第2話 ルーグリス公国の公女殿下
「みなさん、足下に注意してください」
ナギサは桟橋から下船する乗客たちに声をかける。
ディアナ号の出口から桟橋に向かってタラップが設置され、次々と乗客が降りる。彼らの行く先には、大勢の人々が出迎えていた。
島国アクアトリアは、ルーグリス公国からエストルヴィア連合王国に向かう中継地点だ。大型船は必ずアクアトリア港に立ち寄り、潮流が落ち着いてから、再び安全な海域までローレライが連れて行く。
「ばいばーい、ローレライのお姉ちゃん!」
ナギサが小さな女の子に手を振っていると、ルミナも下船してきた。
「ナギサさん、今回も上手に着岸できたわね」
「あっ、ごめんなさい。最後失敗しちゃいました」
船の着岸に失敗したことをナギサが謝ると、ルミナは首を振る。
「大丈夫。船も傷ついていないそうだから」
ルミナはローレライ協会の指導教官として、ナギサが水先人として海に出るまで育てくれた恩人でもある。彼女はアクアトリアを代表するローレライであり、アクアトリアだけではなく、隣国からも人気が高かった。
「ふふ。ナギサさんの歌もずいぶん上手になってきたわね」
「いえ! 今日の海はとてもいい子でしたから!」
ナギサが顔を赤くしながら手を振ると、ルミナはまた楽しげに笑った。
「あいかわらずね。あなたくらいよ、海をそんな風に言うなんて」
「あははは、ミサキちゃんからは変な子だって、よく言われます」
ローレライは歌や声によって海を操ることができる。
なぜそんなことができるのかは今も謎だけれども、この力はアクアトリア人の少女だけが持つ力だ。ナギサとしては、なんとなく海が自分の呼びかけに応じてくれている気がして、友達が力を貸してくれる気分だった。
あらためて目の前に停泊する巨大な船を見上げる。
「それにしても、まさかディアナ号を運べるなんて思いませんでした」
ディアナ号はルーグリス公国の豪華客船だ。
全長二百メートルを超える大型客船であり、乗客は千人を超える。乗客も上流階級の人々が多く、下船する人々の姿は華やかで美しい姿をしていた。
「こんな立派な船が来るなんて、何かあるんでしょうか?」
「ナギサさんは知らないのね。実はこの船には……」
ルミナが答えようとした矢先、船の出口の方がざわめいた。
そちらでは新聞記者たちが盛んに写真を撮っていた。
「えっ? どなたか有名な方がいらしたのでしょうか?」
船の出口を見れば、ひとりの少女が出てきた。
美しい金色の髪と翡翠のような瞳、そして白磁人形のように美しい顔立ち。ルーグリス公国の特徴である花をたくさんあしらった真白いドレスを身にまとっている。
彼女の登場に空気が一瞬にして張り詰める。下船していた人々がみんな、その場で足を止め、視線を彼女に向けた。ナギサもまた彼女に姿に心を奪われてしまった。
「ル、ルミナさん。あのとてつもなく綺麗な方は……?」
ルミナはふふっと笑ってから小声でささやく。
「あの方がルーグリス公国のシャーロット公女殿下よ」
「ええっ!? じゃあ、あの方がルーグリスのお姫様?」
ナギサもシャーロット姫の名前だけは聞いたことがある。
シャーロット・ルーグリス。ルーグリス公国の後継者だ。
ルーグリス公国はナギサが住むアクアトリアから海を挟んで東側にある国だった。
国土も島国アクアトリアの五倍以上はあり、古くからからルーグリス公爵家が代々国を統治してきた。シャーロットはルーグリス侯爵家のひとり娘でありまだ十八歳になったばかりと聞いている。
(シャーロット姫がいらっしゃっているなんて)
シャーロットの美しさは、隣国のアクアトリアでも話題になるほどに有名だった。まさかそんな有名人を間近で見られるとは思わなかった。
公女殿下はお付きの人々と共に、タラップを降りてくる。彼女は微笑みを浮かべて、優雅な足取りで、まさにお姫様らしい姿で歩いてくる。
(……こんなに綺麗な人がいるなんて)
間近に迫るシャーロットの顔にただ見惚れてしまう。美しい顔立ちと瞳に吸い寄せられるようになる。そのまま彼女の姿を見つめていると……。
どくん、と胸が強く高鳴った。耳の奥で小さな波がざわめくような音がしたかと思うと、それは言葉に変わった。
『シャーロットさん! シャーロットさん!』
ふいにどこからか自分の声が聞こえた。
風に運ばれるように柔らかく、けれど確かに彼女の名前を呼んでいた。誰の声だろう、と 辺りを見回したが、どこにも人の気配はない。
(……えっ? 今の声は何?)
はっとして我に返ると、シャーロットが目の前に立っていた。
「あなた、どうかしたの?」
怪訝そうにこちらを見つめるシャーロットを前に突っ立っていると、厳つい顔をした背広の男が前に出てきた。そして、目の前に立つナギサを強引に押しのけた。
「そこの娘、何をしている? 道を空けろ」
「ご、ごめんなさい!」
慌てて頭を下げて道を空けると、男はシャーロットに道を歩くよううながす。
「さあ、姫様、どうぞ」
けれども、シャーロットは背広の男の前に立ち止まってから彼を睨み付けた。
「ヴェスパー。あなた、何をしているの? 私たちはルーグリスの代表としてきているのですよ。乱暴な真似をすれば、我がルーグリスの名誉を汚すことになるわ」
「も、申し訳ありません、姫様」
ヴェスパーと呼ばれた男が両手を組んで頭を下げる。
シャーロットはナギサの前まで来て声をかけた。
「私の護衛が失礼な真似をして申し訳なかったわ」
「い、いえ、こちらこそ失礼しました!」
ナギサが慌てて頭を下げると、シャーロットはやさしく微笑んだ。
「次からは気をつけなさい」
その微笑みが美しくて、つい見惚れてしまう。彼女が黒いリムジンに乗り込んで、どこかに去ってしまうまで、ずっと見つめてしまった。
「……あの方がシャーロット姫なんですね。なんだか圧倒されちゃいました」
今までいろいろな外国船と旅人を迎えたけれども、お姫様を迎えたのは初めてだ。
ただでさえ、一国のお姫様として珠玉のような美しさなのに、わざわざこちらを気にかけて声をかけてくれるなんて、ずいぶんとやさしい方のようだ。
ナギサがリムジンを見送っていると、ルミナが隣から声をかけてきた。
「ナギサさん。協会に帰ったら、会長に会いに行ってみて。会長からあなたに頼みたいことがあるそうよ」
「えっ? 頼みたいこと?」
「ふふ、それは会ってからのお楽しみ。安心して、悪いことじゃないわ。」
ルミナの意味深な笑みに、ナギサはただ首をかしげた。