蜴にはない一種の風格めいたものが見受けられ、背中には一対の翼が力なく垂れ下がっている。
「キュェェ」
「――――」
メレディスは思わず棒立ちになり、口を半開きにしたまま足下を見下ろした。
卵の殻から完全に抜け出て、小石の散らばる川辺に横たわりながら、尚も前進しようとしている。
靴の先に小さな顔が当たると、メレディスはおもむろに腰を屈めて、見上げてくるつぶらな瞳と視線を合わせた。
「………………キュェ」
「………………か、可愛い」
か細い四肢、頼りなさげな両翼、ひょろりと伸びた尻尾、愛らしい瞳。
首元を撫でてみると、小さな口から「キュァ」と声を漏らした。
両手で慎重に矮躯を持ち上げ、胸元に抱き寄せてみると、前足を拙く動かしながら一心に見上げてくる。
「メル、どうかしたのっ?」
ふと背後からセイディの声が聞こえて、メレディスは顔だけ振り向いた。
アシュリンの背中にはリゼットが跨がり、セイディとサラと一緒に今まさに着地している。
「あっ、卵だ!」
「でも、割れてるわよね、アレ……?」
「ピュェェェェ!」
「ちょっ、メル、もしかして……?」
メレディスは三人と一頭に身体を向けて、生まれたての赤子を胸元に抱いたまま、未だ戸惑いの抜けきらない顔で言った。
「……どうしよう……生まれちゃった」
■ ■ ■
誕生したばかりの竜を抱えて館に戻り、メレディスは皆に事情を説明した。
アシュリンには気の毒だったが、こうなってしまった以上は仕方がなかった。
アルセリアの部屋で、ウェインを含めた全員は話を聞き終えると、
「アシュリンの馬鹿!」
「こいつ割と最低だよな」
サラは怒り心頭な様子でアシュリンの頭を叩き、ウェインは侮蔑の視線を突き刺している。クレアやセイディは呆れたように頭を振っており、マリリンとアルセリアは嘆息し、オルガは可笑しそうに笑い、当のアシュリンはサラからの一撃に「……ピュェェェ」と情けない悲鳴を上げる。
しかし、リゼットだけは庇っていた。
「ア、アシュリンを責めるなぁ! あたしが遊んであげなくて、寂しかっただけなんだ!」
「ピュ、ピュェェ……」
「アシュリィィィィィィィィン! ごめんねぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「ピュェェェェェェェェェェン!」
抱きつくリゼットにアシュリンは一転して嬉しそうな声で鳴いている。
「まあ、それは良いとして、問題はこの子じゃが……」
「竜可愛いぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
「あっ、ちょっとこら、わたしにも抱かせなさいよ!」
マリリンの言葉に、リゼットは躊躇いも余韻もなくアシュリンの巨体からパッと離れて、アルセリアのベッドに横たわる小さな竜を抱き上げる。
呆気にとられたように固まるアシュリンの頭を、オルガが乱雑に撫で叩いていた。
「この色……まさかな」
「ん? アルセリアさん、色がどうかしました? あっ、そういえば赤じゃないから真竜なんですよね!?」
ベッドで上体を起こし、灰色の竜をじっと見つめるアルセリア。
その傍らでセイディが驚いたように目を見張っている。
「真竜! っていうのは……魔法!? 魔法が使える竜ってことなのかセイディ!?」
「らしいわねっ、凄いわよこれ!」
「ほんとに凄いじゃないっ、めちゃくちゃ可愛いし!」
「お、おい、俺にも触らせろよっ」
子供たちがより一層の興奮を露わにする一方、メレディスも少々の昂ぶりを孕んだ声で疑問を口にした。
「この色だと……何竜なんでしょう? 黒竜か白竜でしょうか?」
「黒竜ではないかしら。卵を守っていた竜は黒竜という話だったし」
クレアが小首を傾げ、確認するようにアルセリアに目を向ける。
しかし竜人の彼女は訝しげな面持ちで肯定も否定もせず、独り言のように呟いた。
「たしかアシュリンが生まれたとき、体毛は白かったな。だが成長するにつれて灰色になっていった。それを考慮すれば、成長するにつれて黒に近付いていくのだろうが……」
「おいアリア、そいつまさか銀竜ってやつなんじゃねえのか?」
「いや……まあ、その可能性は否定しきれないが……」
オルガの指摘に逡巡も露わに応じ、サラの胸に抱かれている生後間もない竜を見遣る。その眼差しは半信半疑といった様子で、アルセリアにしては珍しく眉間に縦皺を刻んで黙考している。
体色は灰色とはいっても白に近く、アシュリンの体毛より幾分も色合いは薄く、光沢はない。
「キュェェ」
不意に、渦中の小竜が微かな鳴き声を上げた。
なぜかサラの腕の中でもぞもぞと身体を動かし、つぶらな瞳は一心にメレディスを見つめている。
それに釣られてか、当人以外の全員が彼女に注目した。
「え? あの、なんですか……?」
「その子、メルを親だと思っているんじゃないかしら?」
「試してみましょ」
サラから小竜を受け取り、メレディスは壊れ物を扱うように腕の中に収めた。
すると、落ち着きなく身体を動かしていた小竜は脱力し、「キュェェ……」と安らかな声を小さく響かせた。
「やっぱり……もうっ、わたしが親になりたかったのに! アシュリンの馬鹿! 最低! お肉にされたいのあんたは!?」
「ピュピュピュピュェェェェ……」
床に伏せて身体を縮こまらせ、アシュリンは痙攣するかのように全身を震わせている。
サラがその巨体を叩く度に悲鳴を上げ、リゼットに縋るような目を向けるが……。
「メルっ、その子に名前を付けるんだ!」
「え、私が?」
「その子メルを親だと思ってるよっ、たぶん! だから親は名前を付けなくちゃいけないんだ!」
リゼットの元気な言葉を受けて、メレディスは全員を見回した。
だが誰も反論はせず、サラは平伏するアシュリンの背中に腰掛け、ふて腐れたようにそっぽを向き、腕組みしている。
「私は……えっと、サラが付けてもいいんだよ?」
「いいわよ、わたしは」
「でも、私は生まれたときにたまたま側にいただけだし。私はサラに名付けて欲しいと思うな」
メレディスが優しく声を掛けると、サラはちらりと小竜を見た。
それから逡巡するように視線を彷徨わせた後、アシュリンの背中から飛び降りて近寄ってくると、人肌のように弾力ある小竜の背中を撫でる。
「じゃあ、その……ユーリ、とか?」
「え……?」
「だからっ、名前!」
恥ずかしそうに叫ぶと、サラは言い訳するように口早に続けた。
「メル、前はユーリだったし、たぶんこの子もアシュリンみたいにメルに懐くと思うし……それにこの子、女の子みたいだしユーリって名前も可愛いと思うし……だからユーリでいいんじゃないの!?」
メレディスからすれば、その名は色々と複雑な感情を想起させられるものだ。
しかし、サラが望むのなら良いかと思えた。
それになんだか、あの頃の自分も認められたかのように思えて、嬉しかったのだ。
「うん、じゃあ名前はユーリにしよっか」
淡く微笑んで、メレディスは腕の中の幼い命を改めて抱き直す。
もう一人の自分の名を冠した灰色の竜は「キュェ」と弱々しく、でも確かな声で鳴いた。
こうして、リュースの館に新たな家族が加わった。
七章は九月三日から開始予定。