1 婚約破棄とビンタ
「すまない、君とは別に愛する人ができたんだ。俺は彼女と結婚したいと思っている。だから婚約破棄を……」
パシン!
婚約破棄を言い渡された侯爵令嬢クレアは、思わず婚約者であるオリヴァーにビンタを食らわした。ビンタされたオリヴァーも、その隣にいるオリヴァーの相手、令嬢アリーネも、唖然としてクレアを見つめている。
クレアの美しいプラチナブロンドの髪がサラリと靡き、宝石のような濃い青色の瞳は動揺して揺れている。クレアの手は小さく震えていた。
夜会の会場、たくさんの貴族が音に驚き、何があったのかとクレアたちを見始めた。
(や、やってしまった!)
気がついたら、いつの間にか手が出てしまった。でも、婚約してからは自分にあれだけ愛を囁いていたのに、突然他に愛する人ができたから婚約破棄しろだなんでいかれている。しかもここは夜会の会場だ。そんな所で婚約破棄を言い渡してくるなんて、やっぱり頭がおかしいとしか思えない。
そうは思いつつ、それでも自分がやってしまったことにクレアは青ざめ震えているが、オリヴァーは怒りをあらわにしてクレアを睨みつけていた。
「何をする!婚約破棄されたからと言って俺に手をあげるだなんてなんて女だ!やはりお前のような女と一緒にならなくて正解だったな!」
そう言ってオリヴァーはアリーネを連れてクレアの前から立ち去る。オリヴァーに肩を抱かれたアリーネはちらりとクレアを見ると、嘲け笑うような顔を一瞬だけ見せた。
(何、あの令嬢……!まるで奪ってやったと言わんばかりの顔をしてる)
あ然として二人の背中を眺めていると、周囲からヒソヒソと会話が聞こえてきた。
「あらやだ、婚約破棄?何もこんな場所で言わなくても」
「でも婚約破棄されたからってビンタを食らわすとは……怖い怖い」
「見た目は可憐でそんなことをするようには見えないが……人は見た目だけではわからないな」
「あれだけ気が強ければ婚約破棄もしたくなるだろう、話もろくに聞かずビンタするなんて、まるで悪女じゃないか」
事情を知りもしないで勝手なことを言われている。
(どうしよう、視線が痛い、ここにいてはいけない……!)
クレアは逃げるようにして会場を後にした。
ビンタ事件後、なぜかクレアがアリーネに嫌がらせをしているという根も葉もない噂が流れ、クレアは悪女だというレッテルを貼られることになった。
「どうしてビンタなんてしたの!しかもアリーネ嬢に嫌がらせまでするなんて」
「私、嫌がらせなんてしてません!」
「そんなことはどうでもいい!お前は我が家に泥を塗る気か?悪女なんて呼ばれて、お前にはもう婚約の申し込みなど誰からも来ないだろうな。全く、なんてことをしてくれたんだ」
両親からは責められるばかりで、誰もクレアを慰めてくれる人はいない。
(私が悪いの……?確かにビンタはするべきじゃなかったって思ってるけど、……でも勝手に浮気して勝手に婚約破棄してきたのはオリヴァーなのに、誰もオリヴァーを責めずに私が悪者扱いされるなんて)
両親との話が終わり自室に戻ったクレアはベッドの上に突っ伏した。
オリヴァーとは両親が決めた家同士の婚約だ。だが、婚約する際にオリヴァーはクレアに家同士の結婚ではあるけれど君を愛していきたいとそう言ってくれたのだ。婚約中もクレアに優しく、とても大切にしてくれて、これからこの人と一緒に生きていくのだと嬉しく思っていた、それなのに。
アリーネと一緒にいたオリヴァーは、まるで別人のようだった。自分の前にいたオリヴァーとアリーネの前にいるオリヴァー、どちらが本当のオリヴァーなのだろう。クレアの両目からはポロポロと涙がこぼれて止まらない。
(こんな時、ギアルお兄様がいてくれたら……)
母方の遠い親戚の子供で、小さい頃によく一緒に遊んでいた三歳年上のギアル。ギアルが成人してからは忙しいようでほとんど顔を合わせていなかったが、手紙のやりとりは毎月のように行っていた。
母方の遠い親戚の子供というだけで、ギアルがどういう家の出身なのか、どこに住んでいるのか、詳しいことはなぜか何も教えられていない。それでも、幼馴染で気が合い、クレアのことは妹のように可愛がってくれていた。
(ギアルお兄様だったらこんな時、きっと慰めてくれるのに……でも、悪女なんて呼ばれる私なんかに関わったら、お兄様に迷惑がかかってしまうわよね)
ギアルに会いたい。でも会えないし、ギアルのためにも会ってはいけない気がする。
小さくため息をついて、クレアはそっと瞳を閉じた。