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狗神巡礼ものがたり  作者: 唄うたい
4/7

四:狒々の池泉

 

 また鬱蒼とした獣道を歩くものと覚悟していましたが、南方へ続く道はとても緩やかな人工道でした。


 昔、南の山から初めて砂金が採掘され、犬居家が採掘事業を展開した歴史があります。山の豊富な資源と、金山(きんざん)の開拓によって、犬居家は莫大な財を築きました。その頃に運搬のための道が整えられ、採れた砂金を都まで運んでいたといいます。

 現在ではほとんど資源は枯渇してしまったため、この道を使う必要も無くなってしまったとか。



 お日さまは天上高くに昇っています。

 朝早くに出立(しゅったつ)してから歩き通し。人の身であるわたしはどうしても、すぐに足に限界が来てしまうのです。


「………はぁ、はぁ…。」


 歩みが遅くなったことに気づき、仁雷さまが足を止めます。


「早苗さん、疲れたよな?

 ここらで休憩しよう。」


「…はぁ、す、すみません。少しだけ…。」


 少しの間、腰を下ろして休めば大丈夫…。

 そう思って少し目線を先にやると、義嵐さまがこちらに手を振っているのが見えます。


「おーい!ここ!ここで一服しよう!」


 義嵐さまが指差す方向を見れば、一軒の小さな茶屋があります。

 ああ、嬉しい。ほんの一瞬足の疲れも忘れて、わたしは仁雷さまと駆け出します。



 茶屋へ着くと、既に義嵐さまが三人分のお茶と、串団子を頼んでくださっていました。

 腰掛けに座り、疲れた脚を目一杯伸ばします。


餡子(あんこ)(くる)んで焼いた、焼餡団子(やきあんだんご)。ここの名物なんだとさ。おあがり、早苗さん。」


「まあ…!ありがとうございます!

 いただきます。」


 お盆に乗った串団子を一本つまみます。その香ばしい匂いを胸一杯に吸い込めば、それだけでさっきまでの疲れが吹き飛んでしまいそう。


 串に刺さった三つの玉のうち、一つ目を口に運びます。

 口いっぱいのお団子をよく噛んでよく噛んで…、


「んん〜〜!」


 餡子の甘味のなんて奥深いこと!お団子表面の香ばしさが、さらに甘味を引き立てています。

 お団子をよく噛み、味わい、飲み込むまで、わたしは何かの儀式のように、ひとつひとつの動作を丁寧に行なっていました。


 そんな様子がおかしかったのか、右隣に座る義嵐さまが笑います。


「ハハッ、本当幸せそうに食うなぁ早苗さんは。」


「あっ、す、すみません。夢中で…。」


 ふと、義嵐さまの指が、わたしの口元に伸びました。

 親指がわたしの唇を優しく拭い、そのままご自身の唇へ。


「口に餡子付いてるぞ。落ち着いて食べな。」


「あ、わ……あの、ありがとうございます…。」


 わたしときたら、まるで小さい子どもみたい…。あまりに恥ずかしくて、顔が熱くなってしまいます。

 義嵐さまとわたしのやり取りを目の当たりにした仁雷さまは、何か恐ろしいものを見たかのような引き攣った顔をしていました。



「………。」


 義嵐さまはご自分のお団子を食べることを後回しにして、わたしの顔をじっくりと眺めています。


「………。

 義嵐さま?どうかなさいました?」



「早苗さんはさ、美人(・・)だよなぁ。」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしと、そしてなぜか仁雷さまも、二人で息を呑みました。

 義嵐さまがそんな言葉を口にするとは、夢にも思わなかったのです。


「そ、んなことっ!

 言われたこともありませんし…、な、亡くなった母のほうがずっと…その…。」


「じゃあ、早苗さんの容貌はお母上(ゆず)りか。今はまだ幼いけど、これからもっとお母上に似て美しくなるな。」


「よ、よしてください…。」


 あまりの恥ずかしさに、わたしは両手で顔を覆い隠してしまいました。急にどうしたのかしら、義嵐さま…。


「………おい、義嵐。何かの悪ふざけか?

 早苗さんを困らせることを言うのはやめろ。」


「…は、はぁ?何だよ、素直に思ったことを言っただけだってのに。これからの成長が楽しみだなぁ〜ってさ。」


「お前はほんっ、本当に…っ、呑気な…!!」


「仁雷ももっと思ったことは言った方がいいぞ?減るもんじゃなし。なぁ、早苗さんなぁ?」


「そうやって彼女を巻き込むのもやめろ!」


 義嵐さまと仁雷さまの掛け合いが面白くて、わたしは思わず笑ってしまいます。


「ふふ…、お二人はとても仲が良いのですね。」


 瞳の色はどちらも似た琥珀色だけれど、毛色が違う。兄弟…というには、お顔もあまり似ていないような。


 わたしの問いに答えたのは、興奮気味の息を整えている仁雷さまのほうでした。


「………山犬のお使いは大勢居るんだが、なぜか昔から俺達が組ませられることが多くて、自然と腐れ縁になったんだ。」


「そうなのですか。

 ふふ、本当のご兄弟のように、仲良しに見えます。」


 兄弟というものは少し憧れます。

 わたしは一人っ子だし、本家の娘達はあくまでお世話すべき“お嬢様”でしたから。


 ーーー星見さまだけは、最後にわたしを“妹”と呼んでくださったけれど…。


「早苗さんには、お母上の記憶はあるのかい?」


 義嵐さまは先ほどと同じ、のんびりした様子で訊ねます。

 その質問には、わたしは少しだけ答えるのを躊躇いました。


「母は…わたしが三歳の頃に亡くなったので、顔は朧げにしか覚えていないのです…。

 でも、とても優しくて、狗神さまへの信仰の厚い方だったと記憶しています。」


 わたしを寝かしつける時、狗神さまのお話を欠かさなかった母様。

 なぜ突然亡くなってしまったのか…。幼いわたしには理由が分からず、当時のことを語る者もいませんでした。


 女中達の噂で、流行り病に(かか)ってしまったと耳にした記憶があります。誰もわたしに教えてくれなかったのも、理由を知ればわたしが余計に気に病むと思って…。

 もう十年も前のこと。わたしも成長して、今では大切な思い出として受け入れています。


「…そうかい。早苗さんの優しさも、お母上の教えの賜物(たまもの)かもしれないな。」


「義嵐さま…。

 …ふふ、そうだと嬉しいです。」


 少し、亡き母のことが思い出せて、わたしは嬉しくなりました。

 不思議。義嵐さまの声を聞いていると、穏やかな気持ちになれるのです。まるでわたしのことを、心から大切に思ってくださっているかのような…不思議な安心感があります。


 わたしは手元のお団子のことを思い出し、冷めてしまわないうちに、もうひとつ口元に運びます。



 …しかし、わたしがお団子を味わうことは叶いませんでした。

 団子の串を地面に落としてしまったためです。


「…えっ?」


 体がふわりと浮かび上がる…いえ、何者かに抱えられる感覚がありました。

 唐突な出来事に、驚きの表情を浮かべる義嵐さまと仁雷さま。

 お二人ではない…。では、一体誰が?


「…だ、だれ……っ?」


 自分を抱え上げた人物の顔を見上げて、わたしは驚きの声を上げます。

 それは見たこともない、青い髪に、青い着物を纏った男性でした。

 義嵐さま以上の大きな体。とても険しい顔。彼はわたしをじろりと睨み、


「犬居の娘、確かに貰い受けたぞ。」


 それだけを言うと、踵を返し、街道を真っ直ぐに走り出しました。


「きゃ…っ!」


「早苗さんっ!!」


 なんという速さ。人間の脚ではないみたい。例えるなら森を駆る獣のような、野生的な足運びなのです。

 一体どういうことなのかしら。なぜ突然わたしを?


「っ、じ、仁雷さま!義嵐さま!」


 遥か遠くに置き去りにされたお二人に向かって、声の限り叫びます。

 けれど、その声が届くよりも速く、青い男の人はどんどん距離を広げていきました。


「…な、何ですか!お願い、離してください…!」


「あまり抵抗するなよ、犬居の娘。(わし)が欲しいのは貴様の命のみ。五体の無事までは保証せぬからな。」


 冷たくて恐ろしい言葉。太く強い腕に捕らえられたわたしの体は、少しの自由もききません。


 ーーー懐剣も、出せない…!


 なんて無力なのでしょう。自分の身一つ守れないなんて。

 わたしは為す(すべ)なく、遠くに霞んでいくお二人の姿を見ていることしか出来ませんでした。



 ◇◇◇



 早苗さんが攫われた。

 何者だ?なぜ突然、よりにもよって彼女を?

 俺はなぜもっと早く反応出来なかったんだ。


 俺達に助けを求めた、早苗さんの怯えた顔…。

 居ても立っても居られず、あの大男が走り去った方向を目指し、俺もまた走り出した。

 人の姿じゃ遅すぎる。芒色の山犬の姿となって、力の限り脚を回す。


【早苗さんっ、早苗さん…!!】


 だが…俺がどれだけ走ろうと、あの大男に追いつくことはなかった。

 広くどこまでも続く街道の彼方に、二人の姿は消えてしまったのだ。


 全速力の脚も、もう追いつけないと悟ったとたん、力が抜けていく。

 次第に速度が落ち、やがて…、


「…くそ…っ!!」


 俺は人の姿で、その場に立ち尽くしてしまった。



「ーーー仁雷!」


 後から追いついた義嵐には目もくれず、俺は早苗さんが連れ去られた方角を睨む。


「…何なんだ、あいつは。何者なんだ?なぜ、早苗さんを…?」


「…落ちつけよ、仁雷。」


「…っ、状況が分かってるか、義嵐!!

 俺達は早苗さんの護衛だろう!それなのに…っ、みすみす連れ去られたんだ!

 奴がもし彼女の命を狙っているとしたら…!」


 自制が効かないほど、俺は追い詰められていた。

 義嵐に当たったところで何にもならない。頭では分かっているのに。


「……俺が、もっと注意深く彼女を見ていれば…。」


 自分自身が憎い。いくら責めて罵っても足りない。

 そんな俺を鎮めるのはいつだって、義嵐の役目だ。


「何者にせよ、奴は早苗さんが犬居の娘であることを知ってた。巡礼に関係しているのは間違いない。何か必要があって連れ去ったんだとしたら、無闇に命を奪ったりはしないだろ。


 幸い早苗さんは焼き団子を食べてたから、匂いが強く残ってる。それを辿れば、居所なんてすぐに分かるさ。」


 言うが早いか、義嵐の体が大きく盛り上がり、見慣れた炭色の山犬に変化する。


【そら、泣いてる暇はないぞ。さっさと走れ仁雷!】


「……な、泣いてない。お前こそ、脚を緩めるなよ!」


 次いで、俺も元の芒色の山犬に変化する。

 そうだ。立ち止まってる暇なんてない。今こうしている間にも、早苗さんは脅威に晒されている。


 雨や風で匂いがかき消されないうちに、俺達は早苗さんの連れ去られた方角を目指し、走り出す。


【あの男……見つけたら必ず喰い殺す…!!】


【…仁雷、仁雷。顔が恐い。】


 今度は、自分の中に湧き立つ“怒り”を抑えることが出来なかった。



 ***



 どれほど長い間、青い髪の男の人は、わたしを抱えて走り続けているのでしょう。

 とても人間とは思えない。いえ、もしかすると、この方も人間ではないのかも。


 すっかり抵抗する力も無くなり、わたしは腕の中でぐったりとするばかり。


 ーーーこれからどうなるのかしら…。義嵐さま…仁雷さま…。



「儂の(ねぐら)が見えてきた。」


 声の示す方に目をやります。

 そこは断崖(だんがい)に掘られた大きな洞窟でした。


 男の人は、洞窟の前の足場に立つと、わたしをその場に落とします。


「……あうっ。」


 硬い地面に打ち付けてしまった箇所をさすりながらヨロヨロと立ち上がり、わたしは目の前の洞窟に目を凝らします。

 中は薄暗く、様子が分かりません。どこまでも深く続いていそうな、気味の悪さを覚えました。


「……あの、なぜわたしをここへ…?

 ええと…。」


 呼び名に困っていると、男の人はなんともあっさりと、名を教えてくれました。


「儂は青衣(あおぎぬ)

 この南の山々と、瓢箪池(ひょうたんいけ)を治める(ぬし)じゃ。」


 瓢箪池、と聞いた時、わたしは義嵐さまの見せてくれた絵巻物を思い出しました。

 南方の…瓢箪の形をした“狒々の池泉”。

 とするとこの方が、第二の試練の…。


「青衣、さま……。わたしを連れて来たのは、巡礼と何か関係があるのですか…?」


「ほう、これは話が早い。

 犬居の娘、話の続きは塒の中じゃ。」


 そう言い、青衣さまは先導して、洞窟の中へ入って行きます。

 わたしのことを見ていない…。今なら逃げられるかも…。


「…言っておくが、儂から逃げようなどと考えるなよ。この山には忠実な“猿共”を散らしておる。人間の小娘の手足を折って連れ戻すくらい、難しくもない。」


「…っ!」


 すっかり見抜かれているようでした。

 言う通りにするほかありません。わたしは促されるまま、暗く不気味な洞窟の中へ、勇気を振り絞って足を踏み入れました。



 外から見ると様子の分からなかった洞窟も、奥へ奥へ進んでいくと、小さな灯りが見え始めました。通路に等間隔で松明(たいまつ)が置かれているのです。

 さらに通路を進んでいくと、急に(ひら)けた空間に出ました。


「……まあ…。」


 洞窟内部の硬い岩を切り出して、外に運び出したのでしょう。壁も床も天井も広く、まっさらな平面の岩肌が見えています。

 どのくらいの広さがあるのかは分かりません。ですが、大きな蔵や民家がいくつも建ち、最奥には朱塗りの社殿のような建物が構えています。この空間だけで、小さな村ひとつ分はありそうです。


 そして驚くべきことに、そこで働いているのは皆、白い毛皮の“猿”なのです。

 重い荷を運ぶ者、薪を割る者、魚を捌く者。人さながらの仕事ぶりです。

 しかし、彼らの目には活気がありません。毛並みは乱れ放題で、中には痛々しい怪我を負っている者も。それでも一心不乱に働く姿からは、どこか…奴隷のような怖ろしさを覚えました。

 その原因はまさか、目の前を歩くこの男が…?


「犬居の娘、足を止めるなよ。」


「は、はい…っ。」


 青衣さまは、最奥に構える社殿の中へと入って行きました。

 わたしもそれに続き、内部に足を踏み入れます。

 内部は、外観と同じ朱塗りの柱が立ち並ぶ、広い板の間でした。


「貴様もそこへ座れ。」


「……はい…。」


 命じられるままに、その場に座り込みます。

 すかさず、わたしの背後に白毛のお猿が二匹、音もなく控えます。わたしが逃げ出さないよう見張るためでしょう。

 片方のお猿は、右目に痛々しい裂き傷の痕を残していました。


 青衣さまのほうを見直せば、煙管(きせる)を蒸し始めていした。あたりに嗅ぎ慣れない匂いが漂います。

 ふと、彼が懐から取り出した光り物に、わたしは目を奪われました。それは金色で、手の平に収まりそうな大きさの、円形の金属板でした。

 美しいけれど、見たこともない装飾品です。何かの神具なのかしら?数珠に通して、首から提げています。


 青衣さまはしばし一服した後、満足げにわたしのことを眺めます。


「ようやっと手に入れたわ。犬居の娘。十年待ち侘びた好機じゃ。」


 十年前…。わたしの前の犬居の娘が、生贄に選ばれた年です。


「…わたしを、どうなさる気なのですか?」


「儂の言葉を遮るな、娘。

 貴様は狒々の池泉の、試練の内容を知っておるか?」


 わたしは首を横に振ります。

 試練の内容を事前に聞くことが出来ませんでした。わたしが知っているのは、これから向かう場所が“狒々の池泉”と呼ばれていること。そして、そこで“宝”を得なければならないこと。


「ならば、儂が教えてやろう。

 貴様はこれから瓢箪池へ行け。

 そして、瓢箪池の底に沈んでおる“宝”を、儂の元へ持ってくるのじゃ。」


「……え?」


 それは意外な言葉でした。

 まさか本当に、この方が第二の試練を課すなんて。ですが、ではなぜこんな手荒な、拉致紛いな真似を…?


「巡礼は、義嵐さまと仁雷さま…山犬のお使いさまと一緒に行動するよう言われております。

 なぜわたし一人だけを連れて来たのですか?」


「フン、野犬共の力など要らぬだろう。

 これは貴様が生贄となるための巡礼。貴様一人で挑まず、何の意味があろうか?」


「………。」


 青衣さまは長く煙を吐き出します。

 自信に満ちた物言い。君影さまのように、これまでの巡礼をよく知る者なのだとしたら、やはりわたし一人で…?


 ーーーでも…。


 仁雷さまは仰っていました。

 決して離れるな、と。

 試練には危険が伴う。本当にわたし一人で挑むべきなの…?


 それに、ひとつ気にかかることがあります。


「…青衣さまが瓢箪池の主なのでしたら、その宝もあなたの物では?

 何か、得られない理由があるのですか?」


 その言葉を発すると、一瞬で空気が凍りつきました。

 青衣さまの顔がみるみる険しくなっていき、わたしの背後のお猿達が、小さく怯えた声を漏らし始めます。


「…生意気な小娘じゃ。儂に訊ねることは許さぬ。女は黙って儂の命じるままに働けばよいのじゃ。」


 大きな体。恐いお顔。脅す言葉。

 わたしは思わず怯んでしまいます。


 しかし、その反応がますます、わたしの不信感を煽りました。雉子亭の君影さまと大違いなのです。高圧的で得体が知れない。

 何より、この者は仁雷さまと義嵐さまのことを…、


「……そ、それに、あのお二人は“野犬”ではありません。口を謹んでください。」


 青衣が握り締めていた煙管(キセル)が、小枝のようにパキンと割れました。


「…小娘…、本当に生意気な奴じゃ。

 腕の一本でもへし折ってやらねば、聞く耳を持たぬらしいな…?」


「!?」


 大きな青衣の体が、みるみる膨れ上がります。

 “山のよう”と形容できるほどに、腕や脚や胸の筋肉が盛り上がり、青い髪の毛が長く長く伸び始めます。

 社殿の高い天井いっぱいに大きくなった青衣はもはや人ではなく、青い毛皮に身を包んだ“狒々(ひひ)”そのものでした。



【キ、キィー!!】


 わたしの背後にいたお猿達は、とうとう悲鳴を上げて、転がるように社殿から逃げ出してしまいました。

 しかし、右目を怪我したお猿が足をもつれさせ、その場に倒れ込みます。恐怖で足が(すく)み上がってしまったのです。


 逃げ遅れたお猿を気にかけることなく、青衣はわたしに迫ります。水晶玉のように大きな二つの目玉が、わたしを強く睨みました。

 剥き出しの歯は鋭く、弱いわたしなど、ひと噛みでやっつけてしまうでしょう。

 鋭い爪は刀のよう。襲われてしまえば、恐らく無事では済みません。


【小娘、最後の機会じゃ。

 瓢箪池へ行き、儂に宝を献上すると誓え。】


 なんて恐ろしい姿。

 人の身であるわたしが敵うはずもない。

 震える唇で、なんとかこれだけを口にすることが出来ました。


「……わ、わたしは、小娘ではありません!

 “早苗”と、いうのです…!」



 青衣が大きく口を開きました。

 わたしを動かすことを諦めたのです。


【貴様は気に入らぬ!

 また十年、次の犬居の娘を待てばよいわ!!】


 青衣の巨大な手が襲いかかって来るのが、ひどくゆっくりに見えました。

 恐怖と緊張で汗が噴き出る。しかしこのままではわたしだけでなく、逃げ遅れたお猿も巻き添えに…。


【キッ!】


 わたしはとっさに、お猿の体を力の限り、遠くへ突き飛ばしました。

 その時頭の中に浮かんだのは義嵐さまと…仁雷さまのお顔。そして、亡き母の面影。これが走馬灯というものでしょうか。



 肉を裂く、生々しい音がしました。


 しかし、不思議とわたし自身に痛みはありません。恐る恐る目を開くと…、


「あっ!」


 青衣とわたしの間には、二頭の山犬がいるではありませんか。芒色と炭色の大きな山犬。それぞれが、青衣の首と腕に噛みついているのです。


「…じ、仁雷さま!義嵐さま!」


 お二人の牙の餌食となった青衣は、悲痛な叫びを上げました。

 体勢を崩した隙をお二人は見逃さず、息の合った動きで、青衣の体を後ろへ叩き込みます。

 社殿の壁に体を何度も叩きつけられ、逃れようと暴れる青衣。

 三者がもつれ合い荒れ狂う様は大嵐のよう。度重なる衝撃で、社殿全体が大きく揺れ…、


「あっ…!」


 梁と天井が落ち始め、その上の岩までもが崩れ落ちて来ました。落盤が起きたのです。


「きゃっ!」


 わたしは思わず、頭を抱えてその場に伏せます。

 けれどそれより僅かに速く、わたしの体は誰かに抱え上げられました。


「あっ…、仁………!」


 人の姿の仁雷さまです。

 山犬の姿の義嵐さまが盾となり、わたし達三人は崩れ行く社殿から、間一髪外へ脱出しました。



「……はぁっ、はぁ…!」


 背後を振り返り、わたしは唖然とします。

 朱塗りの柱は見事に折れ、社殿全体が崩壊してしまいました。

 ですが、九死に一生というべきか、崩壊したのは最奥の社殿のみ。大勢のお猿の住む民家や蔵のある一帯の天井は、綺麗な切り出しのおかげか、落盤は起こっていませんでした。


 今しがた何が起こったのか。混乱する頭を必死に整理していると、


「…っ!」


 誰かに強く抱きしめられました。

 男の人の広い胸。覚えのある匂い…。


「…じ、仁雷さま…!助けに、来てくださったのですね…!」


 芒色の髪の仁雷さまでした。

 仁雷さまは何も言わずに強く…雉喰いの時よりも強く、わたしを抱きしめます。

 今回ばかりはわたしも、本当に死を意識してしまったものだから、


「……っ。」


 そしてひどく安心してしまったものだから、仁雷さまの胸に顔を埋めて、声を殺して、ほんの少しだけ涙を滲ませました。


 傍らの義嵐さまも、何も言わずにわたしの頭を撫でてくださいます。

 それがさらに、わたしの涙を誘うのでした。



 ***



 青衣の生死は分かりません。


 しかしあんなに強大な妖怪が、落盤で命を落とすでしょうか…。

 足早に青衣の洞窟を出たわたし達は、本来の目的地である瓢箪池を目指しました。


 そして、なぜでしょう。


「……あの、仁雷さま…。」


「…………。」


 洞窟を出てからというもの、仁雷さまがわたしを抱え上げたまま、下ろしてくださらないのです。


 辺りはすっかり夜の闇に包まれています。夜の山の危険を警戒してのことかと思いましたが、どうも理由は別にあるようでした。


「……仁雷さま。わたし、どこも怪我していませんし、自分で歩けますわ。重いでしょう…。」


 声を掛けても何も答えず、淡々と歩みを進める仁雷さま。どうしたら…と戸惑っていると、先頭を行く義嵐さまが代わりに答えてくださいます。


「悪いけどしばらく抱えられておくれよ、早苗さん。

 仁雷は今日のことをひどく後悔しててね。せめて安全な場所に着くまで、大事な早苗さんを片時も離したくないんだよ。」


 普段なら義嵐さまの言葉に噛み付く仁雷さまですが、この時ばかりは黙って歩みを進めています。


 抱え上げられているため、仁雷さまの表情はよく見えません。


「…あの、仁雷さま、ありがとうございます。命を助けていただいて。」


「………。」


 すっかり口を閉ざしてしまって、お返事はいただけませんでした。



 青衣に連れ去られてからこれまでの出来事は、すでにお二人に話していました。義嵐さまはその上で、気になることを問われます。


「早苗さん。青衣って奴は、自分自身が南の山々と池泉の主だと言ったんだね?

 “狒々王(ひひおう)”の名は一度も口にしていなかった?」


 狒々王…。初めて聞く名です。それが本来の、狒々の池泉の主なのかしら。


「はい。自身が主だと言っていました。

 そして、仁雷さまと義嵐さまに頼らず、わたし一人で試練に挑むようにと…。」


「…………そんなことが…あり得るか…。

 やはりあの場に残って…奴を喰い殺すべきだった…。」


 仁雷さまの声が小さく聞こえた気がしました。内容は聞き取れませんでしたが、どうやら何かに怒っているようで、


「……も、申し訳ありません。ご心配をお掛けしてしまって…。」


「………イヤ、早苗さんは悪くない。」


 仁雷さまは、それだけを聞こえるように答えてくださいましたが、すぐにまた黙り込んでしまいました。


 どうしよう。どうしたらいいのかしら。ひどく心配を掛けてしまったのに。

 元気になっていただきたいのに…。


 うんと考えた末、わたしに出来ることはこれくらいしかありませんでした。

 それは、仁雷さまの俯きがちの頭を、優しく抱きしめること。幼い頃、母に抱きしめられると、とても心が安らいだ記憶がありますから。


「…っ!!?」


 仁雷さまの肩がビクリと躍ねました。

 いけない、変に驚かせてしまったみたい。


「…あの、仁雷さま。ありがとうございます。

 わたし、お二人が助けに来てくださって、本当に嬉しかったのです。とても心細かったものですから…。


 この感謝の気持ちが、ほんの少しでも伝わるといいのですが…。」


 わたしの腕の中で、仁雷さまの口が「アワアワ」と動いている気がします。耳を澄ませば小さな声で、


「…つ、伝わってる。伝わっているから、どうか離して…。心臓が…もたない…。」


「あっ、すみません…!」


 心なしか仁雷さまの顔が朱色に染まっています。でもわたしの目を、確かに見てくださいました。

 良かった。少しだけでも元の調子を取り戻してくださったみたい。



「…にしてもなぁ、あの青衣とかいう奴、言うこと為すこと全てが怪しいな。

 そもそも瓢箪池を含め、南の山々を纏め上げているのは、大妖怪“狒々王(ひひおう)”のはずだ。代替わりしたとかいう噂も聞いたことがない。」


 義嵐さまの言う“狒々王”については、今なおわたしを抱える仁雷さまが教えてくださいます。


「狒々王はその名の通り、この南の山に棲む、猿達の頭領だ。

 巡礼の際は毎回、犬居の娘に第二の試練を課す役目を担っている。十年前も、俺達は確かに狒々王に会ったんだ。」


「そうなのですね…。狒々王さまとは、どんな方なのですか…?」


 この問いには、義嵐さまは苦々しい顔。


「…あんまり褒められた奴じゃあないなぁ。

 悪い奴じゃないんだけど、とにかく欲が深くて何事にも執念深い。特に池泉の宝への執着が強かった。それでもなぜだか、猿達からの信頼は厚かったようだ。」


 わたしの脳裏に、恐ろしい青衣の姿が浮かびます。


「…そ、そうなのですか…。どのような試練を課すのですか?」


 教えてくださるかしら…と心配しましたが、今回は異常事態ということを(かんが)み、義嵐さまが答えます。


「早苗さんは、瓢鮎図(ひょうねんず)を知ってるかい?」


「瓢鮎図?えと確か…池の中のぬるぬるした(なまず)を、すべすべした瓢箪(ひょうたん)で捕らえることができるか…という禅問答(ぜんもんどう)のことでしょうか?」


 多くの偉人が答えたという大昔の問答で、明確な答えは存在しない…と記憶しています。


「そう。瓢箪の形の池に掛けて、狒々王が瓢鮎図の答えを問う。それに上手く答えられたら、第二の試練突破だ。まあ、とんち合戦だな。」


「争いもなく平和的な試練だと思っていたが…、今回はどうも例年通りにはいかないようだ。」


 見知らぬ狒々。聞いたこともない試練。

 これには義嵐さまも仁雷さまも困惑しているようでした。


「…青衣は、瓢箪池の宝を欲しがっていました。何か秘密があるのかもしれません…。」


「そうだなぁ。日が昇ってから、瓢箪池を見に行ってみようか。」


 一体何が潜んでいるのか、不安があります。

 けれど今はお二人が付いていてくださる。これほど心強いことはありません。


 すると、先頭を歩いていた義嵐さまがピタリと足を止めました。

 仁雷さまも同時に足を止め、前方の暗闇に目を凝らします。


「……どうなさったのです…?」


 暗闇の奥に、ぼんやりとした明かりが見えました。

 それはゆらゆらと揺らめきながら、だんだん大きくはっきりと見えます。こちらへ近づいてくるようです。


 何者かと身構えていると…暗闇から現れたのは、わたしの半分ほどの身長の、白毛のお猿だったのです。


【犬居のお嬢様。狗神様のお使い様。

 お待ちしておりました。】


 まん丸の提灯を携え、赤い前掛けをして、頭の毛を丁寧に撫で付けています。

 青衣の洞穴のお猿と同じ毛色ではありますが、こちらはどこか人間味を感じさせました。


【道中お疲れ様でございます。

 私は狒々の主・緋衣(ひごろも)様の使いで参りました、(かき)と申します。


 どうぞ、我らの(ねぐら)へおいでくださいませ。】


 そう言い、恭しく頭を下げる柿さま。

 すると、今しがた柿さまが歩いて来た道に、ポツポツと等間隔で明かりが(とも)りました。


 よく目を凝らせば、仲間と思しき白いお猿達が、同じような提灯を持って夜道を照らしています。


 ちらりと義嵐さまを見遣れば、微かに警戒しているよう。


「緋衣とかいう名に覚えはないなぁ?

 今日は朝から、狒々に散々な目に遭わされてるんだ。素直に付いてく気分になれないよ。」


【…心中お察しいたします。青衣めは無類の乱暴者にございますから、さぞご苦労があったことでしょう…。

 しかし、緋衣様はとても慈悲深いお方。此度の巡礼について、早苗様の試練達成のお手伝いをさせて頂きたいのでございます。】


 柿さまと目が合いました。


 信じて良いものか…不安はあります。

 けれど、消えた狒々王さまと、素性の分からない二人の主。何か関係がある予感がするのも事実。


「…仁雷さま。わたしは、付いて行きたい…と思います。」


「………。」


 仁雷さまは少しの思案のあと、


「分かった。早苗さんの意向に従う。

 だが危険と判断すれば、すぐさま牙を剥くぞ。」


 返答を聞いた柿さまは安堵したように頷きました。踵を返し、提灯の道を先導し始めます。

 後ろをわたし達三人が付いて歩きます。

 仁雷さまに抱えられながら、わたしはこの先に待つ未来を想像するのでした。



 ***



 柿さまの話では、青衣の塒と緋衣さまの塒は、瓢箪池を挟んだ丁度対面に位置しているといいます。

 つまりわたし達は、青衣の洞窟から出た後、瓢箪池周辺の獣道をぐるりと迂回して、緋衣さまの塒を目指して歩いている状態。

 鬱蒼とした森の中を、柿さまと提灯に導かれるまま進んでいくと、遠くに建物の屋根が見えてきました。


 森を抜けた先は、広い広い池泉の(ほとり)でした。

 辺りには、青衣の洞窟の中と同じく、民家や長屋や蔵が建ち並び、その中央に、やはり朱塗りの社殿が聳えていました。そして驚くべきは、あらゆる建物が、青衣の塒と鏡合わせのようにそっくりなのです。


「……青衣の洞窟の内部と、よく似ています。町並みも、社殿の造りも…。」


【こちらへどうぞ。緋衣様がお待ちです。】


 仁雷さまの肩から下ろしていただき、わたし達は柿さまに導かれるまま、社殿の中へと入っていきます。

 これほど似ていると、何かの罠ではと不安が募ります。恐る恐る足を踏み入れた先で待っていたのは、



「…おお!待ち侘びたぞ犬居の娘よ!」


 緋色の長い髪に、緋色の打掛(うちかけ)姿の、とても美しい女の人でした。

 すらりと背が高く、艶やかな打掛を纏う様は天女のよう。


 瓢箪池を背にしてその女性は立ち上がり、わたし達を和やかな笑顔で迎えていました。

 心なしか体が上下に小さく揺れています。まるでお友達を前にした子どものような無邪気さです。


「待ち侘びたぞ!儂こそが瓢箪池と南山の主、緋衣(ひごろも)じゃ!

 本当に、よくぞここまで辿り着いた!」


 社殿の内部は、奥の壁一面がすっかり取り払われており、背後に広がる瓢箪池が一望できるようになっています。生憎(あいにく)と今は夜なので、池泉の全貌は暗くてよく見えません。


 緋衣さまは、お猿に向かって何かを命じます。

 すると間も無く、何匹ものお猿が列になって、わたし達の前に食事を運んで来るではありませんか。鯛のお造りに、重々しい酒瓶に、器から溢れんばかりの果物…。

 呆気に取られて見つめていると、あっという間に山のようなご馳走が、その場に並べられました。


「あ、あの、これは…?」


「そなたらは大切な客人じゃ。これは儂からのほんのもてなし。どうか心ゆくまで楽しんでくれ!」


 ご馳走を見つめて、わたしは言葉もありませんでした。

 青衣と、緋衣さま。塒の配置は鏡合わせのようにとてもよく似ているのに、両者の性質は全く正反対。青衣は明確な敵意を持っていたけれど、緋衣さまはとてもこちらに友好的なのです。

 その厚意が、わたしには逆に不安感となりました。


 義嵐さま、仁雷さまはわたしの左右に座っています。何が起きても、いの一番にわたしを護れるようにでしょうか…。


「…緋衣さま。おもてなしをありがとうございます。

 ですがまず…巡礼の試練について、教えていただけますか?」


「え?ホホ、ほんにせっかちじゃのう犬居の娘…いや、早苗殿!

 まあそなたらが求めているのは、こんな馳走の山ではあるまいよな。」


 緋衣さまはおもむろに、首から下げていた装飾品に触れます。その金色の装飾品に、確かに見覚えがありました。


「…あれは…青衣にも…。」


 緋衣さまが装飾品をくるりと裏返せば、わたし自身と目が合います。それは金色の円鏡えんきょうであることが分かりました。


「…それは、青衣が身につけていたのと同じ物に見えます。なぜお二人が同じ鏡を?」


「ホホホ、美しかろう?

 これは儂が生まれた時から身につけておる大切な鏡での!その昔、瓢箪池の底に棲む“ある妖怪”の一部を材料に(こしら)えたと云われておる。


 …早苗殿。そなたには、これの材料となるその妖怪を捕らえ、儂の前へ連れて来てもらいたいのじゃ!」


 緋衣さまの頼みは、言い方さえ違えど、青衣の時と同じ内容でした。


「池の底には“宝”があると聞きました。

 その妖怪とやらが、宝なのですか…?」


「んーむ、半分当たりじゃ。

 池の底に居る者とはの、“蟹”じゃ!」


「かに…?」


 鋏を持ち、水辺に棲むあの蟹のことかしら。

 緋衣さまは白い指で、円鏡を愛おしげに撫でます。


「この円鏡は、その蟹の甲羅から作られた。従って儂が欲しいのは、水底(みなぞこ)の蟹の“甲羅”ということになる。」


 緋衣さまは話を続けます。

 傾聴すべき本題は、この後だったのです。


「ーーーじゃが、早苗殿。

 それを取ってくるのは“そなた一人”で。

 お使い達の手は決して借りてはならぬよ!」


 その言葉にいち早く反応したのは仁雷さまでした。

 片膝を立て、緋衣さまとわたしの間を遮るように、身を乗り出します。


「この山の狒々族なら当然、巡礼のことは知っているな?

 俺達は早苗さんの護衛だ。何があっても早苗さんを一人でなど行かせない。」


「無論知っておるとも!承知の上での試練じゃ。

 早苗殿はたった一人で、水底の蟹を、儂の元へ届ける。それが巡礼の第二の試練じゃ。理解したかのう?」


 仁雷さまの低い唸りにも、緋衣さまは怯むどころか、人懐っこい笑みを浮かべます。

 ただ己の役目を全うするだけ…と言うように、とても堂々としているのです。

 わたしはその姿に、青衣の時とはまた違った不安を覚えました。


 今度は、義嵐さまが微動だにすることなく、緋衣さまへ訊ねます。


「…狒々王をどこへやった?

 あのケチで手前勝手な妖怪が、みすみすお前に地位を譲り渡すとは思えないけどなぁ?」


あれ(・・)はもうおらぬ。

 狗神様より賜った大切なお役目を、同じ狒々である儂が受け継いだだけのことよ。」


 わたしが眉根を顰めたのを、緋衣さまは見逃しませんでした。


「疑っておるな?早苗殿。

 大方、青衣の奴めにも同じことを言われたのじゃろう。


 あれは嘘つきの無法者と聞く。顔すら見たこともないが、とても狒々王に代わる器ではなかろう。信じる必要などない。

 賢い早苗殿なら、どちらが信用に足る者か分かるじゃろう?」


 青衣を間近で見たわたしは、とてもあんな恐ろしい妖怪が、狗神さまを信仰しているとは思えませんでした。

 義嵐さまと仁雷さまを「野犬」呼ばわりしたことからも…。


 ですが目の前の緋衣さまも、信用するにはあまりに不信な点が多すぎました。

 どちらの味方につくのも危険な予感がして、


「……瓢箪池には、参ります。

 けれど水底の蟹をどうすべきかは、まだ分かりません…。」


 わたしは、そんな逃げ道を選ぶのでした。



「ホホ、よかろう。

 さあ、皆疲れておることじゃろう。今宵はこの緋衣の塒で、ゆるりと過ごすがよい!」


 緋衣さまの元気な言葉を合図に、控えていたお猿達が恭しく、わたし達三人をもてなし始めました。


 お猿達は、仁雷さまと義嵐さまにお酌をしようとしますが、


「酔って早苗さんから目を離しては大事(おおごと)だ。俺は遠慮する。」

「おれは蟒蛇(うわばみ)だからお酌が間に合わんよ。自分でやる。」


 きっぱりと断られ、少ししょんぼりと酒瓶を下げるのでした。


 わたしの傍には、初めに道案内をしてくださった柿さまが付きます。


【早苗様も、お酒はいかがですか?

 山で採れた桃もございますよ。】


「あ、ありがとうございます。

 でもわたしはお酒を口にしたことがなくて…。桃をいただけますか?」


【はい。食べやすいよう切り分けますので、少々お待ちくださいませ。】


 柿さまは大ぶりな桃をひとつ手に取ると、もう片方の手を、ふかふかの毛皮の中に突っ込んでモゾモゾし始めます。何かを探しているようです。


「どうかなさいました?」


【いえ…申し訳ありません。小刀を持って来たつもりなのですが…。】


 果物を切るための小刀…。

 わたしはとっさに、自身の帯に差していた、螺鈿の懐剣を抜き出しました。


「良かったらお使いになって。まだ一度も使っていないので、清潔よ。」


【えぇっ!?】


 声を上げたのは柿さまですが、隣の仁雷さまと義嵐さまも、反射的にこちらに顔を向けました。


「さ、早苗さぁん…。

 それはいくらなんでも躊躇い無さすぎ…。」


 義嵐さまが気まずそうに声を漏らします。

 柿さまも慌てて、手をパタパタと横に振るのです。


【それは試練達成の証である大切な宝物(ほうもつ)です!桃を切るなどそんな罰当たりなこと!私にはとてもとても…っ!】


「えっ!まあ…いけないことだったのですね……。」


 良かれと思って取った行動でしたが、そんなに軽率だったなんて…。

 身を小さくするわたしに対して、仁雷さまが優しくこう言ってくださいました。


「いけないことはないが…、今までやった者は居ないな…。はは、でも早苗さんらしい。」


「仁雷さま…。」


 雉喰いの殻に自ら飛び込んだ時も、後先をよく考えずにとった行動でした。その出来事を思い出していらっしゃるのでしょう。


「早苗さんが得た宝なんだから、それをどう使うかも、早苗さんの自由だと思う。」


 そう言って、優しげにわたしを見つめる仁雷さま。その眼差しを受けて、わたしはなんだか無性に…気恥ずかしい思いになりました。



「…では、わたしが代わりに桃を切ります。

 それなら柿さまが気を揉むことはないでしょう?」


 わたしの提案に、柿さまは更に困惑の表情を浮かべてしまいました。


【ア、アウ…。ひ、緋衣様…。】


 柿さまの救いを求める視線を受けて、緋衣さまは一層楽しげに微笑みます。


「ふふ、ホホホ!珍妙な娘じゃのう早苗殿。

 滅多にない機会じゃ。螺鈿の懐剣で切り分けた桃、儂にも一切れ貰えるか?」


「あ…は、はいっ。」


 ご主人さまの許可を得たところで、わたしは柿さまから桃を受け取り、早速螺鈿の懐剣の腕を振るうこととしました。


 七色に光る刃をそっと桃の溝にあてがい、そのままくるりと一周切り込みを入れます。

 刃の美しさもさることながら、切れ味もとても良いのです。犬居屋敷の炊事場にあるどの包丁よりも優れているのでは。


 八等分に切り分けた桃を、手近な(さかずき)に盛ると、柿さまが盃ごと緋衣さまへと差し出します。

 緋衣さまの白く細い指が桃を摘み、そのままご自身の口へ。


「お味はいかがですか?」


 わたしが訊ねると、しばらくもぐもぐと咀嚼していた緋衣さまは、ゆっくりと桃を飲み込んでから、


「至って普通の桃じゃの!

 じゃが、不思議と胸が満たされるようじゃ。」


 そう、満足げに微笑まれました。

 そのなんとも素直な笑顔に、わたしもつられて(ほだ)されてしまうのです。


「それは…ふふ、ようございました。」



 ◆◆◆



「俺達も貰うか、義嵐。」


 早苗さんと緋衣の平和なやり取りを眺めていると、仁雷がそう提案してきた。


 あの懐剣は巡礼に必要な大切な宝だから、いつものように大切に大切に保管して、肌身離さないものと思っていたのに。ここまで来たら認めざるを得ない。早苗さんは育ちの良さそうなお嬢さんの見かけながら、肝の据わった破天荒娘だ。勿論褒めている。


「…んー、じゃあまあ、せっかくだから。」


 破天荒娘の丁寧に剥いてくれた桃を一切れ摘み、口へ運ぶ。

 うん、美味い。山で採れる、馴染みの桃だ。


 チラッと仁雷の方を見る。早苗さんから差し出された盃を、ややぎこちない動きで受け取っている。

 全く、いつまで経っても慣れない奴だ。

 その様子がもどかしくて、おれはつい揶揄(からか)いたくなる。


「仁雷、早苗さんの綺麗な手で剥かれた桃の味はどうだ?絶品か?」


「…義嵐っ!!」


 予想通り。今にも噛み付かんばかりの恐い顔だ。


 次いで、おれは早苗さんのほうを見る。

 もてなされる側のはずがいつの間にか、小さな体で忙しなく動き回ってる。

 くるくる変わる表情。とても目が離せない。あの若草色の着物もよく似合っていて…遠い記憶がぼんやりと浮かび上がってくる。


「………。」


 今や、緋衣やお猿達とも何だかんだ良い雰囲気だ。早苗さんは一見奥手なようで、心を開きやすい。根が素直だからだろう。


 巡礼の旅を始めて日は浅い。が、確かに早苗さんとおれ達の間には、絆と呼べるものが芽生えていると思う。

 仁雷はもちろん、おれも早苗さんのことは護ってやりたいと思ってる。護ってやりたい…最後まで。


 ーーーだけど、“最後”に辿り着いたら?



「ーーー……義嵐さま?」


「…っ!」


 考え事に没頭しすぎた。

 いつの間にか目の前に、水瓶と柄杓を携える早苗さんの姿があった。


「…ご気分は大丈夫ですか?お水、飲まれますか?」


 自分の周囲を見下ろせば、かなりの数の空の酒瓶が転がってる。蟒蛇が度を越して、途中から飲んでる感覚を無くしてたのか。


「ぜーんぜん大丈夫だよ、早苗さんは心配性だ。」


 余裕の笑みを見せれば、不安げだった早苗さんの表情に安堵の色が浮かぶ。


「あ………。」


 その顔に、優しい表情に、おれはある感情が湧き上がるのを覚えた。


 …前言撤回。酔いが回ってるのかもしれない。緋衣や猿達や仁雷が見る目の前で、おれは彼女の小さな体を抱きしめていた。


「……ぎ、義嵐さま…っ?」


 彼女の驚いた声が聞こえる。

 仁雷の蒼白の顔が視界の端に見える。


 でも、不思議と抑えられない。

 胸の中に湧き上がった想いが、おれの意思に反して口から零れ落ちた。



「…おれは、きみ(・・)を好いているよ。」



 ***



『きみを好いている。』

 それだけを告げると、義嵐さまは目を瞑ったまま動かなくなってしまいました。

 耳を澄ますと微かな寝息…。お酒が回ってしまったのかもしれません。


「………義嵐さま…。」


 大きな体をなんとか支えながら、わたしはその言葉の意味を考えました。


 お(たわむ)れなどではない。

 それに、今のは多分“わたし”に言ったのではないわ。わたしを通して、別の誰かを思い出していたような。


 ーーーでもそれならなぜ、あんなに寂しげに笑われたのかしら…。


 その時背後から、二本の腕が伸びました。

 腕はわたしの体を軽々と持ち上げます。


「あっ!」


 支えを無くした義嵐さまの体は、床に倒れ込むことなく、周りに待機していたお猿達によって間一髪抱き止められました。


 振り返れば、わたしを抱き上げた人物と目が合います。


「じ、仁雷さま…?

 …どうされたのですか?険しいお顔…。」


「………早苗さん。」


 仁雷さまは眉をひそめて、眠りに落ちた義嵐さまを見下ろします。

 それから、わたし達の対面に座る、緋衣さまを強く強く睨みました。


「義嵐がただの酒に酔って意識を手放すはずがない。…緋衣、こいつに(ねむ)(ぐすり)を盛ったのか。」


「えっ!?」


 わたしは義嵐さまのほうに目をやり、驚きました。

 なんてこと…。無防備な義嵐さまの体は、お猿達によって完全に捕らわれていたのです。さっきまであんなに親しげだった柿さまも、今や牙を剥いてこちらを威嚇しています。


「んーむ…。匂いで気付かれぬよう稀釈したせいで、効き目が表れるのが遅れてしまったようじゃ。しぶとい山犬よ。」


「……どうして…っ。

 緋衣さま、どうしてこんなことを…!?」


 わたしはたまらず叫びました。

 緋衣さまは指先をぴんと伸ばして、背後の瓢箪池を手で示します。月明かりに照らされ、水面全体が妖しく、青白く浮かび上がっていました。


「さっき伝えたじゃろう、早苗殿。

 此度の試練に挑むのはそなたのみ。お使い達はどうしてもそなたから離れたくないと申す故、仕方がなかったのじゃ。


 そこの芒色の山犬が一滴も酒を飲まなかったのは想定外じゃがの。」


 仁雷さまの、わたしを抱く手に力が込められます。

 けれど、どうしよう。これでは仁雷さまが満足に動けない…。


「早苗さん、俺達だけでもこの場所から離れるぞ。」


 仁雷さまの言葉に、わたしは反射的に返します。


「えっ…ですが、義嵐さまが…。」


「……義嵐は強い。あんな猿達に簡単にやられはしないから、安心して。

 それよりも俺達が優先すべきは巡礼と…貴女の身の安全。どうか俺達を信じて。」


 仁雷さまの力強い眼差しが、わたしを見据えます。

 本当はとても恐い。とても不安。けれど、


「…は、はい。信じます…!」


 仁雷さまが「信じて」と言うのなら、わたしは信じるだけ。



 唸り声と共に、仁雷さまの体が大きく盛り上がりました。瞬く間に、芒色の毛並みの山犬へと変化した仁雷さま。わたしはその背中にしっかりとしがみ付きます。


 待機していたお猿達が、わたし達を捕らえようと飛びかかってきます。

 けれどそれよりも速く、仁雷さまが社殿の出口を目掛けて跳びました。

 大きな体はほんの二、三歩ほどで、社殿の外へと逃げおおせることに成功しました。


 しがみ付く力は決して緩めず、わたしは背後に遠く小さくなっていく社殿のほうを振り返ります。

 お猿達は社殿の外へ飛び出していますが、それ以上わたし達を追及することはありませんでした。


 ーーー義嵐さま……。


 どうか、どうか無事でいて…。


【早苗さん、大丈夫。

 きっと大丈夫だから。】


「……はい……。」


 仁雷さまの優しい声に、泣き出してしまいたいのをグッと堪えます。わたしはただ、背中から振り落とされないことにのみ集中するのでした。



 ***



 仁雷さまの背に乗り、猿達の棲む山一帯を横切り、わたし達は遥か街道のほうまで逃げおおせました。休む間もなくひたすらに駆けていたのです。

 いくら仁雷さまの足が速くとも、多勢に無勢。わたし達の姿が、どこから見られているかは分からないから。


 月は空の彼方に霞み、新しい太陽が、東の空を暁け色に染め始めていました。

 仁雷さまはすっかり息が上がり、時折足ももつれてしまいます。


「……仁雷さま、どうか休んでくださいませ…。

 このままではお体が保ちません…。」


 背中から小さく声をかけると、速度が次第に落ちていきました。

 やがて、一本の大きな倒木の陰。熊の巣ほどの大きさの(うろ)を見つけ、そこへ駆け寄る仁雷さま。


【早苗さん、中へ。】


 促されるままに、まずわたしが洞の奥に入り込み、入り口に蓋をするように、山犬姿の仁雷さまが座り込みました。

 腰を下ろした仁雷さまは、小さくですが深く息を吐きました。

 相当お疲れのよう。一晩中走り通しだったのだから、当然よね…。


「ありがとうございます。

 どうかゆっくりお体を休めてください。」


【…すまない。少しだけ…。】


 琥珀色の大きな瞳が、わたしの姿を映します。

 こんな状況で失礼かもしれないけれど、わたしは普段よく見ることのない仁雷さまの“山犬の姿”を、じっと見つめてしまいます。


 黄金(こがね)の中に白の混じる、柔らかな芒に似た毛並み。大きく力強い体。初めて見た時はとても恐ろしかったけど、今ではその美しい姿から目が離せません。

 狗神さまのお使いさま。狗神さまももしかすると、仁雷さまのような、優しくて強い山犬の姿をしているのかしら。



 けれど、いつまでも見惚れている暇はありません。


「……仁雷さま、これから、どうしたらいいのでしょう…。」


 義嵐さまと別れてしまい、次の試練の場である狒々の池泉にも近寄れない。近隣の山に潜む猿達にいつ見つかるかも分からない…。

 途方に暮れてしまいます。


 仁雷さまは少しの思案の間を置いたあと、


【やむを得ない。池泉を迂回し、次の巡礼地へ向かおう。】


「次の…。確か、“大狗祭り”とおっしゃっていた…?」


【そう。そこなら山犬の仲間達がいる。応援を寄越してもらえるよう、掛け合ってみる。】


 わたしはその言葉に頷きます。

 ただ、やはり気掛かりなのは義嵐さまのこと。


 不安が顔に出てしまっていたのか、仁雷さまは声色を優しくして、言ってくださいました。


【大丈夫だ、早苗さん。貴女が思うよりずっと、義嵐の奴は図太いから。信じて。】


 “信じて”。この方の口にする言葉は、なんて心強いのでしょう。

 …一人クヨクヨしていては駄目ね。わたしもしっかりしなければ。


「…そういえば仁雷さま。

 義嵐さまはあの時、わたしに対して不思議なことをおっしゃっていました。

 あれはどういう意味なのかご存知でしょうか…?」


『きみを好いている。』

 でもその言葉は、“わたし”に対してのものではない気がしていて…。


【……………。

 義嵐は自由な奴だから、俺にも何を考えてるのか分からない時があるよ。

 酒も入っていたし…早苗さんを見て、無性に寂しい気持ちに襲われたのかもしれないな。】


「…そう、なのですか…。」


 そう語る仁雷さまもまた、どこか寂しげな目をしているように見えました。

 それについて訊ねるのは何だか良くない気がして、わたしは口を(つぐ)みます。


 ふと、わたしがしがみついていた部分の毛並みが乱れていることに気付きました。乱れを直したくて、わたしはその毛並みに触れます。

 一瞬大きな体がビクリと震えましたが、仁雷さまは身を引くことはしませんでした。


「……ごめんなさい、わたしずっと強く掴んでしまって…。痛くありませんでしたか…?」


【……イヤ、このくらい。】


 滑らかで、心地よい手触り。

 しばらく手の平で撫でつけていると、次第に毛並みが整っていきました。

 落ち着いていく毛並みとは対照的に、わたしはだんだんと顔が熱を持っていくのを覚えました。男の方にこんなに気安く触るなんて、これまで考えられなかったこと。でも、仁雷さまにはむしろ、ずっと触っていたいと思ってしまう。



【……早苗さん、貴女の話を訊いてもいいかな…?】


「…えっ。あっ…はい!」


 仁雷さまの大きな琥珀色の瞳が、わたしをじいっと見つめます。人の姿の時と同じ、深みのある吸い込まれそうな瞳。

 なぜでしょう。わたしは心臓がどきどきと早鐘を打つのを感じました。


【早苗さんほど優しくて気立てが良かったら、さぞ皆に可愛がられたろうな。

 …それに、貴女を好く男や、…逆に貴女が慕う男がいても、何ら不思議じゃない。そんなひとは…いたのかな。】


 そう問いかける仁雷さまは、どこか躊躇いがちでした。聞きたくない、けれど聞いてみたい。そんな葛藤。


「そ、そんな…わたしのことを好いてくれる殿方なんて、いませんでしたわ…。ただの女中のひとりですもの。」


 わたしの答えを聞いて、仁雷さまの顔に安堵の色が浮かんだように見えました。


「…それにわたし、屋敷では腫れ物に触るように扱われていました。妾の子で、ゆくゆくは狗神さまの生贄に差し出すのが決められていたから、皆関わりたくなかったんですわ。」


 けれどそれを聞いて、また仁雷さまが辛そうな顔をされます。

 お犬の姿なのに、くるくる表情が変わるのはとても不思議な光景です。


【…犬居の娘だからと言って、風習だからといって…こんな理不尽を強いて申し訳ない。】


「…な、なぜ仁雷さまが謝るんです?

 わたしは物心ついた頃から、狗神さまが心の拠り所ですから。おそばにお仕えして…この命を捧げます。その覚悟を持って、巡礼に臨んでいるつもりです。」


 こんなに大きな山犬なのに、こんなに繊細な感情を露わにする仁雷さま。それはきっと、この方がとても心優しい証拠。


「…これは、わたしの望んだことでもあるのです。」


 わたしの言葉は本心です。

 けれど、なぜかしら。その言葉を口にするわたしは「仁雷さまに安心してほしい」という願いもまた強く抱いていたのです。

 この方の曇ってしまったお顔を、なんとかして差し上げたいと思うのです。


【貴女は本当に強い人だ…。】


 ぽつりと呟いた仁雷さま。

 やがてそのお姿が、大きな山犬から、見慣れた人のそれへと変わりました。

 短い芒色の髪。お犬の時と同じ、深い琥珀色の瞳。その中に自分の姿を見つけ、またわたしの心臓がどきりと跳ねます。


「……山犬の姿では恐ろしかろうから。」


 そう小さく口にする仁雷さまの顔には、朱が差しているようでした。

 たくさん走ってお疲れになったせい?それとも…別の理由?


「山犬のお姿でも、わたしは平気です。

 でも、人のお姿の仁雷さまも安心します。」


 そう微笑みかけると、仁雷さまもホッとしたお顔をしてくださいました。

 …ああ、なんて、心が安らぐことでしょう。



「…早苗さん、少しだけ。

 少しでいいんだ。肩を貸してくれないか…?一寸(ちょっと)だけ目を瞑ったら、すぐに退()くから。」


 そう言いながら、仁雷さまはわたしのそばへ寄り添います。

 とてもお疲れでしょうからね。少しでも安らかにお休みになれるなら、わたしは喜んで…。頭の中で、そんな言い訳じみたことを並べ立てますが、本心ではわたし、確かに思ってしまったわ。

 嬉しい、と。


「…はい……どうぞ。」


「…ア、あ、…ありがとう……。」


 仁雷さまの頭が恐る恐る横に倒れて、柔らかな髪がわたしの肩や頬に触れます。

 その温かな感覚に、わたしの胸はどきどき高鳴って仕方ない。

 ふーっという息遣いがすぐ近くで聞こえる。わたしは恥ずかしさのあまり、仁雷さまのお顔が見られませんでした。


「…早苗さんは、優しい匂いがする…。」


「に、においですか…?」


 匂いというとあまり良い気分はしません。日中たくさん歩いて、たくさん汗をかいているはずだもの。

 それでも、仁雷さまはこの上なく安心した様子で、わたしの肩に遠慮がちに頭を擦り付けます。まるでお犬が甘えるように。


 その様子がなんだか無性に愛らしく思え、わたしは恐る恐る手を伸ばして、仁雷さまの芒色の髪に触れます。


 身を固くする仁雷さま。

 その緊張を解きほぐすように、わたしは努めて優しく優しく、その芒色の髪を撫でました。


「………。」


 張り詰めていた緊張が、だんだんとほぐれていく。

 仁雷さまの頭の形をなぞり、わたしは一人、至福を噛み締めていました。



「…………仁雷さま?」


 しばらく頭を撫でていると、ふいに仁雷さまの体から緊張が失せ、重みが増しているのに気付きました。

 仁雷さまのお顔を覗き見ると、


「あ………。」


 仁雷さまは穏やかな顔で、目を閉じてしまっていました。

 ゆっくり上下する胸と、深い寝息。どうやら眠ってしまったみたい。相当お疲れだったものね…。


 初めて見る殿方の寝顔。わたしを護ってくださる時はとても頼もしく見えるのに、眠りについた今のお姿はとても無防備で、とても安心する…。


 わたしも、とても疲れてしまった…。失礼なことと分かっていながら、仁雷さまの柔らかな髪を少しの間お借りして、わたしも目を瞑ります。


 少しの間だけ。せめて、太陽がすっかり昇るまで…。死に向かう旅の中での、束の間の安らぎを味わいたかったのです…。



 ◆◆◆



 嗅ぎ慣れない匂いに気付いて、おれの意識はゆっくり浮上していく。

 頭が痛む。おれはどうしたっけ…。緋衣の塒で酒を飲みすぎて、早苗さんを見て…。


「……っ、早苗さん!仁雷!」


 意識が完全に覚醒する。横たわっていた体を勢いよく起こすと、周囲の状況が目に入ってきた。


「……なんだここ?座敷牢か?」


 八畳ほどの広さの部屋だ。正面には檻のような格子戸があり、壁は分厚い漆喰。窓もない。その座敷牢の中央で、おれは布団に寝かされていたらしい。

 もしかしなくとも、緋衣とあの猿達の仕業だろう。


 おれが目覚めたことに気づき、格子戸の向こうから様子を見ようと近づいて来る者がいた。


【お目覚めでございますか、義嵐様。】


「……あんた、柿、だっけか?」


 毛並みを上品に撫で付けた、白毛のお猿だ。

 そばには誰もいない。恐らくこいつがおれの見張りを仰せつかったんだろう。


「教えてくれないかな。一体何がどうなってるんだ?あの二人もいないし…。」


【相当飲まれておりましたから…。

 早苗様と仁雷様は、先を急ぐと仰って、昨晩ここを発ちました。】


「……先を急ぐ?池泉の試練に向かったってことか?」


 …おれを置いて?そんなはずはない。

 頭痛と悪酔いに襲われながらも、おれは柿の匂いから違和感を感じ取った。


「妙な“薬”を盛られたおかげでおれはまんまと巡礼から離脱だ。そんな異常な状況で、なおも池泉に挑もうなんて、仁雷(あいつ)が考えるわけがないんだよ。」


【……気づいていらっしゃいましたか。】


 柿の毛並みがほんの僅かに立つ。警戒心を現してきた。


 しかし、すぐにその警戒心は解かれることとなる。柿の背後からもう一人、見慣れた人物が現れたからだ。


「おお、目が覚めたようじゃな、お使い殿。」


 それは緋衣だった。緩慢な動きで柿の前へ歩み出て、おれの姿をよく見ようと、格子戸に近づく。


「理由を話してくれないか?なんでこんな面倒な真似を?」


 理解出来ないことだらけだった。

 こいつの目的は、おれ達狗神のお使いと、早苗さんを引き離すこと。そもそも、この緋衣という奴も、あの青衣という奴も、これまでの巡礼で見たことがない。


「手荒な真似をして申し訳ない。

 しかし、早苗殿とお使い達を(わか)つには、こうする他なかったのじゃ。

 どうか理解してほしい。」


「……もしかして、狒々王が消えたことと関係してるのか?」


 緋衣は落ち着いた面持ちに切り替え、黙って頷く。


「儂が今の地位に着いた時、既に狒々王という者は跡形もなく居なくなっていた。

 誰に継承されたわけでもない。気づいた時には、儂と青衣は、どちらもこの小山の主を名乗っていたのじゃ。」


「……妙だな。てっきりお前達は、狒々王の隠し子か、後継者の類だと思ったが。」


 緋衣は、今度は首を横に振る。

 話が本当なら奇妙奇天烈だ。自分の素性も知らない奴が、どうしてこんな堂々と猿達を統べられる?そして、


「柿や他の猿達も、この緋衣というお方を主と認めているんだな?」


 おれは傍らの柿に声をかける。


【左様でございます。

 到底信じられぬことでしょうが、私はおろか、猿達の誰も、緋衣様がどこからやって来られたのか。何者なのかを存じ上げぬのです。

 …しかし、狒々王が失踪され、主人を失い途方に暮れていた我らを纏めて下さったのは、他ならぬ緋衣様。我ら猿達は皆合意の上、このお方を新たな主人と見込み、お仕えしている所存でございます。】


 つまり猿達も、この緋衣の存在をすんなりと受け入れてるってことか…。


「儂に残っている最も鮮明な記憶。それは、瓢箪池の反橋(そりばし)に佇む、若草色の着物を纏った、一人の娘の後ろ姿じゃ。

 それは恐らく、生贄となる犬居の娘…早苗殿であろうな。」


「…記憶…?」


 若草色の着物…。犬居の娘…。

 それが予知夢の類か、あるいは実際に目にした過去の記憶であるとしたら。

 信じがたいいくつもの情報が、おれの中でひとつの可能性となった。


「……緋衣、お前の正体って…まさか…。」



 ***



 わたしが目を覚ました時、太陽は既に頭上高くに移動していました。

 そして驚くべきは…


「…仁雷、さま…?」


 仁雷さまの姿が無かったこと。


 洞の中に溜まった木の葉に手を乗せれば、まだほんのりと(ぬく)みが感じられる。仁雷さまがいなくなってから、そう時間は経っていないのでしょう。


 けれど、どうして消えてしまったのかしら…。何か理由があって姿を消されたのか、もしくは…お猿達に見つかってしまった…?


「…………仁雷さま……。」


 胸を突く心配と心細さを押し殺し、わたしは必死に頭を働かせます。

 どうしよう。まず、わたしはどうするべき…?


『俺達を信じて。』


 義嵐さまも、仁雷さまも居ない今、一人になってしまったわたしはどうするべきか。

 私が向かうべき場所。それは、ひとつしかありませんでした。


「……狒々の、池泉の試練…。」


 何かに試されている。これ以上逃げても無駄だというように。

 それならば、わたしは前に進む他ない。元より命の危険は、覚悟の上だったはずだもの…。躊躇するのも今更というものだわ。


 体を微かに震わせながら、わたしは立ち上がります。洞から身を乗り出し、鬱蒼と繁る木々を見上げます。

 山の中で右も左も分からない。そんな状況で、わたしは一か八か、意を決しました。


「………ど、どなたか…!

 見ておられますか…?

 わたしは…犬居の娘はここにおります…!」


 仁雷さまを連れ去った者がいるのなら、今もわたしを見ているかもしれない。

 その一縷(いちる)の望みに賭けたのです。


「…池泉の試練に参ります…!

 け、けれど、わたしは…わたしだけでは、この山を抜けられないのです…っ。

 ですから、どうか……。」


 返事はない…。思い過ごしであったのかしら…。

 わたしは語尾を弱めながら、懇願にも似た思いでした。


「…どうか、わたしを導いてくださいませ……。」


 わたしは己の無力を痛感しました。

 仁雷さまや、義嵐さまがいなくては、わたしは何も出来ない。


 犬居屋敷にいた頃は、あの屋敷の中が世界のすべてでした。それに比べたら、この狗神さまのお山のなんと広大なことか…。


「……どうかっ…。」


 わたしは妾の子。狗神さまの生贄となるために産み育てられ、それを受け入れることは必然でした。

 わたしの意志など入る余地が無かったから…言われるまま、与えられるまま、わたしは今日まで十三年間を生きてきたのです。


「……どうか、お願い、いたします…っ。」


 そんなわたしが今ようやく、自分の意志と向き合っている。

 これは、狗神さまの巡礼を成し遂げたいからでしょうか…?信仰する狗神さまのおそばへ、早く行きたいからなのでしょうか…?


 ーーー…いいえ。そんな崇高な気持ちでは断じてない。


 わたしはただ、ただ、お二人を…。

 “仁雷さまと義嵐さま”を、助けたい一心でした。



「………………。」


 けれど、返事はない。

 どうすることも出来ないのかしら…。

 わたしは項垂れ、足元に目を落とします。


 その時、視界の端に誰かの爪先が見えました。


「………あ……。」


 顔を上げれば、わたしのすぐ先に、一匹のお猿が立っているではありませんか。

 白い体毛はくしゃくしゃで、胡乱(うろん)な目つき。しかもその右目には、痛々しい裂き傷の痕が…。


「……あなたは、青衣の…?」


 その姿は確かに、青衣の塒でわたしを見張っていたお猿の片方でした。


 わたしが恐る恐る訊ねると、お猿は黙ったまま身を翻します。


「あっ、待っ………。」


 待って、と言いかけましたが、お猿は身を翻した状態で、その場に留まりました。

 顔だけをこちらへ向け、わたしをじっと見つめています。

 “付いて来い”。そんな意図を感じました。


「………。」


 わたしは胸の前で手をギュッと握り締め、洞から足を踏み出しました。



 お猿はわたしを先導し、深い山の中を進んでいきます。

 枝から枝を渡り、岩場を軽やかに飛び越え、草の繁る獣道を苦もなく進んで行く。けれど人の身のわたしには、それらは過酷な道でした。


 仁雷さまと義嵐さまであれば、わたしの体力を推し測ってくださったでしょう。けれどその心配りは、それが狗神さまのお使いである、あの方々の“お役目”だから。


 ーーーわたしはどれほど護られていたのでしょう。


 着物も肌も土に汚れ、汗が()()無く吹き出し、脚は痛くて今にも千切れそう。

 前を行く一匹のお猿は、わたしが姿を見失わないように、一定の距離を保ってくださっています。

 誰の手も借りず、わたし一人の力で試練に挑む…。きっと、こういうことなんだわ。


「………はぁ、はぁ……。っ…。」


 息を切らしながら、わたしはお猿の白い体毛を目指します。


 …けれどどうしても、疲れは歩みを妨げます。

 木に手をついてしゃがみ込み、わたしは荒い呼吸を繰り返しました。

 いけない。まだ幾許(いくばく)も進んでいないのに…。お猿はわたしを見限ってしまうかしら…。

 前方を見遣れば、


「……?」


 お猿がある場所で座り込みました。

 そこは一本の木の根元でした。木を多い尽くすほどの葉が茂っています。目を凝らせば、どうやら別の植物の(つる)が、木に巻きついて繁殖しているようです。蔓からは、たくさんの紫色の果実が成っているのが見えました。


「……あれは、木通(あけび)の実…?」


 わたしは吸い寄せられるように、その立派な果実のそばへ。

 お猿が、木に成っている実をじっと見つめます。


「これが欲しいの…?」


 お猿は何も言いません。口を引き結び、実を見つめ、それからわたしの顔へと視線を移します。


 わたしにはお猿の言葉が分からないけれど、さもそうすることが正解であるかのように、木通の実をひとつ両手で握り、そっと茎からもぎました。

 瑞々しく熟れて、縦に割れた淡紫色の外皮。その中に覗く、白く柔らかな果肉。初めて嗅ぐ甘い香りに、お腹が空いて喉も乾いていたわたしは、思わずごくりと生唾を飲みました。


「……これを、食べるの…?」


 お猿は口を閉ざしたまま。なおもわたしの顔を見ています。


 爪の先で果皮を優しく剥き、その中に潜む実にそっと唇を寄せます。

 滑らかな果肉をひと()みすると、味わったことのないトロトロとした食感と、爽やかな甘さに包まれました。


「……!」


 思えば、野生の実をもいで食べるのは初めてのことでした。

 屋敷で、誰かの手を介することで美しくなる料理とはまた違う。山の、野の本来の味が、そこにありました。

 わたしはお行儀のことも忘れ、木通の実を夢中で食べました。口の中に溜まった種をひと噛みすると思いの(ほか)苦くて、(はした)ないと思いながらも、種を一粒…二粒…と、口から足元へと落とすのでした。



 時間をかけて実をひとつ食べ終える頃には、お猿は再び獣道を先導し始めていました。

 どうやら疲れ切ったわたしを見かねて、束の間の(いこ)いを与えてくださったようです。


「……お待たせしました。」


 わたしは袖で口元を拭い、少し元気を取り戻した脚を、前へ前へと進めます。

 お腹が満ちたからかしら。不思議と、胸の中に渦巻いていた不安や焦りは薄らいでいたのです。



 ***



 お猿の後を追いかけて、どれだけの時間を歩いたのでしょう。日はすっかり沈み、辺りは闇に包まれました。

 手元には灯りもなく、方位を知る道具もありません。お猿の白い毛がどこを歩いているのかも分かりません。


「………はぁ、はぁ……。」


 わたしは夜目が利かないものですから、辺りをいくら見回しても、ここがどこで、どのような場所なのか見当もつかないのです。

 耳を澄ませば、微かな虫の音と、風に葉が擦れる音がするばかり…。歩き続けた疲れも相成って、わたしは無性に寂しい気持ちに襲われました。


「……どうしよう…。わたし…。」


 山の中に一人。このまま迷い果て、いずれは獣に食べられてしまうのかしら…。


 おかしな話。狗神さまの生贄となるために、とっくに死を覚悟したはずだったのに。

 今のわたしはとても、“死ぬのが怖い”と思ってしまっている。


 それどころか、とても人恋しい気持ちに駆られている。母さま…星見さま…、義嵐さま…、仁雷さま……。


「…どうか、…わたしをひとりにしないで…。」


 寂しくてたまらない。胸に渦巻く不安を取り除きたくて、自分自身を強く抱き締めます。

 それでも、感じるのは知った温もりひとつだけ。それはわたしの不安や寂しさを、さらに増長させるだけでした。


 ーーーああ、わたしはなんて鈍かったのかしら。死ぬ覚悟ができたなんて、真っ赤な嘘だわ…。


 自分がこんなにも弱くて、臆病だったなんて、知らなかったの。屋敷で皆から遠巻きに見られて、さみしくて、ずっと気丈に振る舞っていただけ。わたしはまだ、たった十三の子どもだったんだわ…。


 わたしは大きな木にもたれ掛かるようにして、その場に座り込みます。

 こんな時、年相応の子ならどうするのかしら。声を上げて泣いて、両親を呼ぶかもしれない。でも、縋れる両親もいないわたしに、同じことは出来ないわね…。

 そう思うだけでだんだんと、目頭が熱くなっていきました。


 …ふと、


「…………っ。」


 暗闇の中で、わたしの頬に柔らかな“毛並み”が触れました。

 温もりを持つ滑らかな毛並み。しかも、それはとても大きな体をしているのが分かりました。足音を殺しているけれど、大きく重い足が草を踏み締める音が耳に残ります。


「………誰…?」


 わたしを導いてくれたお猿ではない。

 それにこの毛並み、どこかで触れたことがあるように思えます。


 獣はわたしのそばに寄り添い、腰を下ろします。近づく確かな呼吸。山の香り。ふかふかとした毛の感触は、お犬の姿の仁雷さまを思わせました。


「……仁雷さま、なの…?」


 獣は答えません。

 けれどその場から去ることはなく、穏やかな呼吸を繰り返します。

 わたしの肌に、柔らかな苔のような感触もありました。


 …仁雷さまじゃない。でもこのお犬は、きっと優しい気持ちでここに居てくれるのだわ。


「……わたしを慰めてくださるの…?」


 お犬の鼻先が、わたしの頬に擦り寄ります。安心させるように。


「ありがとう。優しいのね…。」


 間近の温もりに、わたしは心が解されていくのを感じました。

 少しだけ、少しだけ頼ってもいいのかしら。とても疲れてしまったものだから…。


「…あったかい……。」


 わたしはお犬の大きな体に身を預け、そうして目を瞑ります。

 意識は、深い深い眠りの底へと、ゆっくり落ちていきました。



 ◇◇◇



 ……不覚だ。一生の不覚だ。

 なぜ俺はこうも、二度までも。


 夜はすっかり明けた頃かと思うのに、この洞穴の中へは外界の光が届かないため、時間の感覚が狂いそうになる。


 この場所は知ってる。早苗さんを連れ去った青衣の塒。それも、崩落した社殿の瓦礫の上だ。

 俺の縛られた両腕には、見覚えのない紋様が刻まれている。どうやら(まじな)いの類らしく、芒色の山犬の姿に変化(へんげ)出来ないばかりか、引き千切ろうにも力がまるで入らない。

 万事休すとはまさにこのこと。俺の正面には、あの憎き青衣が、不敵な笑みを浮かべて座り込み、煙管を蒸していた。


「…野犬の小僧。あの時はよくもこの儂に牙を剥いてくれたのう…。」


 青衣の首と腕に残るは、山犬の深い噛み痕。義嵐と俺の牙による傷だ。大方、怪我を負わされた報復をするつもりか…。


 俺だけがここに連れて来られた経緯は、少し前に遡る…ーーー。


 ーーー


 …早苗さんと共に洞に潜み、しばし休養をとっていた頃。そんな俺の耳に、何者かがこの洞へ近寄る足音が聞こえた。


「……?」


 覚醒し、目だけを外へ向ける。

 そこに立っていたのは、一匹の白い猿。

 緋衣の所の…?いいや、連中は皆身なりを気遣っていた。目の前にいるのは、どこかやつれた野生の猿だ。もしくは、


「……青衣の手下か?」


 俺の低い唸り声に対して、猿は毛を逆立てる。よく目を凝らせば、その後ろから一匹、また一匹と別の白猿が現れる。

 あっという間に数を増し、三十匹を超える猿が洞の前に集結した。


 皆一様に毛を逆立て、歯を剥き出す。

 多勢に無勢だ。今一斉に襲い掛かられたら、俺ひとりでは早苗さんを庇いきれるか分からない。こんな時、あのお調子者の義嵐の不在を恨めしく思う。


「………ん、んん…。」


 俺にもたれ掛かる早苗さんが、少し身じろぐ。だが、よっぽど疲れていたんだろう。深い眠りに落ちたまま、覚醒することはなかった。

 俺は早苗さんの穏やかな寝顔を見つめ、その薄紅色の頬を指先でなぞり…、


「………一歩でも中へ入ってみろ。この俺が頭を噛み砕いてやる。」


 猿の群れを睨み、威嚇する。

 迫力で言えば、本来の山犬の姿には劣るかもしれない。しかし猿達を怯ませるには充分な効果があった。


 怖気づき、石のように動けなくなってしまった猿達。しかしその場から逃げ出すでもなく、途方に暮れている様子だ。

 奴らにも後に引けない理由があったのだ。それは例えば、早苗さんと俺を捕らえるよう、奴らの大将から命令されたとか。


「……全く、揃いも揃って貴様らは腑抜け揃いじゃ。“野犬一匹と小娘に躊躇して良い”と、儂がそう命じたか?」


 猿達の背後から現れたのは、青い髪に青い着物。巨大な人間の姿をした、あの不遜な青衣だった。


「猿共の知らせ通り。もう一匹とは(はぐ)れたようじゃな。」


「……お前と同じ、得体の知れない女のせいでな。」


 俺の言う“女”のことを、青衣もまた知っていたらしい。眉が引き攣るのを見逃さなかった。


「“緋衣”か。…あのたらし者め。まだ儂の縄張りに住み着いておるとは。奴に何を吹き込まれたか知らぬが、池泉の主はこの儂、青衣じゃ。

 …野犬の小僧、用があるのは貴様一人じゃ。娘をそこに捨て置け。貴様を儂の塒へ連れて行く。」


「………誰が行くか。

 何のつもりで俺を捜していたかは知らないが、俺は早苗さんを連れて狗祭りへ向かう。そして…狗神の判断を仰ぐ。」


 狗神。その名は青衣の怒りを簡単に刺激した。

 体を猛らせ、人の姿の何倍も質量のある、青い狒々の姿へと変貌する青衣。そんな主人の怒りを察知し、周囲の猿達は蜘蛛の子を散らすように惑いだす。


 しかし、外皮から漏れ出る殺気とは裏腹に、青衣の声色は恐ろしいくらい落ち着き払っていた。


【…残念であったな、野犬めが。狗神は儂の試練を全て承知しておる。

 大方、儂を次代狒々王と認めたのじゃろう。使いである貴様を直接この手にかけることは出来ぬが、…遠回しに甚振(いたぶ)(すべ)ならば、儂はいくらでも知っておる。】


 青衣が勿体付けた動きで、俺達の潜む洞の入り口に両手を当てがう。


「……っ!!」


【よくも儂の社殿を壊してくれたのう。貴様らも同じ目に遭わせてくれるわ…。】


 奴の剛腕にかかれば、こんな洞など簡単に破壊出来る。

 どうする?早苗さんを外に連れ出せば、猿達の恰好の的だ。


「……クソッ…!」


 躊躇してる暇はない。

 俺は早苗さんを抱き締め、洞の外へと飛び出すため、片膝を立てる。


 その時だった。



「ーーー……………っ!?」



 俺の本能が“動いてはいけない”と警鐘を鳴らした。ぞわりと総毛立ち、頭から氷水を被ったような緊張に襲われる。

 それは猿達も、青衣も同様だった。何か大きな獣の歯牙が首元に迫っているような恐怖。

 その感覚は、俺と…そして青衣にも覚えがあった。


 振り向けないが、気配と匂いで分かる。


「……なんで…………。」


 洞の奥底から忍び寄る、俺よりも何倍もの体格と畏怖を持つ、強大な獣の息遣い。



「…………“狗神(いぬがみ)”……。」



 なぜこんな場所に。

 まだ巡礼の途中だ。最後の聖地で待つはずの重鎮が、なぜこんな所に…?


 青衣は顔色を真っ青に染め、その場から動けずにいる。その表情からは、奴がどれほど狗神を(おそ)れているかが見て取れる。

 洞を壊すことなど、もう意識の外だろう。



「……ッ!!」


 狗神の口吻(こうふん)が、音もなく俺の耳元に寄る。

 そうして告げられたのは、俺が到底容認出来ない命令だった。


「…………あ、“青衣に従え”と…早苗さんを一人にしろと……?

 そう、言うのか…っ、狗神…っ。」



 狗神からの命令に、俺は何ひとつ納得できなかった。

 犬居の娘を最後まで護り抜くのが、我らお使いの使命ではなかったのか。

 犬居の娘の巡礼の成功は、狗神自身の望みではなかったのか。


「……早苗さんは…人の身だ……。

 こんな山中に捨て置くなんて……俺にはできない……。」


 俺の中の山犬の本能が“狗神に従え”と叫ぶ。それを理性で必死に抑え込む。そんな命令を聞いてしまえば、彼女はどうなるんだ…?


 こんな窮地でも、疲れ切った早苗さんは未だ、安らかな寝顔を浮かべている。


 ーーー護りたい…。離したくない…。俺は……。


 葛藤に苛まれる俺に助け舟を出すように、また狗神が囁いた。



「……………それは、信じていいのか……?」



 狗神は言った。

 “決して早苗さんを死なせない”と。


 我が主神(しゅじん)ながら、その考えは微塵も読めない。恐らく俺だけでなく、山犬の誰もが理解し得ないだろう。

 それでも…悲しきかな。俺はこの神の“使い”なのだ。


 己の首に触れる。そこに刻まれた紋様を消し去ってしまいたい。しかしそれが叶わないことも、重々承知していた。


「………………。」


 俺は本能に従った。

 早苗さんの体を、洞内に溜まった落ち葉の上に、そっと横たえさせる。

 その安らかな、愛おしくてたまらない寝顔を目に焼き付けて…、


「……青衣、俺はお前と共に行く。猿達を一匹たりとも彼女に触れさせるなよ。」


 芒色の山犬の姿へと変化し、その場に立ち尽くす猿達に向けて、牙を剥いて威嚇した。

 すくみ上がり、猿達の中にはとうとうその場から逃げ出す者も。青衣だけは眉ひとつ動かすことなく、


【…儂に付いて来い。】


 そう短く吐き捨てると、一刻も早くここから立ち去りたいという様子で、塒のある方角へ身を翻した。


 洞から外へ出た俺は、尾を引かれる思いで、後ろを振り返る。

 狗神は既に姿を消しており、薄暗い洞の中には、小さな早苗さん一人が横たわるだけだった。


 ーーー早苗さん……。



 ーーー


 回想を終え、拘束状態の俺は、正面の青衣を睨む。


「……それで?俺をどうする?

 傷の報復として、同じ目に遭わせるか?」


 命乞いはしない。奴が俺に触れた瞬間、その喉笛を噛み切るだけだ。そしてさっさとここから出て…。


「残念だがな、儂は貴様を直接痛め付けられんのだ。何せ貴様は、重要な“狗神の使い”であるからな。

 …貴様はただこの場所で、犬居の娘が宝を持って参るのを待てば良い。」


「……っ!?」


 青衣の言葉には含みがあった。


「それ、どういう意味だ?まさか、早苗さんの身に何か…。」


「知らぬな。儂はとうに、“今回の娘”を諦めておる。

 貴様は言ったな?“猿を一匹たりとも娘に触れさせるな”と。約束通り、儂は猿を一匹たりとも(けしか)けぬ。


 あの娘は今頃、山中を宛てもなく彷徨い、何かの偶然で池泉に辿り着くか。… あのまま野垂れ死ぬか。


 そうなればまた十年後に、別の犬居の娘が送り込まれるだけじゃ。

 …そうして巡礼は続いて来たのではないか。」


 青衣の真意を察し、俺は激しい怒りを覚えた。

 この体に施された呪いは、腕だけでなく、全身の自由までもを奪っている。青衣の方から接触しない限り、俺は永久にこの場に留まり続けるだろう。


「……お前は俺に直接手を下せない。だから、俺をここに縛り付けて、飼い殺すつもりか…!!」


 早苗さんたった一人で、俺と義嵐の助けも無しに深い山の中…生きて池泉に辿り着けるはずがない。ましてや、水中の宝を持ち帰るなんてことが出来るはずがない。


 遭難、野生の獣、飢え…。山の中での生存率は、極めて低い…。

 青衣は早苗さんを見殺しにし、次の犬居の娘を待つ気なのだ。

 なんて狡猾な男。憎くて憎くてたまらない。あの不敵に歪む顔を食い潰してやりたい。


「………クソッ…何が、“信じる”だ……。」


 狗神は言った。

 “青衣に従え。”

 “早苗さんを死なせない。”

 あの言葉は嘘だったのか?

 早苗さんの巡礼を中断させるための、口車だったのではないか?


 俺の中で不信感と、怒りが増長していく。


 拘束された体を無理矢理解こうと、俺は大きく体を反らせた。

 同時に、全身に鋭い痛みが走る。無数の針を刺し込まれるような、火で焼かれるような、未だかつて経験したことのない痛みだ。


「………ッ…!!」


 激痛に一瞬怯むが、諦めてはいない。俺はなおも抵抗を続ける。

 …しかし、体の拘束が解ける気配は少しも無かった。


「愉快じゃのう、山犬の小僧。無駄な足掻きは命を縮めるだけじゃ。(こうべ)を垂れ、儂に命乞いをしてみろ。」


 俺の姿を嘲る青衣。

 その不遜で傲慢な態度に、誰が屈するものか。誰が(へつら)うものか。


 早苗さんを救う手立てが、生死を確かめる術が、今の俺には無い。

 それは自身の死よりも、よっぽど恐ろしいことだった。


「…お前の機嫌を取るくらいなら、早苗さんと一緒に()の世に逝く方が、千倍良い。」



 ***



 明け方の優しい陽光を感じて、わたしはゆっくりと意識を浮上させました。

 もたれかかっていた木から体を起こし、辺りを見回しますが、周囲に生き物の姿はありません。

 意識を手放す直前に感じた獣の気配…。あれは夢だったのかしら。


【キキッ!】


「!」


 少し遠くから鳴き声がして、反射的にそちらに顔を向けます。

 白い毛に、右目の傷。ここまでわたしを導いてくださったお猿が、少し離れた木のそばで、わたしのことを待っていました。

 よく目を凝らせば、お猿の姿の向こうに、きらきら光るものが見えます。


 ゆっくりとその場から立ち上がり、お猿の方へ、光るものの方へ、一歩一歩と近付いていきます。


「……あっ…!」


 その正体に、わたしは声を上げました。


 朝日を反射して光る水面。透明な水を湛えた広大な池泉…瓢箪池が、そこに広がっていました。

 とうとう、目的の場所に。二つ目の試練の場所に戻って来たのです。


「…あ、ありがとうございます…!

 なんて、お礼を……。」


 体の疲れも吹き飛んでしまうほどの感動に震え、わたしはここまで導いてくれたお猿にお礼を述べます。

 これまで無言を貫いていたお猿が、ふいに口を開きました。


【礼には及びませんわ。早苗様。】


「!」


 そのお猿の澄んだ声に、わたしは驚きを隠しきれません。声音から察するに、どうやらこのお猿は、女の(かた)であるようでした。


「…お、お猿さま、言葉が話せたのですね…。」


【…青衣様は、我ら猿が口をきくことをお許し下さいません。ご挨拶が遅れ、申し訳ありませんわ…。


 私は青衣様の側近の、あけびと申します。以後、お見知り置き下さいまし。】


「あけびさま…。」


 道中、わたしの空腹を満たしてくれた、淡紫の実の味を思い出します。


「山中助けていただき、ありがとうございます。青衣の命令で、わたしを導いてくださったの…?」


 青衣はわたしを生かさないものと思っていました。

 あけびさまは浮かない顔で返します。


【…いいえ。私は青衣様の命令に背き、独断で早苗様をお連れしたのです。】


「え……?」


 あけびさまは自身の右目の傷に触れながら、ポツリポツリと言葉をこぼします。


【…青衣様は恐ろしいお方です。己の意にそぐわない者は排除し、気分次第で、家来の猿を傷付けることも躊躇しません。】


「……まさか…。」


 痛々しい傷の正体は、自分の主人の手によるものだと言うのでしょうか。


【早苗様をお護りしていた、芒色の毛並みのお使い様も、今頃は青衣様の手の中です…。】


「……そんな…。」


 やはり仁雷さまは、わたしが眠っている間に連れ去られてしまったようでした…。

 脳裏に青衣の恐ろしい形相が浮かびます。仁雷さまの身が心配で、わたしの胸は痛いくらいに嫌な動悸を繰り返します。


【青衣様はもはや、早苗様に巡礼の試練を与えるおつもりはありません。

 …ですが、私は…猿達は、どうしても早苗様に試練を達成していただきたいのです…。】


 あけびさまの声は震えています。

 この方もまた、どれほど苦しい思いをしているか。どれほど恐怖を抱えているか。それらが痛いほど伝わってきて、わたしは思わず、彼女の小さな白い背中にそっと触れました。


【…早苗様の、青衣様への臆さぬ物言い。そして身を呈して私を救って下さった勇敢さ…。

 あなた様ならきっと試練を達成し、青衣様の目を覚まさせることが出来ると信じているのです。】


「あけびさま……。」


 あけびさまの憐れなまでの懇願を受け、わたしは意を決しました。

 あけびさまに導いていただき、食べ物を教えていただいた。あの助けが無ければ、わたしは今この場に生きて立ってはいないでしょう。


 瓢箪池を見つめ、彼方に弧を描く反橋を見つめ、


「……参りましょう、あけびさま。

 案内をお願いできますか…?」


 水底に潜むという蟹の姿を想像しました。



 わたしはあけびさまに導かれ、瓢箪池に掛かる反橋を訪れました。

 瓢箪の(くび)れた場所。池の東側と西側とを繋ぐ、長く大きな反橋は、遠目からでもその緩やかな弧を描く姿を確認することができました。そばに寄れば、その大きさに圧倒されてしまいます。


 橋を渡り、池の中心辺りに差し掛かったところで、あけびさまが欄干(らんかん)にヒョイと飛び乗りました。


【ここから、宝を見下ろせますわ。】


 あけびさまに続き、わたしも欄干から少し身を乗り出します。

 池泉はかなりの深さがありそうですが、水は清らかで、水中に棲む生き物の姿が見えるくらい透き通っています。

 銀色の小さな魚達が舞い泳ぐその中に、


「!?」


 異様な物を見つけました。

 朝陽を反射して金色に輝く、楕円形の大きな物体が、深い水底に沈んでいます。その大きさは例えるなら、大人の牛や馬ほど。とてもわたし一人で引き上げられるような代物ではありません。


 わたしは目を凝らします。揺らぎの穏やかな水のおかげで、その金色の物体の姿を確認することが出来ました。


 強固な甲羅に、大きなハサミ。突き出たふたつの目玉。

 まさに“蟹”。これこそが、緋衣さまのおっしゃっていた、瓢箪池の宝に違いありませんでした。


 それにしても、なんて綺麗な輝きでしょう…。水の中で幾重にも光を反射させ、蟹自身が光を放っているよう。その美しさに、思わず目を奪われてしまいました。


 けれど、どうしよう…。

 仁雷さまと義嵐さまの力を借りず、わたし一人でどうやって持ち帰れば…。


「……あら……?」


 ふと、蟹の甲羅に、一本の裂き傷が付いているのに気づきました。

 大切な宝に傷なんて…一大事なのでは?


「…あけびさま。あの傷は?」


 隣で同じく怪訝な顔をするあけびさま。


【…いいえ、私も存じ上げません。この宝に触れられるのは、狗神様か、守り主たる狒々王様だけなのです。】


「……じゃあ、狗神さまか、狒々王さまが付けた傷なのかしら…?」


【そ、そんなはずは…。】


 大切な宝物にわざわざ傷を付けるなんて、普通は考えられないけれど。


 わたしはこれまでの道中で、義嵐さまが話していたことを思い出しました。

 狒々王さまについてです。


「…あの、あけびさま。

 狒々王さまは“ケチ”なお方だったのですか?」


 わたしの直接的な物言いに少し嫌な顔をされながらも、あけびさまは答えてくださいました。


【…私の以前のご主人様…“狒々王”様は、喧嘩っ早く、執着心の強いお方ではありましたが、…根はとてもお優しい方でした。

 狒々王様がお姿を消して間も無く、あの青衣様が現れたのです。】


「……狒々王さまは、どこへ行かれたのでしょう…?」


【…それは誰にも分かりませぬ。…ただ一つわかるのは、狒々王様はこの瓢箪池で消息を絶った。それだけでございますわ…。】


 わたしは金の蟹に目を向けます。

 広大な池泉の中で、狒々王さまが興味を示す物といえば、自身の所有物であるこの宝でしょう。


「………もしかして、あなたが何かしたの…?」


 わたしの問いかけに、蟹は答えません。ただ目玉をギョロリと動かすばかり。



 きらきら輝く蟹の甲羅の色には、なぜだか見覚えがありました。

 一度ではありません。そう、二度。

 確かあれは、青衣の胸に飾られていた円鏡。

 そして緋衣さまの胸元にもあった、同じ円鏡。

 まるで形見分けのように、敵対し合う二人が同じ品を持っているのはなぜでしょう。


 それに、青衣と緋衣さま。あの二人には、跡目争い以上の深い因縁があるように思えてなりません。

 塒の建物の配置も、性格も、性別すら、鏡合わせのように反転しているのです。

 なのに、お互いがお互いの顔を見たことがない。


 ーーー鏡……。


「あけびさま、」


 わたしはひとつ、強い興味を覚えました。

 わたしの予想が当たっているなら、すべて丸く収まる。

 もし外れていれば、わたしの命はここで潰えてしまうかも。


問答(もんどう)の答えが出ました。

 青衣をここへ連れて来てくださいますか?」


 その生死を左右する賭けの結果を、早く知りたいと思ってしまうのです。



 ◆◆◆



 仁雷と早苗さんと別れて、早二日。

 その間も、おれは緋衣の塒の座敷牢で、軟禁生活を余儀なくされていた。


「………っ、……っ……。」


 暇を持て余し、指一本で逆立ちをしてみたり、宙返りをしてみたり。

 そんなおれの様子を監視するのは、いつも決まって、


「よくそれほど、飽きもせず体を動かしていられるのう、お使い殿。」


 塒の主たる緋衣だ。興味津々と言った眼差しで、おれの体を眺めている。


 おれは着物で汗を拭い、水の張られた器を舐める。


「あんたもよく飽きないよな。そんな警戒しなくても、おれは逃げないぞ?

 ほらそれ、狗神の(まじな)いだろ?」


 檻の扉口に、見覚えのある紋様が刻まれている。あれは狗神特有のもので、一介のお使いであるおれに破れる代物でないことは分かりきっていた。


「ホホ、警戒などしておらぬよ。

 …ただ、居ても立っても居られぬだけじゃ。」


 緋衣は浮かない顔を見せる。

 当然と言えば当然だ。


「…早苗さん、まだ見つからないのか。」


「…………。

 猿達に捜させておるが、…未だ。」


 試練には早苗さんが必要不可欠。

 しかし、緋衣がいくら猿を使って行方を追っても、この広い山の中を見つけられないらしい。


 青衣の縄張りに入ったのか?

 仁雷が機転を効かせて、山犬達の元へ向かったか?

 まさか早苗さん一人になったとは考えにくい…考えたくはないが…。


「緋衣、試練を早苗さん一人に挑ませたい気持ちは分からんではない。

 けど、彼女は貴重な犬居の娘だ。あんたはあの子の訪れを十年も待った。こんな所でみすみす手放したくはないだろ?

 また十年を無為に過ごす気か?」


 おれは檻を両手で握る。

 その両手が、鋭利な爪を有する山犬の前足へと変化する。


【おれなら見つけ出せるよ。

 あの子の匂いなら、死んでも忘れないからな。】


 今のおれから駄々漏れる“執着”のにおいは相当なものだろう。緋衣は緊張の面持ちで、檻に施した封印の紋様を見つめる。



【……ひ、ひ、ひっ…、緋衣様…!!】


 緋衣とおれの元に、側近の柿が血相を変えて飛び込んで来た。

 いつもきちんとしてる身なりも、この時ばかりは大層乱れてしまっている。


「なんじゃ、柿!騒々しい!」


【さ、さ、さ、…ささ…!!】


 口で荒く呼吸を繰り返してから、柿は搾り出すように言う。


【早苗様が!お一人で!

 この塒へ戻って参りました!!

 “池泉の試練の答えを見せる”と…おっしゃって…!】


「!?」


 おれと緋衣は全く同じ反応を示した。

 が、驚く点は全く違う。


「早苗殿が自ら戻って来たと言うのか?」


【…一人で?仁雷はどうした?一緒じゃないのかよ?】


 柿はもはや情報の容量を超えているらしい。前足をバタつかせ、そして助けを求めるように、


【さ、早苗様をこの場へお連れいたしました…!】


 背後に控えさせていた、あの小さな女の子を、おれと緋衣の前へと進み出させた。

 おれの目が自然とそちらを向く。鼻が自然と、彼女の匂いを嗅ぎとる。


【…さ、なえさん。なんてカッコだよ…。】


 久々に見る彼女は、だいぶ様変わりしていた。

 若草色の着物は泥だらけ。纏められていたはずの髪も、乱れてくしゃくしゃだ。

 唯一彼女を護れるはずの仁雷の姿も今は無い。この子は一体どんな過酷な目に遭って、どれだけ歩き続けていたのだろう…全身何度も汗をかいて、彼女特有の匂いをより色濃く纏わせている。


 けれど…なぜだろう。彼女の目に、強い決意が宿って見えるのは。これまでの、仁雷とおれに手を引かれ、不安げな表情を浮かべながら、理不尽な巡礼に挑まざるを得なかった頃の早苗さんとは…全然違う。

 そんな姿に、おれは胸が締め付けられるのを感じた。



「…緋衣様。柿様にお伝えした通りです。

 池泉の試練の答えをお見せします。

 わたしと一緒に、反橋へ来ていただけませんか?」


 早苗さんの淀みない物言いと、深く深く下げられた頭。

 緋衣も、彼女の変わり様に呆気に取られているらしい。少しの間を置いて、答える。


「…早苗殿、儂は宝を“ここへ”持って来るよう伝えたはず。しかしそなたは何も手にしてはおらぬようじゃが?」


「いいえ、緋衣様。あなたは“自分の元へ”持って来るようおっしゃったのです。

 あれは非力なわたし一人では、どうにも動かすことの叶わない代物です。

 ですから、“緋衣様から”宝の元へ赴いていただきたいのです。」


 至極真面目な顔でそんなことを言うものだから、おれも、そして緋衣も、意表を突かれた思いだった。


「…ホホ、良いか早苗殿。それは故事付(こじつ)けというものじゃ。

 まさかそれで、試練を達成したと言うつもりではあるまいな?」


「まだです。試練の達成には、緋衣様にご足労いただかねばなりません。

 どうか、お願いいたします。」


 そう言って深々と頭を下げる早苗さんは、ふざけてるわけでも、ましてや自暴自棄に陥ったわけでもない。

 この子は強い信念を抱いてこの場に立っている。それは匂いからも明らかじゃないか。


「緋衣。

 早苗さんは、狗神の使いの目の届かない所にいた。逃げ出すことも出来たんだ。

 だが試練のため、辛い思いをして戻って来た。ご褒美として、願いを聞いてやってくれよ。」


 おれは人の姿に変化する。

 緋衣はしばし黙って、早苗さんとおれとの顔を見比べる。幸い、その様子に否認の色は伺えなかった。


「……んーむ、良かろう。

 早苗殿の企みに賭けてみようではないか!」


 緋衣が檻に手を翳す。

 すると、狗神の呪いの紋様が、砂を吹くように掻き消えていく。

 すんなりと解放されたおれは、真っ先に早苗さんのそばへと駆け寄った。


「早苗さん、しばらくぶり。

 すっかり見違えちゃったね…。怪我は?」


「いえ…大丈夫です。」


 失礼を承知で、着物の上から彼女の体に触れ、痛むところが無いかを確かめる。

 …良かった。擦り傷や小さな切り傷はあちこちにあるが、命に関わる怪我は無さそうだ。


「義嵐様もご無事で何よりです。遅くなってしまって、申し訳ありません…。」


「いいや、よく助けに来てくれたね。

 仁雷とは(はぐ)れたか…?」


「…はい、山の中で…。青衣に、囚われてしまったと…。」


 早苗さんの気丈の仮面が崩れかける。

 しかし、それを奮い立てるのも彼女自身。

 早苗さんは滲みかけた涙を、泥んこの袖で拭い去り、真っ直ぐな目でおれを見た。


「義嵐さま。どうかわたしと一緒に、仁雷さまを助けて…。」


「……早苗さん……。」


 一緒に、かぁ。

 あんなに小さくてか弱かった娘にここまで言われちゃ、おれも腹を括らないわけにはいかないよな。


「たくさん頼りなよ。

 必ず早苗さんを護り抜く。もちろん仁雷の奴も。」


 その言葉を受け、早苗さんは心底嬉しそうに笑ってくれた。


 ーーーああ、やっぱりその笑顔。


 おれはどうしたって、この笑顔を護りたくて仕方ないんだ。



「早苗さん、出立前に体と着物を清めておいでよ。そのままだと気持ち悪いだろう?」


「あっ……う…いいえ。嬉しいお言葉ですが、今はお役目を早く果たしたいので、……に、においが気になると思いますが…このままでいさせてくださいませ。」


 女の子にとって、今の状態は決して気分良いはずがないのに。

 それでも、自分に課せられた責務を全うしたいという想いが、早苗さんの行動を決める。

 ならばおれは、尊重するだけ。


「……わっ…!」


 彼女の小さな体をヒョイと抱え上げ、肩に乗せてやる。丸二日軟禁された体は、動き回りたくてうずうずしていた。


「さっさと行こう、緋衣。

 あんたの待ち侘びた試練の場へさ。」


 緋衣はおれと、肩の早苗さんを見つめる。

 それからハアァ…と長い溜め息を吐き、傍らの白猿に命じる。


「柿!儂の(とも)をせよ!」


【緋衣様……。

 は、はい、どこまでも…っ。】



 緋衣は柿と同時に、真っ直ぐ社殿の外へと駆け出した。

 それを追いかけ、おれ達も駆け出す。


 狒々達の脚力は目を見張るものがあった。

 打掛(うちかけ)の重みなど無いかのように、緋衣の身のこなしは風の如し。人の姿をしていながら、獣が山を駆るのと同じ速度で、緋衣はおれ達との距離を開いていく。

 青衣に撒かれた時のことが思い出される。そして悔しげな仁雷の顔も。


「………っ!」


 あまりの速さに、早苗さんがおれの頭にしがみ付く。毛を掴む手から、確かに伝わる震え。


【…大丈夫。信じてな、早苗さん。】


 山犬の姿に変化し、緋衣の背中を追い掛ける。速く、速く、速く。

 丸二日温存し続けた体力は、いくら脚力を振り絞っても、一向に尽きることはなかった。



 ***



 わたし一人の足で、緋衣様の塒へ辿り着くのはとても時間が掛かってしまったけれど、義嵐さまの足はそんな徒労などあっさりと越えてしまうのです。


 緋衣様達の脚にも追いつくかと思えば、あっという間にお二人を追い抜いてしまいました。


「…ぎ、義嵐さますごい…!」


【へへん。今はね、体力が底無しなんだ。】


 みるみる小さくなっていく、緋衣様の社殿。

 そして代わりに、瓢箪池の中央に架かる、大きな反橋の全容が見えてきます。

 目を凝らせば、反橋の緩やかな弓形(ゆみなり)天辺(てっぺん)に、先客の姿が確認できました。遠目からでも分かります。大きな体に、青い着物と青い髪。あれは間違いなく…青衣です。

 傍らには、白猿のあけびさま。


 そして、


「あっ…!!」


 青衣の足元に、拘束されぐったりと横たわる芒色の髪…仁雷さまの姿があったのです。


 義嵐さまは反橋を駆け渡り、青衣のすぐ前まで迫ると、鋭い爪を用いてその場に急停止しました。


「じ、仁雷さま……っ!」


 義嵐さまの背から転がるように降り、わたしは仁雷さまのほうへ駆け寄ろうとします。

 …が、それは青衣の大きな体によって阻まれました。


「ーーー久方ぶりじゃのう、犬居の小娘。

 不敬にも、そなたが呼び立てたのじゃぞ。はようこの儂に宝を差し出して見せよ。」


 青衣は笑っています。

 “出来るものならば”。そう侮っていることは明白です。

 あけびさまは青衣の後ろで、小さく体を震わせています。心なしか…お体に傷が増えているような…。


「……っ。」


 弱気になってしまいそうな自分を奮い立たせます。

 今、わたしがすべきこと。


「……青衣。

 あなたに会ってほしい方がいます。」


 そう告げ、後ろを振り返ると…わたし達に追いついた緋衣様が、唖然とした顔で、初対面となる青い狒々を見つめていました。


「………そなたが、“青衣”か…!

 なるほど、いかにも無法者らしい男じゃ。」


「……貴様が“緋衣”。

 思うた通り、いけ好かぬ女じゃのう。」


 青衣は眉間に、深い皺を刻んでいきます。

 これまで敵対し合ってきたお二人です。相手の顔を見ようなどとは、これまで思わなかったのでしょう。


「…早苗殿。これ(・・)がそなたの申しておった宝か?青衣と儂を対面させ、よもや和解でもしろと申すか?」


 緋衣様の声は重く冷たい。

 その迫力に圧倒されそうになりながらも、わたしは胸の前でギュッと手を握って言います。


「…そうかもしれません。

 わたしは、“あなた方”が試練の答えだと思っております。」


 緋衣様と、青衣の疑いの目が、同時にわたしへと注がれます。負けては駄目。

 わたしは欄干から半身を乗り出し、水底の巨大な蟹を見下ろします。


「あの蟹の甲羅…とても面妖で、初めて見た時、わたしは目が離せなくなってしまいました。

 けれど、わたしはあの輝きに見覚えがあります。…緋衣様と青衣、お二人の首に下げられた円鏡と同じ物に見えるのです。」


「…儂の……?」


 青衣が胸元の円鏡に目をやります。

 やはり今も身につけている。よほど大切な物なのでしょう。

 それこそ、池泉の宝と同じくらい。


 なぜ敵対し合うお二人が同じ鏡を所有しているのか…。これはわたしの憶測でしかありません。


「生まれた頃より身につけている、大切な物なのですよね。

 …もしやその鏡は、あなた方がお二人に“(わか)たれた”証なのではないでしょうか?」


 馬鹿げた話と笑い飛ばされるかしら。ですが、そんな気がしてならないのです。

 鏡とは神聖な道具。襟を正し、己の真実を映し出す物。

 蟹の甲羅から削り取られた金の破片。それが、元は同じ物であるとすれば、


「お二人の鏡をお見せ合いください。

 そこには、何が映っているのですか?」



 緋衣様はご自身の鏡を、黙って見つめます。

 そして、好奇心に突き動かされ、その鏡をゆっくりと“青衣の方へ”翳すのです。


 その時です。鏡の中の己と目が合った青衣の顔が、サァッと青褪めました。


「……どういうことじゃ…。」


 思わず一歩身を引く青衣。

 しかし緋衣様はそれを許さず、音もなく青衣に詰め寄ると、その太い手首を、自身の細い指で掴み上げます。


 青衣の手中にあるもう一枚の鏡。その中に、緋衣様も自身の姿を映し、


「…ホホ、そういうことじゃったか。

 青衣、そなたと儂は生まれた頃より腐れ縁であったということじゃ。

 まさか狒々王の半身同士であったとは。」


 鏡の中の二人の“狒々王様”が、ニンマリと笑みを作ったのです。



【…ひ、狒々王様……っ!!】


 鏡の中に映る、主人達の本当の姿を見て、柿様とあけび様が同時に叫びました。


 しかし、その声を遮るように、雄叫びを上げたのは青衣です。

 緋衣様の手を振り解き解き、肩をブルルッと振るわせたかと思うと、その体をさらに肥大させていく。青い体毛を全身に蓄えた、恐ろしい狒々の姿へと変化します。


【…儂と貴様が狒々王の半身じゃと?

 冗談では無い。池泉の主は一人だけ。この青衣だけで良い!!】


 青衣は両手を大きく天へ振りかぶると、人の姿の緋衣様目掛け、その拳を振り下ろしました。


 いけない、このままでは緋衣様と…仁雷さまも巻き添えに…。


「じんっ……!」

「早苗さん!!」


 名を叫ぼうとしたわたしの体を、とっさに人の姿の義嵐さまが抱え上げ、その場から大きく跳びました。


 直後、青衣の拳が、今さっきまでわたしが立っていた床板もろとも、緋衣様の体を真上から叩き潰しました。橋の一部が破壊される轟音が辺りに響き渡ります。


「……じ、仁雷さま…!緋衣様…!」


 間一髪攻撃を逃れたわたし達は、緋衣様と仁雷さまの姿を目で探します。

 けれど後には、青衣の拳に穿たれた無残な床板があるだけ。そこに人の姿は見えません…。


「…は、離して…っ!」


「落ち着いて早苗さん。今は近付いちゃいけない。」


 認めたくない。わたしは緋衣様と…それ以上に仁雷さまの無事を求めて、義嵐さまの腕の中で(もが)きます。


「仁雷はおれの知る山犬の中で一番強いから、大丈夫。早苗さんが信じてやらないと、あいつの面子が立たないよ。」


「……うっ、……………う…。」


 義嵐さまの励ましを受け、わたしは必死に落ち着きを取り戻そうと努めます。

 けれどそんなわたし達のすぐそばまで、“あれ”は迫っていたのです。



【…良いか小娘、これが答えじゃ。

 緋衣は死に、儂一人がこの池泉を治める。

 “犬の老いぼれ”の試練など知ったことか。猿共も、宝も、貴様等の命も全部全部、儂の物じゃ!】


 青衣が巨体を引き摺り、義嵐さまとわたしの元へ迫り来る…。

 目は血走り、剥き出しの牙からは唾液がぼたぼたと垂れて、その姿は怒りを湛えた(けだもの)そのものでした。


 恐ろしい青い狒々の姿を、わたしは顔面蒼白で見上げることしか出来ません。

 わたしを抱く義嵐さまの手に、力が込められるのを感じました。


【……小娘、最期に言い残す事があれば聞いてやろう。儂は寛大な狒々の王じゃからな…。】


 青衣がまた、腕を天へと振りかぶります。


 ああ、どうして、本当にわたしは…自身の命を差し置いても、叫ばずにはいられないのでしょう。


「“狗神さま”とお呼びなさい!!

 この…、罰当たり者!」



 わたしの叫び声と同時に、不思議なことが起こりました。

 青衣の背後…崩壊した床板の底から、別の狒々が飛び出してきたのです。燃えるような緋色の目と、同色の毛を蓄えた、雄々しい巨大な狒々。その胸元には金の円鏡。


【…緋衣様…!!】


 柿様が泣きそうな声を上げました。

 緋衣様は傷ひとつ無い体で、そのまま青衣目掛けて突進しました。獣と獣のぶつかり合う音と振動は凄まじく、橋全体が大きく揺れるほど。


【緋衣、貴様!!なぜ生きておる!?】


 青衣は叫びながら、鋭い歯を剥き出し、緋衣様の首元に噛み付きます。

 しかし奇妙なことに、牙は見えない壁に阻まれるように停止し、緋衣様の体を裂くことは出来ないのです。


 今度は緋衣様が牙を剥き、青衣の二の腕を捉えました。

 痛みに絶叫する青衣。闇雲に腕を振り回し、牙から逃れようとしています。

 青衣に顔を殴られようとも、緋衣様には傷ひとつ付かず、決して歯牙を離そうとはしませんでした。


【…この、化け物め!!】


 青衣の振り上げた腕の筋肉が、一層太く盛り上がります。渾身の力を込めた拳を、緋衣様目掛けて振り下ろそうとしますが…、


【……ッ!!】


 喉笛に“別の歯牙を受け”、青衣は悲鳴を上げることすら叶わなくなりました。


 その歯牙の持ち主は、体を不気味な紋様に拘束された姿。

 芒色の髪を振り乱し、まるで首だけで生きているかのように、青衣の喉笛ただ一点に、強く強く食らいついている。


 仁雷さまでした。


 血走った目が見据えるのは目の前の獲物のみ。強すぎる咬合(こうごう)のあまり、牙の根から血が流れても、決してその力を緩めようとはしない…。


 その痛々しい姿に、わたしはひどく胸が締め付けられる思いで。


「仁雷さま…やめて……っ!!」


 たまらず懇願してしまう。


 そうしてとうとう、仁雷さまは青衣の喉を食い千切りました。

 声の無い悲鳴を上げる青衣。その隙を狙い、緋衣様は青衣の頭を両手で掴み、勢いよく橋の床板へと叩き付けました。


「っ!」


 その瞬間は、義嵐さまの手によって視界を遮られてしまったために、わたしの目には映りませんでした。



 ◇◇◇



 橋の崩壊が危ぶまれるほどの音と衝撃が起こった直後に、辺りが一気に静まり返った。


 俺は口の端から、自分の血と、そして今しがた喉を食い千切った青衣の血とを滴らせる。

 全身に走る呪いの痛みすら忘れそうなほど、体から力が抜ける。

 手足を封じられても、俺は山犬だ。山犬は首だけでも動くものだ。


 次第に、本当に体から痛みが引き始めた。腕を見遣れば、呪いの紋様が徐々に薄らいでいく。恐らく、呪いを仕掛けた青衣が命を落としたからだろう。


「…………。」


 奴に食らいついていた時は夢中だったが、意識の端で声が聞こえた気がする。

 …耳に心地好い、愛しい、早苗さんの声が。


「………そんなはずは…。」


 早苗さんがここにいるはずがない。

 そうだ、呪いが解けたなら俺は早く山に戻って、彼女の体を捜さなければ…。



「…仁雷さま!!」


 背後から聞こえたその声は、一瞬幻聴かと思われた。しかし、いや、そんなはず。


 振り返った俺は呆然とする。

 反橋の崩壊に巻き込まれない位置に、二人が生きて、立っていたからだ。


「よっ。お疲れ、仁雷。」


 ヘラッと笑う義嵐と、


「……仁雷さま…!ご無事で…!!」


 目に溢れんばかりの涙を溜めた、早苗さん。


 その姿を認識したとたん、俺はたまらず二人に駆け寄る。腕を大きく広げて、二人の体を抱いた。

 二人の無事と、自分の生を確かめるように、強く強く抱き締める。


「……本当に、本当に、義嵐…と…早苗さん、なのか…?生きてる……?」


 意識せずとも震えてしまう声。


「おう、何とか元気だ。お前は大変な目に遭ったみたいだな。」

「…仁雷さま……っ、ごめんなさい、ごめんなさい…わたし、遅くて…。」


 耳に馴染む、大切な二人の声を認識して、俺は震え混じりの、長い長い安堵の溜め息を吐くのだった。



「……あ、あれ……早苗さん…。」


 ふと、無性に早苗さんの様子が気になった。

 着物は泥だらけで髪も乱れ、おまけに…クラクラと酔ってしまいそうな、早苗さん本来の甘い芳香が胸一杯に満ちる。汗とか、涙とか…体液という体液の匂いは、鼻の利く俺には刺激が強すぎた。


 ーーーいけない…!!


 慌てて鼻と口を手で覆い、早苗さんから距離を取る。

 顔は真っ赤に染まっていることだろう。そんな俺の見っともない姿を知られるわけにいかなくて、完全に彼女に背を向けてしまった。


「……ごっ、ごめんなさいわたし…においますよね…、やっぱり……。

 義嵐さまのおっしゃる通り、体を清めるべきでした…。」


 ご、ごめん、違う!違うんだ早苗さん!

 すぐさま弁解したいのに、顔の紅潮が治まる気配はまるで無い。


「いいや、清めなくて正解だよ早苗さん。仁雷もそう言ってる。」


「え…?言って……?そ、そうなのでしょうか…?」


 事も無げに俺の本心を見抜いてしまう義嵐。この時ばかりは、奴の助け船にいくら感謝してもしきれなかった。



 ***



 目の前に、仁雷さまがいる。

 生きて、声を聞かせて、姿を見せてくださっている。

 それだけで、ただそれだけで、わたしはとても救われる思いでした。体の痛みも汗も、このための代償だったとしたら軽いもの。


「ーーー早苗さん、あれをご覧。」


 義嵐さまの呼び掛けに、わたしは涙が溢れ落ちてしまいそうなのをグッと堪えます。

 視線の先には、崩壊した橋の上に佇む、人の姿の緋衣様。緋色の打掛の後ろ姿は少し寂しげで、足元に横たわる青衣の体を静かに見下ろしています。


「…無法者は孤独じゃな。今までどれほど、私欲により周りを傷付けてきたか…。儂はそなたの行いを聞く事で、この十年で嫌というほど思い知ったよ。」


 緋衣様は青衣の胸の円鏡を手に取り、ご自身の円鏡に近づけます。


「もっと早う、気付けていれば良かった。

 …ああ、しかし、もしこの(いまし)めが無ければ、儂らは永遠に欲の深い狒々のままじゃったな。」


 二枚の円鏡が重なり合い、緋衣様の手が青衣の手と重なり合う。それらが溶け合い、混ざり合い、永遠に感じられるほど長い静寂の中で、彼らは“一人”になりました。


 その姿は青色の髪でも、緋色の髪でもありません。

 黒に近い、濃紫(こきむらさき)の長い髪。体格は男性的に大きくもあり、けれど女性的に細くもある。その方は、わたし達の方を振り返ります。


 そのお顔立ちに、わたしは息を飲みます。

 青衣の雄々しさと、緋衣様の無邪気さを併せ持つ中性的な美貌は、初めてお会いした気がしないのです。


 その方のお顔を見て、仁雷さまが名を呼びます。


「…十年間もそんな所に隠れて、何があったって言うんだ。狒々王(ひひおう)。」


 やはりと言うべきでしょうか。

 濃紫の髪のその方こそ、本物の池泉の主。真の狒々王様でした。


「……早苗殿、御名答じゃ。」


 狒々王様の声は至極穏やかで、声質はどこか緋衣様に似ていました。


「欲の深い儂は、…狗神様の(たまわ)り物であるにも関わらず、池泉の宝をほんの僅かでも、手元に置きたいと願ってしまった。池泉の宝を傷付けてしまった報いとして、削り取った破片の中へ、我が魂は陰陽(いんよう)に分断されたのじゃ。


 …しかし、ようやく思い知った。

 力に頼り、猿達を辛い目に遭わせて来た自分がどれほど浅ましいか。

 そして、儂がどれほど、猿達の献身に救われてきたか。」


 あの恐ろしい暴君の青衣も、あの純真な緋衣様も、どちらも狒々王様自身の心を映し出した姿だったのでしょう。


 そう語る狒々王様の手には、濃紫の地に、金色の装飾が施された、美しい手鏡がひとつ握られています。


「早苗殿、おめでとう。」


 狒々王様はわたしのそばへと歩み寄り、手鏡を静かに差し出します。

 わたしは意図が分からず、狒々王様の優しげな笑みを見返しました。


「試練達成の証… 真実を映す“蒔絵(まきえ)手鏡(てかがみ)”。これを、そなたに受け取ってもらいたい。」


「えっ……。」


 狒々王様が、その美しい手鏡を、わたしの手に握らせます。鏡の背に施された美しい金の蒔絵は、間違いなく池泉の蟹の甲羅と同じ輝きを放っていました。


「そなたが螺鈿の懐剣で切り分けた桃…あれには、懐剣の守護の力が宿っておった。

 お陰で緋衣は青衣を下すことが出来た。そなたが心から、儂に歩み寄ってくれた証拠じゃ…。

 ありがとう、早苗殿。」


「…あっ、…だから……。」


 緋衣様は、いくら青衣の攻撃を受けても傷付くことがなかった…。

 わたしの軽率な行動が、こんな形で実を結ぶとは予想もしていませんでした。


 受け取った手鏡にわたしは自分の顔を映します。

 泥だらけで、垢に塗れて…ああ、なんて恥ずかしい格好でしょう。けれど、わたしの顔は達成感と勇気に満ち溢れているように見えました。

 恥ずかしい格好だけれど…わたしは今の自分自身を、とても誇らしく思えるのです。



「仁雷殿。」


 狒々王様は、そばの仁雷さまに目を向けると、彼の血に濡れた唇を、自身の指でそっと拭います。突然のことに驚く仁雷さま。


「…!?」


「そなたにも辛い思いをさせた。しかし、勇敢じゃった。どのような逆境でも決して諦めない、誇り高い山犬の有り様…。若かりし頃の狗神様を見ているようじゃった…。


 そなたの強い意志の根幹にあるのは、狗神様の巡礼遂行(すいこう)のためか、それとも、早苗殿のためか…。」


 狒々王様の問いに、仁雷さまは淀みなく答えます。その答えを聞いた時、


「約束したんだ。

 “何があっても、最後まで早苗さんを護る”と。」


 わたしは、体の芯がとてもとても熱くなるのを自覚したのです。



 その場の空気を変えたのは、義嵐さまの明るい声でした。


「じゃあ、これで池泉の試練は終わりか!

 いやぁ骨が折れたな!これまでの巡礼で一番手こずらされたな!」


「…義嵐が一番無事だがな。」

「……お、お怪我が無いのは何よりです。」


 わたしも仁雷さまも体から一気に力が抜けて、その場にへたり込んでしまいます。

 夢中で忘れていたけれど、体の疲労感と、たくさんの小さな傷の痛みを徐々に自覚してきて、わたしはその場から一歩も立ち上がれなくなってしまったのです。


 そんなわたしの頭を、義嵐さまがポンポンと軽く叩いて、優しい口調で言ってくださいます。


「早苗さん、本当によく頑張ったね。おれは鼻が高いよ。」


「義嵐さま………。」


 まるでお父様のような口ぶりに、わたしは無性に気恥ずかしくなってしまいました。

 本当の父上…玄幽様に褒められたことは無いけれど、親に褒められるのって、きっとこんな風に胸が温かくなるのだわ…。


 そんな義嵐さまとわたしの様子を、仁雷さまがなぜか複雑そうな目で見ていることに気付きました。義嵐さまが楽しそうに声を掛けます。


「どうした仁雷?ヤキモチか?」


「……イヤ、そういうわけでは…。」


 フイと顔を背けてしまった仁雷さま。

 わたしはそちらへ体を向け、仁雷さまの頬を手で包み込みます。


「ッ!?」


「…やっぱり、とても痛そう……。」


 仁雷さまの牙の根は、咬合の負担によって血が滲んで、赤黒くなってしまっていました。

 わたしがもっと機転の利いた振る舞いが出来ていたなら、仁雷さまをこんな目に遭わせることも無かったかもしれないのに…。


「ごめんなさい、仁雷さま…。わたしが頼りないあまりに、ご無理ばっかりさせて…。」


 謝って済むようなことではないのに。自分の不甲斐無さに打ちのめされてしまう。

 血に濡れた頬に添えたわたしの手を、今度は仁雷さまが、力強く握り返しました。


「どうして早苗さんの所為(せい)になるんだ…!?」


「えっ…!」


 仁雷さまの口調はいつもの優しげなものではなく、少しだけ語気が強まったものでした。わたしは思わず姿勢を正します。


「貴女はもう充分すぎるほどの荷を背負っているんだ。そんなに自分を(ないがし)ろにしてはいけない…!」


「……は、はい…。申し訳…、」


 お叱りを受けている…と思いきや、仁雷さまは子どもに言い聞かせるように、声を落ち着けて語りかけてくださいます。


「…どうか謝らないで、早苗さん。

 貴女は自分に誇りを持って良いんだ。俺は、貴女の行い全てを喜んで受け入れるから。


 俺は、早苗さんのために傷付きたい。」


 仁雷さまの言葉は、熱が込められていました。

 琥珀色の瞳は逸らすことなくわたし一人を見つめている…。心の奥深くまでを見透かされてしまいそうな、不思議で甘い感覚に、わたしはとても平静ではいられなかったのです。


「……は、はい。そう、ですね…っ。

 うん…っ。あ、ありが………っ。」


 口が上手く回らない。顔も、握られた手も熱くて、仕方がない。恥ずかしくて離してほしいのに、ずっとこうしていたいという二極の感情が湧き上がる。

 どうしたのかしら。わたし、妙だわ。



「早苗さん、仁雷。二人とも積もる話は後にしてさ、まずは体を休めようじゃないか。」


 義嵐さまの大きな手が、仁雷さまとわたしの頭を撫でます。

 それでハッと我に返ったわたしは、仁雷さまの視線から逃れるように、足元に目を落としました。

 なおも心臓のどきどきは、うるさいくらいに鳴り続けていました。



「では皆の者。緋衣の…いや、儂の塒へ参られよ。食事も、湯も、寝床もある。最後の試練に備え、今度こそ猿達のもてなしを堪能すると良い。」


 狒々王様が、瓢箪池を望める緋衣様の塒を指で示し、そう申し出てくださいました。


「湯」の単語を聞いた瞬間、わたしは耳聡(みみざと)く反応を示してしまいます。

 体の汚れとにおいは、ひどく気になるものですから、今のわたしにとって湯は喉から手が出るほどに欲しかった物なのです。


 狒々王様は傍らに控えていた柿様を見下ろします。


「柿。支度を頼めるな?」


【はい…っ、狒々王様のお言い付けなれば、何なりと…!】


 柿様の嬉しそうなお顔。

 それとは対照的に、そばに控えるあけび様は、どこか居づらそうに肩を小さくしています。そんな様子を見た狒々王様は…


「あけびも、柿の手伝いを頼む。」


【!】


 狒々王様の優しい(めい)を受け、あけび様の目は、生の炎が宿ったように輝きました。


【はい!…はい、狒々王様…!】


 きっと、あけび様は十年の時を経て、ようやっと報われたのだわ。そんな気がするのです。



 ***



 その日、わたし達は狒々王様の塒にて、お猿達によって、手厚いおもてなしを受けました。

 湯浴みと、傷の手当てと、そして食べきれないほどのご馳走をいただき、最後の試練への英気を養いました。


 そんなわたしの手中には、ふたつの宝物(ほうもつ)があります。

 決意を守るという、螺鈿の懐剣。

 そして、“真実を映す”という、蒔絵の手鏡。

 真実とは…どういう意味なのかしら。


 その夜、宴の熱を冷ますため、わたしは一人寝巻き姿で、静かな縁側に出ていました。

 目の前に広がる池泉は、水面に銀の満月を映し出しています。


 義嵐さまは、大好きなお酒を心ゆくまで堪能している頃。

 仁雷さまは、わたしに付き添うと申し出てくださったけれど、お疲れでしょうからとお断りしました。それに少し、一人で考え事をしたかったから…。今頃は用意された寝床で、ゆっくり休まれている頃かしら。


 わたしは縁側に一人座り、手にした鏡を覗きます。映るのは見慣れた自分の顔。

 けれど少し、今までよりほんの少し、自信を得た顔になったかもしれない。義嵐さまのお褒めと、仁雷さまの掛けてくださったたくさんの言葉のおかげ…。



『俺は、早苗さんのために傷付きたい。』



「…………。」


 わたしの体はどこか悪いのかしら。

 だってもうずっと、仁雷さまのことを考えるだけで…心臓がどきどきして仕方ない。

 この異常の正体が分からないものかと鏡をまた覗きますが、そこに映るのは相変わらず、顔を朱に染める自分自身だけなのでした。


「…いけないわ、もし病などだったら…。

 だってわたしは狗神様の……。」


 その時、わたしはふと気付きます。

 もしわたしが狗神様の生贄に捧げられたら。命を落としたら。

 もう二度と、


 ーーー仁雷さまに、会えなくなる…。


 分かりきっていたことのはず。それなのに、この局面でようやく実感したのです。

 わたしが池泉の試練に挑む時、心を占めていたのは狗神様への信仰ではなく、


「これ、って………。」


 気付いてしまった。

 わたしは、仁雷さまと離れたくない。



 その時のわたしの動揺は、とても言葉では言い表せませんでした。


 狗神様の生贄の身なのに、狗神様の…それもお使い様にこんな執着心を抱くなんて、とんでもないことです。

 気のせいであると思いたい。でも、仁雷さまの姿を、いただいた言葉の数々を、あの綺麗な眼差しを思い出すほど、わたしの胸は締め付けられていく。

 命が、惜しくなっていくのです。


「……どう、しよう……。」


 次が最後の試練。

 それを乗り越えれば、わたしは狗神様の元へ行く。

 …けれど、本当にこんな気持ちで臨むべきなのかしら。


 わたしは視界を手で覆い隠し、両天秤にかけられた信心と思慕とを必死に見つめ直します。…それでも、どちらもわたしには同じくらい大切な想い。決着がつくはずはありませんでした。



 ◇◇◇



「………義嵐。

 俺はやはり、不甲斐無かっただろうか…。」


 努めて冷静な声を出そうとしたのに、我ながらなんて覇気の欠片も無い弱々しさだ。

 体を清め、口内に薬も塗ってもらった。体はもう大丈夫。…だから、もう片時も早苗さんから目を離すまいとした。それなのに…


『…いっ、いいえ!いいえ!

 仁雷さまはよくお休みになってください…!どうか、わたしに構わずに…!

 ひ、一人に、なりたいのです…。』


 あの早苗さんの慌て様。今頃は裏手の縁側で、物思いに(ふけ)っている頃か。

 何を思ってか、など想像に難くない。あれだけ過酷な目に遭ったんだ。


「……早苗さんを護るはずが逆に助けられるなんて…。お使い失格だと思われても仕方ない…。」


「…え、そんなこと延々と悩んでんの?

 今日早苗さんに“自信持て”って言った矢先じゃないか。」


 義嵐は至極呆れた様子だ。足元に無数の酒瓶が転がっているが、当の本人は全く顔色を変えていない。ここまでくると蟒蛇というより、ただの(ざる)だな…。


 義嵐の指摘はご(もっと)もだった。

 早苗さんを勇気付けたくて、もっと自分が尊い人だと知ってもらいたくて、俺は正直な思いを伝えた。だが…しかし…


「…こんな情け無い山犬に言われたところで、彼女からすれば“お前に言われたくない”と思っても仕方がない……。」


「………そんなウジウジしたお前を見るのも、ここ数十年で初めてだよ。」


 義嵐は新たな酒瓶を手に取る。その呆れながらも楽しげな表情からして、俺の様子を見て酒の(さかな)にしているんだろう。

 そう分かっていても、俺が胸の内を吐露できるのは、目の前のこの男しかいないという事実が悔やまれる。


「なあ仁雷。もしかしなくとも、」


 また何か無礼千万なことを言う気か。

 それも良いか。俺は一度自分の不甲斐無さを身に染み込ませた方がいい…。



「早苗さんにさ、恋してるだろ?」



 自分でも無意識だった。

 みるみる床が遠のいていく。人の姿を保っていられず、俺は気付けば元の山犬の姿に戻っていた。芒色の体毛も尾も何倍にも膨れ上がって、全身で激しい動揺を示している。


【………なん、何言っ……!】


「いや、分かりやすすぎるって。何十年お前と組まされてると思ってんだ。あんな初々しい乙女みたいな反応、初めて見たぞ。」


【……………。】


 俺はそんなに分かりやすい反応をしてたのか…。

 義嵐の指摘に、俺は頭の中で返答を精査する。言い訳の台詞が瞬時に何通りも浮かぶ。頭の中が無数の言葉で埋め尽くされた挙げ句、


【……………ああ。心から好いてる。】


 俺はとうとう観念した。


 俺の告白に驚く様子などは無く、義嵐は変わらず酒を煽り続ける。


「お前はその歳で初恋だもんな。動揺もするってもんだ。分かるなぁ…早苗さんは美人だし、良い子だからな。」


 願わくば、早苗さんには歳のことは伝えてくれるな。

 動揺の波を乗り越え、俺は再び人の姿へ変化する。自覚はしていたがいざ口に出すと、大きな後悔が襲い来る。

 まだまだ巡礼は続くのだ。明日から彼女をどんな目で見ればいいのだろう…。


 しかし、義嵐の危惧は別にあった。


「…でもな、仁雷。あの子は最後には、狗神様の元へ行くんだ。あんまり肩入れすると、別れの時が辛くなるぞ。」


「……………。」


 俺は自身の首に施された、未だ消えない呪いの紋様に触れる。


「…この巡礼中、俺が彼女に想いを伝えることはない。今はただ、彼女の身の安全を第一に考えるだけだ…。

 ーーーそれよりも、義嵐。俺もお前に確認したい。」


 それは、俺が幾度となく感じた不安だった。

 義嵐が早苗さんに向ける眼差し。それは、これまでの巡礼では見られなかった、初めてのもの。恐らく、義嵐は…、


「お前…早苗さんに、“秋穂(あきほ)さん”を重ねているんじゃないか?」


 義嵐の盃の手が止まった。


 無表情な横顔から、意思は読み取れない。

 しかし、その後発せられた声は、いつもの穏やかな調子だった。


「馬鹿だなぁ。早苗さんは早苗さんじゃないか。」


 一気に酒を喉に流し込む。

 それ以上の言及を拒絶するかのように、義嵐は立ち上がり、用意された寝床の方へと歩き去ってしまう。


 後ろ姿を追いかけることが出来ない。

 代わりに、俺はこれだけは伝えておきたかった。


「……俺だって、お前に後悔してほしくはない。だから…早苗さんを護るぞ、必ず。」


「…………。」


 寝床の襖を開き、後ろ手に閉めるまで、義嵐がこちらを振り返ることはなかった。


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