間話 『それでも某はやっておらぬ 起』
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石床の冷たさが臀部より這い上がる。
空気は淀んで沈滞し、微かな篝火の灯りのみが暗闇で弱々しく揺れていた。
手狭な空間には己一人だけが腰を下ろし、ただ眼前に立ちはだかる無慈悲な鋼鉄の檻を見つめ、彼は暗澹とした吐息と共に呟く。
「何故だ……」
何故、斯様な事態に陥っているのか。
己は己の信じる道を真摯に突き進み、不義を働かぬよう、誰に恥じ入ることもないよう、常に己を戒めながら責務を果たしてきた。
にも拘わらず、今この身が置かれている場所は何処なのか。
どのような者が収められるべき場所なのか。
「否、真実は必ず詳らかとなる。某はただ泰然と、臆せず恥じず、それを待っておれば良い」
彼は薄闇の中、頭を振りながら己に言い聞かせた。
今この場に座していることに甘んじている所以は主命によるものだ。
しかし、それもいずれ主命により解かれ、再び陽の下へと出ることが叶うだろう。獄中にある身としてはそう願った上で、これまで忠を捧げてきた主君と己が歩んできた道の正しさを信じる他ない。
そう思いながらも、一抹の不安を拭いきれぬ心を誤魔化すべく、彼は追憶に耽ることにした。
何故、斯様な事態に陥っているのか。
己の振る舞いは正しかったのか。
このまま座していて良いのか。
「うむ……良し、まずは状況を整理するのだ」
ユーハは檻の中で静かに瞑目し、ここ最近の出来事を振り返ってみた……。
■ ■ ■
二振りの鋼が激突し、甲高くも小気味よい金属音が青空に吸い込まれる。
二度、三度と続けて快音は鳴るが、それに紛れて小さな苦鳴も上がっていた。
「――うっ」
「如何した、ユーレン。防ぐだけでは敵を制せぬぞ」
ユーハは身体を動かしながら、己が息子へ努めて冷厳とした声を向けた。
父の言葉に応えようとしてか、怒濤の打ち込みの中に隙を見出したらしく、少年は受け身一辺倒の構えから攻勢に打って出た。教えられた通りの動きで、後の先を取ろうと刀を繰り出すが……。
その挙動は教えた側からすれば未熟が過ぎて見るに堪えず、ユーハは容赦なく息子の利き腕に刀を振り下ろした。
「――ぅあ!?」
ユーレンは苦鳴を漏らし得物を落とした。
それを見たユーハは心に鞭打って、今度はがら空きの胴体へ横凪ぎに刀身を叩き込む。
「ぐが――っ!?」
痛ましげな様子でその場に膝を突き、息子は痛苦に震え始める。
いくら修練用に刃を落としてあるとはいえ、鋼を打ち込まれる衝撃はユーハ自身も嫌と言うほど熟知している。だからこそ彼は妥協を許さず、甘えを廃して、厳格な父親として振る舞わねばならなかった。
「何をしておる、ユーレン。まだ休息を許してはおらぬ、立つのだ」
「ち、父上……もう、無理です……こんなの、い、痛すぎて……なぜ、竹刀ではいけないのですか……?」
「竹刀なぞを振るっていたところで、もはや大した修練にはならぬ。さあ、立つのだ、立って己が得物を手に取れ」
眼下で蹲る息子に、感情を殺した冷たい声を投げかける。
しかしユーレンは立ち上がろうとせず、戦意消失した状態で土下座でもするかのように頭を垂れて動かない。
「立て」
「――ぅぐっ!?」
無防備な背中に一撃入れると、息子は痛々しく呻いた後、ゆっくりと身体を起こした。
刃のない刀を構えさせて、修練を再開する。
ユーレンは幾度となく鋼鉄を打ち込まれ、苦鳴を漏らし、地に伏せるが、ユーハは容赦しなかった。
「これしきのことで男が涙を見せるでない。もう十であろう、軟弱者が」
半べそを掻く息子を見下ろしながら、決して声は荒げず、しかし厳冬の如く粛々と叱りつける。
その後もユーハは息子へと過酷な修練を施した。端から見れば虐待そのものと思われることを承知していながら、それでもユーハは無心に行っていった。
「……………………」
小一時間ほどで、息子は気絶してしまった。
ユーハは深く吐息してから、息子を抱え上げ、庭先から屋敷内へ運び出す。
板張りの廊下を歩き、妻が待っているであろう寝室へ向かう。
襖の前で声を掛けて開けさせると、息子の姿を見た妻は悲痛な表情を浮かべた。
「あぁ、そんな……あなた、なにもここまでしなくとも……痣だらけではないですか」
「事前に申したであろう、これは必要なことなのだ」
ユーハは息子を布団の上に寝かせ、妻が手当を施す様を黙して見守る。
「せめて治癒術士の方に治療させてくださいませんか」
「否、それではユーレンのためにならぬ。やるならば徹底的に厳しくするのだ、痛みを覚えれば上達も早まる」
「そんな……」
妻は土汚れのついた息子の頬を労るように拭い、哀しげに目を伏せた。
双陰暦七五五年。
大陸で盛んなエイモル教でいうところの光天歴八九〇年、橙土期第二節。
この日は一人息子ユーレンの十歳の誕生日であったため、父親たるユーハは新たな修練を開始せねばならなかった。
それが先ほどの一幕だ。
竹刀ではなく、本物に近い無刃の刀を用いて、より一層厳しく息子を鍛え上げる。無論のことユーハとて気は進まなかったが、とうの昔に全ては息子のためだと覚悟を決めていた。
今は亡きユーハの父は刀の如き男だった。
冴え冴えとした双眼、無駄なく鍛え抜かれた総身、主と仰ぐ者を己が仕手と定め、如何なる状況であろうと凄烈な一斬を為す。彼を知る者は口を揃えて鋼の如き忠孝者と讃え、事実その在り方は鋼さながらに無機質で、冷厳とした振る舞いからは人心持たぬ本物の刀剣の様であった。
ユーハは然様な男の嫡子として生を受け、彼が修め尚も磨き続けていた至技の全てを叩き込まれた。それは比喩にあらず、文字通りの意味において、徹底的に。
刀匠も斯くやという程に、己が血を分けた息子を鍛造するが如く、物心付く前から心身共に扱き上げた。心優しき母とは対照的に、父は常に厳格さを崩さず、修練の際には情け容赦なく竹刀を打ち込んでくる。齢が十と迎えると竹刀が刃を落とした刀に代わり、それがもたらす激痛は痛烈に過ぎ、ユーハは次第に父であり師である男に憎悪どころか殺意すら抱くようになった。
しかし、成人して間もなく、ふとしたことから父の本心を知った。
誰よりも息子を愛していたからこそ、強く逞しくなって欲しかったがために、冷徹な暴君を演じていたのだと理解した。実際、世間一般では惨苦伴う難事とされることだろうと、父との血も涙もない修練を思えば、ユーハには何の苦も無く成し遂げることができた。
同年代は無論のこと、相手がどれだけの年長者であろうと、凡百の武人は自身の足下にすら及ばず、十五歳にして北凛流の総本山より戦級の認定を受けた。十段階中、七段階目の位階だ。十代で認定されるのは非常に稀なことであった。
そこでようやく、父から初めて笑みを向けられ、真っ正面からこの上なく褒められたことで、ユーハは得も言われぬ満足感を覚えた。
ユーハの家系は代々、北凛島北部を治めるライギが主君の護身刀としての任を全うしてきた。歴史あるライギの国主を守護する国内最強の剣士として、二百年以上もの間、子々孫々とその役を引き継いでいる。
国内では名家中の名家、側近中の側近として知られ、ユーハの父も歴代の例に漏れず国主を護るに足る強者であり、誰からも尊敬されていた。
父が他界し、ユーハは栄誉ある護身刀の任を引き継いで久しい。
その職責と誇りを実感したとき、己を精強な男に育て上げてくれた父には感謝してもしきれなかった。実の息子に常日頃から厳しく接することの心苦しさを実感している昨今など、己を殺して息子ためにと尽力し続けた父を心底から尊敬している。
故に、ユーハはかつての父の如く振る舞わねばならなかった。
たとえ愛する息子から嫌われようと、恨まれようと、それが我が子のためになるならば己が心痛など些事だ。
しかし息子は未だしも、愛する妻はそれを理解してくれない。
「あなた、ユーレンは心優しい子なのです。この子は武人に向いていませんし、あなたほど才覚があるわけでもありません。もう少し加減してはもらえませんか」
「容赦はせぬ、この子のためにならぬからな。今は辛く苦しいだろうが、いずれその辛苦が報われる日は必ず訪れる」
「ですが……」
「どうか分かってくれ、我がスオルギ家の歴史を守るためでもあるのだ。ユーレンの代で守護の任を途切れさせてしまえば、この子は亡き父祖たちに顔向けできぬであろう」
主君の護身刀であるという在り方は、ライギの建国当初から連綿と受け継がれてきた任だ。その栄誉と誇りに自らの代で幕を引けば、息子は耐え難い自責の念に苛まれることとなり、ユーハもまた息子を一人前に育てられなかった悔恨の念を生涯にわたり抱き続けることとなる。
畢竟、誰も幸せにはならないのだ。
故にこそ、息子への修練に手心など断じて加えられない。
「……………………」
妻は、元来は穏やかな相貌に不安と不満の色を残したまま、気絶した息子の頭を労るように撫でている。
その姿から視線を切り、ユーハは開かれたままの襖から廊下に顔を出した。
「して、ロウン、何を盗み聞いておる」
「なんだ、人聞きが悪いなユーハ。おれは夫婦の会話が終わるのを待っててやったんだぞ」
非難するように睨み付けるユーハの眼差しも何のその、廊下に立つ男は事も無げに肩を竦める。
「勝手に我が屋敷に入ってくるなと何度申せば――」
「そんな堅苦しいこと言うな、この堅物が。親友なら互いの家など出入り自由だろう」
「親しき仲にも礼儀は必要なのだぞ、いい加減弁えたらどうなのだ」
などと口にするものの、十年以上も似たような応酬をしてきているため、ユーハも半ば義務的な思いで注意しているだけだ。
親友にして無礼者たるロウンは気安く肩を二度叩いてきた後、遠慮した素振りもなく寝室に入っていく。こざっぱりした風体と勝気な面構えが特徴的で、ユーハと同じく今年で三十一になるが……。
どうにも成人としての振る舞いに欠けるところがある。
「よ、チヨリ、そんな暗い顔するなって。せっかくの別嬪さんが台無しだぞ?」
「ロウン、貴方からも何か申してやってください」
「そうしてやりたいのは山々だが、もう何年も言い続けて――ってなんじゃこりゃああああああああ!?」
布団の上に横たわるユーレンを目の当たりにしてか、ロウンは品のない叫び声を上げた。
「おいユーハお前、これはちょっとやりすぎだろっ」
「これもユーレンのためである」
「だが、さすがに限度ってもんがあるだろ」
ロウンは意識のないユーレンを指差し、ユーハに詰め寄って、先ほどとは一転して低い声を静かに響かせた。下町のちんぴら程度ならば容易く引き下がるほどの迫力を醸し出しているが、ユーハにとっては然程でもない。
「骨折はしないよう気を払っている。お主も武人の端くれならば、修練の厳しさは知っていよう」
「いや、知ってはいるが……以前まではともかく、今回のは確実にやりすぎだ」
「かつて、尊敬する亡き父上も某に同様のことを為した。だが今ではそれに深く感謝しておる。端から見れば酷いことのように思うのだろうが、これは意味のある必要なことなのだ」
ユーハが小揺るぎもせずに反駁すると、ロウンは不安げなチヨリと横たわるユーレンに目を向けた。それからスオルギ家の当主に向き直り、苦々しくも哀しげな顔で小さく頭を振る。
「ユーハ、おれも一人の剣士としてお前の気持ちは分からんでもない。しかしな、お前の教育は極端なんだよ。チヨリも以前から言ってることだし、もう少しユーレンに負担が掛からないようにしろ」
「お主がユーレンのことに心を砕いてくれるのは嬉しく思うが、しかしいらぬ気遣いだ。これは我が家の問題なのだ。いくらお主でも口出しはさせぬ」
「いや、さすがにここまで悪化すれば、遠慮なく口出しするぜ。おれにはその権利があるんだ。忘れたとは言わせないぞ、ユーハ」
「……何のことだ」
やけに真剣な、睨み付けるような眼差しと共に告げられるも、ユーハは訳が分からず眉根を寄せた。すると親友は「ちょっと来い」と言ってユーハの腕を掴み、寝室を出て廊下を歩いて行く。
それから縁側まで来ると、ロウンは手を放した……と思いきや、逞しい腕を振りかぶって拳を突き出してきた。
「何をする」
重たい一撃を掌で受け止め、ユーハはいよいよもって意味不明な心境に陥り、憮然とした声を返した。
「お前、おれと約束しただろユーハッ。チヨリを悲しませるようなことはするなって!」
「……む」
ようやく得心がいって、ユーハはそれまでとは別の意味で顰め面を晒した。
ロウンはそれを見受けて拳を引き、身体ごと広々とした閑雅な庭へ顔を向けると、腕組みして言った。
「ユーハもチヨリの顔を見ただろ。お前がユーレンを扱きすぎているせいで、あんな顔してんだぞ」
「しかし、この場合は致し方あるまい。ユーレンへの修練は必要なのだ、そこは承知してもらわねばならぬ」
「修練の必要性は良い、程度の問題なんだよ。チヨリはお前の厳しさに納得してないんだろ? お前たちは夫婦で、ユーレンはその息子なんだから、相方の考えも汲んでやれよ」
「独り身の男に、夫婦の在り方を説かれたくはない」
ユーハは軽い溜息混じりに返し、隣の男と同様に腕を組んだ。
そもそもロウンの考えは異端であり、妻とは夫を支えるべき存在なのだ。
妻は家長たる夫の方針に従うもので、軽く異を唱える程度なら未だしも、最終的には慎んで夫の言を承諾するものだ。
しかし、ユーハの妻であるチヨリは未だにユーレンへの修練に反対的で、なかなか納得しようとしない。
その理由はロウンという男の存在に起因するのだと、ユーハは思っている。
昔、ユーハがチヨリを娶る際、一人の男が決闘を申し込んできた。
それがロウンだ。
ロウンは『おれが勝ったらチヨリとの婚約を破棄しろ!』などと意味不明な台詞と共に勝負を挑んできた。ユーハのスオルギ家はもとより、チヨリの実家も名のある名家であり、二人の婚姻は双方の親が取り決めたことだった。
無礼な決闘男に話を聞けば、チヨリはそのことに納得していないという。
両親には逆らえないし、元より家格ではスオルギ家の方が幾分も上であるため、彼女の方から断ることなどできない。だからロウンは幼馴染である彼女の代わりに、ユーハを説得してスオルギ家の方から婚約を破棄させたいらしいことが判明した。
ユーハとて理解できない話ではなかったが、既に何もかもが手遅れだった。
方々に両家の婚姻は報せてあったし、ユーハ自身も心を決めていた。
故に、幼馴染のために命を賭す男の心意気に免じて、普段なら絶対に受けない決闘を受け、完膚無きまでにロウンを叩きのめした。ロウンはそれなりの使い手ではあったが、十七歳当時にして北凛流でも十指に入る実力者だったユーハの敵ではなかった。
倒れたロウンはユーハに約束をさせ、留めを差すように言ったが、ユーハは元から殺す気などなかった。妻となる女の幼馴染を殺したとあってはさすがに寝覚めが悪かったのだ。
男の友情とは奇妙なもので、この一件によりユーハとロウンは友誼を結び、今に至る。
しかし、その一件でユーハは妻となる女が婚姻に乗り気ではないと知ってしまった。だから不器用な男なりのせめてもの優しさとして、彼女がユーハを夫として受け入れるまで、手を出さないようにしたのだ。
そうしたことがあったせいか、どうにも妻は諦めが悪い。
普段は楚々として気弱ともとれる言動が目立つが、芯の部分では我が強く、なかなか意見を曲げない。かつてユーハが十分すぎる優しさを見せてしまったせいか、いつか己の意見を聞き入れてくれると思っているのだろう。
「ロウン、お主ももう良い歳だろう。そろそろ妻を迎えてはどうか」
「話を逸らそうとするな、今はチヨリとユーレンのことだ」
幼少期より剣ばかりだったせいか、ユーハは弁の立つ方ではない。
下手な誤魔化しをあっさりと看破されてしまい、ロウンは更に言い募ってきた。
「ユーレンのことだけじゃない、お前最近チヨリに構ってやってるか?」
「……もう良いだろう、ロウン。某とて色々考えている、考えているのだ」
ユーハは力なく溜息を吐きながら、縁側に腰を下ろした。
「お主には分からぬだろうが、某にはスオルギ家当主としての責務があるのだ。偉大な父祖たちより受け継がれてきた想いと歴史があるのだ。誰も好きこのんで、息子を叩きのめしたりはせぬ。必要だから、仕方なくしておるのだ」
「…………」
「実の息子から怯えた目を向けられるだけでも辛いのだ。それでも某は為さねばならぬ。己の意志で為しているのだから、甘んじてこの辛苦は受け入れておる。某がユーレンに厳しくする代わりに、チヨリには十分過ぎるほど甘えさせておるし、チヨリもまた息子から甘えられて嬉しく思っておる」
そう、己と比せば妻の心痛は幾ばくもましだろう。
愛する息子から己は相当に嫌われているはずで、その反動もあって、逆に妻はこの上なく好かれている。更にユーハは常日頃から主君の護身刀という重責を担い、歴史ある名家の当主としての義務を果たさねばならない身の上にある。
「だが、それでもチヨリはチヨリで苦しんでおるだろうし、某の想いまで斟酌してくれとは申さぬ。故にロウンよ、某の友であると申すならば、お主まで某の心を挫くようなことを申してくれるな……」
「……ユーハ」
ロウンは小難しい顔で唸り、ユーハの隣に腰掛けた。
しばらく二人で庭先を見つめ、どちらも無言のまま時の流れに身を委ねる。
「……………………」
ロウンは情に篤い。
幼馴染の幸福のために命を賭けるような男だ。
チヨリとユーレンのことを慮れるように、ユーハという友のことにも心を砕ける。それはロウンの長所だが、稀に行き過ぎて今回のようなことになる。
「確かに……おれにはお前の気持ちは分からねえよ。だが想像はできる、お前ら三人の気持ちを汲んでやることはできる。おれはお前らに幸せになって欲しいんだよ、笑って日々を過して欲しいんだよ」
「その気持ちは真に有り難く思う。しかし、であればこそ、温かく見守って欲しい。某は立場上ユーレンに優しくできぬし遊んでもやれぬが、これまで通り、これからもお主はユーレンに優しく接してやって欲しい」
ユーハはそう言って、隣に座す友に頭を下げた。
息子にとって、ロウンは物心付いた頃から良く見知っている男で、その性格はユーハと対照的だ。ユーレンからすれば、ユーハが厳しい父ならロウンは優しい父であり、そう思えば己の幼少期より息子はずっと恵まれている。
「……納得したわけじゃねえが、分かった」
実に不満たらたらな態で、ロウンは微かに頷きを返した。
ユーハはそれを横目に捉えて、本当に情の篤い男だと感心しつつ、感謝と謝罪の念を抱いた。
それから二人は、ユーレンが目覚めたとチヨリが呼びに来るまで、ただ無言のまま庭を眺めていた。
■ ■ ■
ユーレンへの修練を一層厳しいものに変えて、三節ほど経った頃。
橙土期も半ばのある日、ユーハは城内の一角を占める御殿の茶室にいた。
「ユーハ、そなたの護身刀の任を解く」
「――っ!?」
主君が直々に入れてくれた茶を有り難く頂いていたが、思わず吹き出しそうになる。それでも辛うじて堪えて茶を嚥下し、雅な碗を畳に置いた。
「シュンラク様……今、なんと仰いました?」
「俺に二度言わせるつもりか、ユーハ」
体面に座す年若い主は顰め面で自らの茶を入れながら、ユーハに一睨み寄越す。
ライギの国主シュンラクは常日頃から陰気な雰囲気を醸し出している青年だ。まだ二十三と若年ながらも為政者としての意識は高く、上手く国を纏めている。が、少々神経質で気難しい性格であり、一度怒ると容赦がない。
故に、そんな男から睨まれれば大抵の家臣たちは竦み上がるものだが、ユーハは違う。
「しかし…………いえ、その、理由を窺っても、良いでしょうか」
大きく深呼吸をして、混乱する思考を抑え込むと、なんとか冷静にそう訊ねた。
するとシュンラクは自らが点てた茶を一口啜り、静かに吐息した。
「まず申しておくが、そなたに不足があるから解任するわけではない。そもそも護身刀という古臭い役職からして撤廃するのだ」
「…………」
あまりに突然のことで、ユーハはどう反応すれば良いのか分からなかった。
シュンラクが先代から国主の座を引き継ぎ、早くも五年が経つ。
その間、彼はしばしば唐突に突拍子もない政策を思いついては実行に移してきた。だが、それにはきちんと意味があり、彼なりに国を想ってのことだとユーハは良く理解している。
故に、まずは最後まで話を聞くべきだと、そう己に強く言い聞かせ、逸る心を抑えた。
「理由は色々あるが、一番はあまりに非効率だからだ。そなたという貴重な人材を俺一人が独占するのは馬鹿げている。ライギ建国当初ならいざ知らず、ここ二百年ほどは内外共に情勢は落ち着いている。襲撃や暗殺の心配など少ないし、そろそろこの因習は終わりにしたい」
「で、ですが、危険はあります。確かに情勢は安定しておりますが、御身を狙う輩が皆無ではありますまい」
「そなたを外すというだけで、無論のこと俺の護衛役は別の者たちに任せる。今度新しく黒幽衆という国主専属の私兵部隊を作るつもりだ」
「……黒幽衆」
その名は、かつて《七剣刃》と称された剣豪集団の一人であり、唯一戦乱期を生き伸びたガインが使役したとされる諜報部隊の名だ。ガインの身辺警護は元より、方々から情報を収集し、ときに裏工作をも仕掛けて主を助けたとされ、ガインはこの黒幽衆の存在があったが故に《七剣刃》で唯一、戦乱期の争乱を生き延びたとも言われている。
彼が北凛島を治めてからも黒幽衆の働きは目覚ましく、ガインという偉人を語るのに切っても切り離せない存在だ。しかし常に裏方に徹していたせいか、その実態の多くは歴史の闇に埋もれており、知る者は少ない。
「そなたも承知しているだろうが、俺は臆病者だ。人を信じられぬのよ、どうにも裏の裏まで勘ぐりたがる」
故にこその黒幽衆なのだろう。
シュンラクは情勢が安定していると言いながらも、常日頃から偏執的なまでに毒殺を警戒し、茶すら自分で入れるほどだ。酒や果実水には自ら習得した解毒の術を掛けてから飲み、食事はもちろん間食まで必ず毒味させ、ほとんど常に高位の治癒や解毒の術士を側に控えさせてもいる。
「父上が亡くなる前から……成人してからの八年間、俺は密かに人材を集めてきた。それもようやく数が揃ったのでな、この度そなたへ話しているというわけだ」
ユーハは落ち着くために、茶を一気に飲み干した。
だがあまり効果はなく、突然の報せがもたらした衝撃はなかなか抜けきらない。
「あ、あの、シュンラク様、では某は今後、その黒幽衆の一員として御身を守護してゆけば良いのですな……?」
「何を馬鹿なことを口走っている、今し方にも言っただろう。そなたは貴重な人材なのでな、俺一人の護衛に縛り付けておくのは非効率的だ」
「ですが……ですが某は、亡きリンザルト様よりシュンラク様のことを任されたのですっ」
「ユーハ、そなたの忠厚く真面目なところは嫌いではないが、これは主命だぞ。今は亡き父上と現国主である俺、どちらの命が重いと思っている」
シュンラクは双眼を細め、やや不機嫌な様相を覗かせている。
ユーハとて主君の言葉には従いたいが、しかし今回ばかりはどうにも受け入れ難い。
国主の身を護る護身刀の任は先祖代々より連綿と受け継がれてきたスオルギ家の誇りだ。それがまさか己の代で終焉を迎えるとは夢にも思っていなかった。
ユーハの父からも、シュンラクの父からも、今まさに相対している若者のことを託され、ユーハは一命に代えてでも護ると誓った。
それを突然、もう別の者に任せると言われても、納得はできない。
しかし、ユーハがそう思うと考えたが故に、シュンラクは今この場を設けたのだ。手ずから茶を入れて振る舞い、自らの考えを話して聞かせた。
その心遣いを無にするわけにはいかない……が、それでもユーハには受け入れ難かった。
「後生です、シュンラク様。どうか考え直して頂きたく存じます」
「……俺に二度言わせるつもりか、ユーハ」
「どうかお頼み申し上げます」
ユーハは額を畳に擦りつけ、懇願した。
それから室内には沈黙の静けさが漂い、奇妙な緊張感が肌を刺す。
が、ややもせず鋭い溜息によって不動は破られ、次いでシュンラクが腰を上げる気配が伝わってきた。
「ユーハ、これは既に決まったことだ。八年前から着々と準備してきたことなんだ。否応はない、受け入れてもらう。そなたの任は来節いっぱいで終わりだ、その後は兵たちの教練を受け持ってもらうことになる。北凛流天級の腕前、今後は練兵にて存分に役立ててくれ」
「シュンラク様!」
淡々とした声に顔を上げると、シュンラクは障子を開けて茶室を出て行く寸前だった。彼は僅かに振り返り、呆れたような、苛立ったような顔でユーハを見下ろし、一言。
「くどいぞ」
主君はぴしゃりと戸を閉めて退室し、あとにはユーハ只一人だけが閑雅な茶室に取り残された。