1-EX はじまりのひ
大陸間戦争の始まる少し前。『隠者』となった魔術師は魔法都市からほど離れた森の中に家を構えた。魔術師にとって森の中に家を建てるのはごくごく自然なことで、簡単な話材木がすぐ近くにあった方がなにをするにも楽だからだ。森の木の育ち方を操作して、生きたまま柱や壁、天井にするような魔術師もいる。
しかし『隠者』の場合はそんな理屈で森に来たのではない。単に喧噪を嫌って、あまり人のやってこないような地を選んだに過ぎない。これだけ周囲によい木材がありながらも、いちいち土から煉瓦を作って小屋を建てたのも、ひねくれの現れであろう。
土から煉瓦を作るのは、魔術を使えば立木から木材を作るのと同じくらい簡単だ。粘土質に近い土の方がより簡単にはなるが、『隠者』にとっては大きな違いではない。作業を始めてから昼1刻もしないうちに平屋の一軒家が森の中に出来上がる。後は井戸と内装を作れば充分だ。
井戸が引ければ簡単な畑と、近くに罠を作っておけば食事も整う。もっとも、こちらは家と違い安定するまで多少の時間が掛かる。それまでは時折町に出て、魔術を売って生活の種を手に入れていた。
しかし、それも戦争の始まる頃にはなくなり、家で魔術の研究をするか、畑や罠の様子を見に行くか、あるいは毎朝の日課としての散歩だけをするようになっていた。
町に出るのは月に1度あればいい方で、その時も衣類か研究の道具を買うくらい。他人と交流することは、その時一方的に喋る店主のうわさ話を聞き流すくらいのものだった。
そうして長い年月が過ぎ、『隠者』となる前のことは忘れられ始めていた。
それこそが我が望みよ。心の中でほくそ笑む。
*****
魔術師によくある行動として、どんな時でも習慣をやめないというものがあると言われる。
『隠者』にとってそれは朝の散歩であり、晴れの日はもちろん、雨の日でも風の強い日でも、必ず昼1刻ほどは外を歩いていた。当然魔術で身を守るので、そもそもあまり天気に気分が左右されることもない。
その日は朝露と間違うくらいの雨が降っていた。うっそうと茂る森の木の葉を揺らし、漏れ入る空の光を雨粒が乱反射させている。ぬかるみを考えなければ、そう悪い景色でもない。
雨の日は鳥たちも静かなもので、聞こえるのはどこかで鳴く虫と雨音。
だからこそ、それ以外の音に敏感になる。
どちゃり。ぬかるみの中に何かが倒れる音がした。この辺りに罠は仕掛けていない。ぬかるみで転ぶような動物はこの森では生きてはいけないだろう。『隠者』はこの音の主が外から来たものだと結論づける。それはあまり良い知らせではない。なんにしても平穏を崩すものは、いつだって外からやってくるものだ。
「う、うぅ……」
ぱちゃり。声変わりもまだのようなうめき声とともに、また水音がした。分かったことはふたつ。どうやら倒れているのは人間の子どもらしいこと。そして、このままにしておくと明日の散歩コースを変えないといけなくなることだ。散歩中に死臭を嗅ぐのは精神衛生上よろしくない。
ため息をつき、音の方へと向かう。念のため警戒はしながら。
音の方には行き倒れになったような少女がいた。うつ伏せになりながら、なんとかあごだけ上げて息をしているようだった。
「おい」
声をかけても反応がない。よくよく見てみると、体のあちこちにアザのようなものが見える。
そしてもう一つ、なにより不可解なことに気付いた。ぬかるんでいる地面に足跡がなかったのだ。
『隠者』はもう一つため息をついて、少女を杖で小突く。
「おい、起きよ」
少女はうめいて少し体を動かしたかと思うと、少し目を開けて『隠者』の方を見る。
「あ、あぅ……たすけ、て」
『隠者』に伝わらない言葉を最後にその少女はまたバタリと倒れた。『隠者』はため息をついて、少女の下に浮遊魔術の魔方陣を書いた。
*****
少女が目を覚ますと、木の家の中のハンモックにいた。体を起こそうとするとハンモックの重心が変わり、その中でコロンと半回転してしまった。その衝撃が体の傷に響く。
「っ……」
小さな悲鳴を上げると、それで『隠者』が気付いたように近づいてきた。
「起きよったか小娘」
「あ、あの……ここは。……ううん、私は、だれ?」
なんとか身をよじらせて『隠者』の方に向けて発した少女の言葉は、しかし『隠者』には伝わらなかった。
「分かる言葉を喋らんか」
少女は戸惑いながらももう一度口を開く。
「あの、ここはどこですか?」
しかし、それでも『隠者』には意味が分からなかった。
「よし分かった。復唱せよ。赤いリンゴが丸いパイに早変わり」
「赤いリンゴが丸いパイに早変わり」
少女は戸惑いながらも素直に繰り返す。『隠者』は頷いて、また別の言葉を言う。
「赤いザクロとパイを食べる」
「赤いザクロとパイを食べる」
「青いリンゴが赤く変わるのを待つ」
「青いリンゴが赤く変わるのを待つ」
少女が言い終わると『隠者』は目を瞑りながら小さく頷いていた。
「お主が何かしら意味のある言語を話しているのは分かった。おそらく、ワシの言葉が伝わっておるのも。じゃが、お主の発する言語はワシには理解不能じゃ。おそらく、他の何者にも」
理解不能、という言葉の意味が一瞬分からずにポカンとした少女は、その意味することの重大さに気付いて目を見開いた。
「私の言葉は、誰にも伝わらない……」
「その様子じゃと、騙そうとしとる訳じゃないようじゃな」
『隠者』の言葉に首をぶんぶんと横に振って答える。それを見て大きくため息をつく。
「まあ、ひとまずはそれで意思疎通するとするか。どこから来たのかは分かるか?」
少し怯えるように首を振る。
「……どうやってここまで来たかは」
また首を振る。
「…………まさかとは思うが、お主、記憶が、」
「……思い出せません」
首を振りながら答える。
『隠者』はまたため息をつく。早いところこの厄介から逃げたいが、とはいえこのまま放置しては寝覚めが悪い。どうやって足跡も残さずに森まで来たかというところも気になってはいたが、要するにこのじいさんも結構なお人好しなのだった。
「……お主、名は。それくらいは覚えておらんか?」
「名前……」
「名前と言うのか?」
少女は首をまた振って小さく「レナ」とつぶやいた。それで決して好好爺には見えない魔女は満足そうに頷いた。
「覚えておることも有るようじゃな。よしレナ、こっちへ来なさい。上手くいけば、記憶を取り戻せるじゃろう」
そうしてレナは『隠者』に連れられるがまま地下室に連れられていった。
しかし。
魔方陣から放たれる青い光が収まった所で、再度『隠者』が尋ねる。
「レナ、何か思い出したか」
しかし、レナは首を振るばかりで、終いには泣き出しそうになった。
それに『隠者』が思いのほか動揺した。
「泣くな。あー、そうじゃ」
それで、ちょうど前に開発した魔方陣を思い出した。
「よいか、生命のうちに流れる魔力には、その者の歴史が刻まれておる。つまり、お主が思い出せぬ記憶も、魔力の内には隠されておるのじゃ」
レナは期待混じりの視線を『隠者』に向けるが、首を振られる。
「しかし、その魔力を見るためには、常人相手では例えば血をもらう必要がある。深ければ深い記憶ほど、多量のな」
それでもと言わんばかりにずいと寄ってくるレナを押しとどめ、『隠者』は話を続ける。
「話は最後まで聞け。というか少しは躊躇せんか。……じゃが、魔力を開いて魔女となれば、そのような物理的手段によらずとも、魔力を直接読むことが出来るのじゃ」
レナはよく分かっていなかったが、とにかく魔女になれば記憶を取り戻せるかもしれない、ということだけは分かった。
「それじゃあ」
レナの発した言葉に応えるように『隠者』は頷く。
「レナよ、ワシの弟子となれ。魔女となった暁には、ワシがその失われた記憶を探り出す魔術を施そう」
そうして、レナは『隠者』の元で魔女見習いとなったのであった。