七:巡礼の果て
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秋が深まり、山々がすっかり真っ赤な紅葉に染まった頃。
私…犬居 星見は、あるご報告のため、北山の伏水神社を訪れていた。
高く聳える大岩の崖と、その足元に建つ小さな社。鳥居も狛犬も無い。その簡素な神社は、かつて最初に生贄となった娘の魂を祀る場所。早苗が、最後に神隠しにあった場所…。
けれど、そのお陰で。彼女の勇気のお陰で、今の私がある。
「……早苗。久方ぶりね。」
私は社の前で手を合わせ、上がる息を整え、内に秘めた思いを小さく口にした。
「私、すっかり体が良くなったのよ。こんな山奥まで、自分の脚で歩いて来たの…。不思議でしょう…。
治ったら、外を歩き回れるようになったら、一緒に物見遊山に行こうって、約束したわね…。」
もし早苗が生きていたら、きっと今の私の姿を見て、喜んでくれたに違いないのに。
「…それにね、私、輿入れが決まったのよ。
幼い頃からずっと面倒を見てくださってたお医者様。
犬居家の外に嫁ぐなんて思ってもみなかったから、不安はあるけれど…でも、とても楽しみでもあるの。」
私の夢にまで見た晴れ姿は、一番にあなたに見てほしかった…。
合わせている手が小さく震える。
早苗はその身を投げ打って生贄を受け入れたというのに、私一人が生き延び、幸せの絶頂にいる…。
ーーーせめて向こうでは、幸せに過ごしていてほしい…。
そう祈ることが、永らえた命と体を大切にすることが、今の私に出来る精一杯。
「………早苗…。」
ふと目線を下げた時、社の軒下に、鮮やかな色が見えた。
手の平に収まるくらいの朱色の小さな物。それは確かに見覚えのある物。
「あっ……。」
私は反射的に、それを手に取った。
よくよく見れば、間違いない。その朱色のお守袋は、儀式の前に早苗にあげた物だった。
生地が草臥れているけれど、破れも汚れもない。大切に肌身離さず持っていた証拠。
そして、気のせいかしら。そのお守袋は、まだほんのりと温みを持っている気がして…。
周囲を見渡してみるけれど、人の姿も生き物の姿もない。
私は再びお守袋に目を落とす。
「……早苗、なの…?」
そんなことがあり得るかしら。
早苗が今も生きていて、私のためにお守袋を返しに来てくれた…。そうであったら、どんなに幸せか。
「…ありがとう。今まで。」
私はお守袋を大切に握り締める。
社に向かって、早苗と、母様と、大勢の娘達の姿を思い浮かべながら、私は深く深く一礼をした。
***
御殿の湖の畔を囲う紅葉は綺麗な緋色を湛え、秋風が肌を優しく撫でる。
わたしは、一人で狗神御殿の裏…東屋にて、伏水様の墓碑にお祈りを捧げていました。
苔生す大岩。彫り込まれた文字はほとんどが欠けてしまったまま。
けれどわたしは、そこに刻まれていたかもしれない内容に、一つだけ心当たりがありました。
母様が寝る前に話して聞かせてくださった、狗神様のお話。わたしの好きな一節。
【ーーー早苗。斯様な場所で何をしている。】
「っ!」
背後から名を呼ばれ、わたしは思わずその場で、小さく飛び上がってしまいました。
その優しいお声は、
「…い、狗神様っ…。」
白銀の毛並み。大きな体。御殿の主である狗神様が、お供も付けずお一人で、東屋へといらしていたのです。
「も、申し訳ありません。すぐ参りますので、少しだけ…っ。」
【構わぬ。“今日という日”を皆が待ち侘びていた。心が落ち着かぬのも理解出来る…。】
狗神様は体を引き摺り、墓碑の前へと進み出ました。
その弱々しい姿に、わたしは力不足と分かっていながら、支えを買って出ました。
【すまぬな……。】
「いいえ…。」
触れればよく分かる。柔らかな毛並みと骨張ったお体。豊かな水と、森の香り…。
それはかつて狒々の池泉の森の中で、一人きりのわたしに寄り添ってくださった見知らぬ獣と、よく似た雰囲気がありました。
…でも、いいえ、そんなまさか。
【…早苗。そなたは、我を憎まぬのか?】
「え…?」
突然の問いに、わたしはすぐに答えられませんでした。
狗神様の声色は苦しげで、どこか自嘲的でもありました。なぜそんなことを問われるのでしょう…。
【我は永きに亘り、犬居家を呪いで縛り付けた。そして、そなたの母を殺した…。
なぜ、それほどまでに易々と、我を受け入れられる…?】
「………あ……。」
大きな深い琥珀の目が、わたしの姿を捉えます。
不思議と恐怖は無く、むしろこの方の求める答えをどうしたら正しく伝えられるか…しばし思案した末に、
「神様は恵みだけを授けてくださるものではないと、母様が教えてくれたのです。
雷雨と晴天の移ろいのように、荒魂も和魂も等しく、わたしは受け入れます…。」
ーーーそれに。あなたはわたしを“早苗”と呼んでくださった。
「…わたしのことを、ずっと見守っていてくださったのですよね。わたしが、狗神様にお祈りをしていたから。」
【………。】
幼い頃からの信心は一方通行ではなかった。
それが知れただけでも、わたしには充分過ぎるくらい。
狗神様は目を瞑り、わたしの答えを受け入れてくださいました。
【…我はじきに死ぬ。
とうとう、伏水と相見えることは叶わなかった…。初めから分かっていたことだ。
現世の何処にも、彼女は在りはしないというに……。】
「狗神様……。」
そう呟くと、狗神様は悲しげに項垂れます。
その横顔を見つめていた時、わたしの頭に、昔母様が教えてくれた“歌”が思い起こされたのです。
「………伏水の…、」
その歌い出しを聴いた時、狗神様の体がびくりと震えました。
「… 伏水の 湧きて流るる 山川を
岩苔の下 伏して待たなむ…。」
【………伏水の歌か。】
言い伝えでは、狗神様の最初の奥方様が、ご自身の最期に狗神様へ贈った歌。
ーーー山の湧水が、やがて豊かな川となって流れるように、私もいつか貴方の元へ帰ります。その日をいつまでも、苔生す立派な岩となって待っていて下さい。ーーー
「…命が尽きても、体が絶えても、魂となってきっとまた逢える…。
“死は終わりではない”と、…わたしにはそんな思いが読み取れます。
…お二人は、心から思い合ってらしたのですね。」
【…………。】
狗神様は、墓碑を見つめています。
ふと、悲しげだった横顔の中に、どこか安らぎにも似た色が浮かんだのが分かりました。
心の中で言葉を交わされたのでしょうか。狗神様は、やがて愛おしそうに目を細めます。
【…分かった…。
ーーーそなたの帰りを、伏して待つとしよう…。】
狗神様はわたしの腕にほんの少しばかり重みを預け、そうして小さな声で、切なげな遠吠えをひとつ上げられました。
…やがて、狗神様はわたしの顔を見ると、低く優しいゆったりとしたお声で仰いました。
【……参ろう。皆が待っている頃だ。】
「はい。」
狗神御殿の麓。白露神社には、既に大勢のお客様方が集まっていました。
君影様を始めとする雉子亭の皆様、南山の狒々王様とお猿様達、大勢の山犬の皆様。
緋色の毛氈の上に座り、広い境内に咲き誇る冬桜の花を見上げ、酒肴を召し上がっていました。
賑やかで和やかな雰囲気に包まれた境内は、秋の寒気の中でもとても暖かく、桜を愛でる様に、祝い事をする様に、人と物の怪に違いなど無いのだと実感します。
そう考えながらわたしは、新調された白無垢に身を包み、白露神社へ向かって歩んでいました。
帯に懐剣と手鏡を差し、頭に玉簪と、純白の菊花を差して。
わたしの隣を歩くのは、漆黒の紋付袴姿の仁雷さま。そして、仁雷さまとわたしのすぐ後ろを、同じ紋付袴の義嵐さまと、大きな体の狗神様がゆったりと続き、山犬の皆様がわたし達の後ろに長い行列を成します。
「ーーー早苗さん、緊張してる?」
仁雷さまは小声で、わたしの気持ちを案じてくださいます。
「…は、はい少し…。仁雷さ…、
あっ、い、“狗神”様…?」
「“仁雷”でいいよ。
貴女にそう呼ばれるのが、好きなんだ。」
好き。その言葉だけで、わたしは天にまで昇ってしまいそうな心持ちになるのです。
「はい、仁雷さま…。
まだ夢みたいに、頭がふわふわしています…。」
「大丈夫だよ早苗さん。
仁雷はきみの千倍緊張してるからね。」
すぐ後ろから、義嵐さまが楽しそうに、声を潜めて教えてくださいます。
それに反応する仁雷さまの反応も、すっかり見慣れた光景で。
「…ぎっ、義嵐…!
余計なことを、言うな…!」
わたし達が境内へ到着すると、お客様方は一時歓談を止め、待ち兼ねた嫁入り行列に視線を注ぎます。
本殿を降り、拝殿を過ぎ、行列はお客様の最も目に留まる“舞殿”へと続きました。
わたし達が誓うべきは、新たな狗神様を敬う、“この山に住む皆様”に対してだからです。
仁雷様とわたしは舞殿の中央に並び立ち、まず、北の山犬達に一礼を。東の雉達に一礼を。南の猿達に一礼を。そして、西の先代狗神様に深い一礼を。
それから、わたし達は互いに見つめ合います。
紋付袴姿の、凛々しく美しい仁雷さま。わたしの…旦那様となる方。その首に、もう首輪を思わせる刺青はありません。
仁雷さまが、わたしの化粧顔と白無垢姿を真正面から見るのは初めてのことで、たちまちお顔を朱に染め上げてしまいました。
「!」
その様子があんまりに素直で、可愛らしくて、わたしは失礼にも「ふふ…」と小さく笑ってしまうのです。
「……よ、よく、似合ってる。きれいだ…。」
「仁雷さまも、とてもお似合いです。」
それから、仁雷さまは声を落ち着けて、熱を帯びた瞳で仰るのです。
「早苗さん……その、何かと不束な俺だが、貴女を永遠に護り続ける。
信じて、どうかそばに居て。」
その言葉の、なんと力強いことでしょう。
彼のことを疑う余地が、たったの一度でもあったでしょうか。
巡礼の旅を経て、わたしはひどく泣き虫になってしまったようでした。
視界がぼやけてしまうのをグッと堪えて、彼の誠意ある誓いに応えます。
「ええ、もちろん。
ずっとずっと信じております。
わたしもまた、命尽きるまで、仁雷さまのおそばにいます。どうか、信じてくださいね。」
「ああ、いつも信じているよ…。」
この方の与えてくださる信頼と愛情に、この先ずっと長い時間をかけて、わたしは応えていきたいのです。
秋の実りを教えてくれる花野風が、わたしの頭に添えられた、真っ白な菊花を優しく揺らすのでした。
〈了〉