《Bird side - 2》『霧のうわさ』
「ふん、俺の歌を聴けないなんてまったく可哀そうなやつだぜ……」
そう思いながらもヴァンブランは彼女のことが気になって仕方がなかった。彼女とはあの夜、コンサートの途中で飛び立っていった群青のブラックバードのことである。
尊敬の眼差しで見られることがあたりまえ──ヴァンブランはこれまでずっとそんな日々を送ってきた。なのに唯一、耳のきこえない彼女にだけは自分の魅力をみせつけることができない──
初めはそんな憤りからであったものの、日に日に彼女のことを考えている時間が長くなっていく自分に気付くとヴァンブランは戸惑いを隠せなかった。ふと気を許せば彼女は映像となって四六時中彼の頭の中に舞い降りてくる。こんなことはヴァンブランにとっても初めてのことだった。
彼女はあれからも時々彼の夜会に姿を現した。
(──おそらくアイツの目には俺など大勢の前で口をパクパク動かしているだけの薄汚い鳥にしか映っていないのだろうな)
そんなことを考えるとヴァンブランの気は逸った。集中できず、歌っていてもちっとも気持ちよくない。そして最後まで見届けるわけでもなく、彼女はいつも途中で何処かへ飛び去ってしまうのだ。『くそっ!』とヴァンブランは心の中で彼女を罵った。
『飛び去るくらいならいっそのこと現れなければいいじゃないか──』
そうは思えど、歌っている最中に彼女の姿をどこかで探してしまっている自分が悔しかった。そして──そう、それでも彼女の姿を見つけた時、やはり彼の心ははしゃぐのだ。いまや彼は彼女のためだけに歌っていると言っても過言ではなかった。決して届くことのない歌を。
すべてが虚しかった──
やがてアーレファンの森にはヴァンブランの声が響き渡る夜がいつしか少なくなっていった。
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「ああ、トリルか」
彼女がトリルという名で呼ばれているということを知ったのは幼なじみのワガリからの情報だった。
「最近この森にやってきたばっかりらしいんだよね。宿替えの途中で群れから離れたんじゃないかってみんな言ってるけど……ほら、彼女ってあんなだろ? うまく意志疎通できないし、何を聞いても『トリル、トリル』としか言わないし。じゃあ、ひとまずトリルって呼ぼうかってことになってさ」
ワガリがトリルのことをよく知っていることがヴァンブランには少し面白くなかった。
「ふーん、よく知ってるんだな。俺にはそんな話、一言もしなかったじゃないか」
「それは……その、つまり……」 と、ワガリは口ごもった。
「それにずいぶん楽しそうじゃないか、アイツのことを話してる時のおまえの顔?」
「そ、そんなことは……ないよ。ないんじゃないかな……」
「ははぁ、ひょっとして、ワガリ。さてはおまえ……」
ワガリは顔を赤らめ、頭を下げた。
「ヴァンブー、いや、ヴァンブラン。そうさ、おいらさ、彼女といるとさ、なんかさ……その、楽しいんだ。おいらはさ、ほら、歌もうまくないだろ。でも、でも彼女にとってはそんなこと関係ないわけじゃんか?」
その言葉はチクリとヴァンブランの胸を刺した。
「そしたらさ、おいらだって別にそんなこと気にしないで接することができるわけで……えへ、えへへ……」
ヴァンブランは目の前に黒いもやがかかるような気がした。
(──ふん、そんなことなどあるものか。彼女だって耳さえ聞こえればこんなワガリなんかより俺の方にぞっこんになるはずなんだ)
「ヴァンブー、いいじゃないか。おまえにはあんなに取り巻きだっているし、ちょっと歌えばメスなんかいくらだって寄ってくるだろ? だけど、おいらにとっちゃ、初めて気持ちが通じ合えるかもしれない、その、なんだ、友達なんだ」
ヴァンブランはその友達という言葉に嫌な響きを感じとった。
結果、この言葉が彼の心に火をつけることとなった。
「ふーん……まるで俺からこの声を奪っちまえば立場的にはおまえと一緒みたいな言い方するんだな?! ふざけるな! 俺は『特別』なんだぞ!」
そのヴァンブランのあまりの剣幕にワガリは少し驚き、押し黙った。
「……そうだよな。確かに、おまえは『特別』さ」
──ああ、そうさ。ワガリの分際で……俺が得られないものをおまえが得られるとでも思ってるのか?
ヴァンブランは朱に染まりかけた空に真っ先に輝き始めた一番星を眺めた。
『あの星の光だってそうだ。俺が手にできない光などあるものか。ワガリ、おまえは本当におめでたいやつだよ。俺たち鳥類にとっては求愛の歌こそすべてなんだ。気持ちだって? そんなくだらないものを信じきっているおまえは全くもっておめでたいヤツだよ……』
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そんな次の朝のことだった。うとうとと微睡んでいるヴァンブランの耳に思いがけない会話が偶然入り込んできた。朝露が木の葉からポタリポタリと落ちるリズムの合間合間に、高い声を押さえるようにヒソヒソと響く声が聞こえてくる。どうやらそれは朝の早い野ウサギたちの井戸端会議のようだった。
「あのねあのね、知ってる? 知ってる?」
「うん、知ってるよ、知ってるよ」
「すごいねえ」
「見てみたいよねえ」
「なになに、何の話?」
「あのねあのね、ここからずっと先に二等辺三角形の湖があるの知ってる?」
「うん、あるねあるね」
「そのほとりにね、凄い魔法使いがやってきたんだって!」
「魔法使い?」
「私のいとこも見たって言ってた。パイプからね、プーッて煙を吐いてね、そしたらそれが霧になったんだって。でね、その霧を私たちみたいにウサギの形にチョキチョキって切り取ったらね、今度はそれがピョンピョンって跳ねだしたんだって!」
「すごいね! 見てみたいね、見てみたいね」
その会話を耳にした瞬間ヴァンブランは体中に電流が走るような気持ちになって飛び起きた。
(──これだ!)
「おい! おい! ワガリ! よお! 起きろってば」
「な、なんだよぉ、ヴァンブー…… まだお日さんも昇ってないじゃないかぁ」
「お日さんもお月さんも関係あるか! 行くぞ!」
「行くって……どこにさ?」
ワガリは目を擦りながら言った。
「湖だ、二等辺三角形の湖だ」
「二等辺三角形って……バミューダの湖のことかい?」
「バミューダ? なんだかよくわかんないけど……たぶんそこだ、そこに行くんだ!」
「あんなとこ行ったってなんにもないじゃないか。何しに行くんだよ」
「何しにだって?」
──バカだな、そんなの俺の声を目に見えるようにしてもらうために決まってるだろ。
そう心の中で呟くとヴァンブランは小さな翼を広げ高く舞い上がった。