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狗神巡礼ものがたり  作者: 唄うたい
6/7

六:狗神御殿

 

 どれほどの時間、泣き続けたでしょう。

 声も枯れ、涙が尽きてもわたしは嗚咽を止められませんでした。

 今まで長い間…巡礼よりもっと前、母様が居なくなってからずっと、わたしは心の奥底に大切な感情を仕舞い込んでいたような気がします。


 子どものように泣いて泣いて、泣き疲れて、仁雷さまの腕の中で、わたしはいつしか意識を失うように眠ってしまっていました。



「…………う…。」


 浮上する意識に伴って、ゆっくり目を開けば、すぐ近くに琥珀色の瞳が見えました。

 仁雷さまはわたしの目覚めに気付くと優しく微笑んで、


「…おはよう、早苗さん。」


 温かな声色で挨拶をして下さいました。


「……おはよう、ございます…。」


 無意識にわたしも返します。

 提灯が(とも)る暗がりの中よりも、明るい朝靄の中のほうが、その穏やかなお顔がよく分かる…。

 連なる鳥居の合間に見える空は白んでいて、とうに夜明けを告げていました。


「……わたし、あのまま眠ってしまったのですね…。」


「ああ…。」


「…仁雷さま、ずっと……そばにいてくださったの……?」


 階段に座り込む仁雷さまの腕の中に、わたしの体は小さく収まっていました。

 安心する山の香り…池泉の洞の中でも、同じ安らぎを感じたことを思い出します。


「……わたしの想いを知って、きっと幻滅されたでしょうね……。」


「………。」


 仁雷さまは表情を少し曇らせますが、視線を逸らしはしませんでした。


「…でも、仁雷さまを困らせたい気持ちなんて…これっぽっちもないんです…。

 それだけは、信じてくださいませ……。」


「………。」


 口を閉ざし、わたしの言葉に耳を傾ける。


「わたしは犬居の娘ですもの…。

 きちんと、狗神様と向き合います……。」


 そう苦し紛れに微笑めば、



「俺も、正面から向き合うよ。

 貴女のお陰でやっと勇気が持てた。」


「え…?」


 言葉の意味は分かりません。

 そのすぐ後に、仁雷さまの顔がこちらへ近付いたかと思うと、


「…っ。」


 おでこに接吻をひとつ、落とされました。



 ゆっくり離れる唇。わたしはつられるようにそちらに目を向け、ぼんやりとした頭の中で、


「……いま……。」


 やっと、今起こった出来事を理解しました。

 頬が、体中が熱を持ちます。顔を離した、落ち着いた表情の仁雷さまと目が合うと、一層動悸が早くなりました。


「……あのっ、な、なぜ……その…っ。」


 仁雷さまの真っ直ぐな瞳に捉えられてしまい、逸らしたいのに逸らせない。

 けれど、


「ーーー早苗さん。

 俺を信じて、付いて来てくれるか?」


「………あ……。」


 この方は本当に不思議。

 その真っ直ぐな瞳に嘘偽りの無いことが、これほど自然に分かってしまう。


 わたしは高鳴る胸を抑え、顔を真っ赤に染め上げたまま、


「はい……っ!」


 はっきりと答えることが出来ました。



 行手を見上げれば、途方もない長さの階段と、千本鳥居が続く道。

 この長い長い階段を登らなければ。登って、狗神様にお目通りしなければ。


「…っ。」


 脚をふらつかせながら、わたしは何とか立ち上がろうとします。

 その危なっかしさを見兼ねて、仁雷さまが手を貸して下さいます。


「早苗さん、歩ける?」


「はい…っ。もう、落ち着きました……。」


「そうか。」


 彼はわたしの手を引き、体を支え、この先に待つ狗神御殿へと歩み始めました。

 前だけを見据える彼とは対照的に、わたしは足下に目を向けます。一段一段を踏み締める、自分の小さな足と、彼の力強い足とを見比べます。


 肩を並べて、足並みを揃えて歩いて行く。そんな未来を、知らず知らずのうちにわたしは夢見ていたのね。それに気付かせてくれたことだけは、あの生霊という存在に感謝しなくてはいけないわ…。


 永遠に感じられる時間の中で、ふと、石段が無くなったことに気付きました。

 頂上に辿り着いたのです。


「早苗さん、あれをご覧。」


「え……?」


 顔を上げたわたしの目に映ったのは、


「……わ、ぁ………っ!」


 思わず声を漏らしてしまうほどの光景でした。


 ここは山の上のはず。そんなことが有り得るのでしょうか。

 千本鳥居を超えた先には、見渡す限りの広大な湖がありました。その湖上には、真っ白な朝の空に溶けてしまいそうな、純白の柱が連なる“本殿”が建っていたのです。

 大きな切妻(きりつま)屋根の緩やかな傾斜が、左右対称に伸びています。

 澄んだ水面が本殿全体を鏡のように反射し、浮世離れした荘厳さ、溜め息の出そうな神々しさを放っています。無意識に、その場で手を合わせて祈りを捧げてしまうのです…。


「あれが狗神の御座(おわ)す聖域。

 狗神御殿(いぬがみごてん)だ。」


「…狗神様の、住まう場所…。」


 一層の畏怖を纏う狗神御殿。

 そこへ通ずる道は無く、行手は湖に阻まれています。


 仁雷さまはわたしの手を離すと、体を大きく震わせて、瞬く間に元の芒色の山犬の姿となりました。


【早苗さん、俺の背に。】


「はい…。」


 わたしは履き物をすべてその場に脱ぎ、それから躊躇いがちに芒色の毛並みに触れ、その広く大きな背に体を預けました。

 池泉の試練で、一晩中この背に乗って山を走り抜けたのが、もう大昔のよう。


 これが最後かもしれない。


 わたしは仁雷さまの、柔らかな毛の感触を、その美しい姿を忘れないよう、心にしっかりと刻み付けます。


「どうか、わたしをお連れくださいませ…。」


【ああ…。】


 わたしを背に乗せると、仁雷さまは躊躇うことなく、湖に体を沈めていきます。

 脚が、尾が、胴体が水に浸かったかと思えば、大きな体は驚くほど、ふうわりと水に浮くことが出来ました。

 背中の天辺にしがみ付くわたしは水に濡れることはなく、仁雷さまはそのまま前脚と後ろ脚で、緩やかに水を掻いて進みます。


 背後に遠のいていく岸。そして前方に近づく美しい本殿。

 その趣は大昔から現存する遺跡のようでも、はたまた、遥か未来に存在する構造物のようでもありました。


「……美しい、です…。」


 思わず漏れてしまう溜め息。


 やがて仁雷さまは、湖と本殿とを繋ぐ五段ほどの石階段を登り、水から上がります。

 体からポタポタと滴る水は、不思議なことに、仁雷さまが体を震わさずとも、次第に乾いていきました。

 その光景に、わたしの知る浮世とは異なる時空に足を踏み入れてしまったのかもしれない…と感じました。


 仁雷さまの背から降り、素足で本殿の真っ白な床板を踏み締めます。少しの軋む音もありません。

 奥を見遣れば、淡い朝焼け色の大きな(とばり)が下ろされています。


「あちらに……?」


 小さな声で訊ねると、仁雷さまはゆっくり頷きます。


 わたしは祈るように、胸の前で手を強く握り締めます。意を決し、その淡い薄絹の帷へと手を伸ばしました。


 帷の向こうは、白色に溢れた、広い広い母屋(もや)でした。

 滑らかな白木の板敷きの床。同じ素材の柱が左右対称に、等間隔で並び立っています。頭上に広がる折り上げ天井を見遣れば、白木の梁に縁取られた極彩色の花卉図(かきず)が、華やぎをもって出迎えていました。


 母屋を挟んだ左右には板張りの廊下と、それを覆う大きな(ひさし)が広がり、中央の母屋の中へと、薄明かりと澄んだ朝の空気を取り込んでいます。


「………!」


 そんな広々とした部屋の左右には、黒、茶、赤…色とりどりの大勢の山犬が()して並び、皆一様に(こうべ)を深く垂れていました。

 山犬達は部屋の最奥に鎮座する、彼らの“主神”の言葉を待っているようでした。


 わたしは最奥の上段に目を凝らします。


 高貴な繧繝縁(うんげんべり)の置き畳の上に、眩い白銀色の毛並みを纏う、大きな大きな山犬が横たわっていたのです。

 組んだ前脚の上に頭を預け、両の目を伏せています。背は薄らと苔生(こけむ)し、緑と白の混在する様はまるで大きな岩山のよう。それに、少し骨の浮き立った体もまた、その方が途方もない時間を生きてきたことを物語っていました。


 ーーーあの方が、狗神様…。


 わたしは息をするのも忘れて、狗神様のお姿に見入っていましたが、やがてその伏せられていた両の目がゆっくりと開かれました。

 吸い込まれそうな深い琥珀色の瞳が、立ち尽くすわたしの姿を映します。



【……そなた、早苗か。】



 低く穏やかなお声でした。

 何度想像したことでしょう。生まれて初めて耳にしたそのお声は、わたしの思い描いた何よりも、優しい響きを湛えていました。


「……はい、狗神様。

 犬居 早苗と申します。」


 わたしはその場に座り、膝の前で指先を揃え、深くお辞儀をします。

 人の姿へと変化した仁雷さまもまた、わたしの隣に歩み寄り、同じように膝をついてお辞儀をされました。


 わたし達二人の姿を、広間の左右に控える無数の琥珀の瞳が見張ります。



 狗神様は頭をもたげ、仰いました。


【そなたの匂い…確かに、犬居家の血の流るる者。

 此度の巡礼、誠に大儀(たいぎ)であった。】


 その狗神様のお声は、深く地の底から響くように、わたしの体に刻み込まれる…。

 指の一本すら動かせない緊張の中、わたしは言葉の先をじっと待ちます。


【雉、狒々、そして我等が山犬の信頼に足る覚悟…確かめてさせてもらった。

 我が生霊の誘惑にも、そなたは屈することなく、我が前に辿り着いた。】


「………。」


 その時わたしは、蒔絵の手鏡によって正体を現した、山犬の生霊の姿を思い起こしました。

 あれは…そう。白銀色の毛並みと深い色の瞳は、今目の前におられる狗神様な姿そのもの。


 ーーーそうか、やはり、そうなのですね…。


 母様は、狗神様の手によって…。



【最後に問う。

 そなたの心は、変わらず狗神に()るか?】


 辺りがしんと静まり返りました。

 山犬達は皆耳を澄まし、わたしの返事を待っています。


「……………っ…。」


 長い長い沈黙の後、わたしは搾り出すような声で答えました。


「……い、狗神様…わたしは……、

 お、お願いがあって……参りました。」


 声が、体が震えてしまう。緊張のために、ひどく喉が渇く。

 けれど、口を閉ざしては駄目。決して目を逸らさず、畏れ多い狗神様の瞳を真っ向から見つめます。


 “行く先”を変えるのは、今を歩く者の務めだと思うから。


「…犬居の娘達を、狗神様の“呪縛”から…解放していただけないでしょうか…。」



 わたしの発言を聞いた途端、広間に集まる山犬達の間に、(どよ)めきが起こりました。


 低い低い唸り声。批難の意味を持つ鳴き声。

 恐れた通り、わたしの願いは山犬達にとって、到底受け入れることが出来ないものでした。


 飛びかからんばかりに身を乗り出す山犬達。

 しかし彼らを牽制したのは、わたしのそばに座る仁雷さまでした。


【ーーーッ!!】


 山犬達の誰よりも低く響く咆哮が、人の姿の仁雷さまから発せられました。

 空気がびりびりと震える。そのあまりの迫力に、敵意を剥き出しにしていた山犬達は、逆立っていた毛をすっかり寝かせて、竦み上がってしまいました。それにより、わたしへの批難の声はぴたりと止んだのです。


「………仁雷、さま…。」


「……早苗さん。

 貴女は貴女の思うままを言葉にして。」


 呆然とするわたしに対して、仁雷さまが静かに言葉の続きを促しました。



【ーーー早苗。何故そう願う?】


 狗神様の声が一層低く響き渡りました。

 鋭くなった眼光に射抜かれながらも、わたしは勇気を振り絞り、思いの丈を打ち明けます。


 懐に収めたお守袋を、両手でぎゅっと握って…。


「……わ、わたし達、犬居家は…長きにわたり、狗神様の息づくこの土地で、狗神様のご加護を受け、お家を繁栄させて参りました…。


 ……ですが犬居家は、狗神様に依存することでしか、生きる道を知らないのです…。

 体を病魔に冒されながら、いつしか己の足で立つことも出来なくなり、狗神様の捧げ物として形ばかりの家族を増やし、赤ん坊は名を与えるよりも先に、“血の濃さ”を喜ばれる…。」


 一度口をついて出た言葉は止まりません。淀んでいた口調はわたしの思いに比例して明瞭になっていきました。


 本家の子と、妾の子。

 そこに、血の濃さ以外に何の差があるというのでしょう。


「そんなものは…真っ当な(せい)などではありません。」


 わたしの発言は、不敬も甚だしいものでした。

 狗神様を祀り、大切に敬い続けてきたご先祖様への侮辱。

 何より、ご先祖様が信じてきた“狗神様”の否定に他なりませんでした。



【そなたの言う、“真っ当な生”とは何だ?】


「…………。」


 わたしは、巡礼の最中に胸の奥で目まぐるしく変化していった、感情の波のことを思い起こします。


 初めの頃のわたしはこの巡礼を、死にゆく最後の通過儀礼くらいにしか、考えていませんでした。

 さほど思い入れの強くなかったお(いえ)のために、過酷な旅を強いられることを悲しみさえした…。


 …けれど、多くの方の考えに、温かさに触れる中で、


「…わたしはこの巡礼の旅で、ようやく…ようやっと、人らしい生き方を知れた気がいたします。


 生きる為に食べること…死にたくないと願うこと、誰かのために怒ること…誰かを心から愛すること…。

 死の結末が分かっている旅だとしても、これほど心豊かな経験は、生まれて初めてだったのです。」


 狗神様の聖地を巡る旅。それは同時に、歴代の犬居の娘達の軌跡を辿る旅でもありました。


 母様が命を賭してわたしを生かしてくださった…。その想いが今ようやく、わたしにも理解できる。


 わたしは仁雷さまに目を向けます。

 彼もまた、落ち着いた眼差しを向けてくださいます。それだけで、わたしの心はとても軽くなるのです。


「人身御供に怯えることのない日々。

 野山を駆け回り、心の赴くままに生きていける日々。

 血ではなく、名で呼び合える日々…。


 そんな未来を、わたしの後に残された娘達には、与えていただきたいのです。」


 それはわたしの、一世一代の我が儘でした。


 なんと手前勝手な申し出でしょう。

 しかし不思議と、体から緊張は消えていました。山の沢のせせらぎのように、わたしの心は穏やかなものでした。


【…後世の者達の自由の為に、そなた一人の命で(あがな)うと。


 そなたの我が儘一つで、連綿と繰り返されてきた風習を覆せると思うのか?


 ーーー狗神が聞き入れると思うのか?】


 狗神様の目がゆっくり細められます。

 けれど、わたしの中にもう恐れはありませんでした。



「聞き入れていただけるまで…わたしは何度でも乞い願います。」



 だって、わたし自身が決めた役目を全うせずに死んでしまったら…命を懸けてくださった母様に、顔向けが出来ませんもの。



 時が止まったように、御殿は静寂に支配されました。

 見つめ合う狗神様とわたし。唸り声どころか身動き一つせず、言葉の先を見守る無数の山犬達。


「……………。」


 そんな中、唯一静寂を切り裂く者が()りました。


「ーーーお(やかた)様。

 俺からも、お願いがあります。」


 それは、わたしの隣の仁雷さま。

 少しの躊躇もない堂々としたお姿は、とても美しいと感じます。


 仁雷さまは狗神様の目を真っ直ぐ見つめながら、ご自身の指先で、ご自身の“首”に触れました。そこには初めてお会いした時から、首輪のような黒い刺青が刻み込まれています。


「どうか、俺に掛けられた“封言(ふうごん)の呪い”を解いていただけないでしょうか。」


 仁雷さまの口調は落ち着いていますが、その芯には揺るがぬ決意のようなものが宿っていました。


 狗神様は口を閉ざしていましたが、やがて、


【…話の決着は、そなたの役目のようだ。仁雷。】


 深い深い溜め息を吐かれました。

 その呼吸は風となり、仁雷さまの体を撫でます。そうして、首の刺青模様を優しく消し去っていきました。


 首輪の解けた仁雷さまはわたしの方に向き直り、わたしの手を取って、その場に立ち上がらせます。


 仁雷さまの手に力が込められます。

 どきどきしてしまいそうな熱い視線で、真剣そのものの面持ちで、わたしに仰ったのです。



「早苗さん。ーーー俺が“狗神”なんだ。」




「…………へ………?」


 突然のことに、あまりに素っ頓狂な声を漏らしてしまいました。

 自分の耳を疑います。何か今、とんでもない聞き違いをしたみたいで。


「…え…ご冗談、ですか……?」


 困惑して訊ねますが、仁雷さまのお顔に冗談の色は微塵もありません。

 小さい子どもに言い聞かせるように、ゆっくり教えてくださいます。


「本当だよ。

 早苗さんが巡礼を達成した時点で、それは決まっていた。

 あちらに鎮座している山犬は確かに狗神だが、此度の“祝言”をもって、代を替わる。


 俺が、次の狗神を襲名するんだ。」


 仁雷さまの言葉は、さらにわたしを困惑させました。

 だって、何もかも初耳なのですもの。


 その困惑はわたしだけでなく、その場に集まっていた山犬達にも伝染していました。

 狼狽の声が左右から雪崩のように巻き起こる…。そんな中でも、仁雷さまの声はハッキリと耳に届くのです。


「……し、祝言…?どなた、の……?」



「早苗さんと、俺の祝言だよ。」



 わたしはとうとう、素っ頓狂な声さえも上げられなくなりました。頭がちっとも追いつかないのです。今聞いた言葉は、今見えている光景は、真実?それとも、狗神様の生霊が見せている夢…?

 だって、夢を優に超えているのだもの。


「……え、祝言?でも、わたし…生贄に…。

 い、命を捧げるために……。」


 わたしは必死に頭を回し、犬居の娘の使命を思い出します。

 それは狗神様の生贄となること。その身と、命を捧げること。そう幼い頃から教えられ、皆当たり前のことと認識していました。そう認識してきたはず…。

 答えが知りたくて、わたしは仁雷さまのお顔を、穴が開きそうなほど見つめてしまいます。


「…早苗さん。歴代の犬居の娘達は、皆一つの目的のために、狗神に捧げられたんだ。

 それは、“狗神の子を産む”ことだ。」


「………い、狗神様の、お子…?」


「そう。つまりは嫁入りのため。

 …けれど人の身では、山犬の“多産”には耐えられない。娘達は皆一様に、十年も経たずして亡くなってしまったんだ…。」


 わたしはようやく理解します。だから狗神様は、十年毎に娘を欲していたのです。


 神様が子孫を望むなんて、わたしは考えたこともありませんでした。ただ漠然と、娘達の命を…文字通り“喰らって”いたのではないかと、そんな無礼な考えが頭を過ぎったことも、一度や二度ではなかったのです。


 わたしの顔は、己の大変な思い違いによる後悔で、ひどく歪んだことでしょう。その胸中を、仁雷さまは察してくださいました。


「…早苗さんが怯えるのも無理のないことだよ。人の身からすれば、山犬は恐ろしい。考えなど読めないのが自然だ。


 “神”と呼ばれていても、その実、長い年月を経て力を蓄えた“あやかし”に過ぎないのだから。……しかし、」


 仁雷さまの握る手に、一層力が込められました。


「これだけは信じて。

 狗神も、山犬達も、決して奥方を虐げたりはしなかった。

 人の世を追われてしまった彼女達の拠り所になれるよう、山犬族一丸となって、彼女達を護り続けたつもりだ。


 …それでも、彼女達の身体を利用した挙句、死なせてしまったことは紛れもない事実。

 …そんな理不尽を嫁入りなどとは呼べない。生贄と同義だ。」


 あんなに落ち着いて優しげだった仁雷さまのお顔が、苦しげに歪められました。

 そのお顔からは、仁雷さまや皆様が、どれほど憐れな娘達を想っていたか。彼女達の死をどれほど悔やんでいるかが、痛いほど伝わってきたのです。


 もう話さないで…。そう胸の内で願えども、仁雷さまは己の使命を全うするため、わたしにすべてを打ち明けてくださいました。


「ーーーそんな悲しい風習を辞めさせたくて、俺は狗神と約束をした。


 今回の犬居の娘が巡礼を達成したら…その方を初めての奥方として娶り、俺が狗神の名を引き継ぐ。


 …生贄の連鎖を断ち切るためとは言え、貴女を危険に巻き込んで、今までずっと黙っていて…ごめん。


 …そして、俺を信じて来てくれて、本当にありがとう…。」



 優しく微笑むそのお顔は、わたしの知る、本来の仁雷さまのものでした。

 ずっと理解の追いつかないままだったわたしの頭が、次第に明瞭に形を持って、


「………わたし、は、」


 胸が一杯になって、自然と目から涙が溢れたのです。



「わたしは、生きて良いのですか…?

 生きて、仁雷さまの…おそばにいて良いのですか……?」


「…むしろこっちが願い上げるよ。

 …早苗さん、どうか、俺と夫婦(めおと)になってほしい。」



 夢なのではと錯覚してしまう。

 夢にまで見た仁雷さまのお言葉を断る理由が、一体どこにありましょうか。


 わたしは嗚咽混じりの声で、胸一杯の幸福感を抱えて、小さく小さく「はい」と答えたのでした。



 ーーー



 仁雷さまとわたしは、狗神様に誘われるまま、狗神御殿のさらに裏手にある大きな東屋(あずまや)へと移りました。


 美しい狗神御殿の景観を望める位置。湖上に浮かぶように、東屋は建てられていました。

 屋根と柱のみの構造で、東屋の中央には一つの大きな岩が立てられています。


 狗神様と、仁雷さまとわたし。そして狗神様のお供として、人の姿の義嵐さまも一緒に。…ただ、義嵐さまのお顔は思い詰めたような険しいものでした。



 狗神様はわたしを、その岩の前へと案内します。

 わたしの身の丈よりも少しばかり大きな、|苔生した岩。とても古いもののようで、表面に刻まれた文字も、ほとんどが欠けて読めなくなっていました。


「……これは…?」


 わたしは狗神様のお顔を見上げます。

 すると、どうでしょう。狗神様の威厳ある瞳が、今はとても寂しげな色に変わっていました。それはどこか、山犬の姿の時の仁雷さまと、似た雰囲気を纏っていました。


【最初の犬居の娘。伏水(ふしみ)墓碑(ぼひ)だ。】


「…伏水、様。」


 その名には、覚えがありました。山犬の岩場に建てられていた小さなお社の名です。


 狗神様が大岩に変化した逸話の中で、救い出した娘の一人と恋に落ち、結ばれた。その方こそ最初の犬居の娘であり、わたしのご先祖様。


 狗神様は懇々(こんこん)と語られます。

 そこには、これまで犬居家に言い伝えられ教えられてきた逸話のどこにも載っていない、狗神様ご自身の“想い”が宿っていました。



 狗神様の最初の奥方様…伏水(ふしみ)様が亡くなられたのは、狗神様と祝言を上げ、ほんの十年の(のち)でした。


 原因は仁雷さまのお言葉通り。山犬の多産に、人の身の伏水様が耐え切ることが出来なかったためでした…。


 狗神様を始めとするあやかしにとっては、“十年”とは瞬きに等しい僅かな時間。それでも、狗神様は伏水様の死を受け入れることが出来なかったと言います。


 狗神様が選ばれたのは、“現世”での繋がりでした。



 狗神様は犬居家に命じられました。

「犬居家をこの地に住まわせ守ることと引き換えに、十年に一度、犬居の血を引く娘を一人、生贄に差し出すように。」

 そのお言葉の根底には、狗神様ご自身の血と、伏水様の血を絶やさないため、という目的があったのです。


 長い年月をかけて、外山からも多くの山犬がこの地に流れ着いて来たといいます。義嵐さまもその内の一頭。

 それでも狗神様は一貫して、昔からの風習を変えることはなく、犬居の血を引く娘を娶り、交わり続けたのでした…。


 …けれど、長い年月をかければかけるほど、血は薄まるもの。

 狗神様のご記憶する伏水様の血の匂い。それが、年々薄らいでいくという…。犬居の娘達にも、伏水様の面影は最早ありません。

 それでも狗神様は、伏水様を忘れることが出来ませんでした。


 “伏水の生きた証を失くしたくない”。


 純なる愛だったはずの想いは、いつしか強い強い“呪い”へと変わり、狗神様ご自身を縛り付けるようになりました。


 親族内で混じり続けた罰であるかのように、体を病魔に蝕まれる運命を辿った犬居家。薄れていく伏水様の血。いずれは寿命を迎える狗神様…。終焉(しゅうえん)の未来が見えていても、ご自身ではこの風習を辞めることが出来なかったのです。



 …そんな時、声を上げられたのが、他でもない仁雷さまでした。


 それは十年前。わたしの母…秋穂が道半ばで命を落として間も無くのこと。


「…お館様。

 どうか狗神の座を、俺にお譲りいただきたい。」


 血と病と悲しみに塗れた風習。ご自身の呪いに蝕まれ続ける狗神様。

 お使いとして、一番そばで見ていた仁雷さまだからこそ、口に出来たお言葉でした。


【…名を継いで何とする。そなたが、この重圧を引き受けるとでも申すか?】


「……何ともしません。山犬も、犬居家も、血に拘りすぎたのです。

 …そして貴方も、伏水様の亡霊から解き放たれるべきです。」


【…………………。】


 長い長い血の呪いは、唯一仁雷さまが解放の糸口を握っていたのです。


 狗神様は一縷の望みをかけて、仁雷さまに賭けを申し出られたのでした。


【……では仁雷。十年を経たら…ーーー、】



 ーーー



「…俺がこれまで抱いていた、風習への疑問。

 それを変える勇気をくれたのが、秋穂さんと…義嵐、お前だった。」


 仁雷さまの呼び掛けに、義嵐さまの肩がびくりと震えます。


 そのお顔は浮かないまま。義嵐さまも、わたしや山犬達と同じく、仁雷さまの襲名の件を知らなかったのです。思うところは、山ほどあることでしょう…。


「…すべては、俺の決心が付かなかったせいだ。義嵐…そして、早苗さん。本当に申し訳ない……。」


 深く深く頭を下げる仁雷さまに対して、


「………謝るのは、仁雷じゃあないだろうが。」


 義嵐さまはとても冷たい目付きで、主神である狗神様のことを睨み上げました。


 常に優しく温和だった義嵐さまの、見たこともない恐ろしい表情。それは彼が必死に押し殺してきた、本当の心の表れでした。


「……“伏水様”を理由に、数多の娘達を(ほふ)ってきたのは、爺さん…お前じゃないか。

 おれがお使いの立場でなかったら、お前の喉笛を真っ先に噛み切ってやりたいよ。お前が……秋穂さんにしたように…っ!」


 山犬の声混じりに唸る義嵐さま。

 しかし狗神様は、その覇気に気圧されることはありませんでした。


【…弁解はすまい。

 秋穂から犬居の血が嗅ぎ取れなかった。そして、我への信心だけではなく、愛娘と…愛する男を想う心があの者を動かしていた。


 …その事実は、我が長年守り続けた風習の崩壊に等しく、…我にはそれが、何より恐ろしかったのだ。】


 狗神様は、目を背けませんでした。

 この上なく悲しげな色を湛えて、後悔の色を滲ませて、義嵐さまを見つめるばかり。


 その姿を目の当たりにした義嵐さまから、怒りに囚われていた義嵐さまから、次第に勢いが失われていきました。

 腕を下ろし、声を震わせて、


「……おれは野良で、あんたと血の繋がりはないよ。秋穂さんも犬居の血は持ってなかった。でも、確かにあんたへの信心はあったじゃないか……。


 たかが血に何を拘るってんだ…畜生…。」


 義嵐さまはとうとう、力無く項垂れてしまいました。


「……でも、あんたはいずれ死んでくれる。代替わりして、仁雷が次の狗神になる。最高じゃないか…。」


 “最高”と仰る義嵐さまは、今にも泣きそうなお顔をしています。それがただの痩せ我慢だということに、気付かぬはずがないのに。


 気付けばわたしは、義嵐さまの下ろされた手を、離さぬようにしっかりと握っていました。


「義嵐さま…。

 きっと母様は、義嵐さまが身を挺してわたしを護ってくださったこと、とても感謝しています。そしてわたしも…。


 母様の願いを叶えてくださって…、

 本当に、本当に、ありがとう。」


 義嵐さまの悲しみに沈むお顔をなんとかしてあげたい。その一心で、わたしは微笑みました。


 けれど義嵐さまは、


「早苗さん……。

 ああ、くそ、本当に…似てるなぁ…。」


 我慢が堪えきれなくなったように、涙を溢れさせてしまったのです。


 漏れ出る嗚咽。手の甲で拭えども、拭えども、溢れ出る涙。

 濡れた琥珀の瞳が、わたしの顔を寂しげに、そして愛おしげに見つめます。


「…おれはずっと、秋穂さんとの子どもが欲しかったんだ。

 秋穂さんに似て、美人になるだろうって…。それはまさに…君なんだ…。

 今だって…喉から、手が出るほど…。」


 その先は、嗚咽にかき消されて言葉にすることは叶いませんでした。

 けれど、思いを途切れさせたくなくて、言葉の先をわたしが引き継ぎます。一点の曇りもない本心で。



「わたしはもう、義嵐さまの娘です。」



 言葉が、想いが届き、義嵐さまは一層涙を零しました。

 けれど、確かにわたしに伝わる声で、



「……ありがとう、早苗………。」



 そう、名を呼んでくださったのです。



 ◇◇◇



「……仁雷、すまなかったな。

 …早苗さんに言いたいこと、山ほどあるだろ?ゆっくり話しておやりよ。」


 やがて義嵐は、未だ溢れ続ける思いをグッと堪え、話の先を俺へと継いでくれた。


「……ああ。ありがとう、義嵐…。」


 伏水様の墓碑の前で、早苗さんと俺は向かい合う。その美しい黒い瞳に吸い込まれそうになる。

 未だかつてない緊張に襲われながら、俺は言葉を搾り出す。


「………その、早苗さんを騙していて、も、申し訳ない…。」


 さっきまでの気丈な俺はどこへ行ったのだろう。

 狗神の座を要求した時よりも、山犬達の前で宣言した時よりも、俺は早苗さんを目の前にすると緊張でどうにかなってしまいそうなんだ。


 俺の焦りを察してか、早苗さんは黙って微笑んでくれる。そのお陰で、ほんの僅かに緊張が和らいだ。


「…初めて会った時、“俺の奥方になるかもしれない人”と思うとひどく心が乱れてしまって…不恰好なところもたくさん見せてしまったと思う…。


 死と隣り合わせの巡礼の中で、自分の意志を貫いて前を進む貴女に、俺は惹かれていったんだ…。」


 なおも黙って耳を傾けてくれる早苗さん。

 …図らずも(ずる)い方法で彼女の本心を知ってしまったから、せめて男らしく、俺も本心を伝えなければと思った。


「もし許してくれるなら、

 …俺は貴女を、死ぬまで護り続けたい。」


 俺は懐からある品を取り出す。

 岩場から採った琥珀の勾玉が付いた、手製の玉簪(たまかんざし)だ。


 その勾玉に、早苗さんは見覚えがあるはず。


「…仁雷さま、これ、岩場のお堂で……。」


「…そうだよ。貴女が拾ってくれた物。

 すべての試練を達成した証として、この(ぎょく)(かんざし)を受け取ってもらいたいんだ。」


「………かん、ざし……。」


 早苗さんは何かに気付いたように、目を大きく見開く。


 懐剣、手鏡、簪…それらは人の世でいう、“嫁入り道具”だ。

 犬居の娘達が巡礼をやり遂げた暁には、奥方として受け入れたい。その思いを込めてこれまで三種の宝を贈り続けたが、その風習ももうこれが最後。


 俺が恐る恐る、彼女の綺麗な纏め髪に簪を差すのを、早苗さんは涙を浮かべながら、受け入れてくれた。



「…早苗さん。

 この山には大勢の山犬や、物の怪達、それに貴女達人間もいる。血の優遇なく、皆で支え合い、考えを混ぜ合い、山を治めていこうと思うんだ。

 勿論、賛同してくれる者ばかりじゃない。辛く険しい道になると思う。


 …そんな道を、生涯隣で支えてくれる存在が早苗さんであったら、これほど幸福なことはない。」


 彼女を決して死なせない。

 例え“狗神の血筋が途絶える”結末になろうとも、俺は生涯早苗さん一人が居ればいい。


 早苗さんがいいんだ。



「はい…。どこまでも一緒に参ります。

 仁雷さまと、義嵐さまと、わたし。本当の家族になって。」


 俺の体を押し潰す勢いだった緊張が、ふと和らいだ。

 早苗さんが右手で俺の手を、そして左手で、背後に控える義嵐の手を握ったのだ。


「…おれ達三人が、家族?」


「はいっ。…だって、約束してくださいましたでしょう?

 わたしを護り抜いてくださるって。」


 早苗さんの屈託のない笑顔。

 それが今までどれほど俺の、俺達の救いになってきたか分からない。


「……ほんっとうに、破天荒娘だなぁ…。」


 義嵐の軽口も、涙声では格好が付かなかった。

 そして俺も。


「……ハハ、義嵐が父で、俺達がその子どもか。…それも悪くないな。」


 俺達三人はそれぞれの顔を見つめ合う。

 紅潮する顔と、潤む瞳。こんな気持ちは、“何百年”も生きてきて経験の無いことだった。


 生まれて初めての幸福感に包まれながら、俺は視界の隅で見守ってくれる、伏水様の墓碑に願うのだ。



 “…もう、大丈夫ですよ。

 だからどうか心安らかに。…母上。”



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