欺瞞(エゴ)
三題噺「クレジットカード」「じゃんけん」「ピンどめ」
「はあ……はあ――はあ……」
土砂降りの雨の中、一人の男が、日の落ちた樹海の中を這い擦っていた。
――俺は、俺は……何も悪くない!!
服が大量の雨水を吸い、重く体に纏わり付いている。
「悪くない……あいつが、あいつさえいなければ……」
呪詛のように呟きながら、男は、鬱蒼と生茂った木々でついた手足の切り傷にも気付いた様子はなく、虚ろなその瞳は最早何も映していなかった。
傷だらけのその手には、ビーズで作られた花が付いている可愛らしいピンどめが握られていた。
「あいつが――――」
急に視界が開けた。薄闇の中に、漆黒の水面が浮かんでいる。足元に、地面はない。
――落ちる……?
そう思っている暇もなく、男は水面に叩きつけられ、やがて水底へ姿を消した。
◇ ◇ ◇
俺、根元文哉は、じゃんけんでストレート負けをした、と言う理由だけで、面倒な合コンの幹事を担当することになった。店の予約から時間の調整など、昔からこういった裏方作業には向いていない。それも、参加する中で自分だけが大学を卒業した社会人となれば猶更だ。
何で誘われた俺の方が苦労してるんだと文句を言いつつも、どうにか開催までこぎ付けたその合コンで、俺は彼女に出会った。
そもそも、なぜ大学生でもない俺が参加しているのかということだが、それは一週間前に遡る。在学した春まで、俺はコミュニケーション研究会というよく分からないサークルに所属していた。コミュニケーションというのは名ばかりの、単なる遊び好きなやつらの溜まり場になっているサークルだ。先日久々に訪ねて行くと、丁度俺のアパートの近くにある女子大の学生との合コンの、幹事決めを行っていたのだ。誘われてじゃんけんに参加した俺だったが、結果はあの通り。俺以外の五人がグーを出す中、ひとりだけチョキという惨敗。
大人しく引き受けることにし、忘年会シーズンのため、ようやく見付けた小さな店で、その合コンは開かれた。幹事とは言うものの、始まってしまえば仕事もなく、たった数年先に生まれたというだけなのだが、微妙に話題に付いていけない。俺も老けたな、などと落ち込んでいると、向かい側の端に座っていた、ビーズの花が付いている可愛らしいピンどめが印象的な彼女が話しかけてきた。
「根元さん、でしたよね。働いているって言ってましたけど、どんなお仕事なんですか」
彼女、高橋千晶は、今年大学に入ったばかりだったが、一浪していたのと誕生日が早いのとで、合コンでは皆と同じように、ジュースではなくアルコール類も飲んでいた。彼女もひとり浮いていたから、気まずくなって話しかけてきたのだろう。
「まあ、大した仕事じゃないんだけど……」
話し相手ができた俺は、仕事の話から大学時代の武勇伝等々を喋りまくった。この変なサークルに入っていただけあって、元々話すのは得意なのだ。話題が先日の惨敗に差しかかると、彼女はくすくすと笑いながら言う。
「負ける時ってとことん負けますよね。そんなこともありますよ」
必死に笑いを抑えようとしているらしいのだが、ツボに入ってしまったらしく、なかなか止まりそうな気配が無い。あんな惨敗も、ここまで話題を提供してくれたのだから、よしとすることにした。
それ以来、幾度か会ううちに、俺と彼女は付き合うことになった。どちらから言い出したわけでもなく、ただ自然に、気付いたらそうなっていた。
「……次はいつにする?」
二人で食事をし、会計を待っている時、彼女は訊いてきた。
「そうだな……」
クレジットカードを出し、暗証番号を打ち込みながら、俺は考える。
「今度は、どこかに遊びに行きましょうよ」
矢継ぎ早に、彼女は言う。まるで、俺の注意を逸らすかのように。
そして実際、その時彼女が見ていたものに気が付けるほど、俺は集中していなかった。
◇ ◇ ◇
ある日、自宅に届いた明細書を見て、俺は愕然とした。
「何なんだ、これ……」
クレジットカードの請求欄には、この先お目にかかることも無いだろう凄まじい桁数の数字が並んでいた。もちろん、こんな金額を使った覚えもないし、そもそもカードは持っていても、俺は滅多に使わないのだ。
なぜ。そう考えていた俺は、数ヶ月前の出来事を思い出す。そして、ある可能性に思い当たった。
――千晶だ
珍しくカードを使ったあの日、彼女なら暗証番号を盗み見ることも可能だったはずだ。それ以外、考えられなかった。
車の鍵を掴むと、すぐに家を飛び出す。外は、雨が降り始めていた。彼女の家へと車を飛ばしながら、俺はそうでないことを祈る。程なくして着いた車内から、携帯電話で呼ぶと、彼女は心配そうな表情で乗り込んできた。
「何かあったの? 随分顔色が悪いけど……」
「気のせいだよ。それより、少しドライブしないか」
シートベルトを締めている彼女に、取り繕って返事をした。しかし、声はいつもよりずっと沈んでいるのが自分でも分かる。次第に雨脚を増した雨がフロントガラスを曇らせていく中、車は意外なほどスムーズに出発した。
「……」
エンジンと雨粒が窓にあたる音以外、何も聞こえてこない。車内は、重苦しい空気で満ちていた。俺に喋る気がなければ、彼女も話そうとしない。いつものように、俺を気遣っているのか、それとも、後ろめたいことでもあるのか……。
「なあ、俺に言いたいことないか」
長い沈黙のあと、話し始めたのは俺だった。市街地を外れ、車は民家も疎らな道を走っている。
「え、何が……?」
とぼける気なのか、本当に何も思い当たらないのか、彼女は不思議そうに俺を見る。
「いや、だから――」
一瞬、このまま訊かないでおこうかとも考えたが、俺は思い切って話し出す。今日届いた明細のことから始まり、先程彼女の家を訪ねるまでに俺が考えていたことまで。彼女は、顔色ひとつ変えずに聞いていた。
明かり一つ無い山道を走行する頃、俺が話し終えてからずっと黙っていた彼女が、口を開く。
「――なあんだ、やっと気付いたの?」
冷笑を浮かべた女が、そこにいた。
「なかなか気付かないから、もっと搾り取ろうと思ってたのに――」
薄笑いのまま、女は、千晶は自分がしたことを明かしていく。俺が少しの間カードから離れた隙にデータを盗んだことも、偽造したカードであちこちの消費者金融から金を借りたことも、そして、初めから明確な意図を持って俺に近付いたことも。
「――降りろ」
いたたまれなくなった俺は、急に車を停めると、短く命じた。彼女の返事を聞く前に、土砂降りの雨の中に出て行く。晩冬の雨は氷のように冷たく、容赦なく服に滲み込んできて、間もなく指先まで感覚がなくなった。
「私の実家ね、世間では暴力団って呼ばれてるの」
命じたものの、こんな酷い雨の中に出て来るとは思わなかったが、彼女はそう告白しながら俺の前に歩いてきた。
「実の娘でも、上納金を渡さないと出て行かなくちゃいけないの。だから、今までもそうして生きてきた」
彼女は、俺が車内に置きっぱなしにしていた傘をさしてはいるが、既に、直接雨に打たれる俺と変わらないくらいずぶ濡れになっている。しかし彼女は、そんなことを気にした様子もなく喋り続けていた。
「悪いとは思ってないから」
そう言って、自分よりずっと背の高い俺を見据える。思わず後退りしかけた俺だったが、それでは彼女に負けを認めてしまうようで、堪える。その途端、口から漏れてきたのは、彼女がしたことに対する非難でもなければ、語られた事情への言及でもなかった。
「――全部、嘘だったのか」
俺を気遣う仕草も、好きだといったあの言葉も、全部。
「全てが嘘だったわけじゃないわ」
「じゃあ――」
その微かな希望に縋り付こうとした俺だったのだが……。
「――でも、それとこれとは話は別。私には、生きていくことの方が大事なの。そのためなら、何だってするわ」
だから、別れましょう。きっぱりと言い切り、冷ややかな嘲笑を浮かべた女の言葉を、俺は呆然と受け止めるしかなかった。そうして、こんな人里離れた山中からどうやって帰ろうとしているのか、俺の傘をさしたまま、彼女は踵を返す。
――行かせてたまるか
我に返った俺は、彼女を追いかける。
激しい雨音の中、俺が追ってくる気配を察知した彼女が、振り返る。その驚愕した顔が、俺が追いついた次の瞬間、恐怖に歪む。
「ひ―――……」
あの日も彼女が付けていた、ビーズの花が付いた可愛らしいピンどめをむしり取り、細いその首を、俺の両手が掴む。上がりかけた悲鳴が潰れ、抵抗しようと必死にもがく彼女の手が、空を切った。
――離れていくと言うのなら、二度と離れられないようにすればいい。
呟きながら力を込める俺の手の中で、目を見開いたままの彼女は、やがて動かなくなった。
千晶は死んだ。もう、誰のものにもなることはない。
手を放した俺の足元に、力の抜けた彼女の身体が横たわる。虚ろなその瞳が、じいっ、と俺を見上げていた。そうして、どれだけの間見つめ続けていただろう。
「――っ!?」
不意に、辺りが闇に覆われた。唯一の明かりであった、俺の車のライトが消えたからだ。どうやら、エンストしたらしい。
―――ごつっ
車に戻ろうとした俺の足が、倒れた彼女を蹴った。途端、身体の奥底から、人を殺めた事への罪悪感と、底なしの恐怖が溢れ出してくる。
――殺した。俺が殺した。
紛れもなく、この俺が。
「―――――!!」
自分でもわけの分からないことを口走りながら、俺は彼女から逃げるようにその場を逃げ出した。重くなった服が邪魔をし、ぬかるんだ腐葉土に何度も足を取られそうになっても、俺は逃げ続ける。そうしないと、何も見えないこの闇の中で、冷笑を浮かべた彼女に追いつかれてしまいそうで。
―――どさっ
張り出していた木の根に躓き、俺は水びたしの地面に投げ出された。強い衝撃に息が詰まったその瞬間、俺の頭に、ある考えが浮かぶ。
――俺は、何も悪くない!
何も悪いことなんてしていない。全て、騙そうとした彼女が悪いのだ。寧ろ、これで俺のように騙される男がいなくなった。俺は、当然のことをしたのだ。
立ち上がり、再び駆け出す。先程までの恐怖は、どこかへ消えていた。
「俺は何も悪くない!」
車へ戻り、自宅に帰ったら、全てを彼女に押し付けようと思った。そうすれば、普段通りの生活が戻ってくる。そう確信して、俺は高らかに叫びながら、走る。
「悪くない……あいつが、あいつさえいなければ――」
呪詛のように呟きながら、手の中のピンどめを意識する。戦利品のようなそれは、泥に塗れた俺の手の中で、紛れることなくその存在を主張していた。
「あいつが――――」
その途端に、視界が開けた。薄闇の中に、漆黒の水面が浮かんでいる。足元に、地面はない。
――落ちる……?
天地がひっくり返るような感覚がした。再び、強く打ち付けられる衝撃がする。俺は反射的に、彼女のピンどめを固く握り締めた。
◇ ◇ ◇
湖の畔の小さな町は、その日、騒然となった。
これといった観光名所もなく、いつも閑散としているその町は、ある水死体が上がったことにより、警察車両と報道陣、それに野次馬たちが集まった。そのため、にわかに人口密集度が倍増していた。
発見されたのは、東京の大学を卒業後、関西で働いていた二十代前半の男。近くの樹海からは、男の車と、二十歳前後の女の遺体が発見された。報道機関は、この女性は男と交際していた人物で、男に殺害されたと報じている。
事実と憶測が入り乱れる中、警察によってその水死体は運ばれようとしていた。
その手は、死んでも尚、ビーズの花の付いたピンどめを、しっかりと握り締めていた。