二:仁雷と義嵐
仁雷さま、義嵐さまは、山犬の岩場の崖に沿うように建てられた懸造のお堂を、雨露を凌ぐための塒としていました。
太く長い丸太の足場に支えられた小ぢんまりとした山堂は、狗神さまの広いお山の中でも特徴的なこの岩場そのものを、御神体として祀っているそうです。
それは恐らく、犬居家に伝わる逸話のひとつ…“狗神さまが豪雨の土砂崩れから犬居の集落を守るため、ご自身が大岩に変化して土砂を食い止めた”というものが、関係していると思われました。
こんな場所があったことさえ知らなかった…。普段、犬居屋敷の外へ出ること自体、ほとんどなかったから。
わたしは板敷きの床のちょうど真ん中辺りに正座して、そっと両手を合わせてみたり、そわそわとお堂内部を眺めていました。
しばしここで待つよう告げたお二人は、お堂の中にはいない。どこへ行ってしまったのかしら…。
しばらくして、やや後ろの床板が、微かに軋む音がしました。
そちらを振り返ると、芒色の髪の仁雷さまがこちらへ歩み寄ってきます。
目が合うと、仁雷さまはまたパッと顔を背けてしまいます。
人見知りと仰っていましたが、本当はあまり、わたしのことを快く思っていらっしゃらないのかもしれません…。
「………これを。」
そう短く言って差し出されたのは、
「………あら……それ……。」
年季の入った若草色の小袖と、一足の草鞋でした。
「その格好では移動に不便だ。
これに着替えて。」
その格好…とは、わたしの身につけている儀式用の小袿のこと。確かに裾も袖も長く、おまけに、あんなに真っ白だった生地はすっかり泥だらけです。
「……あ、…ありがとう、ございます。」
仁雷さまから着替え一式を受け取ります。
わたしはじっと若草色の生地を見つめてから、また彼に目をやりました。
…が、琥珀の輝きをとらえる暇もなく、やはり先に目を逸らされてしまいました。
「……俺は外にいる。着替えが済んだら声をかけて。」
言うが早いか、仁雷さまはくるりと踵を返してしまいます。
その時です。かつん、と何かが床に落ちる音がしました。
それは仁雷さまの足元。着物の袂から落ちてしまったのか、小さい玉のような物がコロコロとこちらへ転がって来ます。
「あっ。」
わたしは無意識にそれを拾い上げました。
手の平に乗せてよくよく眺めますと、枇杷の実ほどの大きさのその玉は、お犬のお二人の瞳と同じ、琥珀色の美しい輝きを放っているのが分かりました。素材は、本物の琥珀で出来ているのかしら。
「…綺麗……。」
きっと大切な物だわ。
お返ししようと仁雷さまのお顔を見上げた時でした。
「っ!!」
空を切る音がしたかと思うと、目にも止まらぬ物凄い速さで、仁雷さまに手元の玉を掬い上げられてしまいました。
突然のことに呆気に取られるわたしと、なぜだかお顔を、蒼白と紅潮を混ぜた複雑な色に染めている仁雷さま…。
「………あ、も、申し訳ありません…!」
触れられたくない物だったみたい…。
わたしは居た堪れない思いで、その場で深く頭を下げます。
「……イヤ………。」
そう短く言うと、仁雷さまは足早にお堂の外へ出て行ってしまいました。
「…………。」
やはり、わたしは好かれていないみたい…。
それもその通り。あちらは狗神さまのお言いつけに従っているだけなのですから。生贄の機嫌を取ることはしないでしょう。
…頭では納得できるのだけど、こんな調子で“巡礼”とやらをやり遂げられるのかしら。そう、不安に駆られてしまいます。
ふと、自身の着物の合わせ目に手をやると、星見さまから頂いた小さなお守袋に触れました。
取り出してじっくり眺めれば、星見さまと過ごした日々が思い出されます。
わたしの、大切な…。
「……元気にされてるかしら。」
…感傷に浸り過ぎてしまったようです。
すっかり薄汚れてしまった小袿で目元を拭うと、わたしは気を取り直して、若草色の着物に袖を通します。胸元にちゃんと、お守袋をしまって。
慣れた着物の感触に、緊張していた心が少しだけほぐれたよう。
不思議と、袖も身丈もわたしの体にちょうど合っていて驚きました。
帯がずれていないか手探りで確かめていると…
「……やっ、やぁ〜こいつは驚き!!
早苗さん、よく似合うじゃないか!」
「!!」
すぐ後ろから元気な声が飛んできました。
驚いて振り返れば、いつ戻られたのか、炭色の髪の義嵐さまの姿がありました。
「…あ、えと…仁雷さまがくださったのです……。小袿では不便だろうからと…。」
「そうかぁ、仁雷が!へぇ、良いなぁ!
白も良かったけど、早苗さんくらいの女の子には若草色もなんと馴染むことか!なんて言うか、華やぐなぁ!」
「……っ。」
とっても、褒めてくださってる…。
お世辞かもしれないのに、褒められ慣れていないわたしは無性に気恥ずかしくなってしまって、鯉みたいに口をパクパクさせるばかり。
そんな状況を鎮めてくださったのは、後からお堂に戻られた仁雷さまでした。
「…おい義嵐、邪魔をしてないだろうな?
早苗さんの準備が出来次第すぐ出発を………、」
視線を義嵐さまからわたしへ移された瞬間、仁雷さまは雷に撃たれたかのように、その場にて動かなくなってしまったのです。
「……え?あ、あの、なにか…?」
「気にしなさんな。じきに動き出すさ。」
微動だにしない仁雷さまをそのままに、義嵐さまは懐から一本の巻物を取り出します。
群青色の古い巻物。紐を解いて広げれば、それはどうやら絵巻物のようでした。
上から全体像を見て、わたしはあることに気付きます。
「…これは…狗神さまのお山でしょうか?」
絵の中心には人の集落。その周りには、平野、岩場、瓢箪の形の泉、それらを囲む山々。
それは、犬居家が移り住み繁栄した、狗神さまの守る土地そのものでした。
わたしが絵を見るのに夢中になっていると、体が動くようになった仁雷さまが、わたしから少し離れて…義嵐さまの隣へ座り込みました。
絵巻物に目を落とし、義嵐さまに代わり語り部を務めます。
「…今俺達がいるのが、犬居屋敷から北へ行ったここ。山犬の岩場だ。
そしてこれから………さ、さな…、」
「………さな?」
「……………さ、早苗、さんが、向かうのは、ここよりさらに離れた場所……。」
少し動きをぎこちなくさせ、仁雷さまはまず、犬居屋敷の東…竹林の深い場所を指差します。
「雉子の竹藪。」
続いて、今度は南にある、瓢箪の形をした池を指差します。
「狒々の池泉。」
続いて、西の平野の中に描かれた…ひとつの神社を指差します。
「大狗祭り。…この三箇所だ。
それぞれに宝が収められている。…早苗さん自ら各地を巡礼し、その宝を受け取ってもらいたい。」
仁雷さまは言い切ると、鋭い眼光でわたしの目を見据えます。
今度は逸らす様子は一切ありません。怖いくらい真っ直ぐな視線を受けて、わたしのほうが気圧されてしまいそう。
「……その、宝とは、どんなものなのですか?」
たまらず、少し視線を下にずらして、わたしは訊ねました。
「今はまだ言えない。
早苗さん自らの脚で訪れ、早苗さん自らの力で得ることに意味があるからだ。」
「…………。」
得られなければ「資格が無い」と見なされ、死が待つほどの宝。
一体どんなものなのかしら…。
恐怖心は確かにあるものの、秘密にされると正体が気になってしまうのは、人の悲しい性なのでしょうか。
わたしは喉の奥から声を絞り出しました。
「…わかりました。巡礼に、まいります。」
答えなど選べようはずもないのに。
それでも、わたしの答えを心待ちにしていたかのように、仁雷さまはグッと身を乗り出します。今度はわたしのほうが体を硬くする番となりました。
「っ!」
「早苗さん、これだけは信じていて。
俺達は“何があっても貴女を護る”。
貴女を狗神へ献げるまで。何があっても。」
護る。そう強く口にした仁雷さまの琥珀色の目は、山犬の姿に戻ったのかと錯覚してしまうほど力強いものでした。
生贄の娘は死んでしまう運命なのに、なぜそんなにも頼もしい目を向けるのでしょう。
死を覚悟したはずなのに、決意がぐらぐらと揺らいでしまいそう。
「……は、はい…。
よろしくお願いいたします…。」
深く頭を下げます。
屋敷の者以外と話す機会の無かったわたしは、こんな時どのように接すればいいのか、正解が分かりませんでした。
大きな不安はあるものの、お使いを名乗るこのお二人は、わたしを取って喰う気はないよう。それが分かって、ほんの少しだけ恐怖が和らいだのでした。
「さて、じゃあ日の高いうちに出発するか。雉子の竹藪へは岩場を迂回するから、早苗さんの足で丸二日かかるかな。」
義嵐さまは巻物をくるくると巻いて、懐に仕舞います。
わたしは頭の中で、先ほど見た絵を思い起こし、東のほうの深い山…そこに棲んでいるかもしれない雉の姿を思い浮かべます。
屋敷の外のさらに東。遠いのでしょうね…。
「あの、わたし、旅支度を何も…。」
食料に財布に…。“巡礼”というものをしたことはないけれど、揃えなければいけないものはたくさんあるはず。けれどお二人は、とても落ち着いた様子です。
「必要な物があれば俺達に言ってくれ。早苗さんはその身一つでいい。」
「食料なんかは、道中なんとでもなるしなぁ〜。」
義嵐さまはうっとりと舌なめずりをしています。
一瞬、食料とは“わたし”のことを言っているのではないかと身構えましたが、「野うさぎに、鮎に…」と山の味を思い出していらっしゃる様子なので安堵しました。
仁雷さまはお堂の出入口のほうへ歩き、両手で観音開きの戸を開け放ちました。
昼の柔らかな光を感じることができます。
その中に立つ仁雷さまはこちらを振り返ると、
「さあおいで、早苗さん。」
ほんの少しだけ優しげな声で言いました。
***
山犬の岩場はその名の通り、大昔から山犬の棲家とされている場所。人の身で登ることは容易ではない過酷な環境です。
大の大人でも困難な岩場を、わたしのような、体の小さな子どもが順当に歩けようはずもない。そのため仁雷さまと義嵐さまは、岩場を大きく迂回して、森の中の比較的なだらかな獣道を先導してくださいました。
「獣道」と言っても、わたしには「道」がどこなのかは分かりません。
大きな足で草を踏み締め進む義嵐さま。その後ろを歩き、時折わたしのほうを振り返って様子を確認する仁雷さま。わたしは最後尾で、慣れない獣道に苦戦しながら進んでいきます。
お天道さまは、まだ頭上を過ぎたあたり。
慣れない道はどうしてもわたしの体力を奪います。お二人はゆっくり足を進めてくださっているけれど、だんだんとわたしとの距離が広がっていきました。
「……はぁ、…ふぅ…。」
一旦立ち止まり、息を整えます。
それにいち早く気づいたのは仁雷さまでした。
鬱蒼と茂る草むらを物ともせずに、わたしのそばまで歩み寄り、少し腰をかがめて顔色を伺います。
「早苗さん、疲れたか?」
「…はぁ、はぁ………す、すみません。少しだけ。」
女中仕事で体力には自信があったために、森の過酷さを甘く考えていました。よく反省しなければいけません。
本当は少しだけ休みたいけれど…。
「……も、もう平気です。参りましょう。」
「………。」
歩みを進めようとするわたしの肩を、仁雷さまの手がそっと止めました。
「……あ、あの…?」
「…獣道はまだしばらく続く。俺の肩に手を乗せて。」
言葉の意図が分かりませんでした。
けれど促されるままに、仁雷さまの肩に手を乗せてみます。
すると、体がふわりと浮き上がりました。
仁雷さまがわたしの体を軽々と抱き上げたのです。ちょうど、小さな犬か猫を抱くように。
「ひゃっ!」
地面が急に遠のいて、わたしは思わず仁雷さまの芒色の頭にしがみつきました。
仁雷さまが一瞬体を強張らせます。
「…あ、も、申し訳ありません…っ!」
「………イヤ、いい。
獣道を抜ける間だけ我慢していてくれれば。」
“殿方に抱え上げられる”なんて生まれて初めてのことに焦りながらも、疲れた足がちょっと楽になれたものだから、
「……あ、ありがとうございます…。
すみません…、お、重かったら放ってらして…。」
お言葉に甘えて、少しの間だけ運んでいただこうと思いました。
「………べつに、おもくはない。」
そうぶっきらぼうに言う仁雷さまのほうが、なぜだか少し気恥ずかしそうに、ぎこちなくしてらっしゃいました。
ーーーわたしに気を遣ってくださってる。優しい方なのかも…。
「ハハッ、仁雷、限界がきたら早めに言えよ。おれが代わってやるから。」
「…黙って前を歩け。」
仁雷さまに抱え上げられてしばらくの間は、皆無言で森を進んでいました。
そんな中沈黙を破ったのは、仁雷さまの低い声でした。
「……さ、早苗さん、さっきは…。」
「え?さっき…?」
心なしか怒っているような雰囲気です…。
「山堂で。玉を拾ってくれただろ…。」
山堂、玉。その単語を聞いた時、わたしは苦い光景を思い出しました。
仁雷さまから勢いよく、玉を掬い上げられてしまった光景です。
「あ…その、大切な物なのに、気安く触ってしまって…申し訳ありません…。」
「…イヤ!俺の方こそ、良くない態度だった。本当に、すまなかった…。」
「!」
わたしはやっと気付きます。
仁雷さまの声は低いままで、初めこそ怒っているのかしら…と心配になったけれど、どうやらさっきまでの彼は“自身の対応”に対して怒っているようでした。
「…じ、仁雷さま。わたしを怒らないのですか?」
「え? …怒るも何も、貴女は悪くない。
むしろ大切な物を拾ってくれて、ありがとう。」
「…っ。」
お礼を言われるなんて、わたしにとっては星見さま以外、なかなか無い経験でした。
むず痒い照れ臭さと、勝手に“怒られているのかも”と身構えてしまった自分の矮小さに、わたしはその場ですっかり大人しくなってしまいました。同時に、
ーーー仁雷さま…は、本当は優しい方なのだわ…。
今なおわたしを抱えて淡々と歩いてくださる。仁雷さまとは、一体どんな方なのかしら…。
そんな興味を向けずにはいられなかったのでした。
***
その後も着々と、鬱蒼とした獣道を進んでいきました。
お天道さまが山の向こうへ沈みかけ、辺りが夕焼けに染まる頃、先導していた義嵐さまからお声が掛かりました。
「暗くなると身動きが取りづらくなる。
ここらで夜を明かすとしようか。」
義嵐さまの後に続き、ようやく獣道を抜けます。
そこは一部の木々が人の手によって均された、開けた山道となっていました。
少し遠くに視線をやれば、小さなお社を発見しました。
あれもまた、狗神さまを祀るものなのでしょう。
「…あの、仁雷さま。もう大丈夫です。
ありがとうございます。」
そう声を掛けると、仁雷さまはその場にそっと、わたしを下ろしてくださいました。
ずっと抱えて疲れたろうに、顔には全くその色が見えません。「さすがは山犬さま」と感心してしまいます。
「今夜はあの社に泊まろう。」
「えっ。」
仁雷さまの言葉に思わず声が出てしまいます。
だって、狗神さまを祀るお社に寝泊まりするだなんて…なんだか罰が当たってしまいそう。
「気にするこたないよ早苗さん。
おれ達は狗神様のお使いだから、おれ達が良いと言えば良いのさ。
狗神様のお山にはこういった無人の社がいくつも点在してるから、巡礼中はそれらを宿代わりにしてく。」
「そう、なのですか。」
てっきり野営をするものと思っていたから、夜風をしのげるならこれほどありがたいことはありません。
義嵐さま、仁雷さまの後に続き、中に入る前に一度手を合わせてから、わたしはその小さなお社にお邪魔することにしました。
お天道さまがすっかり沈んで夜になると、辺りは暗闇に包まれます。
お社の中に三人が入ると、多少の窮屈さはありますが、もし一人きりだったなら木の葉の音や獣の鳴き声に、心細くなっていたことでしょう。
義嵐さまが灯してくださった蝋燭の灯りと、大きな火鉢の暖かさが、山歩きの疲れをじんわりと癒やしてくれます。
「………ふぅ。」
思わず漏れた溜め息に、わたしはやっと“今まで自分がひどく気を張っていた”ことに気付きました。
「初日お疲れ、早苗さん。」
そう気さくに声をかけてくださるのは義嵐さま。
「あっ、いえ…道案内ありがとうございます。」
「なんのなんの、お役目だからね。
…それにしても早苗さんって、今までの娘達とはまた一風変わってるよな。」
不思議そうにご自身の顎を撫でてらっしゃいます。
変わってる?わたしが?
「年の割に我慢強いというか。普通、望んでもない旅に連れ出されたら、不満の一つも言いたくなるもんだろう?」
「不満…。」
そう問われれば、心から喜んで巡礼に向き合っている…というわけではありません。
狗神さまへの信仰心もありますが、生贄となった以上、犬居の娘である以上、これが避けて通れない道ならば、
「これがわたしのお役目なら、頑張らねば…とは思います。」
今までの犬居の娘達は、どんな気持ちで旅に臨んだのかしら…。
わたしの答えに納得なさったのか、義嵐さまは少し目を細めて微笑まれました。
「……早苗さんは、」
ふと、壁にもたれて休まれていた仁雷さまが言います。
「家族が恋しいか?親や、きょうだい達。」
「……。」
その問いは些か、いじわるに思えました。もう戻れないことが分かっているのに…。
…ああ、でも、わたしは不思議と嫌な気持ちにはなりませんでした。
「母は既に亡くなっていますし、気心の知ったきょうだいもいません。父は、わたしに関心がありませんでした…。」
“星見さま”は、血は繋がっていようとも、あくまでわたしのお嬢様。「姉」と呼ぶことは恐れ多くて、気が引けてしまいます。
「…あ、ご心配なさらないで。
巡礼にはきちんと臨みます。幼い頃より、狗神さまを心の支えにしてきましたもの。」
わたし達の豊かな生活を守ってくださる狗神さま。つらい時、苦しい時、祈りを捧げることで気持ちが楽になりました。
母から教えられたこと…。母が亡くなった後も、ひとりぼっちのわたしが踏ん張って来られたのも、狗神さまの存在のおかげだと思うから…。
犬居家は大昔から、近親間での婚姻を「本家」として、繰り返してきた歴史があります。
本家の純血の娘と比べるとどうしても、外山から来た妾が産んだ子どもというのは異質に映り、冷遇されてしまうのでしょう。
わたしが他の娘達と違って見えるのはきっと、さほど“お家”というものに愛着を感じていないから…。
「…俺たちはこれまで、何人も犬居の娘達を巡礼の旅に導いてきた。皆口を揃えて言うんだ。“家に帰りたい”と。
中には目を盗んで逃げ出す者もいたけれど…、最後には死んでしまった。」
仁雷さまの口にした“死”という重い言葉に、息を呑みます。
けれどそれはわたしを脅すためでも、まして意地悪するためでもなかったのです。
「早苗さん。
どうか、俺達を信じて離れないで。
貴女をこの旅で死なせはしない。決して。」
どれほどこの旅が危ういものか。
そして、どれほどお二人が、犬居の娘を想ってくださっているか。
それをひしひしと感じるのです。
ふと、義嵐さまが手を軽く叩きます。
「さてさて、明日は早くに発つから、そろそろ床に就くとしようか。」
「………あっ、は、はい…。」
横になろうと板の間に手を付きましたが、その冷たさに思わず引っ込めてしまいました。
わたしの様子に気付き、義嵐さまがなぜか得意げに言います。
「仁雷、一晩早苗さんの枕になっておやり!」
「おい!義嵐っ!」
間髪入れず、仁雷さまが吠えます。
わたしもそんな大胆なことをする勇気はありませんので、首と手をパタパタと横に振りました。
「秋口の夜の隙間風は体に悪い。
大事な娘御のことを思えばこそじゃないか?あ?」
「…………………。」
長い長い思案の後、なんと仁雷さまがわたしの近くに横たわりました。
「……枕、にはなれないが…、隙間風避けくらいにはなれる。」
「!」
わたしの体に沿うように、仁雷さまの体が壁になってくださっています。
殿方の隣で寝るなんて生まれて初めてのこと。けれど、そのご厚意がとても身に沁みて、わたしはまたお言葉に甘えてしまう。
仁雷さまはお犬ですから、元々体が温かい方なのでしょう。直接触れずとも、その温かさを感じることが出来ました。
「…あ、ありがとうございます。
とても…安心いたします。」
「…………ウン。」
そうして、巡礼最初の夜が明けていきました。