ゴスロリ女装退魔師が行く~傘幽霊退散録~
黒い蝶が目の前を飛んでいる。ふわりふわりと不安定に揺れながら、幻の中にぼくを誘っていく。
――あれは小学校の時だった。午前は晴れていたのに、午後は雨が降った日。天気予報になかった急な雨だったけど、残念そうな声を上げる子と、嬉しそうにはしゃぐ子がいる。残念そうな方の理由は言わずもがな。はしゃいでいる子達は、お母さんが傘を持って迎えに来てくれるからだった。
お母さんの当てがある子達は、今か今かと雨よけぎりぎりのところで待ち構えている。ぼくは横目にそわそわ嬉しそうな彼らを見てため息を吐き、慣れた手つきでランドセルの中から折りたたみ傘を取り出した。
ぼくのお母さんは忙しいから、平日の午後になんてまず来られなかった。ぼくの家では、途中で転んでずぶ濡れになって帰ってもすぐに助けてくれる人はいない。
ちっとも寂しくなかったよって言ったら、さすがに嘘になるかな。
でも、平気。だってぼくはその分、同い年の子より料理だとか洗濯だとか掃除だとか、いろいろなことが得意だったし、割烹着にアイロンだってかけられた。
門限やいくつかの家の約束事さえ守れば、大分自由に放課後遊ぶことができた。
それって結構お得な事だったと思う。
まあともかく、その日は確かあいにくの天気に加えて宿題があったし、さっさと帰ろうと思ったんだ。
折りたたみ傘の骨をポキポキ鳴らしながら順番に組み立てて、ゆっくり広げる。
ちらっと正面の校門に見張りの先生がいないことを確認してから、そっと校舎の方、昇降口じゃなくて校庭の方に向かって歩いていく。
ぼくの家に行くのには、校庭にある裏門からのルートの方が近道だったんだ。
濡れたスニーカーが足を踏む度にぴしゃぴしゃ音を立てる。結構お気に入りの奴だったのに失敗したな、今日風呂場で乾かそうか――。
そんな風に考えていたぼくは、ふと足を止めた。
校庭の隅にある柳の木の下に、誰かがぽつんと立っている。
広げた傘は、何て言ったっけ? 時代劇とか、古風な人とかが使うような――そう、蛇腹の傘。それもなんだかぼろぼろの。
もう少しよく見てみれば、その子はなんと和服――時代遅れな着物を着ていた。
普通の時のぼくだったら、気にはなるけど、なんだか不気味だから近づかなかったはず。
そう、あの時は雨が降っていて、薄暗くて。
ぼくもあの子も一人きり。
傘を差しても雨に濡れ。
だからかな、なんだか放っておけない気分になっちゃって。
くるりと振り返ったあの子は、どんな顔をしていたっけ?
雨中。しだれ柳の下。傘の内。曖昧な時刻、放課後の逢魔が時。
切りそろえられた綺麗なおかっぱ頭、濡れ羽色のつややかな髪、緋色の着物に白い帯。
そういうことは覚えているのに、肝心の顔の輪郭がぼやけて思い出せない。確かに話したはずの会話の内容も。
ひらり、ひらりと蝶が舞う。漆黒の蝶はぼくの前を通り過ぎて、空の中に吸い込まれていく。
でもね、あの子ほど綺麗な女の子を、ぼくは後にも先にも見なかったと思う。彼女は、この世の物ではないかと思うほどに――。
* * *
はっと目が覚めた。
スマートフォンのアラームから、デフォルト設定の無機質な音がもう起きろとがなりたててくる。
ふわあ、と大きくのびをして、東城はベッドから起き上がった。
サイドに置いていたスマホを操作して音を止め、ずるずると寝床から這い出してひとまず洗面台に洗顔とうがいをしにいく。
ふらふら戻ってきて窓のカーテンをさっと引くと、朝日がまぶしい。
本日も快晴なり。夏だ。そして暑い。寝ている間は切っていたクーラーをつける。
眼鏡を装着し、机の上のノートパソコンに目をやってうげっと思わず声を漏らす。昨晩動画サイトを見たまま、落ちてしまっていたらしい。スリープ状態にもならず一晩中つけっぱなしだ。
キーボードを叩いて操作をすると、ウィンウィンと不満そうな機械の音が鳴る。あまりいじめすぎると止まるかも、少し休ませておこう、と電源を落としておくことにする。
再びキッチンに向かい、冷蔵庫の中からジュースを出して紙パックからワイルドに直接飲み、食パンを二つオーブントースターへシュートする。3分。トーストは焦げる一歩手前が一番おいしいというのが東城の持論である。
幸い今は夏休み。気ままな大学生一人暮らし生活を謳歌している東城は、今日は図書館にでも行ってその後買い物をして……と予定を考えて、ふと思い当たる。
そういえば何か、夢を見ていた気がするのだけど。昔の、確か小学生ぐらいの懐かしい夢。しかしどうにも内容が判然としない。
しばらく首をひねって唸ってみたものの、トースターが焼けたチンという軽快な音に反応してたっぷりとバターを塗りつけ、手早く加熱した卵とソーセージを皿によそってワンルームまで戻ってくる頃には、夢のことなんかすっかり頭の中から消えて去ってしまっていた。
* * *
大学生の夏休みは充実している。バイトに、サークルに、そして個人の勉強や遊びにも忙しい。
今日の東城は、午後の夜からはコンビニバイトの夜勤だ。
なので午前はいつもよりややゆっくり起き出して睡眠時間を稼ぎ、のんびりと図書館で過ごしている。
読書をしているのかと言えば、真面目に勉学に臨んでいるのは30分ほど、あとはイヤフォンを装着したスマートフォンを取り出してアプリゲームにふけっていたりする。
図書館へやってくるのは自宅の電気代の節約と、運動不足を防ぐためだった。暑い夏はどうしても冷房をきかせた自宅で引きこもりがちになってしまうが、出不精は夏バテを招く。去年それで痛い目を見た。読書は嫌いではないが、バリバリ勉学に励んでいるというほどのタイプでもない。なので結局スマホを弄っている時間がたぶん一番長くなる。
時計を確認すると、荷物を片付け立ち上がる。
そろそろ移動していいだろう。近くのファストフード店で昼飯を確保しよう。今は昼のピークよりは少し外しているはず、と足早に出て行こうとした図書館前の自転車置き場で、東城はそれを目撃した。
真っ白のブラウス、ところどころ赤のフリルが入っている黒のミニスカート、足下はなんだあれはそうだニーハイとブーツだ、そしてやっぱりお前もフリルか真っ黒な傘(推定晴れ用)。
このクソ暑い中で、ゴスロリコスプレですか。一応上は半袖だし、申し訳程度に夏っぽくはあるが。
っていうか、もうちょい都心部ならともかく、一応関東圏とは言えどっちかというとほのぼのした雰囲気、要するに田舎チックな今の居住圏でゴスロリさんをお目にかかる日が来るとは思ってなかった。
透き通るような真っ白な肌が夏の日差しの下で妙にまぶしい。雰囲気に飲まれて立ち尽くしている東城の前で、自転車置き場にぽつねんと立ち尽くしていたその不審人物がゆっくりと振り返る。
瞬間。フラッシュバックと言ったか、東城の脳裏に何かの光景がよみがえった。
傘を差している彼女。
あの時は青い空の下ではなく、曇天、というかバリバリの雨天。
呼びかけると、彼女が振り返って――。
幻から現実に戻ってくると、彼は赤い目に見つめられている。
ゴスロリ少女は、東城の密かなる期待に応えるように、それはそれは愛らしいご尊顔であった。
おかっぱ頭に縦ロール(三次元縦ロール!?)だが胸の辺りまで垂らしているその髪型、妙に似合っている。くりっとした目(ただし前述の通り赤いように見える。カラコンだろうか?)、すっとしたラインの鼻、控えめに主張するピンク色の唇。
率直に申し上げて、可愛い。もうちょい過激じゃない格好してたら普通に好みかもしれない。年はいくつぐらいだろうか? 東城よりは下に見える。服装といい、二次元から飛び出してきたような美少女だ。
しかし、相手が振り返ったことでこちらにも見えた傘の下は、一面血の色で染まっていた。
「う、うわあああっ!」
思わずびびった東城春樹二十歳、よろめくように後ろに歩いて、うっかり尻餅をついた。
すると赤い目を不機嫌そうにゆがめて、彼女は唇をゆがめる。
「ハン、ダッセーの」
……聞き間違いだろうか。東城は混乱する。
だって彼の目の前にいるのは、見回してもやっぱりこの美少女一人だ。
なのに聞こえてきた声は妙に男前というか。
ちなみによく見たら傘の裏は単に赤いだけのようだった。表と裏で色が違う、そういうデザインらしい。なぜ早とちりしてビビッたのか、東城自身にも不明である。
「しゃべってんのはオレだよ、間抜け」
釣られて顔を向けると、なんかこう、この顔の美少女がしてはいけない感じのゲス顔にて、ゴスロリ少女が立っていらっしゃる。
しかもさっき振り返る前まではしとやかな雰囲気だったはずなのに、この少女、仁王立ちして傘を片手に、もう片方の腰は手に。
控えめに申し上げて、非常に男前なポーズをお取りあそばしていらっしゃる。そして思わず謎敬語を使いたくなるほどに、ものすごく、こう、かもす雰囲気が上から目線だ。
なんだ。これは一体なんなんだ。ゴスロリ少女で、ハスキーボイスで、男前なオレっ子? いやいやいや夏のジョークにしても笑えないぜ、いくらなんでも設定盛りすぎだろう――。
東城の脳は急にやってきた非日常的情報に対してすっかり混乱している。
そしてこの非日常、一般人に対して全く容赦がない。勝手に話を進めてしまう。
「あんたさあ、夢見蝶、ちゃんと受け取ったでしょ? 約束思い出してくれた? 何年も女待たせるなんてふてぇ野郎だぜ、テメーはよ、あん?」
とりあえず、なんなんだ、その夢を壊すような口調は。ゴスロリとは言え、いわゆる清楚系に近い見た目と、圧倒的柄の悪さを発揮している音声の不一致からまずなんとかしろと言いたいが、キャパオーバーゆえ気の利いた突っ込みの一つも出てきやしない。東城は尻餅ついたまま、陸に揚げられた魚のようにぱくぱくしている。
ゴスロリはますます赤い目を細めた。
「もう、不可能って距離じゃないはずだ。男の子なら、ちゃんとケジメつけて会いに行けよ、スケコマシ野郎」
高らかに鼻を鳴らしてそう結ぶと、くるりときびすを返し、自転車置き場の中をあちらの方へ歩いて行ってしまう。
東城がはっとして呼びかけようと思った頃には、どこにどう消えたのか、既に影も形も見られなくなっていた。
* * *
なんだったんだろう、昼間のあれ。
結局、呆然としている間に不審人物は取り逃すわ、優雅で余裕な昼飯タイムも逃すわ、チャリは一回チェーンが外れるわ、バイト中もなんとなく気になってぽこぽこ細かいミスして店長に怒られるわ、酔っ払いには絡まれるわ……ああなんだか思い出すだに悲しくなってきた。
あの不審人物と会ってから東城の今日は踏んだり蹴ったり、厄日としか思えない。
普段寄りつきもしない近くの神社に、こういうときだけ拝みに行こうかと考えるのは、現代日本人らしい現金さである。
ようやくシフトが終わって帰り支度をしている間、東城はどっと疲れをため息とともに吐き出す。日々の雑事が過ぎれば脳裏にやってくるのは理不尽に対する怒り。
おまけになんだあのゴスロリ、意味深な事言われたけどさっぱりわからない。
ユメミチョウ? 意味分からん。やっぱり中二か、中二のテロに見知らぬ俺を巻き込んだのか、勘弁しろし。
しかもなんだ? 待たせている女がいるだと? ねーよ喧嘩売ってんのか、こちとら高校の彼女とはすっぱりわかれてるし今はフリーだっつの。
ブツブツつぶやきながら、バイト仲間達に挨拶をしてコンビニを出て行こうとする瞬間、偶然にも入り口脇に置かれているビニール傘が目にとまる。
傘。――不思議な格好の少女と、傘。
昔、同じ事があった気がする。
あの子と二人、雨の校庭、柳の下。
「センパーイ、なんすかー?」
入り口でぼーっと突っ立っていた東城に不審を覚えたのだろう。レジの後輩から呼びかけられてしまった。
東城はなんでもないと返して慌ててコンビニを出て行く。
――きっと疲れているんだ。家に帰ったら、寝よう。
そんな風にかたく心に決めて。
* * *
黒い蝶がふわふわと飛んでいる。雨の中に、思い出の中にぼくを誘っていく。
柳の下の女の子は、雨の日になるとボロ傘を差して現れた。
ぼくは雨が前よりずっと好きになった。あの子に会えるから。
何を話したっけ? あんまり覚えてない。ただ、一緒にいられるだけで楽しかった。
あの子がぼくの言葉に耳を傾けて、目を細めて、誰も知らないあの子の時間をぼくだけが独占できるのが嬉しくかった。
でも、ぼくたちの秘密はそう長くは続かなかった。
ぼくが、引っ越す事になったから。
「これ、あげるよ」
ぼくは彼女に、修学旅行で買ってきた傘を差し出した。あの子に合いそうだと思って、自分で選んだ赤い傘。
けれど彼女はそのとき、珍しくとても渋った。
「もらえないわ。未練ができちゃうもの」
ぼくは考えた。どうしても思い出を受け取ってもらいたかったし、一人で穴あきの傘をいつまでも持っている彼女は、とても悲しく思えたから。
「だったら、貸すってことにしよう。ぼくは引っ越して遠くに行ってしまうけど、いつか必ずもう一度ここに来るよ。君に会いにもう一度来るよ」
必死に言いつのると、彼女はほわりと笑って言った。
「はるちゃんは優しいなぁ。それじゃあ、ちょいと借りておくね」
雨の中でかすむ景色。黒い蝶がぼくの前をひらひらと、赤く光る鱗粉を散らしながら飛んでいく。
――ちゃん、絶対に行くから。もう一度君に、会いに行くから。
ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本。
――やくそくよ、はるちゃん。やくそくよ。
雨の中、柳の木の下、相合い傘で器用に小指ひっかけて。
ぼくたちは、あの時確かに約束をした。
だけどあの子の名前も顔も、今は思い出せないんだ。
* * *
夜勤明けに帰ってきて爆睡して、目覚めたらもうすっかり午後になっている。アブラゼミが外でけたたましく鳴いていた。
東城は覚醒すると、すみやかにパソコンを立ち上げる。
小学校の時、親の都合で一度転校をした。
引っ越す前の母校は、今彼が一人暮らしをしているところから――自転車で、片道大体4時間。今から出て、行けない距離じゃない。
スマートフォンを起動して、サークルの同期達に連絡する。
悪いな、今日の飲み会、予定入って参加できない。埋め合わせは今度。
返事も待たずに鞄の中に必要そうなものだけ入れて、家を飛び出した。
時々スマートフォンを取り出して地図を確認する以外は、ひたすらにがしゃがしゃとおんぼろのママチャリを走らせる。
どうして忘れていたんだろう。
誰にも言わずに抱え込み続けた幼い日の記憶。
言わなかったのは、こんないかにもな怪奇現象誰にも信じてもらえないと思っていたのか、それとも彼女との秘密を自分のものだけにしておきたかったのか。
大事に大事に抱え込みすぎて、いつの間にかすっかり表に出てこなくなっていた。
あっという間にどっと汗が噴き出る。途中、自動販売機で飲料水のペットボトルを調達した。何度もタオルで乱暴に身体をぬぐい、熱中症で倒れないように水分補給を定期的に行いながら、自転車をこぐ。ペダルを踏み続ける。
夏至をとっくに越し、夏の日はだんだんと沈むのが早くなっていっている。少しずつ暑さが和らぎ、空が暗くなり、自転車のライトをつけて薄紅に染まった町の中を疾走する。
一人暮らしをしているところよりもさらに田舎の方、住宅街すらなくなって畑や何にも使用されていないような広い空き地の草むらが広がる。その中を、時折車に追い越されながら一心不乱にこぎ続ける。
やがて道はどこか見たような事があるような、懐かしい感じのする景色に変わり、彼はスマートフォンをジーパンのポケットの中に押し込んだ。速度を上げるとパーカーが生ぬるい風にはためく。いや、もう夕方だ。大分風も涼しくなってきていた。どこかでひぐらしが悲しそうに鳴いている。
荒く息を吐き出しながら、東城は一度立ち止まった。覚えのあるアスファルトの道と、石のブロックの配置。
通学路だ。ここからもう少し歩いて、少し角度の急な坂を上ったところ。
自転車を押して歩いて、坂を上る。
彼の母校はまだそこにあった。10年前と変わらない。いや、少し遊具が真新しくなっている気もする。ちょうど裏門、柵越しに広い校庭が見えている。
すると、彼が学校にようやくたどり着いた頃、夕立だろうか、急に見計らったかのようにざざっと雨が降ってくる。もちろん傘なんか持ってない。ずぶ濡れだ。
東城は自転車を塀の側、なるべく邪魔にならなそうな路肩に寄せて止め、ふらふらと雨中を一人で歩き出す。
夏休みの日暮れ時、幸いにして校庭には誰もいない。不法侵入、と頭の中を良識がよぎるが、かまっていられず裏門に手をかける。あの頃は見上げるだけだったが、今は少し弾みをつけて上ってしまえば容易に突破することが出来た。
今日も昼は爽やかな夏の晴れ日だったはずなのに、天気はいつの間にか土砂降りだ。東城は自分の目が広い校庭の中で、すうっと一本の柳に寄っていくのを感じる。
雨中。しだれ柳の下。傘の内。
逢魔が時を過ぎて辺りはすっかり夜の闇の中。けれど彼女のシルエットは不思議なことに薄暗い校庭の中でぼんやり光を帯び浮かび上がっている。
切りそろえられた綺麗なおかっぱ頭、濡れ羽色のつややかな髪、緋色の着物に白い帯。いつか見た情景。ただし傘が――傘は、ぼろぼろではなく、赤くて真新しいものだった。修学旅行のお土産は、かつて渡したそのときの姿のまま、彼女を降りしきる雨からかばっている。
しゃくり、しゃくり。たたきつけるような雨の中だが校庭のジャリを踏む音が妙に響いて聞こえる。柳に、その下で傘を差している少女に東城は引き寄せられるように近づいていく。
振り返った顔。肌がおしろいでもはたいたかのように白く、丸い目が東城を見据える。
ああそうだ。彼女はこういう顔だった。お人形さんみたいに可愛い顔。
「はるちゃん」
そしてこんな声だった。この声で、この呼び方で、話しかけられた。高くて響く、それでいてどこか浮き世離れした響きを持つ不思議な声音。
東城はじいんと胸の奥に広がっていく感覚をこらえる。ずびっと鼻が鳴った。気を抜くと、そのまま喉から何かが決壊してきてしまいそうだった。
「ようやく会いに来てくれたのね」
着物の少女は傘を差したまま、上目遣いに見上げてくる。
あの頃は同じ視線の高さだったのに、少女の時は止まったままで、東城は幾分かひょろ長くのびてしまった。
開いた口が、身体が、雨に叩かれて震えている。
「ごめん――本当ごめん。遅くなった」
ごめんなんてものではない。何しろ東城はすっかり彼女のことも、かわした約束のことも忘れていたのだ。薄情にもほどがある。それでも彼女は待っていてくれた。
ふふ、と笑い、少女は両手で持ちちょこんと肩にもたれかけさせていた傘の柄を彼の方に出してくる。
「素敵な傘、ありがとう。これで返せるわ」
雨の日にだけ出てくる傘の子に、東城は昔、修学旅行で買ってきた傘をあげた。
いや、あげたかったのだが、それは駄目だと断られた。
だから、貸すのだ、いつか必ず返してもらいにもう一度会いに来るからと方便を垂れて無理矢理彼女の手の中に押しつけた。
彼女の丸く黒い瞳が東城をじっと見つめている。
彼ははっと我に返り、後ずさった。じゃぐ、とスニーカーの動きに合わせて濡れた砂が鈍い音を立てる。
「……いやだ」
「はるちゃん」
「だって、返したら君、今度こそいなくなっちゃうんだろう」
東城は目を伏せて、震える声を絞り出す。まばたきもせずにじっと見つめてくる彼女の視線を頬の辺りに感じながら。
小学生の頃から、わかっていた。
おかしな格好、決まった条件、決まった場所にしか現れない特徴、そして何よりも近づけばわかってしまう、少し透けた足下。
彼女がこの世のものじゃないなんて、最初からこれ以上ないほどはっきりしていた。
たぶん誰かを、自分じゃない誰かを待っている、待ち続けているということも、何度か言葉を交わすうちに知った。その誰かが押しつけていったおんぼろの傘をいつまでも手放せず、雨中、濡れながら、待ち続ける。
(いつかきっと迎えに来るよ、だからここで待っていて)
きっと捨てられたその言葉を、かけられた時のまま手放せずに。
だからこそ、東城少年はそれを塗り替えてしまいたかった。本当は柳の下から、雨空の下から連れ出したかった。けれどそれは叶わないのだという。
ならばせめて、思い出を上書きしてしまいたかった。
幽霊少女は東城の言葉にゆるやかに首をふる。さらさらと動きに合わせて黒髪が揺れた。
「……そうよ。でもね、それが正しいの。あたし、ずうっとわがまま言ってたけど……それもね、今日でおしまい」
「言ってたじゃんか。待ってる人がいるって」
「そうね。……でもね、はるちゃん。それはもういいの。あたし、もういい理由ができたの」
少女が傘を差し出す。彼女の黒い瞳に魅入られるように、引き寄せられるように東城は近づき、しゃがんで傘の内に入る。
「だってあなたはちゃあんと、来てくれたもの」
ぼんやりと影の中に浮かぶ少女の笑顔がどこかまがまがしくゆがんでいるように見える。
傘の柄を、受け取る。
その瞬間、少女と重なった手から冷気が体中にすうっとしみ通る。
「あたしに行ってほしくないって言ったよね? はるちゃんは、一緒にいたいんだよね? ずっとあたしと一緒にいるって――約束、してくれるよね?」
少女の手は、透けていた。東城の大きな手は彼女と重なっているが、彼女の中にもぐりこんでしまっている。ドライアイスの煙がもくもくと立ち上る、そんな感じに似ている。寒気を感じているのは雨のせいだけではない。そう、わかりきっていても、なお。
東城が少女の言葉にうなずき、答えようとした瞬間だった。
りん、と鈴のような音が鳴り、東城は突き飛ばされるのを感じる。
ぐしゃりと鈍い音を立てて再び雨の中に投げ出される。
はっと顔を上げると校庭の中に、気がつけば彼女と自分以外の第三者がいつの間にか登場していた。
東城を傘の中からはじき出し、地面に倒れた彼の前に立つのは、真っ黒なニーハイソックスとブーツ。ぶん、と威嚇のように振り回された傘は、案外晴雨両用だったのかもしれない、水を弾いている。ただし今はまるで剣のように畳まれて少女に向かって突きつけられているから、ゴスロリ服も東城同様びしょ濡れだった。赤い瞳が奇妙に爛々と輝いている。
見間違いようもない。東城の厄日の発端だった。
「そこまでだ。それ以上は許さないぞ、怪異」
りん、と言い放つ声は、やっぱりどう見てもゴスロリの申し子と言っていいような甘く清楚で可憐な見た目からはアンバランスにハスキーである。そして口も悪いが、動き出すと動きも大分粗野だ。
そしてそれ以上に異常なのが、ゴスロリの胸の辺りの高さで彼女を囲むように浮かんでいる、光る何かの群れ――目を凝らした東城は、それが何かの札のようなものではないかと思う。
ほら、よく、アニメとか漫画とか、二次元の能力者だとで、怪しげな札を、呪文を唱えて飛ばしたりして戦うようなキャラがいるじゃないか。大抵寺の手の者か、陰陽師か、最近は忍者も選択肢に入るだろうか。とにかく、そういった感じの。
だがしかし、目の前にいるのはゴスロリである。しかも幽霊に突きつけているのは傘。せめて巫女コスプレとあのなんか紙がついててばさばさやる奴で来いと思ってしまう東城の頭がのんきなのか、パニくるあまり思考逃避が起きているのか。
「黄泉路の供に生者を選ぶな。お前の業がますます深くなってしまう」
「はるちゃんは一緒に来るって言ったわ」
あっけにとられている東城だが、幽霊少女が静かに言葉を発すると思わず彼女の方を見る。
そして、ひっと息を呑んだ。
彼女の傘は、元から彼女が持っていたおんぼろの蛇腹に戻っている。
開いている穴からぽたりぽたりと雨しずくが垂れてくるのだが、傘を通ったしずくは皆、どういうわけかどろりとした赤に染まり、少女を赤く染めていく。
彼女は今や、全身が血に染まっているように見えた。愛らしく美しかった顔も、険しくしかめられていると般若のように見える。
というか、実際に般若そのものだ。
なぜなら美しい少女の額から、二つの突起が生えだして髪を分け、頭の上に向かって伸びている。
ボロ蛇腹の下に立つのは、一人の幽鬼だった。ぎらぎらと目に強い光を宿し、攻撃的な雰囲気をゴスロリに向けている。
「いや、まだだ。この男はあんたにお供をするという事に関しては、声に出して誓ってない。口にするか、文字にするか。どっちでもない以上、彼岸のあんたにこいつを縛る強制力はない」
「では、代わりにあなたが来てくれるの? あたし、もうずっと待ちくたびれているのよ。あの人を待って、待って、待ち続けて、待ち呆けて、待ち疲れて、何度も何度もため息吐いて、指折り数えて、数えるのにも疲れて――ええ知っているわ、迎えなんて来ないこと、約束なんて嘘だったこと。それでも、まだ、諦められないの、捨てきれないの。できるぐらいならこんな姿になんかならずに済んだもの!」
元美少女は血走った目で美少女をにらみつける。その声はどこまでも美しく、そして無性に悲しかった。
待っているのよ。
少年だった東城もまた、昔その言葉に心動かされた。
ずっと待っているのよ。
濡れているその顔を、乾かしてあげたいと思った、それだけだったのに。
しかし震え上がってる東城の前、まるでかばっているかのようにも見える位置に陣取っているゴスロリ縦ロールは、少女が正体を現しても至って落ち着き払っている。
はああ、と盛大にわざとらしく大きく息を吐き、傘を持っていない方の手でがしがし頭を掻いた。
「あのね。オレだって立派な生者だよ。彼岸に片足突っ込みかけてはいるけど、だからあんたのお供にはなれない。――でも逆に言えば、あんたはお供さえいればもう、行っていい気になっているんだろう? もう、無理してそんな姿にならなくたっていい」
「無理しているわけじゃ――」
「だってあんた、奴に対する執念はもう、消えているはずだろう?」
「あたしは……」
「もう、来なくてもいいって思えたんだろう。代わりに来てくれた人がいたから」
東城は彼女が幽鬼に向かって話しかけている調子に自分のものとは異なる気配を感じる。
ゴスロリ女が自分に声をかけている時は大体馬鹿にしている感しかなかったが、幽霊相手の彼女は諭すように、それでいてどこか思いやりのような温かみのような言葉を持って接している気がするのだ。
けして、必要以上に近寄らせはしない。
けれど突き放しすぎない。
そんな、不思議な距離感。
――そして自分が話題にされている気がするのに、このときもやっぱり言葉が出てこない。情けないことに東城は、ゴスロリに任せるしかなかった。
下手に自分が鬼に声をかけてしまったら、それこそ取り返しがつかなくなるような――そんな予感が、頭の片隅にあった。
りいん、と鈴の音が鳴る。東城がはっと顔を向けると、どこからどう出現したものか、ゴスロリの足下にいつの間にやら白い猫が出現している。
「その辺にのびてたから連れてきた。ちょうどいいだろ。こいつも一人は寂しいだろうからな。……悪いがこっちにできる譲歩はこれが最後だ。ここで駄目なら、不本意ながらオレもちょっと本気出さないといけなくなるかな」
ゴスロリの周りに浮かんでいる札達が、言葉に呼応するように強く白い光を放つ。
血ぬれの鬼はじっとゴスロリを見つめている。ぽたり、ぽたりと顎から赤い液体がしたたって落ちていく。
しばらくにらみ合っていた両者だが、やがてゴスロリが、ほら、と猫を促す――促したというか脚で邪険に押しのけたというか、とにかく着物の少女の方に行けというジェスチャーをする。猫はぞんざいに扱われた事に不満を述べる様子もなく、にゃあんと鳴きながら、しゃなりしゃなりと幽鬼の方へ向かっていく。傘の内に入り、その白い毛が赤く血に染められても動じず、少女の足下に身をすり寄せた。
鬼は猫を見下ろしているが、やがてそっとしゃがみ込んだ。傘の影に顔が隠れる。白い手が伸びて、猫の頭を優しく撫でている。
東城は自分の身体から、すうっと何かが抜けていくような感覚を覚えた。気がつけば震えが止まっている。
するとゴスロリが一瞬だけこっちを振り返って、ふんと鼻を鳴らした。
「穏便に済んで良かった。交渉成立だ」
着物の少女は少し苦労したらしいが、なんとか白猫を抱きかかえることに成功したらしく、ゆっくりと立ち上がる。
不思議なことに、立ち上がった彼女の傘の内にはもう血糊は見えず、少女の頭の角も消えている。彼女は元通りの美しさのまま、穏やかな顔で猫を抱き、ゴスロリから東城の方に穏やかなまなざしを向けた。
「はるちゃん、ありがとうね。あたし、あなたの優しさにだまされて、だましてしまいたかった。でも、やっぱりずるは駄目だね」
倒れている東城に向かってかけられた声は、今まで聞いた彼女の声の調子と違っている気がした。
この世の物でないように美しかった少女は、東城少年と話すときいつも、どこか遠くから、薄い膜越しにかけられているような、ふわふわした声音で語りかけてきていた。
それが今は、しっかりと地に足ついた、現実の会話であるかのように聞こえる。
なのにそのことが、なぜかとても悲しい。
「もうこれに懲りたら、女の子に適当な約束をしちゃ、いやよ。でもあたし、あなたが半分だけでも叶えてくれて、とてもうれしかったわ」
晴れやかに笑ってから、彼女はくるりと向きを変える。
蛇腹の傘が少女の後ろ姿を隠したかと思うと、徐々に徐々に線が、輪郭が薄くなっていく。
そして奇妙なことに、彼女の姿が消え行くのと連動するように、土砂降りの雨足も弱まっていくのだ。
東城は金縛りに遭ったように動けずにいたままだったが、雨がぽつりぽつりとした強さになる頃、ようやくもがくように立ち上がった。
身じろぎの音につられてか、消えゆく幽霊を見守るだけだったゴスロリが彼の方に振り返る。だが彼女は東城の様子に肩をすくめただけで、すぐまた消えゆく傘を見守る方に戻ったらしい。
東城は転がりそうになりながらも立ち上がり、浸水しきったスニーカーでじゃりを蹴って、薄れゆく傘に手を伸ばす。
――彼女の正体を、薄々察していたのに、いざ接したら、腰を抜かして何もしゃべれなくなって、ただただ震えるだけで。自分は笑えるほどにどうしようもない弱い男だ。
それでもこのままお別れなんて、このまま終わってしまうなんて。
「ちぃちゃん――千咲!」
手を伸ばして、彼女の名前を呼んだ瞬間。
視界がゆがんで、ぐにゃりとどこかに吸い込まれていったような感じがした。
* * *
見渡してみれば、見慣れた一人暮らしのワンルームマンションだった。
東城は床に大の字になって伸びている。身体がきしんで痛い。夜勤でよっぽど疲れて寝落ちていたのだろうか、窓の外はもうすっかり真夜中の暗がりに沈んでいる。
あちゃーと頭を掻きながら、彼は伸びをして、首をかしげる。
なんだか今まで、とても奇妙な夢を見ていたような……。
とさり、と動いた拍子に地面に何かが落ちる音がする。
転がってくるそれが足に当たって見下ろせば、小さな赤い傘だった。
小さな小さな、掌サイズの修学旅行の紙細工の土産。
東城は思い出す。
昔、まだ小学生だったころ、お小遣いもほんのわずかだった。だからちゃんとした大きな傘ではなく、小さなこの掌サイズの傘を買った。
初恋の子に、引っ越す前に贈ろうと思って。
……もう十年も昔のことだ。
顔も名前もおぼろげなあの子、いつも雨の日に傘を差して立っていた。
わかれるとき、去りゆくあの子の名前を呼んで、反応するように振り返った彼女が、目を見開いてからふわりと優しく笑った。傘の影だったが、確かに彼女は笑っていた。
ありがとう。
そう、唇が動いたのを、覚えている。
拾い上げた傘のミニチュアを掌で転がしながら、東城は苦笑する。
せっかく買ったのに、結局渡せなかったんだよなあ。俺って本当に、弱虫。
ほろ苦い初恋の思い出に浸っていると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。慌てて取り出してみれば、ドタキャンしてしまったサークル仲間の飲み会の様子が送られてきている。苦笑する東城だが、同期の女子から二次会に来ないかというお誘いを見つけると、手早く参加の返信をして立ち上がった。
夏はまだ続く。彼は青春を満喫するつもりだ。
少年の日の思い出をなくさないように貴重品棚の中にしまってから、慌ただしく東城は部屋を飛び出す。
駐輪場のチャリを出そうとして、ふと顔を上げると変な奴が突っ立っているのを発見した。
真っ白のブラウス、黒フリルだらけの赤いミニスカート、まぶしい絶対領域を作り出す魅惑のニーハイ、そして裏面が赤い真っ黒な傘。そして縦ロールだ。いやしかし、縦ロールの似合う美人だ。赤いカラーコンタクトをしているようだが、ある意味とても似合っている。
ゴスロリだ。ゴスロリ女――いや少女か? 実物は初めて見たかも。
思わず立ち尽くしてしまう東城に向かって彼女は鼻を鳴らし、妙にハスキーな声で言い放つ。
「あんた、オレに会ったことある?」
しばらく硬直して、右を見て左を見て他に誰もいないことを確認してから自分が名指しされているんだと悟った。ぶんぶんと首を横に振る。こんな個性の暴力、一度会ったらいやでも覚えているに決まっている。
すると美少女はハッと鼻を鳴らす。
「オーケーオーケー、念のため確認したけどアフターケアの方も大丈夫そうだな。これに懲りたらもう二度と怪異と交わらないこった。あと女相手に適当に粉もかけるなよ。じゃーな、スケコマシ」
どう見ても東城より年下なのに、なんだこの無駄にでかい態度は。中二か、マジモンの中二って奴なのか。しかも心あたりのないことばかり黙って聞いていれば好き放題言いやがって。
そう思っている東城に背を向けて、つかつかと少女はどこかに歩いて行ってしまう。
思わず興味本位で後をつけてしまった東城だが、曲がり角から顔を出しても既に雲隠れしたかのように姿がない。狐につままれるとはこのことだろうか。
あっけにとられていた東城だが、スマートフォンが再び震えると慌てて自転車を走らせる。
何にせよ、今日の飲み会の話のネタとしては十分かもな。
彼はのんきにそんな風に考えながらペダルを踏みしめる。
夕立後のひんやりとした空気が、東城のパーカーを揺らしていった。