間話 『それでも某はやっておらぬ 結』
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城外へ抜け出るまでに、二十八人を斬った。
可能な限り致命傷とならぬよう努めたが、治療が間に合わなければ死に至る刀傷は負わせてしまった。
一方のカイルは加減などしていないようだった。襲い来る衛兵や黒装束を洗練された一太刀により情け容赦なく斬り捨て、ユーハが見ていた限りで三十六の骸を作り上げていた。
「ふぅ、とりあえず町から離れましょうか」
緊張感は元より、剣戟の余韻すら感じさせない朗々とした声で言い、青年は愛刀を鞘に納めた。今し方まで見せていた太刀筋はユーハにも負けず劣らず磨き抜かれたもので、当時のユーハ自身より精強であることは疑う余地も無い。
齢三十を過ぎた現在のユーハでさえ、刃を交えれば勝敗の天秤がどちらに傾くかの予想は困難を極める。
在野にこれほど若く強い剣士がいたことに驚きながらも、ユーハは可能な限り冷静に口を開いた。
「否、すまぬがその前に一度、我が家へと寄っておきたい」
「え? さすがにそんな余裕はないと思いますけど」
城外へ脱出したといっても、山場を凌いだだけで、依然として窮状にあることに変わりは無い。
カイルの言うとおり、悠長にしている暇など皆無だろう。
「それでも、ほんの僅かの間だけで良いのだ。妻と子に某の無事を伝え、今しばらくの間は冤罪を晴らし真犯人を突き止めるべく、身を潜めることを告げておきたい。カイルにまで付き合ってもらおうとは思わぬ、先に逃げ延びて欲しい」
「いえ、自分も付き合いますよ。ここまできて勝手に死なれては困りますし」
「……すまぬな」
「そう思っているのなら、なるべく早く自分と戦って欲しいですね」
カイルは夜闇の中をユーハと並んで駆けながら、屈託の無い微笑みを見せる。
その己が目的に忠直な様は異常といえば異常だが、いつ何時だろうと揺らがないその姿勢は好感が持てた。
それから二人は城下町の方へと夜天の下を疾走し、スオルギの屋敷へと急いだ。
屋敷は城からやや離れた場所に位置する。
五代ほど前までは城から最も近い立地に居を構えていたが、何代にも及ぶ主君との密接すぎる関係が政争の具にされかけたことがあった。それ以降、スオルギ家は物理的に距離を置くことで外聞を保ち、今に至る。
今にして思えば、その頃には護身刀という役目は時代遅れのものとなり、シュンラクが廃したのも止む無きことと言えるのかもしれない。
城下町の方は常と変わらぬ静夜の様相を見せていた。
二人は夜警に気を付けながら路地裏を経由し、スオルギの屋敷へと辿り着いた。
門は閉じていたので、高い塀を難なく跳び越えて侵入――もとい帰宅する。
「自分はこの辺で見張っています。なるべく早くお願いしますね」
「うむ、かたじけない」
半乾きの血を全身にこびり付かせた青年を庭先に残し、同様の身形なユーハは縁側から廊下に上がった。履き物を脱いでいる余裕はないので土足のままだが、今は気にしている場合ではない。
まずは己と妻の寝所へ足早に向かいながらも、屋敷内に黒幽衆かそれに類する輩が潜んでいることも考慮し、気配を殺して周囲を警戒する。
が、結局は何事も無く寝所前へと至れたので、ユーハは抜き身の愛刀を手にしつつ襖を開けた。
「――――」
夜闇に慣れた瞳に映る光景が現実味を欠いていた。
ユーハは死罪を告げられたときと同等かそれ以上の驚愕により、声すら出ずに硬直した。
「――っ、ユーハ!?」
襖を引いたと同時に布団から上半身を起こしていた男が、あり得ないと言わんばかりの様相を見せる。
数瞬、時が止まったかのような沈黙が流れた。
だが、それも男の隣で横になっていた女が目を覚ましたことで、時間が動き出す。
「ロウン……どうかしたのですか? いったい何を…………あ、あなた……?」
女は上掛けで胸元を隠しつつ上体を起こし、隣の男を見てから、その視線の先を目で追った。そして、やはり男同様に身体を強張らせて、女が双眸を見開く。
「な、なにを……なにをしておるのだ……ロウン、チヨリ……?」
辛うじて言葉は出てきたが、ユーハの頭は依然として混乱の坩堝と化していた。
今まさに視界内にいる二人は両者共に裸体であり、一つの寝所に入り、肩と肩を触れ合わせている。あるいは男の方が全く見知らぬ輩か、知り合い程度の間柄だったなら、ユーハは右手の蒼刃を一切の躊躇無く振るって斬首していただろう。
しかし、妻の隣にいるのは最も親しい友だ。
己がいるべき場所に、友がいるという現実が夢幻の類いに思えてならず、思考が定まらない。
「ユ、ユーハ、これは……いや、なんだお前その姿は……? それに今は牢に入れられているはずじゃ……?」
ロウンは罪悪の意識が表出した表情を見せるも、すぐに訝しげな顔つきになった。
その様を半ば呆けた態で見て取って、ユーハは混沌とした思考のまま声を出す。
「抜け出して、きたのだ……冤罪を晴らすべく、汚名を雪ぐべく、真犯人を捕らえるべく、脱獄してきたのだ。そして、妻と子に会いに参った、伝えに参ったのだ……参ったのだぞ……?」
「あ、あなた……」
「それが、なんなのだこれは……なんなのだチヨリ!? 某が獄に入れられ明日にも死すという状況で、お主らは某の寝所で仲睦まじく乳繰り合っておったと申すのか!? この姿の如何を問うより、その姿の如何を説明せよロウンッ!」
湧き上がる激情に従い、思いのままに叫んだ。
すると寝床を共にしている二人は小さく肩を震わせた後、男の方が躊躇いがちに口を開く。
「ユーハ、これは、その、おれが無理矢理チヨリを――」
「私から彼に迫ったのです」
ロウンの言を遮り、チヨリがいつになく明瞭な語調で断言した。
「あなたがシュンラク様の毒殺を謀ったと聞いて、捕まったと聞いて、私もユーレンも不安だったのです。ですが、そんなときロウンが私たちを励ましてくれました」
「だ、だからといって――」
「今回だけに限らず、彼はずっと昔から私たちに優しくしてくださいました。あなたがユーレンに厳しくしたときも、私に全然構ってくださらないときも、彼はいつも優しくしてくださいましたっ」
始めこそ後ろめたい様子を見せていたが、今では何かが決壊したように、妻は語気強く吐露していく。
「そもそも私はずっとずっと昔から彼のことを愛していましたっ! ですがあなたと婚姻するにあたって、泣く泣くその想いを押し込めたのです! あなたと一緒となるからには良き妻であろうと努力しましたっ、ずっとしてきました! ですがあなたはっ、私とユーレンの想いなど気にも掛けず、ただ自分のしたいようにしていただけではないですか!」
「――――」
「ロウンも私たちと同じですっ、幼き頃より私たちは愛し合っていたのに、だからあなたに決闘を挑んで……それに敗れてもあなたを受け入れて、認めて、ずっと私たちのことを見守ってくれていたのに、あなたは彼の想いに気付いていたのですか!?」
ユーハは何を言われているのか、良く理解できなかった。
愛し合っていた?
だから決闘した?
だから見守っていた?
「あなたはいつも自分のことばかりですっ、そして今度は護身刀の役を廃されたからといって、シュンラク様にまで――」
「な、なにを申しておるっ、某はやっておらぬ!」
「私とてそう信じようとしましたっ、ですができないのです……もう、あなたを信じることができないのです……それでも、私と違ってロウンは信じていました。私に大丈夫だと言い聞かせてくれて、ユーレンを元気づけようと頑張ってくれました!」
ロウンの様子を窺ってみるも、彼は罪悪感に苛まれているかのように、息苦しそうな顔で目を伏せている。
反してチヨリは胸元に寄せた上掛けを抑える手を硬く握り締めながら、哀しそうに、苦しそうに、それでいて力強く声を上げる。
「あなたが死罪になると聞いて、ロウンはシュンラク様に嘆願しました! ですが果たされず、あなたとの面会すら許されず、酷く落ち込んでいたのです! ですから今度は私が彼を元気づけてあげたかったのですっ、そして私自身も悲しさと愛しさを抑えきれなかったのです!」
明かされた想いが予想外に過ぎ、ユーハはただ刀を片手に突っ立っていることしかできない。
チヨリの言葉は正しいのか、ロウンは硬く下唇を噛んで俯いている。
ユーハは口を開こうにも、言葉が出てこなかった。
半生を剣に費やしてきた己は人情の機微に疎いところがある。それは重々承知していたつもりだが、それでも、故にこそ、虚を突かれた。ロウンの、そしてチヨリの想いと真実に甚大な衝撃を受け、頭が働かない。
「は、母上から離れろ!」
突然、背後から聞き慣れない声がして、ユーハは反射的に振り返った。
するとそこには見慣れない表情をした息子が立っていて、とても父親に対して向けるようなものではない眼差しを突き刺してくる。
「……ユーレン」
「母上とおじさんから離れろっ、人殺し!」
怯えを孕んだ声は震えていた。
しかし、未だかつて聞いたことのない強い口調には敵意が宿っている。
「な、なにを申しておる、ユーレン、この父が主君を殺めようなどと――」
「うるさい人殺しっ、そんなに血塗れのくせにっ、いいから母上から離れろ!」
息子が両手を無茶苦茶に振り回して突進してきたので、ユーハは受け止めようと思った。が、抜き身の愛刀を手にしていることに気が付き、止む無く迫る息子を横に躱す。
すると、ユーレンは布団の近くで転んでしまう。ユーハは駆け寄り助け起こそうとして、思わず一歩を踏み出した。しかし、息子は枕元に置かれていた刀に手を伸ばして一息に抜刀すると、切っ先を実の父親に向けて構えた。
「な……何を、しておる、ユーレン……?」
「うるさいっ、出て行け人殺し! ここから出て行けぇっ!」
「ユーレン止めるんだ、刀を下ろすんだっ」
ロウンが己の愛刀を構えるユーレンに慌てて声を掛け、その小さな肩を掴んだ。
だが当人はそれを振り払い、普段の軟弱な息子とは思えぬ形相で声を荒げる。
「お前なんかいらないんだっ、どうしてお前が僕の父上なんだ!? お前と違っておじさんは凄く優しくてっ、面白くてっ、なのにお前はいつもいつも厳しくて、痛くて……僕も母上もお前なんていらないんだよっ、早くどっか行けよっ、なんで死んでないんだよっ、この人殺し!」
「ユ、ユーレン、何を、申しておる、違うのだ、某はそなたの、父として――」
「うるさいうるさいうるさいっ、僕の父上はおじさんだっ、おじさんがいいんだっ! お前なんて父上じゃないっ、どうしてお前が父上なんだっ、お前なんて……お前なんて早く死んじゃえばいいんだ!」
ユーレンは髪を振り乱して叫ぶと、身の内に潜む何かを解き放つかの如き、大仰な素振りで大上段に一刀を構え、踏み込んできた。未熟な身体で裂帛の気合いを発しながら、忘我の縁に立つユーハの間合いに踏み込み、刀身を振り下ろす。
「はああああぁぁぁァァァッ!」
ユーハはそれを他人事のように眺め、迫る刃を前にして漠然と思った。
初動こそ拙かったが、踏み込みと間合い位置、そして振り下ろしの動作はこれまで見てきた息子の打ち込みで最も巧く、掛け値なしに賞賛できるものだ。
そう……師である己が心痛を押して手解きした通り、綺麗に刃筋の立った見事な斬撃だ。
「――――」
右眼が熱を放ち、生温かいものが両の頬を伝った。
もし迫る息子の猿叫に怯えて一歩後ずさっていなければ、今頃は唐竹割りで脳天から裂けていただろう。
実に良い一斬だった。
「……………………」
ユーハは堪らず尻餅をついた。
それをロウンもチヨリも唖然とした顔で見ていた。息子はといえば、振り下ろしの勢い余って畳に食い込んだ刀身を引き抜こうとしている。
ユーハはそれらを、ぼやけて狭まった視界に収めて見つめるだけで、身動きひとつできなかった。そんな力は無く、動く必要性も感じなかった。
「ユーハさん、さっきから凄い声してますけど、どうかしましたか……?」
背後から青年の声が聞こえるが、振り返らない。
ふと肩に手を置かれるが、だからどうしたという次第だった。
「何してるんですか、ユーハさん。いったい何がどうなったのかは知りませんけど、そろそろ行きま――って、ユーハさん!? その眼はどうしたんですか、まさかそこの子供に……?」
床から剣を引き抜いたユーレンの前に、全身が返り血に塗れた青年が立ちはだかった。だが、父を倒したことでユーレンの意気は一層燃え上がっているのか、カイルを毅然と睨み上げる。
「なんだお前はっ!? お前も人殺しだなっ、お前も母上を――」
「よくも自分のユーハさんを傷物にしてくれましたね」
底冷えするような幽玄とした殺気が仄暗く響いた。
それだけユーレンはぽとりと刀を落とし、恐怖に染め上がった顔で硬直した。
呆けていたユーハでさえ痛いほどに感じ取れる、凄烈で濃密な闘気の発露だ。
カイルが腰元の柄に手を掛けて、全裸のロウンが息子の肩を抱きながら床の刀を拾い上げる。
そこでユーハはようやく動き出した。
「カイル……参ろう……」
「ええ、ですがその前にこの子供を――」
「良いのだ……もう、良いのだ……ともかく、参ろう……急ぎ……急ぎ、この場を、離れるのだ……」
ユーハはのっそりと立ち上がって、柄に掛かったカイルの手を掴んだ。
常に微笑みを覗かせていた青年は酷く無感情な顔をユーハに向け、白銀の愛刀の如き冴え冴えとした眼差しを、ユーハとユーレンの間で二度往復させる。
すると、軽く吐息して見慣れた微笑みを浮かべ、無言のまま身を翻した。
ユーハもそれに続き、不確かな足取りで敷居を踏みつつ廊下に出る。
「ユ、ユーハ、おれは……」
その声に恐る恐る背後を振り返ると、三人が三人とも似たような表情でユーハを見つめていた。三人で身を寄せ合うようにして固まり、その中で最も逞しい体躯の男が何とも言い難い面差しで何事かを言おうしているが、上手く言葉が出てこないようだった。
ユーハは男の二の句を待たず、気怠い両足で歩みを再開した。
己が何処へ向かうのかも分からぬまま、ただこの場から寸刻でも早く立ち去りたいがために、失ったもの全てに対して背を向けた。
■ ■ ■
それからどうしたのか、ユーハはあまり覚えていない。
カイルに連れられて慣れ親しんだ城下町を離れ、ひたすら歩いた。
その道中、追手を防止するためにカイルからオラシオという偽名を名乗るよう勧められた。途中から別の町で馬に乗り、道なき道を辿って南下し、ライギの南方に位置する小国ヤゲンナの領地に入った。
それまでの道中、ユーハはただひたすらに絶望していた。カイルがいなければ野垂れ死んでいたと確信できるほど、無気力なまま、ただ彼に率いられていた。
青年剣士はユーハを見捨てることなく、ヤゲンナの港町から密輸船で神那島へ渡った。
船上で海を眺めていると、幾分か気分は落ち着いた。が、それ故にむしろあの日のことを鮮明に思い返してしまって、更なる絶望の底へと至った。
神那島から更にエノーメ大陸東部へと渡ったところで、カイルが改まったように決闘を申し込んできた。ユーハの心はこのとき既に完膚無きまでに折れていたが、それでもいつかの約束を朧気に思い出し、なんとか刀を取った。
しかし、カイルはそんな己をやや苦々しい微笑みを湛えたまま見つめてきて、思い直すように頭を振った。
「やはり、今はまだ止めておきましょう。仮に自分も片眼を隠して戦ったとしても、今のユーハさんでは戦いにすらなりません」
刃を交えずに済んで安堵した反面、心苦しかった。
カイルには相当の恩を受けたのだ。
生ける屍と化した己が身の面倒を見てくれて、道中で必要だったあらゆる要事を受け持ってくれた。今では唯一心を許せる知人といえる。
明日の見えない日々の中で、どうにか死なずに生きていけているのは、彼のおかげだった。
「残念ですが、ここでお別れです」
しかし、カイルは言葉通り心底無念そうな様子でそう告げた。
ユーハはもう彼にこれ以上の迷惑を掛けたくなくて、その言葉に頷き、腰の愛刀を差し出した。約束を守れない詫びと、これまでの感謝の印として、受け取ってもらいたかった。
どうせこのままでは野垂れ死に、見知らぬ誰かに拾われるだけの運命なのだ。
「いえ、それは受け取れません。自分はまだ諦めたわけじゃないですからね」
カイルは好青年然とした微笑みを浮かべ、ユーハを見つめた。
「貴方の心はもう折れてしまっているようですけど……心は刀と違って、その折れた心を鍛え直せば、以前より遙かに強靱になります。貴方がいつの日か立ち直ったとき、きっと以前とは比べものにならないほど強くなっているはずです。そうなるには自分がいると邪魔になりますし、立ち直ることを期待して、まだ貴方には剣士でいてもらいます」
「…………」
「自分の《雪華》のように、すぐには無理でしょう。それでもユーハさんは《七剣刃》の仕手なんですから、時間は掛かっても、その刀のようにいずれ必ず立ち直ってくれると信じています。お互いに剣士として生きていれば、いつかまたきっと再会できるでしょう。ですから、これは一時の別れと信じて、自分は行きます。それでは、また」
そう言い残し、カイルは実にあっさりとユーハの前から去って行った。
「…………………………………………」
ユーハはこれから先、どうすれば良いのか分からなかった。
生きる理由が無いのだ。
カイルは立ち直ることに期待してくれていたようだが……。
それは到底、無理難題な願いだった。
これまでの人生でユーハが刀を振るっていた所以は、何かを守るためだったのだ。家名、妻、息子、主君、国、己が誇り、亡き父や前主君との誓い、それらを守るために生きてきた。
だが、その生きる理由はもはや失われて久しい。
あの日、右眼と共に全てを失った。
その切っ掛けを作り上げた人物が分かっていれば、あるいは復讐の情念に心身を滾らせることも適ったのだろうが、犯人など皆目見当も付かない。
それに、復讐したところで何がどうなるというわけでもない。失われたものが戻ってくるわけでもなく、そもそもの元凶は己が不徳にこそあるのだ。
妻と子はあの情に篤い友と生きる方が幸福であり、幾人もの犠牲者を出して脱獄した己には愛する祖国での居場所など在るはずも無く、必然的にスオルギ家はその誉れ高き家名と共に没する。
故に、これ以上生き続ける理由がなかったし、何よりそのような気力など絶無だった。
愛刀たる破魔刀《蒼哀》の如く立ち直るのだと、カイルは言った。
しかし、それはユーハにとって痛烈な皮肉だった。
なにせユーハは既に、破魔刀と称される愛刀がなぜ《蒼哀》という銘を持つのか、その所以通りの目に遭っているのだ。
破魔刀《蒼哀》は術法や霊力といった触れ得ぬものをも切り裂くことの適う妖刀だ。
故に、絆や情といった決して見えざる繋がりをも断ち切るのだとされ、その哀しい例えと蒼い刀身から《蒼哀》と名付けられたとされている。まさに諸々との繋がりを断たれた今のユーハには、愛刀の由来が痛いほど実感できている。
だが、これもまたカイルの言葉通り、心と刀は別物なのだ。粉微塵に砕けて四散した心は、ただ時間を掛ければ再生する《天下七剣》と違い、治らない。
「だが……剣の道に、生きた者として……」
カイルに倣って刀に例えれば、己は既に心鉄まで砕かれて、ただ朽ち果てるのを待つだけの鉄くずだ。それでも、どうせならただ朽ち果てるより、剣士として戦って死にたい。
しかし、紛う事なき強者たるカイルは既におらず、そもそも彼は今の己など斬る価値すらないと思っていただろう。だからこそ、到底あり得ぬ未来に期待するという愚考をもって、去って行った。
「……ならば、せめて……世のために……」
生きる価値すらない不用品たる己にできることなど、人の世に仇為す化生共を滅することくらいだろう。とはいえ、そこらの人外共では折れた刀たる己でさえ容易に狩れてしまう。
ユーハは鈍った頭で考えた末、化生共の巣窟たるザオク大陸へ向かうことにした。彼の地に蔓延るという屈強な人外共と体力の限界まで戦い、少しでも世に貢献して、華々しく散る。
それこそ今の無価値で不用品たる己でも叶えられる最良の未来だろう。
そう結論付けることで、祖国ライギから少しでも遠ざかりたいという女々しい思いを誤魔化した。
幸い、シュンラクが外交的な主君だったおかげで、側近中の側近であったユーハはサンナ語以外の言語の習得を余儀なくされていた。
彼に仕えておよそ五年の間、足りない頭でフォリエ語とエノーメ語の勉学に励んでいたため、今まさに踏みしめているエノーメ大陸の言葉はある程度ならば理解できる。道中では噂に聞く猟兵とやらに身をやつして日銭を得つつ、ザオク大陸を目指してゆけば良いだろう。
「うむ……参るか……」
死という目的を果たすため、ユーハは気怠い身体に鞭打って、歩き始める。
そこらの道端にでも倒れたくなる衝動を最後の意地で何とか堪え、世のために果てるという華々しい終わりを夢想し、一振りの折れた刀は死地を目指していったのだった……。