第9章 毒 牙
第1話 野生児
千足村は隠れ里のような村である。
祖谷街道から対岸の山道に入り、二〇分あまり歩くと大きく道が右折する。ここで祖谷街道や祖谷川と別れを告げ、五分も歩くと、千足村が見えてくる。ちょうど。すり鉢に米粒でもくっつけたように家が点在する。
村の中央を千足谷が流れる。
隆たちが子供の頃、この谷は水が豊富だった。村人は谷から生活用水を引いた。谷の水は田んぼも潤してきた。
谷の源流は山深い奥地にあった。周囲から湧き水を集め、太い滝となって、岩を穿っていた。その後はゆるやかな流れとなり、祖谷川へと注いでいる。
この地方は四国とは言え、冬の寒さは厳しい。
千足谷はよく凍った。谷に近づくと、雪に覆われた岩の下から、かすかに水音が聴こえてきた。
凍った滝は見事だった。それは時間が停まった世界だった。動いているのは、氷と岩の間を伝わる谷の水くらいだった。
洋一も修司も隆も、一目見るだけで十分だった。全身が凍りつきそうだった。洋一の家で炬燵に手足を突っ込んで丸くなり、夏の日に思いを馳せた。
夏でも谷の水は冷たかった。五分と入っていられなかった。
谷にはジンゾク(カワヨシノボリ)やドブロク(ダボハゼ、ドンコ)、川エビがのんびりと泳いでいた。ヤマメやアメゴは動きがすばしこく、洋一くらいの名人でないと獲るのが難しかった。ウナギは夜、針にミミズをさして浸けておくと、簡単にかかった。
ウナギ、アメゴ、ヤマメはおいしかった。ジンゾク、ドブロク、川エビは鶏のエサになっていた。
洋一は隆を連れて魚獲りに行った。
隆は、千足谷や祖谷川で魚を追うのが楽しかった。ただ、よくヘビに出くわした。隆の一番の苦手だったが、洋一は平気でヘビを掴んだ。ヘビの尻尾を持ち、振り回した。恐れを知らぬ、このガキ大将にはヘビも降参した。
一度だけ、逆襲されたことがあった。洋一が山に身を隠そうとするヘビを足で押さえた。尻尾を掴んで引きずり出すと、相手は大きなヘビで鎌首をもたげて向かってきた。この時は、二人で一目散に逃げ帰った。
第2話 滝壺
千足谷にはところどころに、淵があった。
淵は夏場、天然のプールになった。中でも滝壺は幅一〇メートル、奥行き二メートルはあり、多くの子供たちで芋を洗うような状態だった。
その夏、権蔵爺さんの孫たちが千足村にきていた。三人の孫は村の子供たちとも顔見知りになり、遊びにも加わるようになっていた。
隆たちが滝壺で泳いでいると、三人が岸で見ていた。
村の子供たちは、男子はパンツ、女子はズロースだった。一方、爺さんの孫たちは水着姿で、ゴーグルも準備していた。末の女の子は浮き輪を抱えていた。
洋一が手招きすると、三人は滝壺に入ってきた。女の子は浮きにつかまって泳ぐ。上の二人の男の子は潜って淵の中を探索していた。
体が冷えてきたので、岸に上がった。
上の男の子は町の様子を話してくれた。洋一たちにとって、テレビでしか見たことのない世界だった。
「なあ。海で泳いだことある?」
隆が訊いた。洋一も知りたかったことだった。
「あるよ」
なんでもないような答え方だった。
「海って広いん?」
洋一が訊いた。
「そうや、大きな船が浮いてるよ。クルマ運ぶ船だってあるんやで。海は外国と繋がってるって聞いたよ」
洋一は、教科書に大きな船の写真が載っていたのを思い出した。
第3話 行方不明
権蔵爺さんの孫の話は、面白かった。いろいろ質問してみた。
「兄ちゃん。由美がおらん!」
真ん中の男の子が突然、大声を出した。
急いで、滝壺の中を見てみた。由美はいなかった。
遊んでいる子供たちに訊いてみた。やはり、知らない、という。
洋一と隆、爺さんの孫二人で谷を下り、淵を覗いて行った。どこにも、由美はいなかった。
「これだけ探してみつからんのやから、谷にはおらん、思うで」
洋一は考え込んだ。
「淵だけやのうて、岸も探してみよう」
今度は岸を重点的に探すことになった。子供たちが靴や上着を脱いだ場所に、由美の浮き輪がポツンと置かれていた。ますます不安が高まってくる。声を限りに由美の名前を呼びながら、岸を下に向かった。
「兄ちゃん。どうしよう」
爺さんの真ん中の孫は泣きべそをかき始めた。
「誰かに連れて行かれたのかな」
長男がポツリと言った。しかし、都会と違い、子供が誘拐されることなど、およそ考えられなかった。
「洋ちゃん。由美ちゃんは近くにおると思うで」
意外なことを言う。洋一は隆を見た。
「近くにおるんなら、なんで返事せんのや」
「返事できん理由が、あるんやないかなあ」
隆にも見当がつかなかった。
第4話 危機一髪
「洋一君。トイレはどこ?」
長男が我慢しきれなくなったみたいだった。谷の水で体が冷えたのだろう。
「トイレなんかないよ。どこかそのあたりに、しときな」
洋一はぞんざいに言った。
「都会の子やから、もしかして…」
隆は洋一に声を掛け、谷に通じる道の脇道に入って行った。
隆が考えたとおり、由美はしゃがんでトイレをしていた。
向こうを向いていた。水着をおろし、背中とお尻が丸出しになっている。由美は微動だにしていない。
隆を制して、洋一がそっと近づいた。
由美の前に、ヘビがとぐろを巻いていた。注意深く見ると、頭が三角形をし、胴は短い。マムシだった。
洋一は隆に目で合図し、マムシの後ろ側に回った。
洋一の手がスッと伸びてきて、マムシの首の付け根を掴んだ。隆は反射的に由美を抱きかかえたが、そのまま尻もちをついてしまった。
マムシはだらんとしたまま、動かなかった。
祖谷街道では昔、バスガイドが道端で小用を足していてマムシに咬まれ、死亡するという痛ましい事故があった。
咬まれた場所が場所だけに、バスガイドは誰にも話さず、帰宅して母親に報告するのがやっとだった。すでに毒は全身に回っていた。
(人間にとって、最も無防備な姿勢やな)
隆は身が引き締まった。
「由美ちゃん。怖い思いしたなあ。動かずによう、じっとしとったなあ。もう大丈夫や」
隆は由美を慰めた。
「早う忘れよう。このことは兄ちゃんたち、それから、お爺ちゃんやお婆ちゃんにも言わんといてな。みんな怖がるから」
洋一は由美の手を引いて、子供たちの遊ぶ滝壺に戻った。
第5話 口止め
孫たちは昼間の疲れが出たのか、いつもより早く眠りについた。
待ちかねていたかのように、婆さんが権蔵爺さんに話しかけた。
「由美がおかしいんや」
千足谷の遊びから帰ったので、婆さんが由美の水着を脱がして洗濯機に入れようとした。由美は婆さんに抱き着いてきて、号泣した。
「なんぞ、あったん?」
婆さんが訊いても、由美はただ泣くだけだった。
翌朝、権蔵爺さんは、由美を納屋に連れて行った。
「言うてみ。何があったんや」
やはり、由美は泣くだけだった。
爺さんは由美を叱った。
「誰にも言うなって、言われてる」
由美はやっと、それだけ答えた。
爺さんには事情が呑み込めてきた。
「なんぞ、されたんか? やったのは洋一か?」
由美は固く口を閉ざしたままだった。
権蔵爺さんは富江を、家の外に呼び出した。
「手癖が悪いだけじゃないんやな。なんぼ口止めしたって、ワシには分かるんや」
富江は棒を飲んだようになった。
富江は洋一を問いただした。洋一は取り合わなかった。それがますます疑惑を深めた。
富江は和子にそれとなく訊いてみた。
「ウチ、何も知らん。由美ちゃん、ちょっとの間、おらんようになって。みんなで探したけんどな」
「その時、洋一は何しとった?」
富江は最悪の場合も覚悟した。
「隆君らと一緒になって探し回っとったよ」
洋一は仕方なく、マムシのことを富江に話した。
富江は権蔵夫婦に会った。
「由美ちゃん、バスガイドさんみたいになるところやったんやって。洋一と隆は命の恩人やなあ。礼のひとつも言うてほしいわ」
富江には言いたいことは、いくらでもあった。