プレリュード②
帝都ピッドシュレイアの港から船に乗り、ユナイテッド・キングダムに上陸してから、港町を北西方向に進むと、嫌でも視界に入るのは、一面に広がる砂漠である。その砂漠は港町を取り囲むように広がっている。すなわち王都ファーファルタウまでの迂回路はなく、王都へ行くためには誰しもがこの砂漠を通らなければならない。
砂漠は巨大だ。歩いて行けば一時間で喉が焼け、一日で死に、三日でミイラになる。だからファーファルタウまでの交通手段として、魔女のハンモック業がこの港町では伝統的に栄えていて、一種の名物にもなっている。
それ以外にも近代化の進んだ今ではワゴンに乗って砂漠を渡る、という方法がある。
その方法を整備し、巨額な利益を上げ、ファーファルタウに巨大なビルディングを建てたのがシティ・リンクという旅行会社だった。その会社のワゴンに乗るためには、ワゴンは日本の神尾重工製だが、当然のことながら料金を支払う必要がある。その料金は高額である。ワゴンの数が限られているためだ。まだこの時代、ワゴンはマイナな乗り物だ。ワゴン一台の値段は王都への移住権を買えるくらいに高額だった。
だから、金貨を持っていない貧しい民は魔女のハンモックでファーファルタウへ向かう。魔女のハンモックに乗り、渡るのも高額な料金を請求されるが、ワゴンに比べたら格段に安く済む。けれど魔女は砂塵が舞えば飛ばない、気温の高い昼間は飛ばないなど融通は利かない。ワゴンが登場しても砂漠の魔女たちは顔色一つ変えなかった。食い扶持がなくなるかもしれないのに平気な顔をしていた。ハンモックをシルクにしたらしいが、それだけだ。
とにかく、砂漠を渡る方法は二つある。
ほぼ定刻通りに出発するワゴンに乗るか。
いつ出発するかも分からない魔女のハンモックに揺られるか。
シティ・リンクの港町支社の受付カウンタに現れたのは、明らかにハンモックに揺られるような少女だった。ヒビの入った丸い眼鏡、埃にまみれた赤頭巾、泥で汚れた顔、手は炭に塗られたように黒い。身なりはさらに汚く、シルクロードを歩いてでもきたかのように様々な土地の民族衣装を重ねて着ていた。ブーツには穴が三か所空いている。どこかの軍の帽子をかぶり、少女の体重の二倍くらいはあるであろう荷物を風呂敷に包み背負っていた。
受付に座るイザベラ・ロッセリーニは高給取りである。なんの躊躇いもなく、鼻を摘まんで、
「臭い、すぐに消えろ、クズ」と罵ってから、奥に座る同僚に目でサインを送った。同僚は「嫌だわ」という視線を返した。関わりたくないという素直な顔で席を立ち、カウンタから見えない場所へ姿を消した。イザベラはドリルのような巻き髪を揺らしながら顔を前に向けた。まだ、その汚い少女は立っていた。イザベラは不審に思った。どうやら罵声が聞こえていないようだ。汚い少女は頭上の案内板を指で差しながら読んでいた。読んでどうしようというのか、こんなに汚い少女がワゴンの料金を払えるはずがない。イザベラは罵声を繰り返した。他に客はいない。
ふと、イザベラの視線と少女の視線があった。少女は「あっ」と言って、耳栓を抜いた。少女は耳栓をしていてイザベラの酷い言葉に気付かなかったのだ。イザベラはなんだか疲れが溜まった気がした、また何か、酷い言葉を浴びせようとした。その前に少女が口を開いた。歯はとても白かった。
「ファーファルタウまで、子供、一枚」
「あのね、小娘、」イザベラは語気荒く言った。「お金は? お金を持っているのかしら?」
「両替が必要ですか?」
少女は風呂敷を地面に降ろし、その中から麻袋を取り出し、カウンタに置いた。金属の触れ合う音。イザベラは麻袋の中を覗き込んだ。金貨が溢れていた。イザベラはそっと口を結んで、他のお得意様にするようにわざとらしく微笑んだ。その作り笑顔はとてもチャーミングでイザベラの私利私欲に忠実な心をよく反映していた。
「いいえ、この輝きの金貨であれば、一枚で十分です、あ、すぐに上の者をお呼びします、少しあちらでお掛けになっていてください」
「急いでいるんけど、一番早いワゴンは?」少女はカウンタに体重を掛け質問する。
「ええっと、」イザベラは浮かせた腰をもとに戻しスケジュールを確認して顔を青くして頭を下げた。「も、申し訳ありません!」
「え?」
「現在、本日のワゴンの予約は全席埋まっておりまして」
「明日は?」
「明日も、申し訳ありません、」イザベラは素早い目の動きで詳細に記載されたスケジュールを確認した。そしてさらに顔を青くする。「本日から一週間は全車両が埋まっておりまして、キャンセルも、きっと出ないかと」
ワゴンのスケジュールは王都ファーファルタウで開かれるパレードのために一杯だった。パレード目当ての世界セレブたちの予約もあるし、パレードを盛り上げるために王都へ行く音楽隊の予約も入っている。ワゴン一台の定員は六人であるが、このスケジュールによれば一台あたりに十人を詰め込む予定であるらしいことが分かる。そこに少女が入れる隙間はないだろう。
「それじゃあ、いいわ」
少女はあっさりと言って、少女は輝く金貨の入った麻袋を風呂敷にしまった。そしてそのままカウンタからすぐに離れた。
「もしかしたら、」イザベラは慌てて引き留める。金貨を大量に抱えたお客様をみすみす逃せない。「キャンセルが出るかもしれません」
イザベラは嘘を付いた。キャンセルなんて出るわけがない。イザベラは少しでも少女から金貨を頂こうと考えたのだ。例えば、支社の隣、シティ・リンクの運営するホテルのスイートルームに泊まって頂こうとか、考えたのだ。
「さっきと言ってること、」少女は強く、イザベラのことを睨んだ。「違う」
「いいえ、人数が減るかもしれませんし、明日までなら大丈夫でいらっしゃるんですよね? でしたらうちの運営するホテルに泊まって頂きまして、」イザベラは素早い動きでパンフレットを広げた。「こちらのお部屋などいかがでしょうか、最上階で、港の美しい風景を見ながら、夜にはダンス・パーティもあって、」
「でも確率は低いでしょ?」少女はイザベラの声を遮り言う。
「はい?」
「キャンセルが出る確率」
「……あ、はい、いえ、でも、どちらにしろ、」イザベラは右側の窓を見て言った。遠くに見える砂漠の上空は砂で見えない。「この砂嵐では魔女は運んでくれないでしょう、砂塵注意報が出ています、私の経験から言えば、三日四日は、砂嵐は収まらないと思います、魔女は絶対に飛びません、危険で命を落とすことが明らかに分かっているからです、いくら金貨を積んでも魔女はお客様のために飛んではくれないでしょう、ホテルでくつろぎながら、キャンセルを待つのが一番賢明な判断だと私は思います」
イザベラはニッコリと微笑んだ。
少女もその考えに納得したように少し微笑んだ。イザベラは心の中で拳を握り持ち上げた。
しかし少女は風呂敷を担いだ。
「出来ればさ、私もホテルに泊まってのんびりしたいんだ、でも明日までには砂漠の向こう側に行きたいから、ううん、行かなくちゃいけないの」
「行かなくちゃって、でも、方法はありませんよ、何もない」
「何か、あるでしょ、きっと」
「何もありませんって言ってるじゃないですか」
「急がなくちゃいけないから」
少女はそう言い残し、砂埃の舞う建物の外へ出た。
イザベラは頬杖を付き、息を吐く。
「そんなに急いでどうすんだよぉ」