後編
エイベル家が代々魔法で世話をしている薔薇の庭園はそれは美事なもので、ニードルステニアがその美しさと香りに誘われて足を踏み入れたのが、そもそもの始まりだった。
『我が家の研究に、貴方の■が必要不可欠なのです。僕の血をいくらでもあげますから、どうか、どうか貴方の■を』
タイミングが良かったのか悪かったのか、それまでエイベル家が懇意にしていた吸血鬼との縁が切れた所での、ニードルステニアの登場であり、エイベル家にとって渡りに船、ニードルステニアには都合の良いことであった。
サンティが血を与え、ニードルステニアは■を渡す。そうやって取引をしてきた彼と彼の関係に、劣情もそれ以外の感情も入り込む余地などなかった。
なかった、はずだ。
「……あっ……あぁ」
ニードルステニアの牙が抜けると、サンティは上擦った声を上げて、後ろに倒れ込んだ。激しく上下する胸に、乱れた息。閉じた瞼から涙が溢れている。
彼の姿をぼんやり眺めた後、ニードルステニアはそっと視線を、ソファーに行儀良く座るコッペリアに向けた。
「……」
「……」
静かに見つめ合うニードルステニアとコッペリア。サンティの吐息だけが室内に響く。
ニードルステニアの目には、コッペリアの黄金色の瞳に映る自分の顔がよく見えた。いつものしかめ面ではなかった。
──欲しい。
欲に塗れたその顔が、本当に自分の顔なのか、ニードルステニアには信じられなかった。
そんなニードルステニアを嘲笑うように、彼の心は訴える。
──もっと間近であの瞳を見つめたい。
──押し倒して、あの細い首筋に顔を埋めて、肌に舌を這わせ、牙を思い切り突き立ててやりたい。
──あれだ。
──欲しいのは、あれだ。
胸の鼓動が速まるのを、ニードルステニアは確かに感じていた。だからこそ、押さえつけるように何度も胸を擦る。
駄目だ、と。
落ち着け、と。
欲に任せて行動してはいけない。何の許可も得ていないのだ、無体を働くことはできない。ニードルステニアがこれまで吸血してきた相手は、全て、吸血の許可を得て牙を突き立ててきた者達だ。今さらそれを覆すのは……。
そうは思っても身体は正直で、ゆっくり、ゆっくりとコッペリアの元へ足が動いていく。どれだけニードルステニアが心の中で拒もうと無理なのだ。サンティの血を飲んで気分が高揚しているのもあった。コッペリアの目の前に着くと、その細い肩へ手を伸ばし──触れる前に、コッペリアの身体が動く。
ショートパンツのポケットからメモ帳を、胸元に差していた万年筆をそれぞれ手に取り、素早く何かを記して、それをニードルステニアに見せてきた。
『ぼくに血は流れていません』
美麗な字は、そのような文言を紡いでいた。
「……え?」
深紅の瞳を見開くニードルステニア。コッペリアは目にも止まらぬ速さで万年筆のペン先を自分の手首に突き刺した。
「何をっ……」
ペン先はすぐに引き抜かれた。刺さっていた辺りの皮膚は黒ずんでしまい、待てども待てども血が溢れることはなく、血の香りもしない。
コッペリアは再び、自分の手首を突き刺した万年筆で文字を記す。
『この通りです。主の言った通り、貴方を満足させられません』
肉人形、ホムンクルス。
死体を元に造られたその身に、美酒たる血は流れていない。
コッペリアの血を飲むことは、不可能だ。
「……」
しばし呆然とコッペリアを見つめるニードルステニア。コッペリアの黄金色に映る自分は、だんだんと情けない顔に変化して──自分の目に、違和感を覚える。
コロン、コロン、コロンと。
目から溢れ落ちていく涙。だがそれは雫の形をした、赤い結晶。吸血鬼の涙は液体ではないのだ。
ニードルステニアは泣いていた。コッペリアの血を飲めなくて、コッペリアの血を貪れなくて、コッペリアの血を飲み干せなくて、泣いていた。
コッペリアは床に屈んで、ニードルステニアが溢した涙を回収していく。ニードルステニアの、吸血鬼の涙には価値がある。その涙には魔力が込められ、人間が口に含むと、魔法を使えるようになるのだ。
魔法使いを名乗る者達は、吸血鬼がいなければ、魔法を使うことも、魔法を使って行われる研究もできやしない。
サンティは血を与え、ニードルステニアは■を──涙を与える。
そんな互恵関係を築いていた。
コッペリアは拾った涙をテーブルの上に積んでいき、小さな山を作る。ある程度の高さになると、拾うのをやめて、またメモ帳に何かを記し、ニードルステニアに見せてきた。
『こんなにたくさん、ありがとうございます。主が喜びます』
にこりともしないコッペリアの表情。出会ったばかりでは、その心中にどんな感情を秘めているのか探ることもできない。
「……そう、か」
冷ややかな美しさを持つ可憐なホムンクルス。主の好きにされながら、手折られぬ前の花のような清らかさを他者に抱かせる。
──血が、流れていないとしても。
その細い肩に手を添えて、首筋に顔を近付けていくニードルステニア。コッペリアは特に抵抗をしない。
──この欲望が尽きることはない。
口を開き、牙を、その滑らかな肌に突き立てた。
柔らかい、冷たい、味がしない、何も飲み込めない。──それでも、確かな満足感が、ニードルステニアの胸に広がった。
これだ。
これを、自分は求めていた。
サンティが起きる様子はない。いつものことだ。ニードルステニアは気絶するまで彼の血を飲み、涙を置いて勝手に帰る。起きて見送られたことはない。
もういいと思うまで、コッペリアを味わった。コッペリアが拒まないから、好きにさせてもらった。
さすがにそろそろ、と自制が利いてきて、牙を引き抜いた。見つめてくるコッペリアの瞳には、相も変わらず何の感情も宿っていない。
「……また来る」
返事は特に欲していなかった。だがコッペリアは、静かに頷いてみせた。
「……っ!」
その姿を見たら堪らなくなり、ニードルステニアはコッペリアを強く抱き締める。
「必ず、お前に会いに来るから!」
コッペリアが抱き返してくることはなかったが、この瞬間にかなりの満足感を覚えながら、ニードルステニアはコッペリアから離れ、屋敷から出ていった。
◆◆◆
コッペリア。
ただのコッペリア。
数多の死体の繋ぎ合わせ、美しき肉人形。
主に愛玩され、客に弄ばれ、身体がひび割れることなく今日も存在している。
「コッペリア」
呼ばれたならすぐに駆けつける。主だろうと客だろうと関係ない。
声を発することができない肉人形は、メモ帳と万年筆で相手と会話する。『どうかされましたか?』『かしこまりました』と記された文字はどれも美しい。
容姿も文字も美しき肉人形は、暇さえあれば庭園の薔薇を眺める。
美しき薔薇に、親近感を覚えるのか、それとも──。
「コッペリア!」
密かに想いを寄せる誰かを、待っているのか。コッペリアが黙っている限り、それは誰にも分からない。