後部座席の真ん中
高校生のころ、夜は余っていた。
体力も、時間も、やり場がなくてこぼれ落ち、俺たちはそれを拾ってバイクに積んだ。
五人で走った。峠、港、埋立地。パチンコ屋の駐車場にバイクを横付けし、勝てばピザ、負ければ缶コーヒー。コンビニでウイスキーを買ってパックのジュースで割る。味なんて分かりゃしない。ただ、笑い声のなかで喉を通ればよかった。
肝試しは夏が多かったが、秋でも冬でもやった。だんだん車に乗るようになって、免許を取った順にボロい中古を買い足し、夜の居場所は後部座席に移った。
そのうち、決まりごとみたいな遊びができた。
――後部座席の真ん中に座ったやつが、途中で「ちょっと止まってくれ」と言う。
「さっきから足、誰かに持たれてる」
最初は全員が本気でビビった。が、十回も繰り返せば慣れる。だれかが言えば、だれかが笑う。笑いが勝てば、恐怖は負ける。そう思っていた。
二月のある夜、卒業を待つだけの俺たちは、峠を流していた。
運転席の俺、助手席にトモ、後部の左右にマサとタク、真ん中にユキ。
ユキは細くて、笑うと犬歯が覗いた。「うわ寒ぃ」と言って、ダウンの襟に顔を埋め、シートベルトの金具をいじっていた。
「……おい、ちょっと止まってくれ」
決まりの台詞を、ユキが言った。
俺たちは笑った。「出た」「またかよ」
でもユキは笑わなかった。
「いや、今回はマジ。足首、冷てぇ手で掴まれてる。さっきから、ずっと」
トモが振り向き、足元を覗いた。
「何もいねぇよ。お前の空想だって」
マサが肩をすくめ、タクがわざとらしく「こわ〜」と言った。
俺はハンドルを切り、峠の途中の一台ぶんだけ車を寄せられるスペースに入れた。
「よし降りるか」
そう言うと同時に、三人はドアを開けて飛び出した。
冗談のつもりだった。怖がらせて、あとで笑う。いつも通りのパターンだ。
俺は運転席のドアを閉め、肩に力を入れて小走りになった。冷たい風が頬を刺し、笑い声が白くほどける。
十秒、二十秒。
振り向いても、ユキは降りてこなかった。
「ほっとけよ。演技だって」タクが言う。
「すねてんだ。勝手に帰るって」マサが笑う。
トモがうなずいた。「近くにケンの家あるし、あそこで待とうぜ」
携帯はまだ持っていない。夜は長い。俺たちは結局、そのまま友達の家で鼻をすすりながら朝まで起きていた。ユキは来なかった。
朝の峠に戻ると、車はそのままだった。鍵も刺さっていた。
俺たちはそれを見て、誰も何も言わなかった。
「帰ったんだろ」
その言葉が空気の表面だけを滑っていき、何も傷つけなかった。
その日から、三十年。ユキは戻らない。
*
四十台の俺は、いまでも峠の道を通る。仕事で、通勤で、ただの習慣で。
路肩の白いガードレールは新しくなったが、夜の匂いは当時のままだ。
冷たい金属の匂いと、乾いた草の匂い。アクセルを離したときの回転の落ち方で、冬の湿度が分かる。
ある晩、仕事帰りに峠の途中のスペースに車を停めた。
理由はない。ただ、そこに停めると、胸の奥が静かになる。
エンジンを切ると、闇が寄ってくる。
ダッシュボードの上の埃、フロントガラスに薄く付いた指の跡。
助手席にはコンビニの袋。後ろには、空のままの座席。
――ちょっと、止まってくれ。
耳の中に、あの声が落ちてきた。
音ではない。体の内側を指でなぞられたみたいな感覚。
俺は笑おうとして、失敗した。喉が震えただけだった。
「……ユキか」
言葉は吸い込まれ、フィルムの裏側に貼りついた。
俺はシートを倒し、身をねじって後部座席を見た。
真ん中の座面の境目が、ひとりでに少しだけ沈んだ。
シートベルトのバックルがカチリと鳴り、突然、ベルトがスルスルと伸びた。
誰も触れていないのに、ベルトは“あるべき体”の胸元へ回り、止まる。
俺は息を吸い、吐けなくなった。
「足、まだ冷たいのか」
返事はない。
代わりに、“それ”は前かがみになって、運転席の背をそっと押した。
信号のない夜の道で、後ろから押される感触を、俺は初めて知った。
背もたれのスポンジがきしみ、骨が真っ直ぐにされる。
――走ろうぜ。
ユキの声が、若いまま、背中の骨に響いた。
俺はキーを回し、ライトをつけた。
闇が二本の筋に分かれ、道路を開く。
峠を登る。エンジンは若くないが、まだ歌える。
カーブの度に、背中にかかる重みが左右に移る。
真ん中に座った“それ”は、ちゃんと車の傾きに合わせて体を傾けている。
昔みたいに。
頂上の少し手前、あのスペースがだんだん近づいてくる。
俺はウインカーを出し、減速した。
視界の端で、シートベルトのバックルが少しだけ浮き、再びカチリと鳴った。
解かれた。
“それ”が、降りるのを待っているのだと分かった。
車を端に寄せ、ハザードを焚いた。
エンジンを切る。闇が寄ってくる。
俺は後ろを振り向き、言った。
「……悪かった。置いてったの、あの夜」
“それ”は何も言わない。
ただ、座面の沈みがほんの少し深くなり、ゆっくり元に戻った。
降りた――のだろう。
ドアは開いていない。
けれど、峠の空気が急に軽くなった。
山の向こうから風が下りてきて、フロントガラスに小さな埃の渦を作った。
俺は安堵した。ほんの数秒、ほんの一呼吸ぶんだけ、心から軽くなった。
そのとき、背中に別の手が乗った。
若くない。骨ばって重い手。
肩甲骨の真ん中を探り、押し込んでくる。
――お前だって、座っただろ。
耳ではなく、椎骨ひとつひとつに刻まれたような声。
俺は反射的に振り返った。後部座席には誰もいない。
ただ、真ん中の座面の縫い目が、外側と内側の境界みたいに濃く見えた。
ユキじゃない。
この峠には、もっと前から“真ん中”に座ってきた連中がいる。
俺たちは順番を勝手に作り、笑いながら従ってきただけで、
順番そのものは最初から決まっていたのかもしれない。
「……分かった。次は俺か」
口に出すと、闇が少しだけ満足そうに動いた。
俺はもう一度キーを回し、坂を下り始めた。
ライトがガードレールを走り、白い線が流れていく。
背中の重みは消えない。
ときどき、シートベルトが胸を撫で、鈍い金具が肋に当たる。
真ん中に“誰か”が座っているまま、車は市街地へ降りていく。
交差点で赤信号に捕まり、ふとミラーを覗いた。
後部座席の黒の中に、眼が二つ、反射した。
光ではない。形でもない。
ただ“そこにいる”という証拠だけが、鏡面の中で静かに呼吸していた。
信号が青に変わる。
アクセルを踏む。
街へ戻る。
人のいる場所へ。
真ん中の座面がほんの少し沈み、戻る。沈み、戻る。
俺はハンドルを握り直した。
今夜は誰も置いていかない。
代わりに、誰も降ろせない。
そういう夜が、三十年に一度くらい、ある。
*
それからというもの、後部座席の真ん中はいつも空けておく。
荷物も置かない。子どもも座らせない。
車検のたびにシートを外されるが、戻ってくると縫い目の線が少し濃くなっている。
運がいいときには、そこに誰も座っていない。
運が悪いときには、肩に手が乗る。冷たい。重い。
それでも走る。
峠を越え、街へ戻り、家へ帰る。
夜、ガレージのシャッターを下ろす前、後ろのドアを少しだけ開ける。
風が入れ替わる。
何も見えない。ただ、座面の沈みがゆっくりと戻っていく。
鍵をかける。
家に入る。
テレビの音。湯気。人の声。
――なぁ、今度はどこ行く?
耳の奥で若い声が笑い、渇いた笑いがそれに重なる。
俺は答えない。
答えなくても、真ん中の席は、次の夜のためにいつも空いている。
終