第16話:その「立派」が、嫁を壊したんや
労働価値を認めへん奴が、自覚を語るな!
旦那も義母も、まとめておかんの「教育的指導」の時間やで。
翌日の午後。
ルシアの自宅には凍りついたような沈黙が流れていた。
仕事から帰宅した夫のマルクが居間のソファにふんぞり返り、不機嫌そうに口を開く。
「……ルシア、今日の飯は何だ?昨日の外での騒ぎ、近所の人が言ってたぞ。知らない女に子供を預けて泣きわめいていただなんて、母親としての自覚が足りないんじゃないのか」
さらに、居座っていた義母が、茶を啜りながら追い打ちをかける。
「本当よ。私はこの子を一人で立派に育て上げましたわ。昔はもっと大変だったのに、今の若い人はすぐに甘えるんだから」
いつもならここでルシアは震えながら謝罪していたはずだった。
だが今日の彼女は違った。
ルシアは震える手で赤ん坊を抱きしめ、真っ直ぐに夫と義母を見据えた。
「……いいえ、甘えじゃありません。私は、限界なんです。……だから、来ていただきました」
「……何?」マルクが眉をひそめた瞬間、玄関の扉が静かに、しかし断固とした意志を持って開け放たれた。
「お邪魔するで。……ルシアさんから、正式に『家庭内の不備』の調査依頼を受けたんやわ」
入ってきたのはヨシコ。
そしてその隣には、スマホを片手にスーツを着こなしたハナコ(保険会社支店長)が立っていた。
「な、なんだお前たちは!不法侵入だぞ!」
「失礼なこと言わんといて。ルシアさんに鍵を開けてもらった、正当な訪問者や。……家族や言うて甘えて、一人の人間に全部の責任を押し付ける。そんな『ブラック組織』、総務として黙って見てられへんからね」
ヨシコの言葉を引き継ぐように、ハナコがタブレットの画面を突きつけた。
「ええか、旦那さん。自分、『家の中のことは君の責任だ』言うたらしいな?保険とリスク管理のプロから言わせてもらうけど、その理屈はな、破綻しとんねん」
ハナコがバリバリの関西弁でルシアの過酷な労働実態を数値化したデータを叩きつける。
「深夜手当なし、休日なし、二十四時間待機のワンオペ労働。これを市場価値で換算してみ?自分、月々どれだけの『サービス』をルシアさんにタダ働きさせてるか分かってんのか。合計額、あんたの給料の三倍は超えとるで!しかも命を削って!!」
「な……そんな、金の話をしているんじゃない!」
「金の話や!労働の価値を認めへん奴が、偉そうに『自覚』を語るな言うてんねん!」
ハナコの怒声に義母が何かを言おうとしたが、ヨシコがその前に立ちはだかった。
「あんたがそうやって『自分一人でやった』いうて傲慢に育てたから、この息子は、嫁の苦労も理解できへん、想像力の欠けたダメな大人になったんやわ!あんたの言う『立派』の結果が、目の前で壊れかけとるルシアさんや。自分の教育の失敗、棚に上げて何抜かそうとしてんねん!」
義母が絶句し、ルシアは震える声で、しかしはっきりと夫に告げた。
「……マルクさん。私は、育児を放棄したいわけじゃないの。あなたと一緒に、この子を育てたい。私が必要な時には、私に代わってこの子を守ってほしい。……一人で背負うのは、もう限界なの」
ルシアの切実な訴えと、ハナコが提示した「命を削っている」という冷酷な数字。マルクは初めて、自分の無関心がルシアを殺しかけていたことに気づき、膝をついた。
「……すまない、ルシア。……俺、何も見てなかった。……今すぐ寝てくれ。後のことは、俺が……必死でやるから」
一方、なおも不満げな表情を隠さない義母の背後の扉が、音もなく開いた。そこには、ヨシコが事前に声をかけていた近所のベテランママさんたちが、お裾分けの鍋を手に、ずらりと並んでいた。
「お義母様、お久しぶり。ルシアさんのことでヨシコさんに相談を受けてね。反省したわ。うちも嫁と話し合ってね……『一人で立派に育てた』なんて古い根性論、今から私たちと『現代の育児勉強会』でたっぷり修正しましょうか?」
「そうそう。逃がさないわよ。まずは最新の離乳食の作り方と、家事分担の理論からね」
逃げ場を失った義母がオカンたちの包囲網に連行されていくのを見届けた。
数日後。
公園には、不器用ながらも赤ん坊をあやすマルクと、それを穏やかな笑顔で見守るルシアの姿があった。
「……よし、これで『完璧』なんていうゴミ箱行きの呪縛、片付いたな」
ヨシコが満足げに飴ちゃんを一つ口に放り込み、ようやく穏やかな午後を過ごそうとしたその時だった。公園の反対側のベンチで、身なりの良い一人の少年・カイルが、震える手で魔導書の課題を解いているのが目に入った。
少年の背後には、氷のように冷たい視線を送る母親が立っている。「……何をしているの、カイル。その一問を間違えるだけで、あなたの人生は終わりなのよ。私の『理想の息子』でいられないのなら、あなたに居場所なんてないわ」
少年の顔は土気色で、ペンを持つ指先は過緊張のあまり真っ白に震えていた。本来、彼が持っているはずの自由な魔力の輝きが、母親の「期待」という名の黒い霧に包まれ、今にも窒息しそうになっている。
その光景を見た瞬間、ヨシコの背筋に、これまでの「無理解」とは質の違う、どす黒い執着の冷気が走った。
「……ありゃあ、ただの教育熱心やない。子供の才能を自分の野望のために使い潰しとる。一番厄介な『毒』やわ」
ヨシコはスマホを取り出し、カイルの精神状態がストレスで限界を超えているデータを記録した。そして、即座に「ある人物」へ通信を飛ばした。
「……ゴロウ、あんたの出番やわ。大人のエゴで『子供の時間』を奪われて、笑い方も忘れてもうた子がおる。……あんたの『カリスマ保育士』としての腕、ここで見せて欲しいんやけど!」
スマホの画面に、優しく、包み込むような太陽のような笑顔を浮かべた五男・ゴロウ(カリスマ保育士)が映し出された。
『……了解、姉ちゃん。子供の心から色を奪うような大人は、僕が許さない。……その子に、本当の「遊び」と「自由」を思い出させてあげるよ』
ヨシコの目が、家族という名の檻に閉じ込められた少年を救うため、鋭く光った。
(第17話へ続く)
ルシアさんの心が軽くなって、本当によかった。
……でも、公園で震えて魔導書を読んでる少年・カイル君。
お母さんの視線が、まるで檻みたいや……。




