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狗神巡礼ものがたり  作者: 唄うたい
3/7

三:雉子の竹藪

 

 日が昇ってから、わたしたちは獣道と、人の歩く山道とを交互に進みます。


 お天道さまが西の空に傾き、山の彼方へ沈んで夜になる。

 道中見つけたお社で、また昨日と同じように体を休め、日が昇ったらまた先を目指して歩き続ける。


 その道中はとても長く感じました。

 日が傾き、辺りが朱色に染まり始めた頃になって、まず最初の聖地である、雉子の竹藪と呼ばれる場所に辿り着きました。


 その名の通り、これまでの獣道よりもさらに鬱蒼と茂る、背の高い竹林でした。

 空はまだ日が沈みきっていないはずなのに、竹林の中は光がだいぶ遮られ、薄暗くなっていました。

 もし夜になったら、本当に何も見えなくなってしまいそう。


 道中はずっと義嵐さまと仁雷さまが先行してくださっていましたが、竹林に入った頃から、仁雷さまがわたしの後ろを歩くようになりました。何かを警戒するように、辺りに目を配っています。


 竹林に入ってから感じる“妙な違和感”が、ただの気のせいならいいのですが…。


「早苗さん、あれが見えるかい?」


 義嵐さまの視線の先に、赤い瓦屋根のようなものが見えます。


 さらに近づいていくと、それは鬱蒼とした竹林には不釣り合いな、緻密な細工の格子扉を備えた数奇屋門(すきやもん)であることが分かりました。


「ここは…?」


(きじ)たちの棲む屋敷。雉子亭(きぎすてい)だ。」


 義嵐さまは見知った家のように、門を潜っていきます。

 わたしも慌ててそれに続き、最後に仁雷さまが、


「………。」


 辺りをひと睨みしてから、静かに門扉を閉めました。



 門を潜った先には、手入れの行き届いた緑の庭園が広がり、その奥には赤瓦の美しいお屋敷が構えています。

 犬居の屋敷も立派な造りですが、こちらは竜宮城のような、お伽噺のような美しさがありました。うっとりとして、わたしは思わず口に出してしまいます。


「まあ…。なんて素敵…。」



「ーーーお気に召していただけて光栄です。」


 お屋敷にばかり目を奪われて、目の前の人に気づくのが遅れました。


 いつの間にかそこには、仕立ての良い玉虫色の着物を纏った、気品あふれる微笑みの男性が立っていたのです。


「狗神様のお使い様ご一行。よくいらっしゃいました。」


 男性の背後にはお手伝いさんらしき、土色の(まだら)模様の着物を着た女性達が並び、こちらにお辞儀をしています。


「久しぶりだなぁ、君影(きみかげ)

 こちらが犬居の娘…早苗様だ。」


 義嵐さまに促され、わたしは前へ進み出ます。

 君影さまはわたしの顔を見ると、一層優しく微笑まれました。


「お初にお目にかかります。早苗様。

 (わたくし)は雉子亭の主人、君影と申します。

 道中お疲れでしょう。どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませ。」


「あっ、は、はい…!この度は、お世話になります!」


 丁寧なお辞儀につられ、わたしも慌てて頭を下げます。



 君影さまは流れるようにわたし達を屋敷内へ招き入れ、あらかじめご用意いただいたというお部屋に通してくださいました。


 そのお部屋というのがまた…、


「……なんて、素敵…!

 お姫さまのお部屋のよう…!」


 広々と敷かれた、目の整った淡い色の畳。まっさらな障子紙。見事な襖絵(ふすまえ)欄間(らんま)の細密な彫刻。飾られている掛け軸も壺も、なんて美しい絵付けでしょう。


「今宵はこちらにお泊まりくださいませ。」


「ええ…!」


 君影さまのお言葉に、感激の声が漏れ出ました。


「嬉しそうだな、早苗さん。」


 そう仰る仁雷さまも、心なしか嬉しそうに目を細めています。


「こんなに素敵なお部屋、初めてで…!

 泊まってしまって良いのかしら…罰が当たってしまいそう…!」


「勿体ないお言葉でございます。

 こちらは代々、犬居家のお嬢様方をご案内したお部屋です。

 険しい旅でございますから、少しでもお体を癒せれば幸いでございます。」


「あっ…。」


 君影さまの言葉を聞いた瞬間、わたしは一人はしゃいでしまったことをひどく恥じました。

 そうだわ…わたしは生贄で、今はその巡礼の真っ最中。


 ーーー巡遊に来ているわけではないわ。もっと気丈にならなければ…。


「ただいま、お食事をお待ち致します。

 少々お待ちくださいませ。」


 君影さまの「お食事」という言葉に、わたしは(はした)なくも、また気持ちをそわそわとさせてしまうのでした…。



 夕餉のお膳を運ぶのは、入り口で出迎えてくださった斑着物の女性達でした。


 ふっくらつやつやの白いお米を筆頭に、川魚の焼き物やきのこのすまし汁、天ぷら、お刺身や煮物。どのお椀も綺麗に盛り付けられて目に麗しく、それになんて美味しそうな香り…。そわそわしないほうが失礼なのではないかしら。


「あの、ありがとうございます。」


 お膳を運んでくださった女性にお礼を言うと、女性はにこりと微笑みます。その優しい雰囲気に、緊張がほぐれるのを感じました。


 どの女性を見ても皆さま同じ、珍しい土色の斑模様の着物を着ています。

 君影さまのご意向なのかしら。皆さまとてもお綺麗だから、色鮮やかな着物もきっと似合うのに。


 そんなことを考えながら、仁雷さま義嵐さまと一緒に夕餉をいただきます。

 出汁の香りがふわりと立つ煮物を一口食べると、


「…!」


 そのあまりの美味に、背筋がぴんと真っ直ぐ伸びました。

 どのお椀も汁物も、温かく芳しく、端ないと分かっていてもお箸の手が止まらないのです。


 わたしが夢中で食べる様子を見て、一人の女性がこちらへ寄りました。


「早苗様、雉子亭は自家製の抹茶塩も絶品なのですよ。宜しければお試しくださいませ。」


 そう言うと、女性は小さな小さな漆塗りの小箱をくださいました。

 蓋を開ければ、中には鶯色のお塩がたっぷりと入っています。女性の白い指が塩を摘み、山菜の天ぷらにそっと振りかけていきます。


 抹茶塩のかかった天ぷらを一口含めば、


「……っ!!」


 なんて豊かなお味でしょう!抹茶の風味がなんとも上品で、山菜の甘さが引き立ちます。新しい食の扉を開いたよう。


「わぁ、美味しい…!

 こんなお塩があるのですね。知りませんでした。」


 女性はフフッと笑い、お塩の小箱をわたしに差し出します。


「私は竜胆(りんどう)と申します。

 そんなに喜んでいただけて、冥利に尽きますわ。こちらは差し上げますので、どうぞご活用くださいませ。」


「よろしいのですか?ありがとうございます、竜胆さまっ。」


 竜胆さまから頂いたお塩の小箱を大切に握り締め、わたしは笑みを返しました。



「早苗さん。」


 ふと、隣に座る仁雷さまから声を掛けられました。

 わたしが「はい」と返事をするのと同時に、


「これも食べるといい。」


「!」


 ご自分のお膳の天ぷらを、わたしのお椀に分けてくださいました。


「いえ、そんな!いただけません!」


「よく食べて力を付けた方がいい。」


「…あ、え、…でも…。」


 それでも人様のご飯をいただくなんて…。

 どうしたものかと困っていると、対面に座る義嵐さまが楽しそうに仰います。


「仁雷は、早苗さんが美味しそうに飯食うとこ、もっと見たいんだよな?」


「義嵐っ!」


 仁雷さまが間髪入れず吠えました。


「早苗さん、おれのもやるよ。いっぱい食べて大きくなりな。」


「…あ、そんな…義嵐さままで…。」


 お椀に盛られた二人分の天ぷらを見つめたまま、わたしはすっかりお箸の手を止めてしまいました。



「…義嵐!言っておくが俺は別に他意は無い!いちいち茶化すのはやめろ!」


「なんだ、じゃあ早苗さんが美味しそうに食べてたのも嬉しくないのか。気の毒に丸二日ずっと歩き通しだったから、雉子亭の絶品の夕餉を食わすの、おれは楽しみにしてたけどな?」


「クッ…!!

 そ、れについては他意は…ある…!」


 言い合いを繰り広げるお二人は、なんとも仲良さそうに見えます。

 きっと昔からの馴染み同士なのでしょう。


 ーーーこんな食事は、生まれて初めてかもしれないわ…。


 夢のように美味しいご飯も、誰かと一緒に賑やかに食べるのも、そしてこんなに心が安らぐのも。


 お二人の声を聞きながら、わたしは山菜の天ぷらに抹茶塩を振りかけ、口へ運びます。


 …ああ、やっぱり。とっても甘くて美味しいわ。



 ***



 食事が済んだ頃には、外はすっかり夜の帳が下りていました。


 玉虫色の着物の君影さまが再度お部屋を訪問され、肝心要(かんじんかなめ)の“巡礼”についてのお話が始まったのです。


「お使い様より、お聞き及びのことと存じます。早苗様にはこの雉子の竹藪にて、ある物を手に入れていただきたいのです。」


「宝、とやらのことでしょうか?」


 君影さまはひとつ頷きます。

 しかし後に続くお話から、わたしの漠然と想像していた“宝探し”とはだいぶ違うものであると知ることになりました。



「私達、(きじ)の一族は、古くからこの地に住んでおります。元は狗神様が治めていた地に最初の祖先が住み、お陰様で今日(こんにち)を迎えられております。


 狗神様は、か弱い我らの身を案じ、危険が迫れば救いに駆け付けてくださる。…とても勇猛果敢で、お優しいお方なのです。」


「狗神さまが…。」


 犬居家も狗神さまを古くから信仰してきた歴史がありますが、文献にそのお姿を目にした例はほとんどありません。

 小さい頃一度だけ見た絵巻には、“山を駆ける様は疾風(はやて)の如し。銀箔の毛並みの大山犬”として描かれていました。

 わたしは今まで心のどこかで、狗神さまは実体の無い概念的なお方だと思っていましたが…、人の姿に変化する二頭の山犬を見てしまっては、もうそんな考えは覆ってしまいました。


 君影さまは続けます。


「一見平和に思えるこの竹藪ですが、決して安全とは言えないのでございます。

 我らは常に、この竹藪のどこかに潜む“天敵”に怯えているのでございます…。」


 天敵。

 そう聞いた時、竹林で感じた嫌な違和感のことを思い出しました。仁雷さまの警戒ぶりも…。もしや、わたし達は何者かに見られていたのでしょうか。


「…そ、それは獣か何かでしょうか?それとも野盗とか…。」


「早苗様。私達は“何”に見えますか?」


 君影さまはご自身と、それから後ろに控える、竜胆さまを始めとする女性達を示しました。

 何に見える?どう見ても…、


「人に、見えますが…。」


 わたしのその答えを待っていたようです。

 君影さまと女性達は突然、体中の毛を逆立てるような動作で、全身を大きく震わせ始めました。

 衣の擦れ合う音は次第に、羽と羽の擦れ合う音に代わり、瞬く間に皆さまは、(つや)やかな羽毛を蓄えた“(きじ)”の姿に変わりました。


 女性達は、土色の斑模様の雌の雉に。主人である君影さまは一回り体の大きい、玉虫色の雄の雉に。

 雉子亭の名の通り、ここに住むのは人の姿に変化した雉達だったのです。


「そう。我らの正体は、か弱い雉。

 そして竹藪に潜む恐ろしい妖怪…雉喰(きじく)いは、我らを喰らわんと常に付け狙っております。」


 その名が出た途端、雌の雉の何名かが、悲しげに首を垂れました。その様子が、「雉喰い」というものがどれほど恐ろしい妖怪かを物語っています。


「本来ならば狗神様が雉喰いを退治してくださるところですが…この生贄の儀式は狗神様にとって大切な行事。御殿(ごてん)の外へは、滅多なことがなければお出でにならないでしょう。

 しかし策を講じねば、大切な仲間がみすみす雉喰いめの餌食となってしまう…。


 ……早苗様。どうかお願いでございます。

 竹藪に潜む雉喰いを退治し、奴の持つ宝を持ち帰ってはいただけないでしょうか?」


「…えっ!?」


 それは予想だにしないお願いでした。


 深々と頭を下げる雉の皆さま。悲痛な心からの懇願であるのはひしひしと感じるけれど…ただの人の身であるわたしが、一体何のお役に立てるというのでしょう。得体の知れない妖怪を退治するだなんて…。


 狗神さまのような超常的なお方が渡り合う相手に、どう立ち向かえば…。


「…そんな、あの、わたし…。」


「できません」と口にすることは簡単。

 けれど本当にそれでいいのかしら…。

 今までの娘達も、同じ試練を負ったのかしら。


 どう答えたらいいか分からず、縋る気持ちで仁雷さまと義嵐さまのほうを振り返ります。


「引き受けて、早苗さん。

 大丈夫。俺達が貴女の身を護るから。」


 仁雷さまの力強い言葉は、なぜだかすとんと腑に落ちました。


 危険…なのかしら。死ぬかもしれないのかしら。

 不安が大きくなるけれど、これが生贄として避けて通れない道なら、


「…し、承知しました。お引き受け、いたします。」


 わたしは雉の皆さま方に、声を震わせながら約束したのでした。



 ***



 雉子亭は君影さまの力によって、雉喰いの目から逃れるように場所を転々と変えているそうです。

 あんなに大きなお屋敷が音もなく移動できるなんて摩訶不思議なこと…。この世にはわたしの知らないことが山とあるようです。


「仁雷とおれは鼻がきくから、雉子亭がどこへ移っても匂いを辿れる。雉喰いは目は良いが鼻が鈍いから、ここを見つけることは難しい…というわけだ。」


「そ、そうなのですね…。」


 雉子亭を出たわたし達は、またも竹藪の中を縦に並んで進んでいました。


 辺りはすっかり夜闇に包まれ、提灯も持っていないため、お二人の姿は見えません。

 先頭を行くのは義嵐さま。その後を仁雷さまが進み、わたしは仁雷さまに手を引かれて導いていただき、なんとか歩けています。


「……早苗さん、暗がりを歩かせてすまない。

 雉喰いは目が良いから、灯りをつければたちまち居所が知れてしまう。

 俺と義嵐は匂いで周囲の様子が分かるから、ただ付いて来てくれれば大丈夫だ。」


「はい、ありがとうございます…。」


 暗闇はわたしの不安をいっそう煽ります。

 風もいつしか止んで、聞こえるのはわたし達三人の足音のみ。今こうしている間にも、雉喰いはわたし達を見つけているかも…。


 不安を紛らわせたくて、仁雷さまの熱い手を、ほんの少しだけ強く握りました。


「……っ!!」


「ほら仁雷ぃ、集中集中。」



 雉喰いとはどんな姿なのかしら。

 それを退治するなんて、一体どうすれば…。


 ーーーそういえば…、


「…仁雷さま。君影さまは、雉喰いの持つ宝を持ち帰るよう仰っていました。

 それは、どんなものなのですか…?」


「君影が求めているのは、雉喰いの身体の一部。貝殻(かいがら)のことだ。


 雉喰いは、巻貝の体を持つ妖怪だ。退治すれば殻から体が離れるため、貝殻を手に入れられる。」


「刀も鉄砲玉も倒さない強固な殻で、身を護る特殊なまじないも込められてる。正直、手に入れるのは容易じゃないかなぁ。」


 巻貝の殻を備える、強固な妖怪…。


「そんな強い妖怪…わたしはどう立ち回ればいいのでしょう…。」


 何せわたしには、お二人のような大きな体も、鋭い牙もない…。


「なぁに、きみが闘うわけじゃない。

 早苗さんと雉喰い、両者の根比(こんくら)べだよ。」


「…こん、くらべ…?」


 義嵐さまの言葉の意味を、よく理解できませんでした。



 ふと、お二人がぴたりと足を止めました。


「…仁雷、こいつは近いぞ。」

「動くな義嵐。月が現れる。」


 張り詰める空気。

 わたしは仁雷さまの言葉通り、頭上の月に目を向けました。


 やがて、厚い雲に遮られていた満月が姿を現します。

 すると辺り一帯が、白銀の月明かりに照らされました。

 まるで昼間のよう。わたし達三人の姿が分かるほどの明るさに、“それ”も釣られて姿を現しました。


「………な、なに…?」


 竹藪の向こうから、大きな体を引きずって何かが這い寄って来るのが見えます。

 猪か熊か…と思えば、それはあっという間に月下へ姿を晒します。


「っ!!」


 大きな大きな蝸牛(かたつむり)の貝殻が見えました。その殻の穴から、大柄な青い体の“鬼”が、上半身だけを出して這いずっています。

 恐ろしい形相。その額には二本の角。


「あれが、雉喰い…!?」


「二人とも!下がれ!!

 あいつは“早苗さん”を狙ってるぞ!」


 叫ぶのと同時に、義嵐さまの体が山のように盛り上がり、炭色の山犬の姿に変化します。


 大口を開けて迫り来る雉喰いに、義嵐さまもまた、牙の生え揃った口を大きく開けて迎えうつ…。


「義嵐さま…!」


 両者がぶつかり合ったとき、僅かな差で、義嵐さまが先に相手の喉笛に噛みつきました。


 不気味な悲鳴を上げる雉喰い。

 一瞬見えたその瞳は確かに、“わたし”を捉えていました。


「……ひっ…!」


 その恐ろしい姿に、わたしは震え上がってしまいました。


 ーーーこわい…!逃げ出したい…っ!


 義嵐さまは次に、雉喰いの頭に噛みつこうとします。

 …ところが相手の二本の太い腕が、義嵐さまの体を羽交締めにしたのです。

 今度は、義嵐さまが苦しそうに唸る番でした。


「ぎ、義嵐さま…!」

「早苗さん、絶対にここを動くな!」


 仁雷さまが走り出します。

 その姿は瞬く間に芒色の山犬へと変わり、義嵐さまを締め上げる雉喰いの左上腕目掛けて、力の限り噛みつきました。

 雉喰いの顔が痛みに醜く歪み、腕の力を緩める…。


 義嵐さまは自由になると同時に、雉喰いの右腕に食らいつき、そのまま地面へと叩きつけました。


 雉喰いの不気味な悲鳴が上がります。

 両腕を封じられて、自由に動くのは頭部のみ。その鋭い牙を振り回し、義嵐さまと仁雷さまに手当たり次第に噛みつきます。


【……っ!!】


 お二人は怪我を負いながらも、決して雉喰いの腕を放しません。


「じ、仁雷さま…!義嵐さま…!」


 ーーーどうしよう、どうしたら…!


 お二人は噛みついているから、言葉を…わたしに指示を出せないようでした。


 ーーーどう、どうしよう…!どうすればいいのか、“わたし”が考えないと…!


 自身の胸の前で手を強く握り、わたしは焦りと恐怖に押し潰されそうになりながら、必死に考えます。


 雉喰いがわたしを狙っているなら、わたし一人ではどこへ逃げても追いつかれてしまうでしょう…。


 ーーー安全な所に身を潜めれば、お二人も逃げられるかもしれない…。でも、安全な所なんて…。



 ……その時、わたしは義嵐さまの言葉を思い出しました。


『刀も鉄砲玉も倒さない強固な殻で、身を護る特殊なまじないも込められてる。』


 今この場でもっとも安全な場所。

 それは、雉喰いの“殻の中”…。


 そんな馬鹿げた話があるでしょうか。

 でもそんな馬鹿げた話に賭けてしまいたくなるほど、わたしは未曾有(みぞう)の恐怖でどうかしていたのです。


 胸の前で手を強く強く握り締め、わたしは真っ直ぐ雉喰い目掛けて走り出します。


【……アッ!?】


 仁雷さまが驚き叫ぶ声が聞こえました。


 馬鹿げていることでしょう。

 でも、どこへ逃げても同じなら、わたしは目先へ進むことしかできないのです。


 力の限り走ります。

 こちらへ気づいた雉喰いが、大きく口を開き待ち構えます。


【……はへるか(させるか)!!】


 仁雷さまが前足の硬い爪を、雉喰いの顔面目掛けて叩きつけます。


 鈍い音がして、次いでまたあの不気味な悲鳴…。

 わたしはぎゅっと目を瞑り、そのまま足を走らせ続けました。

 雉喰いの胴体の…殻の入り口目掛けて、


「っ!!」


 わたしは強く地面を蹴って、“殻の中”へと滑り込みました。


「……ひゃっ…!!」


 内部に入った瞬間、経験したことのない感触に震え上がりました。

 殻の中はどろどろの粘液のようなもので満ちており、わたしの全身に纏わりついて、奥へ奥へと潜らせていくのです。


 強固そうな外見とは打って変わり、殻の中は月の明かりを薄らと透けさせて、虹色に輝いています。…幻想的ではあるものの、得体の知れない粘液も相成って、この上なく不気味な光景となっていました。


 わたしは嫌な気配を察して、振り返ります。


「ひっ!!」


 まさか、と言うべきか。やはり、と言うべきか。

 わたしが侵入したことに気づいた雉喰い自身もまた、殻の中へと潜って来たのです。


 大きな体を器用にくねらせて追いかけて来る様は一層恐ろしく、わたしはさらに奥へと逃げます。


 …が、それにも限界はありました。

 奥へ進むほど空洞が狭くなっていくのです。

 わたしは自身の体よりも狭い隙間に潜ることが叶わず、穴の途中でつっかえてしまいました。


「…あっ!」


 しかし、それは相手も同じ。

 わたしよりもずっと大きい体を持つ雉喰いは、辛うじてわたしに爪が届かない位置で、足止めを食らっていました。


 仁雷さまの一撃によって傷つき、もはやわたしを視認できない顔面。

 闇雲に腕を振り回す姿に、わたしは震え上がります。


 ぎゅっと両手を胸の前で組んだ時、手に“何か”かが当たる感触がありました。


「……あっ…。」


 懐から取り出して見てみると、それは夕餉の際、竜胆さまにいただいた抹茶塩の小箱でした。


「…塩……っ。」


 わたしは雉喰いの顔を見遣ります。

 神事を生業とする犬居家の者は、塩がどれほど特別なものかを知っている。


「……狗神さま…っ。」


 ーーーどうかお守りください。


 わたしは決死の覚悟で、小箱の中の塩をすべて、雉喰いの顔に振り撒きました。



 塩が顔に触れたとたん、雉喰いはこれまでよりも一層大きな叫び声を上げました。

 熱した鉄に焼かれるような音が殻の中に響き渡り、塩が触れた部分から、雉喰いの顔がみるみる溶け出していきます。

 両手を顔に当てがい、力の限り掻きむしります。けれど塩の力が上回っているためか、塩に触れた手も、胴体も、みるみる形を失っていくのです。


 塩は清浄な力を持つとされます。

 雉喰いが悪しきものであるなら、その体も清められていく。


 ーーーただのまじないなどでは、なかったのね…。


 わたしは目の前の恐ろしい光景から決して目を離さずに、雉喰いの体が溶けて消えていくのを、じっと最後まで見届けました。



 ***



 雉喰いの体がすっかり溶けきり、殻内部のどろどろと混じり合ってしまった。

 もう嫌な気配も、音も聞こえません。


「……はぁ……はぁ…。」


 終わった…のかしら…。


 荒く呼吸を繰り返すわたしの目線の先。微かに月明かりが覗く殻の入り口から、


「ーーー早苗さんっ!!」


 仁雷さまが手を伸ばしました。

 山犬ではない、人の姿。竹藪を歩く時も繋いでいた大きな手。それを見て、わたしは反射的に手を掴みます。


 粘液によってぬるつく手。

 それでも離さぬようにと、仁雷さまはわたしの手を強く掴み返し、力の限り、わたしを殻の外へと引っ張り上げてくださったのです。



 ぬめりのせいもあり、わたしの体は殻の外へ勢いよく飛び出して、そのまま仁雷さまの腕の中へ収まりました。

 体中が汚い…。ひどく生臭い…。そんなことも厭わず、仁雷さまはわたしを強く抱きしめます。


「…あぁっ、早苗さん…っ!

 無事か!?怪我は!?」


 耳元で叫ぶ仁雷さま。

 わたしは何度も何度も頷き、仁雷さまの体を抱きしめ返して応えます。


「……り、竜胆さまが、くださった…お塩のおかげです…っ。雉喰いは…消えて無くなっ、て…っ!」


 体中がぬるついて気持ちが悪い。

 体も声も震えて上手く喋れない。

 先ほどの恐ろしい光景すべてが頭の中に蘇ってきて、胸がざわざわする。

 泣き出してしまいたいくらい…。


 そんなわたしを、仁雷さまは一層強く包み込みます。


「……すまない、すまない早苗さん…!

 だが無事で…生きていてくれて、本当に良かった…っ。」


 なんだか泣きそうな声…。

 仁雷さまの顔を見上げたとき、血が一滴、ぽたりとわたしの頬に落ちました。

 それは仁雷さま、義嵐さまが、雉喰いとの闘いで負った傷の血でした。


「…っ!」


 その血を見たとき、わたしの中に込み上げていた雉喰いへの恐怖心は、不思議とどこかへ追いやられてしまいました。


「…わ、わたしよりも、お二人とも怪我されてるわ…!早く手当をしないと…。」


「……えっ…。」


 仁雷さまは驚いた顔をしてから、そうだな、と短く言い、わたしの体を離しました。

 かと思えば、今度はわたしを抱え上げます。

 獣道を歩いていた際と同じ抱え方。地面が遠のく感覚も同じです。


「雉子亭に戻ろう。君影への報告と…皆体を休ませないとな。」


 そう言う仁雷さまは、もう泣きそうな声ではありませんでした。

 落ち着いた目でわたしを見つめています。

 その目を見ていると、さっきまでの恐怖がみるみる薄れていくことに気が付きました。


 ーーー仁雷さまが、わたしを安心させてくれている…。


「……は、はい、お願いします…っ。」



 目を合わせ、言葉を交わし合うわたし達を、


「………。」


 義嵐さまが物言わず見つめていたことを、わたしは知りませんでした。



 ***



 お二人に連れられ、雉子亭へ戻ったわたし達。

 怪我とぬめり塗れの体と、傍らに携えた大きな雉喰いの抜け殻を見て、君影さまを始めとした雉の皆さまは言葉を失っていました。


「……驚きました。まさか本当に、雉喰いを退治されるなんて…。」


 驚きを隠せない君影さまに、義嵐さまが不服そうに言い返します。


「白々しいこと言うなよな。お前が焚き付けたんだぞ?」


 次いで、仁雷さまが一歩前へ進み出ます。傍らの大きな殻に手で触れながら、


「望み通り、雉喰いの殻を持ち帰った。

 後始末はお前達に任せる。

 …これで文句は無いな。早苗さんは第一の試練を達成した。」


 落ち着いているけど、力強い声…。

 君影さまはしばし言葉無く、仁雷さまを見つめていましたが、やがて深々と頭を下げられました。


「……早苗様、お使い様。私共は本当に敬服しているのです。雉喰いによって幾多の同胞を亡くしてきましたから。

 心より感謝申し上げます。


 そして、…おめでとうございます。

 早苗様が此度の試練を乗り越えられたこと、大変喜ばしく存じます。」


 君影さまに倣い、竜胆さまや…お姉さま方も深く頭を下げる…。


「…………し、試練、達成…。」


 わたし、試練とやらを乗り越えたのね…。

 呆然とする頭の中に、じわじわと湧き上がる実感。恐怖もまだ濃く残っているけれど…それ以上に、これまで感じたことのない達成感に満たされていました。


 ふと、わたしはこれだけは伝えなければと、仁雷さまの後ろから一歩前へ進み出ます。


「…あの、君影さま。

 お役に立てたのなら幸いです。…けれど本当は、竜胆さまにいただいたお塩のおかげなのです。」


 懐から、すっかり空っぽになってしまった小箱を取り出します。


「…これが無ければ、わたしも雉喰いに食べられていたかもしれません。

 だから、お礼を言うのはわたしのほうなのです。ありがとうございます。」


 君影さまは小箱と、わたしの顔を交互に見つめます。彼の表情はひたすら驚きの色に満ちていて、やがてその目をゆっくり閉じました。


「言葉もありません。早苗様は充分すぎるお方だ。…お使い様方、どうか早苗様を“最後まで”お護りくださいませ。」


「…元よりそのつもりだ。」


 君影さまの託すようなお言葉に答えたのは、芒色の髪の仁雷さまでした。



「ーーーでは、傷の手当ての前に、雉子亭自慢の温泉にお入りくださいませ。

 座敷に布団の用意もいたします。どうか今宵はごゆるりとお体を休まれませ…。」


 雉子亭の(はな)れに通じる廊下を渡りながら、君影さまはそんな、この上なくありがたいお言葉をくださいました。


「お湯にっ、浸かれるのですか…!」


 雉喰いのどろどろの汚れを落とすどころか、わたしは生贄の儀式ために犬居屋敷を出てから、一度もお湯に浸かっていませんでした。

 沢の水で体を拭いたりはしましたが、やっぱり人間たるもの、入浴は極上のご褒美。浮き足立たないほうが難しいのです。


 君影さまは、離れの木の引き戸を優しく開きます。その奥を覗いて、わたしは感激で一杯になりました。

 もうもうと立ち上る柔らかな湯気。大きな岩が詰まれた囲いの中に、乳白色に染まった温泉が広がっていたのです。


「こちらが雉子亭自慢の、(ひな)の湯でございます。傷や打ち身に良い効能がございますよ。

 混浴ですが奥に仕切りもありますので、ご心配なく。」


 雛の湯を眺めながらうっとりするわたしとは対照的に、仁雷さまはみるみる体を強張らせていきます。


「…し、仕切り、だけか…っ!」


「オイ仁雷、目の焦点が合ってないぞ。

 …じゃあまぁ、せっかくだし三人で浸からせてもらおうか。体中汚れたし、お前達二人は妙なぬめぬめ(まみ)れだしな。」


 浴場全体を見れば、温泉の奥のほうに竹造りの仕切りが立てられています。なるほど、あちらは女性の場所なのね。


 温泉を前にするとどうしても、早く浸かりたい気持ちに駆られてしまいます。それにこのぬめぬめの生臭さ…鼻のきく山犬のお二人には、尚のこと辛いはず。


「手厚いおもてなしをありがとうございます、君影さま。浸からせていただきます。」


「……早苗さんっ!!本気か!?」


 仁雷さまの焦った声が後ろから飛んできて、わたしはびくりと肩を震わせました。

 きっと、他人(わたし)が一緒のお湯に浸かることを気にしているのかも…。

 でも仕切りもあるし、静かに浸かれば、きっと仁雷さまの気は散らさないわ。


「仁雷さま、わたしのことはお気になさらず、ゆっくりご堪能くださいませ。」


「…………っ、あ、ウ……ウン…。」


 仁雷さまは何か言いたそうでしたが、わたしのお願いを渋々受け入れてくださったようでした。


 ーーーやっぱり、優しい方だわ…。



 ◇◇◇



 仕切りを隔てた向こう側に早苗さんがいる。

 そう思うだけで、体が忙しなく動いてしまう。落ち着いていられない俺に呆れてか、岩にもたれて温泉を堪能していた義嵐が声を掛けてきた。


「落ち着いて肩まで浸かれよ、仁雷。

 こっちまでソワソワしちゃうだろうが。」


「……お前はよく落ち着いていられるな。

 俺達は早苗さんの護衛だぞ。なのにこんな…無防備な…。」


 いざとなれば山犬の姿になって助けに行けばいい。

 そうは思うものの、姿が見えないだけでこんなにも落ち着きを無くすのは予想外だった。

 早苗さんは俺達に気を遣ってか、あまり水音も立てないよう入浴しているらしい。


 微かに匂いがする。温泉の匂いに混じっていた雉喰いの生臭さが薄れ、代わりに覚えのある彼女の匂い。

 姿が見えない以上、俺には匂いから“想像”することしかできない。

 体の汚れを落とし、温泉に浸かった頃だろうか。今日は一日疲れた上に、恐ろしかったろうに。状況が飲み込めない中で、あの小さな体で早苗さんは精一杯頑張っていた。


 ーーー小さな、体…。


 温泉効果による“良くない想像”に傾きかけて、俺は勢いよく水面に顔を叩きつけた。


「…ハァ。仁雷は昔から真面目一辺倒なんだよなぁ。もう少し肩の力を抜いていいんだぞ?」


 義嵐は言った。

 それは奴に幾度となくかけられた言葉だ。

 真面目。堅物。石頭。…そうは言われても、持ち前の性格は変えようがない。それに、


「真面目と言われてもいい。

 俺はただ、後悔したくないだけだ。この巡礼の旅で、犬居の娘を最後まで護りたい。…それはこれまでもこれからも変わらない。」


「……おれは、あんまり肩入れしない方がいいと思うけどな。別れの時が辛くなるだけだ。」


 そうだ。義嵐のこういう姿勢もずっと変わらない。元々緩い性格だが、ここ十年で輪をかけて関心が薄くなったように感じる。

 狗神が何十年も義嵐と俺を組ませるのは、性格の釣り合いがとれているからなんだろう。


「義嵐も“必ず早苗さんを護り抜く”と強く決心すれば、成功する確率は上がる。気持ちを改める気はないか?」


「うーん、おれは自分の出来る範囲で努めるだけだからなぁ。

 …ただ、早苗さんはやっぱり、今までの娘達とは一風変わってる。本家の娘と比べるとどうしても“血が薄い”から最初こそ半信半疑だったが、あの子が残りの試練をどう乗り越えるのか、近くで見てみたいもんだな。」


「………。」


 血が薄い。

 確かに彼女は、犬居家当主・犬居 玄幽と本妻との子ではない。それは初めてあった時、“匂い”で分かった。


 犬居家が生贄に差し出すために産み育てた“妾の子”。その立場を、きっと彼女自身も分かっているのだろう。


「だから、彼女の振る舞いはどこか…。」


「……ウー…、仁雷…すまん…。

 おれは先に上がるぞ。のぼせちまった…。」


 義嵐は(がら)にもないふらつきようで、逃げるように岩を伝って、温泉から上がっていった。

 元々山犬だから体温が高いうえに、俺と違って肩までしっかり浸かっていたせいだろう。


「義嵐、傷は痛むか?部屋に戻ったら雉に手当てをしてもらえよ。」


「あー、温泉効果でだいぶマシだ。

 仁雷も早めに上がって来いよな。」


 そう言うと、義嵐は炭色の山犬の姿に戻り、力の限り体を震わせて、全身の水気を払った。

 巨体から放たれる豪雨。それから逃れるため、俺は敢えて距離を取っていた“仕切り”の近くへと移動する。


「…………。」


 微かに匂いはあるが、仕切りの向こうから音はしない。

 もしかすると、早苗さんはとっくに温泉から上がったのかも。俺達に気を遣って、音を立てないように。


 指先で竹の仕切りに触れながら、俺はさっきの続きを考える。


 ーーー早苗さんはどこか、自分以外を優先するきらいがあるんだよな……。


 決して生きやすい身の上ではないはず。

 彼女は年の割に、自己を抑えつけてしまっているように思えてならなかった。

 今回の巡礼だって、心から望んでいるはずもない。それなのに、彼女はすぐに受け入れた。


 ーーー我が儘とか…言ったことはあるんだろうか…。


 あの小さな双肩にかかる重圧は相当なもののはず。弱音も吐かず受け入れられたのは恐らく、とうの昔に自制を身に付けてしまった証拠なのだろう。


「…早苗さんの我が儘を叶えるのは、“俺”でありたいな…。」


 口を()いて出たそれは、俺の素直な願いだった。



「……あの、仁雷さま、でしょうか?」


 突然仕切りの向こうから、聞き慣れた可愛らしい声が聞こえた。


 俺は思わず、その場からほんの少しだけ飛び上がる。

 声の主は間違いなく、早苗さんだ。


「あっ、申し訳ありません。名を呼ばれた気がして…。」


「…い、いや!すまない!考え事を、してて…!」


 仕切りから離れようとしたが、その耳に心地良い…安心する声を聞いてしまっては、その場に留まらざるを得なくなってしまう。


 …そうだ、今なら、顔が見えない今なら。


「…早苗さん。俺は…、」


「はい。」


 俺は喉まで出かかった声を、


「………。」


 言葉にすることができず、結局飲み込んでしまう。

 代わりに、今日の出来事について話すことにした。


「…今日は、本当によく頑張ってくれた。

 とても恐ろしかったろうに、早苗さんは勇気があるな。」


「そんな…ただ夢中で…。

 仁雷さまこそ、わたしを助けてくださって、ありがとうございました…。」


「…イヤ、それが俺達の役目だから…。」


 そこで会話は途切れる。

 しばしの沈黙の後、早苗さんは不安げに訊ねる。


「…お怪我の具合は、いかがですか?」


 俺は雉喰いに噛まれた痕に目をやる。


「大したことはないよ。」


 早苗さんが見れば卒倒するかもしれないが、こんなのは擦り傷の部類だ。

 今回だけじゃない。犬居の娘達を導く度に、幾度となく怪我を負ったが、今やもうほとんど痕は残っていない。


「早苗さんに怪我が無くて良かった。」


 俺の安堵の声に対して、彼女の返答は弱々しいものだった。


「…でも、義嵐さまと仁雷さまが代わりに傷付くのは、とても恐ろしいです…。」


 “恐ろしい”。

 自分の命が脅かされること以上に、恐ろしいことなどあるものか…。


「今までも、犬居の娘達が同じ試練に挑んだのですよね。…皆、無事に乗り越えたのでしょうか?」


「…………。」


 俺は、どう伝えるべきか悩んだ。

 試練自体に成功した者もいれば…失敗してしまった者もいた。

 正直に言えば、今回の早苗さんの対応は前例の無かったこと。


「…本来、雉喰いと闘うのは俺達お使いの役目だ。貴女達への本当の試練は、“何があってもその場から逃げ出さないこと”。


 だが中には、恐ろしさのあまり、一人で竹藪の奥へ逃げ出し…後を追った雉喰いに捕まった者もいた。

 自ら雉喰いに突っ込んだのは、俺の知る限り早苗さんが初めてだ。」


『俺達を信じて離れるな。』

 人の身である娘達に、雉喰いと真っ向から闘う術なんてあるはずがない。

 だから、“俺たちを信頼して見守っていてくれる”だけで良かった。俺と義嵐が雉喰いと闘い、勝利する一部始終を見守ってくれれば。


 ーーーその場合、怪我はこの程度では済まなかっただろうが…。


「……そうと知らず…。

 ご心配をおかけして申し訳ありません…。」


「…本当に、心の臓が止まるかと思ったよ。」


 仕切りの向こうで一層小さく「申し訳ありません…」と呟く声がする。

 責めるつもりじゃなかった。俺は慌てて、正直に本心を打ち明ける。


「だが、嬉しくもあったんだ。

 早苗さんが逃げずに、自ら立ち向かってくれたこと。俺たちを信じてくれたこと。それが嬉しかった。


 初めて顔を見た時にも感じた不思議な感覚。

 貴女となら、きっと…。」


 そこまでで、俺の言葉は続かなかった。

 これ以上は言えない。


 また沈黙が流れ、不思議に思った早苗さんが、小さく訊ねてくる。


「……仁雷さま?きっと…何です…?」


 今はまだ言えない。

 だが、きっと伝えられる時が来る。


「…早苗さん、覚えていてくれ。

 俺達は何があっても、最後まで貴女を護る。だから、貴女も命を預けて、最後まで一緒に来てほしい。」


 この巡礼の旅を乗り越えた先に、答えがあるから。



「……まだ、自分でも分かりません。

 仁雷さまと義嵐さまのことを信じたい気持ちと、…この先に待つ試練への不安が、どちらも大きくて…。


 今回だって、一度は逃げてしまいたいと考えました…。頼りなくて、申し訳ありません…。」


 ーーー早苗さん…。


「ゆっくりでいい。

 覚えていてくれれば、それで。」


 また沈黙が流れた後、仕切りの向こうから、少しだけ元気を取り戻したような、早苗さんの可愛らしい声が聞こえた。


「はい…っ。」



 ***



 雉喰い退治で嵐のようだった一夜が明けました。


 次の試練の地へ向かうための旅支度を整えていたわたし達の元へ、君影さまと雉のお姉さま方がやって来ました。

 今は鳥ではなく、人に変化した姿。君影さまの傍らには、三宝(さんぽう)に乗った黒い棒状の、不思議な品がありました。


「早苗様。お使い様。昨夜はよくお休みになられましたでしょうか?

 雉喰いの抜け殻で作った、第一の試練達成の証である“宝”をお持ちいたしました。」


 そう言い、三宝をこちらへ差し出します。


 黒い棒状の小物。艶やかな漆塗りの表面に、虹色の美しい螺鈿(らでん)細工が施されています。光を幾重(いくえ)にも反射して、まるで螺鈿自体が発光しているかのよう。


「わあ、素敵…。でも、この螺鈿ってもしかして…。」


「はい。雉喰いの貝殻の螺鈿でございます。」


 わたしの予感は当たりました。

 殻の内部に入った時、眩いばかりの虹色の輝きを放っていたのが印象的でした。実際、螺鈿細工に生まれ変わったそれは、普通の螺鈿とは比べ物にならないくらい、繊細な輝きを放っていました。


「雉子の竹藪の宝。螺鈿(らでん)懐剣(かいけん)でございます。

 どうぞ早苗様。お納めくださいませ。」


 きらきらと輝く、小さな懐剣。

 わたしはおっかなびっくりな手つきで、それを受け取ります。


 懐剣というくらいですから、よくよく見れば刀を納める溝がある…。

 少し力を入れてみれば、簡単に鞘から刀部分を引き抜くことが出来ました。


「まあ……!」


 刃もまた、虹色の輝きを放っていました。

 どうやら鉄ではなく、螺鈿細工と同じく、雉喰いの殻で出来ているようなのです。


「護りのまじないがこもった貝殻だ。早苗さんの心強い護身刀になるだろう。」


 仁雷さまの言葉に続いて、君影さまがこう言います。


「覚えていてくださいませ、早苗様。

 これは、“貴女の決意を守る”懐剣でございます。決して肌身離さず、お持ちくださいませ。」


「…決意を、守る…?」


 わたしは刃の輝きをじっと見つめます。

 決意を守るとは、どういうことかしら。

 刀である以上、誰かを傷付ける場合があるかもしれない、ということ…?


 そんな場面は訪れて欲しくありませんが、何にせよ、最初の試練達成の証には変わらない。わたしは懐剣を、大切に帯に差します。


「ありがとうございます、君影さま。

 皆さまも、お世話になりました。」


 雉の皆さまに向かって、わたしは深く頭を下げます。


 不思議な感覚。わたしは一歩一歩、確実に死に向かっているはずなのに、今わたしの胸の内には…達成感や安堵感が満ちているのです。


 ーーー狗神さま…。あなたさまは、なぜ犬居の娘達に試練を課すのでしょう…?


 この旅の中に、答えがあるのかしら。



「早苗さん、次の行き先は南方に位置する、狒々の池泉だ。また遠い道程だから、早速出発しよう。」


「あっ、はい、仁雷さま!」


 雉の皆さまに見送られ、わたし達は雉子亭を後にします。

 豪奢なお部屋、絶品のお料理、素晴らしい温泉、優しい方々…。どれをとっても、夢のような時間でした。


「仁雷さま、義嵐さま。

 これでもう雉の皆さまは、雉喰いの脅威に怯えることは無くなるのですよね…?」


「……早苗さん。

 残念だが雉喰いはまた現れる。」


 それ以上は言いづらそうに視線を逸らす仁雷さまに代わり、義嵐さまが答えを語ります。


「雉喰いが、何の妖怪か分かるかな?」


「え…?」


 わたしは嫌々ながら、昨夜の雉喰いの姿を思い起こします。

 頭から突き出した角。ぬめぬめとした粘液。這うような動きに、大きな大きな貝殻。思い当たる生き物がひとつだけありました。


「か、蝸牛(かたつむり)、でしょうか…?」


「そう。蝸牛さ。

 そして雉は生きるために、小さな虫や“蝸牛を食べる”。


 彼らが蝸牛を喰らえば喰らうほど、蝸牛の無念は募り、やがて妖怪となって、(かたき)である雉に復讐する。


 …そんな終わりのない命の奪い合いを繰り返してんだ。大昔からずっとね。」


「そんな……。」


 言葉もありませんでした。

 危険に晒されながら、やっとの思いで退治できたというのに。

 あんなに恐ろしい妖怪がまた現れる。


 そうか。だから“毎回”犬居の娘達に、雉喰い退治の試練を課すことができる…。


「雉の皆さまは、竹藪から出ることは叶わないのですか…?」


「それは出来ない。この竹藪から一歩たりとも出ないことが、大昔から続く狗神様との約束だから。

 彼らは狗神様の力に依存しているし、恩義もある。狗神様も彼らを解放したりはしない。それが、大昔から続いてきた風習なのさ。」


 “大昔から続いているから”。

 その言葉は、わたしの中に違和感として残ります。


「早苗さんが気にすることじゃないよ。

 貴女の目的は、三つの試練を達成して巡礼を無事に終えること!

 おれ達二人の目的も同じさ。」


 義嵐さまはそう明るく言うと、行きと同じように、先導して竹藪を歩き始めました。

 これ以上は答えたくない、という風にも聞こえます。


「………狗神さま…。」


 気にしなくていい。

 そうは言われても、わたしの中で疑問の種が芽吹き始めていたのです…。


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