間話 『竜の逆襲』
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水平線の向こうから朝日が顔を覗かせ、海面が眩く煌めき出す。
既に見慣れてしまったその光景を甲板上から眺めつつ、ユーハは大きく伸びをした。
「今日で三日目……ローズとオルガ殿は大丈夫であろうか」
屈伸などをして寝起きの身体を解し、一人呟く。
最近は海原を漂う船上生活とはいえ、ユーハが剣を振るう機会は皆無でもない。
海鳥のように海上の空を飛ぶ魔物が襲いかかってくることや、海面下から魔物が飛び出し船上に侵入してくることはある。
「おうユーハ、おはようさん」
「うむ、おはよう。ドリバ殿、コルン殿」
船員の一人、獣人のドリバと人間のコルンが歩み寄ってきた。
二人とも黒パンや干し肉などが雑多に載った食膳を手にしている。
普段から口数の少ないコルンはユーハの挨拶に首肯で応じ、食膳を差し出して、言った。
「食うぞ」
「あー、もう腹減ったわ、ほんとに。夜番って妙になんか食いたくなるんだよな」
徹夜明けの二人は甲板上に座り込み、早々に食べ始める。
ユーハもその場に腰を下ろして、潮風の中で朝食を頂くことにする。
「ユーハ、なんだシケた面して、あの二人が心配なのか?」
ドリバはコルンの水魔法で杯に水を注いでもらっている。
ユーハも注いでもらいながら、硬く頷いた。
「……無論である、心配せぬはずがない」
「だけどよ、船上でシケた面してっと、海もシケっちまうんだぜ。まあ気持ちは分かるけど、男ならどんと構えて待ってろよ」
「しかし、ミランダとレオンは女子供。カーウィ諸島は危険、帰って来る可能性は……低い」
「おいおいコルン、お前ちっとは前向きに考えろよ」
ドリバが日焼けした顔をしかめながらも、パンにかぶりついている。
一方のコルンは特に表情を変えぬまま水を飲んでいた。
「ミランダ殿は強い。某とて信頼しておる。が、やはり心配なのだ」
「ま、子供一人抱えてるとはいえ、一級猟兵なんだろ? だったら大丈夫だろ、たぶん」
「しかし、相手は竜種。魔物とは訳が違う」
「だーからコルンッ、お前なんでそう後ろ向きなんだよ! こういうときは楽観的に考えた方が良いんだって」
正反対な性格の二人と共に、適当に雑談しながら食事を進めていく。
他の船員たちは船内のテーブルや船尾、帆柱上部の物見台で食べていたりと様々だ。魔物対策のため、常に全周を警戒し続けなければならないため、全員が揃って食事をする機会はほとんどない。
「まあ俺もさ、この辺が縄張りじゃないとはいえ、いつ竜が来るのか冷や冷やしてっけど、全然来ねえじゃん? だからたぶん大丈夫なんだって、実は竜っつっても生息数が少なかったり、あんま強くなかったりするかもしれねえだろ」
「強くないわけがない」
「かもしれねえけど、そういうことにしとけって。うだうだ心配しても仕方ねえんだしよ」
「うむ……そうであるな。ここで某がどれほど心配したところで、二人には何らの影響も及ぼせぬ。ならばどっしりと構えておった方が、良いのかもしれぬな」
ユーハは早朝の青白い空を見上げ、己に言い聞かせるように呟いた。
それを聞いて、ドリバがユーハの肩を大きく叩く。
「そーだそーだっ、その方が良いんだって。ところで今更の話、レオンちゃんって凄くね? あの年頃で竜人語話せるとか、どんだけ頭良――」
「ドリバ殿」
ユーハは傍らに置いていた愛刀を持ち、腰を上げた。
「ん? どうしたユーハ?」
「足下……否、船底より深く先……何か感じぬか。この巨大かつ潜んだ気配……嫌な予感がする」
「ドリバ、立て」
ユーハが気配に鋭いことは、これまでの魔物との遭遇戦により証明されてきている。コルンが咀嚼していたものを喉奥へと水で押し流し、素早く立ち上がった。
そのとき、海面の方から声が上がった。
「てきしゅっ、てき……敵襲っ、りゅ、竜だ!」
聞き慣れた魚人の上ずった声が響いてきて、ユーハたち三人は身構えつつ海面に目を向けた。その瞬間、足下が大きく揺れて、ユーハとドリバは思わず片膝を突いてしまう。
魔法士であるコルンはあまり身体が鍛えられていないせいか、盛大にすっころんだ。
「何事!?」
船室から体格の良い短髪の男が現れ、鋭く叫んだ。
この船――若葉号の船員たちを取り纏めるヒルベルタだ。
しかし、彼の声に誰かが応じる直前、それが盛大な水飛沫と共に現れた。
「――な!?」
ドリバが口をあんぐりと開け、ユーハも瞠目してそれを見遣った。
船体から僅か十リーギス程度の海面から、青々とした鱗で全身を鎧った巨大生物が飛び出したのだ。浮上の勢いで一瞬だけ海上に露出した大翼めいた大ヒレは片方だけでも十リーギスはある。
胴体は細身だが、それはあくまでも巨大ヒレと比較した場合であって、実際は凡百の魔物など比較にもならない巨躯を誇っているのは一目瞭然だった。長い首の先には鋭角的な頭部が見られ、炯々とした両眼と鋭利な歯列が目に付いた。
海の青と同化したような巨大生物は水飛沫が落下する間もおかぬまま、口から水を吐き出した。否、それは射出されたと表した方が適当だろう。
一筋の細い流水は口腔の奥より一直線に船体の横っ腹へと直撃した。そして僅か三秒ほどで、激流は粘土を圧し切るかの如く、船体を前後に分割してのけた。
「――っ!」
ユーハは船体が真っ二つになる直前、縁から宙へと躍り出ていた。
首から上を海面から突き出している水竜の頭部目掛けて斬りかける。
しかし即座に頭部が接近するユーハに向き直り、超高圧の水が襲いかかる。身体の正面に刃を立てることで流水を左右に散らし、その塩辛い飛沫を浴びながら尚、ユーハは遮二無二に一閃した。
水竜が呻くような低い声を漏らすが、鋭牙を僅かに斬れただけだった。更に相手は怯んでおらず、がむしゃらな頭突きによってユーハは弾き飛ばし、自らは水面下へと潜っていく。
「ユーハッ!?」
「あ、あれが水竜!? 嘘だろおいっ、船一撃かよ!?」
「ヤバいっすよ姐御ッ、なんだこれなんだ……クッソどーすんだよ!?」
「ぅわぁああぁぁああ、とにかく攻撃だ攻撃!」
「どうやって海中に攻撃すんだよ馬鹿が!」
早朝の静けさは一瞬にして反転し、船員たちの狂乱が周囲に響く。
ユーハは沈み始める船体の片割れに着地し、感覚を研ぎ澄ませて冷静に海面下の気配を追う。
「鎮まれやボケェッ! 喚くんじゃねえぞゴラァ!」
混沌とした沈みかけの船上が、ヒルベルタの一喝により一瞬だけ静まり返った。
しかし間が悪く、ユーハは直下に気配を感じると同時、足場にしていた船体の前半分が急激に揺れ、瓦解した。すぐに海面へと降り立ち、両の足が沈み込む前に水面を蹴り、闘気を駆使した走法により水没を防ぎつつ、顔を出した水竜へと斬り掛かる。
「姐御だっ、まずは姐御を逃がせ!」
「上陸用の小舟は無事だ! 姐御アレに乗ってくだせぇ!」
「オレたちが時間を稼ぎますッ!」
船体の後ろ半分にいる船員たちが怯懦混じりに勇ましく叫んでいる。
既に瓦解した前半分の船体にいたドリバとコルンの姿はなく、代わりに水竜の長い首が見られる。
ユーハは首を刈取るつもりで接近する。が、荒波に揺れる海面は不安定で、再度水竜から高圧水を射出される。それを躱し、捌き、相手の注意を引きつけることに手一杯で、なかなか攻めきれない。
「なに言ってるのアンタたちっ、まずは全員であの水竜を倒――」
「アンタは船長だ! 船長を守るのが船員の努めなんだよ!」
「船長命令が聞けないの!?」
「今だけは聞けねえぜ姐御!」
水竜が両の大ヒレで波を起こしてきた。
ユーハは安定しない足場で駆けながらそれを切り裂き、水没を防ぐが……。
「ネリオッ!?」
抵抗するヒルベルタを抱えて飛び立ち、やや離れた場所に漂う小舟に運ぼうとしていたネリオだったが、水竜の高圧水は彼の胸部を精確に撃ち抜き、墜落させた。
海面に落下したヒルベルタはすぐ側に浮かぶ小舟になんとか上がるも、ネリオの身体は力なく海面を漂うのみだ。
「うぉああぁぁぁぁぁっ、ネリオッ、アンタたち!?」
「姐御っ、今はこの場から離れてくだせぇ!」
「いま加勢するぜユーハッ!」
「ネリオの死を無駄にしねえでくれ姐御!」
若葉号の船員たちは水竜へと襲いかかっていく。
ある者は剣を手に、ある者は武器がないので船体の破片を手に、ある者は無手で雄叫びを上げる。が、敵は再び海面下へと潜り、かと思えば船員の一人を足下から噛み殺し、周囲へと高圧水を振りまく。
「う、うぅ、おわああぁぁぁ、アンタたちぃ!」
幸か不幸か、荒れる海面はヒルベルタの乗る小舟を戦域から遠ざけていく。
ユーハはそれを見てひとまず安堵しつつ、突如として出現し、船と仲間たちを壊滅させた敵へと斬りかかる。
生き残りはユーハの他にあと二人だけだ。魚人たちの姿は既になく、おそらくはユーハたちが気が付く前に粗方がやられてしまったのだろう。
水竜は再三、海中へと潜行し、また一人足下から男に食らい付いた。数本の歯が斬られているとはいえ、たった数本だ。先の一斬はほとんど意味を為しておらず、その強靱な顎門と残りの鋭牙で次々と仲間を食い殺されていく。
船旅を共にした気の良い船員たちを守ろうと、ユーハは奮闘した。
しかし、海面という地理的不利は如何ともし難く、波を起こし、高圧水を撒き散らし、海中へと逃れる水竜を相手に、彼らは守りきれなかった。
あっという間にユーハ一人だけとなり、海色の竜鱗を纏った敵は自身の独壇場でその猛威を奮い続ける。
「なんと厄介な……っ!」
思わず呻いてしまうが、不幸中の幸いが一つだけある。
水竜はユーハを強敵と見なしているのか、戦域を離れたヒルベルタを追おうしていない。まずユーハを制し、その後に海上を漂う小舟を悠々と襲撃するつもりなのだろう。
「そのようなこと……させぬ!」
水竜は数十リーギス先から高圧水を射出するも、その悉くを避けられ、捌かれ、意味を為さないことに痺れを切らしたのだろう。海面を駆け回るユーハの至近に、海中から飛び出して大波を起こし、食らい付こうと顎門を開く。
しかし、守る者のいなくなったユーハは形振り構わなくなっていた。愛刀を鞘に納め、揺れ動く足下を大きく蹴って飛び上がり、迫る水竜の鋭牙に自ら突っ込む。
そして鞘走りからの一閃を見舞った。
「――っ!?」
頭部が大きく裂けて鮮血が舞い散り、仕留めたかと思いきや、まだ生きていた。
中空での居合いは足腰に力が込められないが故に威力不足となり、竜鱗の精強さも相まって、仕留め損ねた。
もつれ合うようにして、ユーハは海中へと引き摺り込まれていく。片脚を咥え込まれてしまうが、相手も既に瀕死なのか、噛み殺そうとする力は弱々しい。そして幸いにも、先ほど切り裂いた平たい歯列のところで咥えられているため、噛みちぎられないで済んでいる。
海中にて、ユーハは頭部に幾度も蒼刃を突き刺した。竜鱗は硬質だったが、愛刀の切れ味も並ではない。
七度目の刺突でようやく水竜の身体から力が抜け、ユーハは血で濁った海水をかき分けて海面を目指す。
しかし、予想以上に引き摺り込まれていたのか、遠い。
先の状況ではろくに息を吸うこともできなかったので、既に呼吸は限界だ。それでも重荷である刀は捨てず、窒息する寸前のところでどうにか海面に顔を出せた。
貪るように息を吸い、ぼやけた視界と意識で周囲を見まわす。意外と離れてしまったのか、波打つ海面のせいもあって、海と空の青しか見えない。
「ハァ、ハァ、ハァ……ヒルベルタ殿……」
まずは小舟に乗った彼と合流すべきだ。どちらから流されてきたのか分からないが、太陽の方角からおおよその方向は絞り込めるはず。
と考えたそのとき、何の前触れもなく真後ろに気配を感じ、振り向いた。
「……な……んだ、お主……」
そして、ユーハはその場から忽然と姿を消した。




