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プレリュード③

「ねぇ、ムウミン」

 ジェニィが明るい声で話しかけて来た。

「な、なぁに、ジェニィ、」ムウミンはジェニィのことを鬱陶しいなと思いながらも返答する。「今、だ、大事な時なんだから、あ、後にしてよね」

 閑静なチェルシの住宅街の、チェルシ・ガーデンという植物園、その中にある屋敷の一室に、ムウミンはいる。

 チェルシ・ガーデンには約五千種に及ぶ花々や薬草が植えられていた。屋敷はそれらの緑に囲まれ、外の世界から隔絶されているように音がなかった。風も吹かない。黄色い蝶がゆらゆらと泳ぐように飛んでいる。

 チェルシ・ガーデンは屋敷の所有者である、ムウミンが管理している。でも最近はほとんど緑には触っていなかった。チェルシ・ガーデンを作った緑の魔女からこの屋敷を譲り受けたときは頑張って手入れをするようにしていたが、勝手に成長する自然にムウミンは早々に根を上げてしまった。いくら手入れをしても、思い通りになってくれないのだ。ムウミンは緑を整えるために使っていた鋼の短剣を捨てて、チェルシ・ガーデンを小さな森にすることに決めた。

 風も吹かないこの場所は、太陽の光も緑によってほとんど遮られてしまう。だから屋敷の中はカーテンを開けていても火を点けなければ暗く、本も読めなかった。

 ムウミンは蝋燭を一本立てただけの暗い部屋で机に向かっていた。

 机の上には銀色の装置が並んでいる。一見して、何の装置か分からないけれど、何やら実験をしているように見える風景だ。

 装置の脇には、乾燥した爬虫類、魚類、尖った骨、グリフォンの羽根、ドラゴンの鱗、白い粉末、黒い粉末、銀色の粉末、ピンク色の花びら、紫色の液体が入ったビーカ、ワインボトル、エトセトラ。

「んふふっ、」ジェリィは愉快そうに笑う。「それは禁忌よ、また呪われちゃうわ、五年じゃ済まないかもね」

「た、焚きつけたのはジェリィじゃないのぉ、」ムウミンは口を尖らせる。「い、今更、駄目だなんて、い、言わないでよね」

「言わないわよ、私にはムウミンの気持ちがよく分かるもの、凄くよく分かる」

「狡いよね」

「そうね、私もそんな気がする」

「そ、そんな気がする、じゃなくて、ず、狡いんだよぉ」

 ジェニィは狡い。

 ムウミンにはジェニィの心が分からないのに。

 ジェニィには、ムウミンの心が全部分かるんだから。

「んふふっ、まあ、そういうシステムだから、なぜか、そういうシステムになっちゃたんだから、なんていうか、そうね、気にしない方がいいわ、んふふっ」

「お、お願いだから、ちょ、ちょっと黙っててくれる?」

 ムウミンが強く言うとジェニィは静かになった。

 静かになったところでムウミンは集中する。

 作業に没頭する。

 研究の集大成と呼ぶべき瞬間が迫って来ている。

 一度、実験は失敗して、ムウミンは宮殿の魔女によって呪いを掛けられてしまった。

 それから研究は止まっていた。

 呪いを掛けられていても、研究を続けることは可能だったけれど。

 呪いを掛けられ、魔女ではなくなったような気がして。

 全てを失ったような気がして研究を止めてしまったのだ。

 でも再びそれを始めようと思ったのは。

 彼女と出会ったから。

 彼女と出会い。

 彼女が寂しさを知って。

 彼女の寂しさをどうにかしてあげたいと強く思った。

 彼女の寂しさは、ムウミンが抱き締めてキスしても消えることはなかった。

 彼女はずっと空を見ている。

 彼女の心はここにはなく、ずっと空にある。

 だから……。

 ムウミンは一度深呼吸をして、呼吸を整えた。

 そして装置に液体を注ぎ入れる。

 レシピは頭の中にある。

 淀みなく、手を動かした。

 遅れてもいけないし、急いでもいけない。

 料理と一緒。

 料理と一緒だと思って、興奮と緊張を押さえながら作業を前に進める。

 どれほどの時間が経過しただろう。

 全ての行程が終わって。

 そして。

 ぽんっ!

 装置の中で炸裂音が小さく響いた。

 ロートを通り、装置からワインボトルに研究の成果が注がれていく。

 ワインボトルが一杯になった。ムウミンはボトルを手にし、部屋の窓を開け、チェルシ・ガーデンに微かに入り込む太陽の光に翳す。

 赤ワインの濃い紅色だった。

 これは成功かしら。

 分からない。

 飲んでみないことには。

 飲んでもらわないことには。

「……どうやって、飲んでもらおうかな」

「それが一番大変ね、んふふっ、」静かだったジェリィが笑い声を上げた。「あの人って、飲めないから」

 そのときだ。

「ただいまぁ」

 箒に跨がった彼女が屋敷の前の庭に降り立った。

 ムウミンは慌ててボトルを背中に隠して、ぎこちなく微笑んだ。「お、お帰りなさい、社長」

「どうしたの、ムウミン、」彼女はこちらに歩み寄りながら、どこか憂いを帯びた顔で言う。「機嫌がよさそうだけど」

「ううん、な、何でもないです、」ムウミンは笑顔のまま言った。「ああ、ご、ごめんなさい、夕食の準備がまだ」

「いいよ、まだ早い時間だし、お客も捕まらないから、早く帰ってきたんだ、今日も微妙だった、駄目な日だった」

 彼女は窓の横の壁に背中を預け、ジャケットのポケットの中からシガレロの箱を取り出し、揺すって、飛び出した一本を口に咥えてマッチで火を点けた。

 煙を吐き。

 そして彼女はチェルシ・ガーデンの緑に丸く縁取られた、まるで描かれたような空を見上げている。

 ムウミンはそんな彼女の綺麗な横顔をじっと眺めた。

 彼女の黒い瞳には空。

 遠い空。

 その瞳で。

 私のことを見つめて。

 私だけを見つめて。

 私はこんなに近くにいるんですから。

 なんて。

 そんな風に言えれば簡単なのにな。

 そんな勇気は、ムウミンにはない。

「何?」彼女はムウミンを見る。

 ムウミンは咄嗟に眼を逸らした。

「い、いえ」

 見つめられる準備が出来てないみたい。

 まずは、そこからなんとかしなくちゃって、思う。

「そうね、まずはそこからね、んふふふふっ」

 ジェニィが他人事みたいに耳元で笑っている。


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