第14章 カンニング
第1話 夜明け前
日本における国民皆保険制度は一九五八年(昭和三三)にスタートした。
それまで一部の富裕層しか、医者にかかることができなかった。隆の生まれ育った四国の田舎には医療機関が少なく、多くが無医村であった。体調に異変を感じた人が何に頼ったかというと、祈祷、呪いだった。
隆はよく中耳炎を起こした。連れて行かれた先は、村の長老宅だった。呪いの心得があったらしい。何やら呟きながら、湯飲み茶わんに入った水を隆にかけていた。
虫歯が痛んだ時も、同じように呪いをしてもらった。
結局、耳鼻科と歯医者に行った。耳鼻科は隣の県だった。症状が悪化し、耳が聞こえなくなったので、隆の父親が決断したことによる。
誰も「あの呪い師は効かない」などとは言わなかった。そんな畏れ多いことを口にするのは、罰当たりこの上なかった。
病人が危篤状態に陥ると、村人は神社に集まり、奇跡の回復を願ってお百度を踏んだ。隆は一度だけ、村人が神妙な顔つきでゾロゾロと回っているのを見たことがあった。
乳幼児の死亡率も高かった。身を引き裂かれる思いで、親は病気で苦しむおさな児を背負い、医者に診せに行く。しかし、愛児は背中で冷たくなり、そのまま引き返したという話はめずらしくない。
権蔵爺さんの長女の場合もそうだった。乳飲み児の死に、村の衆は心を痛めた。
村の共同墓地には水子をはじめ嬰児・嬰女、孩子・孩女などの戒名が目に付いたものだった。
第2話 一心不乱
隆のクラスメイト・谷山の母親はがんで入院していた。
不安を紛らすためか、谷山の素行は輪をかけて悪くなっていた。新任の女性教員を殴ったこともあった。
谷山は勉強嫌いだった。谷山の住む村は、隆たちの千足村とは学校をはさんだ反対側にあった。よく授業の邪魔をし、学級の嫌われ者だった。
そんな谷山がある日、隆に話しかけてきた。
「英語、教えて」
という。
隆は我が耳を疑った。
「どうしたん?」
隆は訊いた。
「お母、長うないんやって。お母のこと考えるとつらいけん、勉強しとる」
谷山は、昨日、村の衆がお百度を踏んでくれた、と言った。
「明後日、病院へくるように言われとるけんど、オラは行かん。中間テスト受けるんや。英語だけは自信ないんや」
英語の試験は土曜の午前中にあった。
午後、谷山は親族とタクシーに乗って、母親のもとへ急いだ。谷山の姉は先に駆けつけていて、母親を看取ったが、谷山は母親の死に目に会うことはできなかった。
第3話 反乱
英語の答案が返された。
女性教員が講評する。隆は一問だけ間違えていた。隆の思い込みだった。
「ええっ」
と声を上げると
「小杉君だから、分かってたことにしましょう」
女性教員は満点にしてくれた。
隆は理解に苦しんだ。級友たちの手前、身の置き所に困った。
「後、九五点だった人がもう一人いました。谷山君です。だけど、これはカンニングですから」
教員は自信に満ちていた。
隆は立ち上がった。
「谷山はカンニングなんかしてませんよ。今回はほんとに勉強してましたよ。なあ、谷山」
後ろの席を見ると、谷山はうつむいたままだった。
「じゃあ、なんで、小杉君と同じところを間違えたのよ。おかしいでしょ」
授業が終わり、女性教員は不愉快そうに教室を出て行った。よりによって、ひいきにしていた隆の反乱だったからだ。
第4話 将来不安
千足村への道すがら、谷山の話になった。
谷山が英語で高得点を取ったことを、洋一は信じられなかった。
「だけど、洋ちゃん。うちのクラスの谷山やって、近ごろ授業中、真剣だったで。家でもきょうだい仲良う勉強しとったんと違う?」
修司は、よく観察していた。
「あの二人、可哀そうやなあ。ワシは小学校五年の時、親父が死んだ。今でも、親父に怒られとる夢を見ることがあるで。まあ、悪さはした。けど、ワシがやってないことまで犯人にされた。親父が生きとったら、学校に怒鳴り込んでくるで」
隆は洋一の父親の葬式を思い出した。
村の衆が庭に集まり、土葬の準備をしていた。山仕事での事故死であり、突然の悲報に村人は茫然としていた。庭の隅で洋一と和子が手をつないで、作業を見守っていた。
「ひどい話やなあ。これから谷山は手が付けられんようになるで」
従弟の変化を見てきただけに、修司は谷山弟のことを心配した。
隆はずっと考え込んでいた。
「修ちゃん。今夜、家に寄ってええ? 勲おじさんに相談したいことがあるんや」
第5話 悪霊払い
「谷山は頭ええわ。ちょっと勉強しただけで、隆と同じ点が取れたんやからな」
おじさんは感心している。
「まあ、先生にしてみたら、ふだん真面目に勉強しとる者ができん試験で、谷山のようなワルが簡単に、ええ点とったんやから面白うないわ」
「ボクは谷山がよう勉強しとるところ見た。試験の前の日も、遅うまで教えたんや。先生は同じ問題ができてないから、カンニングしたに決まっとるって言うんや。そう言われたらなあ」
「こういう考え方もできるで。隆が間違うたこと教えた。それがたまたま出た。それで二人とも解けんかったんや」
隆は思わず声を上げた。
「明日、谷山に優しゅうしてやりな。洋一も修司も、谷山の姉ちゃん見守ってやれよ」
おじさんは穏やかに言った。しかし、洋一は怒っていた。
「あの教師、のろい殺してやろか!」
「こらあ。しょうもないこと言うんやないで」
勲おじさんの声が追いかけてきた。隆と洋一は暗い夜道を帰って行った。
いつものように、英語の授業が始まった。
「先生。この前のテストのことですが…」
隆は挙手した。
「何? 小杉君。まだ何かあるの」
女性教師の目が険しくなった。
「ボクは納得できんので、夕べ、村の呪い師に見てもらいました。谷山君とボクが同じ問題を間違えたのは、教えたボクが勘違いしていたところだからだって言われました」
教師は何か気づいたようだった。
「そんなことより、ボクと谷山君に邪悪な霊が取りついてるって言われました。恐ろしいんで、お祓いをしてもらいました」
教室が一瞬ざわついた。隆と洋一が夜遅く帰ってきた理由が、和子には分かった。
女性教師の鼻がぴくぴく動いていた。
隆は正視に耐えられなかった。
修司の家に集まると、よくお祓いごっこをするようになった。
洋一と修司が隆の前にひざまずき、隆が榊の葉で、茶わんの水をかける。
「お前ら。長老に怒られても知らんぞ」
おじさんはクールな顔で言った。