思い出は溶け切らないうちに
思い出は溶け切らないうちに。何もかも溶けて、後悔のみが残らないうちに。食べて、味わって、腹の中に入れてしまおう。二度と忘れないように。
I県K町にあるジェラート屋、「桜のそば」。桜の木が一本生えた広大な草原の、道路を挟んだ向かい側にその店はある。平地にぽつんと建つその姿は、まるで絵本のワンシーンのよう。自家製の絶品ジェラートと共に、温かな店主の「亡き妻との思い出」に迫る。
──購読している地方雑誌の記事。数カ月前に取材されたものがやっと載ったらしい。わたしは自分自身が記者に尋ねられる時以外は、父親と一緒に居なかったから、あの人がどんな話をしたか、記事を読むまで知らなかった。あんまり話してほしくなかったと、個人的に思うものまで、記事に書かれている。
ページを開くと、家族写真が鮮やかな色でページ一面に載っていた。わたしと父親が、店の玄関先に立っている。カメラの位置は少し遠めだ。こうやって遠くから見ると、わたし達二人の体格差がはっきりと分かる。ガタイの大きな父親と、背の低いわたし。父親の角ばった大きな手には、写真立てがあった。雑誌の画像からは見づらいが、それに入っているのは私の母親の写真だ。茶髪のロングヘアーが明るく映える女性だ。
日本で古くから見られるものより比較的鋭い、ダークブラウンの屋根に、白い枠の縦窓。ベージュ色の壁。二階部分に交差するように入る、屋根と同じ色の骨組み。ハーフティンバー様式と言うらしい。それがうちの店だ。草原に囲まれている風景は確かに、絵本のワンシーンのようだと言えるかもしれない。私にとってはあまりに感じ慣れているスケールだけれども、他の人からは広大だと思われているようだ。
わたしは椅子に座った足を、ぶらぶらと揺らす。雑誌から視線を外し、店内の風景に目を向ける。
夏の木曜午後の日差しは穏やかだ。足元が香るようにほんのり温かい。室内に直射日光の当たらない時間帯だからなおさら。日が当たっていたころの温かさが残っている。夏だけれども、窓から入ってくる熱は強すぎない。正方形のタイルも、光を鈍く反射させる。店の隅は少し暗く、光量も場所によってまばらだ。それがコントラストを生んでいて、わたしにとってはとても心地がいい。
扉についた鈴の音が鳴る。夏の暑さで窓が全開の空間に、風の吹く量が増える。ついでに少しの湿気も。わたしは顔を上げる。
人がいた。ぱっと見て私より背の高い、すらっとした姿。逆光で、入ってきた人のシルエットがはっきり見える。差し込む光が反射して、男性の顔と髪型がうっすらと見える。短く切りそろえられた黒髪。それに、整った顔立ちだ。
シルエットは数歩歩くと、その形が薄まる代わりに、容姿がはっきりと見えるようになった。
珍しい、わたしはふと、そう思う。
男性は扉のすぐ目の前にいる。店内の面積とテーブル席の位置からして、男性とわたしの距離はそう遠くない。と言って近くもない。そんな微妙な距離に、二人ともいる。わたしは客席で雑誌を読んだまま、ぴたり止まりそうになる。が、そこで考える。その姿のままで挨拶をするのは、店員としてどうなのだろう。明らかにサボっているように見える。ちょうど暇な時間帯だからなおさらだ。そう考えて、素早くテーブル席から離れた。少しよろけながら、明るい挨拶。
「いらっしゃいませ」
私は男性にそう言った。若干焦り気味に聞こえただろうか。サボっているのを必死に隠す店員に見えていないだろうか。こういう時に人となりが現れる。父親に何度も言われてきたことじゃないか、我ながら情けない。
挨拶に対して返事はない。男性はこちらをちらと見る。彼の口元はほんの少し緩み、眉はほんの少し下がっているように見える。男性はこちらに軽く会釈をし、レジの方へ向かっていく。わたしは会釈を返すのも忘れていた。自分の体が固まる。垂直に固まる。しばらくして、足を上げ、厨房に入る。布巾を濡らして絞り、テーブル席に戻って拭き掃除を開始する。拭きながら、お客さんの様子をちらり見る。テーブルを拭く手にいまいち力が入らない。
先程店来た男性は。あの顔で何を考えていたのだろう。何か気になる。父親にバレて釘を刺されないよう、そっと見る。
今入ってきた男性は、二十代前半くらいだろうか。見たことのない顔だ。細身で高身長。加えて、それに合った雰囲気の服。白のシャツに青のカーディガン、黒のジーンズ。スタイリッシュで清潔感もある。この店の、ヨーロッパ風の雰囲気にも合っている。青いサロペットのわたしと父親とは対照的だ。この空間に吹く風のように爽やかな人だ、なんて。
木曜日の午後に来るお客さんは珍しい。
有難いことに、連休中や土日に繁盛する。この小さなジェラート屋の駐車場が車であふれるくらいだ。最近、店の近くに、小さいけれども第二駐車場を設けた程には。木曜日の午後は、常連とご近所さん以外はあまり来ない。そもそも、店に来られる条件を持つ人が少ないのだ。生徒児童その他子供たちは学校や保育園がある。一応子供たちや、わたしのような学生も今夏休みだけども、住宅もほとんどない僻地だから、来るにはどうしても車が必要だ。学生たちが自転車で来る例は見たことが無い。大人は大人で仕事があり、うちの店に来るにしても多くは家族、主に子供が同伴だ。車を所持した大人と一緒でないと来られない場所だから、平日に家族連れや学生が来ることはあまりない。たとえ夏休み中であっても。お盆でもない限りは。
それはそれとして、だ。
木曜日にわざわざ休暇を取って、田舎を観光する人っているだろうか。そりゃあ確かに人混みには遭遇しないし、駐車場に車が停められない事態にも陥らないけれども。そのため、わたしは、こういう日に来た男性を珍しく思った。何となく気になった。あまり見たことのない顔だ。今日初めて会ったような気さえする。いや、ひとの顔をじろじろ見るなと父親に言われているから、そこまでお客さんの顔をはっきり覚えているわけではないけれども。何となく、前に見かけたな、と思うくらいだけども。この人の顔は記憶にないように思う。なら。
男性は何故、この時期、この時間帯に来たのだろうか。
そんなことを考えていると。
例の男性がこちらへ向かってくる。わたしは邪魔にならないように、素早く避ける。
男性は、窓際の席に座った。しばらくして父親がアイスコーヒーを運んできた。コースターと共にそれはテーブル上に置かれた。軽やかな音たちが奏でられる。ブラックコーヒーのブラウンが、テーブルに反射する。
男性はその様子を確認した後、窓の方を見始める。わたしのいる位置からは、外を見つめるその表情は見えない。日の光が男性を照らす。日光といっても、こちらは東側。今は太陽が西にあるから、光量はそう多くない。眩しすぎない光だ。遠くには草原と、小さな畑、そして遠くに林が見える。青空と白雲とのコントラストで、それらはとても鮮やかに見えた。草原も林も、青い葉、そう表現されそうな色だった。それでいて色の微妙なバリエーションは多い。明るかったり暗かったり。普段見慣れている、私の目からでも、そう感じる。
この方は、ネットの口コミをきっかけに来た人なのだろうか。さっきの雑誌の記事を見て来たのだろうか、それとも何か、別の手段をきっかけに来たのだろうか。景色をずっと見つめているお客さんなんて珍しい。余程この景色が気に入ったのだろうか。外の景色を見るなら、屋内より外の席のほうがいい。窓越しよりも景色が広く見えるからだ。日差しは少し暑いけれども。一定のタイミングになったら、彼に勧めてみようか。
そう思ったが。レジの方向から声がした。
桜。ちょっと来い。
父親の声だ。一体何の要件だろうか。わたしには特に思い当たらない。といっても、流石に無視するわけにはいかない。重要な要件かもしれない。そういえばさっき、コーヒーを運んできた父親は、なぜか一瞬わたしを睨んでいた。が、すぐに目線を外し、厨房の方へと戻っていった。わたし、何かやらかしただろうか。それともコーヒー運びはわたしの仕事だと、目で訴えたのだろうか。もしそうなら納得だ。それか、なにかしら手伝ってほしいとか、そういう要件かもしれない。私は爽やかな雰囲気の男性に声を掛けるのを一旦、一旦諦め、転ばない程度の駆け足で、厨房に向かう。
父親は何もしていなかった。それどころか、腕組をしてその場に立っていた。目を細め、真っすぐにこちらを見ている。消えることのない眉間の皺は、力が加わってさらに深く濃く見える。わたし、何か不味いことでもしただろうか。テーブルを拭くのはもうやった。ナプキンの補充確認もした。屋内の掃除もとっくに終えた。他に何か、やることあったかな。
父親は言った。
「桜。アレ」
テーブル席の方を指さす。「アレ」が一体何を指すのか、言葉では示さなかった。代わりに、父親の示す方向を目視して、わたしはやっと、その言葉の表すところを理解した。理解するにはその動作だけで十分だった。
無人のテーブル席に、先ほどまでわたしが読んでいた雑誌が置いてある。お客さんの目につく所に、どっかりと。ページは私が読んでいたところが開いたままだ。
大きく目を見開いているのが自分でも分かる。
入口近くの本棚に雑誌を戻す。ついでに扉を開け、外に出る。夏空は相変わらず青く高く、店には鮮やかな青い影が、相変わらずかかっている。
風が体の熱気を、少しずつ冷やしていく。目をつむりながらふと思い返すのは、今店内にいるあの男性のことだ。
忙しい時だろうと、そうでなかろうと、お客さんが気になる、ということはない。もちろんわたしも昔から、長期休暇や土日など、学校が休みの日にはこうやって手伝いをしている。そのため、何か困りごとはないだろうか、お客さんの手伝いをした方が良いだろうか、ということはよく考える。周りをよく見て行動しろ、相手の為になる発言をしろ、とは父親の口癖だ。
しかし、今はそういうことは頭に無かった。代わりに考えていたのは、別のこと。
ふと訪れた、あの男性客のことだ。ここは僻地も僻地。周辺にうち以外の店はほとんど無く、よくイベントが行われる役場周辺からも離れた所にある。男性の年齢から察して、有休をとった人か、それとも、夏休みを取った大学生だろうか。
それに。さっきの、窓の外を見る様子。顔こそ見えなかったけれども、何となく。懐かしがるような、寂しがるような。そんな雰囲気を、あのお客さんは纏っているように見えた。あの人は。
どういった目的で、ここに来たのだろうか。
わたしは再び仰ぐ。空が高く見える。周囲に高い建物はない。高く集った積乱雲が、その遠さを強調する。
その様子を見つめた後、持ち場へと戻るために、わたしは店の扉を開けた。店内を見回す。例の男性が居ない。首を傾げた私に、父親はこう話した。
男性はもう帰ったらしい。私が考え事に夢中になっている間に、車で帰っていったという。間抜けな話だ。車のエンジン音にすら気がつかなかったのか。話しかけるのもすっかり忘れていた。
気になる顔をしていた、あの人はまた来るだろうか。わたしはそんなことを考えてその日以降を過ごした。彼が次に来たのは、次の週の木曜日だった。
雨の降る景色は灰色がかった雰囲気を纏う。光の白い眩しさが薄れる代わりに、外に見える、真っ平らな草原の姿がよりはっきり見える。けれども窓に伝う雫によってその形は少し歪む。雫は窓を伝い、他の雫と合わさって、サッシへと流れていく。わたしはその景色を、入り口近くの小さな窓から見ていた。
鈴の音、のちに、扉の開く音。雨音がはっきり聞こえるようになる。私は振り向く。後ろに居たのは、例の男性客だ。丁度、さしていた傘をたたんでいるところだった。わたしの方に視線を移すことなく、近くの席に座った。言葉を発することなく、向こうを見ている。
私はおそるおそる言った。
「お客さん、もしかして、ここに来たことありますか」
口元をほんの少しほころばせ、男性は言った。はっと声が出る。思わず嬉しくなる。
「そうなんですか」
男性はこちらを見て微笑む。その穏やかな口元と目元を見て気が緩んだからか、わたしはつい、長い会話をし始めてしまう。
「このあたりに住んでらっしゃるのですか」
「いや。結構離れたところに実家がある。大学の夏休みで、こっちに帰ってきてるんだ」
「その割に今日初めて会った気が」
「最近になって思い出したんだよ、この店の事」
「それはどうも、ありがとうございます。──もしかして、雑誌の記事がきっかけとか」
「その通り。よく分かったね」
「最新号に載ってたので。先日仕事サボって読んでました」
自虐ネタである。それに対する反応は、ひと際大きな笑い声。正直だなあ、だから先週来た時、あんなに急いでテーブル席から駆けていったのかあ。男性は笑い声混じりにそう言った。この短い時間の中で一番笑ったと思う。確実に。今まで静かだったから。
「雑誌の内容と言えば、さ。例の記事、その、君のお母さんの思い出について」
「ああ。アレですか」
「そう。君のお母さんが、生前好きだったジェラート。記事には書いてなかったけど、それって何味?『それが何のフレーバーなのかは、ぜひ本人たちに聞いて確かめてみてほしい』って終わりに書いてたからさ」
雑誌の内容を、わたしは目をつむって思い出す。アレか。そういえば先週読んだときに、何でここまで話したんだろうお父さん、そう思った記憶が確かにある。
「確かにそう書いてましたね、あの記事に」
わたしも一緒に取材されたけれども、その話を話題に出した覚えは全くない。その話を記者にしたのは、きっと父親だろう。あのおしゃべり。個人的には秘密にしていたい話題だったのに、話してしまったか。
「ジェラートのフレーバーは、教えません」
「え。どうして」
実店舗はそれほど広いわけではないうえ、ネット通販で受付できる量にも限りがある。これ以上──特に夏の時期に──忙しくなるのは御免だ。
「わたしは、常連さんや知り合いなら教えます。あんまり話題になりすぎると困るので。父親は普通に教えるかもしれませんが」
「及川健一郎。僕の名前」
自分の方を指さし、男性はそう言った。真意がすぐ分かる返しである。
「名前教えたから僕ら知り合いね、って言いたいんですか」
「うっ。バレたか」
彼は下がり眉を作りへらへらと笑う。
「分かりやすすぎです」
「それで、ジェラートの味は」
「そこまで気になるなら、うちの父親に聞けばいいじゃないですか」
「いや、君に聞きたいんだ」
男性はきっぱりと言い切った。こちらをまっすぐ見据えて、真面目な顔で。まじめくさった顔で。
付け加えるように、続けて言い放つ。
「答えを聞くまで、通い詰める。大学の夏休みの許す限り」
どういうことだ。どういう執念だ。危うく一歩後ろに下がりそうになる。思わずため息をつきそうになる。
わたしはその意見に対して、目を細めてこう返すほかなかった。
「まあ、焦らなくていいですよ。きっとどこかで、ポロッとその話題、こぼすと思うので。溶けたジェラートみたいに」
男性が──名前で呼ぶのは何となく腹が立つのでこのまま呼ぶことにする──帰った後。わたしはカウンターに座り、棚に置いてある写真立てを見ていた。ロングヘアーの母親の写真を、目を細め見つめる。写真の母親は明るく笑っている。
母親のことは小学生の頃から、父親が良く話してくれた。わたしは母親がいなくて悲しくなったことはない。店の手伝いや勉強や部活で忙しいし、忙しいけれども今の生活が楽しいし、それに。父親が、母の思い出話を常に笑顔でしてくれたからだろう。父親の笑う、目を細めて笑うその顔を見て、わたしは母がどのような人だったか、話の温かさをもって知れた。それで十分だと思った。
父親に一度、尋ねたことがある。母親のことを思い出して悲しくならないのかを。
天井を見て少し悩んだ後、こちらを見て言った。真面目な顔ではあるが、口元は確かに笑っている。そんな顔だ。
「大切な人のことは、思い出すより、忘れる方がきっと辛い。悲しい。だから俺は、その思い出を、食べて、味わって、腹の中に入れたんだ」
それが父の答えだった。
わたしは真後ろを見る。入り口側の、縦長の窓を見る。雨は未だ、静かに降り続けている。窓に雫が伝い続ける。
けれどもその雨はわたしにとって、冷たさを感じるものではなかった。
その後何度も、男性はうちの店にやってきた。いつも木曜日に。人混みを避けるためらしい。一人でゆっくり、ゆっくり景色を楽しみたいから。そう言っていた。
会ったばかりで、かつある程度親しくなった人に対しては、何故か家族の話をしやすい。家族構成とか、自分のした恥ずかしい失敗とか、バックグラウンドを相手が知らない状態だからかもしれない。そういう意味では、親戚や常連さん、知り合いとは違って話しやすい。今日もわたしは、やることが終わって暇なときに、男性と日々の話をしている。
「いやー。おしゃべりなんですよね、うちの父親。雑誌で取材されたときも、個人的には話してほしくなかったことまで言っちゃってましたし。特に母の思い出話」
「え。話されるの嫌だったの」
「話されて無駄に話題になるのが嫌なんですよ。あと同情されるのが」
こういう家族話は、本人たちは時間によって傷が癒えて、事実として受け入れている場合もある。もちろん人によるけれども。父親も私もその事例のうちの一つだから、あまり同情されても困る、というわけだ。事実、今回の取材中、母親のことを表に出した父親が、取材途中に泣き出している場面は一つとしてなかった。
要点をかいつまんで、わたしはこう話した。男性は「なるほど」と真面目な顔で言った。
「それに加えてですよ。お客さんと長話するなって注意されるんですけど、うちの父親、前に三十分くらいカウンターで知り合いと喋ってたんですよ。他に人が居なかったとはいえ、人のこと言えないですよねえ」
「ははは、そりゃ確かに」
「まあ、わたしにそれを口酸っぱく言うのは、仕事中にサボってる店員がいるって噂されて、店の評判を落としたくないからなんでしょうがね」
真後ろからの、噂されてる人からの視線も気にせず、わたしは喋り続ける。レジ側から確かに見られている感覚がある。いや多分錯覚だけども。
「偉いなあ、ちゃんと相手の言葉の理由を読み取れるなんて」
健一郎さんは話をこう結んだ。
男性は何度もここに来て、例の、うちの母が好きだったジェラートの味を当てようと頑張っている。そう本人が言っていた。けれども。
男性は、一度もジェラートを食べていない。少なくとも、最近、わたしがここで会ってから。
いつもメニューを見ながら、この味かな、例の記事の答えは、なんて言っているが。いつも欠かさず、自家製さけるチーズを買って帰るが。ジェラートを買って食べているところは全く見たことがない。店員のわたしが見逃すはずはない。いや、わたしはお客さんの買うものなんて強制しない。強制出来るはずがない。好きなときに好きなものを買えばいいと、もちろんそう思っている。けれども私は、男性が、思い出のジェラートの味を当てる為に、実際に買って食べるものだと思っていた。いや確かに、ジェラートを毎回買うのはお金がかさむけれども。しかし全く頼まないという手に出るとは思わなかった。アレルギーも特にないと、本人が言っていたからなおさら。飲み物も買わずに外の席に座ることもある。暑くないのだろうか。
男性が来るまでの間、わたしは、それの理由について考えていた。
そしてもう一つ。考えていることがあった。これはむしろ、悩んでいると言ったほうが適切だと思う。
どこまで聞いていいものか。
お客さんに、店に来ている目的を聞いてもいいのか。嫌がられないだろうか、プライバシーの侵害にあたらないだろうか。集めた塵をゴミ箱に捨て、道具を片付けながら、私は次々考える。男性に、何らかの理由があるのは間違いない。ジェラートのフレーバー当て以外の理由が、確実にあるように思える。私には。
父親なら、何の躊躇いもなく聞くだろう、友好的に。そういえば、と大きな声で会話を始め、聞くだろう。わたしならどう聞くだろう。どう聞けばいいだろう。お客さんの意を害さない範囲で、自然に話を聞くには。答えを聞くには。
これは悩むべき問題ではないかもしれない。普段の会話でも出される話題だ。悩む方がおかしいというものだ。けれども。何か抱えている可能性が高い方に対して、この話題は表に出すのに適しているのだろうか。
ふと、わたしは思い出す。男性が、健一郎さんが、わたしの話を明るく聞いてくれたことを。今なら、聞いてもいいかもしれない。そんな思いが頭の後ろに浮かぶ。
決めた。この後何をするのかを。この後何について話すのかを。
足を動かし、前へ。駐車場に、車が一台停まっている。黒く、全体的に平べったい車体に、長方形のヘッドライト。車に詳しくないわたしでも、新しい車でないことはすぐ分かる。けれどもそれは、定期的に手入れがされているのか、古臭さ、老朽化した雰囲気は感じなかった。その車の、助手席の扉が開いている。背中を曲げ、そこに小箱の入ったビニール袋を置いている姿が見えた。すぐに相手の顔が上がり、扉は閉まる。
私はそっと歩み寄る。
「随分とその、渋い車ですね」
扉を閉めた相手の年齢──二十代くらいの──とは随分かけ離れているように見えたからだ。
「ああ、そうだね。この車、父親のなんだ」
「親御さんの」
「うん。僕、一応免許は持ってるんだけど、車は今まで要る生活してなかったからさ。でもこっちでは、ある意味生活必需品だろう。今夏休みだから、これがないとどこにも行きづらくて」
「ええ、そうですね。車はわたしたちにとっての大きな足みたいなものですからね。近所でもない限り、この店みたいな僻地に来るのには、徒歩だと苦労しますからね」
自虐ネタである。男性は目を細め、眉をひそめながら、しかしはっきりとした声で笑う。その顔を見た後、私は再び目を車に向ける。
「──綺麗に手入れされてますね、この車」
「父親が車好きでね。逆にそれぐらいしか興味が強い物事を持っていなかった人だった」
「お父様、お好きだったんですか」
「うーん。特に何も思ってなかったな」
軽やかに、明瞭に、男性は言い放つ。
入口付近の駐車場。車の扉が閉まる音がする、鍵の閉まる電子音が鳴る。男性がいつものように、買ったチーズを助手席に置いた。もう、直接見なくても分かる。
日差しと湿気に反して、周囲を通り抜けていく風は、何故だか涼しく感じる。額や脇に汗をかいているからだろうか。
目の前にいる、男性の言葉の真意、今までの行為の理由を、直接的に聞き出す勇気はない。けれども、間接的に聞く手段なら、持っている。無理矢理の手段だけれども。
「あ、あの。話は変わるのですが」
喉が締まるかのような錯覚。ついでに額と頬と脇とを伝い流れる汗。風によって冷たさが倍増した感触が、体中に走って止まらない。
けれどもそれに耐えながら、私は言った。
「もし良かったら、うちのジェラート、食べていきませんか」
少しわざとらしく聞こえただろうか、わたしはその時、男性の顔を直視できなかったから、それは分からない。
うちの店はジェラートを目玉として売っている。よってその味も自慢だ──ということは、昔何度かここに来たことがあり、加えて例の記事を読んだらしい彼なら分かっているだろう。変わらないその味を確かめてもらいたい。わたしが彼と会ってから一度も、ジェラートを食べている場面に遭遇したことが無いわけだし。
それに。
男性が、何度もここに来る理由を聞きたい。聞く時間がほしい。それが理由。
ふと、足音が戻ってきた。背後で椅子の擦れる音も聞こえる。私はそちらに向き直る。後ろに誰がいるのかは、もう分かっている。誘ったのはわたしだから。
「キャラメル味、ですか」
椅子に座ってジェラートを見つめていた男性は、静かにこちらを見て言った。
「そうだね。流石。見ただけで分かるんだ」
「そりゃ、小さい頃からここの手伝いしてますから」
軽く息を吐く。
食べる間の時間を邪魔するわけにはいかない。私は男性から視線を離し、目をつむっていた。夏の日差しが体中に当たり、湿気に囲まれる。ここで長時間過ごすのは難しい。だからこそのジェラートでもある。夏の暑さを和らげる、冷たい、ミルクの味を含んだジェラート。
頃合いを見て、私は男性の方を再び見る。
男性はまだ、ジェラートに口をつけていなかった。手に添えられたライトブラウンのそれは、まだ三角の形状を保っている。汁が垂れている様子はない。コーンもまだ乾いている。男性がここに座ってから、時間はそう経っていない。そう経っていない。けれども。
男性はジェラートを見つめたまま、食べようとしていない。完全に、口が、手が、体が止まっている。わたし以外の目から見てもはっきりとそう感じるくらいの止まりようだ。動きもなければ言葉もない。わたしも動けなくなったような、声を出せなくなったような感覚さえする。男性のその姿に影響されたのだろうか。
普通はすぐ食べ始めるものだ。そうでないと溶ける。コーンに近い部分から汁が垂れる。コーンが湿って、手がベタベタになる。流石にそうなったら食べづらいだろう。炎天下だからそれに至るまでも速い。声を絞り出す。必死に、その一言を言うために。言わないと、この気まずさが、奇妙な空間が、永遠に続くかもしれない。そんな錯覚がわたしを周りから離れない、離れようとしない。
私は声を上げた。
「あの」
「あの、溶けますよ。ジェラート」
男性は動かない。動こうとしていないかのようだ。わたしにはそう見える。そう見えてしまう。
「──大丈夫ですか。何か、ありましたか」
この暑さで頭が回らないのだろうか、それともわたしが何かまずい対応をしただろうか。具合が悪くなったのだろうか、何か必要なものがあるのだろうか。
いろいろな可能性が頭のうしろに浮かぶ。浮かんで止まることを知らない。浮き出した考えが、そのまま溜まって詰まっていく。
体に当たる日の光がうざったい。体にまとわりつく湿気が邪魔くさい。体に感じる感触を意識するほどに、思考が混ざり濁る感覚が増していく。
ふと、わたしの額を、頬を、こめかみのあたりを伝う汗があった。顎のあたりまで伝い、鎖骨のあたりに着地して、そのまま薄れていく。それを最後に、思考の混濁が止まる。
男性から返事はない。その代わりに。
テーブルが透明に濡れた。ジェラートが溶けたのではない。こぼれたときの色ではないのは明らかだ。
わたしはもう一度、男性の方を見た。男性はジェラートを持ったまま俯いている。顔は見えない。けれども。
表情の見えないその顔から、透明なものが落ちていくのが見えた。落ちたものはテーブルを少しずつ、少しずつ濡らす。降り始めの雨のように、その量は次第に増していく。
こぼれだす嗚咽。
「お客さん」
「──ごめん。ちょっと、思い出したことがあって」
男性は顔を上げる。まぶたのあたりが、ほんの少し赤い。
「唯一の、思い出なんだ。父親と、この店でジェラートを食べたの」
子供の頃、父親に、ここに連れて来てもらってさ。ジェラート食べたんだ。何度も、何度も。いつ頃までここに来てたかな。中学生くらいまでかな。勉強とか部活動が忙しかったからなあ、あの頃は。
男性は語る。ここに来た理由を、絞り出すような、湧く感情が絡まるような声で。
男性はこちらを見ていない。ジェラートを見ていた。もしたった今、ここにわたしが居なくても、この人は昔のことを思い出したのだろうか。この人はひとり、こうやって呟いたのだろうか。わたしには分からない。
──ああ。夏以外に食べるジェラートは、ひときわ冷たかったなあ。でもいつも、美味しかった。特に深まった秋の頃と、冬真っ只中の頃、すごく寒かった。ああいう時は流石に、車の中とか、店の中で食べたんだったなあ。雨の降る中、店で食べたときもあったなあ。でも、どんな時も、片手に持ったジェラートの味は、格別で。格別に、美味しくて。
父さん、笑ってたな。いつも、ここに来るときだけ。
僕は父親を、何とも思ってなかった。一緒に居るのも、けれど。
何故か、思い出したんだ。小学生の時の、ここでの出来事を。父親が、二か月前、癌でぽっくり逝ってから。
笑ってたよ、顔中にクリームを付けた、僕の顔を見て。笑ってたんだよ、目と口をくしゃり歪ませて、曲がってることなんか気にしていない風に。
多分それが、父さんとの唯一の思い出。それしか覚えてない。僕は思い出らしい思い出は、それしか覚えてなかった。
このジェラートを見てさ。
何で、死ぬ前に一度でも、ここに連れて来なかったんだろう。何で、父さんが死んだ後になって、そんな記憶を思い出したんだろう。もっと前に思い出さなかったのだろう。
どうして、僕は父親に、何もしなかったんだろう、って。
そう思うんだ。そう、思っちゃうんだ。
透明なものは、男性の目から鼻から、変わらず流れ続けている。
ふと、鈴の音がした。背後から足音。大きく緩やかな足音。誰の音かは分かっているから、わたしは振り向かない。わたしの真後ろについたところで、足音は止まる。
男性は言葉を続ける。
今更ここに来たとしても、何にもならない。父親との仲が深まるわけでもない。父親に感謝を伝えられるわけでもないのに。なのに。
洋風の店構えが、季節と天候によって色を変える、周囲の景色の壮大さが、どうしようもなく懐かしい。懐かしいからこそ、僕は、どうして何も、父親に与えてやれなかったんだと、何処かからそう、責められているかのように思えて。
引き上げるような嗚咽と共に、男性は言葉をつづり続ける。その間、わたしは地面を見ることしかできなかった。声の断片すら出なかった。代わりに頭の中で、考えていたこと。
もし、わたしの父親がある日死んだとして。わたしは悲しめるだろうか、何もしてやれなかったと、後悔して泣き出すだろうか。父親と同じように、溶けだした思い出を、味わって受け入れられるだろうか。わたしがどう反応するか、どう受け入れるか。本当のことは、その時が来てからでないと分からない。
ひとは、他人の気持ちをそっくりそのまま理解することは出来ない。出来たとしても、それはあくまでも疑似的なものでしかない。わたしはその感情を身に受けている、その人そのものではないのだから。その人と全く同じ人生を、過ごしてきたわけではないのだから。
わたしは母を亡くした父親の悲しみを、底の底まで理解することはできない。あの人もきっと、母の病が発覚したとき、最期のとき、葬式を執り行ったときは、悲しんだり悔んだりしたのだろうけれども。母の思い出話をする父親から感じたのは、彼方へ行った遠くのひとを想う温かさと、彼方へ行った遠くのことを想う懐かしさだけだったから。
同じように、わたしは健一郎さんの悲しみを、彼と全く同じように理解することは出来ない。どんなに理解しようと努めたとしても。絶対に。わたしは彼ではない、彼になることはできないのだから。
けれども。だからこそ。
わたしに何を言えるだろう。わたしは。たった今何を彼にすれば良いだろう。何をしてあげられるだろうか。相手の気持ちを完璧に理解できないからといって、何もしてあげられないわけではない。少なくとも私は、そう思う。
サロペットのポケットの中。ポケットティッシュを、テーブルに置く。男性の目の前に。プラスチックの個装紙が擦れる音が、小さく鳴る。
「何にもならない、というのは、違うんじゃないでしょうか」
言って、わたしは思わず、顔を下げてしまう。唇を噛んでしまう。喉で言葉がつかえるような感覚。伝えていいのか迷うためらいと、どうしても伝えたいと躍起になる感情が、閉じた口の中で混ざり合う。けれども、わたしはそれを飲み込んで、言わなければならない。言うべき続きがある。
顔を上げ、息を吸う、肩を引っ張るように上げる。
どうしても言いたい言葉を、わたしは今ここで。
「一度思い出したなら、もう忘れなければいいんですよ。思い出は溶け切らないうちに。何もかも溶けて、後悔のみが残らないうちに。食べて、味わって、腹の中に入れてしまいましょう。もう二度と、忘れることのないように。このまま忘れるのは、忘れてしまうのは、ずっと覚えているよりも辛いと思います。きっと」
男性はこちらに振り向く。はっとしたように、こちらを見ている。小さく口を開けて。その肩にはまだ力んでいる。
「若者のわたしが言うのは、長い時間を一緒に過ごした人を亡くしたことがない私」が言うのはおこがましいと、分かってはいます。でも。亡くなった人のことを思い出すのも、亡くなった人と一緒に訪れた店に行くのも、立派な弔いにではないでしょうか。──わたしも、父と一緒に、母の好きだった食べ物を、時々思い出して食べます。キャラメル味の、うちのジェラートとか」
目の前で、はっと息を吸い込む音がした。気に病まなくて大丈夫ですよ。母が亡くなったのは私が小さい頃のことですから。あんまり会えませんでしたし。どんな人だったか、よく覚えてませんし。父親から話はよく聞いてるんですけどね。私は誤解のないよう付け足す。
健一郎さんは、細く息を吐いた。吐く量が増えるにつれて、肩の力が抜けていく。こちらの方を、緩み切った顔でじっと見る。そして、手元のジェラートに目線を移す。ジェラートは汁が垂れ始め、コーンが少し湿っている。
ふと、真後ろから声がした。わたしより背の高い、ガタイのいい、おしゃべりだけども穏やかで優しい人の声。
「うちの店を、お父様との思い出として、覚えてくれていて、ありがとうございます。店主冥利に、尽きます。本当に、本当に。ありがとう」
声の主は私のすぐ隣へと来て、男性に向かって礼をする。最後の一言は、少し震えて鼻声が混ざりながらだった。その言葉を聞いた後、私は男性の方へと向き直る。
「ほら。今日は暑いですよ。溶けてコーンから落ちないうちに、どうぞ」
返答はない。代わりに、ジェラートは男性の口へと運ばれた。ジェラートの冷たさが唇に当たり、包むように、汁がテーブルへと垂れないように、一部が隠される。口に含んで、飲み込んで後、そのまま、ゆっくり味わう。次いで二口め。三口め。コーンが乾いた音を立て割れる。その音は風の吹く野外のテーブル席に、確かな存在感を持って鳴り続けた。
男性はジェラートを食べきった。透明なものを落とし続けながら。
夏休みが終わり、私が店を手伝うのは土日だけになった。忙しさと暑さに迫られる中で、健一郎さんは確かにいた。私から話しかけることはしなかった。
多忙さがいくらか落ち着き、私はレジカウンターで待機していた。鈴の音がドアから響き、健一郎さんが入ってきた。左手に何か持っている。
「桜ちゃん。今はこれしか用意できないけど。君と、君のお父さんに。」
そう言って渡されたのは、洋式の封筒だった。淡い色に青い花の模様で、折られた紙の厚みが一目でわかる。
「今度来るときは、お土産とか持ってくるよ。二人には本当に──」
「これだけで十分ですよ。お忙しいのでしょう。私達は特に何かしたわけではありませんし」
被せるように私は言った。そっけない口調で。少しわざとらしいだろうか。
そっか。
一言。健一郎さんは言った。そして明瞭な声で、
「それじゃあ、キャラメル味のジェラートひとつ」
それに対して断る理由はない。
「かしこまりました」
私はそう返した。
明かりを点けなくても、目に見える世界は明るい。