第八話 『こんなの絶対おかしいよ』
それは突然のことだった。
「いいかァ、よく聞けクソ共! お前等はクソだっ、豚以下だっ、お前等の代わりなんていくらでもいるっ、ただのクソ!」
マウロは迫力のあるヤクザ顔で、力強い怒声を張り上げる。その足下には、手足を拘束されて膝立ちになっている全裸の金髪美幼女が一人。
中年親父は乱雑な挙措で幼女の背中を踏みつけた。俺たち奴隷幼女全員は工場前の開けた場所で、そんな中年親父と幼女を前に言葉を失っていた。
「無心に働けっ、何も考えるなっ、考えるのは人のすることだ! お前等はクソだっ、余計なことを考えて、生意気に反逆しようとするとこうなる!」
マウロはリタの背中から足を上げ、彼女の身体を横から蹴りつけた。リタは呻くように苦鳴を溢しながら、二メートル――二リーギスほど吹っ飛んだ。
「……マ、マウロ、様、お願いします、もう止めて、くだ――ぅガァ!?」
「誰が喋っていいと言った!? お前等に自由なんてねえんだぞ! おいッ!? 分かったらはいと言えッ!」
「く、ぅッ、は……は、い……っ!?」
リタは足蹴にされながら、苦しげに呻くように答えた。俺はそれを未だに醒めやらぬ戸惑いと怯懦を胸に、ただ見つめていることしかできない。
リタに抱きしめられた翌々日、奴隷生活二十四日目。
いつものように叩き起こされて、さあ味気ない朝食だと思いきや、今日は違った。
奴隷部屋にいた六十人ほどの奴隷幼女全員が外へと連れ出された。そして、リタがマウロに呼ばれて……こうなった。
もちろん、俺には何が何だか分からない。
なぜこうなっているのか、意味不明だ。生意気に反逆しようとするって、いつ誰がそんなことをしたというんだ。急になんなんだ、あのオッサンは。頭大丈夫か。
「おいクソッ、聞こえねえぞ!? クソでも返事くらいできるだろっ、あぁオイ!?」
「は……っ、はいっ……はい!」
マウロは俺たちをしつこいほどクソだと罵っている。
つまり、これは綱紀粛正というやつなのか? 俺たち奴隷幼女に恐怖心を植え付けて、完全服従させようって腹積もりなのか?
それならもう十分わかったから、これ以上リタを傷つけないでくれ、頼むから。
「……………………」
そうは思っても、口には出せなかった。
俺はマウロの迫力に完全に呑まれ、身体が恐怖心に縛られていた。
「オラッ、お前等もだぞ! なにボケっとしてやがんだ!? 返事はどうした返事はァ!?」
傷痕の残る強面と怒気に塗れた叱声が俺たちに向けられる。
俺の身体は勝手に縮み上がった。全身が硬直して、脳裏にクソ兄貴の姿がフラッシュバックする。
「……………………」
返事をする幼女は誰もいない。さすがのレオナも突然のことに戸惑っているようで、表情に笑みはなく困惑しているのが分かる。
「はぁぁぁぁあ……ったくよぉ……」
マウロはわざとらしく溜息を吐いてみせた。大きくタメを作ってリタの身体に蹴りを見舞うと、腰に吊り下げていたブツを抜いた。
それは数日前からマウロだけが携帯し始めたものだ。一リーギスほどもあるマスケット銃型ではなく、三十レンテもない拳銃型の魔弓杖。
その銃口を横たわるリタに向けた。
「……ぅ、あ……マ、マウロ、さま……?」
夜中に雨が降ったのか、地面はぬかるんでいる。そのせいで、リタの全身は泥だらけだ。彼女は蚊の鳴くような声を漏らしながら、怯えに満ちた弱々しい瞳でマウロを見上げる。
しかし、クソ野郎は奴隷幼女の痛ましい姿など意にも介さず、再び俺たちに目を向けた。
「いいかクソ共ッ、よく聞け! お前等には何の取り柄もない、正真正銘のクソだ! 魔力のないお前等に価値はない! あるとすれば、ここでただ黙って俺たちの命令に従っていくことだけだっ!」
俺がクソだということは分かったから、早くその物騒なものを仕舞ってくれ。
脅しはもういいから、彼女を怖がらせないでくれ。あの優しくて聡明なリタ様が、あんな顔で恐怖しているんだぞ。頼むから、早く銃を下ろせよ、なあ。
「もし逆らえばどうなるか、今から優しい俺が特別に教えてやる。いいかッ、よく見ておけよ!」
マウロは片手で魔弓杖を構え、二リーギスほど先に横たわるリタを見据えた。彼女は恐怖と絶望に表情を歪め、大きな双眸は銃口を見つめて瞬き一つしない。
俺はふと、リタの股ぐらから黄金水が漏れ出ていることに気が付いた。それは異様で異常な光景で、俺はただ見ていることしかできない。
身体は、全く動かない。
昔、クソ兄貴の暴虐を前にしたときも似たような状態になった。しかし、それとは比較にならないほど意識が飽和し、現実味がなく、思考さえ鈍化していく。
「や、やめ――」
リタが何事かを言いかけ、銃口が赤く溢れんばかりの眩い光を放った。
と思ったら、リタの頭が半分ほどなくなっていた。
「ふむ、やはり威力は数段落ちるか……」
マウロが何やら独り言のように呟きを漏らしていたが、そんなことは気にならなかった。
リタが……リタの顔の左半分が、消えていた。右半分はグチャグチャに乱れ、残った眼球が眼窩から飛び出ている。消えた部分の断面からは、脳漿と血が混じり合ったピンク色の液体がドロドロと溢れていた。金髪は俺の髪のように紅く染まり、泥だらけの身体はピクリとも動かず、股ぐらからは未だに黄金水が漏れ続けている。
「――――」
俺たちは誰一人として、身動き一つしない。動いているのは、魔弓杖を腰のホルスターに収めるマウロ、そして他の監督役の男連中。ある男は気怠げに頭を掻いたり、ある男は顔をしかめ、ある男は羨ましげな視線をマウロの腰元に送り、ある男は無表情に佇んでいる。
マウロは俺たちに向き直ると、彼女を指差し、大声を張り上げた。
「俺たちのッ、命令を聞かなかったクソはッ、こうなるッ! よォく覚えておけェッ!」
何人かの幼女はへたり込んだ。
何人かの幼女は未だに呆然と立ち尽くしている。
何人かの幼女は声も上げずに涙を流している。
レオナはリタだったモノに目を向けつつも、見開かれた双眸の焦点は合っていない。
俺は吐いた。しかし胃は空っぽだったので、胃液と唾液が混合した液体を僅かに吐瀉する。ただ地面に四肢を突いて、ひたすらに嘔吐いた。
何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。何も考えたくなかった。
何も、できなかった。
「――おいこらイーノスッ、テメェなに勝手に焼いてんだコラ!」
ふと、マウロの怒鳴り声が聞こえたので、俺は息を乱しながらも反射的に顔を上げた。
すると、つい先ほどまで横たわっていたモノが燃えていた。静かに火炎を上げて、既に彼女の全身は紅蓮に包まれて黒い影となっている。
「イーノスおいッ、聞いてんのか!?」
先ほどまで、翼人のボッチ野郎イーノスは監督役の男連中と並んで俺たちの後ろに立っていた。だがいつの間に移動したのか、今はリタだったモノの側にいる。
片腕を横たわる彼女に向けた姿勢のまま動かず、揺らめく火炎が無表情顔を照らし上げている。
「……死体は、早く燃やした方がいい。病が巣くう」
「早すぎだボケッ、もっとこいつらに見せつける必要があったんだよ!」
ボソリとした不気味な声に、マウロが怒鳴り声を返す。イーノスは眉を微動させたが、すぐに作り物めいた無感情な顔に戻った。しかし特にマウロに反論するわけでもなく、イーノスは深い穴のような瞳で炎を見つめている。
「クソがッ!」
マウロは盛大に舌打ちして、魔弓杖を抜き放ち、トリガーを引いた。
イーノスの足下の地面が爆ぜ、鮮麗な赤い燐光と共に泥が飛び散る。
「もし次勝手な真似してみろッ、お前にもこいつをブチ込むぞ!」
殺気すら漲らせて苛立たしげにマウロは喚くが、イーノスの反応は淡泊だ。抉れた地面に無機質な目を落とし、銃口を経て、再び燃え盛る炎に視線を戻す。
それから、俺たちはマウロの指示で、リタの身体が骨になるまでその場にいさせられた。
俺の思考は真っ白だった。
リタの骨も真っ白だった。
人間の骨というものは存外に白いものだと理解させられた。頭蓋に空いた小さな眼窩は影になって真っ暗で、ひたすらに不気味だった。とても直視できるようなものではなかった。
その後の朝食は食べられなかった。
でも食べさせられた。
残すことは許されなかった。命令に背けばどうなるか、既に俺は心底まで理解させられていた。朝食を無理矢理胃に詰め込んでからも、いつも通りに一日は進行したが、俺の頭の中は相変わらず真っ白だった。
自分が何を組み立てているのか、考えたくもなかった。
♀ ♀ ♀
その日、夜の奴隷部屋は沈痛な雰囲気で満たされていた。部屋の光源は窓から差し込む天体の輝きだけなので、薄暗さと相まって深海めいた重苦しさがある。
通夜そのものだった。
幼女たちの顔は負の感情で溢れている。無表情の幼女も数多く、まるで人形のようだ。思考と感情を放棄し、精神が肉体から遊離している。
俺は昔、自分を俯瞰していた。
それは無意識的な行いで、自分を含めた状況をまるで映画のように眺めることで、自己防衛を計っていたのだろう。
そこにいる自分を自分と思ってしまえば、心が耐えられない。
そこにいるのが自分ではないと思えば、まだあの暴虐の日々に耐えられた。これは所詮他人事であり、自分はそれを眺めているだけの傍観者だと思えば、楽だったのだ。
だからか、俺は割と冷静だ。
今日一日、黙々と作業を続けることで、俺の心は勝手に整理を付けた。この場合、昔とった何とやら……と言っていいのかどうか。今は軽い抑鬱状態ではあるが、自分をそうだと判じることができる程度には理性がある。
「……………………」
いつものように俺、レオナ、ノエリア、フィリスで車座になる。
それは習慣的かつ惰性的な行動だった。身体が勝手に動くに任せた結果だった。
しかし、食事を口にする者はいない。ノエリアは沈鬱な顔を俯け、フィリスは死んだ魚の目で呆然としている。
その一方で、レオナは笑っていた。
いつものように、何が楽しいのか笑みを浮かべている。
「ほら、ねえ、ローズもノエリアもフィリスも、ごはんたべよ」
その声に陰りはない。
まるで今朝の一件など知らないとでも言うようだ。
奴隷幼女たちの中で唯一、レオナ一人だけ昨日と変わらず笑っている。
「ごはんたべれば、きっとげんきでるよ。ほらっ、ローズがつくってたやつ!」
レオナは前に俺が作っていたバケットサンドもどきを作り、俺たちの前に差し出した。形はかなり崩れており、お世辞にも旨そうとは言えない。
しかしレオナはまるで気にした様子もなく、向日葵のような笑みを浮かべている。
「あ、そうだっ。あのね、うたをうたえばげんきになるよ!」
良案だと言わんばかりに朗々と言って、小さく身体を揺らしながらレオナは歌い出した。
「かぜのかおりははなやかに そのかみをなでる
あなたとともに このだいちをふみしめた
かけがえのないひびが きずなをいろどる」
優しげで軽妙なリズムの歌を一人で口ずさんでいく。
「ああ いとしいこえが どごうにまぎれても
ことばよりたしかに あなたをかんじる
わすれないで こころはいつもそばにいるよ
たとえとおくはなれても ひとりじゃないから」
幼女らしい拙いソプラノボイスが微かに響き、奴隷部屋に溶け込んでいく。
「ときのながれがむしばもうと ふきゅうのきずなはうつくしく
あなたがいるから しをおそれない
さいごのときまでわらっていよう
うまれかわっても きっとまたあえるから」
レオナは歌い終えると、俺たちの様子を窺うように見回す。
だが、ノエリアもフィリスも先ほどと変わらず、意気消沈どころか鬱々と絶望している。もはや瞳に生気が皆無だった。
「ぁ、えっと……あのねっ、にばんもあるんだよ!」
一瞬の困惑を挟んでから、レオナは再び笑顔で歌い出そうとする。
「レオナ」
俺は堪らず口を開いた。
レオナは「ん?」と小首を傾げ、期待に満ちた瞳を向けてくる。出会った頃と変わらず、彼女が見せる笑みは可愛らしい。
だが、今このときばかりは無性に腹立たしい。
「レオナはどうしてそんな、笑ってるんですか? リタが……リタ様が死んだんですよっ? 悲しくないんですか!?」
レオナは虚を突かれたように呆然とした表情を見せ、硬直した。
が、すぐにまた日向を思わせる快活な笑顔に戻って、軽快にかぶりを振る。
「ううん、かなしーよ」
「――ッ」
激昂しかけた。ならなんで暢気に笑ってんだと、歌なんか歌えるんだと、八つ当たりめいた怒りが爆発しかけた。
しかし、俺は兄の暴虐を物心ついたときから見続けていた。そのせいで、怒りという感情に忌避感を持っている。自分があのクソ兄貴のように振る舞うのだと思うと、今朝方のマウロのように怒鳴るのだと思うと、どうしても激情に身を任せられないのだ。
「なら……どうして、笑ってるんですか。おかしいでしょう。レオナは、悲しいと笑うんですか……?」
あるいは笑うことが、レオナにとっての現実逃避なのかもしれなかった。
思考を放棄して、ただ馬鹿みたいに笑っていれば、楽だ。レオナにとって、リタの死はなかったことになっているのかもしれない。俺の言葉は彼女の無意識的な自己防衛反応を阻害し、心を傷つけるかもしれない。
それでも、俺はレオナを問い質さずにはいられなかった。激情を抑え込んだ代わりに、せめて何かを吐き出さなければ頭がおかしくなりそうだった。いや、もう十分におかしいのだろうが、これ以上の狂気は本当に精神が崩壊しかねない。
「うん、そうだよ」
レオナは頷いた。
悲しいと笑うのだと、満面の笑みで頷いた。
当然のことだと言わんばかりに、迷いなく頷いた。
「だって、おかーさんがいってたもん。かなしいときこそ、わらいなさいって」
「…………え?」
俺は一瞬、意味が分からず間の抜けた面を晒した。
「つらくて、かなしくて、もーやだくるしいってときは、わらえばいーって、おかーさんいってた。えがおでいれば、どんなことがあってもだいじょーぶだって」
「――――」
「だから、ね? ローズもわらって?」
レオナは昨日までと変わらず笑っている。
いつも通り、向日葵のような笑みを浮かべている。
いつも通り?
昨日までのレオナはこんなにぎこちなく笑っていたか?
あの大きな瞳が陰っていないと本当に言えるのか?
「レオナ……」
「ん? なあにローズ?」
俺の呟きに、レオナは陽気な声を返す。
声音は明るいが、よく聞けば震えていた。
「……………………」
目の前にいるのは幼女だ。
四歳の、竜人ハーフという点を除けば、どこにでもいそうな幼女だ。
笑顔が可愛らしく、そして今では痛々しく見えるだけの、ただの幼女だ。
「ごめん、レオナ」
「ローズ……?」
思わずレオナを抱きしめていた。身体は少しレオナの方が大きかったが、俺は背中と頭に限界まで手を回した。レオナは突然のことに戸惑っているのか、身体を硬くしている。
どうして俺は、レオナの笑顔がいつも通り明るく朗らかだなんて思った?
出会った頃からずっと、こんなにも悲痛な笑みを浮かべていたのに。
そもそも、俺は奴隷になる前のレオナを知らない。だから、彼女の"本当の笑顔"を知らない。俺にとって、レオナの"本当の笑顔"は首輪を付けられてからのものだ。他の幼女たちが一様に暗い顔を見せる中、唯一目にした笑みだ。初めからどれだけ痛ましい笑顔をしていても、元引きニートの俺がそれを喜色に溢れたものだと見誤っても無理はないだろう。
「もういいんです、レオナ」
「いいって、なにが?」
「もう……もう我慢しなくていいんです、泣いていいんです」
俺の言葉に、しかしレオナは躊躇うように僅かに身じろぎした。
「で、でも、おかーさんはわらってなさいって、いってたよ」
「はい。レオナのお母さんの言葉は間違っていません。でも、笑うのは泣いた後です」
辛いときほど笑っている。
それは確かに大事なことだ。
負の感情は容易に自分を呑み込む。誰かに助けてもらえないとき、それは際限なく心を浸食する。だから笑って、自分で自分の闇を振り払うしかない。
だが、ときには思うまま泣くことだって、大切だ。
「辛いとき、悲しいときには泣いたっていいんです。泣いてから、涙を流しきってから、また笑えばいいんです」
「で、でも……みんな、わらってないよ? あたしが、わ、わらって……っ、ないと……」
「それは大丈夫です。レオナのおかげで、私は元気になりました。レオナが笑ってくれたから、私も笑えるようになりました」
俺はそう言って、少しだけ身体を離して、レオナの顔を間近から見つめた。
彼女は迷子のような表情を見せている。困惑しながらも瞳を潤ませ、でも泣くまいと強がっている。
「ほら、ね?」
そんなレオナに微笑みかけた。
前世の俺は笑顔が苦手だった。それは今でも変わらない。十年以上も引きこもっていたせいで、キモい笑い方しかできない。
でも、今このときだけは誰よりも上手く笑ってみせる。
「だから、今度はレオナの番です。悲しんでください。思う存分、泣いていいんです。だからそのあと、一緒に笑いましょう? それからさっきの歌を一緒に歌いましょう?」
きっと俺はぎこちない笑顔をしていたと思う。
「ぅ……っ、ろぉず……」
それでも、俺の言葉は届いてくれたのか、レオナが愛らしい相貌を歪めた。瞳が濡れ、見る見るうちに涙が目尻から溢れ出し、頬を伝って流れ落ちていく。
俺は再びレオナを抱きしめた。
精一杯の労りと優しさを込めて、頭と背中を撫でていく。
レオナは声を上げて泣いた。これまで溜まりに溜まっていたものを一気に吐き出すかのように、泣きじゃくった。
レオナの身体は俺より少し大きい。でも、彼女は小さく、細かった。強く抱きしめれば呆気なく折れてしまいそうだ。
俺もつられて泣いてしまいそうだったが、耐えた。
リタはもういない。あの聡明な幼女は俺の見ている前で理不尽に無残な死を晒し、燃え、白骨になった。
そう思っただけで、あのときの光景が勝手に想起される。このロリボディのせいか、鮮明に記憶に焼き付いてしまっているのだ。例えようのない悲嘆が沸き上がってきて、気が狂いそうになる。
前世の俺は身近な人の死を経験したことがない。
正確にいえば、三十年の人生の中で親戚は何人か亡くなった。ただ、祖父は幼少の頃に亡くなったらしいので、俺は何も覚えていない。小学生の頃、その祖父の法事には参加したが、祖父との思い出のない俺には何の感慨もない退屈なイベントだった。
二十代半ばの頃に祖母が亡くなっても、引きこもりの俺は葬儀に参加しなかった。もう何年も顔を合わせてなかったし、死んだという実感なんて全くなかった。
中学の同級生が交通事故で亡くなったと、家の電話に当時の学級委員から連絡があったこともある。だが俺は母伝いにそれを聞いても通夜には参加せず、家でゲームをやっていた。故人の顔も名前もすっかり忘れていたし、何より俺は引きニートな己の外聞を気にして、同級生たちに会いたくなかったのだ。故人に対する哀悼の念より、自身のちっぽけな自尊心を優先していた。
クズニート時代、俺は人の死をなんとも思っていなかったのだ。身内は元より、事件や事故で誰かが死んだとネットで見かけても、全く心は動かなかった。
むしろもっと死ねと思っていたほどだ。
だが、今なら分かる。
人の死は何よりも重い。
身近な人の死なら尚更だ。
だからか、生とは何か、ようやく俺は朧気ながらも実感した。
働いていない者は生きていない?
馬鹿か俺はっ、ふざけるな!
生きているというのは、ただそれだけで素晴らしいことなのだ。
掛け替えのない奇跡なのだ。
人の生を冒涜する権利は何者も有していない。
奴隷など絶対に許容してはいけない。奴隷という身分に甘んじてはいけない。
今まさに俺の腕の中で嗚咽を漏らす純真な幼女に、これ以上の苦難を強いてはいけない。
この子は俺が守るのだ。
たとえこの身を犠牲にしてでも、レオナにだけは自由で楽しい人生を送って欲しい。彼女の"本当の笑顔"を側で見られれば、俺はそれだけで満足だ。
リタ様は俺に色々なことを教えてくれた。こんなクズな俺を抱きしめてくれた。
彼女のためにも、絶対に奴隷から脱しなければならない。
もう仮初めの満足感に惑わされたりはしない。
「……ありがとうございました、リタ様」
俺は声にならない声で呟いた。
これからもリタ様のことは引きずるかもしれない。思い出して、泣いて、鬱になって、もう何もかも投げ出したくなるだろう。
でも、もう絶対に諦めない。前世のようなクズには決してならない。
たとえ五年、十年かかっても奴隷から脱してやる。
そう……人間、ハングリー精神を忘れたら終わりなのだ。
もう二度と、俺は牙の抜けたオオカミになるつもりはない。
何か切っ掛けがあれば迷わずそれを掴み取れるように、虎視眈々と機を窺い、好機を逃さずに行動できるだけの気構えを常に抱いておく。
レオナのためにも、リタ様のためにも、俺は諦めないぞ。