第七十三話 『ローズミーツガール』★
転移後の余光が収まらぬうちに、俺は初級光魔法〈光輝〉を行使した。本当はリュックの中に光魔石が入ってるんだが、白竜島では結局一度も使わなかった。なんだかんだで魔法の方が手軽なんだよな。
「特に何の変哲もない部屋ですね」
光魔法の灯りに浸食される暗闇然り、ひんやりとした空気然り、転移前とさほど変わらぬ石造りの部屋は面積的にも大差はない。
だが、頑丈そうな鉄扉の代わりに、上へと向かう階段があった。
「オルガ殿の様子見では誰もいないとのことであったが……念には念を入れ、注意して参ろう」
「そうね、ローズちゃんはアタシたちの後ろにいてね」
俺は転移盤から降りると、前を行くオッサン二人に続いて階段を上っていく。
事前にオルガが周辺の様子を軽く見たところ、どうにもここは墓の下だという話だった。この階段の上にはもうワンフロア地下スペースがあって、そこから更に階段を上がると外へ出られるらしい。
外は森らしく、一度空へと飛び上がって俯瞰してみたところ、周辺は背の高い木々の緑しか見られなかったそうだ。南ポンデーロ大陸中央部にあるポンディ海、その西部に大きく広がる森がカーム大森林だ。
「これは……骨壺かしら? 文字はやっぱり南ポンデーロ語みたいだけれど……」
階段を上がると、祭壇のようなものが二つあった。
一リーギスほどの厚みを有する四角い巨大な石が部屋の左右にそれぞれ鎮座しており、その上に墓碑っぽい石版と壺が置かれている。石版には何か文字が彫られているが、なんて書いてあるかは不明だ。ベルの言うとおり南ポンデーロ語なのだろうが、生憎と俺たち三人は南ポンデーロ語を扱えない。
「出口はあっちみたいですね」
なんだか侵しがたい雰囲気があって、俺たちは早々に次の階段へと目を向けた。階段の先からは光が漏れてきているが、オルガが様子見したときは真っ暗だったそうだ。
ヘルミーネ邸にもあった、壁や床に魔力を通すと地面が開くアレ――魔動扉があったようだ。魔動扉は《聖魔遺物》の技術を解明して再現できた数少ない技術の一つで、大して珍しいものではない。だが希少な素材を使用するので設置費が高く、開閉は魔力の扱いに慣れた者しかできないので、魔法院や城塞といった国家関連の重要施設や貴族あるいは富豪の邸宅などにしかないらしい。
そう考えると、ここには転移盤があるし、結構重要な場所とされているようだ。
「あ、一応こっちは閉めておきますね」
俺たちが今し方通ってきた地下へと続く階段も、オルガが来たときには閉じていたようで、今は忍法畳返しの如く床の一部が直立している。
オルガ曰く、ここ最近は誰かが踏み入った形跡はなかったとのことだが、念のため開いた扉は閉めておいた方が良いだろう。
床は全面が白い石畳だ。しかし階段近くの床の一部が黒くなっていたので、そこに手を当てて魔力を通してみた。すると微かな音を立てて直立していた床がゆっくりと傾いていき、最後にガコンと音がして収納され、地下への道が閉ざされた。
「では、参ろうか」
「ん……ちょっと待ってください」
ユーハの言葉に頷き掛けるも、気になるものを発見してしまった。
先ほどは直立していた床に隠れて見えなかったが、壁に何やら文字が刻まれているのだ。竜人語だったので、俺にも読めた。
『第二十七代獣人王トバイアス・フェレスに敬意を表する。
――第十二代竜人王ルスラーン』
なんだか色々と納得してしまった。
おそらくこの墓は愚王と呼ばれた獣人王トバイアスの墓だ。
かつて彼は人質に取られた家族のため、迷うことなく北ポンデーロ大陸から兵を引き上げさせ、領土を捨てたという。
仲間思いの竜人族がさぞ好みそうな話だ。
戦乱期は七種族がときに対立し、ときに協力して他種族と戦ったというが、歴史書にはこの時期に獣人族と竜人族が手を組んだという記述はなかった。
トバイアスは例の一件の後にクーデターで殺されたというし、歴史など長い時の中でしばしば改変される。詳細は不明だが、俺たちが白竜島から南ポンデーロ大陸まで転移できたのは、きっとトバイアスのおかげだ。
ありがとう、愚王様。
ちなみにフェレスというのは族名で、フェレス族出身の獣人王は歴代に二人いる。もう一人はカルラ・フェレスという第十代獣人王だ。現在でもフェレス族という獣人部族は残っているようなので、ここはフェレス族出身の獣人王の墓であり、ここら一帯はフェレス族の縄張りなのかもしれない。
「ローズちゃん、どうかしたの?」
俺はベルとユーハに壁の文字を読んで聞かせ、転移盤とフェレス族のことを話した。すると二人とも神妙に頷き、ベルは「へぇ」と感心したように吐息を溢す。
「なるほどねぇ、きっとローズちゃんの言うとおりよっ。やっぱり頭良いわねローズちゃんは!」
「うむ、さすがである。しかし……その通りだとするならば、この辺りにはフェレス族とやらの村落があるやもしれぬのか。無用な警戒をされては双方にとって面倒故、人里には近づかぬようにせねばな」
「そうですね、気を付けましょう。たぶん言葉は通じませんから、奴隷商の人攫いなんかに思われたら大変です」
南ポンデーロ大陸は獣人の多いけものっ子パラダイスだ。特に大陸中部から南部には国家がなく、各獣人部族が長年にわたって各地を支配している。
この大陸の獣人たちは部族に関係なく、
『戦乱期で祖先たちが獲得した南ポンデーロ大陸は獣人だけの大陸だ』
という思いが広く根付いており、縄張り意識が強いらしい。それは復興期の世界帝国時代でもあまり変わらなかったようで、ポンディ海以南は沿岸部以外、変わらず獣人ばかりの世界だったという。
これらの理由から、他大陸で生まれて死んでゆく他の獣人たちと違い、南ポンデーロ大陸の中部から南部には純血の獣人が多い。他種族あるいは他部族の血が混じっていない獣人たちにはそれだけで価値があり、これは浮遊双島という他とは隔絶した世界に住まう翼人たちにも同じ事がいえる。
だからこそ、奴隷商にとっては格好の商品となり得るそうだ。
前世のペットショップでも血統書付きの動物は高かったし、純血だとか、血が濃いというのはそれだけで価値がある。貴族社会なんかも由緒正しき血統を重んじるものだしね。
オルガの話を聞く限りだと、ここ数メト以内に人里はなさそうとのことだったが、獣人族と遭遇する可能性は高いかもしれない。
不埒な奴隷商の一味だと思われれば、最悪殺す気で襲い掛かってくるだろう。
「アタシたちはとにかく北上していくのよね? 食料とか本当に大丈夫かしら?」
「森には自然の恵みが多かろう。水はローズの魔法もある故、問題はあるまい。魔物には注意せねばならぬが……竜よりは幾分も楽であろうな」
ユーハは鬱色の薄い声でベルに答え、軽く頷いている。
ひとまず、俺たちは北上することにしている。
ここがカーム大森林のどの辺りかは不明だが、カーム大森林の北にはハウテイル獣王国という国がある。南ポンデーロ大陸北部は幾つかの国が統治していて、この獣王国という名が冠された国だけに限らず、獣人の人口比率が高いらしい。
だが人間や翼人などの他種族も普通にいて、ハウテイル獣王国の西部は海に面しているため、他大陸との国交も広く開かれている。
まずはハウテイル獣王国に入り、港町に行って、魔大陸行きの船を探すことになるな。
「では、改めて参ろうか」
ユーハは相変わらず背筋の伸びた綺麗な姿勢で、光の零れる階段へと歩き出した。
「どれだけ掛かるか分からないけれど、三人で力を合わせて頑張っていきましょうね! ねっ、ローズちゃんっ!」
「あ、はい、そうですね」
ベルは元から明るいから良いとして、なんだか珍しくユーハが張り切っているように見える。まあ、白竜島では結局オッサンの出番がなかったからな。
それに顔には出していないが、真面目な性格的に水竜から船と船員を守れなかったことを悔いてそうだ。そう思えば、ただ鬱になっているより、やる気になっている今は奇跡的にポジティブだといえる。
今後もこの調子でお願いしたいね。
そんなこんなで、俺たちは暗い地下から明るい地上へと続く階段を上っていった。
♀ ♀ ♀
転移前は真夜中だったのに、こちらは真昼だった。さんさんと降り注ぐ陽光は木々の枝葉にほとんど遮られ、心安らぐような薄光となっている。
見回す限り、周囲には木々ばかりで人気はなく、深々とした秘境を思わせるのだが……。
「デカ……」
思わず素で呟いてしまった。それほどに木の一本一本がビッグサイズで、俺はポカンと口を開けて見上げてしまう。
幹は畏敬の念すら感じるほどに太く、直径は優に五リーギスくらいありそうだ。根元から数十リーギスは幹ばかりが続き、枝や葉はかなり上の方にしか見られず、全長はどれも百リーギス級だろう。
圧倒的な大自然だ。
「北はどちらなのだろうか……?」
乱立する木々のせいで、太陽の位置がいまいち判然としない。
ユーハはそこらを行ったり来たりして、陽の位置を確かめようとしている。
「人気が全然ないわね。魔物がいる様子もないし、静かだわ」
ベルは墓の前に立ち、周囲に視線を遣って観察している。
墓を形作る墓石は白く、定期的に手入れでもされているのか、苔むしていたりはしないが、年季を感じる。造りは酷く簡素なもので、五リーギス四方の薄い台座があり、四隅に二リーギスほどの角柱が立っている。台座の中心には更に幾分か背の高い角柱が突っ立ち、南ポンデーロ語と思しき言葉で何かが彫り込まれている。
ちなみに台座の一角は地下への扉となっていて、開扉状態の今は白石の壁が直立しているようにしか見えない。
「……うーん?」
とりあえず閉めておくか。
と思ったものの、どこに魔力を通せば良いのか分からない。
どこかしらに目印みたいなものがあると思うんだが……ない。
「どうしたの、ローズちゃん」
そう訊ねてきたベルと一緒に、開閉スイッチを探していく。
別に開きっぱなしでも俺は痛くも痒くもないが、お墓なんだから閉められるのなら閉めておいた方が良いはずだ。
三分ほど子細に見回した後、ふと気が付いて中心の角柱に闇魔法を駆使して上ってみた。苔を払って見てみると、黒丸がぽつんと浮き出ているのを発見。
そこに魔力を込めてみれば、案の定、扉が地面に収まった。
「北はあちらのようだ。早速出発するとしよう」
ユーハが指差した方へと、俺たちは足を進ませることにした。
「それにしても、本当に大きな木ね。話には聞いたことがあったけれど、実際に見てみると圧倒されるわ」
ベルは歩きながら近くの木の幹(あるいは根)に触れ、驚嘆している。
間近から見上げてみると、前代未聞の幹の太さと背の高さが、夢幻か冗談事にしか思えない。そんな超弩級の大木があちこちに屹立する雄大な自然の中を、俺たちは三人でてくてくと歩いて行く。
なんか小人になった気分だな。
「この木が一本あれば、薪が凄く作れそうですね。建材としての利用価値も高そうですし」
「でも聞いたところによれば、カーム大森林の大木は伐採しちゃいけないことになってるみたいね。森に住まう獣人たちはもちろん、中部から南部に住まう全ての獣人たちが許してないみたい。勝手に切っちゃうと、獣人たちから報復されるって話よ」
「へえ……なるほど」
カーム大森林も獣人たちの土地だ。
ポンディ海以南に国家はなく、部族ごとで各地に住み別れているとはいえ、獣人たちは代々同じ地に住まう者以外が土地を荒らすことを、良しとしていないのだろう。俺だって、リュースの館周辺の静かな森がどこぞの馬の骨共に荒らされるのは許せそうにない。
「あまり草花は見当たらぬな。日が樹上で遮られておるせいだろうか……?」
「そのぶん見通しは良いし、歩きやすいわ」
「でも結局は幹が大きすぎて物陰が多いですから、魔物とかに奇襲されそうですね」
程度の差こそあれ、巨大樹は二十リーギス前後の間隔を開けて根を下ろしている。根元近くは地面がでこぼこしていて歩きづらいが、白竜島と違って下生えの草花が少ない。あるにはあるが、進行の妨げにはならない程度のものばかりだ。
きっとユーハの言うとおり、樹上で陽光のほとんどが遮られているので、地面近くはあまり育たないのだろう。
俺たちは縦一列になって、巨大樹の森を北方向へと歩く。
隊列はユーハ、俺、ベルの順で、俺は前後をオッサンたちに守られている形だ。
たまに野鳥や虫などの鳴き声が聞こえてくる以外、森は静かなものだった。羽虫も白竜島よりは少ないし、暑くも涼しくもないので、割と快適な状況で進んでいける。
ただ、魔物は普通にいた。
「うえぇぇ、気持ち悪い……」
「む……ローズ、某らの側を離れるでないぞ」
俺は思わずユーハの野袴めいた服の腰帯を掴み、幹を這う怪生物を見上げて身震いした。巨大なムカデめいた節足の魔物が太い幹を這っており、数十リーギス上から俺たち目掛けて駆け下りてきている。
全長は……七、八リーギスくらいありそうだ。
今更の話だが、どういうわけか魔物共は人を見掛けると襲いかかってくる。
戦闘中に勝ち目がないと悟って逃げ出す奴もいれば、どれだけ絶望的な戦況でも吶喊してくる奴もいて、魔物と一口にいっても実に様々だ。
しかし、多くの魔物は人を捕捉すると、攻撃を仕掛けてくる。数的な戦力差が歴然としていようが、とりあえずといった感じに襲撃をかましてくる物騒な生き物……それが魔物だ。
「いぃぃぃやぁぁぁぁっ、ぎもぢわるいぃぃぃぃ! アタシも猟兵だけどさすがにアレは無理よっ、何アレあんなのに触りたくないわぁっ!」
ベルは似非乙女らしく悲鳴を上げている。
まだ実際に見たことはないが、ベルは神那流の使い手らしいので己の手足を武器にして戦う。
アレに接近してパンチやキックを食らわせると思うと……うぇ、吐きそうだ。
「近づかれる前に倒します。――〈氷槍〉」
即製した七本の氷槍を巨大ムカデへと射出する。が、奴は無数の足を蠢かせてその悉くを回避しやがり、幹に突き刺さった氷槍の間を縫うように身体をくねらせ、尚も接近してくる。口の牙がわしわしと動く様から、俺たちを食う気満々らしいことが良く分かる。
ならばと今度は水属性特級魔法〈水縛壊〉を行使した。
触手めいた四本の流水の腕を伸ばして、巨大ムカデを掴もうとするが……本当に気色悪いほど素早い。コントロールに集中するためと高速化も兼ねて、水腕を合体させて二本に減らし、何とか捕まえる。
するとたちまち奴の全身が水で覆われ、俺は二本の水管で繋がった水球を降下させる。ムカデが水の中で暴れているが、水牢からは抜け出せず、無様かつ気持ち悪くもがいている。
俺は地上付近に下ろすと魔力を込めて、水の中に捕らわれている魔物を水圧でぐしゃりと圧死させた。透明な水に緑色の体液が混じって濁る。
こちらから十分に離れた場所で魔法を解くと、薄緑の水と死体がバシャリと地面に落ちた。
「魔法とは本当に便利なものであるな」
「凄いわローズちゃんっ、ただ倒すだけじゃなくて、ちゃんと綺麗に片付けてるし!」
二人とも俺を褒めてくれる。
うふふ、もっと褒め称えてくれても良いのよ?
ベルの指摘通り、俺はなるべく魔物の体液が飛散しないように気を遣った。
本当は投射系の〈氷槍〉なんかで刺殺しようとせず、現象地点を自由に設定できる〈風血爪〉でも使えば必中していた自信が俺にはある。
しかしその場合、分断された奴の身体から体液が大量に飛び散り、俺たちの頭上に降りかかってくるという余計な悲劇が発生する。そうした惨状を回避するため、なるべく気を遣った。
〈氷槍〉でも多少は飛び散っただろうが、あの初撃は奴の戦力を図る意味合いもあった。これで巨大ムカデの機動力が判明したし、体液は飛び散らなかったしで、万々歳だ。
「あの魔物、名前はなんでしょう? ユーハさんとベルさんは知りませんか?」
「……すまぬ、分からぬ」
「そうねぇ、アタシも知らないわね。南ポンデーロ大陸かカーム大森林の固有種かしら?」
ま、名前はともかく、俺でも楽々倒せる程度の相手だった。
……っていや、『俺でも』じゃないか。
俺は世間一般からすれば十分に強いレベルなんだ。
勘違いしちゃいけない。
あの巨大ムカデは高速射出された〈氷槍〉を全て回避してみせたし、あの大きさからして五級以上はあったはずだ。
魔大陸とカーウィ諸島という危険地帯の魔物としかろくに戦ったことがないから、やはり強弱に対する見方が狂っている。
ここ最近の日常となっていた竜との戦いのせいで、余計にだ。
「気持ち悪い魔物の脅威もなくなったし、先に進みましょう。今度はどうせなら食べられそうな魔物に出てきて欲しいわね」
「うむ、荷袋の中に少しは保存食も残っているが、二日分程度しかない。ローズよ、できる限りで良いから、食べられそうな魔物なら加減して倒して欲しい」
「はい、分かってます」
食料事情は割と深刻だ。
まだ白竜島でのサバイバルが続いているようなものなので、きちんと考えて行動しなければ命が危うい。カーム大森林は白竜島よりもマシというだけであって、決して楽な環境というわけでもないのだ。
この大自然がいつ何時、俺たちに牙を剥くとも知れないため、気は抜けない。
俺は意識を引き締めると、北を目指して歩みを再開していった。
♀ ♀ ♀
二度の小休憩を挟みつつ、三時間くらい歩いただろうか。
三節ほど前なら、そろそろ三時のおやつが欲しくなる時間帯だ。
「そういえば、風ってあまり吹いてないですよね」
「カーム大森林はあまり風が吹かないって話、どうやら本当みたいね」
ベルは俺の後ろを歩きながら、話に反応を示してくれた。
館で見た本によると、全くの無風地帯というわけではないらしいが、風が吹く日は少ないそうだ。巨大樹の森に漂う新鮮で美味しい空気は凪いでいて、先ほど微風を感じはしたが、意識していなければ分からないレベルだった。
たぶん大木が乱立しているから、枝葉の下では風が起こりにくいのだろう。
あの生い茂った林冠の上では普通に風が吹いていそうだ。
「む、魔物である」
ユーハが立ち止まり、二十リーギスほど先に立つ大木を指差した。
しかし何も見えない……と思ったら、太い幹の向こうから歩行する木が現れた。
ノーブルトレントだ。体長はおよそ四リーギス。一リーギスほどの四本の足(あるいは根)、二リーギスほどの四本の腕(あるいは枝)を持つ魔物だ。
奴はまだ俺たちに気付いていないようだった。
「とりあえず片付けましょう」
火属性下級魔法で先制攻撃をかましてやる。
〈炎流〉は火炎放射的な魔法だが、威力はさほどでもなく、初級魔法の〈火矢〉に魔力を込めた方が熱量は高い。しかし魔力を込め続ければ継続して火炎を放ち続けられるメリットがある。炎は離れれば離れるほど拡散して威力低下を起こしてしまうものの、魔力を多く込めることである程度は収束させることが可能だし、使いようによっては有用だ。
人程度なら余裕で焼死体にできるし、範囲攻撃には打って付けだ。
ノーブルトレントは硬い樹皮に覆われ、そこそこ速い移動速度で敵を追い詰め、力強い手足で蹂躙する五級魔物とされている。だが身体が木なので火には弱く、〈炎流〉で全身に満遍なく炎を浴びせてやると、たちまち火達磨になった。
俺たちに気が付いて接近してくるが、十リーギスほど進んだところで転び、炎に包まれて苦しそうに悶えている。
「なんだかローズちゃんに任せっきりで悪いわね」
「魔法で安全に狩った方が良いんですし、気にしないでください」
ベルは眉を八の字にして申し訳なさそうにしているが、このニューハーフは根が明るいので気にしなくても良い。
問題はユーハだ。なんだか先ほどから、割と精悍な顔に暗雲が立ちこめ始めているように見受けられる。
獣人王の墓からこっち、魔物には今のを含めて六回襲われたが、全て俺が駆除してきた。ユーハもベルも近接戦型なので、軽傷なら治せるから未だしも、もし致命傷なんかを負ってしまったら大変だ。
だから俺が遠距離から倒しているのだが……どうにもユーハは自分が役立たず状態だと思っているのか、少し暗い。張り切っていたようだから、余計にだ。
「さすがユーハさんですね、魔物の発見が早いです」
「うむ……しかし、肝心なところは全てローズ任せである。すまぬな、手間を掛けさせてしまい……」
「なに言ってるんですか、役割分担というやつですよ。それに前にも言いましたけど、ユーハさんがいるから、私は安心して魔法を使えているんです。私にとってユーハさんは父親みたいなものなので、ただ側にいるだけで私はとても心強いんです」
「ロ、ローズ…………かたじけない」
ユーハはなぜか感極まった声を漏らして低頭すると、鬱々とした感情を振り払うように頭を振った。それで表出していた暗雲の大半が振り払われ、鬱度20%程度に低下して落ち着く。
「ローズちゃんっ、アタシもいるわよ! アタシのことも忘れず頼りにしてくれて良いんだからねっ! それはもう母親のように甘えてくれても良いんだからねっ!」
「分かってますよ、ベルさん。でも無茶はしないでくださいね、卵を背負ってるんですから」
ベルはその立派な身体で大きなリュックを背負ってくれている。
リュックには黒竜の素材セットと卵、それに保存食とその他細々としたものが入っている。俺では背負いきれないので、荷物持ちだけで十二分に助かっている。
ノーブルトレントが燃え切るのを見届けず、俺たちは更に北へと進んでいく。
それから三十分ほど歩いた頃だろうか、ふとユーハが立ち止まった。
右斜め前方へ顔を向け、なにやら尿意を堪えているような真剣な表情でじっと先を見つめている。
なんだ、催したのなら木陰で立ちションでもしてきてくれ。
「多数の気配を感じる……ように思う」
「え?」
男は楽で良いよな、まったく……とか思っていると、意外な言葉が飛んできた。
思わずユーハの視線を辿ってみるも、ただ巨大な木が並んでいるだけで、生物の姿は確認できない。
「やや離れておるので不確かだが、なにやら荒れておる。おそらくは戦闘中か何かなのであろう。この感じからして、人と魔物のどちらもいるように思うが……ローズ、如何する?」
俺に選択権を委ねてくれるんですかい。
さて……どうしようかね。
人に遭遇すると厄介事が起こりそうだが、もし誰かが魔物に襲われていたら一大事だ。その可能性に気付いていて見捨てるというのは、なんだか気が引ける。
「ユーハさんとベルさんはどう思いますか?」
「某は、様子だけでも見に行ってみるのが良いだろうと思う。向こうには気付かれぬよう、隠れてだが」
「そうね、その人っていうのがこの森に住む獣人とは限らないし。もし言葉が通じれば、色々聞けるかもしれないわ。とりあえず、行くだけ行ってみましょう」
まあ、それが無難か。
隠れて様子見、これでいこう。
「それじゃあ、行ってみましょうか」
俺たち三人はユーハを先頭に、その多数の気配とやらの方へと移動を開始した。
北へのルートから若干東に逸れた方角へ静かに走って移動する。
俺は〈風速之理〉を使って超幼女級の速力を発揮しているが、ユーハもオッサンもまだまだ余力を残した様子で俺に合わせていた。
あっという間に二、三本の巨大樹を通り過ぎ、せいぜい五十リーギスほど走ったところで、目標と思しき集団を目視できた。大木の幹を背に一人の獣人が短剣を構え、それを包囲するように、二十匹ほどの狼っぽい魔物が取り囲んでいる。
アレは……たぶんパックファングだろうが、そっちはどうでも良い。
重要なのは追い詰めている側ではなく、追い詰められている側の獣人だ。
女の子だった。
しかもラヴィっぽい猫めいた耳と尻尾をしている。サラと同い年ほどの背格好だが、険しい表情を浮かべ、鋭い眼差しで魔物共を牽制している。
手足と腹を露出した動きやすそうな服装はどこぞの民族衣装っぽい風情を感じさせるが、ボロボロだ。猫背になって肩で息をしており、四肢や顔には無数の生傷が見られ、特に左腕は血塗れで力なく垂れ下がっている。
見るからに窮地に立たされていた。
それらを走りながら一瞬で見て取って、俺は魔力を練りながら思わず声を上げた。
「美少女を助けるのにっ」
「理由はいらぬ!」
俺は〈爆風〉を放った。
十匹以上のパックファングが鮮血をぶちまけながら派手に吹っ飛ぶが、猫耳美少女への被害を考慮して手加減していたので、殲滅するには至っていない。
しかしユーハが俺とベルを置いて先行し、目にも留まらぬ速さで接敵すると、残る魔物共を一刀のもとに次々と斬り伏せていく。もはや速すぎて刃が見えないままに、パックファング集団はあっという間に血の海に沈んだ。
「――――」
猫耳美少女は短剣を構えた格好のまま、唖然とした顔で立ち尽くしている。
強気そうなパッチリとした大きな猫目を見開き、メタルブルーの刀身を血振して納刀するユーハを見つめていた。
「ユーハさん、怪我は……ないですよね」
「うむ、某よりもそちらの女子である。随分と生傷が多いようであるが……」
「あらぁ、ボロボロじゃないの、可哀想に」
ユーハに近づき、三人で傷ついた少女と相対する。
猫耳っ子は数秒ほどで驚きの表情を引っ込め、代わりに訝しげな眼差しで俺たちを凝視してくる。未だに短剣を右手で構えたまま腰を落として背中を曲げ、如何にも警戒する猫といった様子を見せている。
「あの、大丈夫ですか?」
とりあえずエノーメ語で普通に話しかけてみるが、俺に目を向けただけで、理解不能とばかりに眉間に縦皺を刻んでいる。かと思いきや、突然少女はハッと息を呑んで、改めて俺たちを見回してきた。そしてなぜか尻尾を逆立て、可愛い猫目を釣り上げると、短剣片手にベル目掛けて突っ込んだ。
「――ッ!?」
だが途中でユーハが抜刀し、短剣を上空へ弾き飛ばした。
少女は親の敵を前にしたかのような憤怒の形相で、今度はユーハに突っ込み、猫らしくない鋭いパンチを繰り出す。
「むっ、何をするのだ、某らは敵ではない」
「■■■■■、■■■■■■■■、■■■■■! ■■■■■■■■、■■■■■■■■■!」
少女は憎悪を孕んだ声で叫んでいるが、俺たちには何を言っているのか全く分からない。しかし、がむしゃらといった体でユーハにパンチやキックを食らわせようとする姿からは、必死さが伝わってくる。
何か切羽詰まったような、命懸けの特攻のように見えた。
「止めるのだ、そなたと戦う気はないっ」
「■■■■■■■、■■■■■■■■■■!? ■■■■■■■■■■■■■■!」
ユーハは刀を片手に、もう一方の手で少女の攻撃を防ぎ、捌き、回避しているが、少女の猛攻は留まるところを知らない。
などと傍から状況の不可解さを前にどう対処しようか窮していると、ふと少女の瞳が俺に向けられた。そして、こちらへと突っ込んでくる。
「止めなさいっ、貴女! ローズちゃんは命の恩人でしょっ!?」
俺に掴みかかろうと手を伸ばしていた猫耳美少女を、ベルが捕まえた。両手で少女の両腕をがっしりと掴み、そのまま足を払って、地べたに組み伏せる。
傍から見たらオッサンが女の子を襲っているようにしか見えんな。
「■■■■■■、■■■■、■■■■■■■■■!?」
尚も暴れようとする獣っ子だが、マッチョなベルからは逃れられないようだ。
「いったい、どうしたんでしょう?」
「……うむ、某らを敵と勘違いしておるように見受けられる」
ユーハは刀を鞘に納め、短髪を振り乱す少女を気の毒そうに見下ろしている。
「アタシたち、奴隷商人だとでも思われたってことかしら?」
「きっとそうなんでしょうね。少し考えてみると、この状況なら勘違いしてもおかしくありませんし」
俺たちは助けたつもりでも、猫耳美少女からすれば違う見方ができる。
奴隷商の人攫いが魔物共を追い払い、満身創痍で弱った自分を捕まえようとしている……と考えても不思議ではない。
俺が同じ状況に置かれたら、パッツンヘアーでイエローアイパッチのオッサン剣士と逆三角マッチョなオッサン、そしてゴスロリ服幼女の三人組を信用しようとは思わない。むしろ最大限に警戒する。
「とりあえず……どうしますか? この様子だと、解放しても逃げずにまた襲いかかってきそうですけど」
なぜか猫耳美少女は俺たちを憎々しげに睨んでいる。その勢いは凄まじく、ただ相手が人攫いだというだけで、ここまでの感情を見せるとは思えない。
何か別の理由でもあるのだろうか。
もちろん心当たりは完膚無きまでに絶無だが。
「ローズよ、その女子に治癒の魔法を掛けてやってくれぬか。さすれば、某らに敵意がないことを示せよう」
「あ、そうですね」
早速、俺はベルが抑え込んでいる少女に近づき、まともに動いていない左腕に触れて、特級の治癒魔法を行使した。おそらくは一発で全快したはずで、猫耳美少女は身体の動きを止め、俺を呆然と見上げてくる。
「■■■、■■■、■■■■■? ■■■■■■……■■、■■■、■■■■■! ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」
独り言のように呟き出したかと思えば、すぐに瞳に気炎を滾らせ、先ほどまでと変わらぬ敵意をぶつけてくる。
「もぅ、いったいどういうことなのよぉ……アタシたちは貴女の敵なんかじゃないのよ?」
ベルが悲しげに言ったところで、伝わっている様子はまるでない。
言葉が通じないと不便すぎるな。
和解しようにもできない。
「まあ、ひとまずは眠らせておきましょうか? このまま抑えつけておくのもどうかと思いますし」
ユーハが悩ましげに頷き、ベルも同意を返してくれたので、俺は再び暴れる美少女の身体に触れた。
下級幻惑魔法〈誘眠撃〉を行使する。強烈な眠気を催させる魔法だが、相手に直接触れていないと効果がなく、相手の魔法力が高いと掛かりにくい。猫耳っ子は魔女ではなさそうなので魔法力は低いだろうが、念のため強めに放った。
効果はすぐに顕れて、少女の四肢から力が抜けていき、重たそうな目蓋を閉ざすまいと抗っている。だが五秒もしないうちに双眸を閉ざし、猫耳美少女はすやすやと寝息を立てて眠り始めた。
不眠に良く効きそうな魔法だが、自分には使えないし、普通に寝るより身体の疲れもとれない。
「ふぅ、眠ったようね……ってあら、寝顔は随分と可愛らしいものね」
「……あの、ベルさんの守備範囲って、何歳までなんですか?」
「守備範囲?」
「い、いえ、なんでもないです」
見たところ十歳くらいだと思うが……。
まあ、ベルは去勢してるから邪な感情を催さないはずだ。
しかし、ベルの言うとおり、あどけない寝顔は凄く可愛いな。
思わずキスしたくなっちまうよ。
先ほどの敵意に満ち満ちた形相とのギャップが激しくて萌える。
「パックファングの肉は食べられないこともない。まずは死体から肉を剥ぎ取ろう。その間、ローズはその女子の身体を綺麗にしてもらえぬか」
ユーハは辺りに散乱したパックファングの死体たちを見回し、そう言った。
既に少女の身体に傷はないが、泥やら血やらは付着していて、割と汚れている。
女の子なんだから、綺麗にしてやった方が良いだろう。
オッサンペアは食糧確保に勤しみ、俺は猫耳っ子の身体を拭いていった。