第一章①
王都ファーファルタウは、二十世紀初頭の九月。
ファーファルタウはユナイテッド・キングダムに属する風が吹く始まりの都である。
その中心にはベルズアッバズ宮殿がある。女王陛下の住まうベルズアッバズは巨大なベルを備えた、四つの背の高い塔に囲まれている。四つのベルが鳴るのはファーファルタウの夜の七時。それからファーファルタウの厳戒態勢。例外はあるが、基本的にその二つの場合だけだ。
ベルの音は体の底を叩く、重低音。
心を包み込むサラウンド。
思わず笑いが込み上げて来るほどの、それはそれは、摩訶不思議な響きだ。
四つの搭は東西南北に位置し、それぞれが城壁によって繋がっていた。その中を通ることで搭を行き交うことの出来る造りになっている。四つの塔の色は建材の石の色。着色はされず、そのままの石の白だった。直径はオーケストラを呼び、パーティが出来るくらい大きい。天井の高さも低くない。搭というよりはドームと呼んだ方が適切な建築かもしれない。ドームを積み上げた搭。そういう他の景色にない塔が四つ、宮殿の東西南北を取り囲んでいるのだ。
「アメリア、アメリア! ねぇ、どこにいるの!?」
四つの塔のうちの一つ、南の塔の四階、アメリアを呼ぶ、僅かにヒステリィを含んだ甲高い声が響いた。南の塔は、宮殿に仕える魔女たちの住処である。
「はぁい、シスタ、」まだ宮殿に仕えて二週間も経っていないアメリアは自分の部屋のバルコニィに布団を干していた。朝は、曇り空の多いファーファルタウでは滅多に見ることの出来ない晴天だった。「私はココにいます」
「どこ!?」アメリアのシスタである、ピチカートという美しい魔女はヒステリックに叫んでいる。「どこなの、アメリア!」
伝統的に宮殿に仕える魔女は、歳の離れた魔女とシスタと呼ばれる師弟関係を結ぶ。この伝統的なシステムによって、幼い魔女は宮殿での礼儀を覚え、魔法研究の方法を学び、そして立派な魔女へと成長していくのだ。
誰が、どの魔女を選ぶか、ということは自由だが、シスタの関係は一人一つだけ。別の魔女とシスタの関係を結ぶためには、一度シスタの関係を解消しなければならない。それはファーファルタウの結婚のシステムと一緒であり、お揃いの指輪を嵌めなければいけないことも一緒だった。
アメリアは左手の薬指に、ピチカートとお揃いの金色の指輪を嵌めていた。
九月の初めにあった入殿式、その夜のことだった。
アメリアは長い式典に疲れ果ててしまって、夕食を食べることもなくベッドの上で横になり目を瞑っていた。緊張と興奮のせいか、体は疲れているのに頭が冴えてしまって眠れなかった。ふと、アメリアの部屋をノックする音が聞こえた。目を擦り、扉を開けるとそこにはピチカートの姿があって、彼女の頬は赤く、手はワインのボトルを握っていた。一緒に飲みましょう、と言ってピチカートはアメリアの部屋に入ってきた。アメリアは戸惑った。この時はピチカートの名前も知らなかったし、ワインなんて飲んだことがなかったからだ。ピチカートはアメリアのベッドに腰掛け、隣に座るように手を招いた。アメリアはピチカートの手の動きに従い、彼女の隣に座った。ピチカートは笑顔になり、そしてワインのボトルに口を付け、ぐっと煽り、中身はそんなに減ってはいなかったけれど、アルコールを摂取してそして、アメリアを抱き寄せキスをした。アメリアにとっては初めてのキスだった。頭が真っ白になって、時間が止まったような気がした。あなたを素敵な魔女にしてみせる、とピチカートは言って、アメリアの指に金色の指輪を嵌めた。その時のアメリアはシスタのシステムのことを知らなかった。だから、素敵な魔女にしてくれるだなんて優しい人だな、それに指輪をプレゼントしてくれるなんてやっぱり宮殿は凄い、っていうぐらいの気持ちでアメリアは言ったのだ。
「ありがとうございます」
その言葉はピチカートに承諾の意味に取られてしまったようだった。シスタの関係のことを知り、彼女とシスタの関係を結んだことを知ったのは翌朝のことだった。隣室でアメリアと同じく入殿したばかりの炎の魔女のヘンリエッタが部屋に来て「あなた、本当にあのピチカート様のシスタになったの!?」と声を張り上げた。アメリアは意味が分からなかったのだけれど、質問を繰り返していくうちに大体の事情は呑み込めた。ヘンリエッタは既に宮殿のことに詳しかった。とにかく一晩のうちにアメリアがピチカートのシスタになった、ということが広まってしまったみたい。
どうしよう、ってアメリアは思った。自分はシスタの関係を結んだ気なんて、全然ない。でもその噂はすでに宮殿中に広まっているらしい。ピチカート、という魔女のことはよく知らない。すぐに眠ってしまったからだ。ピチカートは相当酔っていたみたい。だからアメリアは一人で赤ワインを飲んだ。おいしかった。一本飲んでしまった。酔わなかった。自分はどうやらお酒に強いみたいだと思って嬉しくなった。
とにかく、シスタの関係を解消するには、様々な面倒なことがあるらしい。離婚と一緒だとヘンリエッタは言った。ピチカートのことを傷つけたくないと思った。複雑な事情はヘンリエッタしか知らない。それにピチカートとのキスを思い出すとドキドキして体が熱くなった。多分、悪いことじゃないと思った。だからこのまま、ピチカートのシスタになってしまおうと思ったのだ。
ピチカートは綺麗な人だ。ピチカートはとても美人だ。王都の画家たちがこぞって彼女を描きたがるから、ベルズアッバズの城下には彼女の絵が溢れている。彼女の東洋人を思わせる黒いロングストレートは美しく、輝いている。ピチカートは風の魔女。風邪の魔女の無色透明の色素が彼女の綺麗な髪をさらに綺麗に見せているのだ。
アメリアは綺麗な人が好き。
自分が小さくて、子供みたいな顔をしているから余計、そうなんだと思う。
だから。
アメリアはピチカートのことが好き。
「どこなの、アメリア!?」
廊下の方からピチカートの叫び声とブーツの底で床を叩いて歩く、騒がしい音が聞こえてきた。
「何事ですか!?」
アメリアは大きな声を出して、バルコニィから部屋に戻り、慌てて鏡台の前に座った。黄色の肩に僅かにかかるくらいの長さの髪の毛を整える。彼女の前で乱れた格好は出来ない。彼女をヒステリックにさせてしまうからだ。ネクタイが少しだけ左に向いていただけでピチカートはアメリアの上半身を裸にして五時間ネクタイの結び方をレクチャした。そのおかげでアメリアは三種類のネクタイの結び方を覚え、常にネクタイは正面を向くようになった。
それはとても素晴らしいこと。
でもちょっと。
不自由かも、と思う時もある。
本当に、ちょっとだけ。
「ああ、アメリア、よかった」
ピチカートはアメリアの部屋の扉をノックもせずに開いた。アメリアの部屋はベッドと鏡台と小さな箪笥とレコードプレイヤと箒を置いたら何も置けないくらいに狭かった。鏡台から二歩歩くと廊下に出ることが出来るサイズだ。アメリアが丁度二歩歩いた時にピチカートはノックもせずに急に扉を開いたから、自然にアメリアはピチカートの腕の中にいた。濃厚なピチカートの匂いがアメリアの脳ミソに充満する。
「ふぁあ、ごめんなさい」
アメリアはピチカートに抱かれたまま顔を上げて言った。ピチカートは十六歳。三つしか歳が離れていないのに、アメリアに比べて彼女の容姿はかなり大人びていた。アメリアよりも頭一つ分背が高く、腰はくびれていて、スタイルがいい。同じ宮殿の魔女の制服を纏っているはずなのに、ずっと値が高価な衣装に見える。
深緑色のブレザに、純白のネクタイ、折り目の細かい灰色のロングスカートが宮殿の魔女のユニフォームである。
「ああ、よかった、私の大事な大事な、真面目なアメリアが十分前に食堂に座っていないから心配しちゃったわ」
ピチカートはアメリアの頭を撫でながら微笑む。
最初その微笑みを見たときは鳥肌が立つほどの魅力を感じて下を向いてしまうほどだったが、今ではもう慣れて、難しいことを考えなくとも微笑み返すことが出来るようになった。
それはとても素晴らしいことである。
「ごめんなさい、布団を干していたので、だって今日はとってもいいお天気なんですもの」
「いいのよ、アメリア、心配性の私がいけないんだわ」
ピチカートはアメリアから五センチ離れた。しかし離れたといってもピチカートとアメリアのどこかは必ず触れて合っていて、今の場合は太ももだった。ピチカートの太ももとアメリアの太ももとがスカートを挟み擦れていた。「大事なものは、絶対に失いたくないの」
「……過保護ではないでしょうか?」
アメリアは上目遣いで言った。ピチカートはアメリアの上目遣いが好きだと以前言っていた。
「おせっかい?」
ピチカートはアメリアの手を引き部屋を出て廊下を歩きだす。「少し干渉し過ぎ?」
「いいえ、その、」アメリアはピチカートの横に並び首を横に振って言う。「ベイビに戻ったみたいと言いますか、シスタの優しさが少し、夢のように幻想的で、苛烈な現実を目の前にしたときに、コレからの未来、苛烈な現実に遭遇することばかりだと思うんです、だから、それが迫ってきたときに、私は、大丈夫なのかどうか」
「大丈夫、考え過ぎよ、」ピチカートは歯を見せて笑う。「なんとかなるから、大抵のことは、だってアメリアは、伝説のクアドロフェニアなんだから」
クアドロフェニア。
それは四つの属性を保有する、魔女のことだ。
アメリアの髪は黄色い。
イエロは単独の属性で髪に現れる色じゃなくて、火と、水と、光と、風の四つの属性によって出現する色だった。つまりアメリアはイレギュラ中のイレギュラで、二つの属性を保有するデュアル・イレギュラ、三つの属性を保有するトリコロール・イレギュラよりもずっと珍しい、四つの属性を保有するクアドロフェニア・イレギュラ。現在、クアドロフェニアとして公式に認定されているのは、世界でただ一人、アメリアだけらしい。魔法が下手くそなアメリアが宮殿の魔女になることが出来たのはそれが理由だった。クアドロフェニア、という言葉を聞いたのは宮殿に来てからだった。しかしそんな情報を伝えられても、アメリアは戸惑うばかりだった。
あなたは伝説だと言われても、実感がない。
ピチカートに優しく教えられても、魔法が上手く編めた試しがない。
それに何より。
私は……。
「……シスタがそう言うなら、」アメリアは無理に笑顔を作った。「そうなんでしょうね、なんとかなるんでしょうね」
「私は嬉しいのよ」急にピチカートは言った。
「え?」
「アメリアのシスタになれて」
ピチカートはアメリアの黄色い髪を触った。
アメリアはふと、思う。ピチカートは自分ではなく、自分のこの珍しい、伝説の黄色い色素に触りたいだけなのではないだろうかって。しかしそんなことを思いながらも、アメリアは嬉しい。
「無理に喜ばせなくても、いいです」
凄く嬉しい。褒められることは好き。綺麗な魔女に、もっと褒められたいって思っている。欲しがりなのだ。アメリアは至って平常心な表情をしながら、犬みたいに次のご褒美を待っている。
「真実よ、」食堂は一階にある。二人は塔のフロアの中心にある螺旋階段をゆっくりと降りていく。「世の中にこんなにラッキーなことがあるんだって思ったもの」
「私をシスタに選んだのは、シスタのあなたです」
「そうね、でも、アメリアが宮殿に来なかったら、いらっしゃらなかったら、」ピチカートは大げさに手を広げ声色を風雅にして言った。「私はあなたに会うこと叶いませんでしたわ」
「それはなんていうか、」アメリアは口元に手を当て小さく笑う。「当たり前のことではありませんか?」