彼の世界の卵の彼の
時間を移動できる存在が居た。
彼は時間を移動する。
彼に現在はない。
彼に未来はない。
彼に過去はない。
気が付けば、彼は時間を移動することを止めていた。
寂しかったからだ。
彼に時間を共にする者は居なかった。
彼は思う。
人の関わりがあるからこそ、時間を超える理由ができるのではないか、と。
時間を超えて変えたいものができるのではないか。
彼は思い出す。
初めて時間を超えたのは、母の為だった。
彼の母は死んだ。
病死だ。
それは、彼の初めに居た世界では治療可能な病気だった。
しかし早期発見の時に限った。
母は手遅れだったのだ。
彼は時間を超えた。
まだ治療可能な母の子供の頃へ。
母の病気は治った。
彼は笑顔になった。
彼は元の世界に戻った。
……母は居なかった。
違う。
母は居たが、母ではない。
彼の母は違う父と結婚し、彼とは違う子供を産んでいた。
母の笑顔は彼に向くことはない。
彼は何が起こっているのか理解出来た。
しかし納得出来るはずがない。
彼は震える声で母を呼んだ。
母が彼を見た。
赤の他人を見る目だ。
彼は霧消に悲しくなった。
しかし、彼は思う。
母に触れたい。
恐る恐る近づき、手を伸ばすが、母は気色悪いものを見る目で彼を罵倒した。
彼の手が止まる。
そして彼は身をひるがえし、何処かへ走り出した。
彼が気が付くと、そこは知らない場所だった。
近くの家が爆発した。
どうやら爆弾が落ちたようだ。
空を見上げると、古めかしい飛行機が飛んでいる。
その飛行機の腹からは、ぽろぽろと糞のような黒い物体が落ちていた。
糞のような黒い物体が落ちると、爆発した。
これは空襲だ。
どうも彼は戦争の時代へと飛んだようだ。
彼は逃げるように他の時代へと飛んだ。
彼は時間を超える。
何度も何度も時間を超える。
但し、それは孤独な時間旅行。
たった独りの時間旅行。
そして今に至る。
彼が時間を超えず暮らし始めた時代は西暦にして2000年。
ちょっと住み易く、ちょっと住み難い時代だ。
彼は此処で骨を埋めようと思った。
何よりも人との繋がりが欲しかった。
彼と人の繋がりは、母から拒絶されて以降、何もない。
そんな、ある時。
彼は恋をした。
花屋の娘だ。
これが恋でなければ、人生は世界が滅んでいい程につまらないものだろう。
それほどまでに彼は彼女に恋をした。
彼女も彼に恋をした。
彼はガラス細工を扱うように、繊細に彼女を労わる。
そして彼女が望むのならば強く抱きしめる。
彼女の匂いが彼の鼻を燻らせる。
彼女の柔らかさが彼の体を包み込む。
母に拒絶された時に失ったもの。
彼はやっと幸せを取り戻せた、と思った。
思えば時間旅行もただ面白味のないものだ、と彼は思いなおす。
珍事を目にすることもあった。
歴史的瞬間を目撃したこともあった。
未来では遺跡と成り果てる街へも訪れた。
歴史の授業で教えられたものは粗方見潰したことだろう。
たまに間違ったものがあったが、それらは時を経て変化するのもまた歴史である。
いろいろと発見があった。
そういえば、すべての時代に共通したことに気付くことがあった。
神についてだ。
人々が考える神はいつだって人の形をした男性だった。
女でないことに彼は苦笑する。
そして、神は全ての時間を見ているらしい。
つまり時間という概念に縛られていないそうだ。
彼はこの話を聞いた時、自分の力は神から与えられたものだと思った。
彼は自分が神だとは錯覚しない。
もし彼が神ならば、母から拒絶されることがないからだ。
神はそんなヘマはしない。
むしろ彼は時間を超える力を与えた神を呪った。
母から優しくされて死別するのではなく、母から嫌われて生き別れになったのだから。
しかし、そのようなことは彼にはもうどうでもよい。
彼には彼女が居る。
花の匂いを携えた彼女だ。
彼は幸せだった。
幸せ色に虹色を重ねた、絶頂の幸福色だった。
だが、
彼は時間を超えるが、予測が出来るわけではない。
もし予測というのなら、ちょっと未来に行って見てこなければならない。
ただし、毎回毎回何が起こるのか未来に見に行く程つまらない人生はなく、なによりも面倒臭い。
だから彼は予測は出来ない。
たとえ彼女が殺されることでも、だ。
事件は昼下がり、昼寝するにはいい時間に起きた。
―――っ
無音に近い音。
耳を澄ませば、肌を破り、血管を切り、肉の中を蹂躙し前進する音が聴こえたかもしれない。
彼は彼女が倒れるのを見た。
繋いだその手が力なく離れる。
彼は慌ててその手を握り直そうとするが間に合わない。
倒れた彼女の服に紅い染みが出来ていた。
丁度、心臓の上だろう。
染みは広がり、服だけでは吸収しきれない分はアスファルトの地面に流れる。
血だった。
彼はその広がることを止めない液体は血であることを知った。
鉄の臭いがした。
花の匂いはもうしない。
花は枯れていた。
笑い声。
なんとも聞きなれたようで、初めて聞く声。
不快な声だ。
声の主は男だった。
彼は男の顔を見ようとする。
だが、なぜかその顔に黒いベールがかかりよく見えない。
目を見開いても、細めても、どうあがいても見ることができない。
ぷしゃぁ。
噴水だ。
噴水のように勢いよく血が空へ飛散する。
男が自分の首を切ったのだ。
男の血が飛び散る。
男の手には刃物。
男の命を奪った刃物。
彼女の命を奪った刃物。
こうして彼は彼女を失った。
彼は泣いた。
泣くだけ泣いて、涙を拭いた。
そして旅立つ。
彼女を救うためだ。
彼は過去へ旅立つ。
彼女の死を防ぐために。
彼は一度未来を変えた。
その時、母の運命も変わり、自分の運命も変わった。
今度も同じことが起こるかもしれない。
彼女は彼を好きにならないかもしれない。
しかし彼の足に迷いはなかった。
彼にとって彼女が生きていることが大事なのだ。
ただそれだけでいい。
そう思うと、悲しくならなかった。
母も病死していない。
母は生きている。
それで好いではないか。
生きているのだから。
だから。
だから。
彼は彼女に生きて欲しい。
例え、自分を好きにならなくても、生きていてくれれば好い。
彼は時間を超えた。
時間は彼女が刺される瞬間。
刺した男を刺す前に取り押さえる。
彼は彼女の周りを監視する。
彼女は一人だった。
彼女の傍に彼は居ない。
どうもどの時代にも彼の同一人物は居ないらしい。
パラドックスは起こらない。
調べていなかったので、新しい発見だった。
しかしそんな発見はどうでもいい。
彼女を守ることに集中する。
彼は監視する。
時間だ。
彼女が刺された時間が来た。
しかし、彼女は刺されない。
いくら待っても彼女を刺そうとする者は居なかった。
もしや、彼女が刺された原因は彼女の傍に彼が居たからかもしれない。
彼は思った。
もうそうであるのなら、それでいい。
彼女は生きていられるのだから。
彼は喜んで身を引こう。
彼は顔を顰めながら笑った。
これで好い、と。
そして彼は油断した。
―――っ。
無音に近い音。
彼女が倒れた。
男が笑った。
男の顔は見えない。
男が自殺した。
花は枯れた。
彼は呆然とその場に立ちつくした。
失態だった。
彼の目を離した瞬間に彼女は殺された。
彼は叫ぶ。
そして時間を超える。
同じ轍は踏まない。
彼はまた彼女の周りを監視した。
時間が来た。
最初に彼女が刺された時間。しかし二度目は刺されなかった時間。
やはり彼女は刺されない。
時間が来た。
彼女が二度目に刺された時間。
彼は神経を尖らせる。
彼女は刺されない。
彼は驚きながらも、彼女の周りを監視する。
時間が経つ。
夜が来て、朝が来て、昼が来る。
一日が経った。
二日が経った。
三日が経った。
しかし彼女は刺されない。
そろそろ徹夜を続けた彼の精神も限界だった。
ふっ、と彼の意識が遠ざかる。
―――っ。
無音に近い音。
彼女が倒れた。
男の笑い声。
彼は無力差に膝を着いた。
彼は時間を超える。
今度こそ。
今度こそ。
彼は彼女を諦めない。
しかし、
―――っ。
無音に近い音。
彼女が倒れた。
男の笑い声。
何度聞いたことだろうか。
彼は二十回から数えるのを止めた。
彼女は殺される。
彼が何度も守ろうとするが、どうやっても殺される。
彼が気を緩めた瞬間。
彼が目を離した瞬間。
彼女は男に刺されていた。
そして男の笑い声。
どうやっても、どうやっても彼女は殺される。
彼は死ぬ思いで神経を尖らせ彼女を守ろうとするが、彼の体は人間。
一週間以上、瞬きさえも我慢し監視するが、力尽きて倒れる。
そして彼女が殺される。
彼は他にも手を考える。
しかしどういうことか、彼女は死ぬ。
信じたくはなかったが、彼女を刺す男は、彼女を刺すことが絶対であるらしい。
そういう運命らしい。
神にも等しい絶対。
彼は神を呪った。
彼はそれでも諦めない。
男の存在を消すことに決めた。
悔しいことに男の身元は分からない。
それでも、男に繋がりがある人物を消すことにした。
過去へ過去へ。
男との血の脈がありそうな人物を消していった。
しかしまだ男は消えない。
未来では多くの人が消えた。
過去へ過去へ過去へ。
男との血の脈がありそうな人物を消していった。
しかしまだ男は消えない。
未来では多くの人が消えた。
過去へ過去へ過去へ。
男との血の脈がありそうな人物を消していった。
しかしまだ男は消えない。
未来では多くの人が消えた。
過去へ過去へ過去へ過去へ――……。
男は消えなかった。
未来では多くの人が消えた。
彼の精神は尽きかけていた。
いや、もう尽きているのかもしれない。
ただ何かに取り憑かれるように過去へと渡る。
彼は気づいているだろうか。
未来では彼女という存在さえもが消えていることに。
そして彼は行き着いた。
時間の始まりに。
そこは暗い空間だった。
無に等しい空間。
そこには白く光るものがある。
小さい。
とても小さい。
掌で包めそうなほどの小石にも見えた。
とくん、とくん。
まるで心臓の鼓動のような音が聴こえる。
なんとなく。
なんとなくだが、彼は理解する。
この光る小石こそ世界だ。
これは世界の卵だ。
なんと小さい。
彼は思う。
握りつぶせそうだ、と。
これは潰したらどうなるのだろうか、と。
最早、それ以上の思考は出来ない。
最早、どうでもいい。
もう……、終わりたい。
彼は手を伸ばす。
小石を掴んだ。
柔らかい。
温かい。
まるで小鳥を抱いているかのような感触。
彼はこれを潰せることを確信した。
だから潰すことにした。
ぷち
生き物の赤ちゃんの悲鳴が聞こえた。
世界が死んだ。
彼の手の中。
世界の卵が爆発した。
彼の体は一瞬で消し飛んだ。
静寂はすぐに訪れる。
無音。
無音。
否。
無音に近い音。
とくん、とくん。
心臓の鼓動。
何もない空間。
何もなさそうな空間。
そこには見ることさえ困難な程小さい小石があった。
小石は光っている。
小さ過ぎる小石は世界の卵だった。
世界は死ぬ間際に爆発的な力を出す。
そしてその力を元に新しい世界を創る。
だから、今、世界の卵は新しく創られた。
その新しく創られた世界の卵は知っている。
世界の卵は彼を知っている。
世界の卵を創られる際に周りにあるもの――つまり死んだ世界の欠片を基にする。
そして周りには爆発で分解された彼があった。
彼を取り込み創られた世界の卵は、彼を知っている。
彼の見たもの、感じたもの。
全てを知っている。
だから世界の卵は、彼を創るだろう。
世界の卵が孵化し、世界を広げ、時間を経て、人の世界を創る。
創られた人は彼を知っているだろう。
断片的に知っているだろう。
人々は、民謡、口伝、お伽話、神話の中で無意識に彼を登場させるであろう。
また、世界の卵は彼の知っている世界を創り、彼の知っている歴史を繰り返す。
そして彼が生まれた時代、彼の生まれた場所で彼を創るのだ。
彼を、彼女を、男を。
世界は創る。
彼は時間を超え、母と別れ、時間を旅し、彼女と出会い、彼女は男に殺され、人を消しながら此処までやってくる。
最後には世界の卵を潰すのだ。
なんか救いがない話になってしまったので、冒頭を「時間を移動できる存在が居た。」と、現在ではなく過去形にしてみました。