第八十二話 『リオヴ族殺人放火事件 四』
リオヴ族の中心地――央郷ザカリーを訪れて、三日目。
昨日ゴードンと約束した通り、その日の俺たちは朝から宿泊場で大人しくしていた。
猫組の長たるヤルマルはまだ諦めていないのか、護衛共を引き連れてどこかへ行った。ティルテは昨日に引き続き、朝からゴードンのいる牢獄へと向かったようだ。ノシュカによると、あの猫耳美少女は族長オヤジに同行して真相の究明をしようとしていたらしいが、ゴードンの側にいてやるようにと、たしなめられていたという。
「族長さんも、もう無理だと思ってるんでしょうね」
俺は窓辺近くの椅子に腰掛けて、誰に向けるでもなく呟いた。
すると、床に座ってノシュカと一緒にメリーに構っていたベルが複雑な顔で反応する。
「だって、事件があった日から三節近くも経ってるんだし、やっぱり今更は無理よ。十中八九、ティルテちゃんのお父さんは犯人ではないのだろうけれど……なにか色々と政治的な問題もあるようだから、この分だと処刑は回避できなさそうね」
「それって、なんていうか……後味悪いですよね」
「そうね。でも、これが大人の世界っていうやつなのよ。在りし日の純真さを失い、濁った目でしか世間を見られず、欺瞞に満ちた複雑な人間関係を築いていく……あぁ、嫌だわぁ、人はいつから無垢な心を失ってしまうのかしらぁ……」
ベルは逞しい巨体の背を丸め、如何にも嘆かわしく溜息を吐く。
俺にもオッサンの言いたいことは分かるが、しかし俺はロリコンじゃない。
「ローズ、何の話してるの?」
「大人になると色々穢れてしまいますねという話です」
「んー? なにそれ?」
首を傾げながらも、ノシュカはメリーにお尻を向けて膝立ちになっており、尻尾を揺り動かしている。四肢を突いて立つメリーは尻尾の動きにつられて首を左右に動かし、たまに噛みつこうとしてか小さな口を開閉させている。
「ユーハさん、大丈夫ですか……?」
俺は笑顔美人の素晴らしいヒップから、壁際で鬱っているオッサンへと視線を転じた。
ユーハは片膝を立て、刀を抱くように座っているが、その表情には暗雲が立ちこめている。
「……某は何の問題もない。問題があるのはゴードン殿の方である」
「そう、ですけど……でも、もう私たちにはどうにもできませんよ」
「うむ、それは承知しておる、承知してはおるのだが……あのような家族に愛されておる御仁が、卑劣な犯行なぞするはずがないのだ。にもかかわらず、死罪などと……」
「…………」
鬱の闇が再興してしまうから感情移入もほどほどにして欲しいのだが、そうもいかないのだろう。
主治医としてユーハの内心は察して余りある。
しかし、俺たちにできそうなことはないし、ゴードンとの約束もある。
「そんな都合良くはいかないですよね、やっぱり……」
俺が物語の主人公だったら、まさに身体は子供で頭脳は大人な名探偵っぷりを発揮し、鮮やかに事件の真相を解き明かせるだろう。
だが俺は主人公じゃないし、現実はそう都合良くはいかないものだ。
どこぞの名探偵みたく事件に巻き込まれたのだから、それを解決して皆から感謝される展開も大いにあり得るだろう……と、そういう分不相応な未来を、俺はあり得ないと否定しつつもどこかで期待していた。
たしかにね、俺は自覚できるほど成長したよ。
前世とは比較にならないほど、人間的に強くなった。
記憶と共に前世から引き継いだ呪いも大半は解けて、普通に他人と関わり合っていけてるし、誰かを信じて頼ることだってできるし、ある程度の行動力だって身について、多くの人と意思疎通できるようにと言葉もたくさん学んできた。
しかしだからといって、それで何でもかんでも現実を思い通りにはできないのだ。世界には無数の人々がいて、俺より頭が良くて才能がある奴なんてごまんといる。種々様々な思惑が絡み合うことで世界は廻り、誰しもが何らかのしがらみの中で生きている。
仮に俺がどれだけ成長したとしても、所詮俺は一本の葦であり、その力には限界がある。異世界だろうと、現実はそう安っぽいもんじゃない。
そんな今更なことを改めて実感しつつ、俺はみんなと宿泊場でだらだらと時間を潰していく。
白竜島を訪れてからこっち、のんびりとした時間がなかなか取れなかったので、良い機会といえば良い機会だった。
そうして、その日の俺は良くも悪くも何事もないまま、眠りに就いた……。
■ Other View ■
愛刀を抱えたいつもの姿勢で壁際にもたれ掛かり、ユーハは一人薄闇に視線を投げ出していた。
側にはヒルベルタが姿勢良く眠っていて、やや間を空けたところにはフェレス族の男たちが枕を並べている。ローズにティルテ、ノシュカの娘三人は別室で幼竜メリアを交え、とうに就寝していることだろう。
いや……既に夜も深いとはいえ、ティルテというあの娘だけは己と同じく眠れずにいるかもしれない。
「…………む?」
不意に人気を察知し、かと思えば誰かの話し声が微かに耳朶を突いた。
耳を澄ませてみると、どうやら玄関口の方かららしく、会話の応酬はすぐに終わったようだ。そして何者かの気配は消え、元通りの状況となる。
この宿泊場の玄関口にはリオヴ族側の監視役――ヌギーヌとボリウェンという若者二人がいる。夜だろうと監視の任は続いているようで、誰かが屋外へ出て行かないように、昨日も一昨日も交代で仮眠を取りながら玄関口に控えているようだった。今し方の人気は、夜回りの誰かが様子でも見に来たのだろう。
「…………」
ユーハは大きく吐息して気を取り直し、目を閉じ沈思黙考に耽っていく。
幾度となく考えているのは、ゴードンというフェレス族の男についてだった。
今年で三十八歳となるユーハより幾分か若そうで、なかなかに男前な顔立ちをしていた。獄内にあって全てを悟ったような表情を見せていたのが印象に残っている。
否応なく、過去を想起させられる男だった。
だが、ゴードンは愚昧なる己とは似ても似つかない男だと、ユーハは良く理解している。彼は家族に愛され、己の死を受け入れ、娘のことを第一に考えていた。
故に、そんな立派な男を見て、無様極まるかつての己を思い起こして重ね合わせるなど、無礼を通り越して侮辱にあたる行為だとは承知している。
それでも、ユーハは考えずにはいられなかった。
此度の殺人及び放火の犯行を成した人物。
それがゴードンではないと、ユーハは央郷トバイアスを発つ前から思ってはいた。所詮それは己の過去に根ざした願望だったわけだが、しかし直接その姿を見て、声を聞いて、ティルテと接する様を目の当たりにして、直感的に確信した。
やはり彼はやっていない。
にもかかわらず、殺されねばならないという。
助けたい、とは思う。
冤罪に掛けられ死を宣告された男を、ユーハは捨て置けそうになかった。
かつての青年の如くゴードンを獄から連れ出し、共に冤罪を晴らすべく行動したかった。例えそれが惨めな代償行為であろうと、現状を看過することはできない。
「――っ」
ユーハは刀の鞘を強く握り、しかし間もなく手放した。
動きたくても、動けない。
ゴードンとの約束もあるが、ここで己が動いても、状況を悪化させることにしかならないのは自明の理だ。
そして何より、己の都合でローズを危険には晒せなかった。
今の己にとっては自身の願いや命より、彼女の意志と安全が最優先なのだ。あの女子の存在に比べれば、己の過去など塵にも劣る些事に成り下がり、ゴードンのことさえ霞んでしまう。
ローズと出会って、そろそろ四年になるが……。
改めて思い返してみると、不思議な歳月だった。
彼女との縁に恵まれていなければ、今頃はもうこの世に己は存在していなかっただろう。畢竟、鬱屈とした心の淀みは一片も晴れることなく、今この場で感慨に耽っていることもない。
全てを失った六年前のあの日、スオルギ・ユーハという男は死んだ。
そしてその骸を糧に、オラシオという虚な人形が生まれ、己は死を望むだけの不用品と化した。
だがあの日、あの暗い船倉で、彼女の守護剣士ユーハが誕生した。
それからの日々の中で、もう二度と感じることがないと思っていた幸福、そして安息さえも覚えた。ローズを切っ掛けに様々な人々と深く交わることとなり、その繋がりの中に新たな人生を見出した。
ユーハという男にとって、ローズは命を賭して護るべき恩人である。
そして烏滸がましくも、己の娘のようにさえ思っている。
故にこそ、何があろうと彼女だけは蔑ろにできないし、そうする気など完膚無きまでに絶無だ。
だが、そうした想いとは別に、今のユーハはそんな己を救ってくれた者への恩もある。
「《虚空の銀閃》、であったか……」
白竜島近海において、水竜と一戦を交えた際、ユーハは海面下へと没した。
そこにあの仮面の御仁が現れ、あっという間すらなく白竜島まで送り届けてくれた。彼女もまた命の恩人である。
とはいえ、北凛流において上級以上の剣士ならば大抵は水面を走ることが可能であり、実際にユーハは海面を駆け回りながら水竜と戦っていた。
故に、白竜島まで転移させてもらわずとも、ひたすら海面を駆けて行けば自力での到達は可能だった……とは思わない。
さすがに体力が保つかどうか怪しかったし、再び水竜に襲われていれば、多大な地形的不利により今度こそ敗北していたかもしれない。
かの聖天騎士団における象徴的な十三人の最上位騎士。
その一角を担うという彼女は同輩であるオルガに対してでさえ、にべもない態度をとり、助力には代償を強いていた。
無論のこと、ユーハの命を救った彼女は三つの代償を要求してきた。
一つ……以後十年の間、可能な限りにおいてローズを見守り、その生命が危機に瀕した際にだけ助力すること。
二つ……破魔刀《蒼哀》を所有し続けること。
三つ……これらの会話を決して他言せぬこと。
ユーハからすれば何の問題もないどころか、約束する必要すらない当然の未来だったので、快く承諾した。なぜ彼女がローズのことを知っているのか、なぜ守秘を約束させるのかは不明だったが、相手は命の恩人だ。
彼女がいなければ志半ばで果てるところだったので、疑問はあっても約束する他なかった。
以上のことから、ローズを護ることはユーハの意志であり、同時に使命でもある。故に、ユーハは己の願望を抑え込み、今この暗闇の中でじっとしている。
ローズ自身が危険を顧みず、その意志に因ってゴードンを助けようとしていたなら未だしも、そうでないのであれば護衛剣士たる己は彼女の安全を最優先する。
ユーハはひとしきり思索したところで、いい加減休息を取るべきだと己に言い聞かせた。しかし、未練がましくもゴードンのことが頭から離れず、なかなか眠りに就けない。
普段ならばどんな状況だろうと無理矢理にでも意識を落として休むことができるが、忘れがたい過去を思い起こさせる近況故か、妙に頭が冴えてしまっている。
「…………っ?」
どれほどの時間が経った頃だろうか。
不意に微かな気配の揺らぎを察知して、ユーハは左眼を開けた。
窓の外は依然として夜闇が色濃いようで、どこからか届いてくる篝火の明かりが簾越しに漏れ入ってくる。視界状況には先ほどまでとの差異は見られないが、しかしユーハには確かに感じ取れている。
何者かが、この宿泊場の中に足を踏み入れた。
フェレス族の郷でもここリオヴ族の郷でも、家々には扉や引き戸というものがない。出入り口や窓には簾が掛けられているだけなので、扉の開閉音はほぼしない。
故に無音であることは問題ではないが、この感じは明らかに気配を隠蔽していた。ティルテと出会った日の夜、リオヴ族の者たちの接近に気が付いたとき――あのときの感覚と酷似している。
足音を殺し、気配を殺し、こちらの感知範囲内に侵入してきた。
ヌギーヌかボリウェンという可能性は低い。
二人の気配は変わらず玄関口にあるが……しかしどちらも希薄であり、おそらくは意識がない。
「……うむ」
なにはともあれ、様子は見ておいた方が良い。
ユーハは数秒の逡巡の後、鞘を片手に立ち上がった。
が、その次の瞬間には気配が激しく揺らぎ、足音が大きく響いた。
察するに、此方が立ち上がったことを彼方が察知して、隠密行動の無益を悟ったのだろう。
「きゃ――っ!?」
ティルテと思しき女子の悲鳴を耳にしつつ、ユーハも床板を踏み抜く勢いで動き出し、廊下へ飛び出した。そのときには黒い人影がローズの眠っている部屋から躍り出てきて、ユーハには脇目もふらず玄関口へと駆け出そうとする。
謎の人影と迂闊な己への怒りで、ユーハは一瞬理性が飛んだ。
それでも骨の髄まで剣士であるユーハは狭所での抜刀という愚は犯さず、逃げ去ろうとする背中へ全力で踏み込んだ。衝撃に床板が割れるが、しかし相手も大したもので、並の戦士を軽く凌駕するであろう瞬速で玄関に掛かった簾へ飛び込んでいく。
だが、人影は玄関から飛び出る寸前、さながら簾に弾かれるが如く後方へ吹っ飛んだ。
ユーハは驚きながらも身体は動かし、飛んできた人影の背中に拳を突き入れて衝撃を相殺し、流麗とさえ称せる所作で一息に組み伏せた。
「グ――ッ!?」
人影が大きく呻き、苦しげな呼吸音が小さく響いた。
しかしユーハは己の膝下に組み敷いた男より、その傍らに落下して横たわる矮躯が気に掛かった。
「メリア……?」
まだ生後十日も経っていない小さな竜は、床で苦しげに「キュェ……」と鳴き声を漏らしている。
「■、■■■■■■■■■■■■」
簾の取れた玄関口へ目を向けると、ヌギーヌが何事かを言いながら屋内に足を踏み入れてくる。
「■■■■■■■■■、クーバル■■。■■……クーバル」
「クーバル?」
ヌギーヌの言葉にユーハは視線を落とし、関節を極めている何者かに目をこらした。簾がなくなった今、玄関前で焚かれている篝火の明かりが十分に入り込んできているので、人相の見分けは容易についた。
苦悶の表情を浮かべながら、どこか悔しげに、そして憎々しげに己とヌギーヌを睨み上げているのは見覚えのある男だ。
鋭い双眸と引き締まった顔立ち、その外周を覆う鬣めいた立派な剛毛。事件に関する有力な証言者だということで、ユーハも良く覚えていた男――クーバルだ。
♀ ♀ ♀
突然、ドンっという物音が聞こえて、俺の意識は浮上した。
なんだ騒々しいなと微睡んだ頭で思いつつ、薄く目蓋を開けてみたら、薄闇の中を影が過ぎった。
「きゃ――っ!?」
ティルテの可愛らしい声が聞こえ、その後は何やら室外からドタドタと物音が連発する。
俺はのっそりと身体を起こし、何かあったのかと廊下に顔を出そうとした。
が、枕元にいるはずの愛しのメリーが不在なことに気付く。更には部屋の扉代わりである簾が落っこちてもいて、何やら嫌な予感がした。
眠気が吹き飛び、気を引き締めて、慎重に廊下を覗き込んでみた。
すると、なぜかユーハが鬣のオッサンを床に組み伏せ、簾の落ちた玄関口には短剣を持ったヌギーヌがその様子を険しく睨み付けている。
ティルテも俺の隣で状況の不透明さに困惑しているようだった。
そこで族長オヤジや猫耳護衛たちも現れ、一気に屋内が騒がしくなる。
「ユ、ユーハさん、何してるんですか……?」
「ローズ、メリアの様子を見た方が良い。それとノシュカを起こしてきてもらえぬか」
言われて気が付いた。
玄関前の篝火によって薄明るい廊下、その片隅にメリーが倒れていた。
まだ竜鱗としての硬さのない薄赤い身体はぐったりとしていて、「キュェ……」と力ない声を漏らしている。
「メリー!」
俺はメリーに飛びつき、その身体を抱え上げようとした。
が、ぐっと堪えてまずは特級治癒魔法を掛ける。
するとメリーはおもむろに自力で立ち上がり、「キュェェ!」と嬉しそうに鳴いて、よちよちと俺の脚に擦り寄ってきた。
「あぁ……よかった」
一安心しながらメリーを抱き上げ、部屋に戻ってノシュカを起こしに行く。
笑顔美人さんは暢気な寝顔で熟睡していたが、俺はその肩を掴んで揺さぶった。
「ノシュカ起きてくださいっ、良く分からないですけど緊急事態です!」
「んぁ……? なに、なんか騒がしいけど……?」
「早く起きてくださいっ、ノシュカに通訳して欲しいんですっ!」
ノシュカの顔に水魔法で軽く水を掛け、強引に起こした。
一緒に廊下へ戻ると、さすがに彼女も完全覚醒したのか、背筋を伸ばして表情を引き締めている。
「なにこれ、ローズちゃん、何があったの?」
ベルも野郎共が寝ていた部屋から出てきて訊ねてくる。
その傍らでは、族長ヤルマルとヌギーヌが何だか緊張感を孕んだ会話を繰り広げている。
俺はそちらの内容も気になったが、まずはユーハに声を掛けた。
「ユーハさん、何があったんですか?」
「うむ、この男クーバルがメリアを攫おうとしておったのでな。ヌギーヌ殿の力もあって、こうして捕らえることができた。メリアは……その様子なら大丈夫そうか」
クーバルと言われて、俺は遅まきながらに気が付いた。
おそらくはユーハに関節技を極められて床に顔の左半分をつけている雄々しい鬣の男。鼻血を垂らしているそいつは、有力証言者のクーバルだった。
「ローズ、ユーハはなんて言ってる?」
俺がユーハと話している横で、ノシュカも族長や義兄弟の兄貴分と遣り取りしていたようで、まずは互いに現状の確認を行った。
結果、どうやらユーハとヌギーヌの証言は一致していることが分かった。
とりあえずクーバルの手足を縄で縛ることになり、猫組のオッサンたちが動き始める。一方、獅子組の若造は一度外に出て、玄関横にいる弟分に何発かキックを食らわせ、抑えた声で静かに怒鳴っている。
「ノシュカ、ヌギーヌさんはなんて?」
「ボリウェンを起こしてるみたいだね。それで伯父貴――族長を呼んでこいって言ってるみたい」
組長がここに来るのか。
いやでも、クーバルはメリーを誘拐しようとしたんだよな。
まだ何が何だか不確かで少々混乱してはいるが、なんかそう思うと怒りが湧き上がってくる。
そうだよ、あのオッサン、俺の可愛いメリーを攫おうとしたんだ。
なんて奴だ、全く。
こりゃ組長じきじきに問い質してもらって、指の一本くらいは詰めてもらわんとアカンですよ。
俺は胸元のメリーを改めて見た。
幼い竜は就寝前と変わらず元気な様子を見せているが、さっき床に倒れていたときは痛ましい感じにぐったりしていた。治癒魔法で何とかなったからいいものを、下手したら死んでいたかもしれない。竜とはいっても、まだ生後十日も経っていない赤ちゃんなのだから、ガキでも殺せるほどメリーは弱い。
「あぁ、ひとまず無事で良かった……」
思わず声に出して呟きつつ、俺はそっと一息吐いた。
♀ ♀ ♀
組長ホルザーは側近らしきオッサン二人と一緒に駆けつけてきた。
俺たちの宿泊場が事件現場であるからか、誘拐犯クーバルを余所に移しての尋問とはならないらしい。ユーハたちの眠っていた部屋に全員集合し、状況説明や取り調べが行われることになった。
さすがに十五人以上もいると結構手狭で、俺は隅の方で大人しく様子を見守る。
無論、ノシュカ自動翻訳サービスには稼働してもらっているし、俺はオッサン二人へと更なる通訳を行っている。
「さて、だいたい状況は分かった。クーバルが余所モンの持つ竜の赤子を奪って逃げようとした。要はそういうこったろう」
五十代の強面オヤジにチラ見され、俺はメリーを抱きしめながら身体を強張らせた。今は真夜中なので室内は幾つもの蝋燭で照らされているが、そのせいで親分さんの強面に陰影が濃くなり、迫力が増している。
「どうやらその様だな」
相槌を打ったのは族長ヤルマルだ。
集会所での対談と同様に、フェレス族側とリオヴ族に別れている。
ただし今回は、前回ホルザーの隣にいたクーバルが手足と胴体を入念に拘束されて、二勢力の真ん中に転がされている。
「ただ、疑問なのが、なぜクーバルは容易に屋内へと入れた? 玄関前にはそちらの若者二人が夜を徹して見張りについていたのだろう。先ほど貴様の甥というヌギーヌに訊ねてみたが、貴様が来るまでは話さないと言われたぞ」
「……ヌギーヌ」
親分さんは甥っ子に鋭い眼光を向けた。が、その双眸には怒気も疑念もなく、むしろ良くやったと言わんばかりに上機嫌っぽく細められている。
伯父に声を掛けられた若造ヌギーヌは緊張した風もなく、落ち着いた素振りで口を開いた。
「クーバルがここに侵入する数刻前、俺とボリウェンはクーバルから差し入れをもらいました。弱い酒と菓子です。そいつに催眠作用のあるヤクが混ぜられていたんでしょう」
「しかし、そっちのボリウェンと違い、お前は我々が目覚めて現場を見たとき、既に短剣片手に立っていたようだが? 薬で眠らされていて気が付かなかったというのなら、我々より先に起きていることは不自然だろう」
猫組の親分に問われても、ヌギーヌは臆した様子も恐縮した様子も一切見せず、変わらぬ口調で答えた。
「俺は酒にも菓子にも手は付けなかったので。いえ、正確にいえば、酒は飲んだふりをしましたし、菓子も食べたふりをしました。実際には咀嚼した菓子を、酒を飲むふりをして杯の中へ吐き出し、それをさりげなく毛布の中へ捨てました」
「えぇ!? そうだったのか兄者っ!?」
「うっせえぞテメェは黙ってろ! ……聞いて分かるとおり、こっちの馬鹿には普通に食べさせました。こいつは演技が下手ですし、見ての通りの馬鹿なので」
いや馬鹿はどうでもいいけど……え? これどうなってんだ?
ヌギーヌの話を聞いた限り、こいつはクーバルを端から疑ってたってことになるんだが……。
獅子組の組長ホルザーは腕を組み、獰猛に口端を釣り上げてヌギーヌを見ているが、たぶんアレでも上機嫌な笑みなのだろう。
一方で猫組の組長ヤルマルは怪訝な様子を隠そうともせず、相手方を睨んだ。
「どういうことだ、ホルザー」
「頭の良いテメェなら、もうだいたい分かってんだろヤルマル。元々、こいつには目付けてたんだよ」
こいつ、と言いながらホルザーは射殺すような視線を横たわるクーバルに突き刺した。当の誘拐犯は床に転がされたまま、酷く疲れたような、諦念の色濃く浮き出た顔で、ただ口を噤んで身じろぎ一つしない。
「テメェらは知らねえだろうが、こいつは森の外に関心が強くてなァ。十年以上前から、あの獣王国のクソ大使と仲良くやっててよ。ま、表面上はそんな仲良くしてねえみてえな雰囲気作って、本人共は誤魔化してたみてえだが」
「……つまり、この男が竜の赤子を盗み出すことを予想していたと?」
「今日――いやもう昨日か、クーバルが竜の赤子に興味を示していると、ヌギーヌから報告されてな。だから警戒しつつ泳がせるよう言っておいたのよ。まさか本当に盗みに来るとは思わなかったが、まァこいつも焦ってたんだろうぜ。そうだろ、クーバル?」
呼び掛ける口調は静かなものだったが、声には憤激の念が溢れんばかりに込められていた。
だが、クーバルは答えない。ただ憔悴したような顔で、目を伏せて硬く口を噤んでいる。
「クーバル、正直に答えろ。テメェがムンバン殺って食料庫燃やしたんだろ?」
「――え」
俺は思わず声を漏らしてしまった。
なんでここで殺人放火事件の話が出てくるのか、意味不明だ。
クーバルはただ激レア生物である竜が欲しくて犯行に及んだんじゃないのか?
「…………」
「クーバル、答えろ」
「……………………」
「答えろっつってんだろがァ! テメェ今更言い逃れできるとでも思ってんのかオイ!?」
親分さんは殺気しか感じられないドス声を響かせ、無様に横たわるクーバルの面に拳をブチ込んだ。
容疑者は鼻と口から赤々とした液体を垂れ流し、眉根を寄せて何か悩ましげな表情を浮かべる。
それを受けてか、ホルザーは赫怒の形相に強面を歪め、クーバルの胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「テメェ自分が何したか分かってんのかゴラ!? 同じ郷に住まう同胞を殺したんだぞッ、オレはもう今回のことでテメェがクロだと確信してんだよボケ! さっさと吐けっつってんだろクーバルゥッ!」
端から聞いているだけでチビりそうな迫力があった。
クーバルは脱力した身体で数秒ほど沈黙を保った後、ゆっくりと顎を引いて首肯してみせた。
フェレス族の面々が小さくざわつく中、ヤルマル親分も驚愕の色を覗かせつつ、あくまで冷静な口振りで告げる。
「……説明しろ、ホルザー」
「このクソが犯人だったってこった」
「それは今そいつが認めたから分かる。だが、貴様はなぜそいつが犯行に及んだのか、その理由を知っているのだろう」
「そういうテメェだって、さっきの話の流れから、だいたいどういうことかは想像ついてんだろ? まァ、しかしオレのも推測に過ぎねえし、ここは本人に確かめながら説明してやる」
ホルザーはクーバルを床に放り出し、怒気を抑え込むように目を閉じた。
そして軽く深呼吸した後、話し始める。
「さっきも言ったが、こいつは獣王国のあのクソデブ野郎タピオと裏で懇意にしていた。野郎共がこの郷に来たときは毎回何かと理由を付けて接触してやがったし、あいつが来てからこいつは森の外への関心を見せ始めた。たぶん野郎に甘い言葉でも囁かれやがって、あの事件を起こしたんだろうぜ。その内容はだいたい想像つくが……おいクーバル、吐けや」
親分さんの命令に対し、クーバルは力なく吐息した後、ぽつぽつと言葉を吐き出した。
「お、おれは……あいつが、ハウテイル獣王国での地位を、約束してくれると……」
「ハッ、外の世界でのし上がりたかったってか? そのために同胞を――ムンバンを殺ったってのかよ、おいクーバルよォ」
「…………おれだって、気は進まなかった。それでも、やらないと……やらないとおれは一生、こんな狭い世界で終わっちまうと、思ったら……外の世界へ出るには伝手が必要だったんだっ、こんな無知で時代遅れな田舎モンが外で一人満足にやっていけるわけないだろ!?」
罪悪感に塗れつつも、開き直ったのか、勢いのある吐露だった。
「だがムンバンを殺したのはおれじゃないっ、おれは誘導しただけだ、それにあいつは急所を刺されてすぐ死んだ! 苦しまなかったはずだし、燃やす食料庫だってなるべく郷に被害が出ないよう地じょ――ッ!?」
途中でホルザーが思わずといったように顔面をブン殴る。
元は強面なオッサンであるクーバルは、しかし再び覇気の皆無な暗い面持ちとなり、ただ口から折れた歯を数本、溢していた。
「タピオのクソの思惑について訊くぞ、クズ。オレらリオヴ族とフェレス族の関係を悪化させ、野郎は何をしようとしていた」
「あ……あいつは、ティグロ族と組んで、ピュアラを……」
「そんなこったろと思ったぜ、そりゃ狙いは大樹だろうよ。リオヴ族とフェレス族を争わせて、次の《森の盟主》選出を不利にさせ、ティグロ族が選ばれるよう工作してきたわけか。ようやく化けの皮が剥がれたな、あのクソ野郎」
ホルザーが忌々しげに呟く様子を捉えながらも、俺は未だに信じがたい思いでいっぱいだった。
予想外といえば予想外だが、しかし俺たちでも推測はできただろう真実だ。
それでも俺はそんな裏事情があっての犯行だとは思いつけなかった。
何らかの政治的思惑があっただろうとは思ったが、まさか被害者であるリオヴ族の奴が獣王国の奴に協力して、更にバッグにはティグロ族がいたなんて……。
隣のノシュカを横目に窺ってみると、彼女は何とも複雑な眼差しでクーバルを見つめていた。
奴の犯行動機はこの笑顔美人さんにとっては思うところがありすぎるはずだ。
「では、こいつが竜の赤子を盗もうとしたのは金、あるいは伝手のためか」
怒りに燃えるホルザーを余所に、ヤルマルは相変わらず泰然としていた。
「竜はカーウィ諸島にしか生息しない希少な生き物であり、人の手にはまず負えないと聞く。だが、それも赤子ならば話は別だろう。凶暴な魔物だろうと赤子から調教すれば、ラノースのように有用な生物となる。それが精強無比とされる竜ならば、欲しがる国は後を絶たないだろうな」
「竜の赤子を売っぱらって金に換えるも良し、どっか適当な国に献上してそれを足がかりにするも良しってか。単純だがなかなか賢いじゃねえか、なァ、おいクーバルよォ?」
ホルザーは今すぐにでも殺しかねない勢いで真犯人を睨み付けている。
だがさすがに弁えてはいるのか、全身から漲っているようにすら幻視できる怒気を抑え込み、口を動かしていく。
「大方、あのクソデブも竜の赤子を狙うだろうと踏んで先取りしときたかったんだろ? それで盗みに来たところを、こうして間抜けにも捕まったと」
「…………」
その通りなのか、クーバルはもはや全てを観念した様子で力なく横たわって動かない。
しかし……なんでわざわざ今夜、竜を捕まえようとしたんだ?
郷にいる間はもう今夜くらいしか機会はなかっただろうが、帰路なりなんなりで……って、あぁ、そうか、だから先取りなのか。
タピオが俺たちと同行することを知って、多少無茶でも犯行に及んだんだ。
とすると、クーバルは今夜を境にこの郷を出て行くつもりだったのだろう。
加えて、クーバルがタピオをあまり信用していなかったことも分かる。
だがそのおかげで、俺はあのキモオタ風タヌキ獣人と道中を共にせずに済んだ。
もしあいつと一緒にハウテイル獣王国へと向かっていたら、いつか真夜中にでも俺たちを奇襲し、メリーを奪おうとしただろう。
まあ、俺が獣王国の魔女になると言えば、そんなことはしないのだろうが……。
「ま、とりあえず簡単な事実確認はこれくらいで良いだろう。詳しくは今後じっくり、このクズとエセ親善クソ大使から聞き出せば良い」
ホルザーは怒気の滲んだ溜息と共にそう吐き出した。
そしておもむろに身じろぎしたかと思えば、なぜか俺の方へ身体ごと向きを変え、堂々たる威厳漂う巨躯で見つめてきた。
「余所モン、テメェの名はウチのモンから聞いてるが、その口から直接聞かせてもらいたい。もう知っていると思うが、オレはこのカーム大森林を統べる《森の盟主》の一族、リオヴ族の長を務めるホルザーだ」
「あ、えっと……わ、私は、ローズ、です」
俺はたぶん転生して以来最も緊張した声で名乗った。
すると立派な鬣を生やした親分さんは胡座を掻いた姿勢のまま、膝に手を突いてぐっと頭を下げた。
「ローズ、今回はオレらリオヴの郷のモンが迷惑を掛けた。加えてテメェのその竜のおかげで、こいつが犯人だと確信できた。テメェらに謝罪する。そして感謝する」
「あ…………っ、いえいえいえ、顔を上げてください!」
ノシュカの翻訳を聞いたホルザーはあっさりと背筋を伸ばし、俺の顔を真っ直ぐに見てくる。
やけに真面目な顔をしているようだが、それでもやっぱり怖い。
「ま、もし恨むとしたら、テメェら余所モンがオレらの森に入ってきたテメェら自身の軽挙を恨め。今回はたまたま助けられたが、本来テメェらは疑われて当然だし、オレらの行動が間違ってたとも思わねえ」
「は、はい……」
「だが、事情はどうあれ、助かったのは事実だ。テメェらは本当に善意でオレらの事情に付き合ってたようだしな。余所モンはいけ好かねえが、テメェらは別だ。感謝している」
今度は真正面から、互いに互いの姿を瞳に映しながら礼を言われた。
親分さんはベルとユーハにもその類い希なる強面を向け、しばし見つめた。
それからホルザーは再び身体の向きを変え、今度は猫組の長の方へと向き直った。ヤルマルはそれを待ち構えていたかのように、相手方より幾分か劣る迫力の面構えで相対する。
「ヤルマル、今回はウチのモンが迷惑を掛けた」
「そうだな、多大な迷惑が掛かった」
「申し訳なかった」
親分さんは俺のときと同じく、頭を下げた。
そんな姿もおっかないといえばおっかないが、そこには確かな誠意が見え隠れしている。
「顔を上げろ、ホルザー。今回は私たち両部族を狙った陰謀が元凶だった。迷惑は掛かったが、幸いにして私たちの方に死者は出ていない」
ヤルマルの言葉にホルザーは顔を上げ、二人とも胡座を掻いた姿勢で毅然と向かい合う。
「ただ、ゴードンたちは三節近くも獄中で過したし、ここにいるティルテも大変な思いをした。そのクーバルには断固たる処置を願いたい。無論、ハウテイル獣王国からの使節団の面々への尋問には私たちも同席させてもらう」
「あァ、言われるまでもねえ」
二人の間に横たわる真犯人のオッサンはそれを聞いても怯えた様子すら見せない。もう自暴自棄にでもなっているのか、虚空に視線を投げ出して、鬱っぽく全てを諦めきった面を晒している。
「今後のハウテイル獣王国、そしてティグロ族への対応については私の方からも口を出させてもらう。今回の件では危うくフェレス族とリオヴ族、双方が陥れられるところだった。これからはよく話し合い、慎重に物事と趨勢を見極め、外敵への対応を行っていきたい」
「そうだな、まァ気乗りはしねえが」
「それはこちらも同じことだ」
親分さん同士でおっかない笑みを交わし合っているのを見て、俺はひとまず一息吐いた。
なにはともあれ、無事に今回の事件にはケリが付いたようだ。
しかし……なんだな。
獅子組の親分さんは悪い奴でもないのかもしれん。
こうしてわざわざ俺たちに話を聞かせ、事情を理解させてくれた上で、子分共と猫組の前でしっかりと謝意を示してきた。いや、もちろん俺たちのためだけに、この場である程度の真実を明かしたわけではないのだろうが、それでもホルザーは誠意を見せた。
仁義を通したのだ。
余所者である俺にも、決して仲良くはない――むしろ不仲らしいフェレス族の族長にも、きちんと頭を下げた。
話を聞く限り、俺たちがこの郷を訪ねた時点で身内――クーバルのことはかなり疑っていたのが分かる。だが、まず真っ先に身内を疑うよりフェレス族を疑う方が理に適っているし、リオヴ族の内政的にも体面的にも、ゴードンを犯人扱いせざるを得なかったのだろう。
もしクーバルがメリーを攫おうとせず朝を迎えていたら、そのままゴードンが犯人でファイナルアンサーとなっていたのは間違いない。
つまりこの結末は幾つもの偶然が重なった末の僥倖であり、本来ならばゴードンが死んで色々と政治的問題が多発するバッドエンドだったはずだ。
そう考えると、俺たちの存在には多大な意味があったといえる。
正確にはメリーの存在だな。
名探偵には当然の如くなれなかったし、実際に俺たちは何もしていないが、この郷に来たことそのものが、俺たちにできた唯一にして最大の貢献だったのだ。
過程はどうあれ、行動して良かった。
ちらりとユーハの様子を窺ってみると、満足げな微笑みを浮かべていた。
その表情にも鬱武者の影は見え隠れしているものの、今は普通の中年剣士にしか見えない。オッサンの視線を辿った先にはティルテがいて、緊張が抜けきった様子の彼女は安堵の涙を流している。
俺は思わず口元を緩め、胸元で「キュェ」と鳴く幼竜の存在に感謝したのだった。