第二話
「遅れて入寮なんて聞いたことがございませんよ」
入寮の手続きを済ますまで、マリアという恰幅のよい寮母に、この台詞を五回は言われた。多分それ以上言われた気がするが、もう数えていない。
彼女の足元では可愛らしい白と黒の小型犬が二匹、仲良くじゃれ合っている。
「部屋は二人部屋になりますからね。二階の奧になるわ。ええと、ルームメイトはリトね。ちゃんと挨拶するように。あと、寮の規則集には必ず目を通す様に」
「はい、分かりました」
鍵を受け取り、部屋へと向かう。ひとつ深呼吸してから扉をノックすると、「どうぞ」と落ち着いた声の返事があった。
「失礼します。ルームメイトのユーリ・バルトです」
部屋に入って挨拶すると、一人の少女が、奥にあるベッドの上に寝転んでいた。どうやら本を読んでいたようだ。彼女の手には本がある。
彼女は寝ころんだまま、海のように青い目をユーリに向けた。その目がユーリを捉えた瞬間、僅かに見開かれる。
そして、彼女が何かを呟いた。
「……ヤ」
「え?」
ユーリが首を傾げると、リトは何かを振り払うように頭を振った。
「あ、ごめんなさい。なんでもないの」
彼女は自嘲するように笑うと、気だるそうにゆっくりと起き上がった。
波打つ金色の髪に、豊満な胸元。ふっくらとした、艶のある唇。耳には大振りのピアス。
――とてつもない美女だ。そして大人びている。
同性でありながら、思わず頬を赤くしてしまうユーリである。
「ズボンなのね。女子でそっちを選ぶって、珍しいわね」
リトがユーリのズボン姿を見て、意外そうに呟いた。
「そうなんですか?」
「そうね……。たいていスカートを選ぶかな、みんな。でも、ズボンを選ぶ人がいないわけじゃないわよ」
「お古を頂いたので、これしかなくって」
「あーなるほど。別にいいんじゃない? わたしはリト、よろしく」
手を差しだされ、ユーリは荷物を置いて手を握り返した。
「ユーリって呼んでもいい? わたしのことも、リトって呼んで」
「あ、はいっ」
「ん、よろしく。あなたのベッドはそっち。トイレはそこの扉。お風呂は一階で共用。食堂は男女一緒で、二つの寮の間にあるの。あとは一階に談話室があるのと、屋上には庭園があるわ。規則集はもらった?」
「はい」
「注意するのは門限くらいかな。夜の十時を過ぎると、こわーい番犬が校内を見回るから、気をつけるようにって姉さんたちが言ってたわ」
番犬が見回りって、どういうことなのか。よく分からないが、素直に頷いておいた。
「とにかく、先に荷物を片付けたら?」
「はい、そうします」
てきぱきと荷ほどきを始めるユーリを、リトは静かな目で眺めていた。
そしてその日の夜、初めて学院内で夕食をとることになった。
食堂は全生徒を収容するだけあり、とてつもなく広い。
天井は高く、真鍮を用いたシャンデリアが幾つも備えられ、壁には学院に所縁のある人物たちの肖像画が飾られている。
そして机と椅子がびっしりと並べられており、各学年ごとに配置が決まっている。
最奥が五年生、手前に行くにつれて学年が下がっていく。ユーリたちは一年生なので、入ってすぐのテーブルで食事をすることになる。
中央にある円状の机には、たんまりと食事が用意されており、それぞれが取り分け持っていくシステムのようだ。
ユーリとリトは食事を取り分け、空いている隅の席に腰かけた。
「いただきます」
手を合わせて、横に座るリトは静かに食事を勧めていく。食べる所作も綺麗である。
周囲を見れば、皆、話に花を咲かせているようで賑やかだ。
慣れない環境に落ち着かず、そわそわしているとリトにくすりと笑われた。
「皆、賑やかよね。落ち着かない?」
「はい……。いつも二十人くらいでは食事してたんですけど、こんなに大勢なのは初めてです」
「二十人!?」
初めて、リトが驚いた表情を見せた。驚いた顔も綺麗なのが不思議である。
「あ、えっと、わたし育ちが孤児院なんです。だから、血は繋がってないんだけど兄弟が多くって」
すると、納得したようにリトは頷いた。
「そういうことか……。でもすごいわね、特待生の枠を勝ち取っちゃうんだから。この学院、お金持ってても、才能がないと中々入れないのよ」
「才能は分かりませんけど、勉強はたくさんしました。だって、特待生になったらお金の援助をしてもらえるし。それに国家魔術師になったら、たくさん稼げるじゃないですか。わたし、お世話になった孤児院に恩返しがしたいんです」
孤児院でクラス兄弟たちの顔を思い出せば、自然と笑顔がこぼれる。そんなユーリを見て、リトはふわりと笑った。
「素敵ね、あなた」
突然の美人の微笑に、同じ性別だというのに、ユーリはまたもやくらりとしそうになった。
(いや、素敵なのはあなたですよ!)
リトの容姿は男女問わず目をひくようで、通り過ぎる者たちがちらちらとリトに視線を送っている。
すると突然、後ろから声をかけられた。
「あらぁ、大変ねリト。庶民と同室なんて。でも、あなたも半分庶民だからちょうど良い采配ね」
後ろを振り向くと、赤いリボンで金髪をツインテールにした少女が、両腕を組んで立っていた。勝ち気そうな猫のような目をしていて、見るからにお嬢様、といった風貌である。
彼女の友人たちだろうか、一緒になって意地悪気に嗤い、冷ややかな目でユーリに視線を向けてきた。
「あなたでしょ、例の特待生って。こんな見るからに貧乏くさい人間が入学できるなんて、この学院も落ちたものよねぇ」
ユーリは押し黙り、やっぱりこうなるかぁと遠い目をして苦笑した。
入学が決まった際、ケイからも忠告を受けていた。おそらく、慣れるまでは針の筵だろうと。
なのでひっそりと教室の隅で、空気のように黙々と勉強に励もうと思っていたのだが……。そう簡単に行くはずもない。
(今まで通り、聞き流すのが一番良いよね……。でもリトには悪いから、わたしが席を離れたらいいのかな。元々、教室の隅でぼっち予定だったし)
孤児院育ちなので、こういう扱いには昔から慣れている。その対処法も。
うん、やっぱり席を移ろうと立ち上がろうとしたら、リトに手を押さえられた。
彼女はくすりと冷たく笑って、手にしていたフォークを置く。
「あら。じゃああんたが出て行けばいいんじゃない? あんたの高貴なお家柄なら、どこにでもいけるでしょ。ねえ、レイナ」
ぎょっとした目で、ユーリはリトを振り返った。
リトは心底つまらなさそうに、レイナと呼ばれた少女を一瞥した。その眼差しは氷のように冷たい。
「べ、別にそういう意味でいったんじゃないわよ!」
「勉強できればそれで良いじゃない。あんた、何しにここに来たわけ」
「わたくしはただ、学院の評判が落ちかねないという意味で――」
するとそこに二人の青年が近づいてきて、女子たちの間でざわめきが起こった。
レイナと呼ばれた彼女も、頬を赤く染めて口を閉ざしてしまう。それどころか、照れくさそうにして集団で後退していく。
一方リトといえば、邪魔くさそうな――というより、うんざりしたような表情をしている。
「何か用、ザグ」
「やぁリト。元気かい? 今日も氷の女王如く冷え冷えとしているね。ここ、空いてるから座らせてもらうよ」
ザグと呼ばれた男は、月の光を集めたような眩い銀髪をしていた。灰色の目は垂れ気味で、右の目元には泣き黒子。女子たちの注目を一瞬で集めるのが分かる。
彼ら二人は、ユーリたちの目の前の席に腰かけた。
「ええ。見ての通り元気よ。あんたの口も相変わらず絶好調ね、ザグ」
「こいつに不調の時が来たらこの世の終わりだろ」
冷たくそう答えるのは、もう一人の青年だ。
どこかで聞いた声だと視線を向けると、今日の昼間、案内してくれた青年だと気づいた。
相手も気づいたのだろう、軽く目を見開き「あんた……」と呟いた。
「シグレ。知り合いなの?」
リトが首を傾げる。彼の名はシグレというらしい。
「昼間、寮に案内した。だが、なんでリトと一緒にいる。知り合いか?」
「ルームメイトなの」
「……ルーム、メイト?」
信じられないものを見るかのように、シグレはまじまじとユーリを見つめた。
「あんた、男じゃなかったのか」
「一応、女です。譲り受けた制服が、ズボンだったもので」
「え、なになに。シグレってば、男女の区別もつかないの? 胸がなくともヒップライン見ればすぐに分かるだろ。おまえ、まだまだだなぁ」
「――ザグ。あんたの方が大概失礼だから、黙んなさいよ」
リトが立ちあがってシグレの耳たぶを引っ張り上げていると、シグレが気まずそうな顔で謝ってきた。
「……すまん」
「あ、いや。よく間違われるから大丈夫です。本当に気にしないでください」
実は、それ目的で髪を短く切っていたりする。
昔、ユーリは人攫いに攫われた過去がある。自分はリトのように美女というわけではないのだが、売れそうなこどもなら誰でも良かったのだろう。
人身売買の競りにかけられる直前で、ケイが救い出してくれたので無事だったが。
それ以来髪を短く切りそろえ、少年のような恰好をずっとしてきた。野暮ったい眼鏡も、ただ顔を隠すためにしている。今となっては眼鏡くらい外せば良いのだろうが、長年の習慣というか、ないと落ち着かないのだ。
「でも、ちゃんと案内したんだねシグレ。人嫌いのおまえが珍しいね」
摘ままれて赤くなった耳を擦りながら、ザグが言った。
「……それは」
「――赤髪だったから、かい?」
意味深な問いかけに、シグレは眉間に皺を寄せ、リトは僅かに瞼を伏せた。妙な沈黙が一瞬落ちる。
「本当におまえのそういうところ、嫌になるな」
「わたしもシグレと同意見」
妙な空気に、何も分からないユーリは首を傾げた。
「二人ともひどいねぇ。あ、ごめんね。僕ら三人、幼馴染みなんだ。僕はザグ、こっちがシグレ。きみの名前は?」
「ユーリです」
「よろしくね、ユーリ。君とは仲良くなれそうだ。シグレが自ら声をかけた女の子なんて、早々いないよ」
「おまえな、妙な言い方をするな」
「あはは、悪かったね。で、きみは例の特待生ってことだよね」
「そうです」
「そっか、よろしくね。きみがリトと同室になったのも、運命めいたものを感じるよ」
ザグはそう呟くと、読めない笑みを浮かべて食事をし始めた。
シグレも咳ばらいをすると、ちらりとユーリを見て「よろしく」とぼそりと呟く。
彼の表情はあまり変化がないので分からないが、嫌われているわけではなさそうだ。
ありがたいなぁと思い、ユーリは「こちらこそよろしくお願いします」と笑顔を返した。
ユーリにとってこの三人との出会いが、生涯で最高の宝物となることを、まだこの時は知らない。
たとえ、たくさんの痛みを伴うことがあったとしても、だ。
そして夕食のあと。
慣れない環境で疲れて眠っているユーリの寝顔を、真向かいのベッドからリトが眺めていた。
シャワーを浴びた後、眼鏡を取り払ったユーリの顔を見てからというもの、リトは落ち着かないでいる。
赤い髪に映える、翡翠色の目。けぶるような睫毛。優しそうな面立ち。
――やはり似ているのだ、彼に。
今はもういない、もう一人の幼馴染みに。
彼を失ってからというもの、シグレ、ザグ、リトたちの胸には、ぽっかりと見えない穴が開いている。そしてそれが、未だに塞がっていない。
ザグは平気そうなことをさらりと言うが、結局、彼もまた立ち直れてはいない。あの男は、自分で自分を傷つける妙な癖がある。
それに、あの面倒くさがりなシグレが自ら声をかけたのも、リトと同じく惹かれたからだろう。
彼と同じ色を持つ、彼女に。
でも彼女は彼ではないし、死者が生き返るわけでもない。
(他人だと分かっているのに……。不思議な人)
しばらくの間、リトはユーリの寝顔をぼんやりと眺め続けていた。